「村井さん。あんた、ほんに女と寝たあとのような顔をし殺した、殺した、殺した、殺した : : : 耳もとでだれかの とるが」 声がリズムをとりながら繰りかえしている。 ( 俺あ、なに 彼は仲間の眼を指さしてふしぎそうに言った。「眼が真もしない ) 勝呂はその声を懸命に消そうとする。 ( 俺あ、 赤になっとるが」 なにもしない ) だがこの説得も心の中で撥ねかえり、小さ ひとみ なるほど うす だが赤いのは指さされた将校の瞳だけではなかった。他な渦をまき、消えていった。 ( 成程、お前はなにもしなか の軍人たちの眼もまた、ギラギラと光り、みにくく充血しったとさ。おばはんが死ぬ時も、今度もなにもしなかっ ている。それは本当に情欲の営みを果したあとのあの血走た。だがお前はいつも、そこにいたのじゃ。そこにいてな あよら にもしなかったのじゃ ) 階段をおりる自分の靴音を聞きな った、脂と汗との浮いた顔だった。 がら彼は一一時間前、あの米兵がなにも知らず、ここをのぼ 「ほんに女と寝た顔じゃ」 ってきたのだなと思った。と、勝呂の眼にあの途方に暮れ 「頭が痛うてたまらんところまで同じだの」 「小森少尉の送別会は五時からじやろ。外の空気ば吸いにたような表情をした米国人捕虜の姿がはっきり浮かんだ。 それから突然、手術室で四肢を切断した血まみれの肉塊の いこう」 彼等は階段をガタガタいわせながら下におりていった。 上に白布をすばやく覆った大場看護婦長のことが甦って 将校たちが去ったあと、大場看護婦長がそっと手術室かきた。 はげ ら顔をだした。廊下にだれもいないことを確かめると、彼烈しい嘔気が彼の咽喉もとにこみあげてきた。窓に靠れ 女は上田看護婦と、白い布でなにかを覆った担架車を運びて彼は自分が医学部の学生の頃から血にまみれた肉や四肢 はず だした。遅れて出てきた勝呂は壁に靠れて彼女たちが腰をを見なれてきた筈だと言いきかせようとした。にもかかわ らず、あの血の色、あの肉の色は手術の時や死体解剖の時 まげて押していくその担架車の軋んだ音をじっと聞いてい とだ 薬た。その音は時々かすれたり、途絶えたりしながら鉛色にに眺め続けてきたものとはちがっていた。おそらく、この 光った長い、だれもいない廊下のむこうに消えていった。嘔気は肉塊や血の色ではなく、それをかくそうとした大場 海どこへ行 0 てよいのかわからない。何をしてよいのかも看護婦長のみにくい動きを思いだして起 0 たのだろうか。 わからない。手術室の中にはまだおやじも助教授も浅井助窓のむこう、暮れかかった空の中で配電所の電線がプル 手も、戸田も残っているけれども勝呂はそこへ戻ることはン、・フルンと鳴っている。その曇った寒い空を小鳥が二、 三羽横ぎり、消毒室の煙突から煙がゆっくりと昇ってい できなかった。 なが よみがえ
そう はもうすっかり健康になりますな」 液数も、そして病巣の位置さえ、手術にはベスト・コンデ 四月の選挙にたいする希望が湧いてきたのか、この所、 イションだったのである。今日まで手術の助手を一度し おやじはふたたび、あの自信に充ちた姿をとり戻しはじめか勤めたことのない勝呂には、このオペは自分がやっても た。真白な診察着のポケットに両手を入れ、ロに煙草をく成功すると思う。 おおまた おやじが聴診器をあててむっちりとした彼女の胸の鼓動 ゆらせながら、一同を従えて病棟の廊下を大股に歩いてい ねたま めいそう く。その少し前かがみの、いかにも瞑想的な姿勢は、田舎を聞いている時、勝呂はな・せかある妬しさを感じる。それ 者の勝呂にプロフェッサアという言葉のイメージをそのまはこの美しい人の夫にたいする妬しさなのか、自分には生 ま与えてくれるようだ。大場看護婦長と戸田の背後で兵隊来、得られそうもない幸福への妬しさなのか、それとも暗 あこが ふん 靴を引きずりながら勝呂はおやじにたいして昔のような憬い大部屋で横たわっている患者に代っての単純な義憤なの れと神秘的な尊敬をふたたび感じたのだった。 か、彼にはわからなかった。 「先生、この娘の手術、大丈夫でございましようか」 木曜日の夜がきた。オペの前夜に看護婦がアルコールで ぞり この頃は黒いモンべをはいた上品な母親がいつも田部夫患者の体を拭き、毛剃をするのである。勝呂は戸田と大場 人の病室につきそっている。べッドの上に上体だけ起し看護婦長と研究室に遅くまで残ってオペに必要な写真を揃 えり て、若い人妻は右手で寝巻の襟をつまみながら、頬に落ちえなおした。医学部から徒歩で十分ほどある下宿に帰ろう ほほえ として、もうすっかり闇になった外に出た時遠くから自動 た髪をかきあげて微笑む。 「何がですか、手術ならば麻酔で眠っていられる間にすみ車の走ってくる音がきこえた。 ますよ。もっとも一晩は多少は苦しいでしよう。それに咽車が横を通りすぎた時、暗い灯をつけた車の窓に権藤教 しんばう 喉が乾くかも知れませんがね。それも一「三日の辛抱で授が顔を当てているのをチラっと見た。その横に頤をぐっ と引いた小太りの将官が刀の柄に両手をおいて腰かけてい まゆ 毒 た。勝呂にはなぜかその時権藤教授の顔がいつになく汚 「危険ということは : : : 」少し眉をひきしめて母親が言う れ、暗い孤独な影にふちどられているような気がした。 海と、浅井助手が女性的な声をたてて笑った。 ( おやじは勝つだろうな ) 「橋本先生の御手腕も我々の努力もお母さまには、見くび 彼は自分には関係のないこれら教授たちの暗闘が明日は 行られましたねえ」 けれどもこれは本当たった。田部夫人の栄養も心臟も血一つの峠にかかるのだと考えて、いつにない興奮さえ感じ ほお やみ アシスタノト こどう
こうり べッドから逼いおりると、阿部ミツは床においた行李をとなっているかも知れない。そんな想像が・ほんやりと彼の ひ、だ ていねい 掻き廻して、丁寧に折りたたんだ日章旗をとりだした。雨心に浮んだ。喫めぬ煙草を戸田の抽出しから取ると、彼は し それに火をつけた。幾度も考えた末、必勝という平凡な文 だれのような染みがその安つばい白地にきいろくついてい 句を味気ない気持で書きつけた。 「大部屋の人には書いてもらいましたから、先生も息子さ んのために、なにか書いてつかあさい」 一方戸田の想像を裏書するように田部夫人の予備検査は 「ああー . はお、 0 、り その旗を手にとると、勝呂は尚史おばはんにオペの予定できるだけ正確に細心に行われていった。戸田はとも角、 浅井助手としてはこの手術の成否が第一外科における自分 日を打明けることができなくなった。 手術の日どりが発表されたのは罕朝である。来週の金曜の将来に関係するから懸命なのである。助手はこの一、二 しっとう 日の午前にまず田部夫人をおやじ自身が執刀する。それか年のうちに短期現役に服務している同僚が研究室に戻るこ アス・フロ ら一週間たっと、おばはんのオペが柴田助教授の手で行わとを懼れていた。その前におやじの自分にたいする個人的 れることになったのだ。そのいずれにも勝呂は戸田と一緒な信頼感を強めておかねばならぬ。彼が狙っている講師の ちょうあい アシスタント ロは主任教授の寵愛によって左右されるのだ。 に手術助手としてたち合うことを命ぜられていた。 アス・フロ ただ柴田助教授は , ーーこれも戸田の解釈なのだがーーお オペの日どりがきまればその日から患者は動揺する。メ ろっこっ スの痛さ、肋骨を折る鈍い音などをあれこれ想像するだろやじの出世を妬んでいるらしかった。彼はおやじによって かした う。そうした苦痛な一週間を彼は他の患者なら兎も角、ほ育てられたのではなく、その前の第一外科部長、桓下教授 とんど死ぬ可能性のあるこの女には告げる勇気もなくなつの弟子だったからである。 主任教授の回診は週に一一度ときまっていたのだが、手術 てくる。 寒々とした研究室に戻ると彼は試験管やビンセットを押前のこの一週間、おやじはほとんど毎日、田部夫人を診察 しやって、机の上に阿部ミツの託した日章旗をひろげた。 勝呂にはそこに何を書いてよいのかわからない。安手の生「秋には退院ですよ」浅井助手の手渡す胸部断層写真を窓 うなす 地の上に大部屋の者たちの文字が幾つか並んでいた。このの方にむけて眺めながら彼はこの患者に肯いてみせる。 ライへ 旗が義清とよぶ息子の手もとに渡る時はおばはんは、死体「あとは半年、田舎で寝ていられればいい。来年の正月に おそ の
「血圧が : : : 」突然、若い看護婦がうろたえた声をあげ てそれが受皿に落ちる乾いた響きは静かな手術室の中でい つまでも続いた。おやじの額に汗が更にながれはじめ、看た。「血圧が下ってきました」 「酸素吸入器を : : : 」と浅井助手がヒステリックに叫ん 護婦長が幾度も背伸びをしてそれを拭う。 だ。「早くするんだ」 「輸血は ? 」 「汗が眼にーー汗が眼にはいる」とおやじはよろめいた。 「異常ありません」 看護婦長が震える手でその額にガ 1 ゼを当てた。 「脈は ? 血圧は ? 」 「ガーゼを早く」 「大丈夫です」 血をガーゼで拭きとり、塞いだが、出血はとまらない。 「第一肋骨にかかる」とおやじは呟いた。 おやじの手の動きが早くなった。 成形手術のうちで最も危険な箇所にきたのである。 : ガーゼ : 。血圧は ? 」 「ガーゼ、 「下っています」 ゆが その時、苦痛に歪んだ顔でおやじはこちらをむいた。そ 田部夫人の血液が突然、黒ずんだのに勝呂は気がつい れは泣きだそうとする子供の顔に似ていた。 た。瞬間、なにか不吉な予感が胸にこみ上げてきた。だが おやじは黙々と僧帽筋を切 0 ている。血圧を調べている看「血圧」 「駄目です」と浅井助手が答えた。既に彼はマスクをかな 護婦も何も言わない。浅井助手も無言である。 せつじよせん ぐり捨てていた。 「切除剪」 おやじは叫んだがその時、彼の体が少し震えたような気 、刀十′ 「死にました : ・ : ・」 「イルリガートルは大丈夫か ? 」 彼は気がついたのである。血が黒ずみ始めたことは患者脈を計っていた看護婦長が力なく呟いた。 彼女が手を離すと、柘榴のように切り裂かれた死体の血 の状態がおかしくなって来た証拠なのだ。出血が多量なの だろうか。勝呂はおやじの顔が汗で蝋をぬたくったようにまみれの腕が、だらあんと手術台の縁にあたった。おやじ ぼうぜん は茫然としたように立っていた。だれも口をだす者はいな 光っているのを見た。 かった。無影燈の光を反射させながら床を流れる水だけが 「異常は ? 」 つぶや ぎくろ ふさ すで ライへ
彼等は役人に自分たちに与えられる「結構な食事ーのせうー めて半分でもさいて子供たちに与えてほしいと願ったが許男たちがそれでも改宗しないのがわかると、拷問がはじ されなかった。しかしもし邪宗さえ捨てればお前たちも子まった。九人は一人、一人にわけられそれそれ小さな箱に なっか 供もまるまると肥って懐しい故郷に帰れるだろうと言われ入れられた。坐ったまま身うごきの出来ぬ箱である。息を かわや こ 0 するために顔のあたる部分だけがくりぬかれていた。厠に 「はい、おしまい」 行く以外はこの箱から出ることは許されない 注射針をぬかれて、私が針のあとをさすっている間、看冬が次第に近づいてくる。寒さと疲労とで囚人たちの体 護婦は血を入れた試験管を目の高さまであげて光にすかしは弱りはじめる。そのかわりに隣接した子供の牢舎では笑 さすが て、 い声がきこえはじめた。役人たちも流石に人の親だったか 「黒いわねえ。あんたの血」 ら、子供たちに食事を与えたのである。その笑い声を九人 「黒いのはいけないのかい」 の男たちは箱の中でそれそれだまって聞いていた。 「いけなくはないわ。ただ、黒いと、言ってるだけ」 十一月の末に久米吉という囚人が死んだ。久米吉は九人 看護婦と入れちがいに、今度は白衣を着た見知らぬ若いのなかで一番の年寄りだったから寒さと疲労に耐えられな 医者がやってきた。私が寝台から起きあがろうとすると、 かったのである。嘉七は久米吉を敬愛していたし、牢生活 「いやいや、その儘で。麻酔科の奥山です」 の間なにかあれば久米吉の意見をまず聞いていたから、こ 明日の手術には麻酔専門の医者がたちあう。それが自分の死は彼自身にもひどくこたえた。くりぬかれた箱の穴か ら顔をだし、嘉七は弱くなった自分の心を思った。そして だと言った。形式的に聴診器をあてて、 自分たちを裏切った藤五郎のことを初めて憎んだ。 「この前の手術の時、麻酔は早くさめましたか」 この前は骨を五本切った。手術が終ると同時に薬がきれまた扉がそっと開く。神父か。そうじゃない。またして はさみ もさっきの登山帽にジャン・ハ 1 の男である。 て胸の中に鋏をつきさされたような痛みを感じたのを懶え 「大将 . ている。私はそれを話し、 「なんだ。あんたか」 「今度はせめて半日は眠らせて下さい。あれはとても痛か 「実はね。魔よけに、これを」 った」 「そう努力」若い医者はニャッと笑った。「いたしましょ 「買わないと言ったじゃないか」
めがね 「三十分ほど前に拘禁所は出たと報告がありましたから、 その時浅井助手が眼鏡を光らせながらゆっくりと廊下の おつつけ到着しますでしよう」 むこうから歩いてきた。彼は将校の群にむかって例の微笑 をつくりながら、 チョポ髭をはやした将校が腕時計を見て答えた。 ぜひ 「今日は貴重な写真、是非ともとろうと思うてな」軍医は「捕虜はただ今、到着しましたよ」と女性的な声で言っ 4 つよら・カ つばは 床に唾を吐き、長靴でそれを踏み消した。 「おい、柴田はどうした。柴田は」 「腕には自信がおありですかな。いい写真機ですなあ」 「やがて来られます。まあ、せかないで下さい」 チ日ポ髭をはやしたその将校がこびるようにたずねた。 「まあ機械だけは独逸製じやから : : : それより今日の小森 中尉の送別会はこの病院の食堂で開くことになったのか もた おび な」 そして彼は廊下の壁に怯えたように靠れていた戸田と勝 ちょっと 「解剖が五時には終ると思いますから、五時半から始める呂とを両手で招いた。「一寸、君たち」 ことにいたしました」 手術室に一一人をよび寄せると助手は部屋の戸をしめた。 「料理は用意してあるのか」 「困るよ。全くねえ。あんなに将校の連中が来られたんじ しきぎも 「いざとなれば本日の捕虜の生胆でも食べて頂きます」 ゃ。病棟の患者たちに気づかれるしな。第一、捕虜が警戒 勝呂や戸田には眼もくれずこれら将校たちは声をたててしちゃうじゃないか。こちらは大分の収容所に送るための 笑った。手術室の戸はあいていたが、まだおやじも柴田助体格検査をするからって、連れてきてるんだよ」彼はそ う、不平を小声で洩らすと戸棚をあけてエ 1 テル麻酔薬を 教授も浅井助手も姿をみせていない しり 「中支ではな : : : 」小太りの軍医が尻をかきながら、話しとり出した。 「君たちは麻酔をやってもらいたいんだ。いいかね。今日 薬はじめた。 「実際チャンコロを解剖してその胆を試食した連中がいたの捕虜は一一名だがその一人は肩に負傷しているんだ。こい AJ あや つは麻酔をかける時治療のためだと言えば怪しまないだろ 海らしい」 「案外いけるそうですよ。あれは」とチョポ髭の将校がしうが、もう一人の奴が騒ぎだすと困るんだよ。だから最 たり顔で言った。 初、奴等がきたら僕が軽い診察のマネをするからね。最後 「じゃ、今日の会食で一つ、やるか」 に心臓を調べるといって手術台に寝かせてくれないか」 とだな おおいた
かす 微かなかるい音をたてている。 「患者の体は病室に運ぶ。家族には手術の経過を一切、言 「先生 . 浅井助手が呟いた。「先生」 わぬこと」 おやじは相手をみあげたが、その顔はうつろだった。 浅井助手はかすれた声でそう言うと、一同を見まわし 「後始末をつけなければ」 た。その一同は怯えたように背を壁にむけてたっていた。 「後始末 ? : : : そうか : : : 本当にそうだったな」 「病室に帰ると、すぐリンゲルをうつ。その他、術後の手 「どうします。兎も角、縫合わせはやっておきましょ当はみんなする。患者は死んではいない。明朝、死ぬこと になるんだ」 う」 田部夫人の顔は凹んだ眼をクワッと見開き、白痴のよう その声は、既に研究室の浅井助手がいつも響かせる、あ に開いた大きな口の中に赤い舌をのぞかせながら、こちらの甘い高い声ではなかった。汗にぬれた彼の鼻に縁なしの めがね を凝視めていた。死体が眼を大きく開いているのは手術眼鏡がずり落ちていた。 中、苦しんだ証拠である。その腹部にも手にも顔にも・ヘっ 運搬車に死体を乗せて白布をかぶせると、若い看護婦が とり血がとび散っている。 よろめきながら車を押した。彼女には押す力もなくなった ひざ 勝呂は、膝の力が全く抜けてしまったように床にしやが ようだった。 そうはく みこんだ。頭の奥で何か硝子に・フリキの鑵をぶつけたよう 廊下で田部夫人の母親や姉らしい人が蒼白な顔をして駈 な音がたえず聞えてくる。彼は嘔気を感じ、手でしきりに けよってきた。 眼をこすり、額の汗を拭った。 「手術は無事に終りましたよ」浅井助手はっとめて平静を ふとん よそお 浅井助手がおやじに代って布団のように切り裂いた死体装おうとして苦しそうに微笑したが、声はかすれていた。 さえぎ を縫った。その体を看護婦長がアルコールでふきはじめ大場看護婦長が家族たちの体を運搬車からできるだけ遮ろ うと , 甲には、つこ。 ほうたい 毒 「しかし、今晩が山ですね。油断は禁物ですから明後日ま 「繃帯で包むんだ」浅井助手が高い声をあげた。 で面会は禁止です」 海「全身を繃帯で包むんだ」 おやじは様子に腰をおろして床の一点を・ほんやり見詰め「あたしたちもですか ? 」と姉らしい人がとがめるように ていた。部屋の物音も助手の声も耳にはいらぬようだっ叫んだ。 「お気の毒ですけれどねえ。今日は看護婦長もぼくも徹夜 ガラス かん おび てつや
ろう。しかし、われながら自分のしたことに、まったく合どき股の間がズキンと痛むようだ。病気になったのかもし 点が行かない気がする : : : 。考えてみると、すべては義務れない、と思う。結局昨夜の女とは何もなかったのだか 感から発したもののようだ。つまり、自分は友人に対するら、そんなことあるはずもないのだが、気にしはじめると 義務から昨夜、街に出た。そして女に対するサーヴィスと一歩あるくたびに気になる。順太郎はいわゆる「皮かむ 後藤に対する信義との二つの義務の中間にはさまって、あり」というやつだ。はじめて「遊び」に行ったとき怪我を んなことをした。いまは母親に対する義務で試験所へ行した。高木に相談したら、そいつは手術を受けておかない おど き、試験官に対する義務で答案に向かい、それからふたた と危い、と脅かされた。これからも遊びに行ったとぎ、病 び友人に対する義務でそれを中途で放棄して試験場を出て気になりやすいということだ。しかし、この病気にかかる *TJ こ 0 と兵隊にとられないという説もある。本当だろうか ? 反 細かい雨のふる中を、順太郎はぼんやり、そんなことを対に、「病気」があると必ずとられて、なかへ入るとウン 考えながら歩いた。濠をへだてて石垣の上に、鉄砲をもっといじめられるという話もあるからだ。どっちにしても、 た兵隊がさっきから同じところを歩いている。黒い松の木「その手術とは、どういうことをするんだい ? 」と訊く この 立ちの間に消えたかとおもうと、また出てくる。あれは近と、 衛の歩兵だ。どこかの村からえらばれて、名誉なことだと「わざわざ医者まで行かなくとも、何回も遊んでいるうち 村じゅうの人に見送られてきたにちがいない。日の丸の旗に、ひとりでになおるさ」と高木はこたえた。それなら結 の波と、軍歌をかなでるラッパのひびき : このままだ局、何も教えてくれないのと同じだ。ところで、この「皮 と、一年しないうちに、・ほくにもそういう日がやってくかむり」というやつは、・ほくのように母親がっきっきりで る。しかしそれが何だか本当のこととはおもえない。石垣育てた「お母さん子」に多いそうだ。とすると、男が母親 ずの上に立っている兵隊と、濠をへだてたアスファルト道路から独立するためには、やつばり「手術」をうけなくては しつまでもそれだけの距離ならないのだろうか ? しかしカフェーや特殊喫茶がなら あを歩いている・ほくとの間には、、 んだ裏のとおりに、赤い電灯をつけてひっそり扉を閉めた もがあいているような気がする : ゅううつ いっか学校の塀はなくなった。きのうから一睡もしてい医院のまえを、とおるだけでも憂鬱だ。 歩いているうちに、宮城前まできた。去年から、ここを ないので教室ではひどく眠かったのに、外に出るとねむい 感じはちっともしない。空気が冷たいせいだろうか。とき通るときにはお辞儀させられる。後藤と山田は、そんなツ また とびら
ためらいがあった。 は俺と康子だけで終る行為だ。ただそのために一つの波紋 「本当ですよ」 が二つになり、二つの波紋が三つになり、みんなが互いに 誤魔化しあい : : : 」 箱根の山は天下の嶮 かんこくかん 九官鳥は首をかしげて黙って彼の言葉に耳を傾けた。告 函谷関もものならず・ : 俺は死にたくない。死にたくないよ。三度目の大手術が悔室の中で司祭が無言で横顔をこちらにむけて坐っている つら どんなに辛くてもまだ死にたくない。俺には人生にそして姿とそっくりだった。 だが鳥は下の止り木から上の止り木にびよいと飛びあが 人間にどんな意味があるのかわかっていない。ぐうたら で、怠けもので自分を誤魔化している。しかし人間が別のると、腰をふるわせて丸い糞をおとした。 人間の横を通りすぎる時、それはただ通りすぎるだけでは夜がきた。廊下を足音をたてながら当直医師と看護婦が のぞ なく必ずある痕跡を残していくことだけはわかってきた。各病室を覗いて歩く音が遠くから聞える。 もし俺がその横を通りすぎなかったらその人たちは別の人「変りないですね」 「はい、ありません」 生を送れたかもしれぬ。それはたとえば妻の人生であり、 彼等の手にした懐中電燈が灯を消した病室の壁に動い 康子の人生なのだ。 た。風呂敷をかぶせた鳥籠の中で九官鳥がみじろぐかすか 「生きたいよ。俺は : : : 」 医師がいなくなったあと、能勢はペランダから病室に入な音がする。 きら とりかご 最初 れた九官鳥にむかって小声で言った。鳥籠にしいた新聞紙一つの波紋が一一重になり、更に三重になっていく。 えさ だんご に石を投じ、最初の波紋をつくったのは自分である。そし は白い糞でよごれ、食べのこした団子の餌がころがってい かな る。九官鳥は黒い体をまるめるようにしてあの哀しそうなてその自分が今度の手術でもし死ねば波紋は更に次から次 くらまし 男眼でじっと彼のほうを見つめていた。カキ色のとがったへと拡がっていくだろう。人間の行為はそれ自身で完結す まわ 歳は外人司祭の鼻のようだった。顔もあの日、酒くさい息をるということはない。俺はみんなの周りに、誤魔化しをつ 四自分に吐きつけた司祭の表情によく似ていた。そして自分く 0 た。病院で誰かの死を誤魔化す以上に、三人の人間の と彼との間にはこの鳥籠のような金網もあった。 あいだに生涯、消すことのできぬ誤魔化しをつくっていっ 「康子とああなったのは仕方なかった。ね、あの産院に行た。 っ 0 ったことも仕方なかった。そんなことは罪じゃない。あれ ( あと三日すれば、手術か。もし助かれば今年の正月も ムん こんせき ごまか
なが 人の男がタ顔のように白く近よってくるのを・ほんやりと眺 いる、三列の・ヘッドから一斉に患者たちの視線をうけた ひる めていた。おやじだった。 時、勝呂の足は怯んだ。眼を伏せながら彼は真直ぐに・ヘッ 戸田がそこにかくれているとは気がっかず、おやじは手ドとペッ・ トの間を通り抜けた。 ( 俺はもう、この患者たち 術室の前にたちどまり、診察着に両手を入れたまま、背をを見ることはできん ) と彼は心の中で呻いた。 ( この人た 曲げて、じっと手術室の扉とむき合っていた。その顔ははちは、なにも知らんのだ ) つきり見えなかったが、落した肩や曲げた背やタ闇に光る発熱した患者は阿部ミツの真向い、一カ月前、おばはん 銀髪は、ひどく老いこみ、窶れているように思われた。なが寝ていた場所にいる老人だった。勝呂を見ると彼は歯の 、刀し日炉 / 、彼ま扉をじっと凝視していたが、やがてふたたびほとんど抜けた紫色の歯ぐきをみせ、顔を歪めてしきりに 靴音をコツ、コッといわせながら階段の方に去っていっ何かを訴えようとした。 たんのど こ 0 「痰が咽喉にからむと言うとりますとですが」横あいから ミツが声をかけた。「あんたもう大丈夫たい。先生にみん な、まかせときなさいよ」 「先生、大部屋に一寸、行って下さい。今朝から熱をだし勝呂は老人の差し伸べた腕をそっと握った。それは彼の 親指と人差指とにすっぽりとはいるほど痩せていた。白い た患者がいるとですと」背後から看護婦が声をかけた。 しわ うなす 「うん」勝呂は顔をそむけて低い声で肯いた。 染みがっき、カサカサに皺のよったその皮膚の感触は彼に 「今日も浅井先生も戸田先生も皆な見えんとですが、手術おばはんの腕のことをふと思いださせる。「先生、助けて でしたか」 やってつかあさいよ。助けてやってつかあさいよ」阿部ミ 「手術じゃない」 ツの呟く声を勝呂は眼をしばたたきながら聞いていた。 ごう 「でも看護婦長もおられませんです。あたしたち、急に壕 掘りに出されたとですが、どうしたとですか」 勝呂はチラッとその若い看護婦の表情をぬすみ見たが、 大場看護婦長と上田ノブ看護婦とを乗せて昇降機は軋ん 彼女は無邪気な顔をして彼の返事を待っていた。 だ音をたててゆっくりと暗い地下室に降りていった。 「大部屋に行く。俺の聴診器、持ってきてくれ」 「この昇降機たら、嫌な音がするわね。油がきれとるとで だが大部屋の戸口にたち、暗い翳の中にほの白く浮んでしようか」 ちょっと やっ つぶや