看護婦 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集
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1. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

つもりだったのですが再度の病院勤めはあまりわたしには先生という以外、なんの関心もない老人でした。一人の看 たのしいものではありませんでした。看護婦学校時代のず護婦にすぎぬわたしから見ますと教授や助教授という偉い っと後輩が今は病院内をわがもの顔に歩き廻り、何かとわ先生たちは階級だけでなく、生れまでもちがう別世界の人 さしす たしに指図をするのです。出戻りのわたしのことは宿直室のような感じがするものです。そして看護婦とよばれるわ うわさ たしたちは下女のような役目をするのですし、そんな看護 での噂話にもなっているぐらい知っていました。わたしは ア・ハートの管理人の許しをえて雑種の雌大を拾ってぎまし婦の一人にすぎぬわたしを橋本部長に結びつけるのは皮肉 た。食料事情が切迫している時、犬を飼うことがどんなになことに彼の妻ヒルダさんでした。 せいたく ヒルダさんは橋本部長が独逸の大学に留学していた頃、 、生きたものと 贅沢かはわかっていましたが、大でもいい なぐさ 一緒に居なければこのポッカリとした生活は慰めようがなやはり看護婦をしていた女です。この二人の恋愛はむかし かったのです。マスという名をその犬につけたのも大連で看護婦学校にいた時、わたしはきいた記憶がありました。 亡くなった赤坊、満洲夫の思い出です。叱るとすぐ怯えてけれどもはじめて彼女を見たのは病院に勤めて二週間ほ そそう 粗相をし部屋の隅にいくこの犬だけが当時のわたしの愛情どたったタ暮でした。大きな・ ( スケットをくくりつけた自 はけぐち の疏通ロでした。けれども夜なんかふと眼のさめる時、ア転車を押して一人の体格のいい西洋人の女の人が突然、第 ・ハートから海が遠くないので波のざわめきが聞え、闇の中一外科にやってきました。医局にいた看護婦たちが急に立 でその海鳴りをじっと耳にしていると、わたしは言いようち上り、走りだしたのでわたしもあわててそちらを見ます のない寂しさにおそわれました。知らないうちに布団の外と髪を短く切って、ズボンをはいた外国人の女がはいって たくま に手を伸ばして何かを探ろうとしていました。忘れ切ったきました。女というより逞しい青年という感じがしたほど 筈の上田の体をまだ探しているのかと気がつくと我ながらです。 薬情なく涙がながれました。だれか一緒に住んでくれる人が「だれ ? あれ」わたしはすこし驚いて、そばにいた河野 毒 ほしい、と真実、そんな時思いました。 という若い看護婦にききますと、 AJ 「あんた、知らないの」彼女はわたしの無知をとがめるよ 海 うに肩をすぼめました。「ヒルダさんよ。部長先生の奥さ 今更、この手記で弁解がましいことを書くのは嫌ですんじゃないの」 ころ が、たしかにあの頃、橋本部長はわたしにとって職業的な そのヒルダさんは大ぎな・ハスケットの中からセロファン すみ ムとん おび

2. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

「血圧が : : : 」突然、若い看護婦がうろたえた声をあげ てそれが受皿に落ちる乾いた響きは静かな手術室の中でい つまでも続いた。おやじの額に汗が更にながれはじめ、看た。「血圧が下ってきました」 「酸素吸入器を : : : 」と浅井助手がヒステリックに叫ん 護婦長が幾度も背伸びをしてそれを拭う。 だ。「早くするんだ」 「輸血は ? 」 「汗が眼にーー汗が眼にはいる」とおやじはよろめいた。 「異常ありません」 看護婦長が震える手でその額にガ 1 ゼを当てた。 「脈は ? 血圧は ? 」 「ガーゼを早く」 「大丈夫です」 血をガーゼで拭きとり、塞いだが、出血はとまらない。 「第一肋骨にかかる」とおやじは呟いた。 おやじの手の動きが早くなった。 成形手術のうちで最も危険な箇所にきたのである。 : ガーゼ : 。血圧は ? 」 「ガーゼ、 「下っています」 ゆが その時、苦痛に歪んだ顔でおやじはこちらをむいた。そ 田部夫人の血液が突然、黒ずんだのに勝呂は気がつい れは泣きだそうとする子供の顔に似ていた。 た。瞬間、なにか不吉な予感が胸にこみ上げてきた。だが おやじは黙々と僧帽筋を切 0 ている。血圧を調べている看「血圧」 「駄目です」と浅井助手が答えた。既に彼はマスクをかな 護婦も何も言わない。浅井助手も無言である。 せつじよせん ぐり捨てていた。 「切除剪」 おやじは叫んだがその時、彼の体が少し震えたような気 、刀十′ 「死にました : ・ : ・」 「イルリガートルは大丈夫か ? 」 彼は気がついたのである。血が黒ずみ始めたことは患者脈を計っていた看護婦長が力なく呟いた。 彼女が手を離すと、柘榴のように切り裂かれた死体の血 の状態がおかしくなって来た証拠なのだ。出血が多量なの だろうか。勝呂はおやじの顔が汗で蝋をぬたくったようにまみれの腕が、だらあんと手術台の縁にあたった。おやじ ぼうぜん は茫然としたように立っていた。だれも口をだす者はいな 光っているのを見た。 かった。無影燈の光を反射させながら床を流れる水だけが 「異常は ? 」 つぶや ぎくろ ふさ すで ライへ

3. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

をはずそうとした。 「これでようし、効いたなあ。・ほくはおやじと柴田さんを 「・ ( ンドをしめるんだ。・ ( ンドを」大場看護婦長と上田看呼んでくる」浅井助手は聴診器をはずすと診察着のポケッ 護婦がのしかかるようにして手術・ハンドで捕虜の足と体とトに入れた。「エーテル点滴は一応、中止しとけよ。あん を縛った。 まり効きすぎて死んでしまわれても困るからね。大場さ グラード 「第一期」 ん。手術道具の用意をして下さい」 戸田は時計を見つめたまま呟いた。第一期は患者が麻酔彼は勝呂を冷たい眼でチラッと見たまま、手術室を出て のため失われていく意識と本能的に闘おうとしている時で いった。看護婦長も準備室に戻って上田看護婦に手伝わせ ある。 ながら道具をそろえはじめた。無影燈の青白い光が周囲の 「エーテルの点滴を絶やすなよ」助手は捕虜の手を押えな壁に反射している。壁にもたれた勝呂のサンダルを透明な うめ がら注意した。マスクの下から低い動物的な呻き声が洩れ水がたえずぬらしていく。戸田一人だけが手術台に横たわ った捕虜のそばにたっていた。 はじめた。エーテル麻酔の第二期にかかったのだ。この 時、患者の中には怒鳴ったり、歌を歌うものもいる。けれ「こっちに来て」突然戸田はひくい声で促した。「こっち どもこの捕虜は大の遠呎えに似た声で、長く、途切れ途切に来て手伝わんかいな」 れに呻くだけであった。 「俺あ、とても駄目だ」と勝呂は呟いた。「俺あ、やつば り断るべきじゃった」 「上田君、聴診器を持ってきてくれ」 「阿呆、何を言うねんー戸田はこちらをふりむいて勝呂を 上田看護婦からステトを引ったくると、浅井助手は急い こら・ 児みつけた。「断るんやったら昨日も今朝も充分、時間が でそれを捕虜の毛むくじゃらな胸に当てた。 あったやないか。今、ここまで来た以上、もうお前は半分 「戸田君。点滴を続けてくれ」 は通りすぎたんやで」 「大丈夫です」 「半分 ? 何の半分を俺が通りすぎたんや」 「脈が遅くなってきたぞ」 助手が押えていた捕虜の両手を離すと、それはだらんと「俺たちと同じ運命をや」戸田は静かな声で言った。「も う、どうしよう、も、ない 手術台の両側に落ちた。戸田は看護婦長から受けとった懐 中電燈でその瞳孔を調べはじめた。 「角膜反射もなくなりました」 つぶや おれ

4. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

318 うわ くっ 「・ハンドで縛るんでしようね。でないと、エーテル麻酔の田も黙ったまま上衣をぬぎ、靴をとり、白い手術着と木の グラード サンダルをつけはじめている。 第一期では暴れますから」と戸田が訊ねた。 もらろん 戸をあけて能面のような表情をした大場看護婦長が上田 「勿論だよ。勝呂君もエーテルの効力順序は知っているだ ろうね」 という看護婦をつれてきた。彼女たちもニコリともせず、 「はあ」 無言のまま戸棚をあけ、メスや鋏や油紙や脱脂綿を硝子台 しび エーテルが患者をすっかり痺れさせるまでには三段階をの上にそろえはじめた。誰もが一言もものも言わない。聞 経る。しかもこの麻酔は醒め易いから手術中、その浸透カえるのは廊下にいる将校たちの話声と手術室の水の音だけ をたえず調べておかねばならないのだ。戸田と勝呂が命ぜである。 られたのはこの仕事だった。 勝呂には大場看護婦長は兎も角、この上田という看護婦 「おやじと助教授は」 がなぜ、今日の解剖に加えられたか、わからない。この看 「今、下で手術着に着換えているよ。麻酔がきいてから僕護婦は病院に来て日も浅く、勝呂も大部屋を回診する時ま がよびにいく。何しろ、今ここにみんなが集まりすぎるとれに顔を合わせたことがあるが、いつもどこか一点を見詰 おび めている暗い感じのする女だった。 捕虜が怯えるからね」 それらの会話をきくと勝呂はまるで普通の手術にたちあ っているような気がしてきた。ただ捕虜という言葉だけが 彼のそんな錯覚から突き落した。はじめて自分が今から行突然、今まで廊下から聞えていた将校たちの声がやん おれ うことが、何であるか実感を伴って心に迫ってきた。 ( 俺だ。勝呂は横にいる戸田の顔を怯えた眼で見あげた。戸田 たちは人間を殺そうとしとるんじゃ ) 突然、黒い雲のようは戸田で一瞬、苦痛に顔をゆがませたが、なにか挑むよう わら に不安と恐怖が胸にひろがりはじめた。彼は手術室の戸のな嗤いを頬に作った。 ノ・フを握った。だが、その時、戸の外にいた軍人たちのた手術室の戸をあけて、先ほど腕時計を見ていたチョポ髭 ばうず かい笑い声がふたたび聞えた。彼等の姿やその笑い声は勝の将校が坊主頭をのぞかせた。 呂の心を圧倒し、逃路を防ぐ厚い壁のように思われた。 「そちらの準備は完了しとりますか」 やがて無影燈のともった手術室の床に患者の血をながす「入れて下さい」浅井助手はかすれた声で答えた。「何人 水が乾いた細かい音をたてて流れはじめた。浅井助手も戸ですか。一一人ですか」 ほお とだな はさみ ガラス

5. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

上田看護婦はペンキのすっかりチョロ剥げた鉄板の天井昇降機が地下室にとまるとノ・フは二人の間におかれた担 を見あげながら呟いた。 架車の柄を握ってつめたい廊下に曳きずり出した。薄暗い だが壁にもたれた看護婦長は眼をつむったまま返事をし裸電球が鉄管のむきだした天井にポツン、ポツンと点って ない。上田ノ・フにはいつもより看護婦長の顔が痩せこけ いる。むかしはこの地下室に病院付属の売店や喫茶室があ ほおばね ほこわ・ て、頬骨がひどく飛び出ているように思われる。こんなに ったのだが、今はそうした部屋も埃だらけにうち捨てら 近くで彼女の顔をまじまじと見る機会のなかった彼女は、れ、空襲のあった場合の患者退避所に使われている。 その頭を覆った帽子から幾本かの白髪のまじった髪がのそ 死体置場は廊下の突きあたりにあるのでノ・フが担架車を いているのに気がついてハッとしたのである。 そちらに向けた時、今まで黙って後から監督していた大場 ( まあ、この人て言うたら、ほんなことにお婆さんだった看護婦長が、 んだわ ) 意地のわるい眼で / ・フはジッと大場看護婦長の横「反対側です。上田さん」とおさえつけるように命じた。 顔を見つめた。むかし、結婚する前、 / プがこの病院に籍「あら、むこうに運ぶとじゃなかとですの」 をおいていた時、大場看護婦長は彼女より四年前にはいつ「反対側」 ひら た平看護婦にすぎなかった。 無表情に顔を強張らせて看護婦長は首をふった。 同僚から孤立して、友だちらしい友だちもなく、表情の 「どうしてかしらん」 ない顔で歩きまわる彼女は医者たちから重宝がられたが、 「どうしてでもいいんです。言われた通りにしなさい」 たた 仲間からは「点かせぎ」と陰口を叩かれていたものだっ 白布をかぶせた担架車は湿ったセメントの臭気がこもる 地下室の廊下を、反対側に進んでいった。車を押しながら ほかの看護婦のようにそっと化粧をしたり口紅をつける上田ノ・フは車の柄に手をかけている大場看護婦長の痩せた 薬ことは大場看護婦長にはありえないことだった。ましてこかたくなな背中を眺めて、 の頬骨のでた暗い顔に男の患者たちが心を惹かれるという ( この人ったらほんなこと石のようだよ。人間の感情やら A 」 何処にあるとかいな ) 海ことも想像できないことだった。 ( そやけん看護婦長なんかになれたんだわ ) ノ・フは今あらすると彼女の胸に突然、この看護婦長の石のような白々 しっと ためて自分の上役になったこの女に嫉妬と憎しみとのまじしい顔を思いきりひきむいてみたい衝動が起ってくるので ある。 りあった気持を感じながら心の中でそう、呟いた。 おお こわば

6. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

334 裸電球の暗い影がそこらに散らばっているセメントの袋「上田さん」大場看護婦長は細い眼でじっとノブを見つめ わら いうまで やこわれた実験用の机や藁のはみ出た椅子の集積に落ちてながら、「あんた。今日、もう家に帰っていいよ。 、た。車輪がものうい単調な音をたててきしんだ。 もないけど、今日のことば誰にもしやべるんじゃないよ。 「看護婦長さん」ノブはわざと大場さんとは言わず、看護もし、あんたのロが軽うかったら : : : 」 婦長さんと呼びかけた。「だれから今日のことば相談され「ロが軽うかったら、どうなりますとね」 ましたと ? 」 「橋本先生にどんなに迷惑がかかるか、わかっているでし だが相手の痩せた背中はこちらをふり向こうともしなか 、あんた」 った。彼女はかたくなに車の柄を握ったまま前へ進んでい 「へえ」上田ノブはロをすぼめて、「あたしたち看護婦っ た。それを見るとノブの唇に思わず皮肉な微笑がうかんて、それほど先生に御奉公せにやいかんとですかねえ」 ひと それから彼女は独りごとのように呟いてみせた。「あた 「浅井先生ですの ? あたし浅井先生に打ちあけられまししなんか、誰かさんとちごうて別に橋本先生のためだけで たとよ。浅井先生たら、三日前の晩、ひょっくり、うちの今日の手術ば手伝ったんじゃないんですからねえ」 ふる その時、ノ・フの眼には唇を震わせて口惜しそうに何か言 ア・ハートに来られるんですもん。ほんとに驚いたわ。だっ いかえそうとする大場看護婦長の歪んだ顔が見えた。看護 てえ、浅井先生たらお酒ば飲んで : ・ 、あたしに : : : 」 「うるさいわ」突然、大場看護婦長は担架車から手を離し婦長がそんなくるしそうな表情を部下にみせたのはノブが 病院に勤めてから始めてのことだった。 た。「車をとめなさい」 ( あたしの想像した通りやった ) ノブの心には相手の急所 「ここに置いて : : : ええんですの」 を遂に突いたという快感がわいてきた。 ( ああ、イヤらし か。この石みたいな女、橋本先生に惚れとったんだわ ) と 「だれがこの車ば受けとりに来るとですの」 「上田さん、看護婦たちはだまって先生の御命令通りにす考えた。 彼女は大場看護婦長にだまって背をむけると、そのまま ればいいんです」 死体にかぶせた白布が闇の中に浮かんでいる。二人の女昇降機には乗らず、最近設けられたばかりの非常階段から はしばらくの間、担架車を真中にはさんで、眼を光らせな中庭に走り出た。 その中庭にはもうタ闇が迫っている。むかし彼女が看護 がら睨みあっていた。 くらびる くや

7. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

278 ひも やじの背中にまわって手術衣の紐を結んでやっていた。そ れから母親が自分より背の高い長男の世話をするようにト ルコ帽に似た白い手術帽を彼の頭にかぶせた。別の看護婦 金曜日の午前十時、ゴムの前掛の上に白衣を着こみ、サがゴム引とメリャスの二つの手袋のはい 0 た金属の箱を差 しだした。これで、おやじは能面のような顔と不気味な性 ンダルをつつかけた浅井助手、戸田、勝呂は手術室の外で 格とをもった真白な人形になったのである。 患者が運ばれてくるのを待機していた。 空は曇っていた。手術室は病棟の一一階のはずれにあ 0 た手術中は一一十度の温度を保 0 ていなければならないの からここを歩く外来患者も看護婦もいない。廊下が一直線で、部屋は既にむんむんとしている。床には埃と手術中の 血をたえず洗い落す水が軽い細かな音をたてて流れてい にむこうまでにぶく光っているだけである。 る。その水が、天井につるした大きな無影燈の光に反射し やがてその廊下の奥で車輪の軋むかすかな音が伝わって きた。田部夫人を乗せた運搬車が看護婦と母親に押されてて、手術室全体を燃えた白金の炎のように輝かせていた。 その中で浅井助手も看護婦たちもまるで水の中の海草のよ ゆっくりと進んでくる。 けんこうこっ うにゆらゆらと動いている。戸田は患者の肩胛骨をこじり 病室で注射されたパンスコの麻酔薬と手術の恐怖とのた め、車に仰むけになった夫人の顔は血の気もなく、髪も乱上げるレトラクターを確かめていた。 一一人の看護婦が田部夫人の裸体を折りまげるように持ち れていた。 「しつかりするのよ」母親は次第に速く進みはじめた車に上げて手術台の上に乗せる。その手術台のかたわらで、硝 子のテー・フルに乗せたニッケルの箱から、おやじは馴れた そって走りだした。 「母さま、ここにいますからね。姉さんもすぐ来るのよ。手つきで手術道具を並べはじめた。骨膜を剥がすエレ・ ( ト ろっこっ リウムや肋骨刀ゃ。ヒンセットなどが互いに触れあってガチ 手術はすぐ終るんだからね」 と、ぐったりとした患者は鳥のように白く眼をあけて何ャッガチャッと音をたてる。田部夫人はその鋭い音をきく からだ つぶや か呟いたがその声は聴きとれなかった。 と一瞬、ビクッと躰を震わせたが、再び、ぐったりと眼を 「先生が」と母親はまた叫んだ。「ちゃんとして下さるかつむった。 ら。先生が」 「痛くありませんよ。奥さん」浅井助手があの甘い調子で すで 大場看護婦長はその時、既にアルコールで手を洗ったお声をかけた。「麻酔をどんどん、うちますからねえ」 たのだった。 あお ガラ

8. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

「死なしちゃったか。仕方がねえなあ。いつだね」 あえ ろっこっ 「第一肋骨」勝呂は喘ぎながら答えた。 「そうか。おやじも年をとったな」 だが彼は病室にはいった。そしてあわてて、ふりむいた 病室の戸は開いたままだった。たった今、血圧計を計っ うなず ていた若い看護婦が泣きだしそうな顔で走 0 てくる。この助手に肯くと死体の脚に差しこまれたリンゲルの針を手に 娘は浅井助手に命ぜられた演技をどうやって演じてよいの持った。 ( これ一体なんだろう。これは一体なんだろう ) 時計の刻 か、わからないらしかった。 戸口で大場看護婦長が注射箱を受けとる。彼女だけが能むような音が頭の中でする。 ( 何だろう。何だろう。何だ 面のように無表情だった。長い経験から、こんな時、何をろう ) どうすればよいか心得ているのは彼女だけである。浅井助戸田が近よってきた。彼は黙ってセルロイドのケ 1 スに 入れた手巻煙草を勝呂に差しだしたが、勝呂はカなく手を 手は既に病室の中で待っている。 勝呂は廊下の窓に顔をあてながら然としていた。「君、ふって断った。 ここで秘密の洩れぬように見張 0 て下さい」と助手に命ぜ「 0 メデイやったなあ」病室をチラッとみて戸田は唇に られたからだ。田部夫人の家族がこちらに来ようとするの煙草を運んだが、その手は震えていた。 「ほんまに、ほんまにコメデイやったなあ」 を廊下の曲り角で戸田が押しとめていた。 「コメデイやと ? 」 「でもーーー」 「そゃ。浅井さんも考えたもんやよ。オペ中、患者が死ね 「奥さん」 ば、おやじの腕の全責任ゃ。しかし、術後に死んだとすり 戸田の叫ぶ声がきこえた。 ゃあ、これは執刀者の罪やないからな。選挙運動の時にも 「どうなの ? 」 顔をあげると診察着に両手を入れて、柴田助教授が彼の弁解できるやないか」 勝呂は戸田に背をむけて廊下を歩いていった。 顔をみつめた。 「オペは成功したの ? 」 「どうなので、ございましようか ? 」 灰色の影にひたされた廊下の中で死者の家族が声をかけ 勝呂が首をふると、一瞬、助教授の肉のおちた頬にゆっ わら た。彼は黙って階段をおりた。 くりとうすい嗤いがうかんだ。 で看病しますよ。安心して下さいよ」 すで ほお しっとう くちびる

9. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

なが 人の男がタ顔のように白く近よってくるのを・ほんやりと眺 いる、三列の・ヘッドから一斉に患者たちの視線をうけた ひる めていた。おやじだった。 時、勝呂の足は怯んだ。眼を伏せながら彼は真直ぐに・ヘッ 戸田がそこにかくれているとは気がっかず、おやじは手ドとペッ・ トの間を通り抜けた。 ( 俺はもう、この患者たち 術室の前にたちどまり、診察着に両手を入れたまま、背をを見ることはできん ) と彼は心の中で呻いた。 ( この人た 曲げて、じっと手術室の扉とむき合っていた。その顔ははちは、なにも知らんのだ ) つきり見えなかったが、落した肩や曲げた背やタ闇に光る発熱した患者は阿部ミツの真向い、一カ月前、おばはん 銀髪は、ひどく老いこみ、窶れているように思われた。なが寝ていた場所にいる老人だった。勝呂を見ると彼は歯の 、刀し日炉 / 、彼ま扉をじっと凝視していたが、やがてふたたびほとんど抜けた紫色の歯ぐきをみせ、顔を歪めてしきりに 靴音をコツ、コッといわせながら階段の方に去っていっ何かを訴えようとした。 たんのど こ 0 「痰が咽喉にからむと言うとりますとですが」横あいから ミツが声をかけた。「あんたもう大丈夫たい。先生にみん な、まかせときなさいよ」 「先生、大部屋に一寸、行って下さい。今朝から熱をだし勝呂は老人の差し伸べた腕をそっと握った。それは彼の 親指と人差指とにすっぽりとはいるほど痩せていた。白い た患者がいるとですと」背後から看護婦が声をかけた。 しわ うなす 「うん」勝呂は顔をそむけて低い声で肯いた。 染みがっき、カサカサに皺のよったその皮膚の感触は彼に 「今日も浅井先生も戸田先生も皆な見えんとですが、手術おばはんの腕のことをふと思いださせる。「先生、助けて でしたか」 やってつかあさいよ。助けてやってつかあさいよ」阿部ミ 「手術じゃない」 ツの呟く声を勝呂は眼をしばたたきながら聞いていた。 ごう 「でも看護婦長もおられませんです。あたしたち、急に壕 掘りに出されたとですが、どうしたとですか」 勝呂はチラッとその若い看護婦の表情をぬすみ見たが、 大場看護婦長と上田ノブ看護婦とを乗せて昇降機は軋ん 彼女は無邪気な顔をして彼の返事を待っていた。 だ音をたててゆっくりと暗い地下室に降りていった。 「大部屋に行く。俺の聴診器、持ってきてくれ」 「この昇降機たら、嫌な音がするわね。油がきれとるとで だが大部屋の戸口にたち、暗い翳の中にほの白く浮んでしようか」 ちょっと やっ つぶや

10. 現代日本の文学 45 安岡章太郎 遠藤周作集

: この病室で送るわけだな ) 一一人の若い看護婦が運搬車を押して姿をあらわした。 正月がくると能勢は四十歳になるわけだった。 「さあ。能勢さん、行きましようね」 ちょっと 「四十にして、惑わず : : : 」 「一寸、待ってくれ」 それから彼は眼をつむって、無理矢理に自分を眠らそう彼は妻にむかって言った。 としこ。 「べランダから、九官鳥の籠、もってきてくれよ。なに ね。一寸こいつにもさよならぐらい言おうじゃないか」 みんなはこのおどけた彼の言葉に軽い笑い声をたてた。 手術の朝がきた。病室がまだ暗いうちに看護婦に起され「ま、 た。前夜、ハイミナールの睡眠薬をもらったので頭が重妻がかかえてきた鳥籠の中から鳥はあの眼で能勢をみつ めた。俺が告悔室で老司祭に言えなかったものを言ったの かんらよう 。八はお前だけだ。お前は意味を知らずに、あれを聞いた。 六時半、手術をうける胸部の毛剃り、七時半、灌腸 時に麻酔の第一段階としてパンスコの注射をうけ、白い丸「もういいよ」 抱きかかえられて仰むけに乗せられた運搬車が軋んだ音 薬を三錠のむ。 妻が彼女の母と病室の扉をそっとあけて、中を覗きこんをたて廊下を動きだした。妻は車と平行して歩きながら、 で小声で言った。 ともすると、ずり落ちそうになる毛布を引きあげている。 「まだ、眠っていないらしいわ : : : 」 「あら能勢さん。しつかりね」 「馬鹿だなあ。このくらいで眠れるもんか。昨日、今日の うしろから誰かが叫んでくれた。 初年兵じゃあるまいし」 右に、左に病室や看護婦室がみえ、炊事室を通りすぎ、 「あまり、ものを言わないほうがいいのよ」妻の母が不安エレベ 1 ターの中に入れられた。 そうな顔で言った。 五階にそのエレベータ 1 がの・ほると車は消毒薬の臭いの 「じっと、してらっしゃいな」 しみこんだ廊下を相変らず軋んだ音をたてて進んでいっ 康子は俺が今日、手術を受けることさえ、もう忘れてい た。前方に扉を閉じた手術室がある。 るだろう。髪に金具のようなヘア・クリップをつけてあの 「じゃ、奥さん、ここまでで : : : 」 経済企画庁の主人のために珈琲でも沸かしているだろう。 看護婦は妻にそう言った。ここからはもう家族も立ち入 グラード にお