上田 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集
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1. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

「断ろうと思えばまだ機会があるのやで」 「うん」 第二章裁かれる人々 「断らんのか」 「うん」 「神というものはあるのかなあ」 看護婦 「神 ? 」 「なんや、まあヘンな話やけど、こう、人間は自分を押し家庭の事情で一一十五歳の時、やっと市の看護婦学校を ながすものからーー運命というんやろうが、どうしても脱終えたわたしは医大病院で働くようになりました。その年 れられんやろ。そういうものから自由にしてくれるものをの夏、この病院で盲腸を手術して寝ていた上田と知りあっ 神とよぶならばや」 たのです。 おれ 「さあ、俺にはわからん」火口の消えた煙草を机の上にの 上田のことは今は忘れたいですし、彼との結婚生活も、 せて勝呂は答えた。 一つのことを除いてはこの手記に関係もありませんから詳 「俺にはもう神があっても、なくてもどうでもいいんや」しくは書かないようにしましよう。ただわたしがあの頃あ 「そやけれど、おばはんも一種、お前の神みたいなものやの男のことで思いだすのは残暑の陽が流れこむ二階の病室 ひぎ ったのかもしれんなあ」 で縮みのシャッと膝まであるステテコを着て横になってい 「ああ」 た彼の姿です。背が低くて下腹のつき出たこの人はひどく 彼はたち上り救命袋を持って廊下に出た。戸田はもう呼汗かき性で、いつも暑がっていました。その汗を拭いてや びとめなかった。 るのが看護婦のわたしの役目の一つだったのです。その時 は別にこの象のように細い、とろんとした眼をもった彼に 興味も好奇心もなかったのです。 ある日、上田は突然、わたしのお腹に顔をこすりつけて 手を握ってきました。 今でもなぜ、その時わたしが承諾したのか、わかりませ ん。一一十五歳という婚期におくれた年齢が急に頭に浮んで ちち ころ くわ

2. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

「支那人とっき合うこと、あるん ? 」わたしは不安そうに私に言いきかせました。 上田の汗ばんだ指を握りしめ、この男よりこの街で頼る人上田の言う通りこの街に来て二カ月もたたぬ内、わたし はいないのだと自分に言いきかせました。 は日本人として一番はじめに覚えねばならぬことが満人に わたし達の家は大連神社のすぐ近くにありました。冬のたいする態度だとわかってきました。たとえばわたし達の 寒いこの街には木造家屋はありません。わたし達の家も黒隣りにいる雑賀さんの家では十五、六歳のポーイを使って います。庭一つ隔てて、雑賀さんや奥さんがそのポーイを ずんだ煉瓦で建てられた小さな平屋で、周りには全く同じ ののし たた 形をした社宅が数軒ならんでいます。部屋数はおのおの二罵ったり、叩いたりする音がきこえます。わたしは始めの こわ っしかなかったが壁にはペチカという面白い煖房の設備が頃、その罵声を聞くのが怖かったのですが、やがて、それ も馴れていきました。叩かねばすぐ怠けるのが満洲人の性 とりつけてあるのが面白うございました。 はじめの頃、わたしはこの植民地の街をめずらしく思い格だと上田も言っていました。一週に三度、わたしの家に ゆきとど なみき ました。手入れの行届いたアカシャの並木もロシャ風の建女中代りにアマが来るようになると、やがてわたしも彼女 物も薄ぎたない日本の街とはちがっています。軍人も市民を理由もないのに撲るようになれました。 も日本人であれば肩で風を切って歩きすべてが活気にみち街のうつくしさ、物価の安さ、内地にいるよりも奢った ていました。 生活が、わたしをすっかり満足させ、その満足を上田にた いする満足だと考えていました。最初の冬が来ました。・ヘ 「満人はどこに住んどるの」と上田にたずねると、 たな 「街のはずれで」と彼は笑いながら「そらあ、穢い所だチカのある室内は日本の家よりはるかに暖かいのですが、 にんにく みかん ・せ。大蒜臭うて、お前にやとても通れんぜ」 蜜柑でも靴でも少しでも水気のあるものが石のようにカチ そろそろ配給のきびしくなった内地とちがって物価はおカチに変る十二月ーー・・社用だと言って帰宅の遅い上田を待 っていますと、粉雪のふる外を遠くから馬車の輪の軋む どろく程、安く物も豊富でした。「オクサン、魚、アリマ むち スョ」毎朝、鮮魚や野菜を売りに来る支那人たちも値切れ音、馬を追う鞭の響きが聞えてきます。わたしは妊娠して うぶぎ ば値切るほど、こちらの言いなりになります。十銭で大き いましたから、赤坊の産着を縫ったりアマに腰をもませた やつら せえび な伊勢海老の一、二匹は買えるのです。「奴等になめられりして、そんな夜を過したものです。 馬鹿なわたしはその時、上田が浪速町の「いろは」とい ちゃ、つまらんぞ、物を買う時にや、きっとまけさせに や、 いかん・せ」毎朝、家計簿を調べながら上田はしきりにう料亭の女中の所に通っているのを知らなかったのです。 れんが ころ おもしろだんばう まわ くっ なぐ なにわ お 0

3. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

中、だれかが連れていったのかもしれないのです。部屋の 上り口に腰をかけてわたしはしばらくじっとしていまし た。もう、どうにでもなれ、という気持でした。浅井さん 翌日、病院に行きますと、その浅井さんが昨夜とはうつも浅井さんだが、電話をかけてわたしをやめさせようとし たヒルダさんが憎かった。自分一人が聖女づらをするため て変ったような冷たい表情でわたしを呼びとめました。 こうむ に病院の患者や看護婦がどんなに迷惑を蒙っているのか、 「君、大部屋の患者をどうしたの」 あの女は気づかないのです。彼女が母親であり聖女なら 「大部屋の患者ですって」 ば、女の生理を根こそぎえぐりとられたわたしは浅井さん 「自然気胸をおこした女だよ。ヒルダさんから電話があっ 、んばい と寝る淫売になってもかまわないと思いました。マスまで たぜ。君をやめさせろと言うんだ」 がわたしを捨ててどこかに行ってしまったのです。 「わたしは先生がおっしやったように 一カ月の間、病院にも行かずアパートのガランとした部 ・、、。ぼくは何も言いはしない」 「先生 ? ・ほくカカ わたしは浅井さんを見つめますと、縁のない眼鏡をキラ屋にいるのは辛かった。仕事をしていれば、むかしのこ リと反射させながら彼はわたしからあわてて眼をそらしまと、大連のこと、お産の思い出など忘れることができま した。昨夜、この男がしつこいほどわたしの体をいじったす。けれども何もするわけでなく敷きつばなしにした寝 のです。 床で寝そべっていますと、上田に捨てられた日や子供を死 なせてしまったことなどが繰りかえし繰りかえし心に浮ん 「わたし、やめるんですか」 できます。上田にでもいい 、もう一度、会ってみたいとさ 「やめろと言ってはいないさ。君」 くらびる え考えることもありました。 浅井さんは唇に例のつくり笑いをうかべて、 そんなある夜、浅井さんがまた、たずねてきました。 薬「ただ、フラウ・ヒルダが病院に来ると、うるさいから な。一カ月ほど休んでくれよ。あとは、ぼくがうまく処理「話があるんだがね」 と 「もう、クビでしよ」 海しておくからね」 こわば その夕暮、アパートに帰るとマスの姿が見えません。管「いや」浅井さんは強張った顔をして畳の上にあぐらをか まじめ いて、「もっと真面目な話なんだ」 齟理人にきいても首をふるだけです。この頃は犬さえ殺して 食べねばならぬようになったのですから、わたしの留守「クビにさせられてまで今更、真面目な話もないわ」 浅井さんにだかれました。

4. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

きたし、満鉄の社員だという上田の地位のことも考えたよ「いやらし。離して」私は人眼をはばかって彼の太った丸 からだ とうして三等なんかに乗 うです。それに恥しいことですが、わたしはその頃、ひどい躰を押すのでした。「あんた、・ く子供がほしかったのです。どんな男の子でもいいとまでったの。帰航費は役所から出たとでしよ」 は言いませんが、上田ぐらいの男の子供なら生んでもよか「大連につけば色々、物入りがあるけんちっとでも金は浮 かしとかにゃあならんじやろ」 ったのです。 せみ 蝉が病室のむこうで息ぐるしい程、鳴いていました。彼それから彼は象のような眼を更に細めて、私の鉢を舐め るように眺め、「吐気がするのか。まさか、あれじゃなか の手は汗でねっとりと湿っていました。 上田の家は大阪でしたから式は薬院町のわたしの兄の家ろうな。ちと早すぎると思うばって : : : 」と言うのでし たけ 一日中船室の丸窓から東支那海の黒い海面が、浮んだ で挙げました。貸お裳屋で借りた丈の短かいモー = ングをた。 着た上田が式の間中、しきりに右手で太い首の汗をぬぐっり、沈んだり、傾いたりします。その海の動きをぼんやり ていたのをわたしは今でも覚えています。式がすむとすぐ眺めながら、わたしはあああこれが結婚生活なんだと考え たいれん 下関から船で大連にむかいました。上田が満鉄の市出張たものです。 四日目の朝、大連港につきました。雨が石炭を入れた倉 所から大連の本社によび戻されていたのです。 私たちの乗ったのはみどり丸という船でしたがその三等庫の屋根を濡しています。ピストルを腰につけた兵隊に怒 船室は満洲開拓団の人たちで一杯で料理場から漂う魚油と鳴られながら支那の苦力が痩せた四肢をふんばって大きな たくあんにお 大豆袋を肩に背負い船に登ってきます。「あいっ等、ビア 沢庵の臭いがひどくこもっていました。 下関よりむこうに出かけたことのないわたしには海を渡ノでも二人で運ぶんだぜ」丸窓に顔を当てているわたしの ることも、見知らぬ関東州という植民地に行くこともひど耳もとで上田が指さしました。 こら・わ・ ふとう 薬く不安でした。うすべりを敷いた床の上に思い思いに行李耳の長い驢馬に引かせた馬車が幾台も埠頭で客をまって 毒 いました。「驢馬じゃなか。満洲馬たい」市にくる前、 や古トランクをおいて寝ころんでいる開拓団の家族たちの でかせ 海顔をみていると、自分までが内地を離れて遠く出稼ぎに行四年間もこの大連の本社勤務をしていた上田は港から社宅 く一人のような気がします。夜になるとこの人たちは大声にむかう路すじで得意そうに説明しました。「これが山県 ふなよい 通り。あれが大山通り。大きな路はみな日露戦争の時の大 をあげて軍歌を合唱しました。上田は船酔にくるしんでい 将の名ばつけとる」 る私の体に触れたがりました。 、しよう ぬら しなかい

5. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

倉庫の屋根を濡らし、憲兵に怒鳴られながら苦力が大豆の それから二年後、わたしは上田と別れました。別れ話が袋を背負って働かされています。もう一一度とこの景色も街 持ちあがった時、わたしも人並みにわめいたり泣いたりしの姿も見ることはないと思うとわたしの気持はかえって、 ましたが、そうしたくどい経過を書くのは、この手記を長さつばりとしました。 はぶ くするだけですから省くことにします。ふしぎなことです が、あの二年間のことで特に思いだすことはほとんどない おも のです。今、強いて想いだそうとしても、眼に浮び上って 市に戻ると、戦争はすっかり南の方まで拡っていて、 ますますこ くるのは上田の白い体が益々、肥えはじめたこと、彼が血街は軍人や職工であふれていましたが、生活はくるしくな 圧を気にして毎日「ベルゲール」という茶色い液体の薬をる一方で大連を思いだすと、まるで天と地のような違いで 飲んでいた姿ぐらいです。夫婦生活が心臓にわるいことをす。兄も義姉も出戻りのわたしを見ていい顔をしません 口実にして上田は夜おそく帰宅しても、すぐ鼾をかいて眠し、わたしもわたしで勝気なものですからカッとして大学 ってしまうようになりました。 ( 本当は料亭「いろは」の病院に看護婦として働くことがきまると、彼等の家を飛び 女に精力をすいとられているぐらい、わたしにはわかって出ました。医学部に近いささやかなアパートに部屋を借り いたんです ) 、闇のなかで熱っぽい大きな体がこちらに転が たのです。 ってくるのを、わたしは何度も押しかえしました。気持の わたしがこの病院で上田と知りあった四年前に比べる もちろん 上では勿論、生理的な欲望の点でも、もう、この男に執着と、医局の人も看護婦の顔ぶれもすっかり変っていまし あきら はありませんでした。子供を生めないと言う諦めがわたし た。むかし研究員だった医者たちは軍医となって出征して かかわ の性欲まですっかり消していたのでしよう。それにも拘ら いましたし、同僚だった人たちも従軍看護婦として戦地に ず、その後二年もの間、彼と生活したのは、むしろわたし召集されています。戦争の影響がこんなにまで病院にきて の弱さ、世間体だけのためと思います。こんな植民地の街いるとは大連にいたわたしには夢にも想像できないことで で男に棄てられて内地に帰っていく多くのみじめな女の一した。第一外科部長だった井上先生がなくなられ、その代 りに橋本副部長先生があとを継いだことも勤めてみて始め 人になりたくなかったのです。 上田と別れると、わたしは三年前と同じ「みどり丸」のてわかりました。 かんばんもた 上田と別れた以上、どんなことにも我慢して生きていく 甲板に靠れて大連を離れました。あの日のように雨が黒い がまん

6. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

ころ 婦学校の生徒だった頃、夕暮になるとこの医学部の建物やしかしその嫌悪感をのぞくと彼女は、軍人たちが捕虜の肝 病院の窓々にはうるんだ灯がともり、港にはいる満艦飾の臓を食べようが食べまいがどうでもいいことだった。着護 船のように見えたものである。それは昔のノブに市に隣婦である彼女は患者の手術や人間の血は見馴れていたか 接する博多港の祭りのことをいつも思いださせたものだつら、今日、手術台に運ばれた男が米国の捕虜であったにせ よ、特に恐怖感も起きようがない。橋本教授が一直線に電 だが今、暗い灯の洩れているのは病院の受付と事務所だ気メスをあの捕虜の皮膚に走らせた時、上田ノ・フの連想し けだった。軍歌を合唱する男たちの大声が聞えてくる。そたことはヒルダの白い肌のことだけである。彼女が自然気 れは第一外科の二階にある会議室からだった。その窓も黒胸をおこした大部屋の患者にプロカイン液を注射しようと たた てのひら さえぎ すま い幕に遮られているがその隙間からほのかな電気の光がチした時、烈しく声をあげて机を叩いたヒルダの掌のこと だった。そのヒルダの掌とおなじように今日の捕虜の肌も ラついていた。 ( 今日、手術室に出た軍人たちだわ ) とノブは考えた。金色のうぶ毛が生えていたのである。 ( いい気なもんね。こちらが大豆しか食べられない時でも、 ( 橋本先生、ヒルダさんに今日のこと言うだろうか。言え ないだろうな ) ノ・フはヒルダに勝った快感をむりやりに心 あいっ等、たつぶり飲み食いできるんだから。なにを食べ に作りあげようとする。 ( ヒルダさんがどんなに幸福で聖 てるのかしら ) すると、ノブの記憶のなかで今日、解剖が終った手術室女やかて、自分の夫が今日、何をしたか知らないんだわ。 で浅井助手の耳に一人の肥った軍人が口をよせて小声で囁だけど、あたしはちゃんと知ってるんだから橋本先生が今 いていた言葉がゆっくりと浮び上ってきた。「おい、捕虜日、何をしたかはあたししか知らないんだから ) の肝臓を切りとってくれんかね」「どうするんです」浅井 めがね 薬助手が縁なし眼鏡をキラリと光らせると、その小ぶとりに アパートに帰ると部屋は真暗だった。上り口に腰をかけ 毒肥った軍医は = ャ = ヤと嗤った。「軍医殿、まさか、若い 海将校たちに試食させるんじゃ、ないでしようねえ」あのると急に疲労がこみあげてきた。彼女はしばらくの間、靴 時、浅井助手も相手の心を読みとるように唇にうすい嗤いもぬがず、膝を両手でかかえてじっとしていた。 せつけん 「上田さあん。配給の石鹸半分、窓ん所においといたよ。 をうかべたのである。 あとで金を払ってつかあさい」 ノブはその会話を思いだして本能的に嫌悪感を感じた。 けんお まんかんしよく くっ

7. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

上田看護婦はペンキのすっかりチョロ剥げた鉄板の天井昇降機が地下室にとまるとノ・フは二人の間におかれた担 を見あげながら呟いた。 架車の柄を握ってつめたい廊下に曳きずり出した。薄暗い だが壁にもたれた看護婦長は眼をつむったまま返事をし裸電球が鉄管のむきだした天井にポツン、ポツンと点って ない。上田ノ・フにはいつもより看護婦長の顔が痩せこけ いる。むかしはこの地下室に病院付属の売店や喫茶室があ ほおばね ほこわ・ て、頬骨がひどく飛び出ているように思われる。こんなに ったのだが、今はそうした部屋も埃だらけにうち捨てら 近くで彼女の顔をまじまじと見る機会のなかった彼女は、れ、空襲のあった場合の患者退避所に使われている。 その頭を覆った帽子から幾本かの白髪のまじった髪がのそ 死体置場は廊下の突きあたりにあるのでノ・フが担架車を いているのに気がついてハッとしたのである。 そちらに向けた時、今まで黙って後から監督していた大場 ( まあ、この人て言うたら、ほんなことにお婆さんだった看護婦長が、 んだわ ) 意地のわるい眼で / ・フはジッと大場看護婦長の横「反対側です。上田さん」とおさえつけるように命じた。 顔を見つめた。むかし、結婚する前、 / プがこの病院に籍「あら、むこうに運ぶとじゃなかとですの」 をおいていた時、大場看護婦長は彼女より四年前にはいつ「反対側」 ひら た平看護婦にすぎなかった。 無表情に顔を強張らせて看護婦長は首をふった。 同僚から孤立して、友だちらしい友だちもなく、表情の 「どうしてかしらん」 ない顔で歩きまわる彼女は医者たちから重宝がられたが、 「どうしてでもいいんです。言われた通りにしなさい」 たた 仲間からは「点かせぎ」と陰口を叩かれていたものだっ 白布をかぶせた担架車は湿ったセメントの臭気がこもる 地下室の廊下を、反対側に進んでいった。車を押しながら ほかの看護婦のようにそっと化粧をしたり口紅をつける上田ノ・フは車の柄に手をかけている大場看護婦長の痩せた 薬ことは大場看護婦長にはありえないことだった。ましてこかたくなな背中を眺めて、 の頬骨のでた暗い顔に男の患者たちが心を惹かれるという ( この人ったらほんなこと石のようだよ。人間の感情やら A 」 何処にあるとかいな ) 海ことも想像できないことだった。 ( そやけん看護婦長なんかになれたんだわ ) ノ・フは今あらすると彼女の胸に突然、この看護婦長の石のような白々 しっと ためて自分の上役になったこの女に嫉妬と憎しみとのまじしい顔を思いきりひきむいてみたい衝動が起ってくるので ある。 りあった気持を感じながら心の中でそう、呟いた。 おお こわば

8. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

をはずそうとした。 「これでようし、効いたなあ。・ほくはおやじと柴田さんを 「・ ( ンドをしめるんだ。・ ( ンドを」大場看護婦長と上田看呼んでくる」浅井助手は聴診器をはずすと診察着のポケッ 護婦がのしかかるようにして手術・ハンドで捕虜の足と体とトに入れた。「エーテル点滴は一応、中止しとけよ。あん を縛った。 まり効きすぎて死んでしまわれても困るからね。大場さ グラード 「第一期」 ん。手術道具の用意をして下さい」 戸田は時計を見つめたまま呟いた。第一期は患者が麻酔彼は勝呂を冷たい眼でチラッと見たまま、手術室を出て のため失われていく意識と本能的に闘おうとしている時で いった。看護婦長も準備室に戻って上田看護婦に手伝わせ ある。 ながら道具をそろえはじめた。無影燈の青白い光が周囲の 「エーテルの点滴を絶やすなよ」助手は捕虜の手を押えな壁に反射している。壁にもたれた勝呂のサンダルを透明な うめ がら注意した。マスクの下から低い動物的な呻き声が洩れ水がたえずぬらしていく。戸田一人だけが手術台に横たわ った捕虜のそばにたっていた。 はじめた。エーテル麻酔の第二期にかかったのだ。この 時、患者の中には怒鳴ったり、歌を歌うものもいる。けれ「こっちに来て」突然戸田はひくい声で促した。「こっち どもこの捕虜は大の遠呎えに似た声で、長く、途切れ途切に来て手伝わんかいな」 れに呻くだけであった。 「俺あ、とても駄目だ」と勝呂は呟いた。「俺あ、やつば り断るべきじゃった」 「上田君、聴診器を持ってきてくれ」 「阿呆、何を言うねんー戸田はこちらをふりむいて勝呂を 上田看護婦からステトを引ったくると、浅井助手は急い こら・ 児みつけた。「断るんやったら昨日も今朝も充分、時間が でそれを捕虜の毛むくじゃらな胸に当てた。 あったやないか。今、ここまで来た以上、もうお前は半分 「戸田君。点滴を続けてくれ」 は通りすぎたんやで」 「大丈夫です」 「半分 ? 何の半分を俺が通りすぎたんや」 「脈が遅くなってきたぞ」 助手が押えていた捕虜の両手を離すと、それはだらんと「俺たちと同じ運命をや」戸田は静かな声で言った。「も う、どうしよう、も、ない 手術台の両側に落ちた。戸田は看護婦長から受けとった懐 中電燈でその瞳孔を調べはじめた。 「角膜反射もなくなりました」 つぶや おれ

9. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

334 裸電球の暗い影がそこらに散らばっているセメントの袋「上田さん」大場看護婦長は細い眼でじっとノブを見つめ わら いうまで やこわれた実験用の机や藁のはみ出た椅子の集積に落ちてながら、「あんた。今日、もう家に帰っていいよ。 、た。車輪がものうい単調な音をたててきしんだ。 もないけど、今日のことば誰にもしやべるんじゃないよ。 「看護婦長さん」ノブはわざと大場さんとは言わず、看護もし、あんたのロが軽うかったら : : : 」 婦長さんと呼びかけた。「だれから今日のことば相談され「ロが軽うかったら、どうなりますとね」 ましたと ? 」 「橋本先生にどんなに迷惑がかかるか、わかっているでし だが相手の痩せた背中はこちらをふり向こうともしなか 、あんた」 った。彼女はかたくなに車の柄を握ったまま前へ進んでい 「へえ」上田ノブはロをすぼめて、「あたしたち看護婦っ た。それを見るとノブの唇に思わず皮肉な微笑がうかんて、それほど先生に御奉公せにやいかんとですかねえ」 ひと それから彼女は独りごとのように呟いてみせた。「あた 「浅井先生ですの ? あたし浅井先生に打ちあけられまししなんか、誰かさんとちごうて別に橋本先生のためだけで たとよ。浅井先生たら、三日前の晩、ひょっくり、うちの今日の手術ば手伝ったんじゃないんですからねえ」 ふる その時、ノ・フの眼には唇を震わせて口惜しそうに何か言 ア・ハートに来られるんですもん。ほんとに驚いたわ。だっ いかえそうとする大場看護婦長の歪んだ顔が見えた。看護 てえ、浅井先生たらお酒ば飲んで : ・ 、あたしに : : : 」 「うるさいわ」突然、大場看護婦長は担架車から手を離し婦長がそんなくるしそうな表情を部下にみせたのはノブが 病院に勤めてから始めてのことだった。 た。「車をとめなさい」 ( あたしの想像した通りやった ) ノブの心には相手の急所 「ここに置いて : : : ええんですの」 を遂に突いたという快感がわいてきた。 ( ああ、イヤらし か。この石みたいな女、橋本先生に惚れとったんだわ ) と 「だれがこの車ば受けとりに来るとですの」 「上田さん、看護婦たちはだまって先生の御命令通りにす考えた。 彼女は大場看護婦長にだまって背をむけると、そのまま ればいいんです」 死体にかぶせた白布が闇の中に浮かんでいる。二人の女昇降機には乗らず、最近設けられたばかりの非常階段から はしばらくの間、担架車を真中にはさんで、眼を光らせな中庭に走り出た。 その中庭にはもうタ闇が迫っている。むかし彼女が看護 がら睨みあっていた。 くらびる くや

10. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

それを始めて教えてくれたのは隣りの雑賀さんの奥さんで「心配することあらへん」上田は象のように細い眼で笑い したが、はじめはサカと思 0 ていました。夫にそれを ながら言いました。今、考えると彼は子供が死んだために よろこ ねると、眼を細くして笑うだけで、笑われるとわたしも信かえって、わたしと別れやすくなったと心中、悦んでいた やみよ じたくなります。闇夜の中でいじられると情けないことにのかもしれません。「お医者はんに訊いたら、あの点は大 は体は心の言うことを聴かなくなり、もう夫を疑えなくな丈夫じやげなという話や。なに ? あれのことだがな。そ ってきます。 れに医療費もタダみたいなもんたい。そげん損もしとらん 四月、内地は春でしようが大連の街ではまだ油煙でくろぜ」 、び ずんだ凍み雪が残っているのです。寒さもまた厳しく、わ その言葉をきいていると突然わたしは彼が女を作ってい たしは満鉄病院でお産を待っていました。この病院には満るのだなと気がつぎました。雑賀さんの奥さんの言ったこ 鉄社員の家族はほとんど無料で入院できるから早くはいるとが本当だったのです。けれどもふしぎに怒りの気持も嫉 のが利得だという上田の言葉を真にうけたのです。赤坊も妬の情も起きませんでした。女の生理を根こそぎにえぐり ほしかったし入院させて女を家に連れこまれているとは夢とられたあとの、ポッカリと穴の開いたような感じー、、、・そ にも考えていませんでした。 のうつろな感じがわたしを、すっかり打ち倒していまし うまずめ お産のことは今日、これを書いている間も思いだすだけた。石女ならまだいい。いっかは手術によって母親になれ で辛くなります。この手記を読んでくだされば、わたしがるでしように。母性を奪られたわたしは生涯、片端の女と 子供を持てない女になったため、心にも人生にも罅がはい して生きていかねばなりません。 ったことがわかってくださるでしよう。赤ちゃんはどうし退院した日、一カ月ぶりで外に出ると大連にも春が訪れ なか ねこやなぎ たことか、わたしのお腹の中で死んでいたのです。 ていました。街の曲り角を綿毛のような猫柳の花が風に送 ますお 薬満洲男という名を自分勝手につけて楽しんでいたのですられて飛び、その白い花びらが迎えにきた上田の汗ばんだ くび しな が子供の顔も、体も、遂に見ることはできなかったので頸をかすめ、支那人のアマの持ったトランクの上に舞いお 海す。看護婦学校を出たわたしは、この死産がどういう結果りていきます。トランクの中には役にたたなかった赤坊の くちびるか になるかをぼんやりと感じていましたから医者にも泣いておむつや産着がはいっているのをわたしは唇を噛みしめ 頼んだのですが、結局、母体を救うため女の生理を根こそながら怺えたものです。 ぎにえぐりとられねばなりませんでした。 つら ひび こら