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検索対象: 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集
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1. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

1 ふらんす物語 ( 抄 ) た籠をツ浮 : 、公 い行はに い と 処にく ら ー 1 ー 1 イし、 、顔 っ製れ園るく 、蕉ね病病つ自 三気はとそ淋 か 、様人矢やを て作歩 カ同雨 ; こ気気た 分三 が ム う ま ら し 、い にし 、時に の張起鬯 のがで し 三居 の な じ ッ つ てでた淋三 に見姿 、し ら所せど 。た 取て フ話面 も 調 、違かし 変 L— 時 か居 え 、非 題にて 結為いう ェ 何凭う だかた城た何常 らし は 構じ もだ を を や駄だと っと 変内 ん 壁 か 続一 だ っ ム も 何 てだを毎ら熱 。な目め思 て のけわ え 巴 見が越日何情 病し い すオ て空るれ 里 : 魚よ るか旅ち 、し毎 、気のぬ 気力 な ま に の 気 カ ; も で駆 のが苦 にう て 日 な ク ) や 来 がカ淋 何凭と ら神 、気悩 ら う 田 た 厭の た 思大〔舎セ皆れ の 薬経 し よ の っ分ぶの で衰 に抜さ く 込毒色 なナ 力、 淋 て - 見ス森 ヌ写さ 直 なけとな が む みに 、取 : ま し でも現を の生 った る 力、し、 か い或を画チで河かを町 = 製 、か 蒸感れわ と何 た よ 。う 日も 、岸しす 作 ホも よ じ し た ムか の 景ケ な 、出 う 暑ら ま 月 ムれ な一来る市為た色 くれ自 目めろ 気 なた分 当宅う 中 日たで中め シな のに空ム が画か 夢 が し つしは う 裏 3 ク し 室ら の 広出の て 、何 あ よ 色も 悲な淋 に 、様場来 来同 う て と る 来引 しそし 、の た時な と にやて か まけ少 君るナ マに ー -1 ド雑フ・云ぶ ぇ君人れ が事新其そ途自そ様ニ る ま ! もた其そなレ沓 に 聞でんだ重 う ら 望 う だ の ア 。の 足 こしだね じ実 る ル とぶ んなでも オよ 蕉の馬 端 、ら 0 0 や際 て ヴ 祝 三大 ヌ ョ う た つ 雨 3 赴を車れ 左 の ァ蕉歩 居たん き さな 君くむのに手寺た 雨れ、 たとナ ク ねし な え ! ま列 に 院 カ ; 。僕事 星 ム ルはて の突近 、は黙見 う 東はを 君 居 り ま 0 よ 同重 : 如 [ 然く然と春し 事 ~ 君一 に 気 只 よ た ム の 時 に く じ のたう じのか へ し な わ で 月リ ル来 や〇られ 分 方其 、夜よま 途 な つ 角 たな〇手ち る次寒こま の 舌し ュ よ は や へ方 に第を 、な い 学紙 す り の の や 、従 に散 すし だか校を困 直を も と へる カ歩 ぐ 。かも る にら 曲が ま 7 朮 ろ ら い ロ コ 非 ヒ。すと っ う つらら ン ワ 新 ュる椅い歩 。まはう 常 何 イ 燈 て コ 此こ ツ人子すき り特前 行 彳了 ヤ し か ル に の 非 ニ別に く く ド ル も シでかな 後 、らカ 気 常 の 広 の人 ュに日 日 ヌ初立ら ー君本 本 が に場大 っ話 煩 三誘 の横きりを 夜 ョをか の 。わ灯ひ町 : も 下おのたそ 年 ー保ら く 悶 れががう大 ク護届 術 な り ま た し て望開分てま つですい て の はんもん

2. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

目一一三八番地に移居。九月、「冬日かげーを「中央公論」に発表。 Ⅷ十月、「東雲」を「太陽」に掲載、十一月、「あづま橋」を中央公論 社から刊行。 昭和三十三年 ( 一九五八 ) 七十九歳 一月、「十年昔の日記」を「中央公論」 ( 以後、昭三三・四、一〇掲 ばんしやく 載 ) に、八月、「晩酌」を「中央公論」に発表。十一月、「永井荷風 日記」 ( 全七巻、昭三四・五完結、東都書房 ) の配本開始。 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 一月、「向島ーを「中央公論ーに発表。四月三十日午前三時ごろ、 かいよう 潰瘍の吐血による心臓発作のため死去。遺体は、朝、手伝い婦によ って発見された。行年、満七十九歳四か月。「断腸亭日乗」の絶筆 は「四月廿九日、祭日。陰 . の一行であった。五月一一日、自宅で葬 ぞうしゃ 儀が行なわれ、遺骨は東京都豊島区雑司ヶ谷の永井家の墓所に納め られた。その跡は養子永井永光が相続した。 ( 竹盛天雄編 )

3. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

ランス * ちゃく 蘭西のル、アーヴル港に着した。 ばんさん 自分は船客一同と共に、晩餐後は八時半頃から甲板に出 かなた て、次第に暮れかける水平線の彼方はるかに星かと見ゆる うちなが 燈火をば、あれがル、アーヴルの港だと云って打眺めて居 華盛頓府より帰りてたのである。 ちかづ しずか 直に桑港に去り 海は極く静に空は晴れていた。しかも陸地へ近きながら、 たまいし我が親愛の気候は七月の末だと云うのに、霧や雨で非常に寒かった大 従兄永井素川君に本西洋の沖合とまだ少しも変りはない。自分は航海中着て居 力いとう 書を献ず永井荷風 た薄地の外套をばまだ脱がずに居た。 ゅ、 さんまんマスト うなばらかなたこなた 見渡す海原の彼方此方には三本檣の大きな漁船が往来し あほうどり たそがれ なかこのは て居る。無数の信天翁が消え行く黄昏の光の中に木葉の如 こくえん とびらが 序 く飛交う。遠い沖合には汽船の黒烟が一筋一一筋と、長く尾 ど ちかづ を引いて漂って居るのが見えるーーーー何うしても陸地へ近 西暦千九百七年横浜正金銀行雇人となり米国紐育を去りて仏蘭西 リョン とどま いて来たと云う気がすると同時に、海の水までが非常に優 ひとな 里昻に赴き此処に留ること十箇月余なり。本書収むる所の諸篇、 しく人馴れて来たように見え初めた。 よる とうか 短篇小説、紀行、漫録のたぐいは大概当時の印象を逸せざらむが かの遠くの燈火は此の愉快な心地のすにつれ、夜の 為、銀行帳簿のかげ、公園路傍の樹下、笑声のカフ = ー、又 なら 次第に暗くなるに従い、一ッ一ッふえて来て、遂にあれが ひ 初帰航の船中に記録したりしを後に訂正し、前著に倣いてふらんす 燈台、あれが街の灯と云う区別さえが付く様になった。ル、 物語とは名づけぬ。 ところ さん やまて アーヴルの市街は山手に近いと見えて燈火が高い処まで散 西暦千九百九年正月東京にて永井荷風 てん こっぜん す 点している。其の高い山からは忽然鋭い探海燈の光が輝き ん ・こした。 ふ船と車 パッサンの著作ーーーー情熱、 自分は云うまでもなくモー La Passion, 叔父ジュール、 Mon oncle Jules 又は兄弟 紐育を出帆して丁度一週間目、夜の十時半に初めて仏 Pierre et Je 目なそ云う小説中に現れて居る此の港の叙景 ふらんす物語 ( 抄 ) やといにん よる ワレントン サンフランレスコ ご たんかいとう かんばん tJ と

4. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

かえ にわかに郷里に還るものあり。蔵書若干を残して去る。フ 望の悲惨なる筆紙の記し得べきところにあらず。 あた がいしよう ローベルの Un Cæ日 Simple ( 田舎の女中 ) を借りて読 四月一一十一日。晴。曜下木戸氏かってその外妾たりし熱 海の妓静江を伴い来り話す。静江南豆を去って郷里の北海む。代々木より転送し来りし郵便物の中に面識なき人の短 りんご 道に帰り札幌にて電車の車掌になりおる由。百合、林檎、歌を送り来れるあり。左のごとし。 もら みやげ われ等たゞことばもあらずたゝずみぬ大人がやかた 餅、その他の土産を贈らる。 せんたく いちべえ も今はあらなく 四月一一十一一日。日曜日。晴。午後市兵衛町一一丁目洗濯屋 ・もら ねすみ 一一十五年うしがわびゐもことたえてわれ等なげきに に行く。夜菅原氏の居室にて宅氏に会い鼠色中折帽を貰う。 骨もほそりぬ 代々木よりシャッその他の雑貨を送り来れり。去る三月東 へんきかん 偏奇館うせにしあとの若草にかなしみごゝろきはま 京市罹災以来物価左のごとし。 なり くっ りにけり 靴 ( ゴム底白布製 ) 一足金百円也 四月一一十五日。晴また陰。寒冷昨日のごとし。 同金二百円也 同 ( 赤皮半靴 ) ワイシャッ 金二百円也 四月一一十六日。東中野駅附近の古書肆白紙堂の主人、予 すみよし 金二百円也 が住吉町のアパートに移居せしを知り、人を介してポール 薄地夏用下シャッ ぞうり モランの著書その他一一三冊を贈り来り、色紙三葉に予の墨 ゴム裏草履 一足金十円也 あめ たび 蹟を請う。この日同宿の人より飴百匁 ( 一一十七円 ) 、牛肉 靴足袋 一足金十六円也 かわじりせいたん 四月一一十三日。陰。川尻清潭氏明舟町のアパートより葉百匁 ( 一一十五円 ) を買う。 書を寄す。句あり。 四月一一十七日。晴また陰。アパート四月分会計左のごと げた し。 下駄ぬいですぐ座敷とは春寒し ムすまさ 締めよせて合はぬ襖や冴えかへる 部屋代 金三十八円也 春寒し今朝の机の置きところ 電燈料 金八十三銭也 ほかりようそうし 水道料 金一円八十銭也 哺下凌霜子来話。池上本門寺は焼亡せしが一その裏手な 電話維持費金五十七銭也 る久ヶ原町のあたり子の居邸は難を免れしと云う。夜明月 こうこう 町会費 金五十銭也 皎々。 となりぐみ 冂宿の人にて 隣組会費金五十銭也 四月二十四日。晴れて風冷なり。ア・ハートロ さつばろ せ、

5. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

なおしずか たいか いしづつみ は石堤に添いながら猶静に進んで行く。岸の上に遊んで居 を思い浮べて、大家の文章と実際の景色とを比べて見たい かんばん あたりみまわ と一心に四辺を見廻して居たのである。 る子供や娘が甲板からハンケチを振って人の呼ぶ声に応じ つつみ しかよるた 然し夜の為めであったか自分は遺憾ながらもそれかと思て、同じ様に叫びながら一生懸命に船を追かけて堤の上を うら しか うような景色には一ツも出会わぬ中に、船は早や海岸に近地って居る。然し、船は遅いようでも非常に早い。何時か おお まちはず いしづつみ く進んで来た。岸は一帯に堅固な石堤で、其の上は広い大岸伝いにもう街端れらしい処へ来た。人家は次第に少くな どおり いしづくり いくむね あいだ 通になって居るらしく、規則正しく間を置いて、一列の街って、岸には石造の倉庫が幾棟と立ちつづき、わが乗る汽 はとば 燈が見事に続いて居る。この光を受けて海辺の人家が夜の船と同じ様な汽船が一一三艘向うの波止場に横付けにされて なかしずかてらしだ すなわら トランスアトランチック会社のドックに入った 中に静に照出されて居る様子は、遠くから見るとまるで芝居る。即、 とど か込わり まっしかくニュー 居の書割としか思われぬ。 ( 久しく屋根のない真四角な紐のである。船が初めて進行を止めるや否や水夫がリく声 ただら プランス か おろ ふなばしご 育の高い建物ばかり見て居た眼には、仏蘭西の人家が如何をかけて船梯子を下した。梯子の向うは直に汽車のステー ところ ひときわ かんばん にも自然に、美しく、小い処から、一際画のように思われションで、甲板からも見えるような処に、 るのである。 ) TRAIN SPECIAL POUR PARIS 船は非常に速力を弱めながら二三度続けて汽笛を鳴らす。 長い反響が市街から山手のガへと進んで行った。海辺から 7 55. A. M. ぶとう 人の叫ぶ声が聞える。続いて舞蹈の音楽が波の上を渡って あきら 来る : ・ 巴里行特別列車午前七時五十五分発と大きく掲示してあ 最う何も彼も明かに見え初めた。海岸通りに は夏の夜を涼みにと男や女が散歩して居り、飲食店らしい る。甲板では不平を云うものもあ 0 たが仕方がない。 うち わだ 店の戸口には美しい灯が見え、其の中にも一軒際立って水船なりホテルなり、是非にも一夜を明さねばならぬ。 した おお まばゅ の上にと突出て居る大な家の中では、眩い電燈の下で人が よ うら グアンごぎ あくるあさ 大勢踊って居る。「しゃれた処にカジノがある」と自分の 翌朝はまだ夜の明けぬ中から、葡萄酒で御座い。麦酒で ひとりごとい まわり 傍に立って居る男が独言を云った。 御座い。と汽船の周囲に小船を漕ぎながら、物売りに来る いしづつみ いくそうつな 石堤の下には小形の蒸汽船が幾艘も繋いであり、又少し男や女の声が聞えた。 のらコーヒー すすおわ 離れた水の上には大きな汽船が浮いて居るので、自分の乗自分はすっかり上陸の支度をした後、珈琲を啜り了って、 かんばん なおゅうべ いカりおろ って居る船も其の辺の岸に碇を下す事だと思っていたが船甲板へ出ると、時候は猶昨夜のままに寒い程涼しい。仏蘭 よ 0 なにか ちいさ なか うみべ かいへん よる あか ビ、ール

6. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

ならづけ くりし握り飯、甘藷。岡山の媼より恵まれし奈良漬を食い、諸友に報ず。晩食の後五叟初めて七月下旬岡山にありし予 えんむ よどう の許に東帰を促す手紙を送りし事情を語れり。烟霧一掃。 葡萄液にて渇を医す。美味終生忘れまじと思うほどなり。 雨ふりては歇み風にわかに冷なり。タ七時過ぎ品川の駅よ月明を見るの思いあり。痛快言うべからず。秘すべし、秘 すべし。 り山ノ手線に乗り換え、渋谷の駅にて村田氏と手を分っ。 しゅうりん ごそうし 予は代々木の駅前なる鈴木氏方に間借りをなせる五叟子を九月初五。秋霖の天気午に近くして初めて霽る。木戸氏 あたみ 尋ぬるに、すでに三十日ほど前、熱海の木戸氏方に転居しの別荘すこぶる広大なり。鉱泉を引きたる浴室あり。庭に てここにはあらずと云う。予はいたずらに驚愕するのみ。松あり。窓に倚れば海と町と山とを見るべし。書庫に活版 りゆ第ノほ′、 雨はいよいよ降りまさり風雨とならんとす。鈴木氏に歎願の書冊多し。偶然柳北全集のあるを見、驚喜して巻中の航 びよう いちゅう して一夜をその家の三階にあかす。五叟子は何がゆえに転薇日記を読む。予今薇陽の一邑より東行して熱海に来る。 じゃっかん 熱海は柳北が晩年病いを養いしところならずや。予弱冠の 居のことを報知せざりしにや。 あた 九月初一。早朝雨中に鈴木氏の家を去り、五叟が女弟子ころより、柳北先生の人品と文章を敬慕して措く能わざる にて新橋駅の裏手なる焼け残りのビルデング内に住めるももの。今端なくもその遊跡の同じきを知り歓喜の情さらに のある由聞き知りいたれば、ただちに尋ね至り事の次第を深きを覚ゅ。 つくばせのお 告ぐ。あたかも熱海に行くべき用事ありと言うに、さらば 〇備前国都窪郡妹尾町は維新前旗本戸川成斎が領地な とて、その人とともに新橋よりふたたび汽車に乗り哺下熱 り〇妹尾より岡山城下まで一一里〇備中国高松稲荷神社 の地は戸川主馬助の領地〇庭瀬は板倉侯領地〇高松は 海に至る。五叟とその家族とに会い別後のことを語り互い 花房氏の領地なり〇吉備郡足守は木下侯領地〇吉備津 に身の恙なきを賀す。 の宮は大吉備津彦尊即ち孝霊天皇を祭る〇以上航薇日 九月初一一。日曜日。昨夜木戸氏東京より来りて一泊せり 録 午後その書庫に入りて災前預けおきたる書巻および旧著の 記中の記事なり。 日つつが 恙なきを見る。またその語るところによりて五叟の熱海に九月初六。晴また陰。五叟子の借りて住める木戸氏が別 あがな 罹移居せし事情、また木戸氏が東京中野に家を購いにわかに墅は熱海の南端、和田浜の山手にあり。二階の窓より東方 移転せし理由を知り得たり。 に海湾、北より西の方に熱海、来の宮一一停車場の設けられ たそがれ ほう、りん し峰巒を望む。南の方にもまた近く山ありて朝夕秋雲の去 九月初三。雨午後に歇む。黄昏海岸通りを歩む。 九月初四。時々微雨。秋蝉しきりに鳴く。来豆のことを来するを見る。海上に日の昇る光景すこぶる偉大にして、 つつが かんしょ かついや や おうな たんがん 0 ひる は お

7. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

昭和 34 年 5 月 2 日荷風葬儀の霊前 勝那占領地に於てなせし処の仕返しなり」 ( 九月九日 ) と いま目前で米軍将兵にむらがる 喝破した荷風である たて れに央嫻の姿は、たんなる歴史風俗の一転変以外のもので はなかった。 ばナ しゾ々 戦後なお十五年近くを生きる荷風の仕事は、依然と して性風俗にまつわる人間の生態描写に集中している。 しアる そこにはいわば、そうした世界へのほとんど窃視症的 風ン見 荷ラを な執着が荷風の老いの気力を支えているといった趣き 年ス出さえ感じられるのであるたとえばすぐれて戦後風俗 的な現象として出現したヌード・ショウにヒントを得 最の左 て書かれた佳篇『裸体』 ( 昭和二十四年 ) 。随筆の方面で は、かっての『日和下駄』を思わせる筆致で、晩年居 を定めた葛飾の水景を探った『葛飾土産』 ( 昭和二十二 年 ) の名品がある。なおみすみすしい探究心をもって しト・・つり・つ ↓・↓ - カわ 真間川の水の行方を捗猟させたものは、あるいは地理 的な象徴にまで昇華された荷風の老いのエロティシズ う・さ ムでもあったろうか。その後種々の奇行を噂されなが ら、生涯の最後の年まで執筆を続ける荷風の生活をつ せいさん らぬくものは、筆力と知的な老衰との間の棲惨なたた かいである。死の年にいたってなお書かれる小説断片 には、さすがに気力の衰えが読みとれるのはいたいた しい。『断腸亭日乗』の記述もまた、年を追って簡略に 天候と接客だけの記録になってゆく。が、その かっ かっーしカ ところ 469

8. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

けいび、 しゅうう 十月初八。天気恢復せず時々驟雨あり。夜試みに拙著全化粧用香油小壜金一一十円、罫引西洋紙一枚二十銭、板草履 一足金四円、竹の皮草履一足二円五十銭とのことなり。戦 集稿本を整理す。帰朝以後より麻布ド居のころまでの作品 あたい は春陽堂刊行の集六巻を用ゅべし。麻布ト居後震災ごろよ後日用品の価人をして一驚を契せしむ。 十月十三日。よく晴れ風静かなり。熱海郵便局の裏手な り今日に至るまでの諸作また六巻をなし得べし。 なるしまりゅうほくせんぶん 十月初九。今日もまた新たなる低気圧起りしと云う。時る温泉寺に成島柳北の撰文藤原藤房卿の碑ある由聞きいた けい みや 時豪雨の濺ぎ来るあり。蒸暑またはなはだしく虫声喞々れば行きて見る。寺は来の宮の方に登り行く坂の中途、渓 りゅう 流に架せし翠橋という石橋を前にして石段の上に温泉寺の 初秋のごとし。 へんがく 十月十日。終日雨。小麦粉を買う。百匁金一一十円なり。扁額をかかげし門をひかえたり。門内に驚くべき一株の古 十月十一日。今日も雨、車軸を流すがごとし。不穏の天松あり。俗に藤公手植えの松と称するものすなわちこれな るべし。境内に碑一一三あれど柳北先生の文を刻せしものを 気去る三日の夜より今日に及ぶ。各地方の被害思うべし。 りようそうし 見ず。湯ヶ原堂地蔵尊の左側に華頂山貫主徹定の文、大内 凌霜子の書を得たり。 せいらん あたみやみね 青巒の書を刻せし碑あり。柳北の文というはこの碑のこと 熱海魚闇値 なり か。 ( 欄外書入れ。後ニ人ョリ聞クニ柳北ノ文ハ碑陰ニ刻 小一尾金二円五十銭也 セラルト云ウ ) 別にまた一碑あり。昭和十五年富豪藤原銀 一尾金二円也 一、むろ鰺 せ、 さば 次郎の建立するところ、竹越三叉の文を刻す。また門内石 中一尾金五円也 とう しゅんば 磴の左側に伊藤春畝の五言律詩、陸軍大将小磯某の書を刻 このしろ一尾金二円五十銭也 せしものあり。なきに如かざるを思う。境内ただ老松の多 一、鰺干物大一尾金四円五十銭也 かつお きは喜ぶべし。寺をで静かなる山径を歩むに、邸宅林泉、 小一尾金十一一円也 しよう 十月十二日。朝のうちは西風吹きすさみて軽寒身にしむ墻を連ねて幽趣あるものなきにあらず。されどその門札を ばかり、冬にわかに来るがごとくなりしが、空隈なく晴れ見れば人をして銅臭芬の思いあらしむるもののみ。熱海 しようこ ひょり わたりたれば、昼ごろよりは長閑なる小春の日和となりぬ。の町は古樹老木のほかほとんど見るべきものなく、商估俗 町を歩み熱海銀座と呼ぶかなる坂町のとある喫茶店にて客の黄金を散するところなれど、軍閥の臭味なきは不幸中 ランチを注文するに、紙より薄き怪しげなるソーセージ数の幸と謂うべき歟。 さ、り ばれいしょ 十月十四日。日曜日。大豆三升を買う。一升四十円なり。 片に馬鈴薯少し添えたる一皿、その値四円、税二円なり。 いムく しよくしよく ふんぶん し さんしゃ

9. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

四月十日。雨やまず。家と蔵書とを天となせしより早くあたり一帯に天となりしがごとし。 も一カ月を過したり。一日も早く東中野のアパートに移ら四月十四日。晴。正午三田の木戸氏より見舞いの電話あ ゅうもん がいそう り。午後東中野菅原氏より電話あり。火は小滝橋辺にてと んと思いながら、咳嗽なお治せず、憂悶禁じがたし。 たいとら・ 四月十一日。快晴。春風駘蕩たり。正午渋谷より市電にまりアパートは無事なりし由。 はだぎ せんたく て市兵衛町に至り洗濯屋杉森にシャッ肌着の洗濯を依頼す。四月十五日。日曜日。東中野のア。 ( ートに移らんとて夜 水道電気の便はなはだあしくなり営業すること困難につき具食器の運搬を五叟の子弟に頼み十一時過ぎ省線電車にて 今月末に廃業するつもりなりと言えり。旧宅の焼け跡を過行く。菅原氏の居室にて雑談すること一時間あまり。五叟 ぐるにヒヤシンスの芽焦土より萌え出でしを見る。表通り子自転車にて先に来り子弟の曳く荷車つづいて至る。夕刻 らんまん ほっきょ 宮家塀外の桜花雨後なお爛漫たり。大正九年ト居の翌年よ小堀画伯来り話す。夕飯を菅原氏の室にて喫する時、洋琴 ちょうせん り毎春見なれたる花なれば往事を思うて悵然たり。折から家宅氏の来るに会う。九時過ぎ空襲警報あり。爆音近から 警報のサイレンを聞き道源寺坂を下り電車にて代々木にかず、火の空に映ずる方向より考うるに被害の地は目黒大森 辺なるべし。夜半一一時ごろ警戒解除となる。 える。 すがわら 四月十六日。晴。薫風。夏のごとし。 四月十一一日。晴。朝空襲警報あり。午後菅原氏をそのア ねぎ 1 トに訪い両 = 一日中に移居すべき手筈をなす。晩食をと四月十七日。晴。暮れ方五叟子の許より葱一束、食窘麭 力いそら・ もにす。帰宅後悪寒咳嗽ともにはなはだし。 二斤 ( 一斤金六円 ) 難卵八個 ( 一個金一一週を送り来る。 すずり 四月十三日。晴天。夜十時過ぎ空襲あり。爆音砲声轟体夜アパート同宿の某氏より硯および墨を貰う。 四月十八日。晴。薫風颯々たり。曜下木戸氏旧オペラ館 たり。人皆戸外にず。路傍に立ちて四方の空を仰ぎ見る に、省線代々木駅の西南方に当り火烙天を焦す。明治神宮踊子田毎美津江を伴い来り話す。 録 社殿炎上中なりと云う。また新宿、大久保、角轡の辺一帯四月十九日。咳嗽悪寒いまだ全治せず。夜雨声をききっ きんこう 日一 火烙の上るを見る。近巻にも火起りしが、幸いにして防火っ早く寝に就く。燈下なお読書する気力なし。 ごそうし 四月一一十日。くもりて風なし。五叟子門弟野村氏来り麦 罹団員の消し止めしがため五叟子の居宅はわずかに難を免れ たり。警戒解除のサイレンをききしは暁四時ごろなるべし。酒三本を贈らる。哺下小滝町角より中野駅の方に至る道路 まうまう 新宿渋谷間の道路には避難の家族陸続として断えず。そのを歩む。本たる焼け原より長崎町野方町あたりからと思 ちょう 語り合いつつ行くを聞くに、角筈大久保辺より戸山ヶ原のわるる高台に晩桜のなお新緑の間に咲き残れるを見る。眺 かえん けいらん ひ

10. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

はんもん 一一四一斑竹の榻まだら竹 ( 紫褐色などの斑紋がある竹 ) で造った むかっていると、この十年間のことが雨の降る音に和して一時 背やひじかけのつかない腰掛のこと。 に湧き起こってくる。 、ようほうげん おうげんこう = 四一碧樹如」煙覆 = 晩波一中国明の詩人姜逢元の七言絶句。緑の = 四 = 王次回が疑雨集中の律詩王次回は王彦泓、次回は、生年 みん 樹々が煙のようにかすんで、夕暮の水の上を蔽っている。すが 不詳ー一六四一一年。中国明代の詩人で「疑雨集」四巻がある。 すがしい秋の日々が続き、幾人もの客が訪れては又帰った。古 荷風はその「倦怠衰弱の美感」をポードレールの「悪の華」の い庭は、今、樹々が煙っているようだ。雁はやって来ないで、 情緒にたとえて愛読した。大意ーー病気の体は天候をうらなう 風雨だけが多い。 ことができるほどで、燈火に背をむけてつくつくぼうしに声を 合わせてうめき声を上げている。妻のいないわが家の庭は、塵 一一四一西班牙風邪第一次大戦の頃、ス・ヘインから起って世界中に 伝染した悪性のインフルエンザ。多くの人が死亡した。 が積り落葉で一杯になり、書物は散らばり香の残り香が一人寝 の床に漂っている。こぶはひょうたんほど大きくなってもよい 一西一春濤詩鈔森春濤 ( 文政一一年ー明治一一十一年 ) の漢詩集。一一 が、詩文の才能が乏しいという苦悩には耐えられない。ただ 十巻六冊。 「荘子」を何度もくり返して読もう。井戸をのそくこがね虫や 一一四一郎士元が車馬雖 / 嫌 / 僻。鶯花不レ棄 / 貧郎士元 ( 子 ) は七一一 へび 七年ー七八〇年 ( ? ) 、中国唐代の詩人。大意ーー車や馬に乗っ 蛇は、わたしにとって薬の王となる。 うぐいす 、せるたばこ たお客は離れた所に住んでいるのを嫌って訪れて来ないが、鶯一一四三羅宇ラオ。煙管の煙草をこめる所と吸ロとの間の竹の部分 のこと。 や花などは、わたしの貧乏にかかわりなく季節と共にやって来 てくれる。 一一四三鳩居堂銀座にあった文房具店。 じようるり あぎな 一一四一一白居易が貧堅志士節。病長高人情白居易は字を楽天と言 一一四三薗八節宮薗節とも言う。浄瑠璃の一派で、物しずかな語り 、七七一一年ー八四六年、中国唐代の詩人。大意・ーー・貧乏は志 口を特長とする。 をもった人物の節操をますます堅固にし、病気は、高潔な人間一一四三有楽座明治四十一年、数寄屋橋のたもとに建てられた。わ の心情を一層高くする。 が国洋風劇場のさきがけとなったもので、明治大正の新劇上演 に貢献があった。大正九年帝国劇場と合併、大震災で焼失。 一一四一一征人郷を望む旅人が故郷を懐しく思うという意。 解一西一一夜不」眠孤客耳。主人窓外有 = 芭蕉一小杜は中国唐代の詩 = 畿蒼オケラの根を乾燥させたもの。健胃・利尿・下熱剤。 また蚊やりなどとしても用いられた。 人杜牧 ( 八〇三年ー八五一一年 ) 。杜甫に対して小杜と呼ぶ。大意 なり 注 一晩中、ひとり旅の自分だけは眠れない。主人の部屋の窓一一四四赤坂豊狐祠赤坂豊川稱荷。港区元赤坂一丁目にある。 ばしよう 外に植えてある芭蕉の葉のそよぎが聞こえてくる。 一一四五東江源鱗沢田東江のこと。享保十七年ー寛政八年。江戸中 期の書家。荷風は大正中期に東江の書を習っている。 = 当杜荀鶴が、半夜燈前十年事。一時和」雨到 = 心頭一杜荀鶴は、 そのはちぶし 中国唐代の詩人、八四六年ー九〇四年。大意ーーー夜中に燈火に一一四五ロ舌八景薗八節の曲名。 みん おお す、やばし