家なのである 代 時 荷風が生まれた明治十一一年 ( 一八七九 ) は、四年後 店の明治十六年に創設される鹿呼饉が象徴する急速で拙 にいう文明開化の時代のさなかであ 支劣な欧風模倣、世 上った。明治維新による政権交替の際、無血開城によっ 八ロ て江戸の町は戦火をまぬがれたが、新政府の開化政策 郵 本はいわばなしくすしに江戸時代からの文明伝統を解体 日 していったのである。明治三十一年 ( 一八九八 ) 、二十 歳の頃から小説に志しはしめた荷風がそうした近代化 久の浮薄さと俗悪さとをはっきり意識していたとは思わ 永れない。そのことに気づくのは、明治四十年代のはし 父めに欧米から帰国した荷風がしだいに江戸末期の文物 カて を精神の糧として必要とするようになったときだろう このとき初めて、荷風は自分がいわば先天的に故郷喪 失者であったことに気がついたはすである。江戸人は 明治維新のことをいみしくも瓦と呼ぶが、いわゆる さっちょうはんばっ 薩長藩閥による江戸文明の破壊こそ、荷風がその誕生 年以前から運命的に抱えこまなければならなかった第一 の、前提条件としての破局であった。 治 明 明治三十六年 ( 一九〇三 ) 九月、荷風は父親の命令 阪でアメリカに遊学し、三年後の明治四十年 ( 一九〇七 ) には、さらにフランスに渡る。この欧米体験の所産で 永 小らんす物語 母ある『あめりか物語』・『 』については後 シャン′、イ
結んだ。 実 0 博文館が出版し出した帝国文庫博文館は明治一一十年大橋佐 平によってめられ、明治大正における代表的出版社。帝国文汞一花月荷風が唖々、久米秀治らと刊行した雑誌で、大正七年 庫は百巻の構成で、「真書太閤記」「水滸伝」「西遊記」「八犬伝」 五月ー十一一月、計八冊を出した。 などが収められており、多くの読者に影響を与えた。 涇東綺譚 実 0 独逸人が白耳義に於て第一次大戦の際、フランスに宣戦布 告したドイツが永世中立国ベルギーに侵入、首都・フリュッセル 一一六四活動写真 motion picture の訳語。日本では明治一一十九年 かぶ、 を占領した。 六月、歌舞伎座で公開されたのが最初。この名は福地桜痴の命 実 0 明治四十四年慶応義塾に通勤する頃この一節は、荷風が大 名と言われるが明かではない。大正六年ごろから映画という名 ぎやく 逆事件に対し、どんな反応を示したかをみずから物語るものと が登場し始め、昭和五、六年ごろから定着した。 して有名。しかし、事件の起きた時期とこの「花火」執筆のそ一一会錦輝館明治三十年三月開館の日本最初の活動写真常設館。 れとが離れていることから、当時の荷風の心情を正確に伝えて一一六四名題「なだい」。表題のこと。いかにも荷風らしく、歌舞使 いるか否かについては、各説が行なわれている。大逆事件は、 で使う「名題看板ーという言い方を押えた表現である。 明治天皇暗殺計画の名目で明治四十三年五月から全国的に多く一一六五文芸倶楽部博文館刊行の文芸雑誌。明治一一十八年一月 ~ 昭 けんゅうしゃ の社会主義者・無政府主義者を摘発検挙し、明治四十四年一 和八年一月。創刊時は、硯友社の色彩が強いが、それなりに純 月、日比谷の大審院特別法廷で幸徳秋水以下一一十四名に死刑 文学的立場によって編集された。明治末からは通俗読物が多 さよちどり ( 十一一名無期に減刑 ) 、一一名に懲役を宣告し、反体制的自由思想 。若き日の荷風も「小夜千鳥」などを寄稿した。 に対して弾圧を加えた事件。ただし、被告を乗せた馬車に荷風一一六五やまと新聞明治十九年十月創刊。条野採菊が創立し、庶民 が慶応義塾通勤途中に出会ったとすれば、明治四十四年でな 性通俗性を編集方針として多くの読者を得た。 く、四十三年十一一月であったと察せられる。 一益稀襯の古書数少くめったに見られない書物。珍書のこと。 兵一中央新聞社明治十八年創刊の絵入朝野新聞の後身。 一一査男衆名題俳優について楽屋内の雑務などを手伝う雇人のこ そほう レ」 0 実一国民新聞焼打国民新聞は、明治一一十三年一一月、徳富蘇峰に 解よって創刊され、プルジョア自由主義の立場で改革を説いた一一奕芳譚雑誌明治十一年七月より十七年十月まで刊行の作雑 が、日清戦争以来、蘇峰が右旋回して新聞も御用新聞的性格を 誌。高畠藍泉が主宰し、携帯薬「宝丹」の宣伝雑誌として出発 注濃くし、日露戦争講和条約の折や大正政変に際しては政府側に したが、やがて戯作中心となって、藍泉、為永春江らの作品を 立ち、民衆の怒りをうけ襲撃された。 始めとして、その他柳亭派の作品を多く掲載した。 一丞一井上亞々君明治十一年ー大正十一一年。小説家・俳人。本名 = 奕為永春江文化十年ー明治一一十二年。近世末から明治初期の 精一。荷風と高等師範附属中学校で同級になり、以来、親交を 人情本作者。初代為永春水の門人。 につしん すいこでん おうち
四月、黒田小学校尋常科第四学年卒業、七月、小石川竹早町東京府 尋常師範学校附属小学校高等科に進学 ( 翌年十一月まで在学か ) 。 十一歳 明治ニ十三年 ( 一八九〇 ) 十一一月以後神田錦町東京英語学校に通学。 十一一歳 明治ニ十四年 ( 一八九一 ) 六月、父が文部省会計局長に任ぜられる。九月、神田一ッ橋の高等 明治十ニ年 ( 一八七九 ) 師範学校附属学校尋常中学科 ( 六年制 ) 第一一学年に編入学。 十四歳 十一一月三日、東京市小石川金富町四五番地 ( 現文京区春日一一丁目 ) 、 明治ニ十六年 ( 一八九一一 l) そう、ち かふう こうじまち 永井久一郎、↑の長男として生れる。名は壮吉、号は荷風、別に断十一月、麹町区飯田町三丁目黐の木坂下に移る。 ちょうていせーなん、んさんじんはいか かデん 十五歳 腸亭、石南、金阜山人、敗荷等がある。父久一郎は禾原、来青の号明治ニ十七年 ( 一八九四 ) わしづきどう をもち、尾張藩士永井匡威の長男。鷲津毅堂に学び、大学南校貢進十月、麹町区一番町四一一番地に移る。病気治療 ( ルイレキか ) のた 生となり、後、渡米してプリンストン大学に学ぶ。文部省に勤めてめ下谷の帝国大学第一一病院へ入院。 十六歳 大臣官房会計課長に進み、退官して日本郵船株式会社に入り、上海明治ニ十八年 ( 一八九五 ) がしト - よノ かか や横浜の支店長を歴任。漢詩人として名声があり、「来青閣集」十正月から流感に罹り、三月末まで臥床し、第四学年再履習となる。 巻がある。母恆は儒者鷲津毅堂の次女、久一郎に嫁して三男一女を四月から七月まで小田原十字町足柄病院に転地療養。 十七歳 あげた。次男貞一一郎 ( 鷲津氏に入る ) 、三男威三郎。一女は夭折し 明治ニ十九年 ( 一八九六 ) 荒木竹翁について尺八を習い、岩渓裳川について漢詩作法を学ぶ。 四歳 十八歳 明治十六年 ( 一八八 = l) 明治三十年 ( 一八九七 ) 一一月五日、弟貞一一郎生れる。その際、荷風は下谷竹町四番地、鷲津一一月、吉原に遊ぶ。三月、中学校 ( 第五学年 ) 卒業。父は退官して、 四月、日本郵船株式会社に入社、上海支店長となる。七月、第一高 家に預けられ、祖母美代に溺愛される。 明治十七年 ( 一八八四 ) 五歳等学校の入試に失敗。九月、一時帰国した父にともなわれ、母や弟 鷲津家からお茶の水師範学校附属幼稚園に行く。五月、父が視察のらと共に上海に旅行。十一月末、帰京し、高等商業学校附属外国語 ため渡欧。 学校清語科に臨時入学。 明治十九年 ( 一八八六 ) 七歳 明治三十一年 ( 一八九八 ) 十九歳 6 ろつりゅうろう 小石川の実家に帰り、この年 ( 一月か ) 小石川服部坂の黒田小学校九月、「簾の月ーという作品を携えて広津柳浪を訪ね、その門に入 る。 初等科 ( 尋常科 ) に入学。 二十歳 明治三十ニ年 ( 一八九九 ) 十歳 明治ニ十ニ年 ( 一八八九 ) で、あい ようせつ シャンハイ だん しん
長を兼ねた。「名優芸談」「演技の伝承」などがある。 十哲のひとり。江戸湯島の生まれ。通称彦兵衛。蓼太はその 三七三先考来青先生父の永井久一郎のこと。 昊 0 仮名垣魯文文政十一一年ー明治一一十七年。幕末・明治初期の三七三鷲津毅堂先生文政八年ー明治十五年。漢学者、漢詩人。尾 張の人。名は宣光。司法権大書記官。「毅堂丙集」その他。荷風 伊者。新聞記者。本名野崎文蔵。江戸の人。「仮名読新聞」、 あぐらなべ ひざくりデ の外祖父にあたる。 「魯文珍報」を創刊。「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋」などが有 ムうし 三市村羽左衛門十五世。明治七年ー昭和一一十年。歌舞伎役者。 名。滑穉を愛し諷刺に長じており、戯文で多くの読者をえた。 大変な美男で「腕くらべ」瀬川一糸のモテルとも言われる。 癸 0 野崎左文安政五年ー昭和十年。戯作者。新聞記者。本名城 雄。高知県出身。魯文の弟子として活躍した。「日本名勝地誌」三七九知十残花小波「知十」は岡野知十 ( 万延元年ー昭和七年 ) 。 本名敬胤。俳人で雑誌「半面」を主宰。「残花」は戸川残花 ( 安 七巻、「私の見た明治文壇」など。 政三年ー大正十三年 ) 。本名安宅。詩人、史論家。「文学界」の 三六 0 手児奈今の市川市真間のあたりに住んでいたと伝えられる 準同人。「小波ーは巌谷小波 ( 明治三年ー昭和八年 ) 。本名季雄。 少女。多くの男に言い寄られて悩んで投身した悲話。万葉集の 小説家、童話作家。日本の童話文学への貢献は大きい。「日本 頃から多くの和歌、伝説でとりあけられる。 とぎばなし 昔新」「日本お伽噺」など。木曜会の主宰者として荷風・井上 こぎん 罹災日録 唖々・黒田湖山・押川春浪などに影響を与えている。 癸四杵屋五叟明治三十九年ー昭和三十一一年。本名大島一雄。荷三芫 ( ウブトマン四一八ページ参照。「寂しき人々」 ( 一八九一 が、彼を理 年 ) は、自然科学の研究に従事するフォーケラート 風の弟にあたり、邦楽家として活躍した。「五叟遺文」があ 解しない妻から心が離れ哲学を勉強している女子学生アンナと る。 親しくなって両親の忠告を受け、彼女と別れて入水自殺する。 三査款語うちとけて話し合うこと。 三公一マラルメ四一七ページ参照。「牧神の午後」は「半獣神の午 昊四哺下「哺。は軒の刻 ( 午後四時 ) 。「哺下」は午後四時頃。 あいそかつや 後」 ( 一八七六年 ) のこと、フランス象徴詩の最高作品の一つ。 三会凌霜子相磯勝弥 ( 明治一一十六年ー ) 。特に戦時下から荷風後 三会菊池三渓文政一一年ー明治一一十四年。幕末・明治の漢学者。 年にいたるまで親しくした知己の一人。 ししト一・フ 名は純。和歌山藩儒者、のち将軍家茂の侍講。「晴雪楼詩鈔」な 三六四混堂銭湯のこと。 ぐしよしんし お・ ) 、い ど。「虞初新誌」は「本朝虞初新誌」のこと。小説的な戯文。 冥六千朶山房森外の住居の名。駒込千駄木町の名に因んだも しゅ、 三程朱中国の儒者程顥、程頤、朱熹のこと。その唱えた学説 らぎん もみやまていご は、藤原惺巒、林羅山らが奉じ、幕府の官学となって影響を与 三套梓月翁籾山庭後のこと。 かわじり えた。 岩 0 清潭川尻清潭 ( 明治九年ー昭和一一十九年 ) のこと。歌舞使 研究家。本名義豊。東京の人。松竹に入り歌舞伎座の舞台監事三〈九佐文山慶安四年ー享保十一一年。江戸中期の画家。俳人榎本 の。 りようた かぶー えのもと
すいてんぐうめぐみのムかがわ 唯物論に反対する新理想主義を唱えた。 「水天宮利生深川」 ( 明治十八年初演 ) の通称。 ひろ , こびなた = = 四明石島蔵河竹黙阿弥 ( 古河黙阿弥 ) が明治十四年引退披露 = = = 切支丹坂文京区小日向一丁目にある坂の名。江戸時代に禁 の際に書き下ろした散切狂言「島鵆月白測」の主人公の名。 制の切支丹信者を投獄する切支丹屋敷があったので、この名が すみだがわ 生まれた。 一三四百本杭墨田区横網町の安田庭園のあたり、隅田川に面した ところを言う。講談や小説などにしばしば出てくる地名。 一一三一一蜀山人大田南畝 ( 寛延一一年ー文政六年 ) の別号。南畝は江 一三四久米君久米秀治 ( 明治一一十年ー大正十四年 ) 。東京生まれ。 戸後期の狂歌師、狂詩作者。江戸牛込の生まれ、幕臣。天明文 慶応義塾大学卒業後、帝国劇場に勤め、後、有楽座の支配人と 化の中心的存在と見られる文人で、荷風は深くその遺風を慕 、評論文を書くだけでなく、書風などにも影響を受けた。 して貢献があった。荷風に愛された一人。 ーたがわうたまろ いわやさぎなみ 一三七絵本虫撰喜多川歌麿の狂歌絵本で天明八年刊。虫を写生し一三四木曜会巌谷小波を中心とした文芸サロンの名で、明治三十 ちみつ そさんじん たもので、歌麿の写実の正確緻密さが見られる。 一一年冬清国人蘇山人の紹介で荷風は親友井上唖々と一緒に出席 し、以来、そのメイハーたちと深い交友を続けた。 一一一石戸川秋骨明治三年ー昭和十四年。英文学者、随筆家。熊本 の生まれ、本名明三。明治学院、東京大学英文科 ( 選科 ) 卒。 = = 四「隅田川両岸一覧」の狂歌絵本。享和元年とも文化三 すみだがわ 年ともいわれる。隅田川の上流から下って、千住に至るまでの 「文学界」同人として活躍、のち慶応義塾大学教授。 一三〈鮫ケ橋新宿区若葉町一「三丁目、須賀町の一部があたる。 風景、風俗を絵巻式にまとめてある。 ひんみんくっ 明治から大正頃まで、その辺の低地は代表的な貧民窟として有一一三五端唄近世俗曲の一つ。三味線を伴奏に歌われる短いもの。 名。 文化年間以降江戸で発達し江戸端呎と呼ばれた。 めいれき 一一元江戸惣鹿子大全「江戸惣鹿子名成大全」のこと。江戸の地一一三六振袖火事明暦の大火の俗称。明暦三年一月十八日、本郷丸 せが、 誌。六巻。 山本妙寺で施餓鬼に焼いた振袖が空に舞上ったのに端を発した といわれ、三日にわたり江戸の大半を焼いた。 一一三 0 かの平和なる物のひゞきはヴェルレーヌの詩集「叡智」 ( 一 八八一年 ) 収録の「偶成」の一節。荷風愛唱の詩篇の一つで訳 さんごしゅう 雨瀟瀟 詩集「墹瑚集」に収められている。 おうがい 一一三一柵草紙森外が主宰した文学評論を主とする雑誌。明治一一一一四 0 十年前新妻の荷風は大正元年九月、本郷湯島一丁目材木商 の娘斎藤ヨネと結婚、翌一一年一一月離婚した。 十一一年十月ー一一十七年八月。明治一一十年代の文学啓蒙の推進に ともえややえじ 一一四 0 七年前には妾の荷風は新橋の芸者巴家八重次 ( 後、藤蔭静 大きな役割を果たした。 枝 ) と明治四十三年秋頃から親しくなり、大正三年八月結婚、 一一三一シャワンフランスの画家シャヴァンヌ (Chavannes. 1824 ー 1 田 8 ) のこと。 翌四年一一月離婚。 かりゅうかい 一一三一一オイケン Rudolf Eucken ( 1846 ー 1926 ) 。ドイツの哲学者。一一四 0 狭斜の地花柳界のこと。 ゆい京っ しん なんー よ・フわ
3 在米中、タコマで荷風が止宿 した山本家 在仏中、荷風が止宿したパリ のホテル・スフロ 明治 40 年アメリカでの荷風 た。だがその体験のあまりの短さとはかなさは、その 後の荷風に自国の文化的現状がその青春の最高水位 よりつねに低いもの、軽蔑すべきものにしか見えない という不幸をももたらしたのである 明治三十六年 ( 一九〇三 ) 、荷風が渡米したのは、「そ もそも余が父は余をして将来日本の商業界に立身の道 を得せしめんが為め学費を惜します余を米国に遊学せ しめしなり」 ( 『西遊日誌抄』 ) という事情による。荷風 の父久一郎は官吏から郵船会社の上海支店長をも勤め た漢洋兼学の知識人であり、明治初年の成功者であっ た。この厳格な家父のをに育てられ、当時の社会的 合言葉であった立身出世主義のコースに進むべく感性 ひろつりやつろう を抑圧されて、落語家に弟子入りしたり、 広津柳浪の 門下に加わったり、狂一言作者見習いになったりの反抗 をくりかえしていた若き日の荷風にとって、それかま たとない脱出の機会であったことはいうまでもない しかし、アメリカ市民社会のピュ リタン的禁欲とビ ジネスライクな生活は、もともと荷風の腮に合うもの ではなかった。生来多感な荷風は、明治三十八年 ( 一 九〇五 ) の末からニューヨークの正金銀行に勤めても しつこう勤務が板につかす、ワシントンで知り合った 社婦イデスとの愛欲生活に職する。いっ銀行から解 雇されるかもしれないという不安 ( それはただちに日 447
一一公一「文藝春秋」荷風の菊池寛に対する反感が表われている。 一一冥すっ・ほり飯お数なしで食べる飯のこと。 他に「文藝春秋記者に与る書ー ( 昭和四年執筆、戦後発表 ) とい 一一天断髪第一次大戦に参加した女性が衛生上の目的で髪を切っ たのが元ではじまった髪形。日本でも大正末、昭和初年から流 う一文もある。 一穴三江川玉乗り浅草公園六区にあった江川大盛館のこと。娘が 行し、今日のようになった。 玉に乗って、玉をころがしながら芸をする「玉乗り」が人気を 一一尺ポイルさ = フランス語ヴォアールの俗称で、薄地の目の 集めていた。 あらい織物の総称。綿製のものが普通で、夏の婦人洋服、シャ 夭三凌雲閣浅草公園五区にあった十一一階建ての展望搭。その下 ノ、ハンカチなどによく使われた。 ししようくっ さっちょう あたりを「十一一階下ーと称し、附近に私娼窟が多かった。 一一へ 0 九州弁の政談荷風の薩長に対する嫌悪と揶揄の気持がうか 天四鶴屋南北四世南北 ( 宝暦五年ー文政十一一年 ) は、江戸後期 がわれる。 せんじよう かぶき の代表的な歌舞伎狂言作者。奇抜な趣向、煽情的な作風によっ 天 0 神代帚葉明治十六年ー昭和十年。本名種亮。書誌研究家。 ふうび て時代を風靡した。怪談狂言の他に市井の下層階級の生活を描 島根県の生まれ。島根県師範卒。明治文学の特に書誌的研究に 、せわもの く「生世話物」のジャンルを確立した。「東海道四谷怪談」「謎 おいて先駆者的存在。校正の神様とも言われた。 のおびらよっととくべえ 帯一寸徳兵衛」などがある。 一穴一依田学海天保四年ー明治四十一一年。漢学者、演劇評論家、劇 じようるりしんないぶし 作家。本名百川。江戸の生まれ ( 佐倉藩士 ) 。明治初期は官界人夭四蘭蝶浄瑠璃新内節の古典的な曲の一つ。本名題「若木仇名 草」。 として生き、明治十八年退官後は演劇改良連動や著述に従った。 「墨水一一十四景記」上下は、明治十五年五月 ( 吉川半七発行 ) 刊。夭四鶴賀なにがし鶴賀は鶴賀若狭掾以来、新内節の師匠の名。 一穴五検査場娼婦の性病検査をする病院のこと。 夭一一此花「この花草紙」。明治一一十六年五月ー九月。五冊刊行。 ー作「ラ・トスカ」 ( 一 夭五向嶋小梅の里現在の墨田区向島一「三丁目にあたる。江戸 一一公一トスカフランスの劇作家サルドウ 時代には大名や豪商の寮があり、向島と共に静かな別荘地だっ 八八七年 ) の女主人公名。この劇はローマの歌姫トスカと画家 との悲恋を扱ったものであるが、脱獄してまた画家の友人をか 一一兊自前玉の井では、女が店の主人に毎日三円ずつを支払っ くまう話が描かれている。 もくあみ てんにまごううえののよっまな て、前借りをしないでかせぐ規約があったらしい ( 荷風の「断 解一一公一三千歳黙阿弥作「天衣紛上野初花」 ( 明治十四年 ) の女主人 らようていこらじよう みちとせ 腸亭印乗」昭和十一年五月十六日所掲の「玉の井見物の記」 ) 。 公の名。この劇には吉原の遊女三千歳が御家人くずれ片岡直次 なおぎむらい 注郎通称直侍に深い情愛をそそぐさまが扱われており、とくに、 一一九一一朦隴円タクあやしけな、不正行為を事とするタクシー。 いりや 簡単服とも呼ばれた婦人の夏だけ着るワンビー 悪事露顕して高飛びする直侍が入谷の寮で養生している三千歳元一一アッパッパ スのこと。関西から出た俗語。 と別れを惜しむくだりは、清元「忍逢春雪解」、通称「三千歳」 としても有名。 一一九一一佐藤慷斎「慷斎」は佐藤春夫の号。明治一一十五年ー昭和三十 けんお かたおか こ 0 つるがわかさのじよう しせい だん なぞ
ーく 其角と親しかった。 四 0 七新生文芸雑誌。昭和一一十年十月創刊、翌年十月終刊。新生 なるしまりゅうほく 三九 0 航薇日記成島柳北が山陽・瀬戸内地方を旅行した折の紀行 社より戦後ただちに刊行され、荷風は、「勲章」「罹災日録」な 文。三巻。明治一一年稿。「花月新誌」に掲載された。 どを掲載した。 三空深作安文明治七年ー昭和三十七年。倫理学者。水戸学の権四 0 〈スタンダル Stendha1 ( 1783 ー 1842 ) フランス近代小説の開 威。茨城県出身、東大教授。 祖とも言われる存在。「アルマンス」 ( 一八一一七年 ) は、作者四 三九三荒木荒木貞夫 ( 明治十年ー昭和四十一年 ) 。陸軍大将。戦 十四歳で初めて発表した小説。性的不能者を主人公にして、社 後級戦犯として終身刑を受け、病気の為仮釈放になった。 交界の活気に欠けた青年心理を描いている。 0 八ジャック・シャルドン Jacques Chardonne ( 1 4 ー 198 ) 三九三華胥に遊びひるねをすること。 フランスの小説家。モラリスト。作中に人生に関する省察を格 三九三ュイスマン Joris-Karl Huysmans ( 1 8 ー 187 ) フランス 言風に書き込み、特色を出している。「エヴァ」 ( 一九二九年 ) の小説家。ゾラに認められて自然主義作家として出発、やがて にもその特色が発揮されている。 「さかさまに」「彼方」などで悪魔的唯美主義に進み、さらにカ トリシズムに転じ、「大聖堂」 ( 寺院 ) などを書いた。 四一 0 芳虎歌川芳虎 ( 生没不明 ) 。幕末、明治の浮世絵師。国芳 三九八荏苒としてだんだんに月日が経過するさま。 三九へ蘇武俊寛「蘇武」 ( 前一三九年ー前六〇年頃 ) は、漢の武四一一久保田万太郎明治一一十一一年ー昭和三十八年。小説家。劇作 、よ・フ材一 家。俳人。東京浅草の生まれ。慶応義塾大学文科卒。荷風門下 帝の臣。匈奴に使して抑留十九年後に帰国した。「俊寛」 ( 康治 ・フ・りがれ 三田派の代表的作家として登場。「末枯」「大寺学校」など。 元年ー治承三年 ) は、後白河法皇の知遇をえ、平氏討伐の企て 四一一一ラマルチン Alphonse de Lamartine ( 1790 ー 1869 ) フラ が露見して鬼界ヶ島に流罪、そこで没した。 ンスのロマン派詩人。外交官として各地に滞在したが、のち政 四 0 三提督馬公 Douglas Mac ・ Arthur ( 1 芻 0 ー 19 ) のこと。ア 界に出て、一八四八年の革命には、臨時政府の首相・外相とし メリカの軍人。連合軍総司令官として日本に進駐した。 めいそう て活躍した。「瞑想詩集」「ジョスラン」「静思詩集」などがあ M0 三大槻磐渓享和元年ー明治十一年。幕末の儒者。本名清崇。 る。 仙台藩医大槻磐水の子、如電の父。親露排英の立場の開国論を あぎな 解唱えた。 四一三樊川中国唐代の詩人。字は牧之。 なんば 当四金子馬治明治三年ー昭和十一一年。哲学者、文芸評論家。長四一三杏園大田南畝の別号。 注野県出身。号筑水。東京専門学校卒。早大教授。ドイツ哲学を しようよう 専攻し、評論の筆もとり、つねに逍遙を助けて早大文科の育成 発展に貢献した。 四 0 五笈日記各務支考の俳書。元禄八年刊。 竹盛天雄
一 4 かながーろよん 地域。 一一奕魯文珍報仮名垣魯文主宰の戯作雑誌。明治十年十一月ー十 一一年五月、魯文、為永春江、高畠藍泉らの戯作を掲載した最初一石一洲崎遊廓江東区東陽一丁目がそれに当る。明治十九年埋立 ゅうかく の戯作雑誌として意味がある。 工事が行なわれ、翌年、根津遊廓が移って一一十一年完成したも なるしまりゅうはく の。吉原と並んで東京の公認遊廓として繁栄した。 一一奕花月新誌成島柳北主宰の文芸誌。明治十年一月ー十七年十 月。漢詩文、雅文、短歌などを掲載、文人趣味の溢れた編集一一七一小説これは明治三十六年五月新声社刊行の「夢の女」のこ しようぎ なみ らんぎん で、柳北、大沼枕山、森春濤などが寄稿している。 と。女主人公お浪が家のために洲崎遊廓の娼妓となるところか ら話が始まる。 一一奕小紋全体に小さい模様のあるものを言う。 一一奕胴抜下着などの胴から上の部分を別の布地で仕立てるこ 一石一杜撰著作などの誤まりが多く、不確かなこと。 と、またはその衣服。 一石一ラフカジオ 、ハーン Lafcadio Hearn ( 188 ー 184 ) 英文 ちりめん 学者。小説家。随筆家。ギリシャ生まれ。日本に帰化して小泉 一一奕小浜ちりめん「古浜縮緬」のこと。絹織物の一つで、普通 やくも 、んしゃ しわ 八雲を名のった。明治一一十三年来日し、松江中学、第五高等学 縮緬と錦紗縮緬との中間の皺縮のもの。 、ようべん 校、東大、早大などで教鞭をとるかたわら、「心」「怪談 , など 一一奕友禅染江戸中期、京都の画工宮崎友禅が創始した染め方。 のすぐれた日本紹介の文章を書いた。日本に来る直前、アメリ 花鳥、風景などの模様をいろいろな色彩で美しく染め出したも の。 カから仏領西インドに行き熱帯の風物と人情に打ち込んで美し い物語を書いた。「チタ」 (Chita) 、「ユーマ」 (Youma) はその 一一奕日本堤今で言えば、台東区三ノ輪から浅草七丁目までの 折の産物で、文壇にその名を知らしめた。 堤。江戸時代から吉原通いの道として有名。 一一究ウエストミンスター Westminster イギリスの高級紙巻一石三住替奉公人や著者などが主人を他にかえて移ること。 煙草の名。このような高級煙草を吸っている点に、大江匡と い一一七四毛筋棒髪の筋目をなおすときに使う櫛。柄が細長くさきが とがっている。 う人物の反俗的貴族趣味がうかがわれる。 一石 0 カフェー café ( フランス語、コーヒーの意 ) 。日本でも初め看四弁慶黐一一種の色目を使った大柄のタテョコ縞のこと。 はコーヒー店の意味で用いられていたが、大正末から昭和初期一石四伊達締伊達巻とも言うが、女性が着物の着くずれを防ぐた 頃、洋酒類を出し女給がサービスする飲食店の意味になった。 めに、帯の下にしめる幅の狭い帯のこと。 一石 0 七ッ下りの雨「七ッ下り」は夕暮の七つ時 ( 午後四時 ) を一一芸明治年間の娼妓のように「わたくし」という主人公・話者 過ぎた頃のこと。盛りを過ぎた意味となる。ここは、「七ッ下 がこの女主人公にだんだん接近して行くのは、このように、彼 ぞくげん 女が時代離れした一面を保っているからである。 りの雨と四十過ぎての道楽はやまぬ」という俗諺を踏まえたも 毛五おぶ代お茶代の意味であるが、遊ばないでただお茶だけを ので、いずれもなかなかやまないという意。 飲んで帰るお客の祝儀のこと。 毛一旧郡部明治十一年七月制定の東京府の編成法で郡になった ただす くしえ
一月、落語家朝寐坊むらくの門人となり、三遊亭夢之助の名で、夜行され、七十五円を得る。十月、「新任知事」を「文芸界」に発表。 夜席亭に出入りを始める。五月、「三重襷ーを広津柳浪名義で「煙明治三十六年 ( 一九〇一一 l) 一一十四歳 おーノがー 草雑誌」 ( 未見、八月、「大阪商事新聞」第一一九号「森の下露」に掲一月、市村座で初めて森外に紹介される。五月、「夢の女」を新声 くらぶ 載されたものを確認した ) に、十月、「薄衣」を「文芸倶楽部」に社より刊行。同月九日より八月一一十三日までゾラの「獣人ーを翻案 、やら 荷風・柳浪合作名義で掲載し、「タせみ」を「伽羅文庫」第一号に、 した「恋と刃」を「大阪毎日新聞」に連載。九月、「女優ナゝ」 ( 翻 同じく荷風・柳浪の合作名義で発表。この年の初冬、清国人羅臥雲訳・評論 ) を新声社より刊行。父の勧めによって渡米することにな いわやさざなみえっ しなの ( 蘇山人 ) の紹介で巌谷小波に謁し、木曜会会員になる。十一一月、外り、同月一一十一一日、信濃丸にて横浜を出帆。十月、タコマに着く。 国語学校を第一一学年在学中のまま除籍される。 十一月、「恋と刃」を新声社より刊行。タコマでは、父の知友古屋 明治三十三年 ( 一九〇〇 ) 一一十一歳商会タコマ支店の山本一郎方に寄寓。 エンコイ 一月、「烟鬼」を「新小説 . 番外当選作 ( 点 ) としてのせ、「濁り 明治三十七年 ( 一九〇四 ) 一一十五歳 そめ」を「よしあし草ーに、「うら庭」を「文芸新聞 , 第三号に発芸術上の革命が、内部に起きつつあるように感じ、ゴオチェのよう キャビン 表。一一月、父久一郎日本郵船株式会社横浜支店長に転任。六月、榎な新形式の伝奇小説を書きたいと思うようになった。四月、「船室 かぶー おうち ンヤトル 本虎彦の手引きで、歌舞伎座立作者福地桜痴の門下となり、同座の夜話」 ( 後「船房夜話」 ) を「文芸倶楽部」に、五月、「舎路港の一 ひょうしー 作者見習として、拍子木を入れることから始める。同月、「おぼろ夜」を「文芸供楽部」に発表。十月、タコマを去り、十一月、ミシ 夜」を「よしあし草【に、「をさめ髪」を「文芸倶楽部」に発表。ガン州カラマズに移り、カラマズ・カレッジに聴講生として入学、 九月、「花ちる夜」を「関西文学」に発表。 英文学・フランス語を学ぶ。 明治三十四年 ( 一九〇一 ) 一一十一一歳 明治三十八年 ( 一九〇五 ) 一一十六歳 やまと 三月、「小夜千鳥」を「文芸倶楽部」に発表。四月、日出国新聞に六月十五日、カラマズを去って、三十日、ニューヨークに入る。七 入社、雑報欄の助手をつとめ、同月十九日から翌年五月一一十四日ま月、アメリカの生活が詩情を喜ばせる点に欠けているのを嘆じて、 で小説「新梅ごよみ」を同紙上に掲載したが、不評のため第三十一一一フランスに行き、その文学を研究しようと決心する。これよりさ 回 ( 三四日間 ) で中絶。九月、人員整理の名目で日出国新聞社を解き、六月、「岡の上 . を「文芸倶楽部」に、「酔美人」を「太陽」に ぎようせ 譜雇され、暁星学校の夜学に入りフランス語を学び始める。 発表。八月、父の渡仏反対の報に接し、絶望的な心情に沈む。九 明治三十五年 ( 一九〇一 l) 一一十三歳月、ポトマック公園でイデス (Edyth Girard) を知り、以後急速 そうしょ たんでー 年四月、「野心」を新青年小説叢書として美育社から刊行。ゾライズムに交情が深まり、耽溺生活に入る。十月末、公使館を解雇され、十 の影響が見られる。六月、「闇の叫び」を「新小説 , に発表。九月、一月、カラマズに帰る。十一一月、父の配慮で正金銀行ニューヨーク 父、大久保余丁町七九番地に移り、来青閣と命名。金港堂の長篇小支店に入社。 説募集に応じて選外になっていた作品「地獄の花」が金港堂より刊 明治三十九年 ( 一九〇六 ) 一一十七歳 あきねばう に 0