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検索対象: 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集
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1. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

385 佐渡 を食べて、そのため丈夫で、これまで医者にかかったことういう気持を梅干に対して抱いているということが、よく が一回くらいのものであるということに驚いた。それは何分る。 もかも思いがけないことであった。 昔、陸軍にいて、行軍に出かける前に梅干を食べさせら 私の放送を聴いた人はどのくらいの数なのか、その見当れたという思い出が出て来るところも、びったり来る。 もっかないが、毎朝のきまった番組なのでいつも聴いてい 怡斎の怡という字は、よろこび楽しむという意で、この る人というのも少くないかも知れない。その中からたった名前は雅号であるとしても、梅干が好きで豆腐も好きで、 とうかん 一人だけ感想を手紙に書いてポストに投函した人がいて、 私に「豆腐屋をつれて外国へ行かなかったのですか」と書 それがいま私の手にしている手紙であった。 く人らしい名前に思える。 かつおぶしのり 私は録音をした時、こういう話を聞いて誰かが私に手紙鰹節と海苔の弁当のところで、おいしそうで咽喉が鳴っ おもしろ をくれるというようなことは全く考えていなかった。これていたというところも面白い。家族のことはひと言も書い まで私は放送に出たことは何度かあったが、あとで知らなていないが、もし学校へ弁当を持って行くくらいの子供が 家にいるとすれば、それはこの人の孫であろう。朝早く、 い人から手紙を貰ったことはない。 私が思いがけないと云ったのは、珍しく手紙が来たから寝床の中で聞いていて、それで「咽喉が鳴っていました」 ではない。私はその気持をどう云って説明すればよいだろとあるのは、この人の健康な胃袋を物語っているように思 うか。風変りな手紙が来た、というのではない。手紙の筆える。 また、手紙の最後に、 者が七十七才の年寄り ( といっても差支えないだろう ) の 人であることも、その人が梅干が好きで、もう四十数年来「先生のお声ではまだお若いようですから」 じようよ というもの、毎朝、梅干一個を欠かさずお茶と一緒に食べ と書いて、身体に気をつけていつまでも丈夫でいるよう て、そのために丈夫であるということも、この人が、島のにとあるのを読むと、私はこんなことを誰からも云われた 人であるということの中にも或る思いがけなさがあり、しことがなかったような気がした。 かもそれが私にはびったり来るところがあるのだった。 それから、この手紙がほかのどこでもなくて、佐渡から 殊にこの人が、朝、梅干を食べるとその日一日、無事で来たということに私は思いがけない感じを持った。思いも かけないところであるのに、佐渡というのがこの場合、 あるような気がして、それが一つの慣例となっているとい うところが、私の心にふれた。この手紙を書いた人が、そちばんびったりしていて、ほかのどの土地を持って来ても

2. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

、ーヨークへは怦時頃来るか。来る日が決り次第知らせて エレヴェーターを待つより階段をかけ降りる方が早かっ くれ、という手紙が来たが、その手紙もそれから後に来たた。着物を着ている豊子は、矢口にせかされながら、急い 一「三通の手紙も、みな短い手紙であった。 で階段を降りて行った。 矢ロは手紙の中で「もう赤ん坊は生れたか ? ーというこ アンジェリーニ氏が、入口のところに立っていた。初対 あいさっ とを書いたが、返事には「生れた」とも「生れない」とも面の豊子と挨拶をし、次に矢ロと握手を交わした。 書いてなくて、ただ矢ロたちが生活をエンジョイしている「待たせて御免なさい」 ことを知って喜ばしく思うということと、再会の日を楽し矢ロはそう云った。 みにしているとだけしか書いていなかった。 「いや。私の方こそ遅くなりました」 カラーの写真は、矢口に取って少しばかり物足りない気アンジェリーニ氏はそれ以上のことは話さず、ホテルの 持のするそれらの手紙の間にぼつんとそれだけ送られて来前に置いてある自分の車の方へ歩き出した。 はず たのであった。 怒っている筈はない。しかし、矢ロ夫婦に会ったことを 矢ロは日本で会った時のアンジェリーニ氏の印象と、ア喜んでいる様子は、なかった。 メリカへ来てから受け取った短い文面の手紙との間に何か怒っている筈がないとすれば、ひどく照れているように 喰い違いがあるような気がした。 も思われる。そんな会い方であった。 六月初めにニ、ーヨークへ出て来ることに決めた時、矢それよりも、矢ロはいまこれから自分と妻の豊子を家ま ロはその手紙を出すか出さないかで大分迷った末に、 で連れて行こうとしているアンジェリーニ氏が、前に日本 「滞在の日程が限られているので、どうかこちらのためにで会って長い時間話し込んだアンジェリーニ氏の記憶とう 無理をしないでほしい」という意味をよく伝えるように苦まくつながらない感じの方が先にあって、戸惑っていた。 心して書いたのであった。ためらっていたので、手紙もぎそれは一階へ降りる階段の途中まで来て、先に降りた妻 りぎりになって出すことになってしまった。 が近づくのを待ち受けているアンジェリ 1 ニ氏を見た時に その返事が出発の日の朝に、速達で矢ロたちのところに生じた。 届いたのである。 矢ロはアンジェリーニ氏の顔を頭の中に思い浮べること は出来なかったが、会えばそのとたんに思い出すことが出 矢ロ夫婦の部屋は三階にある。 来ると思っていた。しかし、階段の途中から見えた人物 つごろ

3. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

始められる。 ( あっ、やつばり、あいつはおれのことを忘 れてはいなかったのだ。そら、見ろ。おれは間違ってはい なかったんだぞ ) 強い感動が襲いかかって来た。すると、 何ということだ。白いレター・ペ ー・ハーの文字が眼の前で 水に溶け去るようにうすれてゆく。追いすがるように文字 ゆくえ の行方を求める。今、このあとを読むことが出来なかった ら、涼子の心を知る機会は永遠に去ってしまうのだ。早 早く、今のうちに。大急ぎで残りを読んでしまおうと あせ たらま 焦るのに、忽ち手の中の涼子の手紙は空に消えてしまっ た。彼女はいったい、あれから何を告げようとしたのだろ う。その秘密は、一度はわが前に訪れて、そのまま飛び立 ひた っ鳥のように去ってしまった。悔の思いが胸を浸して りようこ る。やがて、夢がさめた。 沼四郎は、明け方、涼子から手紙が来た夢をみた。 その白い封筒に書かれた字を見た瞬間、すぐに涼子もともと手紙も何も来はしなかったのである。読み始め なげ から来た手紙だと分った。不意に烈しく胸騒ぎがして、封たばかりで夢がさめて後を読みたかったと嘆いても、詮な ふる を切ろうとする手がわなわなと震えた。 ( 今こそ初めて本いことではあったのだ。 うつつ しかし、その夢が溶けてしまって、そのあと現に目覚め 当のことが分るんだ。これまで、どうしても知り得なかっ た彼女の内心の秘密が、この手紙で何もかもすっかり分っるあわいのしばらくを、沼四郎の胸を切なく浸したあの取 り返しのつかない思いは、彼が早春の朝の光りの中に自分 ーを開くのももどかしく、 てしまうんだ ) レター・べー 木 最初の一枚に飛びつく。その字は、まぎれもなく涼子のあを見出してから後も、不意に止んだ絃楽の音のように、慄 ・ : あなたとお別れしてから一年半の歳月がたちえながら身うちに残っていた。 流の字だ。 ました。お手紙を出そうと思いながら、何度書きかけては A 」ら・ A 一ら′ まがら 破り、書きかけては破りしたことでしよう。でも、到頭思真柄涼子が沼四郎の前に現れたのは、彼が阪神間の私学 い切って 、言葉は最初から限りない思慕の情をこめてとして知られているその大学の四年に進んだ四月の始め おそ ふる

4. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

こうか、 れるように私は名簿でしらべて礼子に手紙を出していた。 このような女に「書簡集」を見せたのを後惞した。私は見 その手紙に私は礼子と友達の名と二人の名前を書いて、礼 せる前に、欄外の私の意見を消しておいてよかったと思っ 子の家へ出しておいた。 「この人知っていらっしやるの」 礼子がやってきた。私は彼女に「書簡集ーを見せてやっ た。彼女は、かがみこむと、だまって読みはじめた。私は「僕もよく知っていますよ」 そのあいだ、ポケットから・ハットを出して火をつけた。未「そう。でもこれ、普通のラ・フ・レターではないわね。芸 : 、つばい書いてあるの 成年である私はまだタ・ハコを吸うのがこれで二回目だっ術だとか何だとかいうようなこと力し こ。・、ツトは良一の部屋の引出からとっておいたものだ。 ね。向うの方はこうして保存してらっしやるかしら」 「さあ」 しばらくすると礼子は、そのままの姿勢で、 「すばらしいわ」 「私なら保存するわ。あなたのはないの」 といった。 「僕のですって ? 」 「あなたのところへきたこうした手紙はありません ? 」 「すばらしいと思うわ。この女の人、すばらしいわ」 といった。 「それはありませんよ」 「これ、かりられないかしら」 「これは誰が写したのだ、と思う ? 」 「誰かしら」 「それはダメです」 しか 「僕だ」 「そう、わたしもう帰るわ。勉強でしよ、お兄さんに叱ら れるわ」 「あなたのお兄さんがこれを写させたのかしら」 「そうです」 彼女は立ちあがった。 「いっか押入れに入ってすみませんでした。おこっていら 「もとの手紙はどこにあるのかしら」 流 っしやると思ってたわ」 「それはちゃんとしまってある」 「おこっていません」 女「でも、どうしてあなたに写させたのかしら」 「そう」 「それは僕にも分りませんよ」 「お友達には、僕がこの手紙見せたこといわないで下さ 私は急に不快になって、彼女の脚を見た。会いたしとし 僕あの人もいい人だと思うけど、見せたくない」 ってやったくらいでどうして出てきたんだと私は思った。

5. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

クリスマスの時だった。 なかったということが繰返し強調されていたのだ。 とうとう 先生は姉に画伯の画集を、あたしにはキューリ ー夫人姉は途中まで来ると、到頭感激のあまり泣き出してしま 伝を、クリスマスの贈物としてくれた。あたしにくれた本った。すると立上先生は、 とびら 「おしまいまで読むのです」 の扉には、見事な達筆で、 しった 誇り高く生きょー と、姉を叱咤するように云った。 なみだ と書いて、その下に署名してあった。ところが姉が画集姉はポロポロ泪を流しながら、読み続けて行く。立上先 を開いてみると、厚ぼったい封筒が挾まっていた。 生の横に坐った母は感激した面持で、じっと聞いている。 姉がびつくりして、立上先生の顔を見ると、先生は大変あたしは、姉があんなに泣いているのに、あたしだけ何と 厳粛な表情でこう云った。 もない顔をしていてはいけないと思っても、ちっとも泣け 「知恵子さん、その手紙をここで声を出して読んでごらんて来ないのだった。 なさい」 だいいち、姉が何故声を立てて泣くほど感激するのか、 そこには母もいた。あたしは、、 しったいどんなことが書どうも少しおかしいという気がしてならない。立上先生が かれてあるのだろうかと不思議に思いながら、姉が封を切そんな手紙を書いて、あたし達みんながいる前で、わざわ ってかさばった便箋を取り出すのを見つめていた。 ざ姉に朗読させることからしておかしい。母が真面目な顔 やがて姉が読み始めた。それはずいぶん長い手紙であつをして聞いていることもおかしい。 た。そこに熱情をこめて語られているのは、あたし達の家でも、姉は一番最後に「このような立派なお母さんを持 らいさん 庭に対する礼讃であり、結局それは母を讃めたたえているった知恵子さん、あなたは世界一の幸福者ですーという言 ことであった。 葉をすすり泣きながら読み終えた。そのあと、しばらくの 師 つまり、あたし達の家庭がまれに見る優し ししし家庭間というものは、四人とも沈黙のうちにその場に坐ってい た。あたしはすっかり困ってしまって、仕方がなしにうつ であることと、それはひとえに母の献身的な愛情と努力に 黒よるものだということ ( 父のいない家庭にあって子供を立むいたまま、誰かがこの場をお開きにしてくれるのを待っ 派に育てて行くためには母がどれだけ人知れず苦労をしてていた。 いるかということ ) 、自分はこれまで数多くの家庭に接し後になってこの時のことを思い出してみると、あたしは て来たがこの家のような温い雰囲気を持った家はどこにも何かいじらしい感じがした。立上先生が自分の書いた手紙 びんせん

6. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

運んでくる季節の花と、昔のようにつけはじめた日記と、 を待っていたわけだ。彼は首を横にふった。 啄木の「一握の砂」と、それから、法囀経とがあった。 「病気のところなんか見せられるか」 礼子がいついてしまって良一の事実上の妻でもあるよう「病気のことが分れば、とても悲しむし、同情してくれる なぐさ になったものだから、まだ休職になって勤先とは縁が切れし、慰めになるはずじゃないか。それとも礼ちゃんにわる たわけでもないのだが、見舞いにくる女学生はいなくなっ いのか」 た。良一の姉や母親もほとんど礼子に任せきりにしたの 「わかい丈夫な身体の時でなければ、僕はいやだ。第一、 は、良一が家の期待を裏切ったからというより、礼子の身健康な身体のものは、見たくもなければ、手紙も貰いたく 体の不自由さが、今の良一には救いだということが分ってない」 いたからだ。 「そんなこといったら、兄さん僕だって」 良一が病気になった直後に良一と満子との間に一度手紙「実は謙二、お前も真平なんだ。さあ礼子をよんでくれ」 の往復があって以来、音信はとだえてしまっていた。 「僕がするよ」 しかし礼子は良一のところへくる満子からの手紙を待っ 「礼子にさせてくれといったら。あいつがいいんだ。足が ていたが、自分のしていることを知らせたいとひそかに思わるいからな」 うずくま っているからだった。 礼子が一一階にのばってきた時には良一は前の位置に蹲 彼が寝ついた五月から二カ月たって、私は休暇で良一のっていた。礼子が大丈夫かときいても良一は返事をせず、 わ、 家にもどって見た。良一は経を読み終ると、体温計を腋の礼子が私にお願いしますといって階下へおりたあとで、敷 下からとりだして、「体温 ! 」とさけんで礼子に体温表を布団の方へ向ってゆっくり緊張しながら歩きだした。彼の つけさせた。それから「謙一「便器をとってくれ」といっ神経は自分の心臓に集中されているように見えた。 て立ちあがると部屋の真中へ歩いて行った。そして私がす良一は次第に私にきびしくなってきたので、礼子に任せ 流 きとく えた便器の上にまたがった。薬の臭いがした。彼は便をたて予定の旅行にでかけたとき、旅先きで、良一が危篤に陥 女つぶりした。それをじっと見つめている良一に、私はいっ ったという手紙を礼子から受取って急いでもどってくる た。 と、良一は身体が動かせないものだから横眼で私の立った 姿を見た。それから視線をもどした。 「奥さんは病気のこと、知ってるの」 、げん 彼はたちまち機嫌が悪くなるので、私は質問のチャンス「僕が死ぬところだったじゃないか」 たくばく にお ふとん

7. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

「家まで送って行こう」 氷のかたまりをいきなり腹に押し当てられたような気持が いいわよ。あしこ。 「でも沼さん、帰りの汽車に間に合うの ? たし、ひとりで帰れるから」 その手紙を受け取ったのは水曜日だった。沼は学校へ出 「いいんだ。間に合う」 かけて行って、劇研究会の部屋で他の部員と地方公演に持 、しよう 沼は涼子を家まで送 0 て行く途中、何時までこんな苦し 0 てゆく裳の整理をやっていた涼子を部屋の外へ呼び出 い気持を続けなければならないのだろうと思い、知らず知した。 「手紙ついた ? 」 らず重い溜息をついた。 つごう 「うん。土曜日は僕は都合が悪いんだ」 夏が来た。その年の夏休みには劇研究会は徳島へ地方公 演に行くことに決った。徳島には涼子の叔母の家があるの「そう、じゃあ、何時がいいの ? 」 で、彼女がマネージャ 1 の岸本と一緒に出かけることにな「金曜日にしてくれ」 「いいわ。明後日の四時ね」 った。 沼がその儘階段を降りて行こうとすると、うしろから涼 その出発の前日に、沼は涼子に会って「婚約を決めたい から本当の気持を云ってほしい」と申し出た。この時彼女子が云った。 は「船の中でゆっくり考えて、帰ってからお返事する」と「自由への道、忘れずに持って来てね」 答えた。沼は、もうこれ以上今の儘のような状態でずるず沼は、本当は土曜日は何も都合など有りはしなかった。 ただ、彼女の手紙の指定に従うことが癪だっただけであ ると日を送ることが堪えられなくなったのである。 涼子が徳島から帰った日に、沼は六甲の家へ会いに行っる。ところが、彼はこのために大変な失敗をしてしまっ たが、彼女は留守だった。翌日もう一度出かけて行った が、また留守だった。三日目に、やっと手紙が来た。それ彼はわざわざ涼子に会いに行って約束の日を変更したの に、彼はそのことを次の日にはきれいに忘れてしまって、 には、お話したいことがあるから、土曜日四時に六甲ガー デンへ来てくれるようにと書いてあり、その終りに、「自金曜日には行かずに土曜日の午後四時に六甲ガーデンへ行 ったのである。彼は四時から六時まで待ったが、涼子が何 由への道」をその時返してほしいと書き添えてあった。 0 うに 「自由への道ーは、沼が三月に彼女の本棚から借りて行っ時までたっても現れないのに業を煮やして、彼女の家まで たままになっていた本だった。その文句を読んだ時、沼は行った。母親が出て来て、「まだ学校から戻りません」と ためい、 しやく

8. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

こわ み中泊っているように申してますわ」 ち壊されてしまいそうで怖ろしい、自分はその記憶を沼の ささ 夏休み中と云う言葉が発止と沼の胸に刺った。呆けたよイメージと一緒に生涯心のうちに抱いていたい ) と云う意 たく うに突立っている沼を、母親はまるで見ず知らずの人を見味のことばが、巧みに、しかし素っ気なく書かれてあっ ようや るような眼で見ているのだった。 た。それを読み終った時、沼は慚く、一切が終ったことを しる 涼子が部員と行動を共にせずに、ひとりだけ叔母の家に感じた。手紙の裏には所書きは記されていなかった。 涼子の手紙を受け取ってから五日ほどたった夜、沼は酒 滞在することにしたのは、明かに自分を避けるために違い なかった。 ( 神戸へ帰ってからお話します ) と云った彼女と一緒に・フロ・ハリンを五十錠呑んで、加古川が海に流れ入 みごと に、沼は美事に裏をかかれたことを知った。 ろうとする三丁ほど手前にかかった高砂大橋の上から身を 沼は、それでもまだひょっとして彼女から手紙が来ない投じた。夜の十一一時近くであったろう。彼は自分の身体が たちま かと思う気持があった。もしかしたら、涼子が自分を拒絶忽ち海の方へ流されてゆくのを感じたが、どれ位かして意 するのは、本当は彼女の本心ではなくて、実は何かそこに識を失った。 みぎわ 事情があるのか知れない。に両親が彼女に沼を決して近彼が気を取り戻した時、彼は真暗な汀の上に流木のよう おさ 寄せないように厳命しているために、心ならずもああいうに打ち上げられていた。彼は身体全体を抑えつけられるよ 素振りをしているのではなかろうか。真実は、心の中で必うな気持を覚えた。眼を開くと、満天の星が・ほうっと青く かすんで見えるのだった。そのまま彼は夢をみている人の 死になって苦しみに耐えているのではないだろうか。 ものう あおむ そのようなことを、彼はさまざまに思い描いてみるのだつように、仰向けに横たわっていた。ただ物憂い感じが彼の た。もしも、そうだったとしたら、天にも上る心地がする心を領していた。 ・こ , わ . う - に。 どの位時間が過ぎて行っただろう。夜はまだ明けていな ほか ようや かった。彼は漸く起き上った。下駄を失った外は、服は元 一週間ほどたった時、沼は涼子からの手紙を受け取っ て、狂喜した。しかし、その中身は、彼に致命的な打撃をのままだった。彼は砂浜の上をよろめきながら歩いて行っ 与えた。そこには、 た。やがて彼は東二見の駅へ辿り着いた。高砂大橋から東 ( 彼女はもう沼とはこれから先二度と会いたくない、もし一一見の海岸まで約一里離れている。彼はどのようにしてそ もこれ以上会えば、沼を知ることによって彼女が得た、短こまで流されて来たのか、全く分らなかった。 こと 1 」と いけれども真に幸福であった一年間の記憶さえも尽く打東二見の駅の待合室で、彼は濡れた服のままで始発の電 おそ

9. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

386 代りがきかないような気がした。 もうどうなるか分らない」と、しきりにせつかちなことを 考えた。来年になって行ったら、もうこのお爺さんがいな 私はすぐにお礼の葉書を出した。そうして、佐渡から来いかも知れない。 しばらくの間、私は、 たこの手紙を机の引出しの中に入れた。 最後の便箋の欄外に書かれた言葉ーー「一度佐渡ヶ島へ「もしかすると、佐渡へ行くかも知れない。行くことにな もお出で下さい。九月まです。十月から海が荒れますーとりそうだけれども、まだはっきり分らない」 という風な気持でいることにした。 いう文字を私は何度も読み返した。 「九月までです」でなくて「九月まです , とあるのは、ふもともと私はどこか日本の田舎へ旅行してみたいと考え だんこの人の話している言葉が思わず出たのだろうか。そていたのである。ただ、その行先は、初めに書いたように れがまた、感じがあった。 田舎は田舎でもさびしいところではなくて、地方の小都市 今は四月であった。五月、六月、七月、八月と私は数えであった。それもどうという特色のない町で、ただそこの てみた。「十月から海が荒れますーというのを読むと、佐宿屋に何日か泊って、家にいるのと同じように暮して来よ うというのであった。 渡がいかにもさびしい島のように思えた。そうして、海が しかし、差当ってどこへ行こうと心に決めるところまで 荒れるというのが、船の連絡が跡絶えてしまうというのと は進んでいなかったのだから、佐渡へ行ってみることにし 同じように聞えるのだった。 そうして、まだ佐渡へ行こうとも何とも思わないうちたらどうだろう。 行ってみて、手紙をくれたお爺さんに会えればよし、会 から、 えなければそれでもいい。 とも角、これまで考えたことも 「行くなら今のうちだ」 なかった佐渡という島と私との間に、幻の橋がかかった ということを考えた。 今のうちというのは、九月までという意味であった。今それは、あると思えばある、無いと思えば無い、頼りない だったらこのお爺さんは元気で佐渡にいることは間違いな橋だけれども、ひとつ、この橋を渡ってみることにしては とうか 。行けば、きっと会えるだろう。 私はなぜこの手紙をくれたお爺さんに会うのか、それを私は佐渡の地図の載っている旅行案内を買って来て、浦 考えないで、「会いに行くのなら今がいい。来年になると、部怡斎というお爺さんのいる村の名前を探してみた。それ びんせん

10. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

( すれている ? すれているだろうか。満子も、あの女学 「普通なら、お前を足腰たたぬほどぶんなぐってやるとこ生達も、そのほかの良一の女友達もすれているだろうか。 ろだが、おれは絵かきだから、そういうことはしない」 いや女達がはたしてすれているだろうか。すれているのは と良一はいった。 良一じゃないか ) 「いじけた考えをもって日記に書きこんでいるよりは、ま私はそう思った。だから私が日記の中に書いているの だ行動をした方がいいからな。お前はおれに気にくわぬこ は、良一がいうように良一の悪口ばかりであった。日記の あっこうぞうごんは とがあると、受難者づらして悪口雑言を吐いて、自分はそ中では私は満子のことはわざとと書いていた。私はそう ういう人間になりたくないと書いている。それだけじゃな いう日記の文章を英語で書いていたのは、自分の勉強のた い。あの書簡集にも、何だかいをい っ・ま欄外に書きこんでい めもあった。良一はめんどくさいのでよく読みもしなかっ るじゃないか」 たのだろう。 「書簡集に ? 」 「もし女がすれることが出来るものなら、もはや人生は無 「ああそうさ、ちゃんと知っている、お前に任せといたら意味だ」と書くだろう、と私は考えていた。そしてそれを あんなことをする。ああいう了見は浅まし い。だいたいあ英語の文章ではどういうふうに書いたらいいか。すれると の女学生たちも、お前にはあきれていた」 はどのように表現したらいいか、などとも考えた。私は満 「僕の日記を読んだのか」 子がその夜私にしたこと、私がいったこと、そういうとり 「ああ、一頁ばかり読んだそうだ。お前の机の上にあったひきみたいなものをふりかえっても、彼女も、自分も、す れているとはどうしても思えなかった。計画的であった からな。・ハカらしいからあとは見ない」 うそ 「どんなこといっていたのかしら」 り、嘘をついたりしているけれども、それは「すれて」 ない証拠のように見えた。だから私は何かやるせなく苦し 「わたし達にもああいう気持になることがよくあるという んだな。お前の友達になっていいかといっていたから勉強 のじゃまになるといって断った。断わらなけりや断らない 良一はその日のことは満子に手紙を出したが、満子から で、お前はまた日記に涙を出して書くに決っている。それきた手紙も私のことにはあまりふれていなかったと見え に連中はみんなすれているからな。お前の友達には向かなる。 ( 私は満子の手紙を勝手に開封するということだけは したくなかった ) 良一はある日上京した。その留守にこら