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検索対象: 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集
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1. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

と、わたくしは弁解したい。窓の外は大衆である。即ち世のは容易である。それを承知しながら、わたくしが猶躊躇 間である。窓の内は一個人である。そしてこの両者の間にしているのは心に忍びないところがあったからだ。これは さと かば は著しく相反目している何物もない。これは何に因るのでわたくしを庇うのではない。お雪が自らその誤解を覚った はなはだ あろう。お雪はまだ年が若い。まだ世間一般の感情を失わ時、甚しく失望し、甚しく悲しみはしまいかと云うこと ないからである。お雪は窓に坐っている間はその身を卑しをわたくしは恐れて居たからである。 いものとなして、別に隠している人格を胸の底に持ってい お雪は倦みつかれたわたくしの心に、偶然過去の世のな その ほうふつ る。窓の外を通る人は其歩みを此路地に入るるや仮面をぬつかしい幻影を彷彿たらしめたミューズである。久しく机 きようふ ぎ矜負を去るからである。 の上に置いてあった一篇の草稿は若しお雪の心がわたくし ちまた わたくしは若い時から脂粉の巷に入り込み、今にそのド ョの方に向けられなかったなら、ーーーー少くとも然う云う気 とら・ かのおんなたち ある を悟らない。或時は事情に捉われて、彼女達の望むがままがしなかったなら、既に裂き棄てられていたに違いない。 しか そうと 家にれて箕帚を把らせたこともあったが、然しそれは皆お雪は今の世から見捨てられた一老作家の、他分その最終 失敗に終った。彼女達は一たび其境遇を替え、其身を卑しの作とも思われる草稿を完成させた不可思議な激励者であ いものではないと思うようになれば、一変して教う可からる。わたくしは其顔を見るたび心から礼を言いたいと思っ * かん * らんぶ しか ざる懶婦となるか、然らざれば制御しがたい悍婦になってている。其結果から論じたら、わたくしは処世の経験に乏 しんたい もてあそ しい彼の女を欺き、其身体のみならず其の真情をも弄ん しまうからであった。 わ だ事になるであろう。わたくしは此の許され難い罪の詫び お雪はいっとはなく、わたくしの力に依って、境遇を一 変させようと云う心を起している。懶婦か悍婦かになろうをしたいと心ではそう思いながら、そうする事の出来ない としている。お雪の後半生をして懶婦たらしめず、悍婦た事情を悲しんでいる。 らしめず、真に幸福なる家庭の人たらしめるものは、失敗その夜、お雪が窓口で言った言葉から、わたくしの切な の経験にのみ富んでいるわたくしではなくして、前途に猶い心持はいよいよ切なくなった。今はこれを避けるために 涇多くの歳月を持 0 ている人でなければならない。然し今、は、重ねてその顔を見ないに越したことはない。まだ、今 これを説いてもお雪には決して分ろう轡がない。お雪はわの中ならば、それほど深い悲しみと失望とをお雪の胸に与 たくしの二重人格の一面だけしか見ていない。わたくしはえずとも済むであろう。お雪はまだ共本名をも其生立をも、 まくろ うらあけ その 問われないままに、打明る機会に遇わなかった。今夜あた お雪のい知らぬ他の一面を露して、其非を知らしめる すわ この よ なんよ すなわ なお おんな そ ちゅうらよ

2. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

その く其話に耽って、赤電車にも乗りそこなう事がたびたびで歩道の片側に、「栄養の王座」など書いた看板を出し、四 みずおけうなぎ っ . りばり . さくらだ しか あえ 引あったが、然しそういう場合にも、翁は敢て驚く様子もな角な水槽に鰻を泳がせ釣針を売る露店が、幾軒となく桜田 ほんごう かえっこれ く、却て之を幸とするらしく、「先生、少しお歩きになり本郷町の四ッ角ちかくまで続いて、カフェー帰りの女給や、 近所の遊人らしい男が大勢集っている。 ませんか。その辺までお送りしましよう。」と言う。 ひとすじ あたか 裏通へ曲ると、停車場の改札ロと向い合った一条の路地 わたくしは翁の不遇なる生涯を思返して、それは恰も、 すし ろうばい があって、其両側に鮓屋と小料理屋が並んでいる。その中 待っていた赤電車を眼前に逸しながら、狼狽の色を示さな のれん 、んべ かった態度によく似ていたような心持がした。翁は郷里のには一軒わたくしの知っている店もある。暖簾に焼鳥金兵 え おんなあるじ 師範学校を出て、中年にして東京に来り、海軍省文書課、衛としるした家で、その女主人は一一十余年のむかし、わた ぎじゅく へんしゅうその 慶応義塾図書館、書肆一誠堂編輯部其他に勤務したが、永くしが宗十郎町の芸者家に起臥していた頃、向側の家にい えんぎん めいぎ く其職に居ず、晩年は専ら鉛槧に従事したが、これさえ多た名妓なにがしというものである。金兵衛の開店したのは はんじよう くは失敗に終った。けれども翁は深く悲しむ様子もなく、 たしか其年の春頃であるが、年々に繁昌して今は屋内を改 閑散の生涯を利用して、震災後市井の風俗を観察して自ら築して見違えるようになっている。 娯しみとしていた。翁と交るものは其悠々たる様子を見て、 この路地には震災後も待合や芸者家が軒をつらねていた はや 郷里には資産があるものと思っていたが、昭和十年の春俄が、銀座通にカフェーの流行り始めた頃から、次第に飲食 かっちゅう やはんすぎ に世を去った時、其家には古書と甲胄と盆栽との外、一銭店が多くなって、夜半過に省線電車に乗る人と、カフェー たくわえ あかっき あかり の蓄もなかった事を知った。 帰りの男女とを目当に、大抵暁の二時ごろまで灯を消さ すし この年銀座の表通は地下鉄道の工事最中で、夜店がなくずにいる。鮨屋の店が多いので、鮨屋横丁とよぶ人もある。 やはんす なる頃から、凄じい物音が起り、工夫の恐しい姿が見え初わたくしは東京の人が夜半過ぎまで飲み歩くようになっ なが めるので、翁とわたくしとの漫歩は、一たび尾張町の角また其状況を眺める時、この新しい風習がいっ頃から起った で運び出されても、すぐさま裏通に移され、おのずから芝かを考えなければならない。 どばしなにわばし よしわらゆうかく しんさいぜん まちじゅうやはんす ロの方へと導かれるのであった。土橋か難波橋かをわたっ 吉原遊廓の近くを除いて、震災前東京の町中で夜半過ぎ おもて あかり て省線のガードをくぐると、暗い壁の面に、血盟団を釈放て灯を消さない飲食店は、蕎麦屋より外はなかった。 そうよう せよなど、不穏な語をつらねたいろいろの紙が貼ってあっ 帚葉翁はわたくしの質問に答えて、現代人が深夜飲食の こじき その た。其下にはいつも乞食が寝ている。ガードの下を出ると楽しみを覚えたのは、省線電車が運転時間を暁一時過ぎま たの ムけ すさま ほか にわか その その

3. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

まった。 一一年たって女の児が生れ、つづいて又男の児が生れた。 かっ つれご 是より先、種田は嘗て其家に下女奉公に来た女すみ子と 表向は長男で、実は光子の連子になる為年が丁年になっ 力い′」ろ・ あさくさこまかたまち * てもと た時、多年秘密の父から光子の手許に送られていた教育費偶然電車の中で邂逅し、其女が浅草駒形町のカフェーに働 が途絶えた。約東の年限が終ったばかりではない。実父は いている事を知り、一二度おとずれてビールの酔を買った その また 事がある。 先年病死し、其夫人も亦つづいて世を去った故である。 すえこためあ、 長女芳子と季児為秋の成長するに従って生活費は年々多退職手当の金をふところにした其夜である。種田は初て くなり、種田は一一三軒夜学校を掛持ちして歩かねばならな女給すみ子の部屋借をしているアパートに行き、事情を打 明けて一晩泊めてもらった : ・ 長男為年は私立大学に在学中、スポーツマンとなって洋 行する。妹芳子は女学校を卒業するや否や活動女優の花形それから先どういう風に物語の結末をつけたらいいもの となった。 か、わたくしはまだ定案を得ない。 け・いさし 継妻光子は結婚当時は愛くるしい円顔であったのがいっ家族が捜索願を出す。種田が刑事に捕えられて説論せら にちれんしゅうこ か肥満した裟となり、日蓮宗に凝りかたまって、信徒の団れる。中年後に覚えた道楽は、むかしから七ッ下りの雨に 譬えられているから、種田の末路はわけなくどんなにでも 体の委員に挙げられている。 ある さなが 種田の家は或時は宛ら講中の寄合所、或時は女優の遊び悲惨にすることが出来るのだ。 場、或時はスポーツの練習所もよろしくと云う有様。その わたくしはいろいろに種田の堕落して行く道筋と、其折 ねずみ 折の感情とを考えつづけている。刑事につかまって拘引さ 騒しさには台所にも鼠が出ないくらいである。 種田はもともと気の弱い交際嫌いな男なので、年を取るれて行く時の心持、妻子に引渡された時の当惑と面目なさ。 さんや けんそう につれて家内の喧騒には堪えられなくなる。妻子の好むも其身になったらどんなものだろう。わたくしは山谷の裏町 みらばた ことごと のは悉く種田の好まぬものである。種田は家族の事につで女の古着を買った帰り道、巡査につかまり、路端の交番 っと いては勉めて心を留めないようにした。おのれの妻子を冷で厳しく身元を調べられた。この経験は種田の心理を描写 ふくしゅう 眼に視るのが、気の弱い父親のせめてもの復讐であった。するには最も都合の好い資料である。 小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人 五十一歳の春、種田は教師の職を罷められた。退職手当 を受取った其日、種田は家にかえらず、跡をくらましてし物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とで や ためとし たと これ その

4. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

この日芸者の行列はこれを見様子で今がた並べたばかりの店をしまいかけている。タ立 不可思議とうの外はない。 やじうま % んが為めに集り来る弥次馬に押返され警護の巡査仕事師もが来そうだというのでもない。心付けば巡査が頻に往った その めちゃ り来たりしている。横町へ曲って見ると軒を並べた芸者家 役に立たず遂に減茶減茶になった。その夜わたしは其場に なり ことごと 臨んだ人から色々な話を聞いた。最初見物の群集は静に道は悉く戸をしめ灯を消しひっそりと鳴を静めている。再 の両側に立って芸者の行列の来るのを待っていたが、一刻び表通りへ出てビーヤホールに休むと書生風の男が銀座の しんばし 一刻集り来る人出に段々前の方に押出され、軈て行列の進商店や新橋辺の芸者家の打壊された話をしていた。 とうき んで来た頃には、群集は路の両側から押され押されて一度わたしは始めて米価騰貴の騒動を知 0 たのである。し にどっと行列の芸者に肉迫した。行列と見物人とが滅茶減次の日新聞の記事は差止めになった。後になって話を聞く うらや 茶に入り乱れるや、日頃芸者の栄華を羨む民衆の義憤は又と騒動はいつもタ方涼しくなってから始まる。其の頃は毎 ざっとう 野蛮なる劣情と混じてここに奇怪醜劣なる暴行が白日雑沓夜月がよかった。わたしは暴徒がタ方涼しくなって月が出 ある その の中に遠慮なく行われた。芸者は悲鳴をあげて帝国劇場其てから富豪の家を脅かすと聞いた時何となく其処に或余裕 他附近の会社に蛩からがら逃げ込んだのを群集は狼のがあるような気がしてならなか 0 た。騒動は五六日つづい うしごめ ように追掛け押寄せて建物の戸を壊し窓に石を投げた。其て平定した。丁度雨が降った。わたしは住古した牛込の家 りようじよく ゆくえ の日芸者の行衛不明になったものや凌辱の結果発狂失心をばまだ去らずにいたので、久しぶりの雨と共に庭には虫 したものも数名に及んだとやら。し芸者組合は堅くこのの音が一度に繁くなり植込に吹き入る風の響にいよいよ其 ぎえんきん それら 事を秘しに仲間から義捐金を徴集して其等の儀牲者を慰の年の秋も深くなった事を知った。 これ やがて十一月も末近くわたしは既に家を失い、此から先 めたとか云う話であった。 どこびようく ばくとけんか 昔のお祭には博徒の喧嘩がある。現代の祭には女が踏殺何処に病驅をかくそうかと目当もなく貸家をさがしに出掛 あさぎ けた。日比谷の公園外を通る時一隊の職工が浅葱の仕事着 される。 大正七年八月判節は立秋を過ぎて四五日た 0 た。年中をつけ組合の旗を先に立てて伍整然と練り行くのを見た。 おうしゅう その * ああ その日は欧洲休戦記念の祝日であったのだ。病来久しく世 炎暑の最も烈しい時である。井上唖々君と其頃発行してい へんしゅう かぐらざか * かげつ 間を見なかったわたしは、此の日突然東京の街頭に曾て仏 た雑誌花月の編輯を終り同君の帰りを送りながら神楽坂ま ランス みな おり さかな で涼みに出た。肴町で電車を下ると大通りはいつものよう蘭西で見馴れたような浅葱の労働服をつけた職工の行列を うろた にぎわ 目にして、世の中はかくまで変ったのかと云うような気が に涼みの人出で賑っていたが夜店の商人は何やら狼狽えた ほか し おおかみ ・おびや こ かっ し

5. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

310 おんなあるじ あたか それは恰も外国の小説演劇を邦語に訳す時土地人物の名を曾てどこそこの店にいた女給が今はどこそこの女主人にな てらじま っているとかう類はなしである。寺島町の横町でわた 邦化するものと相似ている。わたくしは何事によらず物の ほんせいずつ 本性を傷けることを悲しむ傾があるから、外国の文学は外くしを呼止めた門附の娘も、初めて顔を見知ったのはこの 国のものとして之を鑑賞したいと思うように、其飲食物の並木の下であったに違いはない。 また あんばい こよって、銀座の町がわずか三四年 わたくしは翁の談話冫 如きも亦邦人の手によって塩梅せられたものを好まないの である。 見ない間にすっかり変った、其景況の大略を知ることがで ところ しんさいぜん 万茶亭は多年南米の殖民地に働いていた九州人が珈琲をきた。震災前表通に在った商店で、もとの処に同じ業をつ ことごと 売るために開いた店だという事で、夏でも暖い珈琲を売っづけているものは数えるほどで、今は悉く関西もしくは しか あるじそうよう ていた。然し其主人は帚葉翁と前後して世を去り、其店も九州から来た人の経営に任ねられた。裏通の到る処に海豚 じる とざ 汁や関西料理の看板がかけられ、横町の角々に屋台店の多 亦閉されて、今はない。 わたくしは帚葉翁と共に万茶亭に往く時は、狭い店の中くなったのも怪しむには当らない。地方の人が多くなって、 そと のあっさと蠅の多いのとを恐れて、店先の並木の下に出し外で物を食う人が増加したことは、いずこの飲食店も皆繁 じよう あきらか 昌している事がこれを明にしている。地方の人は東京の てある様子に腰をかけ、夜も十一一時になって店の灯の消え うら まくら まで る時迄じっとしている。家へ帰って枕についても眠られな習慣を知らない。最初停車場構内の飲食店、また百貨店の食 ことと なお い事を知っているので十一一時を過ぎても猶行くべきところ堂で見覚えた事は悉く東京の習慣だと思込んでいるので、 しるこ があれば誘われるままに行くことを辞さなかった。翁はわ汁粉屋の看板を掛けた店へ来て支那蕎麦があるかときき、 あつら たくしと相対して並木の下に腰をかけている間に、万茶亭蕎麦屋に入 0 て天鉄羅を誂え断られて誑し気な顔をするも がらす のも少くない。飲食店の硝子窓に飲食物の模型を並べ、之 と隣接したラインゴルト、向側のサイセリヤ、スカール、 けだや にんず オデッサなどいう酒場に屬する客の人数を数えて手帳にに価格をつけて置くようにな 0 たのも、蓋し已むことを得 と かきとめる。円タクの運転手や門附と近づきになって話をざる結果で、これ亦其範を大阪に則ったものだという事で する。それにも飽きると、表通へ物を買いに行ったり路地ある。 ひ を歩いたりして、戻って来ると其の見て来た事をわたくし街に灯がっき蓄音機の響が聞え初めると、酒気を帯びた に報告する。今、どこの路地で無頼漢が神祗の礼を交して男が四五人ずつ一組になり、互に其腕を肩にかけ合い、腰 あるい いたとか、或は向の川岸で怪し気な女に袖を牽かれたとか、を抱き合いして、表通といわず裏通といわず銀座中をひょ ごと これ かどづけ じんぎ そでひ その かっ てんら またそのはん ゆだ その はん これ

6. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

ーもの しく、日頃の不決断には似もっかず、先に立って戸口の引 く。著物をぬいで、丁寧に始末をする。其れまでも貞吉は、 すわ あおむ 手を探り、構わず空いて居るテエプルに坐った。 黙って仰向きに寝て居た。 職業の想像しかねる中年の男が一一三人居る外には、客は「仕様がないね。ほんとに。」と云って女は貞吉の批出し くっ うわぎ 大抵艷めかしい同類の女ばかり。貞吉の連れになった女は、た足から靴を取り、抱起して上衣を脱がせ、女物の寐衣を あいさっ のら 其れ等の一一三人に手さえ握って挨拶し、さて貞吉のに坐出して着せ掛けた後は、猶も一男の胴衣にボタンが一つと すはし ると、直ぐ前にある料理の献立を取り上げ、 れかかって居るのを見て、長子の端に腰をかけながら丁 「あなた。何がいいでしよう。」 寧に縫い始める。 くっした はだぎ 「なんでもいい。」 貞吉は、靴下ばかり肌着さえ付けぬ女の、真白な身体の ほのお 「私のそう云うものなら、何でもよくって。」 半面が、折から。 ( ッと燃え立っ暖炉の烙に赤く照らされる 「いいと、もいいとも。」 のを見て居た。こう云う種類の女に、こう云う特別の感激 よこあい 「ほんと。」と云って女は横合から貞吉の頬へ軽く接吻しを覚えるなぞは、近来には絶えてない事だ。一週間に一度 た。 一一度位に必ず女を買って居るが、自分から進むのではなく ある 料理はおきまりの値段通り馬鹿にまずかったけれど案外て、或時は巴里見物に来る日本人への義理、或時は女から 愉快に食べられた。雨の小止みを幸い、女のねだるままに無理やりに引張られるのに過ぎない。巴里の情事は濃厚な また 寄席へ這って、其れから、いやとも応ともなく、ずるずだけに飽きる事も亦早い るに女のまで行った。 「もうボタンのとれたのは無くって。」と縫い終った女は、 ムりむ 初一一階目で、広からぬ一室に幕を引いた寐台がある。其れにつこり振向いた。 うか を一目見て、貞吉の心に浮んだ事は、此の様子じや一晩泊此瞬間までは能くも見なかった女の顔をば、貞吉はしげ 語 なが 物ったって高々金貨一枚で沢山だ。何だか薄眠いように元気しげ眺めた。フランス中部生れの女に能くある丸顔の小作 、もの ぐらい んがないので、女が一一度ほど衣服を脱いで楽におなりなさい、 り。年は一一十一一三位。 す 長椅子の上から、女の縫った胴衣が、・ハ タリと床の上に ふと云うのも聞えぬ振りで、長椅子の上へ横になっている。 かみづつみ しか 女は帰り道に買った菓子とポンポンの紙包を鏡台の上で開滑り落ちる音がした。一一人は其れに気が付いたのは、然し、 四き、んだ一ツを自分のロ、一ツを貞吉のロの中〈押れ、余程後の事であ 0 た。 さも笑しそうに笑いながら、消えかか 0 た暖炉に火を焚 さぐ なま たかだか ほお せつよん ひ、 この 只リー だ、おこ なお チ・ツキ からだ

7. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

し、り * とうまらけん もだ める其の悶えの為めに違いない。私は最初一目見た其時かで女を相手に頻と藤穴拳を打っている男の声、例の如く声 ふる ところどころたちどま いろっかい 色使が裏通の処々に立留っては木を打っていたが、聞き ら、身の顫える様な誘惑を感じたのだ。 丁度その刻限と同じよう、一一三日過ぎた日暮れ方、折よ馴れた其れ等の響がまだ深けもせぬ夜を、いかにも深けた とても くも一一度目に出会った時、私は到底我慢が出来ず、待合のらしく人の気をいら立たせた。ああ捕えがたい確めがたい くすぐ 主婦と一緒に無理やりその女をば、近所の料理屋までタ飯希望の夢に擽られ、現在はまだそれ程深く知り合わない若 めぐきかずき を食・ヘに連れて行った。 い女の、廻る盃の数と共に、自分に話す言葉使いの角が 私は若い女連れと料理屋へ行く時ほど愉快を感ずる事はとれ、見合す眼の色の次第次第に打ち解けて行く、其れを らり ない。塵一ツなく清められた上に軽く打水のしてある入口感ずる心持こそ、恋の歓楽の最も甘い瞬間であろう。待合 いくたび 、おく の敷石を踏鳴しながら、こう云う時にはいつも気後れするの主婦は私の心を疾うから見抜いていて、幾度か席を外し あと らしく後になる女の手を取って、ずっと玄関へ上ると、共た。其の時々、私は何かに事寄せては手を触れ合そうと試 かれら 処へ出迎える大勢の女中。彼等女同士の鋭い眼は見て見ぬみた。 かか ように、私が連の女・ : : ・女とよりは其の髪と衣服に注がれ女は其の夜尢分酔っていたに係わらず、主婦が座を立ち るであろう。それが迷 0 た男の目には何よりも得意に、又かけると、其れを止めようともせずに、し私と差向いに ごとムこ すわ 訳もなく気恥しい気がして、必ず足早やに、鏡の如く拭込なると、最初見た時とは別の人のようにきちんと、坐った んである廊下をば案内されるまま座敷へはいる。と、畳が形を崩さず、妙に話を途切らしてしまう。じっと見詰める よくまう ちりにお 含む塵の匂いかとも思う、普通の人家では決して感じない、私の眼の、烈しく燃え立っ慾望の光のまぶしさに堪えられ ねぎしぬり さび うつむ 一種の軽い湿 0 たして、冷えた根岸塗の壁の色が淋しぬと云うよう、俯向いた顔を上げ兼ねて居た。此の沈黙の うら いけばな かたすみやや く、其の片隅の稍薄暗い床の間に、生花の花のみが、人待中に進み行く時間は二人の運命を、二人の気付かぬ中に、 あたか ち顔に咲いて居るであろう。私はつまり見知らぬ処へ来た其の行くべき処まで行かしめねば止むまいと云うよう、恰 と云う、この新しい、多少の不安を交えた奇異なる瞬間のも満ちて来る潮の流れの如く、ひしひし二人の身に迫る。 しげき ひとた 官覚を喜ぶので、一度びこの美妙な刺戟に心を呼び覚され私は非常に高まる女の胸の響を聞き得るように思った。其 ると、其れからは如何なる些細な事までもが、皆活したの響は、もうあなたに身を任している、どうして下さるん 力で私の興味を引き出す。取留めのない女の談片が却て忘です。と私の返事を促す哀訴のようにも聞き取れる。ああ、 ゆらめき ささや なぞ れられない記憶を残す。共の夜は、庭を越した向側の座敷解き得ない謎、聞き分けられぬ囁き、定まらぬ色の動揺、 とこま うちみず がた ところ かえっ その うしお じと ごとこわ

8. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

めかけ 方へと歩きながら、 環はどうなったやら。お妾らしく見えた其持主というのは ししよう 「千代坊、お前の蟇口に入っていた指環。兄さんが貰って実は旅館専門の私娼だったそうで、間もなく他へ引越した 置いたよ。」 事を知ったのも、余程たってから後のことてした。 「ええ。」 千代美は別に驚いた様子もせず映画館の看板を見ながら 五 歩いて居ます。 しばら 「お前、だまって人の物を取ッちゃいけない。兄さん、お やがて入梅になる。暫くすると突然日の照りかがやく暑 前の事はみんな知っている。」 い日が来ました。わたし達の家業には暑い時が一番つらい ちょっと ひざ 千代美は一寸わたしの顔を見たが何とも言いません。 のです。楽師の膝を突合せて並んでいる芝居のは夏の 「田村先生のお金の事も知っているんだよ。あんな事をしみならず、冬も楽ではありません。看客の方から見たら楽 ちゃいけない。」 器さえ鳴していればい、 しように見えるかも知れませんが、 やや 松竹座の横手へ来ると、人通が稍少いので、わたしは丁寒中は舞台下から流れてくる空気の冷さ、足の先が凍って そのまま 度一一三日前に受取った給金がまだ其儘紙入に入れてあるの覚えがなくなりますが、夏の苦しさに較べればまだしもで を取出し、 す。夏は場内の温気に加えて風の来る道はなく、踊子の踊 「これを上げる。 ししか。これからほしい物があったら、 り狂う舞台の塵ほこりが汗の流れる顔一面に降りかかって 兄さんにそう言うんだ。都合してやるからね。」 来るのですから、たまったものではありません。 うなず 千代美はおとなしく頷付いたばかりです。わたしは十円踊る方も決して楽ではないでしようが、場面の変るたび 札三枚ばかり手に握ったのを渡そうとしても、手を出さな たび、人数の入れかわるたびたび、少しずつでも休む暇が いので、ポケットにでも入れてやろうと思 0 たが、上着をあるのに、音楽師と来ては一幕長い時は一一時間近く、溝の 子 きて来ないので、シャツの胸には入れる処も見当りません。ような狭い穴・ほこの中に十幾人、身動きもできず、休みな 往来のことではあり仕方がありませんから、 しに楽器を鳴しているのですから、幕になって、外へ出た 「帰ったらハンド・ハックへ入れて置くよ。」 途端には。ほっとして人の話もよくは聞えないくらい、へと そのまま 指環のことは田村の金と同じく、其儘になってしまいまへとになって居ます。それにまた、アパート へ帰ってから した。わたしが其夜明、管理人の窓の上に載せて置いた指も狭い部屋に三人寝るんですから、蒸暑い晩なんそ、おち がまぐら ちり

9. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

を 5 ぎ・第物 : 物松索御御 : ′ッノ第はら 別れてわたしは再び人込みの中を抜 け、楽屋裏の横町へ曲りました。この 横町は楽屋新道とでも言われそうな処、 劇場や映画館が四五軒つづいて、倉庫 のようなル背面を立てつらわている 其向側には店一ばい景品を並べた射的 : 芝居 屋が七八軒。そのあいだあいだこ 者の出入をするおでん屋のたぐい。 災後のバラックをまだ其儘に自転車預 所にした店があって、人通も少いとこ ろから、大道具の職人が地面の上に背 景を並べて絵具を塗ったりしている 明いている楽屋の窓々からは第を着 がえている役者踊子の姿も見える ( 「踊子」 ) 上浅草・六区街の裏通り 左浅草寺本堂のおみくじ

10. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

ひとりもの 先に動いてくれるので、さほど煩しいとも思わないようにをアパート住いの独者と推定したのである。独身ならば毎 ざっとう なる。乗客の雑沓する時間や線路が、日によって違うこと夜のように遊びに行っても一向不審はないと云う事になる。 あらか これ はず も明になるので、之を避けさえすれば、遠道だけにゆっ ラディオのために家に居られないと思う筈もなかろうし、 くり本を読みながら行くことも出来るようになる。 又芝居や活動を見ないので、時間を空費するところがない。 ところ なか はず 電車の内での読書は、大正九年の頃老眼鏡を掛けるよう行く処がないので来る人だとも思う筈がない。 この事は言 でどころ になってから全く廃せられていたが、雷門までの遠道を往訳をせずとも自然にうまく行ったが、金の出処について疑 これ しか 復するようになって再び之を行うことにした。然し新聞もいをかけられはせぬかと、場所柄だけに、わたくしはそれ 雑誌も新刊書も、手にする習慣がないので、わたくしは初となく質問した。すると女は其晩払うものさえ払ってくれ * よだがくかい めての出掛けには、手に触れるがまま依田学海の墨水一一十れば、他の事はてんで考えてもいないと云う様子で、 とこ 四景記を携えて行った。 「こんな処でも、遣う人は随分遣うわよ。まる一ト月位胖 長堤蜿蜒。経ニ三囲祠一稍成一一彎状一至ニ長命寺一一折為一一続けしたお客があったわ。」 「へえ。」とわたくしは驚き、「警察へ届けなくってもいし 桜樹最多処 1 寛永中徳川大猷公放ニ鷹於此一会腹痛。 よしわら 飲ニ寺井一而癒。日。是長命水也。因名ニ其井 1 並及ニ寺のか。吉原なんかだとじきに届けると云う話じゃないか。」 うち 号 1 後有ニ芭蕉居士賞レ雪佳句 1 鱠ニ炙人口 1 嗚呼公絶「この土地でも、家によっちやアするかも知れないわ。」 どろばう 代豪傑。其名震レ世。宜矣。居士不ニ過一布衣 1 同伝レ「居続したお客は何だった。泥棒か。」 だんな 於レ後。蓋人在下所ニ樹立一何如上耳。 「呉服屋さんだったわ。とうとう店の檀那が来て連れて行 先儒の文は目前の景に対して幾分の興を添えるだろうとったわ。」 「勘定の持逃げだね。」 思ったからである。 わたくしは三日目ぐらいには散歩の途すがら食料品を買「そうでしよう。」 そのほう みやげ わねばならない。わたくしは其ついでに、女に贈る土産物「おれは大丈夫だよ。其方は。」と言ったが、女はどちら 東 わずか 涇をも買った。此事が往訪すること僅に四五回にして、二重でも構わないという顔をして聞返しもしなかった。 しか の効果を収めた。 然しわたくしの職業については、女の方ではとうから勝 かんづめ いつも鑵詰ばかり買うのみならず、シャツや上着もボタ手に取りきめているらしい事がわかって来た。 ふすま ンの取れたのを着ているのを見て、女はいよいよわたくし 一一階の襖に半紙四ッ切程の大きさに複刻した浮世絵の美 この その みち その