文学紀行ミ浦朱門 評伝的解説村松リ 監修委員編集委員 伊藤整足立巻一 奥野健男 カ端康成尾崎秀御第 三島由紀夫と 4 社夫をい 安岡章太郎集 悪い中プ第騰 青葉しげれる ガラスの靴 質屋の女房」一一ネ 海辺の光景 他ニ編 1 海と薬・に その前日 他一 = 編礪な 〇一霻益 遠藤周作集 現代日本の文学 安岡章太宿 遠藤周作集 昼下り 0 横浜山下公園 ( 「 ( 264 645-1002 学研
現代日本の文学 安岡章太 遠藤周作 集 〈監修委員〉 伊藤整 井上靖 川端康成ネ 三島由紀夫究 〈編集委員〉習 足立巻一 奥野健男 尾崎秀樹 杜夫 ( 五十音順 )
左より「花祭」 ( 昭和 37 年新潮社刊 ) 「幕が下 りてから」 ( 昭和 42 年講 談社刊 ) 昭和 46 年 1 月 ャ 講談社より刊行の「安 岡章太郎全集」 上ピグミ部落で 左昭和 45 年佐藤春夫忌の司会をす る章太郎右より井上靖大久保房男 昭和 45 年アフリカにゴリラを見に出かける。工リザベス自然公 園で 軽井沢の遠藤周作 上昭和 45 年夏 の山荘を訪れる。章太郎 ( 左 ) と周作
仰は彼のなかでは、母君の面影と結びあっているはす当かどうか知らないけれど、勘当は事実だったらしい ノク哲学者の吉満義彦が舎監をつ である。遠藤はのちに母堂と別れて、父君の家にひきその後彼は、カトリ とめる寮にはいり、吉満氏のつよい影響をうけたとい とられる。信仰を棄てるということは、母君とのあい だのある絆を、断ち切ることを意味した。これはばく 遠藤の評論活動の最初は、大学の仏文科に在学中に の勝手な推定で、遠藤自身はこんなことを口にしたこ とはないが、 この推定はそうまちがってはいないだろ書いた「神々と神と」 ( 昭和二十二年 ) である。翌二十三 、つと思っている 年には、「堀辰雄論覚書」という題の長大な論文を、当時 戦争中は、キリスト教が敵視された時代だった。「非出ていた季刊雑誌「高原」に、三回にわたって連載し た。ばくが彼の名を知ったのは、この堀辰雄論によっ 国民などといわれてねえ : : 」と、彼が呟いていたこ とがある。感傷をきらう遠藤は、めったに身上咄などてである。 大学卒業の翌年、カトリック留学生として渡仏し、 しないのだが。また遠藤の無数のいたすら好きや、 二十八年に帰国する。昭和三十年の春からは、八ヶ岳で えず相手を笑わせているサーヴィス精神も、孤独だっ のちに自殺した批評家、服部達と三人で「メタフィジ た少年時代と無関係ではないかも知れない。孤独な少 ック批評」という評論を、雑誌「文学界」に連載した。 年の心情をえがいた好短篇が、遠藤にはある。遠藤の 彼女は婚約 遠藤は帰国後、現夫人と婚約していた。 いたすらを見ていると、小説の中のひとりで街を歩い ている少年の姿が、ときおり二重写しに浮かび上って後フランスに行ったが、遠藤はよく写真を見せてくれ た。「おれの嫁はんはなあ、気だてのいい女やぜえ」そ くるのである。 の未来の「嫁はん」をつれて遠藤が拙宅に泊りにきた 中学を卒業してのち、慶応の文学部予科にはいる。 父君は医斗に一丁けといい、 遠藤は医科にはいったと報のは、ト説としての第二作「白い人」を書きあげた直 、さい家で、一室に雑魚寝す 告した。よろこんだ父君は親戚をあつめてお祝いの会後くらいだったと思う。月 るほかなかったが、遠藤はうれしそうだった。 を開いたが、その席で「しつは文科でした : かんどう 「白い人」については、遠藤はこの小説を「一二田文学」 ったために会は滅茶苦茶になり、その場で勘当をいし わたされた。もっともこれは遠藤自身の説明だから、本に発表するつもりでいた。しかし当時「三田文学」の
カトリック信者の遠藤が信仰を作品に反映しようとろう」 する時、まず解決しなければならなかったのは、この と心を言う者もいた。この時期の遠藤は自分が開 問題であった。彼にとって重大なイメージをたとえば発しようとしている大きな問題に対してムキになりな 十字架で表現すると、忽ちそれは少女小説のアクセサがら、理解してくれない人に対してはユーモラスな態 もぞうほんやく ーになり、まともな評論家からは模造翻訳小説とき度で接しようとした。怒りつはく、すぐムキになり、 めつけられる恐れがあった。 ションポリする遠藤ーーーもっとも私は彼が沈みこんで いるのを見たことかないカオオ 日本の文壇の中で西欧的な要素と日本的な要素が並 こっこ一人の彼は、時に 列的に存在できるのは、評論の世界である。そこでは見棄てられたノラ大のような顔をしているに違いない しいなりんぞう 椎名麟三や田淳をサルトルやカミ、と同時に論す と、お調子のりでウィットに富み、ユーモラスな ときとうけんさく ることが可能であった。しかし時任謙作は自分の悩み遠藤の二面性は先天的なものには違いないが、この二 を教会の神父に打ちあけることはしなかったのであつの気質は彼が評論家から小説家へ変化した時代に、 る。 表現の形式として定着したように思われる。 遠藤周作が評論家としてスタートしたことはこうい キリスト教的な問題を追求し続けた遠藤が、十字架 うことと関係があると私は考えている。西欧と日本がも神父も使わないで、はじめて彼のテーマを作品化す 同居できたもう一つの世界は新劇であった。ここは翻ることに成功したのが、「海と毒薬」であった。 この小説は色々な問題をふくんでいる。日本人の外 訳劇からはじまって、その土台の上に創作劇が作られ てい 0 たからだ。遠藤が岸田風や計中千禾夫に近づ国人、殊に白人に対する憧れと贈悪。医師にと 0 ては ていった理由もうなずけるのである。 患者と死体も、時には健康な人間すらも、解部台の蛙 遠藤の初期の作品、 「アデンまで」、「白い人」、「黄色と同じ実験材料になりうること。そして何も知らすに い人」など、すべて西洋と日本の対立を書いたもので、手術台に上る患者、米軍の拵虜。彼らを裏切って殺す ことによってひきおこされる罪悪感。そのようにして 西洋人が登場するバタくさい作品であった。その新ら しさを高く評価する人がいた反面、 発見された悪は、手術に参加した時にはじまるのでは はレん なく、物心っ いたころから、殆ど先天的に人間の心の 「遠藤は色が黒いから、この次の小説は『黒い人』だ カえる
遠藤周作集目次 遠藤周作文学紀行 信仰者の文学 白 海と毒薬・ : その前日 : 童 札の辻・ 四十歳の男 : 雲 留学生 : ・ 注解 遠藤周作文学アル・ハム 評伝的解説 : 三五〈 ・・三究 : 夭四 : 三九四 紅野敏郎 小野寺凡四 0 七 四一四 四三三 村松剛四三三 装 大川泰央 写真撮影成田牧雄 小原剛 作品校正会田紀雄 編集責任桜田満 製作担当藤本和延 三浦朱門三三
ーヴィスだが、それにしてもいたすらにこれほどの情 「留学」の荒木トマスは、ローマに留学したのち、カ しかしだれも彼を贈 熱をかける男を見たことかない ソク教会の期待を一身にあつめて帰国するが、貧 む気になれないのは、いたすらに邪気がないからであ しい良民たちが拷問にあい、殺されてゆくのを見るこ る。遠藤は、友情にあつい男である とにたえられす、ついに節を屈し、転び吉利支丹の汚 これも遠藤が芥川賞をもらうよりもまえのはなしだ 名をうける。「沈黙」のキチジローは、弱い卑しい男で、 が、彼はよく若い女の子を何人かつれて、約束の場所 神父の所在を官憲に密告する。 に現われた。その女たちが、ときには見るからに不潔 遠藤はこういう人びとの、いに寄りそい、彼らの運命 な、場末の娼婦のような女だったりすることがある を同情をこめてえがき出すのである。「沈黙」のなかの どうしてあんな女をつれて : : : とばくが不機嫌になる ユダ役、キチジローは叫んでいる。「俺は生れつき弱か。 と、遠藤は不思議そうな顔をした。 心の弱か者には、殉教さえできぬ。どうすればよか 「おいマツ、あいつらだって人間だぜ。一所懸命、生ああ、なせ、こげん世の中に俺は生れあわせたか」 きているんだぜ」 このことばは遠藤の文学の中の、いちばん大事な部 分をあらわしている、とばくは田 5 っている。読者は誤 「白い人」は遠藤の小説家としての出世作だが、その 解しないでいただきたいが、これは一時流行した「大作家としての地位を確定したのは「海と毒薬」である 彼はこの小説を書いたころ、新婚匆々の間借り生活か 衆」崇拝の埃つばい風潮とは、何の関係もない 彼の小説にもっともしばしば登場するのは、人生の ら、豪徳寺近くの借家住まいに移っていた。 ( あたりの 景観は、「海と毒薬」の序章にえがかれているとおりだ 落伍者、敗北者である。「白い人」の主人公ははなはだ しい斜視で、女にはもてないと父親から宣告される ふくーゅう 「海と毒薬」は、戦争末期に九州大学で起こった捕虜 孤独感から、彼は人生に毒々しい復讐、いを抱き、つい の生体解剖事件を、材料にしている。この小説を読ん にはナチの秘密警察の手先にまでなる。「海と毒薬」に だロシア人の日本文学専攻の学生たちが、遠藤がたま えかかれている貧しいうす汚い「おばはん」は、だれ にもみとられることなくひっそりとその生をおえる たまソ庫一に行ったとき、これを日米間の政治問題をえ . こり マルチル
編集長だった山川方夫が掲載をことわり、結局「近代 に行っていて、あとからきた妹を空港に出迎えた。妹 文学」に出る。山川は編集長としてすぐれた目をもち、 がはしめて海外に行くとい「たら、遠藤は彼女に懇々 多くの新人を発掘しているけれど、編集の仕事とはむとさとしたという つかしいものである。「白い人」によって遠藤は、この 「おまはんはだいたい地理感覚がないからな。パ 年の夏の芥川賞をうけた。 行くつもりでアフリカに行って、うちの兄貴はどうし 九月に遠藤は、結婚式を挙げた。会場は改造される てこんなに真黒けになっちまったんだろ、なんて思う まえの。ハレス・ホテルで、司会はばくがっとめた。遠とるうちに、喰われちまうで。だからええか、よーく 藤がばくを呼んで、「おいマツ、楽隊に何かもっと景気きけよ。日付変更線をこえたら、太陽は西から出るん しい音楽をやらせろよ。ロック・アンド・ロールとや : : : 」 これではだまされる方がわるいがよくもまあこう か何とか : : : 何だってええやないか」 楽隊にこの新郎の意志を伝えると、指揮者が困った も次から次に、 いたすらを田 5 いつくものだと田 5 う。 よ、つな顔をして、ロック・アンド , ロールは並昭をもっ 女優をしているこの妹は、遠藤から島原の乱の原城 ひろうえん てきていません、といった。結婚披露宴でそんな曲を趾で拾ったという十字架入りの指環を、「国宝とはいえ 注文されたのは、はしめてだったのだろう。 ないが、まあ準国宝ゃな」と注釈つきでもらって、感 激して舞台でまで指にはめていた。夜店で、五十円で、 買ってきたものである。「おまはんの妹、あんまり感激 するんで、嘘だといえなくなってしもうてなあ : 「日付変更線をこえると、太陽が西から昇るって本当とあとで遠藤はいっていた。 なの ? ・」と妹にきかれたことがある。そんなことを教 彼の周囲の人間は、みんな一度や二度はこの種のい えたのは遠藤だろうというと、妹が、 たすらの被害をうけている。芥川賞をもらうまえに、 「そ、つなのよ」 中身 彼は全面自筆のべン書きの新聞をつくって、 これが。ハリのオルリイ空港で、一年ぶりに妹に会っ はむろん友人たちを材料にした漫画的記事である たときの最初の会話である。ばくはそのころフランス ・甲間に送ったこともある 。いたすらは半分は座興のサ こんこん
申 5 亠名とおきか、んることによって、カトリッ ク文学を少る。ある種の神父にとって、彼は大変によい信者であ り、別の神父にとって、彼は悪い信者である。しかし 4 女小説でも、模造翻訳小説でもないものとして、確立 その評価かどうあろうとも、彼は神父たちと日本のカ することができたのである。 ソク教会に大きな問題を提起した。 先日、テレビで石垣純二ドクターと遠藤周作が緒 「沈黙」が書かれた時、ある外人の神父は、 になった時、石垣博士が遠藤を指して、 「これでいよいよ、遠藤もカトリッ クでなくなった」 いや、この人は大変な患者でね、医者よりも病気に と叫んだ。その非難の多くは神学上の問題を除けば、 くわしい患者ですよ」 おもしろ 「海と毒薬」に対する非難ーーー前に私が引用した と言われたのが面白かった。医者よりも病気にくわ と同巧異曲である。ただ、ある高位の外国人神父は私 しくとも、患者は患者で、医師にはなれない 。世界一 に向ってこ、つい、つ亠思味のことを言った。 医学にくわしい患者がいれば、それは最良の患者か、 「私は遠藤の小説はよいものだと思います。カトリッ 最悪の患者であろう。最悪の患者は医者泣かせであろ ク信者なら、あれを受けいれることはできます。しか うが、最良の患者はたとえ最悪の医師より、医学にく し、信仰を持たない日本人はあれをどう受けとるでし わしかろうとも、决して医師にはなり得ない。医師に よ、つ、カ・カ , 「リ・ ノクの日本精神による敗北と取らない なるためには医学校を出て、国家から医師免許証を下 でしよ、つか」 付されねばならない 「しかしグレアム・グリーンの『事件の核心』という ただ、最良にせよ、最悪にせよ、この種の患者は医 小説では : 師に医学に対する根源的な問題を提起する。それは最 「それはわかっております。しかしグリーンの主人公 良の生徒と最悪の生徒が最も強く教育の困難性を教師 は一人の信者です。しかし『沈黙』で大罪を犯すのは に自覚させるのと似ている。遠藤は医者にとって、大 神父です。日本がカトリノ 、ク国なら、私は心配しませ 変な患者であったのだが、それは同時に彼がカトリ クの信者としても、大変な信者であることを意味すん。人々は「沈黙』を受けいれ、それによって信仰は る。 層強くなります。しかし信者のすくない日本では別 信者としての遠藤周作に対する評価も鋭く分かれな問題があります」
著者近影マカオにて 遠藤周作といっしょに、伊豆の西海岸を旅 一打したことがある。彼か芥川貝を、つけるより も少しまえだから、昭和三十年の春だったろ 、つ A 」田じ、つ 、冫、、、カら月さい沿に乗「たら、斤しく海 が少しばかり荒れ、遠藤はルをになった。ど 、つしたのだときくと、おれは地訣に一丁くのか 布いんやと小さな声でいった。「海の上じや教 会もない 告解ができへんもんなあ : : : 」 、ロのち 遠藤はそのころ胸の病気がわるく よっとした動揺も身体にこた . えたのである。 顔色が真蒼になったのはそのためだろうが 地獄のはなしの方も、ただの冗談とは思えな , 刀オ ックの教えでは、信亠名は懺 ( カトリ 海の機会を得すに死ねば、地獄に一丁くことに 評伝的解説