しようじよう かわぐっ、し サイド・カーをおり中尉は皮靴を軋ませながら、蕭条服の胸もとから裂け落ちた皮膚のように垂れ下っている。 よろいど あご たる風のなかを無言で先にたって歩いた。鎧戸をしめた窓頬から顎にかけてジャックの顔は赤黒く光っていた。眼 窓は、儀牲者たちの叫びを外に洩らさぬため、固くとじら鏡を奪われた上に、急に明るみから翳のなかに突きだされ ひびわ れている。背後で冬枯れた林の樹々が寒気に、皹割れる乾たためか、彼は真正面にいる私を見わけることが出来な いた鋭い音を聴いた : 。その眼には何の感情もなかった。 くりや てつかぶと 力しとろ・ わす 何時ものように厨の戸口には鉄兜をかぶり、厚い外套の ただ三年前と同じように頭ははげ上り、赤毛が僅かにそ けんじゅう 上に帯皮で拳銃を肩からつるした兵士が待っていた。厨のこに残っていなかったら、私は彼を見まちがえたかもしれ なかを咳きこみながらアレクサンドルが歩きまわり、ジャぬ。彼は床にしやがみこんでうつむいていた。 もた すみ タ風がまだ吹きつづいている。先程までながしの硝子窓 ックは隅の壁に靠れていた。 ほとん から僅かに洩れていた、淡い陽はもう殆ど息たえている。 「やったかね」 私は暗紫色の翳にすわって、地面に横たわっているジャッ と中尉がきいた。 クを見ていた。しずかだった。中尉、アレクサンドル、キ アレクサンドルは肩をすぼめた。 おもや ガラス 風が厨の窓硝子をカタコトならしている。私は目をつぶャ ' ハンヌは一息入れに、母屋の何処かに珈琲を飲みにいっ り、灰色に渡ってゆく風の姿を思いうかべる。私には、もていた。「一晩中かかるな、これは」戸口を出しなにアレ また う何千年もの間、亦、何千年もの後も、風はこのように吹クサンドルはそう言った。 うめ き渡り、窓硝子にカタコトと鳴りつづけるように思う。そ拷問中ジャックは殆ど呻かなかった。私は最初、キャ・ハ して、この厨だっていつの日か灰塵に帰す日はあっても、 ンヌが、次にアレクサンドルが撲りつけるのを見ながら、 私がジャックを拷問する姿勢は風のように残る。中尉、アジャックは恐らく耐えるだろうナと思った。彼の肉体に、 くい込むかたい、鈍い響きを聞きながら、その肉体がどこ 人レクサンドル、キャ・ハンヌは死んでも、次の奴等が亦生れ てくる。ジャックは、この不変の人間姿勢がいっかはなくまで耐えるかを待った。ふしぎに私は一方ではジャックが 白なると信じている。しかし私は信じない。私はかかる人間絶叫するのを待ちながら他方では、耐えろ、耐えろと念じ しわが を変えられぬものと思うし、その人間を軽べっしている。 ていた。だがもし彼が拷問に屈し中尉の嗄れた低い声が甘 くやさしく問し 、つめるままに、リョン第六区の他の連絡員 厨の戸が軋み、私はタ翳のなかで、そこだけタ顔のよう はず に浮かび上っている布片を見た。白い布片は彼の黒い修道の名を言ったならば、私は勝っ筈だ。人間はやはり信じら かいじん ほお なぐ
もう一人の男、アンドレ・キャ・ ( ンヌは私の顔をただ白ら、負傷したマキだったんでね。薬と食物を持って、その 痴のようにながいこと凝視するだけだ 0 た。すぎ通るほどまま出て行きましたよ」 白い顔である。差し伸べた私の手を受けとろうともせず、 「そうかね。手数をかけるね」 血管でにごった眼で私をながめた。 中尉は、最後の言葉まで大儀そうに言う。アレクサンド しわが うわぎ 「どうして、挨拶しないんだ」アレクサンドルは嗄れた声ルはゆっくり上衣をぬぐ。容疑者は、まだ拷問されるとい で、く、くと笑った。「あんたら、仏蘭西人じゃないか」うことが信じられない。彼は中尉のねむそうな顔を不安げ からぜ、 つば す 空咳をして彼は床に唾をはいた。しかし、アンドレ・キャ にうかがう。ホースの一撃で椅子からころげ落ちた肉体か もた すみ ハンヌは、ふたたび、部屋の隅に戻り、壁に靠れたまま動ら、鈍い、しかしずっしりと重量のある打音が規則正しく 、よ、つこ 0 響く。しばらくの間は、黙って耐える容疑者たちもいるも のだ。最初の呻きが洩れると、それは、丁度、酔っぱらいの じんもん くりや 厨では訊問や拷問が行われた。 鼻のように加速度に悲鳴をたかく上げていく。。ヒシッ、・ヒ しようこう そのうち厨の隣にある小窖からひきずり出された容疑者シッとなる乾いた間隔的なリズムにあわせて、高くだんだ おお いもむし が戸口にあらわれた瞬間から、私にはこの男が、拷問に耐ん高く彼は叫ぶ。顔を腕で覆う。顔を覆ったまま芋虫のよ えうるか、否かがわかるようになった。マキの一味をかく うに床をころげまわる。アレクサンドルの顔も汗まみれに まった農民、抗独連動者の連絡書を受け継いでやっていた なり、その眼は痺れるような快感でギラギラ光りはじめ 若い銀行員、反独宣伝文を秘密に刷った印刷屋など、彼等る。撲たれる者の声さえ、その時は、撲たれることにある よろこ ほろ′ - J ′ は叫んだり失神したりする。歯をくいしばった時、苦痛に情欲的な悦びを感じているみたいだ。呻きがドス黒い咆哮 うめ なぐ たまりかねて呻く容疑者の顔は美しいこともある。 に変るとき、息づかい荒くアレクサンドルは撲る。「ハッ、 ていねい たいぎ だが私はただ、丁寧に大儀そうに訊問する中尉の言葉を ハ」と彼は叫ぶ。叫びながら時々くろい痰を吐く。 仏蘭西語で相手にきかせる機械にすぎない。 薄暗い厨の隅で、中尉はそれを、・ほんやり凝視めている。 くちびる 「かくまったマキの名をいえよ」 「これじゃあ、俺も、もうすぐ死ぬなあ」痰で唇を汚しな うわごと つぶや 「知らねえな。薬と食料をくれてやっただけですしね」 がら肺病の拷問者は譫言のように呟く。 「じゃ、な・せ、そのマキは、君の家を選んだんだね」 やがてアレクサンドル自身はロをきくことも出来ず、腕 「十二日の夜、だれかが戸口を叩いたんだ。妹が出てみたをやすめると、肉欲の悦びが突然引き退いた時のように、 あいさっ フランス おれ しび たん
くうどう けれども、また私は、彼等と交際しているうちに、拷問 その眼は黒く空洞のように凹むのだ。 それからアンドレ・キャ・ハンヌがたち上る。彼はながし者というものは、一般に考えられているような単純な野蛮 はんごう から水を入れた飯盒をとって、それをうつ伏している男の者、暴力者ではないとはっきりわかった。 たそがれ やし、す 顔にかける。 ある黄昏、私は、中尉が松の実町の邸に棄てられてある 拷問者の性格によって、被拷問者の呻き、悲鳴、絶叫の。ヒアノを奏いているのを見たことがある。先ほどの拷問の 声音が違うのを、私ははじめて知った。アレクサンドルが時に、腐魚のように濁ってみえた彼の眼は、その時イキイ ゅうひ 撲る時、そこにはたんなる拷問だけではない、なにかいまキと赫いていた。タ陽がその額と銀髪とを薔薇色にさえ、 わしい情欲の遊戯が感ぜられる。撲っこと、一人の人間のそめていた。 肉体を、責めることに肺病やみは、快感と陶酔とを感じて「音楽をお好きですか」と私はたずねた。「俺か」と突然、 いる。容疑者にも、その情欲が伝わるのか、呻きや悲鳴の彼は顔をゆがめて答えた。「モッアルトが好きだなあ。俺 なかにもなにか、痺れるような刺激があった。 は召集されぬ時、毎夜、妻と子供と合奏したものだ、モッ けれどもアンドレ・キャ・ハンヌの場合はそのような陶酔アルトは素晴らしい」 は感ぜられない。ホースを振りおろすたびに、にぶい、か たい音が、相手の肉体から響くだけである。アレクサンド 松の実町で訊問のない日、私は中尉の事務室でタイプを ひたいくり ルのように、わめきも、罵りもせず、額に栗色の髪をおと卩 ロきカードを整理した。 し、蒼い顔をうつむけたまま、事を運ぶこの男に、私はな中尉はまだ、私を信用しきっていなかった。彼の事務室 ぜか、興味を覚えた。アレクサンドルと違い、キャ・ハンヌ から勝手に出あるくことは禁じられていた。けれども、私 が陶酔しないためだろうか。仏蘭西人に生まれながらも、 は、まわされてくるカードを分類し、コッピイしながら、 ドイツ 人仏蘭西を裏切り、といって、独逸人にもなりえないノケ者秘密警察の能力がかくも精密をきわめているのを知って鼻 えぐ の影が、その蒼白なやせた顔を削りとっていた。拷問のにをならしたものだ。カードはたんに占領軍に物資を納入す しばしば 白ぶい音をききながら、私は屡々、キャ・ ( ンヌが相手だけでる仏商人、リョンに転入する難民たちの経歴調査にすぎな なく、自分を撲っているのだなと考えた。他人からだけでかったが、それは履歴、人相、特徴だけではなく、行きっ のろ はない。自分でも自分を呪わねばならぬ運命が、たしかにけの料理屋、交際する友人の名、親類の職業等に至るま めかけ で、時には情婦や妾についても洩れなく調・ヘあげられてい この男を歪めていた。 あお ゆが ののし かがや
せき ふりむくと、戸口に中尉、アレクサンドル、キャ・ハンヌ 私は耳をそばだてたが、隣の厨から、咳ひとつ、きこえ ・、こっていた。 ない。奴は気絶したのか。もし、今度、ロを割らねば、ア 「中尉 ! 」と私はホースを投げだして叫んだ。「この男に レクサンドルは私に合図することになっている。そして私 口を割らしてみましようか」 はその時 : ・ 彼は私を疑わしげに眺めた。 夜がきた。灯をつけた。一匹の蠅が部屋の中をとびまわ マリー・テレーズという女学生がいます。その女を責めっている。この部屋には前の持主の趣味らしい・ ( ロック風 るのです。この男の前で」この夜私はユダをまた利用しのシャンデリアがぶらさがっていた。光がマットだけのペ てあか ドや、手垢でふちのよごれた椅子の長い影を床に落し た。壁には、十八世紀の服装をした男女たちの遊ぶ、ふる Ⅸ いリョンの風景画が、い くつか、かけられてある。ナチた 私がべッドの端に腰かけている間、マリー・テレーズちは、この部屋をそのままにしておいた。三年前、ここは 客用の部屋か、あるいは娘たちの寝室だったのだろう。 は、追い迫られた獣のようにあとすざりをしていく。 かたすみ マリー・テレーズは片隅で肩を震わせてしやくりあげて その指はドアのノ・フをまさぐりながら、カチッ、カチッ と、奇妙に、かたい音を響かせた。 / プはむなしく回った 「本当になんとか、ならないものかなあ。本当に困っちゃ だけである。 ほお ったな。あんた。帰りたいだろ。ジャックさえ、チャンと 彼女はン・ハカスだらけの頬をクシャクシャにして泣きは じめた。まるで六つか、七つのいたいけない幼女の泣き声話してくれれば、あんたも彼も無事ですむんだがな」そん な風にひとりごちながら私は時間をつないだ。彼女の泣声 にそっくりである。 とだ 人黒いケープが、彼女の体から天でも崩れるように、地面と部屋をとびまわる蠅の羽音がいつまでも長くつづき途絶 に落ちた。私には、そのビロウドのケープに見覚えがあえない。 一一年前、あの舞踏会の夜、私が計算し、演出した戯曲 白る。二年前、あの舞踏会の夜、彼女は、この黒色のケープ せつり おおづめ は、大詰に近づいている。摂理という言葉がある。人間の に身を包みながら、ジャックの代りに私を選んだのだ。だ キリスト 菊が、今夜、彼女は、生きのびるためにはふたたび、ジャッ 不測の運命にたいする基督教の考え方だ。なるほど、私 が、ナチの拷問者の一味に加わり、その拷問の場所にジャ クを裏切らねばならぬ。 くりや はえ
私は唾を飲んだ。あの藤の花のちるクロワ・ルッスの坂は、虫のようにマリー・テレーズの腰の上を這いまわっ 路で、老犬をくみしいたイボンヌの腿もこんなに白くはな うめ ためいき かった。のぞきみえた、彼女の腿の一部分は朝がたに口を隣室から、溜息とも呻き声ともっかぬ声が洩れた。泣き つけたばかりの乳のように純白であり、恥ずかしげだっ声だった。一時間に渡るさきほどの拷問にも、声一つ洩ら さなかった奴が、今、泣きはじめた。あの男、泣いている 自分のあらい息づかいを聞いた。私がそそのかされたのな。あの男が、ジャックが、他の人間たちと同じように、 ほとん は、たんに情欲だけではない。ただ私には、このソ・ハカス遂に肉体の苦痛に負けた時、殆ど子供にも似た声で悲鳴を だらけの娘がこのような純白さを肉体にせよ、持っているあげているなと私は・ほんやり思った。 ねた リズミカルな硬い音が、泣き声のあいだに、正確に加わ ことに烈しい妬みを感じた。それはたしかに私が生れてか ZJ と ら持たなかったもの、神から奪われたものだった。羽を拡ると悲鳴はそのたび毎に高くはずんでいった。それは落下 ′」ろ′もわ・ げた蝙蝠のような私の影が暖炉から戸口にちかづいた。そ速度を増す雪なだれににていた。ジャックは崩れていく、 くりや 崩れていく。 の時、厨から、響きがした。 からぜ、 そいつは肺病やみのアレクサンドルの空咳だった。から女はもう私をふせごうとはしない。彼女の眼はひきつつ いんこう たんは んだ痰を吐きだすため、彼は、引きしぼるような咽喉音をたように見開かれている。その膝がしらだけがはげしくふ たてた。 るえた。 ケルテュチュ 女の耳もとで、私はなにかを囁いた。なんでもない、叫 「しぶといなあ、神父さん」 うわごと それから、隣室の私たちには、ききとれぬヒソヒソとしぶな、と言ったのかも知れない。覚えていない。譫言のよ ささや うに、囁きつづけた。女の方は魂の抜けた人形のように私 た囁きがつづいた。私はマリー・テレーズの肩に手をおい 人たまま、ジッとしていた。蠅はまた窓硝子にぶつかり、乾の顔を凝視していた。私の声を聞いているのか、どうか も、わからなかった。 いた腹だたしげな音をたてはじめた。 白「君が叫べば」と私はひくい声で言った。「ジャックは裏覚えているのは、その時、彼女が、カの抜けた病人のよ 切るぜ。裏切らせたくないなら」私の手は、彼女の、ひきうにたちあがったことだ。 しまった膝の肉にふれた。 「ゆるしてくれよう。ゆるしてくれよう」厨からジャック まだ、アレクサンドルがなにか呟いていた。こちらの指が子供のようにすすり泣く声がきこえた。「ゆるしてくれ つぶや こ 0 ささや
に荒れはじめた。 「死んでます、これは」 はんごう ・ハタ・ハタと走る音、飯盒に水を注ぐ、するどい響きにま ( 意味がない。意味がないよ ) と私は呟いた。 ( お前は自 のが じって、 殺によって俺から脱れたつもりなんだろ。同志を裏切るべ か 「舌を噛みきりやがったんだ」 き運命やマリー・テレーズの生死を左右する運命からも脱 と叫ぶアレクサンドルの声がした。私は壁にかけより耳れたつもりだろ。ナチも俺も、もう、マリー・テレーズを をあてた。彼等がジャックの体をゆさぶり、ひっくりかえお前のために使うことはできない。だが、それがなんだ。 す身ぶりも手にとるようにわかった。 お前は俺を消すことはできない。俺は今だってここに存在 そうか、舌を噛んだのか、私は壁に頭を押しつけた。固しているよ。俺がかりに悪そのものならば、お前の自殺に い重い音が頭で響くのを聞いていた。しらぬまにその頭をかかわらず、悪は存在しつづける。俺を破壊しない限り ひょうし せき いくども壁にぶつけながら拍子をとっていた。悲哀とも寂お前の死は意味がない。意味がない ) ー・テレーズは片腕を顔にあてたまま、みじろがな 寞ともっかぬものが胸をしめつけはじめた。かってホテ くりや ル・ラモでマリー・テレーズを屈服させた瞬間、私はこれかった。彼女が今の厨のもの音、叫びをきいたか、どうか なみだ と同じかなしみを味わった。かなしみというよりョ冫 、ド常こは知らぬ。ただ、私は、彼女の腕のあいだから、透明な泪 ふかい疲れに似ていた。埋めるべき空間に埋めたあと、もが、すこしずつ、すこしずつ、流れていくのをみた。 ( 意 はや、なにをしてよいのか、私にはわからなかった。 ( 母味がない。意味がない ) うしな 「ジャックは死んだよ」 を喪った時、私は決してこのような感情を味わわなかっ た ) まるで、私がジャックをながいこと愛しつづけ、その私は兄のようにやさしい声で告げた。彼女の唇はふるえ ながら、なにか答えようとしていた。 愛に裏切られ、喪ったような気持だった。 人そうか、舌をかんだのか、ほんとうに私はそれを予想し「え、なんだって」耳をそのロもとに近づけたが、それを ていなかったんだ。自殺はカトリック教徒には、絶対に行聞きとることはできなかった。ウワ言のような、しかしウ ワ言ではない奇妙な旋律をまじえながら、この娘は歌を歌 白ってはならぬ大罪であったからである。 ( お前、神学生じゃないか、それなのにお前は、この永遠っていた。 私は非常に、非常に疲れていた。肉体の疲労だけではな の刑罰をうける自殺を選んだのだ ) 悲哀にみちた灰色の海の上でしずかな腹だたしさが次第いらしかった。もう、なにも私を動かさなかった。 つぶや
よう。彼女をはなしてやってくれよう」声は途切れ、なに女の顔をましたに見おろしながら、はじめて、処女強姦の 幻もきこえなくなった。 意義、意義といって妙ならば、その使命を理解した。 おれ 「気絶だろ」中尉のだるそうな声がした。「水をかけてみ泥沼の底から熱湯が吹き上げて : : : ( 俺は、犯す、俺は犯 うめ ろよ。今度でロを割るだろう」 す ) と私は呻いた : : : 歯をくいしばった私の眼底にはもは りよう 突然、マリー・テレーズは、両手で・フラウスのホックをや、マリー・テレーズは存在しなかった。私が、今、凌 じよく むく はずし始めた。私には最初、その意味が、ほとんど、理解辱し、汚すのはすべての処女、その処女の純白さ、無垢の まゆ しわ できなかった。彼女は眉と眉のあいだに、くるしげな皺を幻影であった。男性は純潔の幻影を破壊するために存在す よせて、胸を大きく開いた。それから突然、そこを両腕でるのだ。純潔の幻影のなかには、ジャックの十字架像がか 覆おうとこころみた。 くれていた。基督者、革命家、マデニエのような人間が、 「ぶたないで。ぶたないで」と彼女は白のように唇だ未来に、歴史に抱く愚劣な夢想、陶酔がひそんでいた。 けを動かした。 ・ : 私は木片のように、波に押しながされ、水底に吸い 「え、なんだって、え」私は耳をさしのべた。突然、一切こまれた。 は、んみ′た・ の意味がわかった。私の想像していた戯曲、私の演出する死んでいた。幾世紀も死んでいた。部屋の蠅は唸りなが はす 芝居は、もっと悲壮なもっと悲劇的なものの筈だった。しら電灯の周囲を駆けずり廻っていた。 かし、今この娘までが、ムーラン・ルウジュ的な喜劇の女 優になりたがっていた。聖女になりたがっていた。 「気絶したのか」 ・フラウスの胸もとにふるえる手をかけて、私は烈しくそ「いや、気絶したふりをしているのでしよう」 れを引き裂いた。うすい胸をかくしたレースの下着も引き ヒソ、ヒソととりかわす中尉とアレクサンドルの声が壁 裂いた。三年前、あの陽光の注ぐ法科教室で、私は今とは を通してまた洩れきこえてきた。女は白い片腕で眼を覆っ 別の気持で、しかも、本質的には同じ衝動で泡のようにやて私の眼の下に横たわっている。私がその死体のような肉 わらかな下着を引き裂いた。あの時、私はなぜそれをした体に、ふたたび、衣服をまとわせる間、彼女は人形のよう あし のか、自分でさえ、理解できなかった。しかし、今、私は に片脚を持ち上げられたり、寝がえりをうったりされるま 自分の手のなかで・フラウスと下着の引き裂ける鋭い音をきまになっていた。 きながら、くるしげに歯をくいしばりながら耐えている彼「死んだ ? 」 おお あわ くちびる いっさい キリスト ごうかん
246 ックとマリー・テレーズがまき込まれるということは、こように賭を強いたのは私ではない。決して私ではない。私 の私が考えたことではない。ハッキリ言えば、私はあのサでないとすれば、それは : ン・ジャンの教会で彼等が祈っているのを見た黄昏から、 この二人の運命とは別れたつもりでいた。彼等を棄てた気やっとシャンデリアのまわりを回転しつづけていた蠅 やつら でいた。けれども、奴等は、また、私の運命のなかに舞い が、暖炉の上の壁に、とまった。すると静寂が一挙に、こ まえあし そろ 戻ってきたのである。私の意志をこえて誰がそうしたのかの部屋にやってきた。蠅は羽をたたみ、前脚をながく揃え こつけい は知らぬ。 て擦り合わせる。その滑稽な身ぶりを私は指を噛んだまま 私は指を噛みながら、ジャック、マリー・テレーズ、私めた。 という人間が互に相結ぶ三角形が、次第に収縮していくの彼はまた飛び上った。しかし今度はシャンデリアの方に を感じた。マリー・テレーズが、無事に、この部屋から出はむかわずに、その映像の反射している窓硝子に体をぶつ るためにはジャックは同志を裏切らねばならぬ。リョン第け、腹だたしげに駆けずりまわ 0 た。 六区の連絡員の名、住所を口割らねばならぬ。その時、彼突然、私は、その窓硝子に、さきほどのジャックの銀色 が裏切るのは同志だけではない。彼が腰にさげた銀色の十の十字架を、その灯をみたような気がした。私が描いた 字架、その十字架にたいしてである。 三角形に、なぜか、計量し足らぬ一点があるような気がし だが一方、このソ・ハカスだらけの顔をゆがめて泣いてい た。思わず、私は不安にかられ、マリー・テレーズをふり る娘は、私にどう言う関係をもつのだろうか。ジャックが かえった。 りようじよく 裏切らねば、アレクサンドルやキャ・ハンヌは彼女を凌辱 だが、彼女は、泣きゃんでドアの下に崩れ落ちている。 するだろう。ジャックだって凌辱という行為が、たとえ、 地面についた膝から、床に、ほとんど平行に両脚が投げだ 強要されたものにしろ、若い娘に決定的であるぐらいは知されていた。 っている筈だ。所詮、今夜、二人は互に裏切るか、裏切ら 私は今まで、この娘のやせた、ソ ' ハカスだらけの顔しか れるかの位置におかれている。そして、私はジャック、ジ知らなかった。彼女がこのように形のいい若鹿のように伸 ャックだけではない、基督者に革命家にマデニエに、ジュびきった脚をもっているとは思ったことがなかった。のみ くっした ール・ロマンに勝っか、まけるかわかるだろう。だが、こならず、まくれたスカートと、灰色の靴下とのあいだから ムともも のように、私たち三人をビンセットで実験台におき人形の目にしみるほど真白い太腿がハッキリのそいていた。 たそがれ はえ
あいま、 る。「俺のことも・ : : ・」と私は考えた。彼等が私の外出中、けと洗いが悪いのか、輪郭の曖昧な、黄色に変色した一人 ひそかに調査に来なかったと、どうして言えよう。母の死の青年の写真である。そいつは心持ち、首をかしげたま まわ 後、私は身の周りを一週三回、リシィーヌと呼ぶ家政婦にま、縁のない眼鏡の奥で、暗い小さな眼を見開いたまま、 やつら 世話をさせたが、この家政婦も奴等か、抗独連動者の手先おびえたように、こちらを眺めていた : ・ かも知れない。疑おうと思えば、通行人さえ疑わねばなら「見覚えがあるかねー ぬ日である。しかし、中尉や秘密警察や抗独運動者がいか「あります」と私は答えた。「神学生でしてね」 に私の身辺を詳細洩れなく調べあげても、彼等は私の過去「ジャック・モンジュといわなかったかね」 の思い出を、私を育てたもの、イボンヌと老大の光景、ア 「いいましたよ」 デンの少年との事件を知ることはできまい。そこに、中「やつばりそうか」 尉、アレクサンドル、キャ・ハンヌさえも私から奪うことの 「どうして、こいっ逮捕されたんです」 「奴か。第六区のマキの連絡員をやっていたのさ。カトリ 出来ぬもの、私と本質的に違うものがあったのだ。 こうかっ ックの坊主たちが、どんなに狡猾か、奴等はミサをあげな 四一年の一月と一一月もこうして終った。ここの所、私たがら、内乱運動をやっているのだからな」 ちは久しく松の実町に行かなかった。けれどもある日、私「訊問ですか」 たた その午後、中尉は私をサイド・カーに乗せた。すべて がタイプを叩いていた時、中尉が事務室にはいって来た。 例によって彼はくたびれた様子をしていた。その態度で私が、いつもと同じようだった。リョン特有の黄濁した霧 は、松の実町を既に包んでいる。このしずかな坂路を歩い は今日、訊問があるなとわかった。中尉は拷問の前には、 ( シャック、お前が ) お前 ている仏蘭西人は一人もいない。・ いつももの倦げな表情をうかべる。 「君、リョン大学に一九三八年にいたな」と彼はたずねはマキの一味だったのかと心のなかで言いかけて、私はそ た。私はタイ。フに指をおいたまま、黙っていた。彼等は私れを殺した。 ( いや、お前のやりそうなこったな。お前な について何か洗いだしたのか、疑いはじめたのかという予ら、そうするのが当然だったかもしれないな ) 私は一一年前 の秋窓から陽の東が流れ落ちる教場で、「肉欲のなかでそ 感がしたのだ。 おそろ れは一番怖しい」と叫んだ、あの男の汗にぬれた顔を思い 「この男、知っているかね」 投げ出された一枚の写真は私の机の上に落ちた。焼きつだしてみた。 おれ フランス めがね すで
た。中尉も、何故ここに来たのか、何をするのかを一言も Ⅷ 言わない。 よろいど 松の実町はリョンのフルビエール丘陵とクロワ・ルッス館の窓々は、ペンキの剥げた鎧戸でかたくとじられてい ちょうど との丁度、境界にあるながい坂路である。私は独逸秘密警る。時々冬枯れた庭の林のなかで、木の割れるような音を じんもん 察がここを訊問所にえらんだことを至当だと思う。人目にきいたが、そのほかはすべて静まりかえっていた。海鼠色 かんばく 人家の集中している他の家壁には、刺のある灌木が這いまわっていたが、それを つきやすい市内や無数のア。ハート、 かっしよくどぺい の街々とちがい、ここは長い褐色の土塀が内部の家を全く見た時薔薇だナと思った。なぜか、クロワ・ルッスの路に かくしている。いかなる拷問の絶叫、悲鳴も、ひろい庭にまひる、散っていた藤の花が心にうかんで、すぐ消えた。 よ 2 し髪」らノ 厨の前に行くと、外套を着て拳銃を持った独逸兵が戸口 妨げられ、恐らく外に洩れ聞えることは、まずあるまい もた やかた 占領前は、リョンの有力な地主が所有していたこの館に靠れていた。若い兵士である。挙手の礼をすると彼は大 は、館というより、むしろ大きな農家に似ていた。広い庭きな鍵を戸の穴に入れて中尉と私とを通した。 おも には小作人たちの宿る一一軒の小屋があり、その小屋から母灯もともさぬ厨の翳のなかに、一一人の男が粗末な木椅子 くりや 屋の厨まで、地下廊がつないでいる。秘密警察が訊問に使に腰をおろしていたが、私たちを見るとたち上った。中尉 ほとん ったのは厨である。私はそのほかの部屋のことは殆ど知らが、二人と声をひそめて話しあっている間、私は、この壁 ばいえん にかけられた大きなフライバンや、厨の真中にある煤煙 ない。彼等は私が勝手に歩きまわるのを禁じたからだ。 すす くす はじめて、その家に連れていかれたのは四十一年の一月で、もう何十年来燻ぶり煤けた壁を眺めていた。ながしに はんごう のことである。中尉は私をサイド・カーにのせ、ローヌ裁は、独逸兵のギャメル ( 飯盒 ) が三つ並べてある。 判所裏のゲシュタポ東部から突然、この人影ない松の実町中尉は私を呼びそして二人の男に私の名を言った。彼等 ほお 人を訪れた。 は独逸人ではない。灰色のタ闇のなかで、頬のこけ落ちた それは夕暮のことだった。リョン特有の黄濁色の霧が、長い汗まみれの眼だけが熱っぽく光っている一つの顔をみ 白もつれ合い、からみ合いながら、二三日前ふった残雪の上た。 ゅうやみ おれ を舐めるように這っている。凍み雪は、タ闇のなかで、そ「俺、肺病なんだ」アレクサンドル・ルーヴィッヒと呼ぶ らようか あおぐろ こだけ蒼黒く光っていた。私は凍み雪をふむ中尉の長靴そのチェッコスロ ' ( キヤ人はポケットに手を入れたままな が、かすれた音をたてて鳴るあとを、無言でついていつまりのあるドイツ語でそう言った。 イツゲシュタ は なが