右上柩を見送る人々左よりす ず夫人 , 鏑木清方 , 目細勇吉 , 小 村雪岱 右下青松寺に参列する人々右 端にすす夫人 , 左側の右より徳田 秋声 , 谷崎潤一郎 , 佐藤春夫 , 里 見弴 , 水上滝太郎 ( 木村伊兵衛撮影 ) ■■ 出棺 昭和 14 年 9 月 10 日 史小花鏡 ーをーいをーを 京 告 没後 10 月 , 中央公論社より刊行さ れた「薄紅梅』 : をツな 東京雑司ヶ谷墓地にあ る鏡花の墓墓石の構 成考案は一切 , 小村雪 岱によって行なわれた
られよう。私も無事に返してあげます。 仰せに依って、私、見届けに参りました。 みようが 図書冥加に存じます。 夫人それだけの事か。 はりま 図書且っ又、大殿様、御秘蔵の日本一の鷹がそれまして、夫人今度は播摩が申しきけても、決して来ては成りませ ゆくえ また誰 お天守の此のあたりへ隠れました。行方を求めよとの御ん。此処は人間の来る処ではないのだから。 も参らぬように。 意でございます。 たれひと 夫人翼あるものは、人間ほど不自由ではない、千里、五図書いや、私が参らぬ以上は、五十万石の御家中、誰一 のち 用は人参りますものはございますまい。皆生命が大切でござ 百里、勝手な処へ飛ぶとお言いなさるが可い。 いますから。 それだけか。 ほしゅ 図書別に余の儀は承わりませぬ。 夫人お前は、そして、生命は欲うなかったのか。 しきい 夫人五重に参 0 て、見届けた上、計らえとも言われ図書私は、仔細あ 0 て、殿様の御不興を受け、お目通を よ、つこ、 0 遠ざけられ閉門の処、誰もお天守へ上りますものがない ために、急にお呼出しでございました。其の御上使は、 図書いや、承りませぬ。 夫人そして、お前も、恁う見届けた上に、何うしようと実は私に切腹仰せつけの処を、急に御模様がえに成った のでございます。 も思いませぬか。 図書お天守は、殿様のものでございます。如何なる事が夫人では、此の役目が済めば、切腹は許されますか。 ありましようとも、私一存にて、何と計らおうとも決し図書其のお約束でございました。 夫人人の死は構いませんが、切腹はさしたくない。私 て存じませぬ。 は武士の切腹は嫌いだから。しかし、思掛けなく、お前 夫人お待ち、此の天守は私のものだよ。 図書それは、貴女のものかも知れませぬ。また殿様は殿のを助けました。 : : ・・悪い事ではない。今夜はいし 様で、御自分のものだと御意遊ばすかも知れませぬ。し夜だ。それではお帰り。 かし、いずれにいたせ、私のものでないことは確でござ図理姫君。 います。自分のものでないものを、殿様の仰せも待たず夫人まだ居ますか。 図書は、恐入ったる次第ではございますが、御姿を見ま に、何うしようとも思いませぬ。 さしつか 夫人すずしい言葉だね、其の心なれば、此処を無事で帰した事を、主人に申まして差支えはございませんか。 ところ ら ところ めどおり
ところほとん のを 流るる処、殆ど天井を貫きたる高き天守の棟に通ずる あなた そな ちょうゆくえ 階子。 , ー侍女等、飛、蝶 0 行方」 0 れ、《も = 其薄否〉そ《も貴女 00 = す《、、白銀、揺ぎ 0 糸 の、鎧のようにもおがまれます。 方に目を注ぐ。 ) らっ 女郎花あれ、夫人がお帰りでございますよ。 ( はらはら夫人賞められて些と重く成 0 た。 ( 簔を脱ぐ。 ) 取 0 てお なでしこ もと ふりそでつめそでそろ くれ。 ( 撫子、立ち、うけて欄干にひらりと掛く。蝶の と其の壇の許に、振袖、詰袖、揃って手をつく。階子の ししがしら みのかっ 上より、先ず水色の衣の褄、裳を引く。すぐに簔を被ぎ数、其の簔に翼を憩う。 : : : 夫人、獅子頭に会釈しつつ、 しとね おもておお たけ 座に、褥に着く。脇息。侍女たちかしすく。 ) 少し草臥 たる姿見ゅ。長なす黒髪、片手に竹笠、半ば面を蔽いた : お亀様はまだお見えではなかったろう れましたよ。・ る、美しく気高き貴女。天守夫人、富姫。 ) すが ね。 夫人 ( 其の姿に舞い縋る蝶々の三つ二つを、簔を開いて 片袖に受く。 ) 出迎えかい、御苦労だね。 ( 蝶に云う。 ) 薄はい、お姫様は、やがてお入りでござりましよう。そ れにつけましても、御前様おかえりを、お待ち申上げま お帰り遊ばせーー侍女等ロ ( ーーお帰り遊ばせ、 いずれ そしてまあ、孰方へお越し遊ばしました。 した。 口に言迎ゅ。—) やしゃ のわき 夫人時々、ふいと気まかせに、野分のような出歩行きを、夫人夜叉ケ池まで参ったよ。 ごおり えらぜんのくに ・ ( ( タト竹笠を落す。女郎花これを受け取る。貴女薄ええ、越前国大野郡、人跡絶えました山奥の。 ろうた おもてすご の面、凄きばかり白く﨟丈けたり。 ) 露も散らさぬお前萩あの、夜叉ケ池まで。 たち、花の姿に気の毒だね。 ( 下りかかりて壇に弱腰、廊桔梗お遊びに。 もすそ 夫人まあ、遊びと言えば遊びだけれども、大池のぬしの 下に裳。 ) ちっ おまえさま もったい お雪様に、些と頼みたい事があって。 薄勿体ないことを御意遊ばす。ーーまあ、御前様、あん たれ 語 薄私はじめ、ここに居ります、誰そお使いをいたします なものを召しまして。 物 もの、御自分おいで遊ばして、何と、雨にお逢いなさい 夫人似合ったかい。 ごぜんさま 天薄尚お其の上に、御前様、お痩せ遊ばしておがまれます。ましてさ。 柳よりもお優しい、すらすらと雨の苅萱を、お被け遊ば夫人其の雨を頼みに行きました。ーー今日はね、此の姫 路の城 : : ・・ここから視れば長屋だが、・ : ・ : 長屋の主人、 4 ~ かかわ・ はりまのかみ したようにござります。 夫人嘘ばっかり。小山田の、案山子に借りて来たのだもそれ、播摩守が、秋の野山へ鷹狩に、大勢で出掛けまし た たけがさ むね である びいさま みの しろがねゆる
あまり じつみまも 「不都合ですとも ! 島山さんが喜ばないのに、恁うして節余の事と、夫人は凝と瞻って、 ほんとあなた 節おいでなさるんです。 「私がこんなに苦労をするのに、真個に貴下は不実だわ。」 其で居て、家庭の平和が保てよう法は無い。実は恁う恁「いざと云う時、貴女を棄てて逐電でもすりや不実でしょ うだ、と打明けて、御主人の意見にお任せなさい。私も又う。胴を据えて、覚悟を極めて、飽まで島山さんが疑って、 ひ、よう 卑怯な覚悟じゃありません。事実明かに、其の人の好まな重ねて四ツにするんなら、先へ真二ツに成ろうと云うのに、 とこおくがた おくさん い自分の許へ令夫人をお寄せ申すんだから、謹んで島山さ何が不実です。私は実は何にも知らんが、夫人が御勝手に んの思わくに服するんだ。 遊びにおいでなさるんだなんて言いはしない。」 そ おうのう はんもん だから貴女も然うなさい。懊悩も煩悶も有ったもんか。 「然う云って了っては、一も二も無いけれど。」 だいムらち 世の中には国家の大法を犯し、大不埒を働いて置いて、知「又、一も二も無いんですから、」 らん顔でロを拭いて澄まして居ようなどと言う人があるが、「だって世の中は、然う貴下の云うようには参りませんも 0 間違って居ます。」 これたわむれ ことば 夫人は是を戯のように聞いて、早瀬の言を露も真とは「成らんのじゃない、成る、が、勝手に為んのだ。恋愛は 思わぬ様子で、 自由です、けれども、こんな世の中じゃ罪に成る事がある。 じようだん もらろん どろばう ひとごろしつけびすべ 「戯談おっしゃいよ ! 嘘にも、そんな事を云って、事が起盗賊は自由かも知れん、勿論罪に成る。人殺、放火、凡て ったら子供たちは何うするの ? 」 自由かも知れんが、罪に成ります。既に其の罪を犯した上 あたりまえ と皆まで言わせず、事も無げに答えた。 は、相当の罰を受けるのが亦当前じゃありませんか。愚図 ぬりかく ひ、よう けち 「無論、島山さんの心まかせで、一所に連れて出ろと、言愚図塗秘そうとするから、卑怯未練な、吝な、了見が起っ ひと ねこ われりや連れて出る。置いて行けとなら、置いて : : : 」 て、他と不都合しながら亭主の飯を食ってるような、猫の 篇のん、 後「暢気で怒る事も出来はしない。 身に染みて下さいな、ね恋に成るのがある。しみったれてるじゃありませんか。度 図 胸を据えて、首の座へお直んなさい。私なんざ疾くに 「何が暢気だろう、此のくらい暢気で無い事はない。、 る使先生 : : : には面は合わされない、お蔦 : : : の顔も見ないも 婦 ところ と私と二人口でさえ、今の月謝の収入じゃ苦しい処へ、貴のと思って居る。此の上は、何んなことだって恐れはしま ろくしようだい やせうで 女方親子を背負い込むんだ。静岡は六升代でも痩腕にや堪せん。 えまさ。」 其に貴女は、島山さんに不快を感じさせながら、未だ矢 まこと こた す あく と まやっ
394 びとみこ 図書ははツ。 ( 瞳を凝らす。 ) を取かえるのでございますか。よしそれも、貴方が、貴 まんぼりろう たんけいひ あやまち ( 夫人、世話めかしく、雪洞の蝋を抜き、短檠の灯を方の過失なら、君と臣と云うもののそれが道なら仕方が ら・つとわ・ 移す。燭をとって、熟と図書の面を視る、恍惚とす。 ) ない。けれども、播摩がさしずなら、それは播摩の過失 ろうそく 夫人 ( 蝋燭を手にしたまま。 ) 帰したくなく成った、も と云うもの。第一、鷹を失ったのは、貴方ではありませ う帰すまいと私は思う。 ん。あれは私が取りました。 図書ええ。 図書やあ、貴方が。 はりま あなた 夫人貴方は、播摩が貴方に、切腹を申しつけたと言いま夫人まことに。 うらみ した。それは何の罪でございます。 図書ええ、お怨を申上ぐる。 ( 刀に手を掛く。 ) こぶしす たれ 図書私が拳に据えました、殿様が日本一とて御秘蔵の、夫人鷹は第一、誰のものだと思います。鷹には鷹の世界 こ あさあらし 白い鷹を、此のお天守へ翳しました、其の落度、其の罪がある、露霜の清い林、朝嵐タ風の爽かな空があります。 決して人間の持ちものではありません。大名なんどと云 過でございます。 うものが思上った行過ぎな、あの、鷹を、唯一人じめに 夫人何、鷹をそらした其の落度、其の罪過、ああ人間と とがおお 自分のものと、つけ上りがして居ます。貴方は然うは思 うものは不思議な咎を被せるものだね。其の鷹は貴方が いませんか。 勝手に鳥に合わせたのではありますまい。天守の棟に世 にも美しい鳥を視て、それが欲しさに、播摩守が、自分図書 ( 沈思す、間。 ) 美しく、気高い、そして計り知ら で貴方にいいつけて、勝手に自分でそらしたものを、貴れぬ威のある、姫君、ーー貴方にはお答が出来かねます。 ししこ 夫人否、否、かどたてて言籠めるのではありません。私 方の罪にしますのかい。 の申すことが、少しなりともお分りになりましたら、あ 図書主と家来でございます。仰せのまま生命をさし出し くるわうら たいこうまる の其の筋道の分らない一一三の丸、本丸、太閤丸、廓内、 ますのが臣たる道でございます。 しろがね 夫人其の道は曲って居ましよう。間違ったいいつけに従御家中の世間へなど、もうお帰りなさいますな。白銀、 こがねたまさんご うのは、主人に間違った道を踏ませるのではありません黄金、球、珊瑚、千石万石の知行より、私が身を捧げま す、腹を切らせる殿様のかわりに、私の心を差上げます、 私の生命を上げましよう。貴方お帰りなさいますな。 図書けれども鷹がそれました。 夫人ああ、主従とかは可恐しい。鷹とあの人間の生命と図書迷いました、姫君、殿に金鉄の我が心も、波打つば しゅ おそろ じっ いのち むね はりま さわや ただ
おおまわ 主税は、夫人が此室を出て、大廻りに行った通りに、声 と云いかけて、主税を見向いて、 ところ たど 「かくまって有る人だから : : : ほほほほ、其方へ行きましも大廻りに遠い処に聞き取って、静に其の跡を辿りつつ返 事が遅いと、 ようよ。」 えもん つくば 衣紋を直したと思うと、はらりと気早に立って、踞った「早瀬さん、」 たもと おんな と近く又呼ぶ。今しがた、 ( かくまって有る人だ ) と串 婢の髪を、袂で払って、最う居ない。 だん トきよとんとした顔をして、婢は跡も閉めないで、のつ戯を云ったものを。 まかず そり引込む。 「室数は幾つばかりあれば可くって ? 」 これ かまえ はて心得ぬ、是だけの構に、乳母の他はあの女中ばかり「何です、何です。」 だしぬけ であろう歟。主人は九州へ旅行中で、夫人が七日ばかりの余り唐突で解し兼ねる。 おばっか あなた 留守を、彼だけでは覚束ない。第一、多勢の客の出入に、 「貴下のお借りなさろうと云うお家よ。一寸、」 まりこ あたりみまわ 茶の給仕さえ鞠子はあやしい、と早瀬は四辺を拘したが「ええ、然うですね。」 とま 後で知れたーー留守中は、実家の抱車夫が夜宿りに来「おほほほ、話しが遠いわ。此方へ来らっしゃいよ。おほ て、昼は其の女房が来て居たので。昼飯の時に分ったのでほほ、縁側から、縁側から。」 らそう もっと ちゃだなわ、ふすまぐら は、客へ馳走は、残らず電話で料理屋から取寄せる : : : 尤夫人がした通りに、茶棚の傍の襖ロへ行きかけた主税は、 まわ も、珍客と云うのであったかも知れぬ。 ( 菅女部屋 ) の中を、トぐるりと廻って、苦笑をしながら みあし そんな事は何うでも可いが、不思議なもので、早瀬と、縁へ出ると、是は ! 三足と隔てない次の座敷。開けた障子 ころ ひじあらわ しりゆ、 せなも たてひぎつま 夫人との間に、頻に往来があった其の頃しばらくの間は、 に背を凭たせて、立膝の褄は深いが、円く肥えた肱も露に みのあはち ほお 此の家に養われて中学へ通って居る書生の、美濃安八の男夫人は頬を支えて居た。 が、夫人が上京したあと直ぐに、故郷の親が病気と云うの 「朝から戸迷いをなすっては、泊ったら貴下、何うして、」 で帰って居たーー是が居ると、たとい日中は学校へ出ても、 と振向いた顔の、花の色は、合歓の影。 別に仔細は無かったろうに。 「へへへへへ」 となり 扨て、夫人は、谷屋の手代と云うのを、隣室の其の十畳と、向うに控えたのは、呉服屋の手代なり。鬱金木綿の ふろしき ゆかたじ うずたか へ通したらしい、何か話声がして居る内、 風呂敷に、浴衣地が堆 「早瀬さんーー」 ど す そっら とまど そ よ こっち らよいと にがわらい うこん じよう
お札も恁る家に在っては、軒を伝って狗の通るように さすがに夫人も是は離れ業であったと見え、目のふちが ものすご 見えて物凄い 颯と成って、胸で呼吸をはずませる。 そ フト立留まって、此の茅家を覗めた夫人が、何と思った其の燃ゆるような顔を凝と見て、ややあって、 ひがさそで よこた か、主税と入違いに小戻りして、洋傘を袖の下へ横えると、「驚きました。」 みせさ、 惜げもなく、髪で、件の暖簾を分けて、隣の紺屋の店前へ「驚いたでしよう、可い気味、」 うれ と嬉しそうに、勝誇った色が見えたが、歩行き出そうと 顔を入れた。 あばらやも おとなり して、其の茅家を最う一目。 「御免なさいよ、御隣家の屋を借りたいんですが、」 、まり 「何でございますと、」 「しかし極が悪かってよ。」 まで とんよう と、頓興な女房の声がする。 「何とも申しようはありません。当座の御礼のしるし迄に うなず すみれいろハンケチ さっき 「家賃は幾干でしようか。」 」と先刻拾って置いた菫色の手巾を出すと、黙って頷 うら ていぞう いたばかりで、取るような、取らぬような、歩行きながら 「ああ、貞造さんの家の事かね。」 そで ふるまい あっけ 余り思切「た夫人の挙動に、呆気に取られてとした肩が並ぶ。袖が擦合うたまま、夫人が未だ取られぬのを、 主税は、 ( 貞造。 ) の名に鋭く耳をそばだてた。 離すと落ちるし、然うかと云って、手はかけて居るから ひっこ 「空家ではござりませぬが。」 ・ : 引込めもならず : : : 提げて居ると : : : 手巾が隔てに成 った袖が触れそうだったので、二人が斉しく左右を見た。 「然う、空家じゃないの、失礼。」 ふせや 両側の伏屋の、ああ、何の軒にも怪しいお札の狗が : と肩の暖簾をはずして出たが、 「大照れ、大照れ、」 につこり そで かしこ と言って、莞爾して、 貸小袖 「早瀬さん、」 わたし 「人のことを、貴族的だなんのって、いざ、と成りや私だ あなた って、此のくらいな事はして上げるわ。此の家じゃ、貴下 十五 ちょいと だって、借りたいと言って聞かれないでしよう。一寸、こ あるじ れでも家の世話が私にや出来なくって ? 」 今来た郵便は、夫人の許へ、主人の島山理学士から、帰 くだんのれん こ あばらやなが うら さっ これ 一もと じっ ま ひと
このはな うなず めて、 の森の咲耶姫に対した、草深の此花や、実にこそ、と頷か あなた えん 「而して、貴下は。」 るる。河野一族随一の艶。其一門の富貴栄華は、一に此の 「英吉君には御懇親に預ります、早瀬主税と云うもので夫人に因って代表さるると称して可い。 夫の理学士は、多年西洋に留学して、身は顕職にありな はだ す むよくてんたん と青年は衝と椅子を離れて立ったのである。 がら純然たる学者肌で、無慾、恬淡、衣食ともに一向気に 「まあ、早瀬さん、道理こそ。貴下は、お人が悪いわよ。」しない、無趣味と云うよりも無造作な、腹が空けば食べる ただ につこり と、何も知った目に莞爾する。 ので、寒ければ着るのであるから、唯其の分量の多からん 主税は驚いた顔で、 ことを欲するのみ。たのでも、焼いたのでも、酢でも構 ひも 「ええ、人が悪うございますって ? 其の女俳優、と言い わず。兵児帯でも、ズボンでも、羽織に紐が無くっても、 あいさっ さしつか ました事なんですかい。」 更に差支えのない人物、人に逢っても挨拶ばかりで、容易 、えうち 「否、家が気に入らなし 、、と仰有って、酒井さんのお嬢さにロも利かないくらい。其の短を補うに、令夫人があって んを、貴下、英吉に許しちや下さらないんですもの、ほほ存する数か、菅子は極めて交際上手の、派手好で、話好で、 ごちそう ほ。」 遊びずきで、御馳走ずきで、世話ずきであるから、玄関に 引きも切れない来客の名札は、新聞記者も、学生も、下役 ことごと も、呉服屋も、絵師も、役者も、宗教家も、・・・ : ・悉く夫人 「兄は最う失望して、蒼くなって居りますよ。早瀬さん、 ひとえ ゅびわ の手に受取られて、偏に其の指環の宝玉の光によって、名 初めまして、」 あらた と此方も立って、手巾を持ったまま、此の時更めて、略を輝かし得ると聞く。 式の会釈あり。 四 「私は英さんの妹でございます。」 おくさん 図「ああ、おうわさで存じて居ります。島山さんの令夫人で 五円包んで恵むのもあれば、ビイルを飲ませて帰すのも いらっしゃいますか。 : これは何うも。」 婦 すドこ 静岡県 : : : 某 : : : 校長、島山理学士の夫人菅子、英吉があり、連れて出て、見物をさせるのもあるし、音楽会へ行 か かっ く約束をするのもあれば、善市の相談をするのもある。 甞て、脱兎の如し、と評した美人は是であった歟。 せんげん ワ 1 足一度静岡の地を踏んで、其を知らない者のない、浅間飽かず、倦まず、撓まないで、客に接して、ずれもをし 0 そ こなた だっと っ なにがし あお おっしゃ たおやめこれ ちから やくしゃ さくやひめ あ す つ
わかれ っとめ 義理から別離話に成ると、お蔦は、しかし一一度芸者をすったんだと。 そうすけ る気は無いから、幸いめ組の惣助の女房は、島田が名人の 女髪結。柳橋は廻り場で、自分も結って貰って懇意だし、 いっそ うつらうつら め組とは又ああ云う中で、打明話が出来るから、一層其の 弟子に成って髪結で身を立てる。商売をひいてからは、い いちょうがえ おしやく つも独りで束ねるが、銀杏返しなら不自由はなし、雛妓の や 桃割ぐらいは慰みに結って遣って、お世辞にも誉められた 十八 覚えがある。出来ないことはありますまい、親もなし、兄 はなし 弟もなし、行く処と云えば元の柳橋の主人の内、それより中途で談話に引入れられて鬱ぐくらい、同情もしたが、 よ ちから ほ・ルら・ すきて さかなや 芸者なんか、真個にお止しなさいよ、と夫人が云う。主税 は肴屋へ内弟子に入って当分梳手を手伝いましよう。・ こ はじめ 何も心まかせ、と其に極まった。此の事は、酒井先生も御は、当初から酔わなきや話せないで陶然として居たが、然 じじき わたし まんまたい おんな いえど いだまち 承知で、内証で飯田町の一一階で、直々に、お蔦に逢って下りながら夫人、日本広しと雖も、私にお飯を炊てくれた婦 ああ うなず すって、其の志の殊勝なのに、つくづく頷いて、手ずから、は、お蔦の他ありません。母親の顔も知らないから、噫、 だれ きぜん こころづけ こ・つかい と喟然として天井を仰いで歎ずるのを見て、誰が赤い顔を 小遣など、いろいろ心着があった、と云う。 しりめ それぎり 其切、顔も見ないで、静岡へ引込むつもりだったが、めしてまで、貸家を聞いて上げました、と流眄にかけて、ツ あなた あ つな 組の惣助の計らいで、不意に汽車の中で逢って、横浜までンとした時、失礼ながら、家で命は繋げません、貴女は御 ところ 送る、と云うのであった。処が終列車で、浜が留まりだっ飯が炊けますまい。明日は炊くわ。米を袁るのだ、と笑っ はばか ) たから、旅籠も人目を憚って、場末の野毛の目立たない内て、それから其へ花は咲いたのだったが、しかし、気の毒 かわいそう あわれみ 〈一晩泊 0 た。 だ、可哀相に、と憐愍はしたけれども、徹頭徹尾、 ( 芸者 ゆるし はおよしなさい。 ) : : : 此の後たとい酒井さんのお許可が 図 ( そんな時は、 ) 出ても、私が不承知よ。で、さて最う、夜が更けたのであ 婦と酔って居た夫人が口を挾んで、顔を見て笑ったので、 る。 しばらくして、 ど 出て来ないーー夫人は何うしたろう。 ( 背中合わせで、別々に。 ) みみな ひっそり そう 翌日、平沼から急行列車に乗り込んで、而して夫人に逢がたがた音がした台所も、遠く成るまで寂寞して、耳馴 はたご ほ あなた あ それ こ たん ふさ
みまも きづか 室内のこの人々に瞻られ、室外の彼の方々に憂慮われて、「それでは、貴下。」 ちり すさ よろ 塵をも数うべく、明るくして、しかも何となく凄まじく侵「宜しい。」 このと、 すべからざる如き観ある処の外科室の中央に据えられたる、 と一言答えたる医学士の声は、此時少しく震を帯びてそ びやくえまと にわか 手術台なる伯爵夫人は、純潔なる白衣を絡いて、死骸の如予が耳には達したる。其顔色は姆何にしけむ、俄に少しく よこた おとがし く横われる、顔の色飽くまで白く、鼻高く、頤細りて手変りたり。 りようら くちびる あ 足は綾羅にだも堪えざるべし。唇の色少しく褪せたるに、 さては如何なる医学士も、驚破という場合に望みては、 め かす 玉の如ぎ前歯幽かに見え、眼は固く閉したるが、眉は思い さすがに懸念のなからむやと、予は同情を表したりき。 わずかっか なしか顰みて見られつ。纔に束ねたる頭髪は、ふさふさと看護婦は医学士の旨を領して後、彼の腰元に立向いて、 まくら あ 枕に乱れて、台の上にこ・ほれたり。 「もう、何ですから、彼のことを、一寸、貴下から。」 うる 其かよわげに、且っ気高く、清く、貴く、美わしき病者腰元は其意を得て、手術台に擦寄りつ。優に膝の辺まで お、 6 かげ - りつぜん 両手を下げて、しとやかに立礼し、 の俤を一目見るより、予は慄然として寒さを感じぬ。 おくさまただいま 医学士はと、不図見れば、渠は露ほどの感情をも動かし「夫人、唯今、お薬を差上げます。何うぞ其を、お聞き遊 きまあらわ すすわ 居らざるものの如く、虚心に平然たる状露れて、椅子に坐ばして、いろはでも、数字でも、お算え遊ばしますよう いた りたるは室内に唯渠のみなり。其太く落着きたる、これをに。」 たのも しか 頼母しと謂わば謂え、伯爵夫人の爾き容体を見たる予が眼伯爵夫人は答なし。 むし よりは寧ろ心憎きばかりなりしなり。 腰元は恐る恐る繰返して、 、、ずみ 折からしとやかに戸を排して、静にここに入来れるは、 「お聞済でございましようか。」 ゅあ ひときわ たも 先刻に廊下にて行逢いたりし三人の腰元の中に、一際目立「ああ。」とばかり答え給う。 おんな 念を推して、 室ちし婦人なり。 そと貴船伯に打向いて、沈みたる音調以て、 「それでは宜しゅうございますね。」 科 ひいさま ねむりぐすり 「御前、姫様はようようお泣き止み遊ばして、別室に大人「何かい、痲酔剤をかい。」 外 しゅう在らっしゃいます。」 「唯、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、 け 伯はものいわで頷けり。 御寝なりませんと、不可ませんそうです。」 わ 看護婦は吾が医学士の前に進みて、 夫人は黙して考えたるが、 ひそ ただ か ところ や まゆ しがい あなた ちょっと ど かぞ それ ふるい ひざ