ような小さなセックスを持っていたという思い出話をしてような場所にネズミも生きたのだという事実を、男はふし 声をたてて笑った。暗い事務室からロイドのような顔をだぎな気持で噛みしめる。そして、もしネズミがあの話のよ して学生証や学割をだしていたネズミ。せかせかと学校内うな形で仲間のために愛のために死んだとしたならば、そ れは遠いむかしの江戸の物語ではなく、男自身の心にもや を歩きまわり、気の弱そうな笑いをうかべているネズ、、 髪をきれいに分け、ハンカチを胸に出した卒業生たちは最はりかかわりのある話だった。だれが、なにがネズミにそ んな変りかたをさせたのだろう。だれが、なにがそんな遠 後に校歌を歌って解散した。 会がはねたあと、みんなはそれぞれタクシーをつかまえい地点までネズミを引きあげたのだろう。男は首をふり、 て銀座の酒場に二次会に出かける。男は一人、雨のなかを前の席に居眠りをしている娘や競輪新聞に首をかしげてい 都電に乗った。電車には夕方、ここに来た時と同じようる青年を眺めた。それらの連中の中にーーーそう、その連中 に、湿った傘や泥の臭いが人々の体臭と一緒にこもって いの中に、ロイドのような顔をして、泥をつけたズボンの膝 る。自分と同じように見ばえのしない乗客たちを眺めながを貧乏ゆすりしているネズミが腰かけていると男は思っ ら、男はまた荷風のまねをして、この連中の生活を考えた。 た。真向いの青年は鉛筆を出して競輪の新聞をひろげなが らなにか書きこんでいる。夜間高校からの帰りらしい娘が クラウン・リーダーを膝の上において居眠りをしている。 それらの乗客はすべて彼自身と同じように、色あせた毎日 のなかで臆病に生き、臆病に埋れていく連中にちがいなか った。だが札の辻を通りすぎた時、男は雨で曇った窓を指 でふいて食い入るように外を眺めた。 暗い燈のついた店や家々の背後にあの崖は真黒にうかん でいる。ネズミが入れられたダハウという所はどういう場 所かしらぬ。しかし彼はむかしニュース映画で収容所の光 景を見たことがある。それはほとんどきりしたん信徒たち が入れられた小伝馬町の牢獄と同じようだった。その同じ
なかうそ のろまな生徒は、昼間タマッキ屋の蔔こ 月冫いたという理由でじ思いを起させたであろう。 ・ : 二人は半ば嘘になるのを せつかん 警察へつれて行かれ、折檻されてペソをかきながら帰って意識しながら、なおのこと新しい冒険についてのプログラ しせし きた。 : こんなことが何時、どうして起るのか、僕らに ムを威勢よく話しはじめる。だが、またふと、それはと切 はサッパリ解らなかった。ただそれが、毎日が退屈でたまれる。 : : : 暗い窓の外を、脱走した同僚兵でも探している おも かげえ らないような時期、何かを置き忘れてどうしても憶い出せのか剣付鉄砲の兵隊の姿が兇器の影画のように横切ったか ないようなジリジリした気分のときに、不意にやってくるらである。 ことだけはたしかだった。なぜなら心がそんな状態のとき ( 僕らはそれを沈滞と呼んでいたが ) は、僕らの方でもき京都からの手紙は、だんだん狂暴な調子を帯びてきてい おおげさ っと何かを為出かしたくなったのだから。 た。東京の二人が競争して媚びるためにいきおい大袈裟な 僕らは、たびたび沈滞した。冒険も一度や 0 てしまえば表現にがているのだとは知らず、藤井の方は負けまいと がんば 一一度目には刺戟がすくなくなるのが当然だし、たびかさなして一層頑張るのだった。 : : : 極端に主観的で独断の多い る度数に応じてこの沈滞もくるわけだった。最初のうちは思想、徹底した病的なイメージ、ほとんど判読しかねるほ 例の気まぐれな取り締りが僕らを救った。あのアベコペぶどの思考の飛躍、が奇矯な文体で書いてあった。そしてと りは日を追って顕著になり、なまけ学生の狩り出しに憲兵うとう冬のもっとも寒い頃のある日、 すわ さび まで参加するほどになった。これはまるで、坐ったまま動 来たときと同じ淋しさや、帰るときの京の春。 くパノラマによって旅行できる椅子と同じ効果があった。 という変な俳句の手紙がきた。それには学校から退学を : けれども、こんな取り締りもくりかえされるうちには命・せられてしまったこと、悪い病気におかされたこと、そ いなか 次第に僕らの心を弱くして行った。倉田も僕もほとんど教して朝鮮の田舎へ帰ろうと思っていること、をしるしてあ 室へは出ず、そうかといって何かやらかす気力もなく、ゴ 仲ミゴミした町のうす暗い喫茶店の椅子に、二人して錆びつ まわ いたような気持で顔を見合せながら一日送ってしまうこと手紙は倉田のところから廻されてきた。彼は伝令の馬の にお も多くなった。湿ッぽい臭いのする煉炭火鉢に老人のようように、白い息を吐きながら世田谷の僕の家へやってき にかがみこんでいる倉田を見ていると、反射的に高麗彦の ことが思い出された。おそらく僕の姿もまた倉田の心に同手紙をみると僕は何も考えることが出来ないほど驚し しだい す れんたん こまひこ
もなく頭の中にはそんなコースが出来上っていた。 ら港の景色でも見物しよう、 その方がどうやら私には 街を歩いていくらも行かないうちに一軒のレストラン似つかわしいようだ。と、考えなおして、ただせめてこの きっさてん : はやくも私は心に、スー。フ皿に際は宿望をはたすと言う意味から、その辺の肉屋へは行か 喫茶店がみつかった。・ つつこんだス。フーンの感触をおもい起しながら、いそいそず、わざわざ例の食料品店まで出掛けた。ところが、これ と入口へ近づいた。ところが私の体は店の一尺前あたりへが一層悪い結果をもたらした。あの、磨き上げたショウ・ くると、危険なカスミ網にでも感づいたかのように、足どウインドウのガラスに、どうしたかげんかハッキリと私の りが曲ってスーツと迂回してしまった。・ : おかしなこと顔がうつってしまったのである。これは、いきなり零点の もあるものだ。私はもう一度もどろうと思うのだが、脚は答案をつきつけられるよりも、ひどかった。顔面の青黄色 まゆ 言うことをきこうとしないで、どんどんと通りすぎてしまい皮膚はヘちまのようにのび、眉も目もたれ下って口が半 さつ、 : ふだんこのショウ・ウインドウを う。私はまた別の食堂の前へきこ。・こ・ : オナカここでも先刻と分あきかけている。 しんちゅう 同じように体がよそへ行ってしまう。 : : : ドアの真鍮の金見つめるとき私は、下卑てはいるだろうが、それだけに一 しきいし つらだましい 具や白いタイルの敷石や、そして静かに整列した椅子の背種不敵な面魂をみせている心算だったのに、これではま 中がいくつも浮かんで眼に入ると、光にけっして近づけなるで腑抜けそのものではないか。 けもの : ソーセージもやめた。私はもはや周囲の何物にも興 い獣のように、きまって私の体は引きかえしてしまう。何 回も同じことをくりかえしているうちに、とうとう私は食味をうしなった。ただ歩くことだけはやめなかった。何か 堂があるということ自体が不愉快になって、通りをまっすに、じりじりしながら歩いていた。すると、角にある一軒 の店の、 ぐに歩けなくなった。 いったいどうしたことだろう。お金のないときには、あ大ふく。あま酒。大盛ぜんざい ゅうゆう んなに悠々と歩けた街が、いまはこんなに気おくれしなけとかいた大きな看板が私をあるヤケクソな気分に誘いこ ればならないとは。 : ・私は、ついさっきまでの幸福な予んだ。子供のときから私はアンコやモチのたぐいを軽蔑し 感に、だんだん自信を失いながら、どうしても食堂へ入るきってきたのだが、いまはあの、白くて、やわらかくて、 むらもうまい いっそあの、 ことが出来ないものとすれば、 つもショ 無智蒙昧な、甘さのほかには何の芸もない大ふく餅こそ自 ウ・ウインドウを眺めた店でソーセージでも買って、山手分にもっともふさわしいものだ、という気がして、白いキ まるかじ ほお ャラコののれんを割って入ろうとした。そのとたんだっ の外人住宅地の丘にのぼり、丸齧りにそいつを頬ばりなが ざら つもり もら さそ
とこ、ようこ 徳妹の杏子が遊びにやってきた。 いつの間にか桜も散った。例年このころになると母親も彼女は順太郎の家庭教師だった男と最近婚約しようとし むすこ かっころ′ なこうど 落第についてのグチをこ・ほさなくなる。彼女にとって息子ている。母親が仲人という恰好だ。母親は前にも一度、杳 ク こきくとゲ の落第は一時の不愉快なる現象なのである。したがって順子のために見合いの世話をした。話冫 太郎も一と息つくことができる。それで順太郎は、桜の花 ーにそっくりの男だということだった。それ以来、順 しっと はウットウしいが、若葉の出そろうときは美しいと思って太郎はゲ 1 丿 ーの写真をみると嫉妬ともっかぬ いるのである。 奇妙なイラ立たしさに駆られた。それは何かの理由で立ち 実際彼は浪人して以来、季節のうつりかわりに敏感にな消えになったが、こんどの場合は着々と成功しつつあるら った、というのも浪人には毎年毎年きまりきった生活しかしい。母親が、いちいちそのことを順太郎に報告する。こ ないからかもしれない。一昨年も、昨年も、そして今年のところ、それが彼女にとって唯一の情熱のハケロであ も、彼は同じ問題集、同じ教科書で、同じように苦しみ、 そしてなお前途にはつねに変らぬ絶望的なものが横たわっ 「お前、どう思う ? 吉野さんの方は、どうやら気に入っ ているのである。ただ問題集の手摺れがだんだんヒドくなているらしいよ。『眼が好いですねえ』なんて言ってたか り、教科書のアンダーラインがふえて行くというだけだ。 ね、ふふふ」 彼は、試験について、こう思った。ーー何ごとも一回でス 母親はそんなことを、一種の遠慮とそれを裏返しにした ッとやりおおせる人間と、失敗しないと何も出来ない人間イヤガラセで、順太郎に訊く。 とがいる、失敗する人間はどんなやさしいことにも失敗「そうね、・ほくもこれはウマく行くと思うなア」 し、それが事をはじめる準備行動だと思っているが、入学順太郎は心の動揺を見られはしまいかということが気に 試験は決してそういう失敗を許さない。だから、おれは三 かかって、顔をそむけながら、そう答える。すると母親 年間浪人しても、同じ軌道をグルグル回っているだけで、 は、また慰めともイヤ味ともとれる口調で言う。 決して中心点には到達する見込がないんだ、と。 「そうかね。杳子の家じゃ、お前と杳子がちょうど好い対 しかし、そういうことを別にして、ことしは異変が起り手だと思っていたらしいんだけれどねえ : : : 」 つつあった。 母親は暗に落第の年数の長さを言っているのである。正 当に行ったら、あと一一年と何カ月かで大学を卒業してしま
にはっと ることのできぬ距離があると思う。どうして彼等はみな、 「又、此中、将軍様の御法度に従って、その奉行都より下 あたり ああ、強かったのだろう。 られて善悪、此の辺の切支丹衆を転ばせうとて皆に判も据 切支丹史のなかで能勢はいつも我身と同じような人を探え切支丹の行儀をさしうけ、せめて表面なりとも転べと頻 した。しかしそこに語られている人物たちには、彼のよう りに勧められたに依って、我等が女房子供の命を逃れうず な人間は一人もいなかった。ただ「切支丹告白集」の中でるために、終にロばかりで転ろびまらした」 コリヤドが名前も伏せて伝えている男だけが、こちらの心 男がどこで生れ、どんな顔をもっていたのかもちろんわ にじんとしみてきた。その男だけが能勢と同じような薄弱 からない。おそらく武士だったことは、なんとなくわかる な意志やまずしい節操を持っていたからである。古本屋で が、しかし、誰の家来だったかは調べることもできぬ。自 ふと見つけたこの本を関心もそれほどなく頁をめくってい分の告白が、こうして異国で印刷され、ふたたび日本人の らくだ ひざます るうちに、三百年も前、司祭の前に駱駝のように跪き幾手に戻って、能勢のような男に読まれるとは彼も生涯、想 分、自暴自棄と自分の汚なさを曝けだす快感にかられた姿像しなかっただろう。しかし、能勢にはその男の顔はわか が次第に能勢の心に浮かんできた。 らぬが表情の動きだけは担めるような気がした。もし自分 「ゼンチョ ( 仏教徒たちのこと ) のところに久しう居りまが同じ時代に生れあわせていたならば、男と同じように自 したれば、その宿の亭主と隣りより切支丹と見知られまい分が切支丹であることを知られないために、仏教徒に誘わ 為に、それを伴いたいて、たびたびゼンチョの寺へ行っれれば寺にも参ることぐらい平気でやったろう。誰かが切 ののし しようねん て、ゼンチョなみに誦念もいたしました。また再々ゼンチ支丹信仰のことを悪しざまに罵っても眼を伏せて、知らぬ 日神仏を賞美せらるる時、我も頷いて言葉でもなかなか御顔をしていたろう。いや、転べと言われれば、自分や妻子 もっと の命を全うするために、転び証文さえ作ったかもしれな 尤もじゃと深い科を犯しまらした。これは何度でござろう たび と覚えませねど、大略一「三十度ほど、せめて二十度あまい。 りであつつろうと思いふくみました」 ころ 「またゼンチョと転び切支丹と、互いに切支丹の事をそし お招 りあざけり、デウスに対しても悪口を吐いていらるるとこ今まで雲仙の頂上を覆っていた雲にほんのりと微光がさ ろへ、我がっきあうて、その物語をば叶いながらも、やめしてきた。ひょっとしたら晴れるかもしれぬなと彼は思っ させまらせいでもどきもいたさいでござった」 た。夏ならばドライ・フの車が列をなして往復しているにち かな この うわべ し
ほりよ 「でも今日のこと、お前、苦しゅうはないのか」 な時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけや。 「苦しい ? なんで苦しいんや」戸田は皮肉な調子で「な俺たちを罰する連中かて同じ立場におかれたら、どうなっ にも苦しむようなことないやないか」 たかわからんぜ。世間の罰など、まずまず、そんなもん 勝呂は黙りこんだ。やがて彼は自分に言いきかせでもすや」 るように、弱々しい声で、 だが言いようのない疲労感をおぼえて戸田はロを噤ん 「お前は強いなあ。俺あ : : : 今日、手術室で眼をつむってだ。勝呂などに説明してもどうにもなるものではないとい あ、ら おお おった。どう考えてよいんか、俺にはさつばり今でも、わう苦がい諦めが胸に覆いかぶさってくる。「奄はもう下に おりるぜ」 からん」 「なにが、苦しいんや」戸田は苦がいものが咽喉もとにこ みあげてくるのを感じながら言った。 「あの捕虜を殺したことか。だが、あの捕虜のおかげで何「そやろか。俺たちはいつまでも同じことやろか」 千人の結核患者の治療法がわかるとすれば、あれは殺した勝呂は一人、屋上に残って闇の中に白く光っている海を 見つめた。何かをそこから探そうとした。 んやないぜ。生かしたんや。人間の良心なんて、考えよう ( 羊の雲の過ぎるとき ) ( 羊の雲の過ぎるとき ) 一つで、どうにも変るもんやわ」 なが 彼は無理矢理にその詩を呟こうとした。 戸田は眼をあけて真黒な空を眺めた。あの六甲小学校の ( 蒸気の雲の飛ぶ毎に ) ( 蒸気の雲の飛ぶ毎に ) 夏休み、中学の校庭にたたされていた山口の姿、むし暑か だが彼にはそれができなかった。ロの中は乾いていた。 った湖の夜、薬院の下宿で小さな血の塊りをミツの子宮か ( 空よ。お前の散らすのは、白い、しいろい綿の列 ) らとり出した思い出が彼の心をゆっくりと横切っていっ 勝呂にはできなかった。できなかった : ・ 薬た。本当になにも変らず、なにも同じだった。 毒 「でも俺たち、いっか罰をうけるやろ . 勝呂は急に体を近 と ささや 海づけて囁いた。「え、そゃないか。罰をうけても当り前や けんど」 「罰って世間の罰か。世間の罰だけじゃ、なにも変らん ぜ」戸田はまた大きな欠伸をみせながら「俺もお前もこん かたま ごと つぐ
一と月たった。山田も順太郎も結局、大の予科に通うとがわかったら、それこそ腰をぬかすぜ」 ことになった。 「だいじよぶさ。何とかなるよ。見つかったら、そのとき 何ともおかしな気持だった。いまさら「新入学」といつはあやまるだけのことさ。予科から学部にうつるときに よ、 た晴れがましい気持になれないのは仕方がないとしても、 かならず他の科へ行けるようにします、とか何とか一 = ロ これまでよりはいくらかでもマトモな「表通り」を歩いてっておけばいいよ」 いるという感じも全然なかった。第一、二人で教室で机を「そうかな、しかしおれの親じは嘘をつくやつだけは許せ ふんいき 並べて坐ると、異様な雰囲気があたりにただよいはじめるん、と言う方だからな」 のだ。二人とも新しい学生服をつくらないで、予備校のと 二人は一日に一度は、こんなことをヒソヒソと語り合 きの服にボタンだけ新しいのにつけかえたのを着ていたせう。こんなくらしは浪人のころにくらべて落ちつきのある いもあるが、そんなことよりも一一人は他の五十人のクラものとは言えなかった。話し合って別れたあとでは、おた けいべっ ス・メートと、どこかしらまったく異った種類の人間であ がいに軽蔑し合った。そのくせ次の日に顔を合せると、ま った。年のちがいということもたしかにある。けれどもク た同じことを心配したり慰めたりするのだ。 ラスには彼等と同年の者だっていないわけではないし、浪 人二年はめずらしくないのだ。それなのに彼等二人だけ 一方、後藤はあの日以来、高木の下宿に住みついて、女 が、どういうわけか珍奇な一一匹の動物のように見える。 が県にかえってからも、二人は転々と下宿をかわりなが 一つには、二人が共通の秘密をもっていたからだろう。 ら、同じ部屋でくらしていた。きのうまで中野にいたかと おもうと、いまは浅草橋の台地の、待合と芸者家にかこま 二人とも家には医学部に入ったことにして、文科に来てい るのだ。このトリックは順太郎がすすめて山田にもやらせれた路地のおくのアパートにいるといった具合だ。 この二人に対しても、山田と順太郎は負い目を感じなく た。悪事は一人でたくらむより仲間をもった方が気が軽い し、それにどうせここまで一緒に来たのなら、同じ学校にてはならなかった。ほとんど毎日のように顔をつき合せて いた連中と、別の生活をはじめることは、それだけでも何 行きたかった。 「こんなことをしていて大丈夫かなア。うちの親じは工科となくウシロメタい気持がする。それに彼等は何といって 出の技術屋で、「機械は嘘をつかんからいい』と言うのがも自己に忠実な生き方を押しすすめているところがあっ こ。待合のとなりのアパートに住むことで、江戸情緒にひ ログセなんだ。文科のしかも文学部へ行っているなんてこオ / うそ
うところだ。しかし順太郎の場合はウマく行っても大学に赤らめようとしても、赤くならないし、頭を掻くのもへん 入るまでに三年何カ月かを要するのである。 なものだ。・ : ・ : 結論としては、このようにウンザリする場 杳子は、伯母といっしょに和服の盛装でやってきた。ウ所からは大急ぎで退散すればいいのだが、・ とういうわけか 心の底のどこかに こいつらには負 エーヴをかけたばかりの頭髪がカッラをかぶったように見それだけは出来ない。、、 える。女学校を出て、まだ一年とすこししかたたないのけたくないという気持がある。しかし、この場を出て行く に、もうすっかり型にはまった大人の世界に通用する顔つことがどうして負けになるのか、また彼女らのどういう点 きだ。そして、それはデパ 1 トのショ 1 ウインドウに花嫁に対して負けたくないのか、そいつはサッパリわからな 衣装をつけて飾られたマネキン人形に何と似ていることだ い。彼はただ、じっと坐りこんで、杏子の結婚式の日どり よそお ろう。彼女はまるでヒタイを畳に吸いとられたように長ながどうだとかいう話を、つとめて何気ないふうを装いなが がとお辞儀した。 ら聞いているのである。 「叔母さましばらくでございました。戦地の叔父さまもお 元気でご活躍ですか。順ちゃんはまた : : : 」 それから一一三日たってのことだ。順太郎は、山田といっ と、そこまでレコ 1 ドに吹きこんであったように流れてしょに高木につれられて、川向うの町へ散歩に行った。 いた言葉が、ばたりと止った。 もうそのころは、さすがの順太郎も予備校で三年間、同 どうせそこまで言ったのなら、ついでに「ご愁傷さま」じ机に向かって同じ問題集をひろげ、同じ黒板にかかれた とでも一一 = ロったらいいじゃよ、 オしか、と順太郎は思った。しか定冠詞の使用法だのトレミー の定理だのを、同じ顔ぶれの し杏子は黙ったままだ。杏子の母親があわてて何か言いそ教師から聞かされることには倦き倦きして、カバンをかか うにするのを引きとって、 えて家を出てもめったに学校には行かず、仲間の三人で打 る 「いえ、ねえ、まアうちの子はゆっくりやらせます」と、 ち合せて、それぞれの家や下宿や街の喫茶店などをわたり れ げ順太郎の母親はしどろもどろの挨拶をおくっている。 葉こういうときには一体、どういう態度をとるべきだろ その日も三人は、学校を中途で切り上げて、アテもなく う ? やつばり恥ずかしがらなくてはいけないのだろう銀座からカチドキ橋まで歩き、そこでまだ完成したばかり 3 か。しかし義務として恥ずかしがろうとしても、それにはのハネ橋がハネ上るさまなど見物したあと、しばらく橋の どうすればいいのか、順太郎は見当がっかないのだ。顔を上から川の景色をながめていると、 あいさっ
味が裏側にかくされている。ただ康子の夫だけが退屈そうなど病院付属の看護婦学校から合唱を練習する声が病室ま に膝の上に組みあわせた親指をあげたり、さげたりしてい できこえてくる。看護婦たちが * マスの夜に小児科病棟に こ 0 入院している子供に歌を歌うのがこの病院の毎年の慣例だ 「そろそろ失礼しようか。病人が疲れられるといけんからった。 したく ね」 「今度の手術も今までと同じ支度でいいわけですね」 しっとう 「そうだったわ。ごめんなさい。なにも気がっかなくて」 能勢は病室で若い医師と話をしていた。手術の執刀はも はず このなにも気がっかなくてという彼女のさりげない言葉ちろん教授がやってくれるがこの若い医師も手伝う筈であ は能勢の胸をチクリとさした。それは四人の会話の充分なる。 締めくくりだった。康子の夫は何も気がついていない。そ「ええ、能勢さんぐらいになると手術ずれしているから して他の三人はなにも気がっかぬふりをしてそれを口に出ね。今更、支度もいらんでしよう」 どじよう さないでいるだけだ。みんなは、この一件を彼のためにも「前は骨ぬき泥鰌にされましたが : : : 」 ごまか 自分たちのためにも誤魔化しているのだ。 胸部の骨を切ることを患者はこう呼んでいた。 「おはよう、おはよう」 「今度は片肺飛行機にされるわけか : : : 」 べランダではまだ子供が九官鳥にむかって教えつづけて若い医師は苦笑して窓に首をむけた。マスの合唱の声 が窓から流れこんできてうるさかった。 「言えよ。言わないか。九官鳥」 汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり・ : Ⅳ 「確率はどのくらいですか」 手術があと三日という日、今まで静かだった毎日が急に能勢はじっと相手の表情の動きから眼を離さずに急にそ 忙しくなった。看護婦につきそわれて肺活量や肺機能を調の質問を発した。 べられたり、血液を何回も取られた。血液型をみるだけで「ぼくが今度の手術で助かる確率ですが」 はなく、手術台で能勢の肉体から流れでる血が何分で凝固「なにを今更、弱気なこと、言うんです。大丈夫ですよ」 するかを知っておかねばならぬからである。 「本当ですか」 それは十一一月の上旬だった。 >< マスがちかいので昼休み「ええ : ・ ・ : 」しかしその時、若い医師の声には一瞬苦しい
師が小伝馬町の牢獄の様子を説明するとタ暮の図書室の中残っていたからである。 に溜とも吐ともっかぬ声が起りみんなの体が小波のよ会が終る直前、男はうす暗い読書室の隅にネズミが学生 うに動いた。戦争も少しずつ烈しくなり、街も暗く、食糧たちと同じように腰かけているのに気がついた。あの時、 も不足しだした毎日だったがその東京の毎日でもまだこのネズミも硬直したように直立して、修道服を中佐に握られ 江戸時代にくらべれば遙かにましなような気がする。 たまま曳きずられたのである。男はそんな修道士がこの席 せいさん こつけい 他の学生たちと同じように男も、そんな悽惨な出来事やになに食わぬ顔をして腰かけているのがいかにも滑稽でネ ひとこま 場面を古い無声映画の一齣でもみるような感じで聞いていズミのよう いや滑稽というよりはひどく偽善的な気さ た。自分たちにはまったく関係のない、過ぎ去った時代のえしてきた。その偽善的な感じにはネズミが病気になった 出来事だと思う。 時、病室が吐気のするチーズのような臭いになったとか、 は・りもんど 投獄された信徒の中には二人のイス。 ( ニア神父と原主水そのセックスが豆のように小さいという話とまじりあって きん という武士がいた。主水は千葉の原一族の子弟で家光の近きた。 ほこりくさ 侍として仕えていたが、周囲の説得や勧告にもかかわらず会が終って、男があくびを噛みながら学生たちの埃臭い けん きりしたん信仰を捨てなかった。二度の捕縛の後手足の腱体にまじって階段をおりかけると、背後から、眼鏡の奥か ら・くいん を切断され、十字の烙印を顔に押されたまま小伝馬町に連ら眼を細くして肩を並べてきた。 れてこられたという。 「あのね、札の辻、どこでしよう」 「札の辻 ? 」 殉教者たちの話も男にはこちらが雨なのにむこうだけ、 陽のあたっている丘を遠望しているような気がした。昔の「そのことは今の話に出てきましたよ」 信仰のある人というのではなく信仰などのない自分とは本五十人の信徒たちが処刑されたのは札の辻だとさっきの ZJ う 質的にちがう意志の強さと性来の剛毅さとを兼ねそなえた講演者が言っていたのをぼんやり男は思いだした。だがネ 人間にちがいなかった。ひょっとすると、それは狂信ではズミが他の学生ではなく彼に話しかけてきたのが不快だっ さいご ないかとさえ思った。ただ教師が彼等の最期を述べた時、た。こいつは自分と俺とがあの夕暮、同じ被害者であった 男はなぜか、先日の夕暮、人影のない学校の廊下で中佐に ために、仲間になったと思っているのではないか。いや、 なぐ 殴られたみじめな自分の姿をくるしく思い出した。右腕でひょっとすると自分の弱さを俺に話しかけることによって かっこう 顔を覆って逃げようとした自分の恰好はまだ口惜しく頭に容認しているのかもしれぬ。そう考えたので男は階段の途