馬鹿にしたり反抗することだった。そして、そんな空気の神父たちに頼んだそうだ。 なかで、学生課の小さな窓から学生証や通学証明書をわた「死ぬのが、こわいのです。私は、死ぬのがこわいので すネズミの顔はますます、おどおどと蒼白くなっていくのす」 はじがいぶん ・こっこ 0 熱で汗だらけになりながら、ネズミは恥も外聞もなく看 体格の大きな外人司祭や修道士のなかでネズミは珍しい護婦にも見舞にきた学生にも叫び続けた。病院の枕元にネ ほど背が低かった。戦争事情のためすっかり貧弱になったズミは母親と妹との写真を飾っていたが部屋中外人特有の 学生たちと並んでも首も手足も子供のように小さい彼は目チーズのようなむっとする体臭がこもっていた。しかし学 せたけ さら だった。背丈が小さいだけでなく、ロイドという昔の喜劇生たちを史に笑わせたのは校医の息子の見たというネズ、、 ちょうしよう 俳優に幾分、似たその表情は単純な学生たちの嘲笑やかのセックスのことである。 らかいの的になる。彼がいかに気が弱く臆病であるかとい 「あいつのアレは : : : 」と息子は言った「豆のように小さ うさまざまな話が学生の間に伝わっていた。 いんだぜ」 たとえばそれはこういう話だった。一年ほど前、一人の チーズのような臭いを体から発散させているくせに、死 学生が三階の教室の窓から誤って落ちたことがある。友人ぬのをこわがって子供のように泣き叫び、その上豆のよう たわむ まどわく と戯れながら硝子窓に寄りかかっていた時窓枠がはずれた に小さなセックスしか持たぬという修道士の話は、学生に たた のである。地面に叩きつけられた彼の廻りに人々が飛んで笑いだけでなく、軽蔑の念を起させた。白人と戦争してい すで きたが、当人は既に気絶して、顔も手も硝子の破片で血だる時代だけに、時として学生はこの臆病なネズミを残酷な たんか らけになっていた。担架が運ばれ彼が連れ去られたあと、形で苛めたがった。 現場の学生たちはネズミが蒼白になって電信柱に体を靠ら男とネズミとを近づけたのはそんなある日の夕暮のこと 辻せていたのを見たのだった。落ちた学生の傷だらけの顔とだった。 の血の色にこの修道士は脳貧血を起したらしいのだ。 その夕暮、男は放課後遅くなるまで学校に残っていた が、用事があるためではなかった。みんなの引きあげた埃 札こんな話もあった。大学の校医の息子が学生たちに聞か ふくまくえん あかねいろ せたと言うのだが、ネズミは一年前烈しい腹膜炎で入院しっぽい教室の真中で頬杖をつきながら男は茜色の空と暮れ たことがある。修道士は日本の医者を信用せず、どんなこていく濠の水と黒い民家とを・ほんやり眺めていた。 とがあっても外国の医者を呼んでくれと泣きながら上司の放心した彼はその時廊下の遠くでキュッ、キュッという ガラス もた けいべっ ほおづえ なが
するこの大学はなにかにつけて警察や軍部から注意されて「百姓 ! 」 いるらしく、学生は時々、憲兵が構内にある修道院を偵察ある日、その外人の一人が吐きだすようにそう呟いた。 やすくに にくる姿を見た。男が入学する前年に、靖国神社事件とい 男はまだ憶えている。それは毎月の大詔奉戴日の曇った ちよくゆ う出来事が起って、問題になったことがある。新聞にも出朝だった。その日学生たちは小さな校庭に集って勅論の朗 たいしようほうたいび けいし《′ たその事件は、文部省から大詔奉戴日ごとに強制された靖読を聞き、国旗の掲揚に注目させられる習わしだった。 国神社参拝を信者の学生が拒否したため起った。 あまり色鮮やかでもない日の丸がだらしなく曇った空の その事件の翌年、この大学には北支戦線から帰還したば なかに垂れさがって、 かりの中佐が配属将校としておくられてきた。 「敬礼、解散」 弓弦のようにびんと空気の張った冬の朝、四谷のお瀁ば そういう号令がかかった時、突然、中佐が動きだした教 たを馬にふん反りかえったこの将校の姿を学生たちはよく員たちを制し、壇上に登った。ながい間彼は学生たちを、 見た。都会に初めて来た皿舎者がいらだつように、中佐は鋭い眼つきで見おろしていた。いかにも自分の圧力をため ことさら こつけい 外人司祭の多いこの学校のなかで殊更に自分の力を見せよそうという小児的な姿は滑稽だったが、一人として笑声を うとしているのである。しかし手入れのよく行き届いた彼たてたり、ロ笛を吹くことはできなかった。 らようか の長靴は銅色にかがやき、大学の前で馬をすてると中佐は「お、お前たちは : ・ : ・」中佐は興奮すると口がどもる癖が くちひげ ロ髭をはやした赤ら顔をひきしめて学生たちの敬礼をうけあった。「だ : : : 堕落しておる。お前たちだけでなく : : : る。廊下や教室の前で煙をすったり、ふざけていた学生この大学のがい : : : 外人も、職員も : ・ : ・腐っておる」 たちは、その乗馬靴のならす革音がきこえてくると、急に 男はその時、壇上の両側に並んだ教員たちの顔を注目し こわば 眼と眼とを見かわし、煙草をもみけして逃げるように教室たが、そのいずれもあるいは強張り、あるいは硬直してい に入るのである。 た。古綿色に曇った空の遠くで飛行機の爆音なのか鈍い音 くず ほこわ′ 中佐に怯えたのは学生たちだけではなかった。授業の途がきこえてくる。つむじ風が校庭の隅の片屑を黄色い埃と 中でも廊下にあの長靴の革の響きが近づいてくることがあ一緒に巻きあげている。しかし誰もがこの無礼な怒声を黙 る。と、外人の司祭教授たちは教科書からひどく不快な顔つたまま聞いていた。 げいごう をあげる。次第に近づいてくる靴のきしむ音が遠ざかるの 学生たちのなかには中佐に迎合する者もいた。迎合する をじっと聞きながら、 とは彼等の場合、ことさらに外人司祭の教師や修道士を小 おび べイサン
させたという平面的な表現上のことではなく、安岡文学の本質十八年十月、小雨降る明治神宮竸技場で開かれた文科系出陣学 を支える重要なファクターとなっている。安岡にあっては、日 徒壮行会以来、大量の学生が戦争に動員された。 常なにげなく使われている漢字の「形」がもたらすイメージは、 一三 0 イラ立たしい幻影持ち主の手をはなれた質ぐさの中に、「お 既成の概念や不動の約東ごとを暗黙のうちに引き受けているこ 客 , の人生の生々しい構築の切断面を見せつけられている個所 とで成り立っている、自縛に近い感触の世界でなければなるま である。そして同時に、自分の生き方の仕組みにも気づいてい い。カタカナの感触は、そういう「形」の束縛からはるかに自 く契機をつかむのである。 由である。読者はカタカナことばによって、安岡の生理的な感一三一一あの方はあたしからのお餞別にさせて : 「あの方」とは 覚、肉感的な感情流露の世界に導かれるばかりでなく、読者自 肉体関係をさしていることはいうまでもない。以前の職業的な 身の自由なイメージをこのカタカナことばに託していくことも 感覚で「明るい笑いをうかべながら、それだけ言う」とらわれ 可能なのである。 ていない女と、すっかり凝固したままで茫然としている「僕」 一一一四コーン受話器の底の彼岸に、不気味なほどの透明さでひび を対照させている。「お餞別」とは、時と場所と状況のつぼを くこの音の波紋は、たちどころに「僕」の心の奥底に確かなひ わきまえた玄人の感触のことばである。 ろがりをみせる。 陰気な愉しみ 一一一四ダマされていることの面白さこの作品の世界を象徴してい ることばといってもいい。悦子が黒部西瓜ほどのヒグラシや、一三三へマばかりやってこの「負」の世界に生ぎる「私」は、安 ロ・ハのような蝶、大のようなカマキリを持ちだしてきても、彼 岡の人物の常連である。「正」よりも「負」に人間の営為のクア 女の言動には不自然さの破綻など感じられないのである。なに リティを一層感じ得、「負 , の人間がよくする屈折の視線には、 一つたくむ姿勢をみせないままで悦子にいわれてみると、「僕」 かえってものの正体を見抜く眼力さえ与えられているのだ。 は警戒しつつもたやすく「魔法」にかかってしまう。 「私ーとは、この屈折の眼力、視角をもっている人間である・ 一陰気な愉しみこの愉しみとは、屈辱感や自己嫌悪を飼い養 質屋の女房 っていく自虐のイロニーであることはいうまでもない。人に 「見られている」ことを必要としながら、「見抜かれる」ことを ・ハドリオ政権第一一次大戦末期、ムツンリーニ失脚後イタリ 極端に恐れているという、微妙な、不安定な場所に「私」はい ア陸軍長老の・ハドリオ Pietro BadogIio ( 1870 ー 1956 ) が組閣 注 る。役人や婆さんに自分の「負」を「見抜かれる」以前に、自 した政権。ファシスト党を解散、秘密裡に休戦交渉を行なって 分が自分の「負」を先取りしてしまい、自虐のまなざしをむ 連合軍に降伏した。 けていくのである。先に自虐してしまうことによって、他人に 一 = 0 大量の学生が動員国家総動員法 ( 昭和十三年 ) 以降の委任立 「見抜かれ」て、当然受けねばならないはずの屈辱感の質量を 法の総動員勅令で学生の兵役徴集延期の特典は打切られ、昭和
ホールの入口から中庭に、三、四人の男女学生が大声で とか「向上」という観念を創った。そしてジャックは : : : ) 「ウソをついたんじゃない」突然、彼は林檎を下におとし笑いながら走りでた。なにかを奪いあっているらしかっ みにく た。開かれた戸口から甘いロッシイのレコードがながれて てたち上った。「ぼくは醜い。子供のときから醜かった。 すがめ だから、わかったんだ。斜視の君がなぜ、あんなことをしきた。 しっと 薔薇のはなは、若いうち たのか、・ほくは自分の中にもそれと同じ嫉妬があるのを知 つまねば っていた」 凋み、色、あせる : ・ ( 俺は、嫉妬で女の下着を裂いたのだろうか ) と私は考え た。 ( ちがう、嫉妬だけではない。たしかに嫉妬だけでは「神学校にはいった。十字架を背負うことを考えた」ジャ ックは、私のためではなく、自分を押えつけるように、一 ない ) 「醜いことは辛い」ジャックは呻いていた。「辛いよ。子語、一語呟いた。 「十四歳の時の十字架は変った。ぼくは、基督のように、 供の時、・ほくは母や姉さえ、・ほくの顔から眼をそむけるの を感じた。だが十四歳のとき、僕は自分の顔だちが十字架・ほくの顔だけではなくこの世の顔を、みにくい顔を背負う であることを知ったんだ。基督が十字架を背負ったようつもりだ」 青空は、まひるのうち に、子供のぼくもそれを背負わねばならぬことを知ったん 行かねば ずがいこっ 陽が翳る、夜がくる : 彼の額には、また汗が溜った。はげ上った頭蓋骨の上 ふく に、血管がふとく、蒼く、膨れていた。のみならず、眼鏡「新聞によれば今日もユダヤ人たちがナチスによって殺さ ひとみ れた。悪はヨーロッパ中、充満している。戦争はいっ起る の奥の瞳は腐魚の眼のように濡れだしていた。 人嫌悪を感じて私は彼の泣き顔をみまいとした。だがそのか、わからない。それなのに、ああして学生たちは歌って いる」 時、地理学教室の円柱と円柱とのあいだにたゆとう、弱、 白秋の陽影のなかから、やつばり、白い肉の膨らんだ父の手私は、やさしく、彼の手から先ほどの林檎をとってかじ すつば った。青くさく、酸かった。 がうかび上ってきた : 「あんたが」と私は言った。「いくら十字架を背負ったっ ( 右をみろと言うのに、右を。お前は一生娘にもてない て、人間は変らないぜ。悪は変らないよ」 ね ) けんお あお たま キリスト うめ かげ つぶや
マリー・テレーズとよばれたもう一人の娘は、女中のよ の安静時間のようにガランとしていた。ただどこか、遠く ったな うに、相手にクリームの瓶をわたしながら答えた。「ジャ で ( 恐らく学生ホールからだろう ) だれかが、拙い・ヒアノ ックがゆるしてくれないわよ。彼は私に言ったわ。ユダヤ を奏いているのが、きこえた。 人たちが独逸で血をながしている時、舞踏会を学生が開く 廊下の掲示板に、新学期の講義課目の表がのっている。 ふ、んしん マデニエが「カントの実践理性批判。を教えるのだ。わたのは不謹慎だって」 しは、あの人のよい老人の、まるい薔薇色の顔を思いうか「ジャック ? ジャックが何よ。恋人や婚約者ならともか く、たかが神学生じゃないの。神学と布教しか、頭にな、 ・ヘた。あの意味のないふやけた顔が、私のアンリ四世中学 時代を支配した。ねむたくなるような午後、教室は、ひる男じゃないの。あなたの人生となんの関係があるの。あの にお めし時のジャムの匂いが残っている。皆が黙って。〈ンをはひと前からあたしをゾッとさしていたわ。陰気で狂信的な ちり コンシャンス・ 4 メースデシイジイオン・ド・モラール しらせている。人間の良心、倫理的決断 : : : 灰色の塵暗さが顔にあるためかしら」 金髪を肩までたらしたモニックの水着のあいだから、肉 が机の上におおいかぶさる。 。ヒアノの音はまだ、聞えている。それは幾度も幾度もきづきのいい真白な胸や腕がのそきみえた。「ねえ、ねえ、 いた覚えがあるのに、いつまでもその名が思いだせない曲ねえ」と彼女はうなだれているマリー・テレーズの肩をゆ の一つだった。私が廊下を曲ったり、それにつきあたったさぶった。 きれい りすればするほど、それはまるで夢のなかででものよう 「ダメよ」お世辞にも綺麗とはいえぬマリー・テレ 1 ズは に、遠い、もっと別の方向から、ひびいてきた。 力のない声で答えた。「あたし、ジャックの従妹だけど、 ふと、わかい娘の声を耳にした。教室の内側からであ子供の時両親をなくしたでしよう。ずっと彼の家にひきと のぞ ガラス ってもらったでしよう。今、大学に行けるのも、彼のおか る。硝子ごしに私はそっと背のびをしながら覗いてみた。 だめ リ 1 ・テレーズ。チャンときめてよ。舞踏会にげなんだもの」 人「駄目、マ 「彼のおかげか」とモニックは煙草を口にくわえながら嘲 行くの、行かないの」 白教室の机の上に腰をかけて脚を・フラ・フラさせながら、そけるように笑 0 た。「あの神学生、貴方を愛しているんじ う訊いた娘は水着の上に白いタオルを着ている。校内のプやない ? 」 ・ : それなら彼、な 「まさか、あたしみたいなものを。 1 ルで泳ぐため、この教室で着かえているらしかった。 「そりや、行きたいわよ。モニック、でもジャックが : : : 」ぜ、神学生になったの」 たばこ あざ
130 ために、大量の学生が動員されはじめた。そのころ僕は、 うに、これらの本を何冊かずつ抱えては、この質屋にやっ 質屋で妙な仕事を受けもたされることになった。突然出征てきたのではあるまいか、とおもった。読みもせず、売り した学生が質に入れつばなしで行った本を、整理することとばしもせず、ただあとで利子をつけて取りかえすため を申しこまれたのだ。 に、一冊買っては一冊質に入れ、またその金で一冊買う、 僕は、本のことなど知らないから、と正直に言ってことそんなことをくりかえしている男のことが、急に一種の親 しさをもって感じられてきた。と同時に、そんな機械的な わったが、 「おとうさんよりは知ってるでしよう」と言われると、引反復のほかには何もせず、何をしようとも思わなかった男 が、この金網に囲まれた庫の中で自分と向いあっていると き受けないわけには行かなかった。 儺は質屋の庫の中というものに、はじめて入った。中に いう、何ともイラ立たしい幻影が僕の全身にまつわりつい わく は太い木の枠が組まれ、ネズミ除けの金網が張りめぐらさてくるような気がした。 ぎしきろう 「どうも、ご苦労さま」 れて、座敷牢というのは、こんなものかと思った。 こうし のぞ 二百冊ばかりの本は翻訳ものの文芸書が主で、他の単行彼女が言いながら入ってきた。格子ごしに覗くと、土間 本もほとんど新刊書ばかりだから、整理して間違いなく預に立っている客の姿が、逆光線で黒い影法師のように見え そろ ったものが揃っていることをたしかめながら、リンゴの箱た。女は片側の壁に梯子を掛けると、四五段上って、器用 やっかい むずか へつめるほうだけの仕事は、別段、難しくも厄介なものでにハトロン紙のたとうに包まれたものを抜き出した。職業 もなかった。・ハルザック全集、ジイド全集、ドストエフス的に熟練した動作だった。 キ 1 全集、それにゲーテ全集、大思想家全集だのというの「危いそ ! 」 が、一冊の欠巻もなしにそろっているのを見ると、よくも僕は床に腰を下ろしたまま、梯子の上の彼女を見上げて 言った。不意にナフタリンと織物の混り合った臭いが鼻を こんなに全集ばかりあつめたものだと感心させられるが、 くすぐって、黒い着物の裾から出ている足袋の白さが眼に しかもそれを全部質に入れたまま入営してしまった男とい うのは、 いったい何を考えていたのだろう、と不思議な気ついた。 もした。そしておそらく彼は、僕のような男がその蔵書を「いやア」 女は女学生のような声で言うと、僕の顔を見下ろしなが 整理したとは一生知らずにおわってしまうのである。 そんなことを思いながら、僕はふと、この男も自分のよら一瞬、梯子の上で身を固くした。片手にたとうを抱えた はしご すそ
は、山田や順太郎にとって自分たちとは別個の人格をもっ つきあってみると山田も高木も、なかなか愉快な男だ。 二人とも、このごろは文学に凝っている。凝っているとた一段高いところに位置する存在になった。 は、おかしな言い方だが、すくなくとも山田の場合は、そしかし、考えてみればこれは不思議なことだ。順太郎の 知っている男の中で、女を経験したことのあるものは高木 うとでも言うより仕方のない状態だ。 せんたくや 学生のころ出入りの洗濯屋の小僧から、 「君、君のお父さんには悪いが、この戦争は日本が必ず敗だけではない。小 けるよ。そうなったらもう工科なんかやったって、しようあのことを聞かされたときは、すこしも面白くないどころ か、胸が悪くなった。もっと大きくなって中学生時代の同 がない。文化すなわち文科の世の中だよ」 そんなことを言って、芝居だの音楽会だののキップをや級生にだって、同じ経験をもつ者がいたが、その男を不幸 たらに買いこみ、毎日のように公会堂だの展覧会だのへ出だとこそ思え、決して羨んだりする気にはなれなかった。 それが高木の場合にかぎって、なにか偉大な空恐ろしげな 掛けている。そうかと思うとまた、 「日本にはまだ国際的文化大学というのがないね。世界各ものを秘めた人間にみえはじめたのは、どういうわけだろ 国の学生が集って、おたがいの国の固有の文化や宗教を教う ? 年齢的にみて自分がいま「あのこと」をもっとも欲 えあう : : : 。亀見雄助氏は親じの友達だから、こんど亀見している時期に達したからだろうか ? そうかもしれな 氏に話して、そういう大学を作らせようと思うよ。もし出 。しかし子供のころから、あれには興味がなかったかと いうと、そうではないのだからこれだけでは充分な説明に 来たら、諸君に優先的に入学させるから、第一回の卒業生 になれるよう大いに努力してくれー はならない。 などと途方もないことを、大真面目に主張したりする。 それに、もう一つへんなのは、高木が神田の喫茶店であ 高木の方は、これにくら・ヘるとずっと本物の文学青年くんなにマゴついていたことだ。これまで順太郎は自分が無 れさかった。ノートにぎっしり小説や詩のようなものを書い闇に恥ずかしがったり、人の前へ出てオドオドするのは童 げていたが、「日本語はもう信じられない」とか言って、自貞のせいだとばかり思っていた。物の本にもそう書いてあ 葉分で考案した擬音符の詩をつくっていた。しかし高木が順ったようだし、自分でも何となくそう信じこんでいた。と 青 うつむ 太郎たちを驚かせたのは、彼が女を知っていたことだ。何ころが高木はあんなに顔を赤くして俯向いてばかりいたの しゅうらしん 気なく田舎にいたころのことを話しながら彼は、まったく はどういうわけだ ? あのことと羞恥心とは無関係なのだ 何気なくそのことにふれた。そして、そのときから高木ろうか ? うらや
右昭和一一十五年渡仏直前「三田文学」の先輩原 民喜 ( 右 ) と。この「夏の花」の 作者は翌年春自殺、その知ら せをリョンにて受く 昭和一一十五年戦後最初の留。一¥ 学生として渡仏、 一にに入学。上 ( 攴ポート ョン大学文学部の学生証 ル囓を・右サボアにて作男のアルバイト で乳絞りをする。その家の人々と。 臼一 E09 上インド洋を航行中の仏国船マ ルセイユ号内でインド人に扮して 上フランスサボアにて、尋ね て来た慶応の同級生三雲夏生と。
間をさがった。「みてたんだ」 えこんだ。「ヴァレリイや私たちは、既に、戦争反対の決 「みてたからどうした」 議文を独逸に送りました。けれども、この決議文は、私た 飛ンヌ・ロンナ 「知ってるんだから。肉欲の罪でも一番、いやらしい ちの善意は彼等によって、ふみにじられるかもしれ 君がなぜ、それをしたか、知ってるんだから」 ぬ。拒絶されるに違いない。しかし、よし、ふみにじられ ぼうぜん 私は茫然と相手の顔をみた。彼の汗のにじんだ額は、はるにせよ、われわれの意志は残るでありましよう。われわ げ上って、頭の上には、あわれな赤毛が残っていた。このれはいわねばならぬのです」 ばんらい ヴィヴ・ラ・プランス 男は、斜視の私よりも兎ロの男よりもみにくかった。 万雷の拍手。「そうだ」「フランス万歳」という感動した ( 求愛する勇気もないから、神学校にはいったまでよ ) 声。一九三〇年代の仏蘭西は、まことに、のどかだった。 わら 私は嗤いたかった。なぜかしらぬが、大声をあげて嗤い馬鹿馬鹿しかった。 たかった。 入学式のあと、ヴィズウがあった。ヴィズウとは、上級 しんばく 「肉欲の罪の中でも一番、いやらしい : か」 生と新入生の親睦・ハーティである。 々どうしゅ 私は下着を床に投げつけると、だれもいない廊下にでて 学生たちは、父兄から寄付された白葡萄酒を飲んだ。音 いった。 楽がなり、慣例による「王様えらび」を遊んだ。 赤いリポンをつけた法科生、黄色いリポンをつけた文科 Ⅳ 生、酔って顔を薔薇色にした女学生までが走りまわり、笑 いこけたりする群のなかに、紅色のマフラーをしたモニッ 十月二日、大学で入学式があった。法科の学生たちは、 慣例によって、赤いリポンのついたペレー帽をかむって講クが泳ぎまわっていた。 堂に集った。マデニエ老人が、講師のガウンの上に、レジ 「アル・ヘ 1 ルがでていったよ」 メイ・ウィ セ・ヴォートル・トウール すわ 人オン・ドヌールを飾って得意げに坐っていた。教授席に 「そうよ、そちらの番よ」 は、厳粛な顔、深刻な顔、栄養のないやせこけた陰気な顔どの娘たちも、斜視の私を誘ってくれなかった。それな 白が並んでいる。そして、学生たちは、客員としてよばれたらば、この騒ぎのなかから、早く引きあげれば良いのに、 作家のジュール・ロマンの話をきいた。 私はこの自分のみじめさ、暗さを味わい、たのしんでい しばい 「戦争がくるかもしれませぬ」とロマンは芝居げたつぶり た。私は慣れている。学生ホールの窓から、秋の陽が内庭 な声をだして言った。悲劇的な顔をして額に指をあてて考のオーギュスト・コント像を金色に照しているのがみえ すで
ーヴィスだが、それにしてもいたすらにこれほどの情 「留学」の荒木トマスは、ローマに留学したのち、カ しかしだれも彼を贈 熱をかける男を見たことかない ソク教会の期待を一身にあつめて帰国するが、貧 む気になれないのは、いたすらに邪気がないからであ しい良民たちが拷問にあい、殺されてゆくのを見るこ る。遠藤は、友情にあつい男である とにたえられす、ついに節を屈し、転び吉利支丹の汚 これも遠藤が芥川賞をもらうよりもまえのはなしだ 名をうける。「沈黙」のキチジローは、弱い卑しい男で、 が、彼はよく若い女の子を何人かつれて、約束の場所 神父の所在を官憲に密告する。 に現われた。その女たちが、ときには見るからに不潔 遠藤はこういう人びとの、いに寄りそい、彼らの運命 な、場末の娼婦のような女だったりすることがある を同情をこめてえがき出すのである。「沈黙」のなかの どうしてあんな女をつれて : : : とばくが不機嫌になる ユダ役、キチジローは叫んでいる。「俺は生れつき弱か。 と、遠藤は不思議そうな顔をした。 心の弱か者には、殉教さえできぬ。どうすればよか 「おいマツ、あいつらだって人間だぜ。一所懸命、生ああ、なせ、こげん世の中に俺は生れあわせたか」 きているんだぜ」 このことばは遠藤の文学の中の、いちばん大事な部 分をあらわしている、とばくは田 5 っている。読者は誤 「白い人」は遠藤の小説家としての出世作だが、その 解しないでいただきたいが、これは一時流行した「大作家としての地位を確定したのは「海と毒薬」である 彼はこの小説を書いたころ、新婚匆々の間借り生活か 衆」崇拝の埃つばい風潮とは、何の関係もない 彼の小説にもっともしばしば登場するのは、人生の ら、豪徳寺近くの借家住まいに移っていた。 ( あたりの 景観は、「海と毒薬」の序章にえがかれているとおりだ 落伍者、敗北者である。「白い人」の主人公ははなはだ しい斜視で、女にはもてないと父親から宣告される ふくーゅう 「海と毒薬」は、戦争末期に九州大学で起こった捕虜 孤独感から、彼は人生に毒々しい復讐、いを抱き、つい の生体解剖事件を、材料にしている。この小説を読ん にはナチの秘密警察の手先にまでなる。「海と毒薬」に だロシア人の日本文学専攻の学生たちが、遠藤がたま えかかれている貧しいうす汚い「おばはん」は、だれ にもみとられることなくひっそりとその生をおえる たまソ庫一に行ったとき、これを日米間の政治問題をえ . こり マルチル