満子 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集
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1. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

工ホフ、それから長太郎。私は彼女の耳もとに口をあて家へ入るには都合がよかった。太田氏は毎年のように従軍 て、 画家として出かけていた前線からもどり、礼子が気に入っ 「礼子はあなたの家にいたのですよ」 た。満子は礼子に良一のことをきいたが、礼子は人気のあ といおうとした。 る教師で、葬式の時には大ぜいの学生の見送りがあり、遺 しかし彼女はもう一つ寝返りを打ちながら「長太郎さ作展が公会堂であったというようなことしかいわなかっ ん、あなたは私とおなじ人間よ」 た。礼子は時々ぼんやりと、満子を眺めていることがあっ とつぶやいた。そこで、 た。そんな時満子は、自分を眺めている礼子の眼をかんじ 「僕は良一ですよ。満子さん、僕は良一ですよ」 て、すぐに用をいいつけたりしたが、その気味の悪さのほ ほお と私は彼女の頬に自分の頬をすりよせていった。すると かは、臭いに敏感な大のように礼子は満子について動いた びこう 彼女の鼻孔がひらき、大きな溜息が漏れた。 し、かゆいところに手がとどいた。しかしある日、防空演 「いいえ、あの人もさいごに私から逃げだしたのよ」 習の打合わせで、満子が外からもどってきた時に、応接間 満子はまだ目をとじたままで、そういって私をさえぎの椅子に礼子がじっと腰かけているのを見て叱りつけた、 った。 終戦一年前の夏のことで、礼子の後ろの窓にはレースのカ 「しかし、どっちにせよ、あなたは私の中にしかいやしな ーテンがひらめいており、テー・フルの上の紙きれがふかれ いのです」 て床に散らばっていたからだ。その礼子のドアの方を見て 「私はねむいのよ。お願いだからねむらせて」 いる顔はおそらく自分とひどくよく似ているのに、満子は と満子がくりかえした。それからほんとうに眠りこんおどろいたにちがいない。しかし、もう一つ満子が見てい ない場面がある。中学生になっていた明夫がドアの外に立 っていると、礼子が満子の寝室に掃除に入ったまま、そこ 満子の家に礼子が女中として住込んだのは、私が兵隊に 流 で泣いていたことだ。 なって外地にいる間のことだ。 ムそん ついとう 礼子が満子に不遜であるわけでなく、平素はいつも敬意 女礼子は良一の教え子で、追悼文集で太田氏と良一とのこ とを知ったということにして満子の家に入ったのだが、今の眼を向けているのだし、子供の世話もよくしたし、太田 偲までいた道野も徴用にとられるならというので農家にもど氏が礼子に好意を見せそうな様子があっても、満子は礼子 っていた。礼子が不自由な身体であるのがかえって、太田を手ばなさなかった。中学生の明夫を太田氏のところへ置 ためいき にお

2. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

る日山の中で、満子の書いた自分の悪口を見た。そこで東こへ復員して行った。礼子は、 2 京へやってきた。満子が太田氏と争っている時、明夫が気「もう私は一生大丈夫なのよ」 ころ を失った。その頃、満子は売りのこしてある宝石類を売っ といった。彼女は私の留守の間に「書簡集」の続篇を身 てアトを借りる用意をしていた。太田氏は明夫と光彦を以ってつづったのか、と思いながら、 わびじようもん を連れて出て行く満子に「詫証文」を書かなければもどっ「大丈夫って、何が大丈夫なのだ」 てくることはならない、といった。礼子は一部始終をきい と私はたずねた。 ていた。太田氏は満子の書いたものの値打を過信していた「私には分らないわ。でも何だかもういっ死んでもいいと ほうむ のか、世間から葬られたといった。しかし彼が葬られそう思うのよ。これから五年生きられるか、十年生きられるか になっていたのは、どちらかというと彼の仕事そのもの分らないけど、私の中にもうちゃんと良一さんがいるよう だ。それでも彼は元の学校にもどると、やがて彼なりの活に思えるのよ。私、これで一人前の女になった気がする 動をはじめた。 わ。一人前の人間といったらいいのかもしれないわ。で : 。たった一つでも 礼子がおどろいたことがある。満子は道端の戦傷者にあも、私、あの橋の上のことを思うと : やみごめ いいことをしたと思ったのに。とてもいいことというの りったけの金を恵んでやったかと思うと、あくる日闇米を 買う金がなくて、礼子に自腹をきらせて買出しに行かせは、とても悪いこととつながるんですものね。でも私、ほ た。ある日、満子の書いた文章のために、太田氏の友人がんとのことをいうと、あなたが戦地にいたあいだ、良一さ 神経衰弱になって自殺をした。その原因は、遺書というもんがいるつもりだったのよ」 のがなかったので公表されなかったが、遺書に代る抗議文それから、礼子は東京の中央線沿線のアパートで私とい が満子のところへ直接送られてきた。満子はそれを礼子に っしょに暮しはじめたが、い っしょに寝ていても、もう自 見せ、「悪い人は仕方がないのよ」といったことだ。その分の見た夢をかくさない。彼女の見た夢は、良一と満子と くせ油虫を見つけると、大声で礼子に助けを求めるのだ。 が泳いでいるところとか、良一が満子夫婦の下男となって 、、くラの花をかみ 礼子がだんだん女主人に似てきていたことは、私が彼女と下働きをしているところとか、良一が黒し , 、まま とんじゃく 暮しはじめてから分った。気儘で、金銭に頓着しないとこくだいているところとか、そういったものが数限りなくあ ろなど、前にはあまりなかったことだ。礼子が病気になつる。そうして私もまたある日から礼子の見た夢を自分も見 て郷里の叔父のもとにもどっていて二月たったころ私はそはじめた。そして良一とおなじ病気で起きあがれなくなる

3. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

「苦しみようが足りないんじゃないのか。いい絵というもの市で一流で、その前を何度も通りすぎたことがある。ホ テルの前には夏はビーチ・・ハランルのような模様のヒサシ のは大へんだよ」 良一は腹を立てて、どんと足ぶみした。私が彼の前を通が入口にはりだしてあり、庭にはテー・フルが並・ヘてあっ かさ って階段をおりはじめると、良一が上から追っかけてきてて、これまたビ 1 チ・・ ( ラソルのような傘がついていた。 それを見ると私は満子のことを思いだしたものだ。満子と 「おれは本当は東京〈もどりたいんだ。それがここにいる夫とが住んでいる家が、私にはこのホテルのように思いだ されるからだ。 のは、何のためだと思う」 私はその時間がくるまで盛場をぶらっき、彼女が示しあ 「僕のためだというのか」 「お前を食わせているということもある。家族を見ているわした時刻にホテルの中へ入って行って、甲田だといっ た。私は花屋へよって花を買おうか買うまいかと迷った ためだ」 が、彼女があのとき良一によこした高価な花のことを考え 「そればかりではないじゃないか」 東京へもどれば満子と接近しすぎることこそ、良一が苦るとすべてムダな気がした。ホテルのロビーで待っている と、ポーイが部屋へ電話をかけていた。 しんでいる理由だ、というつもりであった。 えり ポーイは私のところへくると、部屋の方へ行くようにと 私はそれだけいうと良一に襟をつかまれないうちに外へ いって番号を教えてくれた。彼女は洋室でくらしていたの 逃げだした。 良一は、月に一回か、一一月に一回、絵をもって上京するで、私が案内される部屋は洋室にちがいない。そう思いな がら私は部屋の前まで行きノックをした。 と、満子の夫に見せてその批評をきくことになっていた。 「甲田さん ? 」 夫と会うのか、彼の妻の満子にあうのか、どちらか良一に とってもよく分らなくなっていた。なぜなら良一が上京すと中から声がした。私は弟の謙一一だ、といおうとした が、とっさには何もいうことができないのでそのまま中へ るころになると、満子から交通費が送られてきたからだ。 そしてその金は満子の夫の金である。 入った。 私はポケットに、さっき満子からきたばかりの良一あて「あら、あなただったの」 の電報をいれていた。その電報には今夜名古屋市にある彼女はいっか良一のいったように今日はこい色のルージ ホテルへきてくれるように書いてあった。そのホテルはそュを塗って、紺色の着物をきて立っていた。私はこのロに

4. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

192 さ」「俗悪に対する軽蔑」をうたいつづけている。 指定の番号札がくばられていて、私もその一つに腰かける ことになったので、そちらの方へ進むと、光彦の姿が見え としま た。光彦達の演奏はまだすんでいなかった。私がわざと遠 池袋にある豊島公会堂へ三時頃になって私がやってきた のは、満子に会って約束の金の一件を話すつもりであった廻りをして時間をかせぐことにしたのは、光彦の父親がい が、ちょうど文化人団体と書いたトラックに、満子と明夫るのではないかと思ったからだ。そうして案のじよう肩を いからした、贅肉というものが全然ない横顔を見せてじっ が乗ってくるのが曇ったガラスを通してホールから見え た。トラックの中に、満子から少し離れたところに写真でと舞台を見ている彼がいることが分ったとき、これからど めがね うわぜい 見おばえのある眼鏡をかけた上背のある科学者の矢部教授ういうことが起るか、そのまま離れたところから眺めてい が立っていた。彼はそのまま車の中にのこって満子にアイた。光彦は思いだしたように入口の方ばかり見ていたが、 サツをしていたが、ソフトをとると、チヂれた髪の毛があ明夫と満子が近づいてくると、立ちあがってそばへよって らわれた。その男は私より五、六歳年上で、だいたい良一ぎた。すると父親は光彦がいなくなったのでふりかえり、 の年齢に近く見えるが、じっさいは太田氏の年輩なのだろ急に立ちあがった。そうして反対の舞台に向って進み、ず う。満子はそれに気取った徴笑をかえして明夫に助けられっと一まわりして、私のそばをすりぬけて、外へ出ていっ えり て車から降りるとコートの襟を立てながらこちらへ走りよたので、光彦が気がついたときには、その姿がなかった。 満子は今まで夫のいた席へ近づいてきたが、心持ち頭を ってきた。 「ほんとうにお父ちゃまがいたんですって、おやおや、あさげながら走るようになって行く夫の姿を見た。私がその 席へ近よって行くと、満子がささやくような声だが、それ の人もこの法律が通ると困ることあるのかしら」 「美術団体の中の組合を作ってるんですから、あたりまえからカを入れて、「ここにお父ちゃまいたのね。私はお父 ですよ」 ちゃまのいた席はイヤよ」といった。 おんど 「音頭をとるのは昔から好きだけど、おかしいじゃない 「光彦、お前が連れてきたのね。、、 ししこと。私は、あなた のものを見たらすぐ帰りますから。光彦も明夫もどうせお 彼女は笑いながら明夫と階段をの・ほってきた。私が彼等父ちゃまのところへ出かけるのでしよ」 の話をききすてながら、講堂の中へ入った時、ある有名な コ 1 ラスは終っていた。もう光彦は自分の番が近づいて らいひん 大学の付属高校のコーラスがはじまっていた。来賓席にはきているのでそこにいるわけには行かなかった。光彦は私 けいべっ ぜいにく

5. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

178 「あら、どうして」 それからあとは、良一は全部話してしまったが、話し終 「それだけのことです」 えると、眼の前にいちいち乗りだすように問いかけてくる 「ああら、分らないわね」 この女にまた腹が立ってきた。 「第一、どうしてあなたにお会いしたらいいんですか」 「そんな話をきいて何になさるんです」 きまじめ と良一はむきになっていった。 「後悔することないわ。あなたは、主人の話では生真面目 「でも希望なのよ」 な青年ということでしたけど、そうでもないのね。でも面 むだ 「無駄なことです」 白い話だわ」 彼は、心の中で腹を立てていた。 満子はその夜はそのまま引きあげようとした。 「そう、そんなことだったら、あなた恋なんか出来なくて「あなたのような幸福な人には分りません」 良一はいっこ。 「恋ですか ? 」 「私幸福 ? あなたって鈍いのね」 恋といわれたとたんに良一は鼻であしらうような表情を というと外へ出ていった。 ゅうかん 見せた。 ( 鈍いでけっこうだ。何だ有閑婦人めが ) つぶ 「僕はさっきまで、ある女のことを考えていたのです。恋腹の中で良一は呟ゃいた。「有閑婦人 , というところに なんか、もうどうでもいいんです。僕なんかもう恋なんか傍線がひいてあった。明朝になったら、理由をつけて帰っ できなくていいんですー てしまおうと思った。しかし良一はその夜は今までになく 良一はそういっているうちに、声がつまってきて目からぐっすりと眠ることができた。夜が明けると、良一は去る 涙が出てくるので、筆をもった腕で顔をふいた。良一は二 ことは満子の夫に対して非礼だと思いなおした。そして朝 十歳で満子は三十一一歳になっていた。 食の時、満子が化粧をしていることや、顔の特徴を自分が 「ねえ、話してみないことー しつかりとお・ほえていて、いつでも再現できることに気が と満子はしばらくしていった。 ついた。 「先生が使われるようなモデルじゃありませんよ。学生用実直のところのある良一はずっと日記をつけていた。日 のモデルです」 記の中にはモデルの娘のことも自分の姉のことも書かれて 「あら、そんな区別があるの、私はじめてだわ」 あった。その日記を満子は良一の留守に読んでいたので、 ・」ら - 力し にぶ

6. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

「東京は雨がふらんかったか」 「私もここにいてよろしい ? 」 といった。 といった。夫が返事をしないと満子はそのまま部屋にの 「あちらも降らなくて」 と満子が追いかけるようにいっこ。 「お前もここにいるのか」 「東京の日でりは新聞で読んだよ」 といった。 と太田氏の声がきこえた。 「私も心配ですわ。もしよくないとなれば、家へきていた だいたりして、仕事のおじゃまをしたことになるんですも「じや知っていらっしたのね」 満子はもどってくると良一にいった。 の。明夫だって光彦だって」 「ほんとうにそう思っていっているのよ」 「ごくろうだったな、お前からよく礼をいっときなさい。 「もちろん、僕もそうだと考えています」 世話になるのが平気だからな」と夫はいった。満子はその くちびる といって唇をかみしめるようにしている。 場を動かなかった。 「このモデルはきみの弟さんか」 「ねえや、これじゃあっくって、入れやしないじゃない か」 「あそこにいらっしやるのよ、いつも弟さんと暮らしてい からすな と叫ぶ夫の声がした。 ( それは烏の啼くような声で良一 らっしやるのよ。ずっといっしょにきていただいたのよ」 満子私の方を指さした。夫がこちらの方を向いたのの声を忘れてしま 0 た今でも、私の耳にのこ 0 ている ) 「謙一「お前、またかくれたりしてだめじゃないか。さ で、十間もはなれたところから私は頭をさげた。 「ふむ、ふむ、モデルは誰でもいいが、・ : ・ : 果して出品まあ、この絵をもって往来で待っててくれ。先生にもう一度 お目にかかって帰るから。。ヒカソ、さあどいてどいて、ま でなおせるかな。大変だぞ、これは」 彼は風景画の方には眼もくれなかった。そして細部にわたくるからな」 流 「お帰りなさいな。私があとできいておきますわ。少し待 たって注意らしいことをいってのけると、 女「僕は湯につかるから、きみはゆ 0 くりしてきなさい。苦ってて下さらないこと」 と満子が早ロでいった。 労するのはきみだけじゃないよ」 あるじ 彼はさっさと引きあげていきながら女中の道野に向っ私は外に出て雲のない空を見上げていた。それから主が もっか て、 もどってきて、目下身体の垢をおとしている、その城のよ あか

7. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

むぎわらばう を背中につけて歩いていたが、翌年の夏になり麦藁帽をか「だから私は東京に帰りたいといってるのよ」 かいどう ぶって街道をあるいていた。八月にはいったある日、太田「そう。じゃ帰りなさい。この車で帰りなさい」それから 氏が明夫をのせて小型のトラックでやってくるのに出会念をおすように「お前はおかしな女だよ。おれにとっては ずうずう 図々しい女だよ」 「あら、どうなさったのよ」 そこで太田氏と運んできた荷物をおいて彼等は終戦直前 「どうなさったもない。何てことをお前はいうんだ。東京の東京へもどってきた。車の中で満子はむやみやたらにい は危いんだよ」 ろんなことをしゃべり、礼子といつまでも暮したいとか、 と関西弁の調子でいった。 死ぬときはいっしょに死ぬのだ、とロ走った。がたちまち 「にげておいでになったの」 冷静にもどった。こうした変化が礼子にいつも良一を思い すで 「にげてきたというわけじゃない」 出させる原因だった。帰った家は既に兵隊の宿舎になって トラックの中にはいつものように物資があり、ウイスキいた。太田氏はそのことをわざといわなかったのだ。たぶ とらゆう ん途中で引返してくるものと思ったのだが、見込違いだっ ーの何本となくつめてある箱も目についた。 「それなら、私、東京へ帰ります。あなた、ここにおいでた。ようやく一間だけ、つまり、アトリエだけあてがわれ になったらいいわ」 た。三日後に終戦になったが、太田氏はもどってこなかっ た。太田氏のおそれていたのは、終戦後のことだったと見 「危いんだよ。お前には何も軍のことは分ってないんだか ら える。 満子は昔、童話を書いた出版社のかんけいで、翻訳をす 「それじゃ、なおさらあなたが逃げだすのはおかしいわ」 礼子は満子が笑うのを見た。この笑のあとから満子は積る一方に雑文を書いて、あきらかに夫と思われる人物をや めんどう 極的に夫に対抗する根拠をつかんだと見える。太田氏が運つつけた。子供の面倒はほとんど礼子が見た。礼子は「お 流 転手の手前もあって声をあげてどなった。満子はまたくり 母ちゃまはおえらい方ですよ」とか、「御仕事が大変なの ですよ」といったが、それがロぐせのようになった。満子 女かえした。 「私たちだけ、この車でもどるわ。あなたここにいらっしは寝室でねそべって仕事をした。礼子は満子が一年前より はずっと若返ったと思った。 「お前だって、今どき何のおかげで楽にくってるんだ」 病気静養の理由で休職の届けを出していた太田氏は、あ

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しつも自分だ、というふうに思ってきた。 その中の男は、、 「光彦のやつは治りやしないですよ」 私は満子のことをいっているつもりなのだが、頷いた。その男は荒々しいものではなくて、女のように礼儀正し 「お前しか頼れるものはないのだから、と分っていることく、女の方は奔放にかかれていた。明夫の断片的な話から 私は右のようなふうに想像することができたし、また大し を何回もいってくるんだからな」 てまちがってもいないにちがいない。 明夫はそういうことを語るのを必ずしもいやがってはい 「お母ちゃま、顔をなおさなくっちゃ」 なかった。その話相手としても前から私が好都合な人間だ と思っているのだと私は考えていた。明夫が仕事の途中で彼はおそらくそんなことをいったのではないか、私は彼 へ訪ねて行ったとぎに、彼女はペッドの中を前にして考えた。光彦はけつきよく親に金を集めさせ 満子のアパート まくら でうつぶせにな 0 て寝ており、顔をもちあげると枕をぬらて、「遠い国」へ行くにちがいないし、明夫の望むところ していることが分った。明夫も母親が泣きじゃくっているかもしれない。 のを見るのははじめてであった。明夫が車で買物に出かけ「ねえ明夫」と満子は化粧しながらいう。 て、満子の好きなフランスふうのチキン料理を作り、フラ「私はお前のかくあの絵のドアの中で、歯をくいしばって ンスふうに貝のスープを作ったりして、いっしょに食事をいたのよ。笑い声がきこえるような気がしたのよ」 したりしているうちにだんだん顔の表情がほころびてき「誰の笑い声だったの、お母ちゃま、 て、 = ク、ポがあらわれた。早く化粧をした方がいいと明夫「誰って、みんななのよ。お父ちゃまもその仲間だけど、 目に見えない大勢なのよ。その時、悲しいことがあったの は隸った。満子は、 「お母ちゃまは、お前と一一人で遠い国〈行きたいね」と童だけど、それより笑い声とたたか 0 ていたのよ」 満子は鏡をのそきこみながら、そんなことをいう。 話の中のお姫様のようなことをいったが、明夫は、「遠い 「それからお母ちゃまは、もう世間の笑い声にはおそれな 国」がどこだというような野暮なことは考えもしなかっ くなった。お父ちゃまだってこわくなくなった。だから、 彼もまた「遠い国」といわれると、ほんとに一一人だけでお前は、ドアの中のお母ちゃまを、そういうふうに考えて 暮すことの出来るそんな国があるような気がしていたから描くといいわ。それがいいわよ。分って」 「悲しいことというのは何ですか」 だ。そしてそれは睡眠薬をのんでぶらついている何時間か 「私に何の知らせもなく、とっぜん電報がきたのよ」 の世界だ。明夫は満子の自作の童話をきいて育ってきた。 うなず

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良一が打明ける前に知っていた。そのことを満子は良一にていることを知って階段をおりてきた。彼女は半分病気に また打明けたが、その頃には、良一はもう腹を立てないよなっていたので、自分のどこに中心があるか分らないよう うになっていた。満子は昼間は子供や女中の前では、ほと にふらふらとおりてきた。その時、満子は作曲家に最後に んど親しい口をきいたことがなかったが、夜になるとドアあったときやはり階段の下でその作曲家を待ちかまえてい たた を叩いて入ってきて良一が筆をおくまでそばについているたときのことを思いだした。それで彼女はその作曲家に希 ようになった。昼間は子供が離れなくなったが、夜は満子望していたとおなじような言葉を自分がいってみたいと思 がずっとそ・よこ 。冫いた。そして良一が外へ風景をかきに出か った。それで二人は結婚した。しかしそう話したあと、満 ける時、コートに身をつつんで、いつのまにか良一のうし子は、 ろに立つようになった。 「私にはその時、もう一人プロポーズして下さってる方が 「寒いでしよう」 あって、経済学者なのーとつけ加えた。良一はそういう満 じゅっかい と良一が手をこすりながらいうと、 子のあけすけの述懐にはおどろいた。しかしそういう述懐 ぎよう 「寒いわよ。でも私、行をしている気分なの。禅宗の坊さ が自分に好意をもっているためだ、ということが分ってい んのような気分なのよ」 たので、良一は、だまって耳を傾けていた。良一は冬景色 といって笑った。 をかいていた。この話をきかされているのが、アトリ 「私の考えでは、ね、甲田さん、あなたは、モデルの娘さ中でなくてこの寒い土手の上であってよかったと思った んなんかとっきあうのはお止しあそばした方がいいわ。もが、内心おどろいていた。しかし次に彼女のいったこと しっそう彼をおどろかした。 っと優秀な人が世の中にはいくらもいるのよ。今はいいけは、、 ど、あと十年もしたら、あなたは進歩がとまってしまうわ「ずっとお友達になってね。あなたをのばすことが、私を よ。人間というものは相手によってのびもするし、ちちみのばすことになると思うの」 流 もするものよ」 それはどこか、小説の中できいたような言葉だと思っ た。そうして三十二歳になってまだのびて行こうとしてい 女満子はある有名な作曲家の弟子で、その人に失恋した が、その直後に今の主人のプロポーズをうけて結婚した、 ることが、おかしいような気がしたが ( と良一は私に語っ 四といった。プロポ 1 ズをうけた日、彼女は、ある富豪を通た ) しかし満子のいうことは、もしそうできれば、まこと じて満子を望んでいた彼が、自分の家の階下の応接間にきこ、 冫しいことだが、それが彼女の夫とではなくて自分との間

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ら。にもかかわらす彼女が警戒されるのは、この女性が何しかし一般に思われているように彼女の書く物には、何 か異質で、水の中にとっぜん油がそそがれたという予感をか火のようなものがある。情熱的な火というようなもので お・ほえるからだろう。 はないが一種の火だ。その火は十分に伸びず、女であるこ ある女流作家がパーティの席上で菅野満子に会ってあとの制約の中で苦しみもだえているように見える。しか おいたち いさつをかわしたとき、菅野満子はこの作家と初対面のよし、案外に秘密は彼女の生立にあるかもしれない。彼女は うな顔をして、最後までおし通した。ところが、菅野満子十二歳で母を失った。愛情を求め得なかった者は、誰から は二十何年か前に知っていた。菅野満子がまだ一一十一「三も愛情を求めることができない。ある一つの例外的な方法 まなでし の娘の時に、ある高名な作曲家の愛弟子としてその作曲家による以外は。そしてそれはあえてここには書くまい」 ころ とっ・せん私は満子から、ゆっくりと話がしたいからきて や、その周囲の人達によく知られていたし、その頃やはり その作曲家と親交のあった < の家へ数度あそびに行ったこくれないか、という手紙を貰った。私はその文面よりもそ ともあり、ある日などパラソルを置き忘れて取りにきたの筆蹟に心をひかれた。彼女の筆蹟は昔とかわらずべンを り、もう一人の友達を交えて京都へあそびに行ったことも真直ぐに立てて書いてあった。型にはまった達筆でもな く、そうかといって女性が書をならった場合の、どこかに あったのにもかかわらず、まったく < という人物に記憶が ないような様子をしていた。彼女が何を考えてそうした態脂肪のついたまるみのある書体でもなく、細長くて張りが あり、すみずみまで力がこもっていた。べンを進めるうち 度に出るのか、には分らない、といったぐあいである。 に前だおしになってもかまわず走らせるので、インキのつ 菅野満子でなければ、誰も気にしないが、彼女だから気に する。そうしてこんどは『おかしな人』というわけで、こきが悪くなるが、それをかまわず書きつづけるので、かす れてくる。そういうかすれがかえって力強さになって ちらが体をかわすようになるらしい。 とら る。もし手紙の文字で人の心を捕えるとしたら、この満子 男性の評者や読者からは、好意をもたれているが、しか し何か一つ無礼をかんじさせるということである。その詩の文字ほど手頃なものはない。そのような文字をかく女に にしろ、社会評論にせよ、この頃かく小説にせよ、菅野満夫がいるということがとうてい考えられないからだ。しか 子には一種ふしぎな甘さがあり、時々小説ふうに書く彼女しながら、私は彼女のアドレスを見たときに、私が昔何度 の男性論も、くすぐったくなるようなところがあるからも訪ねたことのある、つまり彼女の夫のアドレスとまった くおなじであった。アドレスの横に、以前のあの家におり てごろ