申 5 亠名とおきか、んることによって、カトリッ ク文学を少る。ある種の神父にとって、彼は大変によい信者であ り、別の神父にとって、彼は悪い信者である。しかし 4 女小説でも、模造翻訳小説でもないものとして、確立 その評価かどうあろうとも、彼は神父たちと日本のカ することができたのである。 ソク教会に大きな問題を提起した。 先日、テレビで石垣純二ドクターと遠藤周作が緒 「沈黙」が書かれた時、ある外人の神父は、 になった時、石垣博士が遠藤を指して、 「これでいよいよ、遠藤もカトリッ クでなくなった」 いや、この人は大変な患者でね、医者よりも病気に と叫んだ。その非難の多くは神学上の問題を除けば、 くわしい患者ですよ」 おもしろ 「海と毒薬」に対する非難ーーー前に私が引用した と言われたのが面白かった。医者よりも病気にくわ と同巧異曲である。ただ、ある高位の外国人神父は私 しくとも、患者は患者で、医師にはなれない 。世界一 に向ってこ、つい、つ亠思味のことを言った。 医学にくわしい患者がいれば、それは最良の患者か、 「私は遠藤の小説はよいものだと思います。カトリッ 最悪の患者であろう。最悪の患者は医者泣かせであろ ク信者なら、あれを受けいれることはできます。しか うが、最良の患者はたとえ最悪の医師より、医学にく し、信仰を持たない日本人はあれをどう受けとるでし わしかろうとも、决して医師にはなり得ない。医師に よ、つ、カ・カ , 「リ・ ノクの日本精神による敗北と取らない なるためには医学校を出て、国家から医師免許証を下 でしよ、つか」 付されねばならない 「しかしグレアム・グリーンの『事件の核心』という ただ、最良にせよ、最悪にせよ、この種の患者は医 小説では : 師に医学に対する根源的な問題を提起する。それは最 「それはわかっております。しかしグリーンの主人公 良の生徒と最悪の生徒が最も強く教育の困難性を教師 は一人の信者です。しかし『沈黙』で大罪を犯すのは に自覚させるのと似ている。遠藤は医者にとって、大 神父です。日本がカトリノ 、ク国なら、私は心配しませ 変な患者であったのだが、それは同時に彼がカトリ クの信者としても、大変な信者であることを意味すん。人々は「沈黙』を受けいれ、それによって信仰は る。 層強くなります。しかし信者のすくない日本では別 信者としての遠藤周作に対する評価も鋭く分かれな問題があります」
410 「儀式や習慣」にとらわれることのない「司祭」であったので だった。その時、夜のたき火の向うで基督のくるしい眼とその ある。 ベトロのおずおずとした眼が合ったのだ」 ( 「父の宗教・母の宗 一自分自身にたいする誤魔化し康子の「平然とした表情」、 教」 ) という遠藤の文章は、「転び者のなかに信仰の生々し 妻の「なんでも知っている」「あの徴笑」、能勢の意識すること さ、信仰の原点をたえず問う生々しさをみていることを示して ばとしてたびたび出てくる「誤魔化し」等、三人三様の「自分 自身にたいする誤魔化し」の奇妙な連鎖、交錯の時によってこ 四 8 「英雄主義」「神を信ずるということよりも、布教する方便 の作品は支えられている。しかも神父までが「儀式と習慣ーと としてしか殉教を考えていない」 ( 安部公房 ) ような「英雄主 いう「誤魔化し」の上に載っているのだ。「あのこと」の告悔 義」である。この英雄主義を鼓吹するような「殉教の勧め」や に踏みきれなかったのもそのためであった。 「殉教の心得」などという文書を信者に配って弱者が転ぶこと を戒めていた。「英雄主義への憧れ、自己儀牲への陶酔」 ( 「白 雲仙 い人」 ) など神への信仰から縁遠いものはなく、そういう世俗 発一強者と弱者作者が「強者と弱者との問題について考えこむ 的な在り方が荒木を「転び者」にさせたのである。 ようになった」のは「沈黙」以来のことである。「十一一人の弟 子たちは基督が死ぬまでは正直言えばダメな人間 , であり、転 び者同様、肉体の恐怖、死の恐怖の前に人を裏切る卑怯者であ った。その「十二人の弟子を主人公にして聖書を読みなおして みると、そのテーマは〈弱者はいかにして強者になったか〉と いうことになる」「そのダメな人間たちがやがて死と迫害にも 屈せず原始基督教団を結成する強者となる」 ( 引用はいずれも 「弱虫と強者とについて」 ) 煢一一「ハライソ」—paraiso ( ポルトガル ) 天国。楽園 留学生 三九四転んだもの「新約聖書のなかに登場する作中人物の多くは そのほとんどが転び者、もしくは転び者的な系列の人間である ことに注意したい。そしてベトロでさえカヤパの司祭館で基督 を捨てたのである。鶏がなく時刻、彼も亦踏絵に足をかけたの 紅野敏郎 小野寺凡
要くさっ あゼ読 こんなにまでデタラメを書きならべたものだと唖然と 米安保条約によって日本人民もまたベトナム人虐殺に ベトナせざるを得ないのである」 加担しているといった次元のことではなく、 そしてこの著者は解剖に立ちあった人々には自由意 ム戦争や交通戦争があろうがなかろうが、人類ある限 志はなく、教授の命令によって服従せざるを得なかっ り存在する生体解剖に私たちは加担するということな のだ。聖書によると人類の先祖は、弟アベルを殺してたと論しているが、これは架空の人物である戸田が、 「俺もお前もこんな時代のこんな医学部にいたから捕 生き残ったカインの子孫なのである。 「海と毒薬」は九州大学のいわゆる生体解剖事件を告虜を解剖しただけや」 おもしろ まして、九大の医学部の名誉を という言葉を裏書きしているのは面白い 発するものではない。 この小説は本質的には九 しかし ~ 則に述べたように、 傷つけるものではない。解剖に参加した戸田や勝呂は 作者自身であり、ありとあらゆる弱い人々であること、大事件と何のかかわりもない。遠藤にとっては、医師 そして弱い人々の方がその弱さによって、かえって人という職業が必要であったのだ。彼は結核患者として、 うった 、医師に自分の体をゆだね、病苦を訴え、治療 間の中にある罪をさぐり当て、その恐ろしさにおのの長いド を求めてきた。こういう病人を救うべき医師が逆に人 くことを書こうとしたものである。 しつべい を殺した時、はじめて医師、患者、疾病、生命、治療、 5 にはこの小説に反感を持つ人がいること しかし一立ロ せんれつ などという問題が当事者の間に鮮烈な輝きを伴って現 も事実であったようだ。たとえば九大の図書館には、 編集部の氏が探した限りではこの事件に関する限りわれる。 また彼はカトリ ック信者として、長年にわたって、 たった冊しかなく、その中に次のような文章かあっ 神父に自分の心をゆだね、罪を訴え赦しを求めてきた。 「勝呂という経歴をもっ医師を勝手に創作し、も実こういう信者を救うべき神父が信者を裏切 0 た時、は いんぶ しめて神父、信者、原罪、魂、救済などという問題が 在したような印象を与え、また看護婦長を淫婦のよう に取扱っているのもまったくのデッチあげで、さらに当事者の間に血みどろの問題を持ちこんでくる。 つまり生体解剖を行なった医師はころびバテレンな 部長の細君を外国人としたことなどから、その大部分 のだ。遠藤周作は、教会、神父、信者を、病院、医師、 が虚構もはなはだしく、よくもまあ小説にことよせて、
したからだ。看護人に呼ばれてやってきた医者や看護婦たることは、めったにありやせん。医者がそればアのことを ひょうし ちも、拍子ぬけした顔で帰って行った。医者は病室を出て知らいで、どうするもんか」 ろこっふきげんようす 行くとき、露骨に不機嫌な様子をしていたが、いまは信太「ほう」と信太郎はアイヅチを打ちながら、この男が病院 ・ : 医者が不機嫌や医者に対して敵意をもやすのはどういうわけだろうかと 郎はある点では医者の立場に同情した。・ おり なのは自分が病人に対して全く無力だということを知って思った。この男が檻のような病室の中へ自分から扉をあけ おも いるためでもあるだろう。完全に棄するよりしかたのなて入って行ったことは、想い出しても、いかにも奇妙なも い仕事に、責任上いつまでもかかずらわっていなければなのだからである。おそらく、この男は残りの全生涯 ( とい わず っても僅かなものだろうが ) を、この病院で送ることに心 らないのはやり切れないことにちがいない。 医者たちが引き上げたあとで、信太郎は病棟の外の石段を決めているにちがいない。そうだとすれば″自分みずか に腰を下ろして、タバコを吸った。すると患者の一人がやらの手で人生を選び取る″などということは、まったく大 くや ってきて、ていねいに頭を下げて悔みの言葉をのべはじめしたことではないようにおもわれる。そんなことを言って しよせん た。気がつくと、大ぜいの患者がこちらを向いてヒソヒソみても所詮は、この男のように自分で自分の檻の扉をあけ 話し合っている。あきらかに彼等はみんな、たったいま母ることにすぎないようだ。 親が死んだものと思いこんでいる様子だ。信太郎は恥ずか タ・ハコを吸いおわって病室へ行こうとする信太郎に、背 しさと、あるウシロメタさを感じて、病室へもどろうとし後から、今晩の千潮は十一時すぎだ、それまではユックリ た。と、うしろから、 という声がした。この忠言は信太郎に 寝ている方がいし あいにく 「いや、わしはお母さんは、まだ亡くならんと思うており とって、扇風器よりもありがたかったが、生憎すこしも眠 ました」という声がした。振りかえらなくても、それが頸くはないので、そうこたえて、病室へかえった。 景にホウタイを巻いた男だと、すぐわかった。男は石段に信あれから、どれぐらいたったのだろう ? 信太郎は眼を のぞ この病院では、何でもな上げて、窓にイビッな夜空が覗いているのを認めた。つづ の太郎と並んで腰を下ろした。 ねむ いて自分が居眠っていたことと、いま見た奇怪な夢のこと 海い時刻に、医者が重症者の個室へ行くのは患者が死ぬとき あたりは暗く、ゆれうごいている水ば が頭に浮んだ。 だけだ、と男は言った。 かりであり、自分は岩のようなものの上に乗っている。と 「だがわしは、また医者のやっ、馬鹿なことをしよると思 いよった。人間が死ぬるときは必ず干潮じゃ。満潮で死ぬきどき水の底で動いている風が重苦しく自分にぶつつかっ くび
ごらん いつばいで、衣の方は御覧のとおりのありさまで : : : 」と 信太郎は咄嗟の返辞にロごもって、あとのこたえをアイ マイな笑いで省略した。すると医者の顔からは笑いが消え彼は患者たちの服装の貧しいことを弁解するように言っ た。なるほど彼等の多くが身につけているものは端的にい た。信太郎は度を失いながら言いたした。 まん えばポロ布であって、ほとんど衣服というには値いしない 「五十八かな、九かな、満でかぞえて : : : 」 ようす しかし医者は、もはやその応答に何の興味もない様子をものだった。しかし、洗濯はよく行きとどいているよう 示した。白い前歯を覗かせていたロは不興げに閉じられで、そばで見ると見掛けよりは衛生的におもわれたので、 ほおばねとが あぶらけ 、」、・こ信太郎はそうこたえた。このこたえに医者は満足したらし て、浅黒い脂気のない皮膚が頬骨の尖った横顔をしナ めがね がた ように近より難いものに見せている。看護人の目が眼鏡のく、首をふりながら「いや、あなたのようにキチンと費用 ろうば、 おくで光った。信太郎はいまは自分がみじめなほど狼狽しを払ってくれることを保証する人のいる患者がきてくれる あいそ ていることに気がついた。 ・ : : ・問題は、自分が母の年齢をと、病院としてはじつに有り難い」と愛想のよいことを言 こたえられなかったということではない。カルテをのそきった。信太郎はくすぐられているような気分から、話題を さえすればすぐわかるはずの年齢を、何故彼がわざわざ訊かえるために、「母のような病気にかかっている者が全国 くかということだ。信太郎は一年まえ、母をこの病院へつでどれくらいいるものか」と訊いてみた。すると医者は愛 おも 、ままえみを顔いつばいにうかべたまま言ったの れてきたときに会った医者の顔を憶い出しながら、そう思想のよしをを それは、いまいる医者よりもいくらか年をとった、色の「それがサッパリわからんのですよ。外国の場合だと、老 くらびる 白い丸顔の男だった。顔を合せている間、濡れた脣を絶人だろうと何だろうと、すぐに入院させるのですが、こち ほころ きわ えずほほえむように綻ばせながら、ロをきくときは極めてらは家族主義というか、個人主義思想の徹底がたらんとい ものしずかに東京風のアクセントを使う。廊下を並んで歩うか、たいていは家へ置いて外へ出さんようにしますから きながら、病気や病院についてアタリさわりのなさそうなね。ことに病気の性質から言って年寄りが多いものですか なが : あなたのように」 話をきかせてくれた。 「なにしろ永い病気のことですら。 そこまで聞いて、急に信太郎は目のまえの廊下が無限に から、ここにも自費で入院料をまかなっている患者は、め ながく延びて行くのを感じて、一瞬間足をとめたのを憶え ったにありません。ほとんどが医療保護をうけています。 ている。 保護のワク内でやって行くとなると、食と住とでいつばい とっさ のぞ せんたく がた
1 ドをいくつも接ぎ合せたり、事務室の机の下にもぐりこらって、信太郎は声をかけた。男は顔を上げた。信太郎が んでプラグをさがしたりした。その間、無言であるだけに昼間の礼をのべると、男は突然、「あんなところに病人を よういしゅうとう 彼の行動はひどく精力的な用意周到なものに見えた。息苦おいといちゃいかん」と、カスれた声で言った。 しくはないか、と声をかけると、男は四つ這いの姿勢で首信太郎は、ちょっとおどろいた。昼間きいたときよりも を横に振った。そして母の病室に扇風器が廻り出したのを声の調子が ( ッキリしていたせいもあるが、言葉そのもの げきれつ 見とどけると、信太郎が礼を言うひまもなく、廊下の外へも劇烈なものにひびいた。男はつづけた。「夏は暑いし、 消えた。 蚊は何ぼうでもおるし、冬の寒いことはおはなしになら じようぶ ん。あんなところに置いといたら、丈夫なものでもすぐ死 一体こういう男をどう解釈すべきだろう ? : : ・ ・扇風器んでしまう : : : 」 らゆうちょ 信太郎は返答に躊躇したが、医者や看護人はせい一ばい の風にあたりながら、信太郎はひどく落ちつかない気分に なった。もともと彼は扇風器の風は嫌いだった。それに自努力していてくれると思う、とこたえた。すると男は、は 分たちの部屋にだけこういうものがあることは、他の病室げしく頭を横に振って、こちらが心配になるほどいろいろ たくさん に閉じこめられた患者に対しても良くない気がした。しかのことを沢山はなしはじめた。医者も看護人も、ただ居る し、そうかといってスイッチを切ってしまうわけにも行かというだけで、きわめて無責任であること、ことにあの病 ないのだ。おまけにもっと具合の悪いことは、こんなに暑棟はどうにも手のほどこしようのないとおもわれる患者だ い部屋だと扇風器の風でも、ないよりはあった方がたしかけが収容されるために、放りつばなしにされていること、 に好いということが、だんだんハッキリしてくることだ。 それで患者たちはあの病棟へ入れられたら最後だと言って : この落ちつかない気分は夕方になって、もう一ど男に いるが、それでも大部分の患者は遅かれ早かれ、あの病棟 出会うまでつづいた。 に送りこまれて死ななければならない、 といったことを、 そのとき男は、海岸の石垣の上に引きあげられたポート こちらが言葉をはさむスキもないほどしゃべった。 うつぶ のそまこ 。冫いた。うすあかりの中で俯伏せになったポートの 「みなさいや、あの人らアも、 いまは一兀』にやりよるが くび 腹と、男の頸のホウタイとが白くうかんで見えた。男は船いまにみんなアあの中へ連れて行かれて死によりますら」 けず の修理をやっているところだった。水のもれる部分を削りと、タやみの運動場に点々とちらばりながらたたずんでい とって何かで埋めているらしい。手のすくところを見はかる患者たちの方を指した。彼等の姿はたしかに墓場に集っ
152 い殻のよどんでいる茶を、もう一度口にふくんだ。「ここ のメシは、なかなかウマい。米の質が、いいんだ。お前た九時すこしまえに医者がやってきた。ノックされたドア ち、東京の配給米ばかり食っている者には、こんなことをの前に聴診器を持った男が立っているのを見て、信太郎は だしぬけに、 言ったってわからんだろうが : : : 」 「いよいよダメですか」と訊いた。 ロの中で入れ歯の位置をなおそうとしているらしく、言 ようす 医者は、とまどった様子だった。それから急に笑いだし 葉の半分は聞きとれなかった。しかし、どっちにしてもそ ことによ れは大して問題になるはずのことではなかった。 いなか 「いや、ダメも何も、これから診察に行くところです。 ると父は、息子が両親を田舎において、一人だけ都会でく っしょに来んですか」 らすことについて話したかったのかもしれない。しかし、 彼は、きのう前任者と交替して、この病院へかえってき それもいまさら何と言われたって仕方のないことだ。 信太郎は寝台の上に横になった。その方が気分が落ちったばかりだと言った。医者は高知市にある本院から半年交 くかもしれないと思ったからだ。しかし、結果はすこしも替でまわってくるのだった。信太郎はこの男が好きになれ しつくい 良くなかった。天井の漆喰が眼に痛いほど白くて、ニスとそうな気がした。浅黒い顔に笑いをうかべるとき真白い前 にお くらびる 何か刺戟性の臭いが鼻についた。射しこんでくる日ざしの歯が一一本、乾いた脣をかみしめる、その表情が淡白で率 角度がにぶくなるにつれて、暑くなってきた。日はもう海直な性格を想像させた。 の真上にあって、なめらかな水面を黄色く照らしつけてい 医者は廊下を足早に歩いた。長身にまとった白い診察衣 あいさっ る。南側の窓から、患者たちが運動場へ出てくる姿が見えをひるがえしながら、立ち止って挨拶する患者に、短く そろそろ病室の方へ行った方がいいのではないか「おう、まだいたか」と声をかけたり、肩を叩いてやった という気と、呼びにくるまで待っていた方がいいのだとい りした。そんな態度は運動部のキャプテンをつとめる学生 う気とが、交互にやってくる。そのくせ廊下に、ゴム底のをおもわせた。この男の机の前には「威アッテ猛カラズ」 くっ 。炊事場のまえ 靴の音が聞えると、なぜともわからない不安にギクリと胸といった標語が貼りつけてありそうだ を突かれる思いがする。結局、落ちついていられたのは、 に集っていた患者たちが、とおくから彼の姿を発見すると 飯を食っていた間たけだということがわかった。だから、 パッと散るのを見ながら、信太郎はそう思った。 ゆくて ← ~ ・、き、ん あんなに沢山食べられたのだ。 炊事場の横を曲ると、行手に淡いみどり色に塗られた鉄 むすこ すいじば
びび った。こんな時、胸に罅のはいったような痛みが走るので ある。 あの勝呂医師にはこんなことは一度もなかった。彼の一 無ロで少し変った先生だとガソリン・スタンドの主人が打ちは素早く針を肋膜と肺の間に入れ、そこでビタリと止 批評していたが、勝呂医師は兎も角、少し変っていた。 めるのである。痛みも何もなかった。アッという瞬間にす 「愛想がないのよ。そうよ。そういう医者はよくいるものむのだった。もし経堂の老医の言うことが本当ならば、こ あおぐろ よ」と妻は私に言った。 の蒼黒くむくんだ顔の男はどこかで相当、結核の治療にた 「そうかなあ。兎に角、あの気胸針の入れ方はこんな田舎ずさわっていたのだろう。そんな医師ならば何も好きこの 医者には珍らしいね。どうして、こんな所に住んでいるのんで砂漠のような土地に来なくても良さそうなのに、何故 かね」 やって来たのか私にはふしぎだった。 気胸針を患者の胸に突きさすのは何でもないようだが、 けれどもそうした技術のみごとさにかかわらず私にはこ あれでなかなかムツかしいのだと私は経堂にいた時、通っの医者が不安だった。不安というよりいやだった。こちら ていた老医から聞いたことがある。 の肋骨をさぐるたびに触れるあの指の硬さ、金属をあてら まか 「若いインターンなどに委せられませんよ。針をちゃんとれたようなヒャッとしたあの感じは私にはうまく表現でき 入れるようになったら熟練した結核医ですな」 ないが、何か患者の生命本能を怯えさすものがある。私は その老医はむかし、長い間、療養所で働いたそうだが、それがあの芋虫のような太い指の動きのためかと思った ある日、しみじみそう説明してくれた。針が新しければ痛が、それだけでもないようだった。 みも少ないが、先のまるい針を厚くなった肋膜の奥に素早ここに引越してから一カ月近くたった。九月の下旬には 薬 く刺すにはカの加減がいる。時には自然気胸を併発させた義妹の結婚式のため九州に行かねばならぬ。妻の下腹は眼 毒 りする場合もあるのは先にも書いた通りだが、そんな突発にみえて膨れていく。 海事を起さなくても、一打ちで針をしかるべき部分まで突き「横にひろがるから女の子かもしれないわね」と彼女は産 ほお つぶや 入れなければ患者が痛がる時もあるものだ。 衣を頬に当てながら嬉しそうに呟いた。「蹴るのよ。時々 私の経験から言っても経堂の老医でさえ、月に一、二度お腹を蹴るのよ」 は肋膜のあたりで針を止め、改めて更に突きこむことがあ ガソリン・スタンドの主人は相変らず白い作業服を着て た。 いた。彼は私などではなく別のことを考えているようだっ へいはっ ふく かた うぶ
いた所にあるそうである。 「だれ ? 」 「風呂屋も風呂屋だが、医者はいないかね。俺も毎週一回「患者ですが」 は気胸を入れねばならんしーーー」 「どうしたの」 翌日、妻が医院をみつけて来た。風呂屋のすぐ近くに内「気胸をうって頂きたいと思いまして」 科と書いた保険医の看板が出ているのを見たと言う。昨「気胸 ? 」 、 4 ′ル、う 年、会社の集団検診で私は左肺の上葉に豆粒大の空洞を発医者は四十位だろうか老けた感じのする男だった。あご ろくまくゆちゃく 見されたのだ。幸い肋膜が癒着していなかったので肋骨をを右手でしきりにさすりながら、彼は私をぼんやりと凝視 きようどう 切らずにすんだが、ここに来る前に住んでいた経堂の医者していた。西陽をこちらは背にうけているためか、雨戸を から半年の間気胸療法を受けていた。だから引越しをすれしめきった部屋はひどく暗く、その暗い影のなかでこの男 あおぐろ ば、すぐ代りの医者を見つける必要があった。 の顔は妙に蒼黒くむくんで見える。 妻に教えられた道をさがして、その勝呂という医院をた「今まで医者に見てもらったのかね」 ずねてみた。夏の西陽が風呂屋の窓硝子に反射して、近所「はあ。半年ほど空気を入れてもらいました」 の百姓たちの家族が入浴に来ているのだろうか、湯をなが「レントゲンは ? 」 しあわ す音、桶をおく音がかすかに聞えてきた。それはひどく倖「家においてきましたが」 せな音のように私には思われた。医院は風呂屋の裏側に赤「レントゲンがなかとなら仕方がない」 ばたけ く熟れたトマト畠をはさんで、すぐわかった。 医者は、そう言ったきり、また雨戸をしめきってしまっ 医院といっても公庫で建てたような小さなモルタル作り た。私はしばらくジッとそここ、 冫たっていたが、家のなか かきね の家である。垣根らしい垣根もなく、陽に焼けただれた褐からはかすかな物音も聞えなかった。 しよくかんばく 色の灌木をトマト畠との境いにしている。まだ夕暮なのに 「変な医者だねーと私はその夜、妻に話した。「あれは変 なぜか雨戸をしめきっていた。庭にはよごれた子供の赤いな医者だよ」 ぐっ 「患者を選ぶんでしよう」 長靴が一足、落ちていた。あわれな犬小屋が入口にあった なま 「そうかも知れんな。それに言葉に妙な訛りがある。レン が、犬はいなかった。呼鈴を幾度も押したが誰も出てこな トゲンがなかとならーーか。東京に長くいた人じゃない 、。私は庭にまわった。雨戸を少しあけて、白い診察着を ね。どこか地方から来た医者だ」 着た男が顔をだした。 にしび すぐろ ガラス おれ かっ いただ
笑するようにゆるめると、眼をかがやかせ、こちらの顔をぶりのことだろう。父が帰還して、すでに四年たつ。その のそきこむようにして言った。「ほう軍人さん、ほう中将間に自分たちは、それまで父の俸給によってくらしていた 。それでは戦争中はよかったでしよう。いま苦労なさということをすっかり忘れてしまっていた。敗戦で「軍人」 るのは、その反動じゃありませんか ? : : : とにかく、・ほくという職業が消減したのだから、自分もそれを忘れていし はこの事件には手をふれたくありません。よそへ行って他はずだと、こころのどこかで考えていたことを、いまやっ まなざ おも の弁護士を御依頼になるなり何なり、どうかあなたがたのと弁護士の冷い眼差しのなかに信太郎は憶い出したのだ。 うらまた がまん わか 良いと思うようにやってください。お判りにならないこと内股にヒリヒリしみながら小便が流れおちて行くのを我慢 君のお父さんは何 ? おしえ があっても、もうこれ以上、おこたえすることはありませするような恥ずかしさ。 しり しいじゃないか。 ジュウィってのは馬のお尻か ん。さっき申し上げたとおりになさるのが一番いいと、ぼろよ、 ら手をつつこんで、体の具合をしらべるんだってね。 くは考えます」 信太郎は頬に血が上るのを感じた。どうしてそうなるのあいつのそばへ行くな、馬の病気がうつるかもしれない かわからなかったが、たぶん恥ずかしかったためだと思 くしやみ う。しかし、やがて或るおかしさがこみ上げて彼は笑い出医者の大きな嚏が信太郎に憶い出させたのは、この弁 した。弁護士の家を出てからも笑いがとまらなかった。護士の冷い眼差しだった。無論この二人の人物の間には何 彼は忘れていた人物にひさしぶりで出会った心持だつの関連もない。弁護士は信太郎たちの弁護を拒否したが、 ただ た。歩いている・ ( ス通路の片側に、黒く焼け爛れた兵営が医者は以前の医者から引きついだ母の驅をみてくれてい くさ つづいている。信太郎が小学生のころ、父はこの連隊に隊る。けれども、出会ったとき何となくこちらがウサン臭い 付獣医でっとめていた。さむそうに背をまるめてタテガミ者になったような気にさせられるのは、どういうわけだろ かっこう またが うか ? : : : あるタ刻、信太郎はこの医者が患者たちとキャ にしがみつくような恰好で馬に跨りながら。だが、そんな ッチボールをやっているのを見ていた。長身の医者が小さ ことをあの弁護士がどうして知っている必要があるだろ いかがわしげな依頼者の職業が軍人でなマリを持ちあっかって受けそこなうたびに、患者たちは 彼にとっては、 あり、少将 ( 一つぐらい階級をまちがえることは何でもなよろこんだ。医者は笑って「ドンマイ」などと叫びなが : それにしら、拾ったマリを大きなモーションで投げかえした。が、 い ) であったということだけで充分なのだ。・ くつじよく ても自分が父の職業に屈辱をお・ほえるのは、なんとひさし廊下の窓から首をつきだしている信太郎を認めると、医者 ほお からだ