あげてひきとった。「マリー・テレーズ、あんた、どうし「さよなら : ・ : ・」といった。 おび すばや て、この神学生のまえで怯えるの。そんなに怯える必要が私は素早く、隣の教室の入口に身をかくした。・ハタンと あるの」 大きな響きをたて、廊下を走っていくモニックの足音がし モニックの一言う通り、ジャックが一言、叫ぶたびにマリ すでゆうやみ ー・テレーズは、仔犬のように顔をそむけ、一歩一歩、友教室は既にタ闇に灰色となり、その中でジャックと女と だちの背後にかくれた。 は石像のようにみえた。非常にしずかだった。 「君に言っているのじゃないよ」神学生は興奮のあまり、 「マリー・テレーズ」神学生は彼女の肩に手をおいて囁い 声をあらげて言った。「君には、・ほくは責任がないよ。し た。「行きたければ行っていいんだよ」 かし、マリー・テレーズは違うからね。マリー・テレーズ その声は、ふしぎなほど優しくなった。「・ほくがとめた が大学にきたのは舞踏会にでるためじゃないからね」 と思わないでくれ給えな。・ほくはただ、君が : : : 」 「じゃ、なんのためよ。きかしてもらいましようよ」 「あたしの魂のためと言うんでしよう」突然、マリー・テ 奴はしばらく黙った。彼のはげ上った額がまた、あの時レーズはたち上り、憎しみのこもった眼で神学生をみつめ と同じように汗で光りはじめたのがわかった。 た。「あたしの魂のため、あたしの信仰のため、あたしの 「なんのためよ」モニックはつめよった。 義務のため : : : 」 「ぼくは言わないさ」ジャックは答えた。「それはマリー・ 「マリー・テレーズ、君は : : : 」 くらびる わら テレーズが答えるからな」 私の唇にはウス嗤いがうかんだ。ジャックにとってユダ おお 娘は両手で顔を覆って椅子に崩れ落ちた。三人はしばらがだれであるかが、私にはその時わかったのである。 く、無言のまま、身じろがなかった。 「あたし、行かない。行かないわ。モニック、心配しない 翌日、私は大学前、 ローヌ河岸の。フラタナスの樹かげに 身をひそめて校門からはきだされる学生たちの中に、マリ 小娘はすすり泣いていた。 ・テレ 1 ズを待ち伏せしていた。無茶苦茶にあたたかい ひょうし 「そう、そうなの」拍子抜けがしたようにモニックは呟い 日だった。一日の授業で疲れた学生たちが、もの憂げな、 た。それから彼女は軽蔑のこもった眼でマリー・テレーズだるそうな表情で出てくる。やがて、奴も、黒い修道服の めがね をみつめ、 腕をくみながら、はげ上った額と眼鏡とをギラギラ光ら やっ こいぬ くず つぶや ささや
せ、マリー・テレーズにつきそって、あらわれた。 「ばくは貴女におどって頂こうと思ってね、この間ですが 一一人はギローネ橋の方向に歩いていった。私は時々、プね、ジャック君にたのんだんですよ」 ラタナスの樹かげにかくれながら、あとをつけていった。 私の汗ばんだ掌が彼女のそれに触れると、マリー・テレ 橋のたもとの聖・ヘルナール教会に一一人ははいった。十分ーズはあわてて手を引っこめた。 はとふん ほど、私は鳩の糞のついた教会の壁に靠れていた。 「ジャックとぼくは議論しましたよ。貴女のことでね」 ひと かばん 赤い鞄をかかえて、女だけが独り、教会の戸口から出てそういって彼女によりそっていった。 「・ほくは彼のカトリシスムが狭いと言ったんです。きびし きた。そして、レビュプリック街の・ハス停留所にむかった。 すぎると言ったんです。カトリシスムとはあんなものじゃ ・ハスが来た。発車するまぎわに、私はとびのった。 ない。もっと寛大なもの、ひろびろとしたもの、貴女、そ 「マリー・テレーズ」私は声をかけた。彼女はふりむい う思いませんか」 た。その、ソ・ハカスだらけの顔を赧くした。 ねら 狙いはまず、この醜い娘の自尊心をなでることにあっ 「こちらの方角ですか」 た。彼女が舞踏会に行かなければ、私も行かないといっ 「ええ」 つり皮にぶらさがり、彼女は窓の方ばかりむいて、ききた。 「ねえ、貴女が悪いんじゃありませんよ」 とれぬほど、弱い声で答えた。男に話しかけられた経験な 「でも : : : 」彼女は耳まで赧くした。「あたしでなくても。 ぞ、ないのである。 たくきん ほかの方が沢山いらっしやるじゃありませんの」 「明後日、行きますか。舞踏会」 ラファイエット街には、曲馬団が来ていた。大きな天幕 当惑と不安で彼女はうつむいた。「あたし : : : 」 が、並び、人の群が雑踏していた。退屈だった。非常に退 「どうして」 屈だった。 人マリー・テレーズは唇を噛んだ。 「だれが : : : 」と私はくるしそうに答えた。「だれが斜視 「どうして」と私は亦、たずねた。 の男と : : : 」 白「だって : : : 」 まが ・ハスは市役所とオペラ座との間を曲った。よろめいた拍突然、マリー・テレーズは憐憫のこもったかなしげな眼 子に私は彼女の体にぶつかった。それはヤセて、ゴッゴッで私を眺めた。 と骨っぽかった。 「そんなこと : ・・ : 」 また あか もた あなた れんびん あなた すがめ
246 ックとマリー・テレーズがまき込まれるということは、こように賭を強いたのは私ではない。決して私ではない。私 の私が考えたことではない。ハッキリ言えば、私はあのサでないとすれば、それは : ン・ジャンの教会で彼等が祈っているのを見た黄昏から、 この二人の運命とは別れたつもりでいた。彼等を棄てた気やっとシャンデリアのまわりを回転しつづけていた蠅 やつら でいた。けれども、奴等は、また、私の運命のなかに舞い が、暖炉の上の壁に、とまった。すると静寂が一挙に、こ まえあし そろ 戻ってきたのである。私の意志をこえて誰がそうしたのかの部屋にやってきた。蠅は羽をたたみ、前脚をながく揃え こつけい は知らぬ。 て擦り合わせる。その滑稽な身ぶりを私は指を噛んだまま 私は指を噛みながら、ジャック、マリー・テレーズ、私めた。 という人間が互に相結ぶ三角形が、次第に収縮していくの彼はまた飛び上った。しかし今度はシャンデリアの方に を感じた。マリー・テレーズが、無事に、この部屋から出はむかわずに、その映像の反射している窓硝子に体をぶつ るためにはジャックは同志を裏切らねばならぬ。リョン第け、腹だたしげに駆けずりまわ 0 た。 六区の連絡員の名、住所を口割らねばならぬ。その時、彼突然、私は、その窓硝子に、さきほどのジャックの銀色 が裏切るのは同志だけではない。彼が腰にさげた銀色の十の十字架を、その灯をみたような気がした。私が描いた 字架、その十字架にたいしてである。 三角形に、なぜか、計量し足らぬ一点があるような気がし だが一方、このソ・ハカスだらけの顔をゆがめて泣いてい た。思わず、私は不安にかられ、マリー・テレーズをふり る娘は、私にどう言う関係をもつのだろうか。ジャックが かえった。 りようじよく 裏切らねば、アレクサンドルやキャ・ハンヌは彼女を凌辱 だが、彼女は、泣きゃんでドアの下に崩れ落ちている。 するだろう。ジャックだって凌辱という行為が、たとえ、 地面についた膝から、床に、ほとんど平行に両脚が投げだ 強要されたものにしろ、若い娘に決定的であるぐらいは知されていた。 っている筈だ。所詮、今夜、二人は互に裏切るか、裏切ら 私は今まで、この娘のやせた、ソ ' ハカスだらけの顔しか れるかの位置におかれている。そして、私はジャック、ジ知らなかった。彼女がこのように形のいい若鹿のように伸 ャックだけではない、基督者に革命家にマデニエに、ジュびきった脚をもっているとは思ったことがなかった。のみ くっした ール・ロマンに勝っか、まけるかわかるだろう。だが、こならず、まくれたスカートと、灰色の靴下とのあいだから ムともも のように、私たち三人をビンセットで実験台におき人形の目にしみるほど真白い太腿がハッキリのそいていた。 たそがれ はえ
に荒れはじめた。 「死んでます、これは」 はんごう ・ハタ・ハタと走る音、飯盒に水を注ぐ、するどい響きにま ( 意味がない。意味がないよ ) と私は呟いた。 ( お前は自 のが じって、 殺によって俺から脱れたつもりなんだろ。同志を裏切るべ か 「舌を噛みきりやがったんだ」 き運命やマリー・テレーズの生死を左右する運命からも脱 と叫ぶアレクサンドルの声がした。私は壁にかけより耳れたつもりだろ。ナチも俺も、もう、マリー・テレーズを をあてた。彼等がジャックの体をゆさぶり、ひっくりかえお前のために使うことはできない。だが、それがなんだ。 す身ぶりも手にとるようにわかった。 お前は俺を消すことはできない。俺は今だってここに存在 そうか、舌を噛んだのか、私は壁に頭を押しつけた。固しているよ。俺がかりに悪そのものならば、お前の自殺に い重い音が頭で響くのを聞いていた。しらぬまにその頭をかかわらず、悪は存在しつづける。俺を破壊しない限り ひょうし せき いくども壁にぶつけながら拍子をとっていた。悲哀とも寂お前の死は意味がない。意味がない ) ー・テレーズは片腕を顔にあてたまま、みじろがな 寞ともっかぬものが胸をしめつけはじめた。かってホテ くりや ル・ラモでマリー・テレーズを屈服させた瞬間、私はこれかった。彼女が今の厨のもの音、叫びをきいたか、どうか なみだ と同じかなしみを味わった。かなしみというよりョ冫 、ド常こは知らぬ。ただ、私は、彼女の腕のあいだから、透明な泪 ふかい疲れに似ていた。埋めるべき空間に埋めたあと、もが、すこしずつ、すこしずつ、流れていくのをみた。 ( 意 はや、なにをしてよいのか、私にはわからなかった。 ( 母味がない。意味がない ) うしな 「ジャックは死んだよ」 を喪った時、私は決してこのような感情を味わわなかっ た ) まるで、私がジャックをながいこと愛しつづけ、その私は兄のようにやさしい声で告げた。彼女の唇はふるえ ながら、なにか答えようとしていた。 愛に裏切られ、喪ったような気持だった。 人そうか、舌をかんだのか、ほんとうに私はそれを予想し「え、なんだって」耳をそのロもとに近づけたが、それを ていなかったんだ。自殺はカトリック教徒には、絶対に行聞きとることはできなかった。ウワ言のような、しかしウ ワ言ではない奇妙な旋律をまじえながら、この娘は歌を歌 白ってはならぬ大罪であったからである。 ( お前、神学生じゃないか、それなのにお前は、この永遠っていた。 私は非常に、非常に疲れていた。肉体の疲労だけではな の刑罰をうける自殺を選んだのだ ) 悲哀にみちた灰色の海の上でしずかな腹だたしさが次第いらしかった。もう、なにも私を動かさなかった。 つぶや
にさえこの老人はとぼけた徴笑を口にうかべてプラトンをからさ」 説く。マデニエが生きつづけており、その人生が許されて モニックだけに笑いながらそういい捨てると、私は二人 おり、のみならず、その人の好い笑いが大学の教室を、支をそこにのこして、たち去った。 配している。今でさえも可能なのだ。 ・ : 文科大学をでて校庭の芝生を横切りオウギュスト・ 母が脳溢血で倒れた。自分の国と、夫の国とが、敵同士 コントの像の前まで来た時、私は、赤い鞄を持ったマリー・ となったシ日ックも、その原因だろう。「あたしはドイツ テレ 1 ズがモニックと何か躡き合いながら、校門をくぐっ人じゃない。 フランス人なの」ウワ言のなかで彼女はそう てくるのをみとめた。 叫んだから。ゅめのなかで夫をみているらしかった。その ポン・ジ 4 ール 「今日は、モニック」 声はあるなまめかしさ、あまえた調子さえおびていた。夫 私はわざと、モニックに挨拶をした。それからつばをのに自分の愛情、自分の潔白を弁解しているようだった。枕 み、ゆっくりとたちどまった。 もとには・ヘりながら私は、憐みをこの女に持っこともあっ 「今日は、マリー・テレーズ」と私は相手の眼をじっと眺た。 彼女の病気を口実に、私は大学を休学することにした。 めながらいった。 この申出を、母は私の孝 女は手を差しださなかった。小娘のようにすこしずつ後健康の時ならば決して許さない、 すざりしながら、マリー・テレーズはモニッグの背後にか行と思いこんだ。そこにもちいさな、通俗的な幻影があっ た。 くれていった。 幻影はまだリョンの街にしがみついていた。ポーラン 「あれからどうしたのさ。舞踏会の日。ズッとホテルにい ドを一挙に征服したナチ軍はじっと独仏国境侵入を待ちか たの ? 」 まえている。「みろ ! マジノ線がこわいものだから、奴 人私はわざと狎れ狎れしく言った。 等、手が出せねえぜ」新聞はそう書きたてたし、マロニエ 「どうしたのさ」 白モニックが思わず ( ッとふりむいた程、烈しい声で、マの葉々が金色に散る秋の陽ざしのなか、キャフェのテラス リー・テレーズはなにか叫んだ。私にはそれがなにか聞きで、市民たちは、あくびをし、老人たちは第一次大戦のこ ろの思い出をしゃべり合い、食前酒を何時間もかかって飲 訂とれなかった。どうでもよかった。 「もう舞踏会など、永遠にないやね。戦争がはじまるんだんでいた。 チ 4 トワイエ あいさっ ささや かばん なが あわれ やっ
せき ふりむくと、戸口に中尉、アレクサンドル、キャ・ハンヌ 私は耳をそばだてたが、隣の厨から、咳ひとつ、きこえ ・、こっていた。 ない。奴は気絶したのか。もし、今度、ロを割らねば、ア 「中尉 ! 」と私はホースを投げだして叫んだ。「この男に レクサンドルは私に合図することになっている。そして私 口を割らしてみましようか」 はその時 : ・ 彼は私を疑わしげに眺めた。 夜がきた。灯をつけた。一匹の蠅が部屋の中をとびまわ マリー・テレーズという女学生がいます。その女を責めっている。この部屋には前の持主の趣味らしい・ ( ロック風 るのです。この男の前で」この夜私はユダをまた利用しのシャンデリアがぶらさがっていた。光がマットだけのペ てあか ドや、手垢でふちのよごれた椅子の長い影を床に落し た。壁には、十八世紀の服装をした男女たちの遊ぶ、ふる Ⅸ いリョンの風景画が、い くつか、かけられてある。ナチた 私がべッドの端に腰かけている間、マリー・テレーズちは、この部屋をそのままにしておいた。三年前、ここは 客用の部屋か、あるいは娘たちの寝室だったのだろう。 は、追い迫られた獣のようにあとすざりをしていく。 かたすみ マリー・テレーズは片隅で肩を震わせてしやくりあげて その指はドアのノ・フをまさぐりながら、カチッ、カチッ と、奇妙に、かたい音を響かせた。 / プはむなしく回った 「本当になんとか、ならないものかなあ。本当に困っちゃ だけである。 ほお ったな。あんた。帰りたいだろ。ジャックさえ、チャンと 彼女はン・ハカスだらけの頬をクシャクシャにして泣きは じめた。まるで六つか、七つのいたいけない幼女の泣き声話してくれれば、あんたも彼も無事ですむんだがな」そん な風にひとりごちながら私は時間をつないだ。彼女の泣声 にそっくりである。 とだ 人黒いケープが、彼女の体から天でも崩れるように、地面と部屋をとびまわる蠅の羽音がいつまでも長くつづき途絶 に落ちた。私には、そのビロウドのケープに見覚えがあえない。 一一年前、あの舞踏会の夜、私が計算し、演出した戯曲 白る。二年前、あの舞踏会の夜、彼女は、この黒色のケープ せつり おおづめ は、大詰に近づいている。摂理という言葉がある。人間の に身を包みながら、ジャックの代りに私を選んだのだ。だ キリスト 菊が、今夜、彼女は、生きのびるためにはふたたび、ジャッ 不測の運命にたいする基督教の考え方だ。なるほど、私 が、ナチの拷問者の一味に加わり、その拷問の場所にジャ クを裏切らねばならぬ。 くりや はえ
マリー・テレーズとよばれたもう一人の娘は、女中のよ の安静時間のようにガランとしていた。ただどこか、遠く ったな うに、相手にクリームの瓶をわたしながら答えた。「ジャ で ( 恐らく学生ホールからだろう ) だれかが、拙い・ヒアノ ックがゆるしてくれないわよ。彼は私に言ったわ。ユダヤ を奏いているのが、きこえた。 人たちが独逸で血をながしている時、舞踏会を学生が開く 廊下の掲示板に、新学期の講義課目の表がのっている。 ふ、んしん マデニエが「カントの実践理性批判。を教えるのだ。わたのは不謹慎だって」 しは、あの人のよい老人の、まるい薔薇色の顔を思いうか「ジャック ? ジャックが何よ。恋人や婚約者ならともか く、たかが神学生じゃないの。神学と布教しか、頭にな、 ・ヘた。あの意味のないふやけた顔が、私のアンリ四世中学 時代を支配した。ねむたくなるような午後、教室は、ひる男じゃないの。あなたの人生となんの関係があるの。あの にお めし時のジャムの匂いが残っている。皆が黙って。〈ンをはひと前からあたしをゾッとさしていたわ。陰気で狂信的な ちり コンシャンス・ 4 メースデシイジイオン・ド・モラール しらせている。人間の良心、倫理的決断 : : : 灰色の塵暗さが顔にあるためかしら」 金髪を肩までたらしたモニックの水着のあいだから、肉 が机の上におおいかぶさる。 。ヒアノの音はまだ、聞えている。それは幾度も幾度もきづきのいい真白な胸や腕がのそきみえた。「ねえ、ねえ、 いた覚えがあるのに、いつまでもその名が思いだせない曲ねえ」と彼女はうなだれているマリー・テレーズの肩をゆ の一つだった。私が廊下を曲ったり、それにつきあたったさぶった。 きれい りすればするほど、それはまるで夢のなかででものよう 「ダメよ」お世辞にも綺麗とはいえぬマリー・テレ 1 ズは に、遠い、もっと別の方向から、ひびいてきた。 力のない声で答えた。「あたし、ジャックの従妹だけど、 ふと、わかい娘の声を耳にした。教室の内側からであ子供の時両親をなくしたでしよう。ずっと彼の家にひきと のぞ ガラス ってもらったでしよう。今、大学に行けるのも、彼のおか る。硝子ごしに私はそっと背のびをしながら覗いてみた。 だめ リ 1 ・テレーズ。チャンときめてよ。舞踏会にげなんだもの」 人「駄目、マ 「彼のおかげか」とモニックは煙草を口にくわえながら嘲 行くの、行かないの」 白教室の机の上に腰をかけて脚を・フラ・フラさせながら、そけるように笑 0 た。「あの神学生、貴方を愛しているんじ う訊いた娘は水着の上に白いタオルを着ている。校内のプやない ? 」 ・ : それなら彼、な 「まさか、あたしみたいなものを。 1 ルで泳ぐため、この教室で着かえているらしかった。 「そりや、行きたいわよ。モニック、でもジャックが : : : 」ぜ、神学生になったの」 たばこ あざ
昔に死んでいた。女中のイボンヌの消息も聞かない。 秋が暮れた。黄濁色のリョン特有の霧が、ソーヌ、ロー ジャックとマリー・テレーズが、どうなったかも私は知 ヌの両河からはいのぼり、街を舐めまわす季節がやってく る、母の病気はだんだん悪くなる。「坊や、坊や、教会にらない。彼等のことはもうどうでもよかった。大学には すで 行かなくてはいけないよ」彼女はべッドの上でうつろな眼一「三度出かけたが、むかしの級友は、既に、私を忘れか つぶや で私をながめて呟く。私を十五年前の天使のように純真敬けている。 けん 虔な少年と錯覚しはじめたのだ。「もう、死ぬな。もう駄だから、モニックから、マリ 1 ・テレーズのその後の消 つきそい 息をきいた時、私はとくに驚きもしなかった。 目だな」と私は思った。付添看護婦が帰ったあと、私は、 うみ 「まあ、知らなかったの、マリー・テレーズは、聖ベルナ 床ずれで膿をもった彼女の背中に薬をつけてやりながら、 母が死んだ日に自分にかえされる自由について考えた。そデット会の修道院に寄宿しているわよ」 「ジャックの命令かい」 れは、あのアデンに泊っていた時、ポート・サイドに父が 「でしよう。聖ベルナール教会に午後、五時に行ってごら 出張した日、私が獲た自由を思いださせた。それなのに、 汗にまみれ、土気色となった母の顔をのぞきながら、なぜんなさいよ。お二人が一緒に祈っているわよ」 よろこ 皮肉な笑いを唇にうかべて、この当世風の娘は教えて か私は悦びを感じなかった。私は無感動になっていた : ひさめ 霧雨と氷雨の続く一九四〇年の一一月、彼女は遂に死んくれた。 一週間ぐらいして、やつばり私は聖ベルナール教会に出 だ。母は父と同様、遂に生前、息子の黝い秘密をしらなか かけた。けだるいタ暮である。一年前の五月、私はマリ った。天使のような子に手を握られながら息をひきとっ ・テレーズをここに追いかけた。それから二度とここを 訪れたことはない。 びやくれん 一人になった。遺産は、今後十年の私の生活を保証して教会の横には大きな白蓮の樹が白い花を咲かせている。 ゅうもや いる。私は自由である。 灰色のタ靄のなかで葩はそこだけ、白く浮きあがって見 ランテリュール ふたたび、もの狂おしい春がやってきた。ひとり、一一階える。内陣にはいったが彼等は、まだ来ていない。内陣 の窓から、藤の花の散る路をみるとあの時と同じように一 のすり切れた祈疇台の一つに腰をかけて、ジッと待ってい 人の人影さえない。ひそまりかえった静けさのなかにうすこ。 はなびら むらさきの葩が散っている。もとよりあの老犬はとうの祭壇には聖燭台が赤い灯をつけている。その灯に熱しあ くろ くちびる
げられながら、一つの十字架が置かれている。みにくい、 年を押し倒したものと同じ世界であることを認めようとは あし はだかキリスト 痩せた、裸の基督が、両手両脚を釘づけにされたまま、うしない。 ささや なんじら なだれた頭をこちらにむけていた。足座には、「吾、汝等 ( そうだろ、そうだろ ) と、その基督像は私に囁いた。私 の生、たらん」というラテン文字が彫りつけてある。そのは首をふった。基督は今私のもっともよろこびそうな部分 から誘惑しかかってきているのだ。 ( その手にのるものか ) 足座のかたわらには聖母マリアが半ば、悲しみに倒れかか うめ と私は・呷、こ。 りながら手を合わせていた。 やつら われにかえったとき、周囲を見廻した。奴等は来てい 私はその日まで、このような十字架を随分みなれてき ろうそく た。一一年前とおなじように、聖母寄進台の前で蝋燭をあげ た。プロテスタントの家庭に育ったとはいえ、私はカトリ ックの美術をしらぬわけではない。この聖ベルナール教会ていた。 の十字架が特に芸術的にすぐれたものでないこと、むしろ女は痩せていた。女学校の老嬢教師でも着るようなダ・フ こぶし くっした 通俗的なものの最たるものであるぐらいはわかった。しかダブの黒服を着て、黒靴下をはいていた。両拳を顔にあて 久′か•Q し、その夕暮、ジャックとマリー・テレーズとを窺いみるて、歯をくいしばっていた。それなのに、ジャックはその ためにのみ、この教会にやってきた私に、この基督像は、傍で昔のとおり腕をくみ、眼をとじたまま、たっている。 はげ上った頭にあわれな赤毛が汗で光り、顔をうごかすた ある烈しい誘惑をした。 ごうもん 私があらためて知ったのは基督の生涯が、拷問されて完びに寄進台の燭台の炎影が、その縁なし眼鏡が、キラッ、 成したということである。この男も流石に、拷問するものキラッと光るのも同じだった。 と拷問されるものから成りたっている世界をよけて生きる私にはなぜ、マリー・テレーズだけがこのように変った ことはできなかったのだ。今日、幾億の信者たちは日曜ごか、わからなかった。おそらく、彼女はあの舞踏会の夜か 人とに、ポケットをチャラ、チャラといわせて、教会の門をらジャックに裁かれたのだろう。追いつめられたのだろ いくぐっていく。十字架の前にひざまずく。神父や牧師の説う。私と肉欲の罪を犯したという汚れを消すため彼女は、痛 白教を・ほんやり聞く。しかし、彼は目の前の十字架が語ろう責を身に課すことを要求されたのだろう。だがたしかなこ むすこ としていることに耳を傾けない。あの大工の息子がこの地と、重大なことは、この娘が、今、ジャックの暴君的な支 上でおく 0 たのはとどのつまり、あのクロワ・ルッスの、配に従 0 ていることだ。私がっき落したこの娘の過去は、 女中と大との姿勢、アデンの太陽の下で、私が岩かげに少逆に神学生の狂信の好餌となったにちがいない。彼女はふ さすが めがね
ダとはジャックの場合、だれであるか。 細かい活字の並んだ法律書の前で一一時間ほど坐っていた。 すで 図書室を出ようとして、傘を教室に忘れたことに気がっ 日が暮れてきた。窓が既に灰色にかすみはじめる。リョン いた。私は、あの八月の午後のように、ひとり、誰もいな 特有の黄濁した霧がそろそろソーヌ、ロ 1 ヌの両河から這 いあがる季節がやってきたのだ。私はいろいろなことを考い廊下を戻っていった。 かばん えてみた。法律の本を伏せ、鞄から、その日、ジャックの ふしぎなことには、亦、人声が教室から洩れてきて 奴が亦、持ってきた「信仰の歓喜」とかいう本をめくってる。なにもかも、あの日と舞台装置が同じである。私はな みた。 にか、あるな、ジャックがいるなと予感した。廊下と教室 所々に奴が、赤い鉛筆で線を引いたり、丸を書いたりしとのあいだの硝子から、ひそかに中を窺った。奴は背中を こちらにむけていた。その彼にモニックが向きあってい ている。私は好奇心をもってそれを読んだが、イイ思案は うかばない。退屈し、本を閉じようとしたが、その時、ふる。 はじめ、彼等がなにを言い争っているのかわからなかっ と、自分がある大事なことを読みすごしたのに気づいた。 それは、最後の頁の余白に書いてあった奴の読後感ともた そしてマリー・テレーズは泣いていた。栗色の髪をおさ 言うべきセリフである。 「基督がくるしまなかったと言うのか。基督はその生涯にげにして十四、五の少女のように肩にたらして、やせこけ 一一度の心理的苦痛を味わされた」味わされたと奴は受身形た体を灰色のスカート、白い・フラウスに包んでいた。弾力 ごうもん に表現していた。「ひとつは明日の迫害、拷問を予感したありげな白い胸と腰とをもったモニックにくらべる時、そ その たも ゲッセマニアの園で、主が血のごとき汗をながし給うた瞬の体は固く青くさく貧しかった。 リー・テレーズ」とジャックが叫んだ。マリー・テレ 間である。今ひとつは、彼がユダに裏切られた時だ。ユダ「マ ふる ーズは撲たれたようにビクッと震えた。「先週の教会で司 人を基督が愛さなかったと誰が言えるか」 ( ユダ ) と私は首をひねった。窓のむこうにドローヌ街の教の御言葉をきいただろう。今日基督信者は、いつもよ あおぐろ 白教会の塔が蒼黒く浮かんでいる。藍色になったタ空を斜めりも儀牲を捧げなくてはいけないことだ。独逸でくるしん にきっての群が帰るのが見えた。なぜ、今までこれに気でいる人々と、それから戦争が起らないために信者が行を がっかなかったのか。なぜ基督者をくるしめるには聖書を慎むことを聞いただろう」 さか まゆ 逆さまによむことが一番いいと考えなかったのか。だがユ「舞踏会がなぜ悪いのよ。わるいのよ」とモニックは眉を すわ ガラス