手術 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集
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1. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

夕暮の構内を自転車に乗った看護婦が通りすぎていく。 目のことである。「手術死を二度、重ねりや、第一外科の まるつぶ 「坂田さあん」彼女の友だちであろう、病室の窓からだれ面目も丸潰れだからなあ」と助教授は肉の落ちた頬を歪ま かがよびかけている。消毒室の煙突から乳色の煙がゆっくせて笑ったが、勝呂はそれを遠い世界のことのように聞い うれ り空にながれていく。ポプラの樹の下で、また、あの老人た。おばはんに知らせてやろうという気持も嬉しさも湧い がシャベルを動かしている。それら毎日と変らないタ暮のてはこなかった。 風景をみて、勝呂は突然嗤いだしたくなった。何が可笑し 冬のうすら陽の当る中庭で彼はシャベルを動かす小使を なが いのか自分でもわからなかった : 眺めながら、この老人はいつまでも同じことを繰りかえす のだろうと思う。考えてみると、もう一一週間の間、老人は Ⅳ 同じ場所を掘っているのだ。まるでポプラを伐れと命じた ムくしゅう 手術の失敗は当事者たちの沈黙にもかかわらず、地面に人間や、こうした時代に陰気な復讐でも試みるように掘っ ひろが しみる汚水のように教室にも病棟にも拡っていた。看護婦ては埋め埋めては掘っているみたいだった。 うわさ 室でも研究室でも、一「三人が集まると当分、この噂でも ( 今後どうしよう ) と時々思うこともあった。 ( これが医 さすが ちきりだった。田部家では大杉部長の親類の手前、流石に者というもんじやろうか。これが医学というもんじやろう 表だっては抗議してこなかったが、故部長に育てられた内か ) けれどもそうした事を考えるのも気だるかったし、考 えてもわかりそうになかった。短期現役を明日にもひかえ 科系の教授連は、第一外科が内科の意見を押しきって強引 すべ に手術を早めたからだと、非難しているらしい。いずれにている現在、凡てはどうでもよいような気さえしてくる。 すいせん ほとん そうした白々とした空虚感が、時には突然黒い怒りに変 せよ部長選挙でおやじが推薦される望みは、これで殆どな たた ることがあった。勝呂がおばはんを叩いたのも、そんな感 くなったようである。 薬そうした事はすべて今の勝呂にはどうでもよかった。こ情にかられてだった。 ぶどうとうかたま その日、彼は薬用の葡萄糖の塊りを臨床の時、ひそかに の頃は心も紙のようにしらじらとして、体もひどく重い。 まくら 海仕事にも臨床にも病院にも熱意と関心とを持てなくなっておばはんの枕もとにおいてやった。阿部ミツがそれを横眼 でみていたが彼は知らぬふりをしていた。それまでも時 」こ 0 柴田助教授が思いだしたように、おばはんの手術を二、時、勝呂はこの施療患者に葡萄糖を与えていたのである。 三カ月延期すると告げたのは、田部夫人が死んでから三日翌日、大部屋に偶然、寄った時、おばはんは細い手を顔の ゆが

2. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

278 ひも やじの背中にまわって手術衣の紐を結んでやっていた。そ れから母親が自分より背の高い長男の世話をするようにト ルコ帽に似た白い手術帽を彼の頭にかぶせた。別の看護婦 金曜日の午前十時、ゴムの前掛の上に白衣を着こみ、サがゴム引とメリャスの二つの手袋のはい 0 た金属の箱を差 しだした。これで、おやじは能面のような顔と不気味な性 ンダルをつつかけた浅井助手、戸田、勝呂は手術室の外で 格とをもった真白な人形になったのである。 患者が運ばれてくるのを待機していた。 空は曇っていた。手術室は病棟の一一階のはずれにあ 0 た手術中は一一十度の温度を保 0 ていなければならないの からここを歩く外来患者も看護婦もいない。廊下が一直線で、部屋は既にむんむんとしている。床には埃と手術中の 血をたえず洗い落す水が軽い細かな音をたてて流れてい にむこうまでにぶく光っているだけである。 る。その水が、天井につるした大きな無影燈の光に反射し やがてその廊下の奥で車輪の軋むかすかな音が伝わって きた。田部夫人を乗せた運搬車が看護婦と母親に押されてて、手術室全体を燃えた白金の炎のように輝かせていた。 その中で浅井助手も看護婦たちもまるで水の中の海草のよ ゆっくりと進んでくる。 けんこうこっ うにゆらゆらと動いている。戸田は患者の肩胛骨をこじり 病室で注射されたパンスコの麻酔薬と手術の恐怖とのた め、車に仰むけになった夫人の顔は血の気もなく、髪も乱上げるレトラクターを確かめていた。 一一人の看護婦が田部夫人の裸体を折りまげるように持ち れていた。 「しつかりするのよ」母親は次第に速く進みはじめた車に上げて手術台の上に乗せる。その手術台のかたわらで、硝 子のテー・フルに乗せたニッケルの箱から、おやじは馴れた そって走りだした。 「母さま、ここにいますからね。姉さんもすぐ来るのよ。手つきで手術道具を並べはじめた。骨膜を剥がすエレ・ ( ト ろっこっ リウムや肋骨刀ゃ。ヒンセットなどが互いに触れあってガチ 手術はすぐ終るんだからね」 と、ぐったりとした患者は鳥のように白く眼をあけて何ャッガチャッと音をたてる。田部夫人はその鋭い音をきく からだ つぶや か呟いたがその声は聴きとれなかった。 と一瞬、ビクッと躰を震わせたが、再び、ぐったりと眼を 「先生が」と母親はまた叫んだ。「ちゃんとして下さるかつむった。 ら。先生が」 「痛くありませんよ。奥さん」浅井助手があの甘い調子で すで 大場看護婦長はその時、既にアルコールで手を洗ったお声をかけた。「麻酔をどんどん、うちますからねえ」 たのだった。 あお ガラ

3. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

318 うわ くっ 「・ハンドで縛るんでしようね。でないと、エーテル麻酔の田も黙ったまま上衣をぬぎ、靴をとり、白い手術着と木の グラード サンダルをつけはじめている。 第一期では暴れますから」と戸田が訊ねた。 もらろん 戸をあけて能面のような表情をした大場看護婦長が上田 「勿論だよ。勝呂君もエーテルの効力順序は知っているだ ろうね」 という看護婦をつれてきた。彼女たちもニコリともせず、 「はあ」 無言のまま戸棚をあけ、メスや鋏や油紙や脱脂綿を硝子台 しび エーテルが患者をすっかり痺れさせるまでには三段階をの上にそろえはじめた。誰もが一言もものも言わない。聞 経る。しかもこの麻酔は醒め易いから手術中、その浸透カえるのは廊下にいる将校たちの話声と手術室の水の音だけ をたえず調べておかねばならないのだ。戸田と勝呂が命ぜである。 られたのはこの仕事だった。 勝呂には大場看護婦長は兎も角、この上田という看護婦 「おやじと助教授は」 がなぜ、今日の解剖に加えられたか、わからない。この看 「今、下で手術着に着換えているよ。麻酔がきいてから僕護婦は病院に来て日も浅く、勝呂も大部屋を回診する時ま がよびにいく。何しろ、今ここにみんなが集まりすぎるとれに顔を合わせたことがあるが、いつもどこか一点を見詰 おび めている暗い感じのする女だった。 捕虜が怯えるからね」 それらの会話をきくと勝呂はまるで普通の手術にたちあ っているような気がしてきた。ただ捕虜という言葉だけが 彼のそんな錯覚から突き落した。はじめて自分が今から行突然、今まで廊下から聞えていた将校たちの声がやん おれ うことが、何であるか実感を伴って心に迫ってきた。 ( 俺だ。勝呂は横にいる戸田の顔を怯えた眼で見あげた。戸田 たちは人間を殺そうとしとるんじゃ ) 突然、黒い雲のようは戸田で一瞬、苦痛に顔をゆがませたが、なにか挑むよう わら に不安と恐怖が胸にひろがりはじめた。彼は手術室の戸のな嗤いを頬に作った。 ノ・フを握った。だが、その時、戸の外にいた軍人たちのた手術室の戸をあけて、先ほど腕時計を見ていたチョポ髭 ばうず かい笑い声がふたたび聞えた。彼等の姿やその笑い声は勝の将校が坊主頭をのぞかせた。 呂の心を圧倒し、逃路を防ぐ厚い壁のように思われた。 「そちらの準備は完了しとりますか」 やがて無影燈のともった手術室の床に患者の血をながす「入れて下さい」浅井助手はかすれた声で答えた。「何人 水が乾いた細かい音をたてて流れはじめた。浅井助手も戸ですか。一一人ですか」 ほお とだな はさみ ガラス

4. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

いた。誰もいなかった。この廊下を真直ぐに戻ればふたた なかった。普通の人とちがって、医学生である彼はむかし び、手術室に出る。そう考えると戸田はもう一度、あの室からひとりで手術後、手術室にはいることに狎れていた。 おさがた のぞ を覗きたいという抑え難い衝動に駆られた。 そういう場合と今、どこがちがうのか、彼にはよくめな ( もう一度だけ。あのあとが、どうなっているのか見たかった。 ( 俺たちはここで作業服の上衣をとらせたんや ) 彼は一つ 午後の最後の光が次第に窓硝子から消えようとしてい 一つの光景を自分に押しつけながら、心の苦しみをむなし た。静かだった。時々、うしろの会議室から話声がひくくく待っていた。 ( あの捕虜は栗色の毛のはえた胸を女みた 洩れてくる。 いに恥かしそうに両手でかくしとったな。そして浅井助手 彼は階段を一、一一歩おりかけて足をとめた。それからくに指さされて隣の手術室に行ったんや ) るりと向きを変えると、廊下の壁に反響する自分の靴音を彼は手術室の戸をそっとあけた。スイッチを捻ると、無 ひび 一つ、一つ聞きながら手術室に近づいていった。 影燈の青白い光が天井や四方の壁にまぶしく反射した。罅 ドアはまだ、少し開いたままになっている。そのドアをのはいった手術台の上に小さなガーゼが一枚、落ちて、 あと 押すと、鈍い音をたてて軋んだ。エーテルの臭いがかすか た。赤黒い血の痕がついている。それを見ても戸田の心に うず に彼の鼻についた。準備室のしろつばい机上に、麻酔薬のは今更、特別な心の疼きは起きてこない。 ころが びん 瓶が一つ、わびしく転っている。 ( 俺には良心がないのだろうか。俺だけではなくほかの連 戸田はしばらく、その真中にたっていた。あの捕虜がこ中もみな、このように自分の犯した行為に無感動なのだろ よみがえ こで「ああ、エーテル」と叫んだ声が甦ってくる。そのうか ) 子供のような叫び声はまだ耳に残っている。本能的な恐怖堕ちる所まで堕ちたという気持だけが彼の胸をしめつけ 薬が心を襲ってきたが、戸田はしばらく、我慢していた。すた。彼は電気を消してふたたび、廊下に戻った。 さざなみ ゅうやみすで 毒 ると小波でも引くようにその恐怖は消え、自分でもふしぎタ闇が既にその廊下をつつんでいる。戸田は歩きかけ あしおと て、むこうの階段にひびく固い跫音を聞いた。その跫音は 海なほど落ち着いてくる。 かしやく 今、戸田のほしいものは苛責だった。胸の烈しい痛みだ階段をゆっくりと登ると、この手術室の方向に進んでく 尸一うんルい 釭った。心を引き裂くような後悔の念だった。だが、この手る。 術室に戻ってきても、そうした感情はやつばり起きてはこ廊下の窓に体をよせて戸田はタ闇の中に診察着をきた一 にぶ ガラス がまん くっ てんじよう ひね

5. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

くだ だが、その時、骨の砕けるにぶい音と、その骨が手術皿 壁に靠れた勝呂の眼の前には将校たちの背がある。彼等に落ちる高い音とが手術室の壁に反響した。エーテルが途 せ、 うめ は時々、かるい咳ばらいをしたり、疲れた足を動かす。す切れたのであろう、突然、捕虜がひくい暗い呻き声をあげ ると、そんな時、その肩と肩との間から前かがみになったた。 しば おやじと柴田助教授の白い手術着や、手術台にパンドで縛 ( 助かるばい。助かるばい ) りつけられた捕虜の草色の作業ずぼんの色がチラッとのそ勝呂の胸の鼓動も心の呟きも速度をました。 ( 助かるば き見えるのだった。 。助かるばい ) 「メス」 けれども、とじた勝呂の眼の裏に、あの田部夫人の手術 ぎくろ よみがえ 「ガーゼ」 の場面がふと甦ってきた。柘榴のように切り裂かれた夫 「メス」 人の死体を真中にかこんで、だれもが、かたい表情で壁に しわが さしず 助教授がひくい嗄れた声で大場看護婦長に指図してい 靠れていたあの夕暮のことである。無影燈の光を反射させ る。 ながら床を流れる水だけが、微かな音をたてていたあの手 ろっこっ ( この次は切除剪ば使うて肋骨を切りとる時じゃ ) 術の場面である。その死体をあたかも生きているように見 医学生の勝呂には、助教授の声だけで、おやじが捕虜のせかけながら、病室まで運んでいった大場看護婦長。「手 体のどこを切っているか、これから何を行うのかはっきり術は無事に終りましたよ」暗くなった廊下の隅で作り笑い 想像することができた。 を唇にうかべながら浅井助手が家族に言いきかせていた。 勝呂は眼をつむった。眼をつむって、自分が今、立ち合 ( 助かりやせん ) っているのは捕虜の生体を解剖している現実ではなく、本無力とも屈辱感ともっかぬものが急に息ぐるしいほどこ 薬当の患者を手術するいつもの場面なのだ、そう思いこもうみあげ勝呂の胸を締めつけてきた。できることなら手を上 とした。 げて前に並んでいる将校たちの肩を突きとばしたかった。 海 ( 患者は助かるばい。もうちとすりや、カンフルばうっておやじの肋骨刀を奪いたかった。だが眼をあけた彼の前に 新しか血液を補給してやるとやろ ) 彼は無理矢理に心の中は将校たちのいかつい肩ががっしりと幅ひろく並んでい あしおと で想像してみた。 ( ほら、大場看護婦長の跫音のきこえるた。その腰にさげた軍刀も鉛色ににぶく光っていた。 が。あれあ患者に酸素吸入器ばかけてやるとじゃ ) 一人の若い将校が、ふいにこちらをむいて、手術着を着 もた せん ライへ かす すみ ぎら

6. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

味が裏側にかくされている。ただ康子の夫だけが退屈そうなど病院付属の看護婦学校から合唱を練習する声が病室ま に膝の上に組みあわせた親指をあげたり、さげたりしてい できこえてくる。看護婦たちが * マスの夜に小児科病棟に こ 0 入院している子供に歌を歌うのがこの病院の毎年の慣例だ 「そろそろ失礼しようか。病人が疲れられるといけんからった。 したく ね」 「今度の手術も今までと同じ支度でいいわけですね」 しっとう 「そうだったわ。ごめんなさい。なにも気がっかなくて」 能勢は病室で若い医師と話をしていた。手術の執刀はも はず このなにも気がっかなくてという彼女のさりげない言葉ちろん教授がやってくれるがこの若い医師も手伝う筈であ は能勢の胸をチクリとさした。それは四人の会話の充分なる。 締めくくりだった。康子の夫は何も気がついていない。そ「ええ、能勢さんぐらいになると手術ずれしているから して他の三人はなにも気がっかぬふりをしてそれを口に出ね。今更、支度もいらんでしよう」 どじよう さないでいるだけだ。みんなは、この一件を彼のためにも「前は骨ぬき泥鰌にされましたが : : : 」 ごまか 自分たちのためにも誤魔化しているのだ。 胸部の骨を切ることを患者はこう呼んでいた。 「おはよう、おはよう」 「今度は片肺飛行機にされるわけか : : : 」 べランダではまだ子供が九官鳥にむかって教えつづけて若い医師は苦笑して窓に首をむけた。マスの合唱の声 が窓から流れこんできてうるさかった。 「言えよ。言わないか。九官鳥」 汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり・ : Ⅳ 「確率はどのくらいですか」 手術があと三日という日、今まで静かだった毎日が急に能勢はじっと相手の表情の動きから眼を離さずに急にそ 忙しくなった。看護婦につきそわれて肺活量や肺機能を調の質問を発した。 べられたり、血液を何回も取られた。血液型をみるだけで「ぼくが今度の手術で助かる確率ですが」 はなく、手術台で能勢の肉体から流れでる血が何分で凝固「なにを今更、弱気なこと、言うんです。大丈夫ですよ」 するかを知っておかねばならぬからである。 「本当ですか」 それは十一一月の上旬だった。 >< マスがちかいので昼休み「ええ : ・ ・ : 」しかしその時、若い医師の声には一瞬苦しい

7. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

あらが どうこうおお 次第に瞳孔を覆ってくる白い死の膜に懸命に抗うように は病室の戸口でもう一度ふりかえり、 一、二度、眼をみひらいた。 「しつかり、頑張ってね」 その鳥と同じような、哀しみをたたえた眼を彼は自分の そしてその顔にまた、あの微笑がうかんだ。 病室は急にひっそりとなった。鳥籠のなかでかすかな物人生の背後に意識するようになった。その眼は特にあの日 音をたてて九官鳥が動いた。寝台の上に坐ったまま彼は止の出来ごと以来、能勢をいつもじっと見つめているような り木にとまっている鳥の哀しそうな眼をじっと見ていた。気がする。見つめているだけではなく、何かを自分に訴え わがまま 彼が我儘だと知りながら妻にねだってこの高価な鳥を買わているような気がする。 せたのは色々な理由があった。 Ⅱ 一一度の手術が失敗して今度は片肺を全部とるときまって から能勢は人に会うのが苦しくなっている。医師たちは一一一手術前の準備の一つとして気管支鏡検査があった。これ 度目の手術の話となるとロだけは確信ありげなことを言うは鏡のついた金属の管を直接、ロから気管支に突っこんで が、その表情と眼のそらしかたとで彼は成功率は少いのだ中を覗くのである。患者たちはこれを・ ( ー・ヘキ、ウとよん あお なと思った。特に彼の場合いけないのは二度の手術の失敗でいるが、寝台に仰むけになって金属の棒を入れられたみ ゅちゃく ろくまく で肋膜が胸壁にすっかり癒着していることである。その癒じめな自分の姿が・ ( ーベキ = ウとそっくりだからである。 着を新がす時の大出血が最も危険なのだ。既に自分と同じゃられる者が口から血と唾を洩らし苦痛のあまり、もがく 状態で手術中に息を引きとった患者の例を幾人か耳にしてのを看護婦たちが必死で押えつける。 じようだん いる。彼には見舞客に会って陽気をよそおったり、冗談を その検査をすませて、傷ついた歯ぐきから流れる血を紙 言う気力は、もうなくなっていた。一つにはそんな自分にでぬぐいながら病室に戻ると、また妻が子供をつれて病室 かっこう に来ていた。 男九官鳥は恰好の相手のように思えたのである。 歳四十歳ちかくになって能勢は犬や鳥の眼を見るのが好き「真蒼よ。お顔が」 くしぎ 四にな 0 た。ある角度から眺めると冷たく、非人間的なの「検査があ 0 たのさ。例の焼鳥の串差しだよ」 に、別の角度から見ると哀しみをじっとたたえたような眼二度も手術を受けてきた能勢は肉体の苦痛には鈍感にな じゅうしまっか っている。痛いということがそんなに怖しいことではなく である。彼は十姉妹を飼ったことがあるが、ある日、その なっている。 一羽が死んだ。息を引きとる前、小鳥は彼の掌のなかで、 まっさお

8. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

「しゃべらないだろうね、あの男」突然、浅井助手は不安手にもった手術皿の中の肉塊のことを考えただろう。赤黒 かっしよく かたま そうに顔をちかづけてきた。「万一、外部にでも洩れるとくよどんだ水に漬けられたこの褐色の暗い塊り。俺が怖し いのはこれではない。自分の殺した人間の一部分を見て 「大丈夫でしよう。気の弱い男ですから」 も、ほとんどなにも感・せず、なにも苦しまないこの不気味 な心なのだ。 「なら安心です。で、今、言ったことだが、よく考えてく たま れ給えよ。 いいかい。君、おやじなんか、もう駄目なん彼は会議室の厚い重い戸を体で押した。三、四人の将校 だ。今後は柴田助教授とぼくとがくんで第一外科をたてな がこちらをふりむいた。料理の皿や酒杯をならべた長い机 うわぎ ひばち おすつもりなんだよ。だから、ぼく等と手を握ってくれれのかたわらで、彼等は上衣をぬぎ、火鉢の上に手をかざし すいせん ていた。 ば君の副手推薦なんてチョロいものですよ。それに第一、 今日のことで・ほく等は今後、一心同体にならなくちゃ、こ 「田中軍医はいらっしゃいますか」 がいに損だからねえ」 「もうすぐ来られるが、何だ」 ぎんこく 人影のない廊下を助手が去ったあと、戸田は手術皿を手「御注文のものです」戸田はすこし残酷な快感を味わいな にしたまま、妙に深い疲労を感じていた。 がらガーゼをかぶせた手術皿を食卓の上においた。 一心同体といった今の浅井助手の言葉ーー・あれはたがい 「御苦労さん」 の共犯者意識を利用して俺をだきこみ、事件の洩れるのを 一人の将校が椅子から立ち上った。その将校は手術中、 ろう 防ぎ、今後、自分の第一外科での勢力を更にかためようと蝋のように蒼白になっていた男だった。指の先でガ 1 ゼを のぞ ゆが する甘い餌ぐらいなことは戸田にもすぐビインときた。 つまんで彼は中を覗くと顔をくるしそうに歪めた。 ( 浅井の奴、手術皿のこの肉のことをどう考えているんや「なんじゃい。江原少尉」 ろか ) 「捕虜の肝臓です」 とびいろ たった二時間前には生きていたあのおどおどした鳶色の戸田は一語、一語はっきりと答えると、しいんと白けた 眼の捕虜のこと、浅井助手は彼の死をもう忘れているのだ部屋から出ていった。 ろうか。手術室を出るなり、自分の将来の地位をすべてに 結びつけて話しのできる彼。そのみごとな割り切りかたを 戸田はふしぎにさえ思った。だが俺自身だって、どれほど会議室の戸をしめた時、鉛色に光った廊下が長く伸びて えさ だめ おそろ

9. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

言いようのない幻減とけだるさとを戸田は感じた。昨日させて眉をしかめた。 あよら ひげ その隣りのチョポ髭の中尉の顔は汗と脂とで光り、ロを まで彼がこの瞬間に期待していたものは、もっと生々しい 恐怖、心の痛み、烈しい自責だった。だが床を流れる水の馬鹿のようにポカンとあいていた。彼は前に立っている太 音、。ハチ、パチと弾く電気メスの響き、それらは鈍く、単った軍医の頭の上に伸びあがるように顔をだし、しきりに ものう くらびる 調で、妙に物憂い。それどころか、何時もの手術とはちが唇をなめながら眼の前にくり展げられている光景を一つ おそ って患者のシック死や急激な脈や呼吸の変化を怖れるあでも見逃すまいとしている。 の張りつめた緊迫感が今この手術室のどこにもなかった。 ( 馬鹿な奴等や ) 戸田は心の中でそう呟いた。 ( ほんまに 捕虜がやがて死ぬことはだれでもが知っている。別に生き馬鹿な奴等や ) だが彼等がな・せ馬鹿なのか、そういう自分 伸びさす理由は少しもない。そのために電気メスを握るおは一体どうなのか、戸田は考えようとしなかった。考える めんどうくさ やじの動きにも、コッフェルをとめている浅井助手、立会のも面倒臭かった。 の柴田助教授、ガーゼや器具をそろえている大場看護婦長実際、手術室の温度は少し気の遠くなるほど暑かった。 の動作にもどこか、投げやりな、のろのろとしたところが室内の空気は重く沈み、どんよりと濁っている。そのため あった。 に戸田は助手としての自分の役目をしばらくの間、忘れか 八ミリの回転する音がメスや鋏の音にまじって相変らずけていた。 なり続いている。 ( 新島の奴、どんな気で撮しているんや手術台の捕虜が烈しく咳きこみはじめる。気管支の中に ろ ) と彼は考えた。 ( あの音、どこかで聴いたことがあっ分泌物が流れこんだのである。戸田は浅井助手がマスクを なにわ せみ たな。そゃ。あれは蝉の声や。浪速高校のこゑ大津の従通しておやじにたずねる含み声を聞いた。 姉の家に遊びにいった時、聴いた蝉の声や。いや、なぜ、 「コカインを使いましようか」 「使わんでいい」おやじは手術台から体を起し、突然怒り 俺はこんな時、こんなアホくさいことを考えとるんやろ ) どな 首をうしろに廻して、背後にかたまっている将校たちののこもった声で怒鳴った。「こいつは患者じゃない」 うよ材物 2 群をそっと窺うと、左端の眼鏡をかけた若い将校が顔を横手術室の一同は、このおやじの烈しい怒声に急に静まり ろう ミリ撮影機のまわる音だけが、にぶく長く続 にそむけ蝋のように真白くなっている。始めてみた人間のかえった。八 内臓の生々しい模様に貧血を起したものらしい、戸田に見 られていることに気がつくと、この男はあわてて体を直立 にぶ まゆ ひろ にご つぶや

10. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

「今だから言いますけどね : : : 」 「手術は何時間かかったんだ」 教授はうれしそうに枕元の椅子に腰をおろして、 「六時間」 「よく助かりましたなあ、すべて危い綱わたりばかりだっ こ . 「すまなかったな」と言いたかったが、その力も今はなか 「手術中もですか」 胸の中に大きな石をつめこまれたような感じだった。だ 「ええ、手術中、あんたの心臓は幾秒か停止してね。あわ てましたよ。あの時は。しかし、よくよく運の強いかたで が肉体の苦痛などにはもう馴れていた。 窓がしらみだした。朝がちかづいてきたとわかった時、すな」 始めて助かったと思った。よくよく運がよかったと思っ「今まで、能勢さん、よほど善行を重ねたんでしようね」 よろこ た。その悦びは大きかった。 とうしろに立っている若い医師も笑った。 つば ひも だが、血のまじった唾はたえまなく出た。普通この血は 一カ月たっとやっと寝台にくくりつけた紐を持って起き 術後、一「三日でとまる。手術した肺の傷口から出る血があがれるようになった。脚もすっかり肉がおち、骨も七 すっかり凝固した証拠である。けれども能勢の場合は四日本、片肺もなくなるというみじめな肉体を能勢は痩せこけ たっても五日たっても唾のなかの血線は消えなかった。おた腕でしみじみとなぜた。 「ああ、そうだ。俺の九官鳥は」 まけに熱は相変らず、下降しなかった。 医者が幾人も入れかわりで病室にあらわれ、廊下で何か病気との戦いの間、彼は看護婦室にあずけた九官鳥のこ ひそひそ話をしている。彼等が気管支に穴があく気管支漏とを忘れていた。 を疑っていることぐらい能勢にはすぐわかった。もしそう妻は眼をふせた。 「死んだわ」 だとすれば、やがて雑菌が傷口につぎ、膿胸を併発する。 再び手術を幾度も行わねばならない。医師は大急ぎで抗生「どうしたんだ」 物質の注射を追加し、アイロタイシンの服用を開始しはじ「だって看護婦さんもあたしも、九官鳥にかまっている暇 えさ はなかったんですもの。餌はやってたんだけど、ひどく冷 めた。 一一週間目にやっと血が唾にまざらなくなり、熱も少しずえた晩、部屋に入れてやるのを忘れちゃって。べランダに おきっ放しにしていたのがいけなかったの」 っ下降しだした。 しろう