部屋 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集
109件見つかりました。

1. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

( 教授は沼の口から真柄のことを聞いて知っていた ) 「どうしても駄目か」 「どうも、済みません」 「あたし、今日はお話したくないの」 それを持って、沼は部屋まで走って帰った。部屋へ入っ彼は黙ってしまった。すると涼子は壁の方に顔をそむけ て行くと、涼子はペッドの上に毛布をかぶって、眼の上をたままで云った。 てぬぐ 手拭いで冷やしたまま寝ていた。 「出て行って下さらない ? 」 ひたい 沼は側へ行って、額にそっと手を当てた。 彼は、うなだれて部屋を出て行った。 ぎわ それから彼は、部屋の窓際の子に腰かけたまま待って 涼子は、手拭いを除けて沼の顔を見ると、ぐっと頭を壁 いた。部屋に出入りする学生たちは、沼の姿を見て挨拶し の方にそむけた。彼女の顔は痛々しく腫れ上っていた。迂 うと かっ 濶なことに、彼はやっとこの時、それが昨夜自分が加えた たが、何となく彼を疎んずるかのように思われた。沼は、 おうだ 殴打によるものだと云うことに気付いたのである。 自分が卒業してから四カ月もたつのに、未だ就職もせずに 「涼ちゃん、許してくれ」 ぶらぶらしていることに対して、何となく負け目を感じな 「いいのよー いわけには行かなかった。在学中は部長として絶対的な統 のぞ 彼女の声は冷やかだった。 制力を持って彼等に臨んでいただけに、今は一層みじめな まくら ことになるのだった。 沼はたまらなくなって来て、眼薬と頭痛の薬を枕もとに そっと置くと、彼女の手を握ろうとした。彼女はその手を部員たちは、涼子の寝ている部屋に出たり入ったりし 払いのけた。 た。それはいかにも彼女を気遣って、いそいそと世話をし 「ひどく痛むの ? 」 ている風に沼には見えた。今や彼だけが自然にその存在を ちょうだい 無視された形であった。沼は窓の下道を往来する学生の姿 「大したことないわ。心配しないで頂戴」 なが 「涼ちゃん、僕、話があるんだ」 を・ほんやりと眺めていた。彼は、涼子が帰る時には一緒に 木 「いやよ」 六甲の家まで送って行こうと思っていた。 じたく 流彼女は強く云った。その語気に押されて、沼は気弱く云沼は三時間ほど待った。やっと涼子が帰り支度をして隣 りの部屋から出て来た時、彼女のそばには岸本と矢田一枝 が両側からびったり付き添っているので、沼は手をかすこ 「話があるんだ」 「もういや ! 」 とが出来なかった。彼は岸本たちと一緒に甲東園まで歩い だめ づか あいさっ

2. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

130 ようしゃ いと思っているらしいことを、うすうす感じていた。 ていると、容赦なく彼女らの声がきこえてきた。彼女たち 彼女はもと良一の教え子で、ある日のこと私と良一が借は兄の部屋からぬけでて真中の部屋にきていた。そこは階 りている家へ、セイラー服姿でとっぜん友達と連れだって段を上ったところにある部屋で押入れがあった。私は耳か やってきた。私は東京へ出る前で受験準備をしながら良一ら手をはなした。 こうし が帰るまで、留守番をかねてほとんど一日中格子のついた「ねえ、この押入れの中にかくれていない ? 」 古い家でじっとしていた。彼女達の声がしたとき、私は玄「だって、よその家の押入れをあけるのは悪いわ」 関へ出て行って、まだ良一がもどってきていないという と礼子の声がする。 と、礼子の友達は、 「いいよ、 「ねえ待たせてもらいましようよ」 相手の女はもう押入れをあけていた。 といった。 、つ、つんである。においがするわ」 「フトンがしをし 「ほんとうに兄はすぐ帰ってくるのですか」 といった。 と私はきいた。すると礼子が家の中をのそきながら、 「だって、玄関に靴がぬいであるのに」 「先きに行ってるようにおっしやったのですけど、わるい と礼子がいった。 ですね」 「そうか。私かくしてくるわ 「それでは兄の部屋で待っていて下さい」 彼女達が私を無視しているのはつらいことであった。第 と私はいった。礼子のことは良一からきいたことがなか一「第三の彼女達がこれから現われてくるかもしれない。 った。しかしもう一人の方は、良一が私に話したことのあ彼女等も私を無視するであろう。私は階段をかけおりて行 る女学生であることがすぐ分った。良一はその女学生に映く音をきいていた。礼子はひとりになったので、当然のこ 画館の中で手をにぎってやったことがあると私に話したことだが沈黙していた。私はそのとき重苦しいものをかんじ とがある。 「ねえ、もうかくした ? 」 私は彼女たちを兄の部屋に案内すると、自分の部屋にこ もり、一一人の話声がぎこえはじめると、耳を両手でおさえ「大丈夫よ」 てじっとしていた。私が念仏をとなえるように眼の前の私下から声があがってきた。私はもう耳に手をあてがうま とな いと思った。 の日課である書物の中の文章を、ロの中で唱えるようにし くっ

3. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

ろうか と放送する。 私は廊下を通って部屋に戻る。中庭の向うに女中のいる すると、すぐに帳場の奥から四、五人、同じ上っぱりを建物がある。 着た女中が出て来た。黄色い帽子をかぶった世話係の青年「光子さん。スカート、 かせえ」 は、自分の組のお客さんを自分のカメラで写す。写真屋の誰かが呼んでいる声がする。 役も兼ねている。それで、並んでいるお客さんがみんな入「どこへ行く」 るように気をもんでいる。 「うちへ」 しかし、前にいる人の頭に隠れて、どう見ても写りそう「光子さん。どこにあるの ? 」 にない人もいる。が、とに角、急いでやらなくてはいけな 「あそこにかけてある」 いので、一人二人そういう呑気な人がいても、そこまでは 「貸してえな」 眼が届かない。 「をしどうぞ」 てぬぐ 写真が終ると、「佐渡旅行会ーの手拭いを肩からかけた部屋ではたきをかける音がするだけで、あたりは静かで 小母さんたちは、一斉にべンチの荷物めがけて走り出しあった。さっき出発したのがいちばん最後の団体客であっ た。荷物を取ると、番号札を貼った・ハスに乗る。 たのかも知れない。 女中は十人くらい出て来て、記念写真をとるところを見私の部屋の前を女中が行ったり来たりする。 ている。端にいる一人は、前に立っている子の肩に両手を「あのの、おめえにお願いがあるの」 かけている。 一人が云った。だが、あとは分らない。どんな願いがあ ってその子は友達を呼んだのだろう ? すると、そばにいる子が、 向いの部屋の片付けが始まる。廊下へ何か運び出して来 「離れられない深い仲」 て、おろす。 と云ってからかう。 今しがたまで忙しかった下足番の青年が一一人、下駄穿き「ああ、腰が痛い」 でそこへ出て来る。一人の女中は、下足番の一人と自分の本当に痛そうな声だ。彼女はちょっとの間、黙っている。 横にいる女中の手を組ませる。 九 みんな・ ( スに乗り込んでしまうと、螢の光のレコードが 昨夜、食事をしている時、私の部屋の受持ちの女中が、 鳴り出し、女中は道の横に並ぶ。・ハスが出て行く。 のん込 ほたる

4. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

最後にひと筋残されているきずなを信じたい気持があっ 追った。 た。どうにかして、その最後のきずなにすがりつき、それ 沼は今度の公演のスケジュールについては何も知らなか った。そこで次の朝徳島へ着くと、すぐに新聞社を訪ねてを手繰り寄せて、もう一度彼女の心をしつかりと自分につ とんな 聞き合せた結果、あくる日の午後六時から市の記念館で公なぎとめることが出来ないものか。のためには、・ 苦痛をもどんな辱しめをも彼は耐えて見せようと思った。 演をやるということだけ分った。彼等は昨日徳島へ来てい かいもく るのだが、その宿舎が何処であるかも、今日の行先も皆目翌日、昼食を済ませると、沼は記念館へ出かけて行っ リードして見送った た。彼は、一昨日神戸の突堤で校歌を 知れなかった。 たす 彼は次に記念館へ行って事務員に訊ねてみたが、それ以自分が後を追って徳島までやって来たのを見たなら、部員 上のことを知ることが出来なかった。仕方なしに彼は、案たちはきっと怪しむに違いないと思った。しかし、彼等の とうてい 内所で聞いた市内で一番いい旅館というところへ行った前に姿を現さずに電話で涼子を外へ呼び出すことは到底不 が、彼が通されたのは便所のすぐ隣りの一番悪い部屋だっ可能だと覚っていた。 た。彼は友人から借りて来た替ズボンの上にカッターシャ 沼は楽屋へ入って行って、入口から声をかけた。 ツを着ていたのである。その上、思いつくとそのまま出て「見に来たぞ」 ひげそ 来たので髭も剃っていない。彼は女中に部屋を変えて貰う部員たちはガランとした広い部屋の中で身支度をしてい あっけ ように交渉したが、他の部屋は全部ふさがっているからと たが、一瞬、呆気にとられたように沼の顔を見つめた。し とろ・とっ 断られた。 かし、次の瞬間、彼等はこの先輩の唐突な来訪を喜ぶ色を にお ムによい 便所の臭いのする薄暗い部屋で、これから取るべき方法顔に浮べた。何故なら、彼等は旅先の不如意な気分の中 について思案した。彼はどうしても今度という今度こそ、 で、何となく心細さを感じていた時だったから。 何とかして涼子をつかまえて二人だけになり、彼女と対決涼子は沼が入って来るのを認めた時、ギクリとした様子 木 しなければならぬと思った。学校の部屋で寝ている涼子をだったが、それ以後は、神戸港に於ける出発の際と同様 さら すき 見舞った時、更に神戸の中央突堤へ見送りに行った時、涼に、巧妙に彼を避けて、近づく隙を与えなかった。沼は何 流 子が自分に対して取った態度を思うと、彼女の心がもはやとかして彼女を外へ連れ出して、一一人だけになる機会を得 あせ ようと焦ったが、涼子は常に誰かと話をしているので、沼 完全に自分から去 0 たことは疑う余地がない。 しかも、沼の胸の中には、それでもなお、涼子との間には側へ行って話しかけることすら出来なかった。 あや はずか みじたく

5. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

ていさい つまり、ここは体裁よくひと口に子供の勉強部屋と云えかも知れないし、誰かが押された拍子に当って倒すかも知 るような部屋ではなくて、他の部屋や押入におさまり切られない。そういうことなら、何時でも起りそうである。 ところが不思議にそうはならなかった。子供が突然おと ないものが自然に集って来る場所なのだ。 なしくなったわけでもないのに、金魚の泳いでいるまるい 壁には二枚、子供の絵が懸っている。 「星の子供」は女の子が何年か前の夏休みの宿題につくっ硝子の鉢は割れもせず、引っくり返りもしなかった。 かつば たものだ。余り布を貼りつけた服、お河童の髪は黄色とグそうして日が経つにつれて、以前からこの部屋にあった レイの毛糸、銀紙の星のかたちをしたものを頭の上にのせ物と同じような具合に見えて来た。特別気にはならない存 た女の子が二人、手をつないで水色の空に浮んでいる。 在となった。 「野原のカウ・ポ 1 イ」の方は、男の子がクレオンで描い もっとも、何時か誰かがやるかも知れないという不安 なわ たもの。投げ繩を飛ばして走って来る馬を止めようとしては、決して父親の頭から無くなってしまいはしなかった はっし いる者と、銃を構えて木の上にいる大きな鳥を発止と撃ちが。 止めた者と一一人いる。牛が突進して来る。ウサギがはねて 五 いる とういす まだその他に籐椅子が二つある。二つ並べて置くと出入「お父さん、おやすみなさい」 「お母さん、おやすみなさい」 りの邪魔になるので、ふだんは一つの椅子の上にもう一つ 「うちじゅうみんな、おやすみなさーい」 をのせてある。 あたかかんたん 三人の子供はよくこの籐椅子と勉強机についている腰掛子供らの声がこの家のあっちにもこっちにも、恰も感嘆 ぎよしゃ けとを組合せて、馬車をこしらえる。一人は馭者台に、符を打ったように浮んで残っている。 むら あとの二人は中に入って、叫び声、鞭の音、わだちのひび寝間着に着かえて、誰が自分の寝床にいちばん早く入る 物 きとともに突進する場面をやってみせる。 か。この競争が終ったのは、ついさっきのことだ。 静金魚が入 0 て来たのは、こういう部屋である。硝子の「おれの横にこちらを向いて眠 0 ている女。ー・これが自分 れ物に水と一緒に入っているものだ。それはいかにも危なと結婚した女だ」 静かな夜の中でひとりだけまだ寝ないでいる父親が考 つかしく見える。 いきなりポールか何かが飛んで来て、まともに命中するえた。

6. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

「苦しみようが足りないんじゃないのか。いい絵というもの市で一流で、その前を何度も通りすぎたことがある。ホ テルの前には夏はビーチ・・ハランルのような模様のヒサシ のは大へんだよ」 良一は腹を立てて、どんと足ぶみした。私が彼の前を通が入口にはりだしてあり、庭にはテー・フルが並・ヘてあっ かさ って階段をおりはじめると、良一が上から追っかけてきてて、これまたビ 1 チ・・ ( ラソルのような傘がついていた。 それを見ると私は満子のことを思いだしたものだ。満子と 「おれは本当は東京〈もどりたいんだ。それがここにいる夫とが住んでいる家が、私にはこのホテルのように思いだ されるからだ。 のは、何のためだと思う」 私はその時間がくるまで盛場をぶらっき、彼女が示しあ 「僕のためだというのか」 「お前を食わせているということもある。家族を見ているわした時刻にホテルの中へ入って行って、甲田だといっ た。私は花屋へよって花を買おうか買うまいかと迷った ためだ」 が、彼女があのとき良一によこした高価な花のことを考え 「そればかりではないじゃないか」 東京へもどれば満子と接近しすぎることこそ、良一が苦るとすべてムダな気がした。ホテルのロビーで待っている と、ポーイが部屋へ電話をかけていた。 しんでいる理由だ、というつもりであった。 えり ポーイは私のところへくると、部屋の方へ行くようにと 私はそれだけいうと良一に襟をつかまれないうちに外へ いって番号を教えてくれた。彼女は洋室でくらしていたの 逃げだした。 良一は、月に一回か、一一月に一回、絵をもって上京するで、私が案内される部屋は洋室にちがいない。そう思いな がら私は部屋の前まで行きノックをした。 と、満子の夫に見せてその批評をきくことになっていた。 「甲田さん ? 」 夫と会うのか、彼の妻の満子にあうのか、どちらか良一に とってもよく分らなくなっていた。なぜなら良一が上京すと中から声がした。私は弟の謙一一だ、といおうとした が、とっさには何もいうことができないのでそのまま中へ るころになると、満子から交通費が送られてきたからだ。 そしてその金は満子の夫の金である。 入った。 私はポケットに、さっき満子からきたばかりの良一あて「あら、あなただったの」 の電報をいれていた。その電報には今夜名古屋市にある彼女はいっか良一のいったように今日はこい色のルージ ホテルへきてくれるように書いてあった。そのホテルはそュを塗って、紺色の着物をきて立っていた。私はこのロに

7. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

今度は水差を取って、ウイスキーの上に水を注いだ。 「一寸先は闇だね」 「あ、あ、あ、あ、足はどうか」 そこは老人がいつもひとりでいる部屋であった。家族の と医者が云った。 かっ やけど いる部屋からちょっと高くなったところに離れのような恰「火傷したところは」 好であった。 「まだ歩くと少し痛むようです」 たた 用事がある時は老人は手を叩いた。そうして、患者があ「ちょうど地面に当るところだからな」 って自分が出て行かなければならない時以外は、ここから「自分ではもういいと云っていますが」 動かなかった。 医者は気の毒そうな顔をして、年若い男の顔から眼を外 らした。 その部屋で二人はウイスキーを飲んでいた。 「あんなことになってると、ちっとも知りませんでした」 この人と向い合っていると、どうしてか気持が落着く。 ひとロウイスキーを飲んでから、男が云った。 男はそう思った。 一番初めにこの街中の医院へ来たのは、彼が小学校の三 「夢中でしたから」 年生の時だった。 ( そこは彼が生れて、大きくなった町で「それはそうだろうな。足の先が何にさわっているか、気 あった。 ) が付くような時ではなかったからな」 はだし ある日、近所の野原で友達と一一人で遊んでいた。跣にな医者は吃りながら笑った。 って草の上を走っていた。すると、板を打ち抜いた大きな「それに火傷している本人が、自分で痛いともなんとも感 くぎ じていないんだから」 釘を足の裏に踏みつけてしまった。 びつくりした友達が家へ知らせに行ってくれた。その ぬくもりの無くなった妻の手足にふれた時の感覚を男は 泣いていた。やっとのことで野原の入口に母の顔が現覚えている。初めはまだ温かかった。それが次第に冷くな って来たのだ。 れた。 思い切り熱くした湯タンポを三つ、布団の中に入れた。 記億はそこでとぎれる。次に出て来るのは診療室の台の 上で足に刺さった釘を抜いてもらっている場面だ。上からふたつは胸の両側に、ひとつは足のすぐそばに。 のぞ 心配そうな顔がいくつか覗き込んでいた。そうして、そこ医者を手伝うために妻の身体を動かしている間、彼の額 したた はずいぶん薄暗い部屋であった。あれがこの家へ来た最初から汗が滴り落ちた。 こう ども ムとん ひたい

8. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

中にあるアンジェリーニ氏とやっとつながりかけて来たこ アンジェリーニ氏の話の途中で、矢ロは一、二度「そん とを感じた。 な筈がない」と云いかけたが、アンジェリーニ氏はそれを 「こんな風な話し方をしていた。やつばり、元通りのあのちょっと止めるようにして、そのまま終いまで落着いた調 アンジェリーニ氏だ。多分、これでもう大丈夫なのだろ子を変えずに話した。 矢ロと豊子とは一度はびつくりして、全部聞き終った 時、笑った。アンジェリーニ氏も笑っている。 アンジェリーニ氏が自分の失敗を矢ロ夫婦に話すのに 両側に灌木の植込みと芝生のある自動車道路を、アンジ は、これだけの時間を置く必要があったのである。 エリーニ氏の車は走っていた。その道路はロング・アイラ 部屋にかかって来た電話が不機嫌なようにも、無愛想な ンドに向っているのだった。 ようにも聞えた訳が、この時になって初めて矢口に分っ 「私がさっきホテルへ着いた時」 た。今の話の通りの押問答のすぐ後では、ああいう声しか と、アンジェリーニ氏がそれまで話して来たいろんな話 出なかったに違いない。 題と同じ口調で話し出した。 「フロントで、「 311 の部屋にいるミスター矢口を呼ん矢ロたちがいるホテルの隣りに別のホテルがあることを でほしい』と云うと、「そんな名前の人はいない』と云っ矢ロは知っていたが、そちらは矢ロたちのホテルとは段違 はず いに立派なホテルであったから、まさかアンジェリーニ氏 た。「そんな筈はない。確かに 311 の部屋に間違いない」 私がそう云うと、フロントの男は『 311 の部屋にはミスが間違えて入るとは矢ロも思わなかった。 ところが、アンジェリーニ氏はホテル・ラサムという看 ター何とかという中国人がいる』と云う。「中国人ではな 日本人で、ミスターとミセス矢口が泊っている筈だ』板を先に見つけて、それを目標にして来たためにその手前 風私がもう一度そう云うと、相手は帳簿を出して、私に見せにある入口をラサムの入口だと思って入ったわけである。 た。すると相手の云う通りで、あなたの名前が書かれてい イなくて、他の人の名前がある。私は『そんな筈はない。私週末なので、車が重なり合うように走っていた。 「こんな風にたくさん車が走っていて、急にどの車も一斉 はちゃんと手紙を受け取って、ホテル・ラサムの 311 にスビードを落すことがある。そんな時は、先の方に巡査 % と : : : 』と云いかけると、フロントの男が云った。「失礼 のオー ト・ハイがいることがすぐに分る」 ですが、ホテル・ラサムはこの隣りですヒ かんばく しばふ

9. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

しまいだと云う思いが胸に来た。彼は、ゆっくり言葉を押彼はその言葉を口にしたとたん、既に取り返しのつかぬ 過誤を犯したことに気付いた。 し出すようにして云った。 この晩、沼は最後の列車には間に合わなかった。彼は西 「僕に云わせてくれ。涼子ちゃん、別れよう」 たかさご かえる あかし 明石から高砂まで四里の道を、蛙の声を聞きながら歩いて この時、涼子はワッと泣き出した。幼い子供のように、 声を放って泣いた。沼は、彼女が身体を震わせて泣くのを帰った。 見ていて、どんな力をもってしても、彼女を泣き止ませる 四 ことが出来ないように思われた。 やがて泣きじゃくりながら、きれぎれに涼子は云った。 翌日、沼は学校へ出かけて行った。劇研究会の部屋へ行 人よ。 : : : 御免なさいね。 ・ : あくと、涼子の姿が見えなかった。そこにいた部員に尋ねて 「沼さん、あなた、いい みると、彼女は隣りの部屋で寝ていると云った。 なた、やつばりいい人よ」 「どうしたんだ ? 」 沼は胸がつまって、一言も云えなかった。彼は駅の方へ 引き返そうとした。すると涼子は彼に追いすがるようにし「ウルシにまけて、眼が開けられないくらい腫れているそ うです。眼も具合悪いし頭も痛むいうて、朝からずっと寝 て歩き出した。二人は、上って来た時とそっくり同じよう てはりますー に、沈黙したまま坂道を降りて行った。 沼は、それを聞くと、すぐに部屋を飛び出して、研究室 駅へ来た時、沼は何も云わずに、すっと改札ロへ進んで へ走って行った。そこには、彼の親しくしていた教授 行った。この時、不意にうしろから涼子が呼んだ。彼は、 強いカで自分の身体が引き戻されるのを感じた。彼は一瞬が、宿泊りしているのである。彼が窓の下から名前を呼ぶ ためらった。しかし、クルリと踵を返すと、もう一度改札と、教授が顔を出した。 「先生、眼薬と頭痛の薬下さい」 口を出て、涼子の立っているところへ戻って来た。 「どうしたんだい ? 」 涼子は、思いつめた表情で立っていた。 まがら 「僕と違います。真柄がウルシに負けて、部屋で寝てるん 「お手紙、出してもいい この瞬間、沼はさっきからの張りつめた気持が俄かに崩です」 教授はニャッと笑って、中へ入った、間もなく眼薬と 折れるのを覚えた。 じようざい 頭痛の錠剤を窓から渡してくれた。 「待ってる」 ごめん ふる にわ おか すで

10. 現代日本の文学 44 小島信夫 庄野潤三集

えもんか すかときくと、明夫は興味なさそうにうなずいた。 一つの部屋には、母親の着物が衣紋掛けにぬぎすてたま 明夫のかいている絵は、むかし良一がその年頃のときにま二かさねも三かさねも吊してあった。鏡台は昔ふうの三 かいているものとはまったくちがっていた。人物とか風景面鏡で、この鏡は私が夏のある日、 ( 私ひとり留守居をし とか静物とかいうものではなくて、彼の頭の中にある世界ていたことがあるが、そしてそのとき、彼女の夫からの長 を絵にしているようなものであった。画面いつばいにいく距離電話がかかってきやしないかとびくびくしていたのだ つもドアのようなものがかかれているので、はたしてそう が ) 彼女の寝室に忍びこんで見たことのあるものだ。寝台 いうものをかいているのか、というと、そうだ、と答えはあのまま、あの部屋におきつばなしになっているのであ たくさん ちょうたんす た。沢山のドアの前に一人のリポンをつけた女の子が立つろう。三吊の簟笥の中には、昔彼女のきていた着物がある あおみ ている。ぜんたいに蒼味がかった色調で、ハンドルが眼にかもしれないと思った。たぶんその大部分は戦争後に売り つくようにかかれてあった。ハ、 ノドルは六つも横にならん食いしたのだろうが、それでも娘がいないのだから残って でいた。六つ眼小僧のような印象をあたえるのが作者のね いるかも分らない らいどころかと、私は考えた。しかし、それとそっくりの鏡台のすぐ横の簟笥には彼女のわかい頃の、私の見おぼ 絵を私は外国の画家の絵で見たことがあった。 えのある写真があり、明夫のアトリエ ( そこに彼女は寝て いたが ) には、別の、子供を抱いたやはり若い頃の写真が いっしょに住んでみると、料理は彼が自分で作ったり、 味付けをしたりする。自動車で駅ぎわまで出かけて、一そおいてあった。 ろい必要なものを仕入れてくる。彼は車があるからといっ私はそれらの部屋を歩いたが、さすが引出をあけてみる て、方々出かけて行くわけではなく、 ( その車のことでは気にはなれなかった。窓から前の家をのぞいたりした。、 太田氏は腹を立てていた ) 母親のアパート へ行って、母親つも私の庭の方へ出ていたのでこの家を表側から見たこと を必要なところへ連れ出したり、自分のアル・ハイトで、あはなかった。 流 るガラス工場へ出かけて数時間はたらいてもどってくる 二つの家の間には石だたみ一つあるわけでなく、前の家 女と、すぐコーヒ 1 をわかしたり、部屋の掃除をしたり、食へ行くには、いったん表の道へ出て、あらためて玄関から よびりん 事の準備をしたあと、アトリエにひっこもった。その顔つ呼鈴をならして入って行かねばならない き身体嫋は、私の記憶にある太田氏にそ 0 くりであ 0 た 浴室とトイレが二階の寝室の前にあるということで私を せいかん が、それでいて精悍なところは少しもなかった。 おどろかせていたそのあたりの外部が、戦後防腐剤をぬり