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検索対象: 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集
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1. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

味が裏側にかくされている。ただ康子の夫だけが退屈そうなど病院付属の看護婦学校から合唱を練習する声が病室ま に膝の上に組みあわせた親指をあげたり、さげたりしてい できこえてくる。看護婦たちが * マスの夜に小児科病棟に こ 0 入院している子供に歌を歌うのがこの病院の毎年の慣例だ 「そろそろ失礼しようか。病人が疲れられるといけんからった。 したく ね」 「今度の手術も今までと同じ支度でいいわけですね」 しっとう 「そうだったわ。ごめんなさい。なにも気がっかなくて」 能勢は病室で若い医師と話をしていた。手術の執刀はも はず このなにも気がっかなくてという彼女のさりげない言葉ちろん教授がやってくれるがこの若い医師も手伝う筈であ は能勢の胸をチクリとさした。それは四人の会話の充分なる。 締めくくりだった。康子の夫は何も気がついていない。そ「ええ、能勢さんぐらいになると手術ずれしているから して他の三人はなにも気がっかぬふりをしてそれを口に出ね。今更、支度もいらんでしよう」 どじよう さないでいるだけだ。みんなは、この一件を彼のためにも「前は骨ぬき泥鰌にされましたが : : : 」 ごまか 自分たちのためにも誤魔化しているのだ。 胸部の骨を切ることを患者はこう呼んでいた。 「おはよう、おはよう」 「今度は片肺飛行機にされるわけか : : : 」 べランダではまだ子供が九官鳥にむかって教えつづけて若い医師は苦笑して窓に首をむけた。マスの合唱の声 が窓から流れこんできてうるさかった。 「言えよ。言わないか。九官鳥」 汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり・ : Ⅳ 「確率はどのくらいですか」 手術があと三日という日、今まで静かだった毎日が急に能勢はじっと相手の表情の動きから眼を離さずに急にそ 忙しくなった。看護婦につきそわれて肺活量や肺機能を調の質問を発した。 べられたり、血液を何回も取られた。血液型をみるだけで「ぼくが今度の手術で助かる確率ですが」 はなく、手術台で能勢の肉体から流れでる血が何分で凝固「なにを今更、弱気なこと、言うんです。大丈夫ですよ」 するかを知っておかねばならぬからである。 「本当ですか」 それは十一一月の上旬だった。 >< マスがちかいので昼休み「ええ : ・ ・ : 」しかしその時、若い医師の声には一瞬苦しい

2. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

したからだ。看護人に呼ばれてやってきた医者や看護婦たることは、めったにありやせん。医者がそればアのことを ひょうし ちも、拍子ぬけした顔で帰って行った。医者は病室を出て知らいで、どうするもんか」 ろこっふきげんようす 行くとき、露骨に不機嫌な様子をしていたが、いまは信太「ほう」と信太郎はアイヅチを打ちながら、この男が病院 ・ : 医者が不機嫌や医者に対して敵意をもやすのはどういうわけだろうかと 郎はある点では医者の立場に同情した。・ おり なのは自分が病人に対して全く無力だということを知って思った。この男が檻のような病室の中へ自分から扉をあけ おも いるためでもあるだろう。完全に棄するよりしかたのなて入って行ったことは、想い出しても、いかにも奇妙なも い仕事に、責任上いつまでもかかずらわっていなければなのだからである。おそらく、この男は残りの全生涯 ( とい わず っても僅かなものだろうが ) を、この病院で送ることに心 らないのはやり切れないことにちがいない。 医者たちが引き上げたあとで、信太郎は病棟の外の石段を決めているにちがいない。そうだとすれば″自分みずか に腰を下ろして、タバコを吸った。すると患者の一人がやらの手で人生を選び取る″などということは、まったく大 くや ってきて、ていねいに頭を下げて悔みの言葉をのべはじめしたことではないようにおもわれる。そんなことを言って しよせん た。気がつくと、大ぜいの患者がこちらを向いてヒソヒソみても所詮は、この男のように自分で自分の檻の扉をあけ 話し合っている。あきらかに彼等はみんな、たったいま母ることにすぎないようだ。 親が死んだものと思いこんでいる様子だ。信太郎は恥ずか タ・ハコを吸いおわって病室へ行こうとする信太郎に、背 しさと、あるウシロメタさを感じて、病室へもどろうとし後から、今晩の千潮は十一時すぎだ、それまではユックリ た。と、うしろから、 という声がした。この忠言は信太郎に 寝ている方がいし あいにく 「いや、わしはお母さんは、まだ亡くならんと思うており とって、扇風器よりもありがたかったが、生憎すこしも眠 ました」という声がした。振りかえらなくても、それが頸くはないので、そうこたえて、病室へかえった。 景にホウタイを巻いた男だと、すぐわかった。男は石段に信あれから、どれぐらいたったのだろう ? 信太郎は眼を のぞ この病院では、何でもな上げて、窓にイビッな夜空が覗いているのを認めた。つづ の太郎と並んで腰を下ろした。 ねむ いて自分が居眠っていたことと、いま見た奇怪な夢のこと 海い時刻に、医者が重症者の個室へ行くのは患者が死ぬとき あたりは暗く、ゆれうごいている水ば が頭に浮んだ。 だけだ、と男は言った。 かりであり、自分は岩のようなものの上に乗っている。と 「だがわしは、また医者のやっ、馬鹿なことをしよると思 いよった。人間が死ぬるときは必ず干潮じゃ。満潮で死ぬきどき水の底で動いている風が重苦しく自分にぶつつかっ くび

3. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

370 えさ にちがいない。しかし能勢は今、・ とうしてもある理由のた「餌のやり方が一寸、大変よ。この餌を水で溶かして親指 だんご めにあの鳥がほしい ほどのお団子にするんですって」 わがまま けれども妻はたんに病人の我儘と思ったのか、 「そんなものを食べさせて、咽喉にひっかからないのか」 「明日、デパート の売場に行ってきますわ」 、え。かえって色々な声をまねできるそうよ」 おび そう言って、うなずいた。 子供が指でつつくと、九官鳥は怯えたように鳥籠の端に 翌日の夕暮、子供をつれて大きな荷物を二つ、両手にぶしがみついた。妻は能勢の副食をつくるために患者用の炊 らさげながら彼女は病室に入ってぎた。十二月のどんより事場に姿を消した。 曇った日だった。一つの風呂敷包みの中には洗濯した彼の 「この鳥、もの言うんだってね。今度、・ほく来るまでに、 ハジャマや下着が入っている。そしてもう一つの唐草模様 、色んな言葉、言わせといてよ」 ムろし、 の風呂敷のなかからは鳥が体を動かすかすかな音がきこえ子供にそう言われて、能勢は笑いをうかべながらうなず てきた。 いた。六年前、この子もここの病院の産婦人科で生れたの 「高かったか」 である。 「心配しなくていいのよ。まけてもらったんですから」 「そうだな。何を教えるか。君の名を言うようにさせてみ 五歳になる子供は大悦びで鳥籠の前にしやがみながら中ようか」 ゅうもや を覗きこんでいる。 タ靄は次第に病室をつつみはじめていた。窓のむこうの 真黒な九官鳥の首には鮮やかな黄色の線があ 0 た。電車病棟にも一つ一つ、暗い灯がともる。廊下を配膳用の車が でゆられて運ばれてきたため、止り木の上で胸毛を震わせ 軋んだ音をたてて通りすぎていった。 ながらじっと動かない。 「じゃあ、あたしたち、今日、留守番がいないから帰らせ 「これで、あたしたちが帰ったあとも、寂しくなくなりまて頂くわ」 すね」 副食をつくり終った妻は、セロファン紙で皿を包むと椅 病院の夜は暗くて長い。六時以後は病室に家族も居残る子の上に置きながら、 ことは禁じられている。一人で晩飯をくい 一人で寝台に 「食欲がなくても全部、召上るのよ、手術前に体力だけは 横になり、あとは天井をじっと見ることしかすることがな うんとつけなくっちゃあ」 子供にさようなら、。、く、、 ′′お大事に、と言わせると彼女 よろこ ちょっと

4. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

次々とその着物を売っていっているのを彼は気づいてい 「これから、一人でお家に戻って、一人で食事なさるわ た。しかし妻の皮肉はそのためだけではないと気づいたけ。 : : : 大変ね。女中さん、いないんでしよう」 時、彼はドキリとした。 ショールの中に首を縮めながら康子はよくそんなことを 康子の帯の朱色は血の色を思わせた。彼女を伴った世田言った。 かんづめ 谷の小さな産院の医者の診察着に血がとび散っていた。そ「仕方ないさ。鑵詰でも買って帰るよ」 れは康子の血にちがいなかった。というよりは、彼の血の 「なんなら : : : あたしが : : : お夕食の支度をしてあげまし 一部分であった。彼と康子の間にできたものの血でもあようか。いかが ? 」 った。 今から考えると能勢が康子を誘惑したのか、それとも康 当時、妻は能勢が今いるこの病院の産婦人科で寝てい 子が彼を誘うようにしむけたのかはっきりしない。しかし た。出産のためではなく、早産の危険が非常に大きくなっそんなことはどうでもいいのだ。恋情とか寂しさのための たので、妻は半月ほどここに入院したのである。赤坊はこ結合とかもっともな理由さえつけられぬ関係が一一人の間に のまま生れれば七百グラムに足りなく、硝子箱のなかで育すぐ始まったのである。能勢が康子の腕を引張ると、待っ てねばならぬというので、医師は特殊のホルモンを妻にうていたように彼女はうす眼をあけて倒れてきた。一一人は能 ちつづけたのである。 勢の妻が嫁入りの時、実家から持ってきたペッドの上に折 康子はその時、まだ結婚していなかったから、見舞により重なった。事がすむと康子は妻の鏡台を使って白い両腕 く姿をあらわした。泉屋のクッキーではなく・ハ・ハロアを持を頭にあげながら乱れた髪をととのえていた。 ってきた。妻の病室の、色あせた花を捨てて、その代り薔そして妻が今度は本当の出産のために再入院する前日に 薇を花瓶に投げ入れていった。すぐ近くの左門町に彼女が彼女は怯えながら能勢に告げた。 男習いにいっている踊りの穉古場があったから、帰り道に病「あたし、できたらしいの。どうするの」 彼がみにくい顔をして黙っていると、 歳院に寄るのに便利だったのだ。 十面会時間の終りを告げるべルがなると、能勢はオー・ ( の 「ああ、あなたはこわいのね。そうだわ。そうよ。生め えり 襟をたてて康子と肩を並べながらよく外に出た。ふりかえと、言えないんだから」 5 ると産婦人科の病棟はまるで夜の港に着いた船のようにそ「そうじゃないが : : : 」 「卑怯者ね。あなたは : : : 」 の小さい窓の一つ一つにあかりをつけていた。 ガラス おび

5. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

母と並んで、何も知らずに前を歩いて行く。 「どうしてだって ? 」母は急に眼を光らせて、「どうして 翌日、信太郎は父といっしょに二人だけで病院へ行っ も、こうしてもあるものか、このごろは毎晩なんだよ。わた。母は高知へくると間もなく、市内にあるこの病院の本 じゃま たしが後からつけて行くと、『邪魔するな」と言って、わた院で診断をうけていた。母を入院させたいと申し出ると、 しを田んぼのなかへ突き落しそうにしたよ。くやしいじや医者は母を憶えており、白い顔に徴笑をうかべて、やつば くげぬま ないか、鵠沼じゃあんなに人を貧乏させて、いろいろ世話り、おうちで療養させるとなると大変でしようと言った。 を焼かせたくせに、いまごろになって、そんなことをすその声は信太郎に、ひどくなめらかな肉感的なものに聞え た。話の調子から、医者は早くから入院をすすめ、父はそ る」 信太郎にはなだめようがなかった。日は強く照り、木れをきようまで断っていたようにおもえた。父親が事務上 はどこにもない。歩きはじめると母の発作はおさまったらの手続について医者と話し合っている間に、信太郎は看護 っしょに付いてき人につれられて病院の内外を一とまわりした。医者も看護 しく、間もなくケロリとした顔で、い ふるま た。しかし、やはり息苦しそうなので足をとめると、その人も礼儀正しく振舞うことにつとめているふうに見えた。 発作は、ふたたびはじまるのだ。声は次第に大きくなり、 だが、明日入院させることを約束して、部屋を出ようとす 眼はすわって空間の一点を見つめ、コメカミの血管がうきると、医者は一一人を呼び止め、病棟の前に立たせて、買い 出して呼吸は胸が波打って見えるほど荒くなった。 たてらしいカメラを向けた。頭上に夏の日がかがやき、シ 「ちえつ、たぬき爺め ! 」と父をののしる声は、あたりに ャッターの切られるのが待ちどおしかった。 遠く反響するほどだ。 村の伯父の家へかえりついたのは夕方だった。信太郎 「だいじようぶかな。引きかえした方がいいんじゃないかは病院を出たときから、なぜか、ものも言えないほど疲労 ごや を感じ出していた。しかし門を入って、 な」 トリ小舎のそばで 信太郎は、こちらに背を向けたまま立っている父に訊い ト丿の餌をやっている伯母のうしろに、・ほんやり立った母 の姿が眼にうつると、あらたな緊張のために一時に疲労は くちびる いつも夜中になる消え去った。 「このまま行った方がいいだろう。 ・ : 脣をとがらせた母は、誰の姿も眼に入ら と、もっとヒドくなるんだ」と父は、そのまま先に立ってぬらしく、信太郎のそばをまったく無関心にとおりぬける 歩いた。 と、ぶつぶっと何かつぶやきながら、門と台所との間を、 ほっさ えさ

6. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

顔を覗かせたのは登山帽をかぶり、ジャン・ ( ーを着た中男は別に気の毒だとも言わず、写真で掌を掻きながら、 年の男だった。私の知らない人だ。私はまず彼のよごれた「手術を受ける前だから魔よけにこれを買う。これを買え だんな 登山帽から毛のついたジャンパ 1 を眺め、それから穿いてば、必ず手術が成功する。ねえ、旦那」 あみあげぐっ いる大きな編上靴に視線を落し、ああ、井上神父からの使「君はこの病院によく来るのか」 「ここはぼくの担当です」 いだなと思った。 とぼけているのか、本気なのかわからないが登山帽の男 「教会のかたですね」 「え ? 」 は医者のように力強く、ここが自分の担当だ、と言った。 「神父さんからのお使いのかたでしよう」 私がまるで彼の受持患者のような口ぶりだ。私は好意を持 こちらは微笑したが、男は眼をほそめ、妙な表情になっ つま だめ て、 「駄目だ、駄目だ。この写真では詰らんよ」 「いや大部屋の人に聞いたらね、こちらさん、買うかもし「はあ : : : 」と男はうかぬ顔になって「これが駄目ならど れんって : ・ : ・」 んな顔がいいんだろうねえ、この大将は」 「買う ? 何を」 私が煙草の箱をさしたすと男は一本喫いながら話しはじ 「四枚で六百円です。本もありますが。今日は持ってきてめた。 ないんだ」 病院ほど患者が退屈して、その種の写真や本をみたがる かっこう こちらの返事を待たずに腰をひねるようにして、ズボン所はない。それに警官だって気づかない。こんなに恰好の のポケットから小さな紙袋を男はとりだした。紙袋のなか場所はな、。だから仲間と手わけして都内の病院を廻って にはふちの黄ばんだ写真が四枚、入っていた。 いる。これを買えば手術をうける患者には嵬よけになる。 日洗いがわるいのか、小さな影像のふちが黄ばんでいる。 この病院は自分の受持だと彼は言うのだ。 前影のなかで男の暗い体と女の暗い体とがだきあっている。 「この間もね、ホ号に入院している爺さんだが、手術前に の 郊外のさむざむとしたホテルらしくべッドの横に木の椅子この写真を見てね、ああ、これで思い残すことはないと言 そ だけがポツンとおかれてある。 ってましたぜ」 とびら つら 私は笑った。辛そうな顔をしてそっと病室の扉をあける ありがた 「明日、手術を受けるんだ・せ」 肉親より、この男のほうが今日の私には有難い見舞客だと 「だから」

7. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

三度目の手術まであと二週間という日、彼は妻に九官鳥 じゅうしまっ を買わせた。十姉妹やカナリヤと違って、値のはるこの鳥 の名を口にだした時、その顔にかすかな当惑の色がうかん 「ええ、 しいわよ」 看病で少しやつれた頬に無理に微笑を作ってうなずい この微笑を、病気の間、能勢は幾度も見た。まだ薬液で 人は自分がいっ頃、死ぬかと、時々考えるだろうが、ど んな場所や部屋で息を引きとるかほとんど想像しないと能ぬれたレントゲン写真を灯にすかしながら、医師が、 「手術を必要としますなあ、この病巣では : : : 」 勢は思った。 ろっこっ と、肋骨を六本、切りとることを告げた時、一瞬、黙り 病院では誰が死んでも、死が小包みでも発送するように 、じよう こんだ彼の心をこの気丈な微笑で妻は支えようとした。苦 扱われる。 あるタ方、隣室で腸癌の男が死んだ。家族の泣声がしばしい手術が終った真夜中、や 0 と麻酔からさめて、まだ朦 男らく聞えた。やがて看護婦が運搬車に死んだ男をのせて霊朧としている彼の眼にまずこの微笑をうか・ヘた妻の顔がう ちからっ 歳安室に運んでいった。だが翌朝、あいたその部屋を掃除婦つった。そして二度目の手術さえ失敗して、能勢がカ尽き たというような気持に襲われた時でさえ、彼女の頬からこ 四が歌を歌いながら消毒をした。 午後には次の患者がもう入院してくる。だれも、ここでの徴笑は消えなかった。 昨夕、一人の人が死んだのだと彼に告げはしない。新入り三年間の入院で貯金も残り少くなっている、その中から の患者もそんな事実に気づきはしない。 高価な九官鳥を買えというのは確かに思いやりのない註文 四十歳の男 空は晴れている。病院ではなにもなかったように平常通 り、食事が連ばれてくる。窓の下の路に自動車や・ハスが走 ごまか っている。みんな何かを誤魔化している。 こ。 ほお

8. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

いました。看護婦のわたしが見ても自然気胸をおこしたこ どうせ死ぬ患者だろ、という彼の声が心に浮びます。黄 ろくまく ほこりたま とはハッキリしていました。肋膜に空気が流れこんで放っ昏の陽が研究室の窓からはいって机の上に白い埃が溜って ておくと危いのです。 いました。わたしは麻酔用のプロカイン液のはいった瓶と 研究室に走っていきましたが助手の浅井さんも戸田さん注射針とを持って大部屋に戻ったのですがその時病人のペ も勝呂さんもみんな手術にたち合っています。手のあいてッドの金具をズボンをはいたヒルダさんが握りしめている いるのは助教授の柴田先生だけですが、その柴田先生もどのを見ました。 こにも見当らなく、早く空気を抜かねば病人は窒息してし「気胸台を早く。看護婦さん」と彼女は叫びました。むか まいますからわたしは手術室に電話をかけたのです。 し独逸で病院に勤めていたという彼女は前橋トキが自然気 「浅井先生いる ? 」 胸を起したことを一目で見てとったのでしよう。突然彼女 受話器に出た河野看護婦にわたしは早口にたずねましはプロカインの瓶と注射針に視線をやり、顔色を変えまし た。「病人が一人、自然気胸おこしたんよ」 た。突きとばすようにわたしを押しのけると、ヒルダさん グラース 受話器の奥でなぜか知らないがサンダルの駈けまわる音は大部屋を走り出て気胸台を探しに行きました。 がきこえました。わたしはふしぎな気がしましたが、それ床に粉々に落ちた瓶の破片を集めてわたしは患者たちの は普通の時は手術室は気味のわるいほど静かだからです。視線を背に感じながら看護婦室に戻りました。窓のむこう 「何なの、君」突然、怒ったような浅井さんの声が耳もとをタ陽が落ちかかっています。それはあの大連の満鉄病院 なが に響いてきました。ひどく動揺しているような声です。 でわたしが病室からよく眺めたものとそっくりに大きく赤 「大部屋の前橋トキが自然気胸を起したんですけれど」 く燃えていました。 「そんなの、知らんよ。忙しいんだぜ、こちらは。ほっと「なぜ、注射しようとしました」戸口の所でヒルダさんは なん込っ 薬きなさいよ」 男のように腕を組み、わたしに難詰しました。「死なそう 毒 「でも、ひどく苦しんでいますけれど」 としたのですね。わかってますよ」 と 「でも : : : 」床に視線を落したまま、わたしはくたびれた 海「どうせ助からん患者だろ。麻酔薬をうって : : : 」 あとが聴きとれぬうちに、浅井さんが受話器をガチャッ声で答えました。「どうせ近い内に死ぬ患者だったんです。 四と切ってしまいました。 ( 麻酔薬をうって : : : ) とわたし安楽死させてやった方がどれだけ、人助けか、わかりやし は考えました。 ( 麻酔薬をうって : : : ) ない」 アス・フロ か がれひ こなごな びん たそ

9. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

。男の頸についているガラスの管を、あらためてながめ てくる幽霊を信太郎にも連想させた。それで彼は話題をか えるために、正面の海に浮んでいる半球型の島について訊ながら信太郎は不意に、彼がこのガラス管のことについて おも いてみた。黒ぐろとした樹木をコンモリ茂らせたその島だけは一と言もしゃべらなかったことを憶い出した。たぶ こうとうがん なが は、まるで童話の絵本でも見るような、ある典型的な眺めん喉頭癌の手術でも受けたのだろう。すると、この男が患 : し だが、男が言うには、それは無人島であって、最近観光会者の境遇や運命に同情する理由もわかる気がした。・ 社が買いとって客寄せのためにを建て「男女縁結びのかし、じつのところ信太郎は、この男についてまだ何も知 神」と称するものをまつったが、休日のあくる日には、こらないといってよかった。 さいせん 二人は病棟へ引きあげることにした。「おやすみなさい」 の病院の患者たちがその賽銭をみんなもってくるという・ ささや おもしろ と男はカスれた囁くような声で言った。信太郎は、いや、 それは面白い、と信太郎は言った。 「しかし、どうやって渡るのだろう ? 泳ぐのかな、それ自分はもう一ど母の病室へもどるのだ、とこたえた。する と男は、ふと顔をそむけた。それはいままでと打ってかわ ともそのポートにでも乗って : : : 」 ゆえふ、げん 「どうやって渡る ? それはいろいろでしよう。大昔は島って冷淡なものに見えた。なに故の不機嫌かはわからなか ったが、信太郎は男と肩を並べて病室へ向った。男は事務 とこちらの陸地とが、ひつついちょったそうで、いまでも おり かぎたば 千潮のときウマく行けば歩いても渡れるといいますがね室で鍵の束を受けとった。動物の檻のように並んだ個室の とびら 一番手前の扉のまえに立ち止ると、男は慣れた手つきで鍵 ずいぶん をひらき、すこし背をまるめるようにしながら、暗い病室 「へえ、こうやってみると随分深そうだがな」 。千潮でヘ入りこんだ。信太郎はあやうく声を上げるところだっ 「いまは深いですよ。潮がこんで来よるから : あさせ 浅瀬のときは杙が下から見えてきますよ。真珠貝の養殖をた。その病室が、この男の棲み家だった。軽症とはいえ、 彼もまた狂者の一人だったのだ。 景やりよるんですワ」 の「真珠 ? 」 のぞ ところで信太郎が母親と世田谷に弁護士をたずねて二た 海信太郎は無意識に問いかえしながら、足もとの海を覗き こんだ。しかしそこには黒い重そうな水が、すこしずつふ月ほどたったころ朝鮮で動乱がはじまった。そのころか くげぬま ら、一家が鵠沼をはなれるまでの二年間あまりは、家じゅ くれ上って見えるばかりだった。 うが戦後でもっとも明るく暮らした時期だったといえる。 男の顔に疲れが見えた。しゃべりすぎたのかもしれな

10. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

ごらん いつばいで、衣の方は御覧のとおりのありさまで : : : 」と 信太郎は咄嗟の返辞にロごもって、あとのこたえをアイ マイな笑いで省略した。すると医者の顔からは笑いが消え彼は患者たちの服装の貧しいことを弁解するように言っ た。なるほど彼等の多くが身につけているものは端的にい た。信太郎は度を失いながら言いたした。 まん えばポロ布であって、ほとんど衣服というには値いしない 「五十八かな、九かな、満でかぞえて : : : 」 ようす しかし医者は、もはやその応答に何の興味もない様子をものだった。しかし、洗濯はよく行きとどいているよう 示した。白い前歯を覗かせていたロは不興げに閉じられで、そばで見ると見掛けよりは衛生的におもわれたので、 ほおばねとが あぶらけ 、」、・こ信太郎はそうこたえた。このこたえに医者は満足したらし て、浅黒い脂気のない皮膚が頬骨の尖った横顔をしナ めがね がた ように近より難いものに見せている。看護人の目が眼鏡のく、首をふりながら「いや、あなたのようにキチンと費用 ろうば、 おくで光った。信太郎はいまは自分がみじめなほど狼狽しを払ってくれることを保証する人のいる患者がきてくれる あいそ ていることに気がついた。 ・ : : ・問題は、自分が母の年齢をと、病院としてはじつに有り難い」と愛想のよいことを言 こたえられなかったということではない。カルテをのそきった。信太郎はくすぐられているような気分から、話題を さえすればすぐわかるはずの年齢を、何故彼がわざわざ訊かえるために、「母のような病気にかかっている者が全国 くかということだ。信太郎は一年まえ、母をこの病院へつでどれくらいいるものか」と訊いてみた。すると医者は愛 おも 、ままえみを顔いつばいにうかべたまま言ったの れてきたときに会った医者の顔を憶い出しながら、そう思想のよしをを それは、いまいる医者よりもいくらか年をとった、色の「それがサッパリわからんのですよ。外国の場合だと、老 くらびる 白い丸顔の男だった。顔を合せている間、濡れた脣を絶人だろうと何だろうと、すぐに入院させるのですが、こち ほころ きわ えずほほえむように綻ばせながら、ロをきくときは極めてらは家族主義というか、個人主義思想の徹底がたらんとい ものしずかに東京風のアクセントを使う。廊下を並んで歩うか、たいていは家へ置いて外へ出さんようにしますから きながら、病気や病院についてアタリさわりのなさそうなね。ことに病気の性質から言って年寄りが多いものですか なが : あなたのように」 話をきかせてくれた。 「なにしろ永い病気のことですら。 そこまで聞いて、急に信太郎は目のまえの廊下が無限に から、ここにも自費で入院料をまかなっている患者は、め ながく延びて行くのを感じて、一瞬間足をとめたのを憶え ったにありません。ほとんどが医療保護をうけています。 ている。 保護のワク内でやって行くとなると、食と住とでいつばい とっさ のぞ せんたく がた