たねだじゅんべい しらひげばし 小説中の重要な人物を、種田順平という。年五十余歳、 一筋は白髯橋の方へ走り、それと交叉して浅草公園裏の大 ことといばし 通が言問橋を渡るので、交通は夜になってもなかなか頻繁私立中学校の英語の教師である。 であるが、どういうことか、わたくしの尋問されるのを怪種田は初婚の恋女房に先立たれてから三四年にして、継 しんで立止る通行人は一人もない。向側の角のシャッ屋で妻光子を迎えた。 なにがし は女房らしい女と小僧とがこっちを見ていながら更に怪し光子は知名の政治家某の家に雇われ、夫人付の小間使 あざむ みおも その となったが、主人に欺かれて身重になった。主家では其執 む様子もなく、そろそろ店をしまいかけた。 なにがし その しいからしまいたまえ。 事遠藤某をして後の始末をつけさせた。其条件は光子が 「おい。もう、 ・。」呟きなが無事に産をしたなら二十個年子供の養育費として毎月五拾 「別に入用なものでもありませんから : あずか ふろしきづつみ らわたくしは紙入をしまい風呂敷包をもとのように結んだ。円を送る。其代り子供の戸籍については主家では全然与り 知らない。又光子が他へ嫁する場合には相当の持参金を贈 「もう用はありませんか。」 ると云うような事であった。 「ない。」 光子は執事遠藤の家へ引取られ男の児を産んで六十日た 「御苦労さまでしたな。」わたくしは巻煙草も金口のウェ うち ストミンスターにマッチの火をつけ、薫だけでもかいで置つか経たぬ中矢張遠藤の媒介で中学校の英語教師種田順平 けむり けと「ムわぬばかり、烟を交番の中へ吹き散して足の向くまなるものの後妻となった。時に光子は十九、種田は三十歳 ま言問橋の方へ歩いて行った。後で考えると、戸籍抄本とであった。 印鑑証明書とがなかったなら、大方その夜は豚箱へ入れら種田は初めの恋女房を失ってから、薄給な生活の前途に れたに相違ない。一体古着は気味のわるいものだ。古着の何の希望をも見ず、中年に近くに従って元気のない影のよ たた うな人間になっていたが、旧友の遠藤に説きすすめられ、 長襦袢が祟りそこねたのである。 光子母子の金にふと心が迷って再婚をした。其時子供は生 れたばかりで戸籍の手続もせずにあったので、遠藤は光子 のら 東 母子の籍を一緒に種田の家に移した。それ故後になって戸 しっそう 「失踪」と題する小説の腹案ができた。書き上げることが籍を見ると、種田夫婦は久しく内縁の関係をつづけていた 9 できたなら、この小説はわれながら、さほど拙劣なもので後、長男が生れた為、初めて結婚入籍の手続をしたものの ように思われる。 もあるまいと、幾分か自信を持っているのである。 こうさ まきたばこ かおり つぶや ひんばん さいみつこ た おやこ ため ちかづ その けい
そうじんそうて、 どこの二三年老の迫るにつれて日々掃塵掃庭の労ろうと無かろうと、窮死であることには変りがない。 苦に堪えやらぬ心地するに封しが、戦争のため下当人の宿願が叶ったというか。じつは、このような死 女下男の雇わるる者なく、園丁は来らす、過日雪 に方こそ、風がもっとも恐布していたものてはなか のふり積りし朝などこれを掃く人なきに困り果て ったか。》 ( 傍点は筆者 ) といっている。 ・みひとおもい し次第なれば、寧一思に蔵書を売払い身軽になり 石川氏のいわれたことは卓説であって、私はあえて アトの一室に死を待つにしかずと思う事もあ異をとなえる心算はない。たしかに荷風は、陋巷に窮 おそ るようになり居たりしなり、昨夜火に遭いて無一 死することを最も怖れていたであろう。しかし同時に 物となりしは却て老後安心の基なるや亦知るべか荷風は、そのような死を念願としていたとは言えない らす、されど三十余年前欧米にて購いし詩集小説までも、みすからに課していたとは言えるのではない たす力・んん 座右の書巻今や再びこれを手にすることわざる ・。《唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるの いかん を思えば愛惜の情如何ともなしがたし》 み、是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと とあって、蔵書以外には焼けたものに未練がないと知られたり》という一句は、荷風罹火の日録のなかで も、とくにその頂点と称すべきところであろ、フが、こ いうのは、必すしも負け階しみとは思われない。石川 淳氏のいわれるように、 たしかに荷風はランティエでれは単に荷風が書籍を惜しんでいるものとは思えない。 あったであろう。しかし、そのランティエの生活にも荷風が愛惜しているのは、まさに《三十余年前欧米に 荷風は倦んでいたに違いない。石川氏は、晩年の荷風て購いし詩集小説座右の書巻》なのであって、書籍そ が現金通帳をつめたポストンバッグを「守本尊」と称のものではない。 荷風が失ったのは、書籍というより してつねに手放さなかったことを隣み、そのポストン過去の知識の蓄積を語る何かであり、それはたとえ同 ッグの中には、《とうに無効になったランティエの夢し内容の書籍を買い戻したとしても、再び手に入れる がまぎれこんでいた》として、《戦後の荷風はまさに窮ことの出来ない或るものであろう 民ということになるだろう。「守本尊」は枕もとに置し 人は書籍を読んで、頭で理解するだけではない、生 ・つ - フ、 : フ ふるだたみ たまま、当人は古畳の上にもだえながら死ぬ。陋巷に活感情全体で理解するのである。とくに文芸書はそう 窮死。貯金通帳の数字の魔に今はどれほどの実力があ だろう。そして過去に自分の読んだ本は、その中に過 やと カえっ まくら これ つもり く ( くさ
を、ト あざぶいちべちょう 跡かどうかは知るよしもない。ただ、あとで仲間の友人 たちにこの話をすると、それはきっと荷風だろう、そ 1 、つにち力いないとい、フことになった。 や、これ その頃、私たちは荷風に熱中していた。い は私たちだけではない。当時、荷風は何も発表してお らず、事実上執筆禁止のような状態であったが、東 きだん 観綺譚」の私家版や「ふらんす物語」の初版は古本とし て伝説的な高値を呼んでいたし、岩波版の「澤東綺譚」 もまだ版を重ねて出ている頃から初版本はまるで稀覯 布本のようになっていた。野口冨士男氏の「わが荷風」 によれば、岩波文庫の重版だけでも、昭和十五年七月 ゆきどけ には訳詩集「珊瑚集」二千部、短篇集「雪解」が一一千 ざさ 部、同年八月には「おかめ笹」三千部、「腕くらべ」三 千部、十月には「腕くらべ」五千部、「おかめ笹」八千 部、「雪解」六千部。そして翌十六年の二月には、また 「雪解」が六千部、三月には「珊瑚集」か六千部、七月 には「腕くらべ」が七千五百部、といった状態である。 同し頃、中央公論、弘文堂、岩波書店の三社から個人 木全集出版の申し込みもうけている。これなどにも、当 時の永井荷風の人気が異常なほど高かったことがわか 近るだろう。 この荷風の人気は、逆にその頃の私たちの生活がい かに味けなく、言論思想統制下の小説だの戯曲だのが
ほんこく * えんせ、 趣ふさわしきやに存ぜられ候。江戸趣味は万事天明求めたいと例の燕石十種を始めとして国書刊行会飜刻本の しゅうしゅう 中に蒐集された旧記随筆をあさり初めた。そしてこれは 振ありがたしありがたし 、ままづ、ん と思う事蹟伝説が見当ったならすぐにも筆を執る事ができ 冬来るや気儘頭巾もある世なら いろたけらんきよくしゅう まくら・もと ぜんゅ るように毎夜枕元に燈火を引寄せ松の葉を始め色竹蘭曲集 御病気御全癒の程この際一日千秋の思に御座候。 みやこはぶたえますみえしゅう よ - り 都羽一一重十寸見要集のたぐいを読み返した。その頃わたし 半兵衛 / 十一月日 げさくしゃ には江戸戯作者のする様な期うした事が興味あるのみなら 先生 はなはだ ず又甚意義ある事に思われていたので既に書かけていた 人たば おうしゅう その頃世の中は欧洲戦争のおかげで素破らしい景気であ長篇小説の稿をも惜まず中途にしてよしてしまった。一一葉 ごと ほとん ていしめい った。株式会社が日に三ツも四ツも出来た位なので以前か亭四迷でて以来殆ど現代小説の定形の如くなった言文一 ら資本のしつかりしているヨウさんの会社なそは利益も定致体の修辞法は七五調をなした江戸風詞曲の述作には害を めし樊大であったに相違ない。贅沢品は高ければ高い程能なすものと思ったからである。このであるという文体につ しよう く売れる。米が高いので百姓も相場をやるという景気。妾いてはわたしは今日猶古人の文を読み返した後など殊に不 宅の新築には最も適当した時勢であった。その頃旧華族が快の感を禁じ得ない / デアル。わたしはどうかしてこの野 ひぶざっ 頻に家宝の入札売立を行ったのもョウさんの妾宅新築には卑蕪雑なデアルの文体を排棄しようと思いながら多年の陋 しゅうつい 甚好都合であった。ョウさんは地形もまだ出来ぬ中から習遂に改むるによしなく空しく紅葉一葉の如き文才なきを もら 売立のある毎にわたしを誘って入札の下見に出掛けた。勿歎じている次第であるノデアル。わたしはその時新曲の執 びようぶ 論俳味を専とする処から大きな屏風や大名道具には札を筆に際して竹婦人が玉南追善水調子「ちぎれちぎれの雲見 入れなか 0 たが金燈籠、膳椀、火桶、手洗鉢、敷、更紗、れば」に又蘭洲追善浮瀬の「傘持っ程はなけれども三ッ 広東縞の古片なぞ凡て妾宅の器具装飾になりそうなものは四ッ濡るる。と云うような凄艶なる章句に富んだものを書 価を問わずどしどし引取った。やがて普請が出来上ると祝きたいと冀った。既にその前年一度医者より病の不治な ただ すす 宴の席でわたしは主人を始め招かれた芸人達にも勧められる事を告げられてからわたしは唯自分だけの心やりとして さいかく さいせんどう 辞退しかねて彩牋堂の記なるものを起草した。それのみな死ぬまでにどうかして小説は西鶴美文は也有に似たものを そのはちぶし 一二篇なりと書いて見たいと思っていたのである。 らず薗八節新曲の起稿をも依頼される事になった。 しよくさんじん うずらごろもしゅうしゅう じせ、 その翌日からわたしは早速新曲の資材となるべき事蹟を鶉衣に収拾せられた也有の文は既に蜀山人の嘆賞措かざ ぶり てんめい こいねが なお
長を兼ねた。「名優芸談」「演技の伝承」などがある。 十哲のひとり。江戸湯島の生まれ。通称彦兵衛。蓼太はその 三七三先考来青先生父の永井久一郎のこと。 昊 0 仮名垣魯文文政十一一年ー明治一一十七年。幕末・明治初期の三七三鷲津毅堂先生文政八年ー明治十五年。漢学者、漢詩人。尾 張の人。名は宣光。司法権大書記官。「毅堂丙集」その他。荷風 伊者。新聞記者。本名野崎文蔵。江戸の人。「仮名読新聞」、 あぐらなべ ひざくりデ の外祖父にあたる。 「魯文珍報」を創刊。「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋」などが有 ムうし 三市村羽左衛門十五世。明治七年ー昭和一一十年。歌舞伎役者。 名。滑穉を愛し諷刺に長じており、戯文で多くの読者をえた。 大変な美男で「腕くらべ」瀬川一糸のモテルとも言われる。 癸 0 野崎左文安政五年ー昭和十年。戯作者。新聞記者。本名城 雄。高知県出身。魯文の弟子として活躍した。「日本名勝地誌」三七九知十残花小波「知十」は岡野知十 ( 万延元年ー昭和七年 ) 。 本名敬胤。俳人で雑誌「半面」を主宰。「残花」は戸川残花 ( 安 七巻、「私の見た明治文壇」など。 政三年ー大正十三年 ) 。本名安宅。詩人、史論家。「文学界」の 三六 0 手児奈今の市川市真間のあたりに住んでいたと伝えられる 準同人。「小波ーは巌谷小波 ( 明治三年ー昭和八年 ) 。本名季雄。 少女。多くの男に言い寄られて悩んで投身した悲話。万葉集の 小説家、童話作家。日本の童話文学への貢献は大きい。「日本 頃から多くの和歌、伝説でとりあけられる。 とぎばなし 昔新」「日本お伽噺」など。木曜会の主宰者として荷風・井上 こぎん 罹災日録 唖々・黒田湖山・押川春浪などに影響を与えている。 癸四杵屋五叟明治三十九年ー昭和三十一一年。本名大島一雄。荷三芫 ( ウブトマン四一八ページ参照。「寂しき人々」 ( 一八九一 が、彼を理 年 ) は、自然科学の研究に従事するフォーケラート 風の弟にあたり、邦楽家として活躍した。「五叟遺文」があ 解しない妻から心が離れ哲学を勉強している女子学生アンナと る。 親しくなって両親の忠告を受け、彼女と別れて入水自殺する。 三査款語うちとけて話し合うこと。 三公一マラルメ四一七ページ参照。「牧神の午後」は「半獣神の午 昊四哺下「哺。は軒の刻 ( 午後四時 ) 。「哺下」は午後四時頃。 あいそかつや 後」 ( 一八七六年 ) のこと、フランス象徴詩の最高作品の一つ。 三会凌霜子相磯勝弥 ( 明治一一十六年ー ) 。特に戦時下から荷風後 三会菊池三渓文政一一年ー明治一一十四年。幕末・明治の漢学者。 年にいたるまで親しくした知己の一人。 ししト一・フ 名は純。和歌山藩儒者、のち将軍家茂の侍講。「晴雪楼詩鈔」な 三六四混堂銭湯のこと。 ぐしよしんし お・ ) 、い ど。「虞初新誌」は「本朝虞初新誌」のこと。小説的な戯文。 冥六千朶山房森外の住居の名。駒込千駄木町の名に因んだも しゅ、 三程朱中国の儒者程顥、程頤、朱熹のこと。その唱えた学説 らぎん もみやまていご は、藤原惺巒、林羅山らが奉じ、幕府の官学となって影響を与 三套梓月翁籾山庭後のこと。 かわじり えた。 岩 0 清潭川尻清潭 ( 明治九年ー昭和一一十九年 ) のこと。歌舞使 研究家。本名義豊。東京の人。松竹に入り歌舞伎座の舞台監事三〈九佐文山慶安四年ー享保十一一年。江戸中期の画家。俳人榎本 の。 りようた かぶー えのもと
「ビエールロチと日本の風景ー ( 明 ) はロチへの傾倒ぶりを示 九年。和歌山県の生まれ。詩人、小説家、評論家。慶応義塾大学 ゅううつ じゅんじよう している。「お菊さん」 (Madame Chrysanthéme 1 田 7 ) は、 中退。「田園の憂鬱」「都会の憂鬱」「殉情詩集」「退屈読本」 ロチが長崎に寄港したときのキクと言う日本娘との交渉を叙し などがある。ここでいう文集は「閑談半日」 ( 昭 9 ) のこと。 た小説。 一一九三常夏石竹の一変種。濃紅色の五弁花を四季を通じてつけ る。 三 0 五林述斎明和五年ー天保十一一年。江戸後期の儒者。名は衡。 どぶ みの ゅうかく 美濃岩村藩主の子として生まれたが、松平定信の命で林家を継 元三鉄漿溝吉原遊廓のまわりを取り囲んでいた溝。 おおとり ぎ、官学 ( 朱子学 ) の権威をもりかえし、林家中興の祖となっ 一一智お酉様浅草鷲神社で十一月の酉の日に行なわれる祭。 一一碧反歩吉原たんぼのこと。 おぎゅうそら、 . 一羈氷白玉もち米で製した白玉粉を水でこね、丸めてゆでた団三 0 五物徂徠荻生徂徠 ( 寛文六年ー享保十三年 ) のこと。江戸中 期の儒者。名は雙松。江戸の生まれ。古文辞学を唱えた。学説 子。ここではそれを氷に入れたもの。 は徳川幕藩体制をつらぬく政治思想に影響するところ大きい 一一究懶婦なまけもののだらしない女。 三 0 五小野湖山文化十一年ー明治四十三年。幕末から明治初期の 一一究悍婦気の強い、主人をないがしろにする女。 三 00 子窓子 ( 格子のこと ) をとりつけた窓のこと。 漢詩人。近江の人、本姓横山氏。 しようふ 三 00 診察日定期的な娼婦の性病検査日のこと。玉の井では、一三 0 六四竹西洋のカスタネットに似た簡単な楽器で、平らな竹片 てのびら を両手に一一つすっ持ち、掌を開閉して鳴らす。 部を月曜日、一一部を火曜日、三部を水曜日と定めていた。 すか しん そうせ ) きん 三 0 三紅楼夢中国の清代初のロ語体長篇小説。前八十回は曹雪芹三 0 六平打の簪銀などの透し彫で、花や鳥などの模様、定紋など かはうぎよく かんざし こー第・りんー ) よ りんたい を表わした簪のこと。 の作。後四十回は高蘭墅の作。栄国府の貴公子賈宝玉と林黛 ぎよくせつはうさ 玉、薛宝釵ら十一一人の美女との情話が軸となって、栄国府、寧三 0 セ請地今の墨田区向島四丁目、押上一一丁目あたりをいう。 国府の盛衰が描かれている。 三 0 〈日光下駄日光産出の下駄。竹皮の表をはりつけ、緒の太い 三 0 三秋窓風雨タ「紅楼曲こ第四十五回で林黛玉が作った古詩。 のを特色とする。 びわこう はくらくてん 三 0 三楓葉荻花秋は瑟々たる白楽天の「琶琵行」の中の一句。か三 0 九万茶亭銀座の数寄屋橋際にあって、主人がプラジル帰りと おぎ いうことで、よいコーヒーを出した。荷風は常連として立ち寄 えでの葉は紅葉し、荻は白い花穂をつけ、秋風がさびしく吹い ているさま。 っている。 三 0 四・ヒエールロッチ Pierre Loti ( 1850 ー 1925 ) フランスの 三一一纒頭チップのこと。 説家。海軍大佐。世界各地を巡航しながら、土地の風物や人事三一一一タイガー今の中央区銀座五丁目にあったカフェー。荷風は をもりこんだ創作をなし、独自の文学を作り出した。「お菊さ 大正十五年八月より常連として訪れている。 ん」「秋の日本」など。荷風はその文学の情緒を愛した。特に三一三三木愛花文久六年ー昭和八年。新聞記者。「東京新誌」「朝 こ 0 す、やばし
414 注解 老 と名づけられた。 五セガール、ド、リョン Gare de Lyon リョン駅。パリから マルセーユ方面行き鉄道の発着駅。 天ジ = ール、プルトン Jules Ad01phe Breton ( 1827 ー 198 ) フランスの画家。詩も書いて知られている。 発デジョン Dijon フランスのプルゴーニュ地方の首都の名。 ふらんす物語 ( 抄 ) フランス料理と・フドウ酒で有名。 六 0 別れた女作者荷風は、アメリカ時代の中頃、明治三十八年 五三ル、アーヴル港 Le Havre フランスのノルマンディーに しようふ 九月ワシントンで Edyth Girad という娼婦と知り合い、明治 あるセーヌ湾に面した港。 四十年七月フランスに渡るまで親しくしており、リョン時代に ー。ハッサン Henri ・ René-Albert ・ Guy de Maupassant おいても文通があった。 ( 188 ー 1 田 3 ) 荷風の尊敬したフランス自然派小説家。ノルマ 、、ユッセ AIfred de Musset ( 1810 ー 1857 ) フランスのロマ ンディーの生まれ。荷風は明治三十五年頃、ゾライズムに触六三 ン派の詩人。小説家、劇作家。「世紀児の告白」「たわむれに恋 れ、その影響の下に作品を書いているが、渡米後の明治三十七 はすまじ」などが有名。 。、ツサンに関心が推移している。「モー 年春頃には、モー / 。、ツサンの扁舟紀行」などに、その傾奎ベルリオ Hector Berlioz ( 一き 3 ー一 869 ) フランスの作曲 ンの石像を拝す」、「モー′ 家。初期ロマン楽派に属し、「幻想交響曲」「リア王」「ローマの 倒ぶりがうかがわれる。 謝肉祭」などが有名。 五五ゾラ Emile Zola ( 1 0 ー 1902 ) 若き日の荷風を魅了したフ ランス自然派小説家。「実験小説論」で遺伝と環境の二つの面か六三ラマルチン Alphonse de Lamartine ( 】 78 ー一 9 ) フラン スのロマン派詩人。外交官として各地に滞在したが、のち政界 ら人間を追及することを唱え、社会改革の熱情をもって、「ル そうしょ に出て、一八四八年の革命には、臨時政府の首相・外相として ーゴン・マッカール叢書」一一十巻を書いた。 LaBétehumaine めいそう 活躍した。「瞑想詩集」「ジョスラン」などがある。 を荷風は明治三十五年 ( 一一十三歳の時 ) に紹介し、翌三十六年 六三アンジ = ロス angelus ( ラテン語 ) カトリック教会での朝・ 翻訳小説「恋と刃」を発表している。 正午・タのお祈りのこと。またはその時に鳴らす鐘のこと。 。、リのロンドン向け鉄道の発着 ル St ・ Lazare / 癸サンラザー 六四ガロン Garonne ビレネー山脈に源を発し、ビスケー湾に 駅。 注ぐ全長約六五〇キロの大河。 パルナッス派 parnassiens 十九世紀の中期に盛んだった 高踏的な詩派。ルコント・ド・リールを中心にして、一時、詩奕サン。ヒエール St. Pie 「 e クラシック調の建築の旧ベネティ ムうび クト派の僧院であったが、市立美術館となっており、ロダンの 八六六年 ) によって高踏派 壇を風靡した。「現代高踏詩集」 ( 一
ーく 其角と親しかった。 四 0 七新生文芸雑誌。昭和一一十年十月創刊、翌年十月終刊。新生 なるしまりゅうほく 三九 0 航薇日記成島柳北が山陽・瀬戸内地方を旅行した折の紀行 社より戦後ただちに刊行され、荷風は、「勲章」「罹災日録」な 文。三巻。明治一一年稿。「花月新誌」に掲載された。 どを掲載した。 三空深作安文明治七年ー昭和三十七年。倫理学者。水戸学の権四 0 〈スタンダル Stendha1 ( 1783 ー 1842 ) フランス近代小説の開 威。茨城県出身、東大教授。 祖とも言われる存在。「アルマンス」 ( 一八一一七年 ) は、作者四 三九三荒木荒木貞夫 ( 明治十年ー昭和四十一年 ) 。陸軍大将。戦 十四歳で初めて発表した小説。性的不能者を主人公にして、社 後級戦犯として終身刑を受け、病気の為仮釈放になった。 交界の活気に欠けた青年心理を描いている。 0 八ジャック・シャルドン Jacques Chardonne ( 1 4 ー 198 ) 三九三華胥に遊びひるねをすること。 フランスの小説家。モラリスト。作中に人生に関する省察を格 三九三ュイスマン Joris-Karl Huysmans ( 1 8 ー 187 ) フランス 言風に書き込み、特色を出している。「エヴァ」 ( 一九二九年 ) の小説家。ゾラに認められて自然主義作家として出発、やがて にもその特色が発揮されている。 「さかさまに」「彼方」などで悪魔的唯美主義に進み、さらにカ トリシズムに転じ、「大聖堂」 ( 寺院 ) などを書いた。 四一 0 芳虎歌川芳虎 ( 生没不明 ) 。幕末、明治の浮世絵師。国芳 三九八荏苒としてだんだんに月日が経過するさま。 三九へ蘇武俊寛「蘇武」 ( 前一三九年ー前六〇年頃 ) は、漢の武四一一久保田万太郎明治一一十一一年ー昭和三十八年。小説家。劇作 、よ・フ材一 家。俳人。東京浅草の生まれ。慶応義塾大学文科卒。荷風門下 帝の臣。匈奴に使して抑留十九年後に帰国した。「俊寛」 ( 康治 ・フ・りがれ 三田派の代表的作家として登場。「末枯」「大寺学校」など。 元年ー治承三年 ) は、後白河法皇の知遇をえ、平氏討伐の企て 四一一一ラマルチン Alphonse de Lamartine ( 1790 ー 1869 ) フラ が露見して鬼界ヶ島に流罪、そこで没した。 ンスのロマン派詩人。外交官として各地に滞在したが、のち政 四 0 三提督馬公 Douglas Mac ・ Arthur ( 1 芻 0 ー 19 ) のこと。ア 界に出て、一八四八年の革命には、臨時政府の首相・外相とし メリカの軍人。連合軍総司令官として日本に進駐した。 めいそう て活躍した。「瞑想詩集」「ジョスラン」「静思詩集」などがあ M0 三大槻磐渓享和元年ー明治十一年。幕末の儒者。本名清崇。 る。 仙台藩医大槻磐水の子、如電の父。親露排英の立場の開国論を あぎな 解唱えた。 四一三樊川中国唐代の詩人。字は牧之。 なんば 当四金子馬治明治三年ー昭和十一一年。哲学者、文芸評論家。長四一三杏園大田南畝の別号。 注野県出身。号筑水。東京専門学校卒。早大教授。ドイツ哲学を しようよう 専攻し、評論の筆もとり、つねに逍遙を助けて早大文科の育成 発展に貢献した。 四 0 五笈日記各務支考の俳書。元禄八年刊。 竹盛天雄
社 げ′′ ひ彡 」白 島 向 右 せきひ 白鬚神社内の石碑 第を ー■・■ すなわち、 rentier ( 金利生活者 ) の生活である。 財産の利子で食う。戦前の荷風は幸運なランティ ェであった。 ( 略 ) ランティエの人生に処する態度 は、その基本に於て、元金には手をつけないとい う監戒からはしまる。一定の利子の効力に依って まかなわれるべき生活。元金がへこまないかぎり、 ランティエの身柄は生活のワクの中に一応は安全 であり、行動はまたそこに一応は自由であり、ワ クの外にむかってする発言はときに気のきいた批 評ですらありえた。 ( 略 ) 戦中の荷風はく自分の 生活のワクを守ることに依って、すなわちランテ イエの本分をつらぬくことに於て、よく荷風なり に抵抗の姿勢をとりつづけることができた。ラン ティエ荷風の生活上の抵抗は、他の何の役にも立 たなかったにせよ、すくなくとも荷風文学をして 災禍の時間に堪えさせ、これを戦後に発現させる ためには十分な効果を示している。》 戦前の荷風は《幸運なランティエ》であったことは、 荷風自身、否定はすまい 「小説作法」 ( 大正九年 ) と っ戯文のなかで次のように述べている 《一読書は閑暇なくては出来す、や思索空想 又観察に於てをや。されば小説家たらんとするも のはますおのれが天分の有無のみならす、又その
ムたよ である。私は其の冬の休暇中、何やら今では忘れて仕舞っえばよいのだ。一夜、二夜、三日目の夜には別れてしまっ とかく たが、兎に角恋の悩みを描いた新刊小説を読むと、自分もた。其の夏の夜の夢よりも、また幾年かたって、青春の廿 急にそう云う事が書いて見たく、書いたなら幾分心の慰め二歳の折に遭遇した恋の方が、更に猶お深く何れほど忘れ られなかったであろう。 になるだろうと思って、私は秘って置いた手紙を再読し、 自分を主人公にした短い小説を作った。これがそもそも私共の時分、明治の文壇は狭斜小説の全盛期であった。芸 おうしゅう の小説の処女作である。 術は貴族の宴席にのみ花を開いた十七八世紀の欧洲よりも、 のどか あと もっと長閑な時代であった。作家は能うかぎり美麗な文字 おんなぎ をもて、女着の流行、帯の色模様を歌ったのみならず、日 そうにゆう 常の会話にも狭斜の通語を挿入して、ウィットの豊富を誇 すくな 肉の底に根を張っていない恋は、摘まれた花瓶のりとしたものも少くなかった。私は已に其の時は大学の英 ペん 花に等しいと、何かの本で読んだ事がある。姆何なる純潔文科にはいっていたので一篇の著作に名声を世に博したい な恋でも、其れが充分に発育して行くにはどうしても実感と云う青春の野心止みがたく、矢張時勢の感化を免れずし しばしばかりゅうちまた わたし の要素が無くてはならぬ。私は裸体の美術をも、従七位何て屡花柳の巷に出入したものだ。其の頃の観察や解剖は ひなが ちょうだい ある 何の肩書を頂戴している美術学校の或先生が「神聖」であ今から考えると生活のスタジイではなくて、長閑な日永の ごと ると云うが如き意味で、神聖視しては居ない。私は死したアミュウズメントだと云ってもよい こうこっ 場所を云う必要もなかろう。名前を云う必要もなかろう。 る裸体の画面や彫刻に対して恍惚の美を感ずる人ならば、 必ず生きた女の裸体に対しても恍惚たり得ると思う。恍惚どうして、どうなったかを語る必要もなかろう。兎に角、 ぎん たらねばならぬと思う。蓄薇の花の詩を吟ずる人が実物のある夜ある処である芸者が私を愛した、私の方からも愛し かどもっ 薔薇を愛さぬと云う理由が何処にあろう。恋愛が古人の云たのだ。私は不品行の廉を以て大学を退校されても、其の 楽 う如く神聖なるや否やは私の知ろうとする処でない。私は当時後悔する韃え無か 0 た程熱中して居た。私は其の時 た 歓唯だ、手も握らず頬ずりもしなかった最初の恋よりも、共始めて、私の身体と私の精神とが外界の刺戟に呼び起され れから一一年たった十八の夏の夜、旅行した海辺の松原で宿る快感に対して、何れ程の感受性を持って居るかを確めた。 ど 屋の娘と初めて禁制の果実を摘んだ。其の記念の方が何れ月の光も雨の音も、恋してこそ始めて新しい色と響を生ず げんね だけ深く忘れられなかったか、其の事実だけを承認して貰る。料理屋の夜深けに遠くの座敷で弾く三絃の音は、封建 ほお しま ところ はないけ よ からだ ひとよ すで のどか とかく