気持 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集
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1. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

なかうそ のろまな生徒は、昼間タマッキ屋の蔔こ 月冫いたという理由でじ思いを起させたであろう。 ・ : 二人は半ば嘘になるのを せつかん 警察へつれて行かれ、折檻されてペソをかきながら帰って意識しながら、なおのこと新しい冒険についてのプログラ しせし きた。 : こんなことが何時、どうして起るのか、僕らに ムを威勢よく話しはじめる。だが、またふと、それはと切 はサッパリ解らなかった。ただそれが、毎日が退屈でたまれる。 : : : 暗い窓の外を、脱走した同僚兵でも探している おも かげえ らないような時期、何かを置き忘れてどうしても憶い出せのか剣付鉄砲の兵隊の姿が兇器の影画のように横切ったか ないようなジリジリした気分のときに、不意にやってくるらである。 ことだけはたしかだった。なぜなら心がそんな状態のとき ( 僕らはそれを沈滞と呼んでいたが ) は、僕らの方でもき京都からの手紙は、だんだん狂暴な調子を帯びてきてい おおげさ っと何かを為出かしたくなったのだから。 た。東京の二人が競争して媚びるためにいきおい大袈裟な 僕らは、たびたび沈滞した。冒険も一度や 0 てしまえば表現にがているのだとは知らず、藤井の方は負けまいと がんば 一一度目には刺戟がすくなくなるのが当然だし、たびかさなして一層頑張るのだった。 : : : 極端に主観的で独断の多い る度数に応じてこの沈滞もくるわけだった。最初のうちは思想、徹底した病的なイメージ、ほとんど判読しかねるほ 例の気まぐれな取り締りが僕らを救った。あのアベコペぶどの思考の飛躍、が奇矯な文体で書いてあった。そしてと りは日を追って顕著になり、なまけ学生の狩り出しに憲兵うとう冬のもっとも寒い頃のある日、 すわ さび まで参加するほどになった。これはまるで、坐ったまま動 来たときと同じ淋しさや、帰るときの京の春。 くパノラマによって旅行できる椅子と同じ効果があった。 という変な俳句の手紙がきた。それには学校から退学を : けれども、こんな取り締りもくりかえされるうちには命・せられてしまったこと、悪い病気におかされたこと、そ いなか 次第に僕らの心を弱くして行った。倉田も僕もほとんど教して朝鮮の田舎へ帰ろうと思っていること、をしるしてあ 室へは出ず、そうかといって何かやらかす気力もなく、ゴ 仲ミゴミした町のうす暗い喫茶店の椅子に、二人して錆びつ まわ いたような気持で顔を見合せながら一日送ってしまうこと手紙は倉田のところから廻されてきた。彼は伝令の馬の にお も多くなった。湿ッぽい臭いのする煉炭火鉢に老人のようように、白い息を吐きながら世田谷の僕の家へやってき にかがみこんでいる倉田を見ていると、反射的に高麗彦の ことが思い出された。おそらく僕の姿もまた倉田の心に同手紙をみると僕は何も考えることが出来ないほど驚し しだい す れんたん こまひこ

2. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

めに自分の部屋の本箱に鍵を下ろすと家を出た。 ゆくえ 外は暗かった。倉田夫人に約束はしたものの彼等の行方 をさがす気持は無論なかった。習慣で足があの喫茶店の方 へむきそうになると、僕は引きかえした。そして知らない 路を歩いた。もう何処へ行こうにも行きようがない。星の ない空からなまあたたかい風が吹いてきた。 : : : 僕は、ふ と自動車をよびとめると、河向うの町の一つを言った。あ そこで、あいったちに会えるかも知れない。そうつぶやい もちろん たが、それを望んでいるわけでも勿論なかった。 自動車が動きだすと僕は車の速力で、感傷的な酔い心持 にさそいこまれた。窓にうつりながら流れて行く灯を見る と、心の底に友人を愛したときの僕の感情がチラチラほの めき出すのだ。 ・ : しかし、やがて速力が増すにつれて動 くつもの橋をこえる いている快感だけが僕を占領した。い はしげた とき、そのたびに橋桁の中腹がヘッドライトに浮び、まる くもり上っては、うなりながら車体の下敷になって消え 僕はいっか座席からのり出すように、運転台の背板に両 腕をかけて、自分から動いているような錯覚におちた。 : ・そのとしの冬から、また新しい国々との戦争がはじ

3. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

て、ふと見ると、自分が乗っているのは岩ではなく、海亀て働いているような心持になってきた。そして、ついに朝 こうら : 日はどこからともなく のように甲羅の固い動物の背中なのだ。その夢の中で彼はがやってくるのに気がついた。・ おも 未だ子供のころ、海で母に水泳を教えてもらったことを憶射しはじめ、空気は水色の透明さをましてくる。それにつ い出していた。母に水の中で眼を開いているように言われて、あたりのものはだんだん見覚えのある形になって定 すいじば とお れ、そのとおりにすると緑色の水を透して、すぐそばに黒着する。炊事場のあたりから、人の働きはじめた物音が聞 一体どれぐらえてきた。 い大きな母の体がゆらゆら揺れている : ・ ぐっ い眠ったのか ? 信太郎は夢の中の不安な気持が、まだ頭ゴム底の運動靴の音をさせながら看護人が姿を見せ、次 の一部分にのこっているのを感じながら、不意に頸にホウぎに父親がやってきた。あたりは、すっかり明るくなっ タイを巻いた男が「死ぬのは干潮のときだ」と言ったのをた。 「下顎呼吸がはじまったな」と看護人が言った。 憶い出し、悪い予感がひらめいた。ーーー誰も知らない間 一瞬、そんな 母はロをひらいたままーーというより、その下顎が喉に に、母親が自分の眼の前で死んでいる : ・ あます ことを考え、肌寒くなりながら、母に顔を近づけた。甘酸くつつきそうになりながらーー喉の全体でかろうじて呼吸 つばい臭いが夜気にも強く鼻について、弱いながら安定しをつづけている。「これがはじまると、もういかんですね た呼吸が聞えてくる。ーーー助かった、と彼はおもった。念え」と、看護人は父をかえりみた。 父は無言でうなずいた。そして信太郎に、「村へ電話 のために事務室へ時計を見に行った。二時十分過ぎだ。ホ ウタイの男が言ったことが本当なら、もう危険な時刻は過するか」と言った。 ぎ去っている。とすると母は、またしても危機をのがれたすると、信太郎は突然のように全身に疲労を感じた。と のだろうか。しかし、そう思った次の瞬間から、これまで同時に、眼の前の二人に、あるイラ立たしさを覚えて言っ えんえん た。「べつに、まだ死ぬときまったわけじゃないでしよう。 の毎日がまた延々として繰り返えされることを想い、ガッ それに電話したって、伯母さんは来れるかどうか、わから カリした気持になる。 それから夜が明けるまでの何時間かを、彼はこの裏表にんですよ」 だんこ らくたんあんど なって循環する落胆と安堵のうちにすごした。ほとんど全二人は顔を見合せた。やがて父は断乎とした口調で言っ しら 神経を母の呼吸音をきくことだけに集中させているうちた。「村へは報せてやらにやいかんよ。報せるだけでも に、ある瞬間から自分の呼吸が母の呼吸といっしょになっ にお くび うみがめ のど

4. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

事すること自体が、まだ一つの冒険に数えられるくらいなたげて、それに興奮していることと、走ったこととで胸は のだ。しかもこんな本式のレストランでは、ナプキンをョおそろしく高鳴った。高麗彦を探そうと思いながら、すぐ ひざ ダレ掛け式に結ぶべきか、膝にたらすべきかの問題で、はまた逃げたい心持になり、僕は何をしてよいのかわから やくも僕の魂は宙に浮いてしまうのであった。 : : : 店の中ず、せかせかと当てどもなく歩きまわった。コンクリート はかなり立て混んでいた。 : ホーイたちは急ぎ足に、しかしの鋪道がまぶしく光り、背中にも胸にも汗が流れているの らよう からだ 歩調正しく、白い蝶の飛ぶように動きまわっていた。毛のに、驅は寒かった。不安と後悔とに追いつめられて、ほと うえきばら とりこ ふさふさと生えた大きなシュロの樹の植木鉢のかげになつんど罪悪感の虜になりかけたとき、ようやく僕は、例の青 たテープルをえらんで、われわれは二皿ばかり注文して食いだぶだぶのシャツを着た高麗彦が日を浴びながら大通り べた。食べおわったとき藤井は笑いながら、「、 を歩いてくるのをみつけた。 ・ : その瞬間、僕の心は一転 ひそう してヒロイックな悲愴感に満ちた。 と言った。ぼんやりしたまま僕はただ「ああーと答えた。 すると彼はシュロの毛を一本引っぱってマッチの火を点し「おお」と僕は思わず彼に抱きっきたい程の気持だった。 「おお」と彼も声を上げた。 突然、眼の前が明るくなった。あッという間にシュロの 感激して僕は、いきおいこんで逃げた径路の顛末を話し 幹が火の柱になった。ものすごい混乱だった。まわり中のかけたが、そのときふと彼の片手に奇妙な大きい紙包みが 客が総立ちになると、あたりは忽ち火事場さながらの光景ぶら下っているのが目について、「何だ」と訊いた。する ばうせん すけと になった。・ : ・ : 茫然としていた僕は椅子を蹴飛ばされるとと彼はつまらなそうに、・ほそ。ほそと、「ミソと、ニポシと、 ・ : 」とこたえはじめた。僕はあきれた。あんなに恐ろし 同時に、耳もとに藤井の何か言う言葉が、コップの破れる かんぶつや 音といっしょに聞えて、気をとりなおすと、出口に向ってい ことをやった直後に、彼は乾物屋で晩御飯のおかずを買 いちもくさん い集めていたというのだ。僕は劇的な気分をすっかり台な 突進する高麗彦のあとを一目散に追いかけた。 おおぎよう こんな大仰なことになろうとは意外すぎて、まるで空想しにさせられた。僕にとっては、もつばら冒険のタネであ ったものが、彼にとっては多分に実用的な価値もあるもの のなかの出来事としか思えないほどだった。だが、僕を一 であった。 層おどろかせたのは、混み合った裏通りの小路を逃げなが この事件のおかげで、それまで意地悪いエチケットの監 ら二人がおたがいの姿を見失ってはなればなれになってか らだった。 : 一人になると恐怖心が急にハッキリ頭をも視人だとばかり思いこんでいた食堂の給仕人たちが、サア は たちま てんまっ

5. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

136 かんじよう 理由があげられる。たとえば、母はよく金の勘定をまちがている。 : ・なまなましいべンキで彩色した食べ物店、喫 さてん えたり、落したりするタチであるとか、父はひとの前へ出茶店、道路に向って開け放しで、壁いつばいに色いろの布 : しかし、 るとドモって口がきけなくなる方だ、とか。 を滝のようにたらしている服地屋。またそのとなりには沢 さんたる 結局のところ私には自分のやっていることが解らない。私山の樽を、蹴っまずきそうなほど並べた漬けもの屋。だ は行きたいから行くのである。そしてわざと自分のなかに が、それらのものは私には用はない。どうせ買えもしない 思いッきり卑屈な感情をみつけ出し、体中に屈辱感をいっし、食べられもしないときまっているのなら、私はもっと ばいつめこんで帰るのである。そのため私は、いやだ、不 別のものをえらぶ。たとえばある食料品店のビカビカにみ 安だ、と言いながら実は、その日のくるのを待ちどおしい : ぶら がき上げられたショウ・ウインドウの前に立つ。 たの しも つや ほど待っている。これは陰気な愉しみである。 ぶらプラ下っている艶のいい、 ノーセージ、霜を置いたパイ まくら 海岸にいて横浜を想像すると、それは私の日常生活と・フを枕にセロリやサラダの葉を着せられて横たわっている かて なが は切りはなされた一箇の「街」であり、可能性と欲望の糧骨つき ( ム。それらを私はじっくりと眺めるのだ。いつま とにみちているように見える。それに、ともかくその日に でもいつまでも、分厚いガラスが溶けそうになるほどなが は金を持ってーーそれこそ単に「持つ」だけの話だが める。すると、あざやかな断面に白い骨とうす桃色の肉を つま 外を出歩くことができるわけだ。 みせたハムや、はちきれそうに詰ったソーセージが、むく あぶら 役所の門を出ると私は、野毛の坂を下まで一気に駈けおむくと脂ぎった塊に生命力をふきこまれて、たツたいま りる。恐ろしい場所から逃げ出したい気持と、駈けること切断されたばかりの胴や胸のようにみえてくる。突然、彼 を禁じられていた子供が許されたときの気持である。こう等は動き出す。堂々と私の眼前に立ちふさがり、あるいは しようどうて、 いう衝動的な駈け方をすると、まるで走り着いた所に、な・フランコにのって私の鼻先をかすめて通る。この時、私は にか楽しいことでも待っているような心持がする。 ・ : 貧弱な私の胃袋 : 坂何とも言えない快感をおぼえるのだ、 おそ : また、こうやって鼻 を下りきって電車通りと交叉すると、突然そこから街になが驚き怖れてちちみ上ることに。・ す、ま る。両側には商店が隙間なく立ちならび、そうでなくともをガラスにおしつけそうにしている自分が、往来の人にす 狭い道路の真中を占めた露店がぎっちりとシラミの卵みた つかり見られていることに。 いにつながって、食い物、衣料、雑多な器具や小動物にいた私はまた大廻りして、別のもっと幅の広い通りも歩く。 」こら・ るまで、あらゆる商品が店々から鋪道の上まであふれ出しそこは外国人相手のみやげ物屋やレストランばかり並んで いつ、 、つ

6. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

ちりよう いている優越心の堀があって、それを飛びこえないかぎは、医者になって患者の治療をほどこしつつあるような気 り、僕は逃げ出せないのであった。 にさえなった。イニシアティヴをとる快感から、次の日も おびや で、僕は倉田を出来るだけ脅かすよりしかたがなかっ倉田に会うのをたのしみに、めずらしく第一時間目の授業 た。翌日から僕は、ロに藤井の性格や生活態度を讃美しな に間にあうように登校した。 こまひこ がら、ところどころで高麗彦が今後たどるであろう人生の 悲惨を暗示して、倉田にきかせた。 あと : ・その上で、彼が逃倉田はいなか 0 た。一一時間目にな 0 ても姿を現わさなか ころ げ出すと言ったら僕もその跡を追うつもりだった。 った。その頃から僕の疑心はつのりはじめた。なぜか突 然、倉田が藤井といっしょにいるような気がしはじめた。 僕の考えはうまく行った。僕のオドシ文句に威力があっ鉄の脚をつけた教室の椅子の上で退屈な講義をききながら こうかい たというよりは倉田の心に、それを待っところがあった。僕は、授業のはじまる前に抜け出さなかったことを後悔し ・ : 学年試験が近づいてくるあわただしい気分の中で、教た。けれども講義がおわると次の時間にはきっと倉田が現 室ではノートを借りる交渉が方々で行われはじめていた。 われそうな気がして、またそのまま教室にいのこってしま ・コ一年へ進級するときが一番落第するやつが多いんう。午後の授業にもついに倉田はやってこなか 0 た。・ だそうだ」「最初の年でつまずくと、くせになって永久に こんなに倉田を待ちどおしく思ったことはなかった。だが あがれないというからね」・ : ふだんは・ハ力にしていた連僕は倉田を待っために教室にいたのだろうか。もし倉田に 中のそんな言葉にも、こんな気持のときにきくと、やつば会いたいのなら、いつもの喫茶店か彼の家へ行った方が早 こしつ り僕らの心を動かすだけの力はあった。「先生のお墓に いはずだ。あんなにも僕が教室を固執したのは、ただ患者 じようだん でもお辞儀に行こうか」僕は冗談らしくそう言った。学校の倉田を欲したからであるのだろうか。 の創始者である氏の命日には生徒全員墓参することにな家に帰ると、藤井の置き手紙があった。 仲っていて、その日行かなかった者は落第するという伝説が 朝鮮へかえる前に会っておきたくて来た。いま浅草 あったが、二人ともその日は欠席だった。 橋のキチン宿にいる : 「うん、行こうーと倉田は調子よくこたえた。・ ・ : 晴れた やつばりそうか、と僕は適中した予想に軽い満足をお・ほ しゅせき 日で、墓地の散歩は気分がよかった。僕は一層効果を上げえただけで別に驚きもしなかった。手紙には彼独特の手蹟 あさはか るために遠足気分をかきたててやった。いつの間にか僕の地図がそえてあった。僕は浅墓な冷淡な眼でそれをみ あし

7. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

三度目の手術まであと二週間という日、彼は妻に九官鳥 じゅうしまっ を買わせた。十姉妹やカナリヤと違って、値のはるこの鳥 の名を口にだした時、その顔にかすかな当惑の色がうかん 「ええ、 しいわよ」 看病で少しやつれた頬に無理に微笑を作ってうなずい この微笑を、病気の間、能勢は幾度も見た。まだ薬液で 人は自分がいっ頃、死ぬかと、時々考えるだろうが、ど んな場所や部屋で息を引きとるかほとんど想像しないと能ぬれたレントゲン写真を灯にすかしながら、医師が、 「手術を必要としますなあ、この病巣では : : : 」 勢は思った。 ろっこっ と、肋骨を六本、切りとることを告げた時、一瞬、黙り 病院では誰が死んでも、死が小包みでも発送するように 、じよう こんだ彼の心をこの気丈な微笑で妻は支えようとした。苦 扱われる。 あるタ方、隣室で腸癌の男が死んだ。家族の泣声がしばしい手術が終った真夜中、や 0 と麻酔からさめて、まだ朦 男らく聞えた。やがて看護婦が運搬車に死んだ男をのせて霊朧としている彼の眼にまずこの微笑をうか・ヘた妻の顔がう ちからっ 歳安室に運んでいった。だが翌朝、あいたその部屋を掃除婦つった。そして二度目の手術さえ失敗して、能勢がカ尽き たというような気持に襲われた時でさえ、彼女の頬からこ 四が歌を歌いながら消毒をした。 午後には次の患者がもう入院してくる。だれも、ここでの徴笑は消えなかった。 昨夕、一人の人が死んだのだと彼に告げはしない。新入り三年間の入院で貯金も残り少くなっている、その中から の患者もそんな事実に気づきはしない。 高価な九官鳥を買えというのは確かに思いやりのない註文 四十歳の男 空は晴れている。病院ではなにもなかったように平常通 り、食事が連ばれてくる。窓の下の路に自動車や・ハスが走 ごまか っている。みんな何かを誤魔化している。 こ。 ほお

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る、そんなことがあるものか : いやいや、そういうことがないときまったわけじゃな 。現に、こうして、こんなに朝早く、僕一人しかいない 一一階へやってくるのは、彼女がそうしたいと思っているか らじゃないのか。 そんなことを心の中でつぶやきかえしながら、彼はいま にも女中が段梯子の中途で思いとどまって、そのまま引き 返して行きはしないかという危惧にせめたてられていた。 しかし足音は階段を上りきったところで止った。襖がしず かにひらかれた。彼は目をつむったまま、どうすれば最も かっこうねい ことし、また落第ときまった。何とも奇妙な心持だつ自然な恰好で眠入ったそぶりが出来るだろうかと考えた。 た。 そうするのが、いちばん都合のいい受け入れ態勢だと信じ その朝、順太郎は眼をさましたまま寝床の中で、女中がながら・ : いつになく階段を軽く拍子をとるような足どりで上ってく しかし、ついに我慢できずに眼をあけた。襖のかげから るのを聞いていた。何かを期待させる足音なのだ。 半分のそかせた女中の顔が笑っている。相変らず、赤い鼻 鼻の先きが、いつもそこだけ蒸したように赤くなって・フだ、そう思ったとき彼女は言った。 けあな ツ・フッと毛孔の見えることは目ざわりだが、それさえ我慢「ぼっちゃん、お手紙です」 すればまるで見られないという顔つきではない。二重にな 速達の印のついたハガキだった。発信は N 大学予科事務 くび 0 た小さなあご、撫で肩の細くてすんなりした頸、それに局とある。 げときどき意地悪そうに光る細い吊り上 0 た眼 = : = 。順太郎彼はもう一度、夢から醒めた気がした。と同時に、尖 0 葉は、そんなものがいまにも自分の寝床の中にころがりこんた屋根のある黄色っぽい校舎が頭にうかんだ。 まくら でくるのを期待するような気持で、眼をとじたまま枕もと ムすま の襖があくのを待っていた。 受験番号第一一一九八九番阿倍順太郎 あいつが万が一にも自分の方から僕の寝床へ入ってく右者、本学予科入学志望者選抜試験ノ結果、 青葉しげれる だんばしご

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あえ がいないこの舗装道路を彼を乗せた・ハスだけが時々、喘ぐ 小説を書きだして十年彼はすべての人間の行為の中にエ ぞうきばやし ような音をたてて登っている。枯れた雑木林がさむざむとゴイズムや虚栄心などを見つけようとする近代文学が段 ざる 拡がっている。その雑木林の中に雨にぬれ戸を閉じた・ハン段、嫌いになってきた。水が笊からこ・ほれるように、そう ガロオの群が押しだまって並んでいる。 した人間の視かたのために我々は最も大事なものを喪って いったのではないか。 「殉教など君、虚栄心だよ」 すみ それは、新宿のある飲屋の隅だった。塩汁という秋田の枯草と枯れた林の間を曲り折れながら頂上にむかって登 なべ じゅず テープル 鍋料理が、酒のきたなくこぼれた卓子の上で煮つまってい っていく道に、かって数珠つなぎにくくられた一群が歩い た。その煮つまった塩汁を前にして先輩は、能勢が最近書ていた。彼等の心には虚栄心もあったろう狂気もふくまれ いた小説の主人公を批評していた。小説は明治の初期におていたろう。しかし別の心も含まれていたはずだ。 ける切支丹殉教を素材にして書いたものだったが、先輩は「たとえば戦争中の右翼なんかには一種の殉教精神があっ 殉教という心理をそのまま、能勢のように鵜呑みにはできたろう。ああいう、なにかに酔うという感情にはどこか不 純なものが感じられてね。やはりこれも戦争を経てきたも ぬと言う。 「殉教などをしようとする気持にはとどの詰り虚栄心があのの気持かな」 るよ」 ひえた酒を口にふくみながら先輩は笑った。能勢は自分 あきら 「ええ虚栄心もあるでしよう。英雄になりたいという気持とこの人とのどうにもならぬ誤差を感じて、一種、諦めの 微笑をかえすより仕方がなかった。 もあるでしよう。しかし ! 」 能勢は黙ったまま杯をいじった。殉教の動機の中に英雄やがて、山の中腹のあたりに湯気のように白い煙がたっ におい 主義や虚栄心をみつけられることはやさしい。しかし、そのが見えてきた。窓はしまっているのに硫黄くさい臭がか ういうものを除いた後にも、まだ残余の動機が存在する。すかに感じられる。煙のたっているあたりは、乳白色の岩 仙 や砂がはっきり見える。 この残余の動機こそ、人間にとって、大切なものではない 「地獄谷ですか。あれが」 雲のか。 、え」・ハス・ガールは首をふった。「地獄谷はもう少 「それに、そう言う見かたをすれば、すべての人間の善意「いし も行為の裏側にもみな虚栄心や利己主義は見つけられまし奥です」 のぞ 雲は少し割れてほのかだが青い空が覗いた。今までエン シ・ツツル

10. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

一と月たった。山田も順太郎も結局、大の予科に通うとがわかったら、それこそ腰をぬかすぜ」 ことになった。 「だいじよぶさ。何とかなるよ。見つかったら、そのとき 何ともおかしな気持だった。いまさら「新入学」といつはあやまるだけのことさ。予科から学部にうつるときに よ、 た晴れがましい気持になれないのは仕方がないとしても、 かならず他の科へ行けるようにします、とか何とか一 = ロ これまでよりはいくらかでもマトモな「表通り」を歩いてっておけばいいよ」 いるという感じも全然なかった。第一、二人で教室で机を「そうかな、しかしおれの親じは嘘をつくやつだけは許せ ふんいき 並べて坐ると、異様な雰囲気があたりにただよいはじめるん、と言う方だからな」 のだ。二人とも新しい学生服をつくらないで、予備校のと 二人は一日に一度は、こんなことをヒソヒソと語り合 きの服にボタンだけ新しいのにつけかえたのを着ていたせう。こんなくらしは浪人のころにくらべて落ちつきのある いもあるが、そんなことよりも一一人は他の五十人のクラものとは言えなかった。話し合って別れたあとでは、おた けいべっ ス・メートと、どこかしらまったく異った種類の人間であ がいに軽蔑し合った。そのくせ次の日に顔を合せると、ま った。年のちがいということもたしかにある。けれどもク た同じことを心配したり慰めたりするのだ。 ラスには彼等と同年の者だっていないわけではないし、浪 人二年はめずらしくないのだ。それなのに彼等二人だけ 一方、後藤はあの日以来、高木の下宿に住みついて、女 が、どういうわけか珍奇な一一匹の動物のように見える。 が県にかえってからも、二人は転々と下宿をかわりなが 一つには、二人が共通の秘密をもっていたからだろう。 ら、同じ部屋でくらしていた。きのうまで中野にいたかと おもうと、いまは浅草橋の台地の、待合と芸者家にかこま 二人とも家には医学部に入ったことにして、文科に来てい るのだ。このトリックは順太郎がすすめて山田にもやらせれた路地のおくのアパートにいるといった具合だ。 この二人に対しても、山田と順太郎は負い目を感じなく た。悪事は一人でたくらむより仲間をもった方が気が軽い し、それにどうせここまで一緒に来たのなら、同じ学校にてはならなかった。ほとんど毎日のように顔をつき合せて いた連中と、別の生活をはじめることは、それだけでも何 行きたかった。 「こんなことをしていて大丈夫かなア。うちの親じは工科となくウシロメタい気持がする。それに彼等は何といって 出の技術屋で、「機械は嘘をつかんからいい』と言うのがも自己に忠実な生き方を押しすすめているところがあっ こ。待合のとなりのアパートに住むことで、江戸情緒にひ ログセなんだ。文科のしかも文学部へ行っているなんてこオ / うそ