東京市 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集
453件見つかりました。

1. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

四月、黒田小学校尋常科第四学年卒業、七月、小石川竹早町東京府 尋常師範学校附属小学校高等科に進学 ( 翌年十一月まで在学か ) 。 十一歳 明治ニ十三年 ( 一八九〇 ) 十一一月以後神田錦町東京英語学校に通学。 十一一歳 明治ニ十四年 ( 一八九一 ) 六月、父が文部省会計局長に任ぜられる。九月、神田一ッ橋の高等 明治十ニ年 ( 一八七九 ) 師範学校附属学校尋常中学科 ( 六年制 ) 第一一学年に編入学。 十四歳 十一一月三日、東京市小石川金富町四五番地 ( 現文京区春日一一丁目 ) 、 明治ニ十六年 ( 一八九一一 l) そう、ち かふう こうじまち 永井久一郎、↑の長男として生れる。名は壮吉、号は荷風、別に断十一月、麹町区飯田町三丁目黐の木坂下に移る。 ちょうていせーなん、んさんじんはいか かデん 十五歳 腸亭、石南、金阜山人、敗荷等がある。父久一郎は禾原、来青の号明治ニ十七年 ( 一八九四 ) わしづきどう をもち、尾張藩士永井匡威の長男。鷲津毅堂に学び、大学南校貢進十月、麹町区一番町四一一番地に移る。病気治療 ( ルイレキか ) のた 生となり、後、渡米してプリンストン大学に学ぶ。文部省に勤めてめ下谷の帝国大学第一一病院へ入院。 十六歳 大臣官房会計課長に進み、退官して日本郵船株式会社に入り、上海明治ニ十八年 ( 一八九五 ) がしト - よノ かか や横浜の支店長を歴任。漢詩人として名声があり、「来青閣集」十正月から流感に罹り、三月末まで臥床し、第四学年再履習となる。 巻がある。母恆は儒者鷲津毅堂の次女、久一郎に嫁して三男一女を四月から七月まで小田原十字町足柄病院に転地療養。 十七歳 あげた。次男貞一一郎 ( 鷲津氏に入る ) 、三男威三郎。一女は夭折し 明治ニ十九年 ( 一八九六 ) 荒木竹翁について尺八を習い、岩渓裳川について漢詩作法を学ぶ。 四歳 十八歳 明治十六年 ( 一八八 = l) 明治三十年 ( 一八九七 ) 一一月五日、弟貞一一郎生れる。その際、荷風は下谷竹町四番地、鷲津一一月、吉原に遊ぶ。三月、中学校 ( 第五学年 ) 卒業。父は退官して、 四月、日本郵船株式会社に入社、上海支店長となる。七月、第一高 家に預けられ、祖母美代に溺愛される。 明治十七年 ( 一八八四 ) 五歳等学校の入試に失敗。九月、一時帰国した父にともなわれ、母や弟 鷲津家からお茶の水師範学校附属幼稚園に行く。五月、父が視察のらと共に上海に旅行。十一月末、帰京し、高等商業学校附属外国語 ため渡欧。 学校清語科に臨時入学。 明治十九年 ( 一八八六 ) 七歳 明治三十一年 ( 一八九八 ) 十九歳 6 ろつりゅうろう 小石川の実家に帰り、この年 ( 一月か ) 小石川服部坂の黒田小学校九月、「簾の月ーという作品を携えて広津柳浪を訪ね、その門に入 る。 初等科 ( 尋常科 ) に入学。 二十歳 明治三十ニ年 ( 一八九九 ) 十歳 明治ニ十ニ年 ( 一八八九 ) で、あい ようせつ シャンハイ だん しん

2. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

ばんさてい まえそうよう り出される。今より五年前帚葉翁と西銀座万茶亭に夜をふと、内心それを期待していたが、何事も無く音頭の踊は一 週間の公開を終った。 3 かし馴れた頃、秋も既に彼岸を過ぎていたかも知れない。 そうよう 「どうも、意外な事だね。」とわたくしは帚葉翁を顧て言 給仕人から今しがた花電車が銀座を通ったことを聞いた。 うすひげはや その そして、其夜の花電車は東京府下の町々が市内に編入せらった。翁は薄鬚を生した口元に笑を含ませ、 れたことを祝うためであった事をも見て来た人から聞き伝「音頭とダンスとはちがうからでしよう。」 これ 「しかし男と女とが大勢一緒になって踊るのだから、同じ えたのであった。是より先、まだ残暑のさり切らぬころ、 ぶとう ひびや 日比谷の公園に東京音頭と称する公開の舞蹈会が挙行せら事じゃないですか。」 れたことをも、わたくしは矢張見て来た人から聞いたこと「それは同じだが、音頭の方は男も女も洋服を着ていない。 ゆかた 浴衣をきているからいいのでしよう。肉体を露出しないか があった。 東京音頭は郡部の地が市内に合併し、東京市が広くなつらいいのでしよう。」 たのを祝するために行われたように言われていたが、内情「そうかね。しかし肉体を露出する事から見れば、浴衣の そろ は日比谷の角にある百貨店の広告に過ぎず、其店で揃いの方があぶないじゃないですか。女の洋装は胸の方が露出さ 浴衣を買わなければ入場の切符を手に入れることができなれているが腰から下は大丈夫だ。浴衣は之とは反対なもの とかく いとの事であった。それは兎に角、東京市内の公園で若いですぜ。」 りくっ 「いや、先生のように、そう理窟詰めにされてはどうにも 男女の舞蹈をなすことは、これまで一たびも許可せられた 前例がない。地方農村の盆踊さえたしか明治の末頃には県ならない。震災の時分、夜警団の男が洋装の女の通りかか しやく 知事の命令で禁止せられた事もあった。東京では江戸のむるのを尋問した。其時何か癪にさわる事を言ったと云うの かし山の手の屋敷町に限って、田舎から出て来た奉公人がで、女の洋服を剥ぎ取って、身体検査をしたとか、しない とか大騒ぎな事があったです。夜警団の男も洋服を着てい 盆踊をする事を許されていたが、町民一般は氏神の祭礼に た。それで女の洋装するのが癪にさわると云うんだから理 狂奔するばかりで盆に踊る習慣はなかったのである。 しんさいぜん わたくしは震災前、毎夜帝国ホテルに舞蹈の行われた時、窟にはならない。」 愛国の志士が日本刀を振って場内に乱入した為、其後舞蹈「そういえば女の洋服は震災時分にはまだ珍らしい方だっ の催しは中止となった事を聞いていたので、日比谷公園に たね。今では、こうして往来を見ていると、通る女の半分 まえ 公開せられた東京音頭の会場にも何か騒ぎが起りはせぬかは洋服になったね。カフェー、タイガーの女給も一一三年前 ふる やはり ため その

3. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

てりそ じらいれ いちょう の光の麗しく照添うさまを見たならば、東京の都市は模倣事来歴を有せざる銀杏の大木を探り歩いたならまだなかな かずおお おう・りい こいしかわすいどうばた の西洋造と電線と銅像との為めにいかほど醜くされても、 か数多いことであろう。小石川水道端なる往来の真中に立 まった だいろくてんほこらそば きたな ゃなぎわらどおり まだまだ全く捨てたものでもない。東京にはどこと云ってっている第六天の祠の側、また柳原通の汚い古着屋の屋 やはり おもむき 、ちょう かんだおがわまちとおり 口には云えぬが、矢張何となく東京らしい固有な趣があ根の上にも大きな銀杏が立っている。神田小川町の通にも ひとつばし いらようたばこ るような気がするであろう。 私が一橋の中学校へ通う頃には大きな銀杏が煙草屋の屋根 こんにち つらぬ そび こうじまらばんらようへんうしごめ もし今日の東京に果して都会美なるものが有り得るとすを貫いて電信柱よりも高く聳えていた。麹町の番町辺牛込 おかちまちへん れば、私は其の第一の要素をば樹木と水流に俟つものと断御徒町辺を通れば昔は旗本の屋敷らしい邸内の其処此処に いちょう 言する。山の手を蔽う老樹と〕下町を流れる河とは東京市銀杏の大樹の立っているのを見る。 もっと ころ・よう いらよう ふんべきしゆらん なが の有する最も尊い宝である。巴里の巴里たる体裁は寺院宮銀杏は黄葉の頃神社仏閣の粉壁朱瀾と相対して眺むる時、 あさくさかんのんどう いちょう もっと きんすいな 殿劇場等の建築があれば縦え樹と水なくとも足りるであろ最も日本らしい山水を作す。ここにて浅草観音堂の銀杏 しか うつぜん けだ こうそんじゅちゅうかん う。然るにわが東京に於てはもし鬱然たる樹木なくんばかは蓋し東都の公孫樹中の冠たるものとわねばならぬ。明 しばさんないれいびよう ようじみせやなぎや の壮麗なる芝山内の霊廟とても完全に其の美と其の威儀と和のむかし、この樹下に楊枝店柳屋あり。その美女お藤の すずきはるのぶいっぴっさいぶんらようらにしきえ を保つ事は出米まい 姿は今に鈴木春信一筆斎文調等の錦絵に残されてある。 庭を作るに樹と水の必要なるは云うまでもない。都会の また ゅ さ、わい あ いらよう 美観を作るにも亦この二つを除くわけには行かない。幸 銀杏に比すれば松は更によく神社仏閣と調和して、飽く おびただ いまなおしばた にも東京の地には昔から夥しく樹木があった。今尚芝田まで日本らしくまた支那らしい風景をつくる。江戸の武士 むらちょう いちょうごと にゆうじく ときわぎ 村町に残っている公孫樹の如く徳川氏入国以前からの古木はその邸宅に花ある木を植えず、常磐木の中にても殊に松 ーもと こいしかわひさかたまち たっと ゆえ なお だと「ム伝えられているものも少くはない。ト ′石川久堅町なを尊び愛した故に、元武家の屋敷のあった処には今も猶緑 こうえんじ おおいらよう あざぶぜんくじ しんらんしようにんてうえ る光円寺の大銀杏、また麻布善福寺にある親鸞上人手植のの色かえぬ松の姿にそぞろ昔を思わせる処が少くない。市 ごと ひろしげ・ いらよう ほりばたこうりまったかたおいまっちょうつるかめまっ 銀杏と称せられるものの如き、いずれも数百年の老樹であヶ谷の堀端に高カ松、高田老松町に鶴亀松がある。広重の あさくさかんのんどう いらよう とじんし あまね えどみやげ る。浅草観音堂のほとりにも名高い銀杏の樹は二株もある。絵本江戸土産によって、江戸の都人士が遍く名高い松とし おおいらよう あやう、 なが おなぎがわ はつけいさか 小石川植物園内の大銀杏は維新後危く伐り倒されようとして眺め賞したるものを挙ぐれば小名木川の五本、松八景坂 ため てらじまむられんげじすえひろまつあおやまりゅう かえっ よろいかけまつあざぶ た斧の跡が残って居る為に今では却て老樹を愛重する人のの鎧掛松、麻布の一本松、寺島村蓮華寺の末広松、青山龍 ところ がんじ かさまっかめいどムもんいんおこしかけまつやなぎしまみようけんどう 多く知る処となっている。東京市中には若しそれほどの故巌寺の笠松、亀井戸普門院の御腰掛松、柳島妙見堂の松、 おの そ おお たと、 あいちょう ま ていさ、 ムたかぶ こ

4. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

ひょけち けだか 嫖とそれを蔽う樹木とは殊に気高く望まれる。私は火避地 あ、ら ねこやなぎ の稍御所の方に近く猫柳が四五本乱れ生じているあたりに、現在私の知っている東京の閑地は大抵以上のようなもの いらやかんごくしょあと ある みずおときっ 或年の夏の夕暮雨のような水音を聞付け、毒虫をも恐れずである。わが住む家の門外にも此の両三年市ヶ谷監獄署後 あと あきら あゆみよ 草を踏み分けながら共の方へ歩寄った時、柳のには山のの閑地がひろがっていたが、今年の春頃から死刑台の跡に にちにち げいしやや かんのん 手の高台には思いも掛けない蘆の茂りがタ風にそよいでい観音ができあたりは日々町になって行く、遠からず芸者家 うわさ くまみ おおかた て、井戸のように深くなった凹味の底へと、大方御所からが許可されるとかいう噂さえある。 あら しばうらうめたてら もっか ながれ 芝浦の埋立地も目下家屋の建たないは同じく閑地とし 落ちて来るらしい水の流が大きな堰にせかれて滝をなして あきち ほたる て見るべきものであろう。現在東京市内の閑地の中でこれ いるのを見た。夜になったらきっと螢が飛ぶにちがいない。 ゅうべ ちょうぼう たそがれ ゅうづ、 ゅうべ 私は此のタばかり夏の黄昏の長くつづく上にもタ月の光あほど広々とした眺望をなす処は他にあるまい。夏のタ、海 あきら 、びす の上に月の昇る頃はひろびろした閑地の雑草は一望煙の如 る事を憾みながら、もと来た鮫ケの方へと踵を返した。 さめはし くついらじよよぎ 鮫ケ橋の貧民窟は一時代々木の原に万国博覧会が開かれくかすみ渡って、彼方此方に通ずる堀割から荷船の帆柱が あかっ、よっやよよぎ るとかいう話のあった頃、若しそうなった暁四谷代々木見える景色なそまんざら捨てたものではない。 みおろ きたな かん 間の電車の窓から西洋人がこの汚い貧民窟を見下しでもす東京市の土木工事は手をかえ品をかえ、孜々として東京 きそん これとりはら ちじよく ると国家の耻辱になるから東京市は之を取払ってしまうと市の風景を毀損する事に勉めているが、幸にも雑草なる あ、ら みどりやわらかもうせん か、りげ , い うわさ しか やらいう噂があった。然し万国博覧会も例の日本人の空景ものあって焼野の如く木一本もない閑地にも緑柔き毛氈 われら たまぬいとり さめはしこんにら 気で金がない処からおじゃんになり、従って鮫ケ橋も今日を延べ、月の光あってその上に露の珠の刺繍をする。吾等 こうじん はっこう 、ゆう さいねんじ なお 猶取払われず、西念寺の急な坂下に依然としてちょろの薄倖の詩人は田園にてよりも黄塵の都市に於いて更に深 く「自然」の恵みに感謝せねばならぬ。 ・フリキ屋根を並べている。貧民窟は元より都会の美観を増 すものではない。然し万国博覧会を見物に来る西洋人に見 それほど 下 られたからとて何も其程に気まりを悪るがるには及ぶまい。 第九崖 とうろ 和 当路の役人ほど馬鹿な事を考える人間はない。東京なる都 日 むらさ、ひと そのもっと たいめん 市の体裁、日本なる国家の体面に関するものを挙げたなら数ある江戸名所案内記中其最も古い方に属する紫の一 とり・まら もと * えどそうがのこたいぜん とりのけ 貧民窟の取払いよりもず市中諸処に立 0 銅像の取除を急本や江戸惣鹿子大全なそを見ると、坂、山、窪、堀、池、 橋なそいう分類の下に江戸の地理古蹟名所の説明をしてい ぐが至当であろう。 やや おお しか め し せき わ したが かなたこなた っと た きいわい ごと

5. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

現代日本の文学 Ⅱー 2 全 10 巻 永井荷風集 昭和 51 年 1 月 1 日初版発行 昭和 57 年 3 月 10 日 6 版発行 著者 発行者 発行所 永井荷風 古岡滉 学習研究社 東京都大田区上池台 4 ー 40 ー 5 郵便番号 145 振替東京 8 ー 142930 電話東京 ( 720 ) 1111 ( 大代表 ) 印刷株式会社恒陽社印刷所 株式会社美術版画社 中央精版印刷株式会社 製本中央精版印刷株式会社 本文用紙三菱製紙株式会社 表紙クロス東洋クロス株式会社 製函永井紙器印刷株式会社 * この本に関するお問合せやミスなどがありましたら , 文書は , 東京都大田区上池台 4 丁目 40 番 5 号 ( 〒 145 ) 学研お客さま相談センター現代日本の文学係へ , 電話は , 東京 ( 03 ) 720 ー 1111 へお願いします。 ◎ 1976 Hisamitsu Nagai 本書内容の無 printed in Japan 断複写を禁ず 164 672 ー 1002 ISBN4 ー 05 ー 050626 ー 2

6. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

くわだ 何物かを創作せんと企てた」と記していることからも 知られよう。セーヌ川をなくしたらパリの美しさかあ すみだがわ ~ 局 りえないように、隅田川は江戸と東京の風物の変らぬ 中心であった。フランスから帰国した荷風が見たもの むらだ 、ちぐう ニ = ロ は、「いそがしき世は製造所の煙筒叢立っ都市の一隅に はととぎす あし 当って嘗ては時鳥鳴き蘆の葉ささやき白魚閃き桜花雪 と散りたる美しき流のあった事も忘れ果ててしまう」 年荷嘆すべき現状だったのである。工場公害による都市の 風致破壊は何も昨今にかぎったことではない。それへ 昭当の愛惜が荷風をして『 すみだ川』の筆をとらしめた根 本的な動機であった。 ひょワげた 荷風が洋服に日和下駄をはき、蝙傘を持「て、東 日和下駄は、今 英京市中を歩きまわりながら書いた『 下日でもなお魅力を失わない好箇の随筆である。東京の と町に愛着を持つ人々には必読の書物であろう。「ル頃私 佐が日和下駄をカラカラ鳴して再び市中の散歩を試み初 風めたのは無論江戸軽文学の感化である事を拒まない 然し私の趣味の中には自らまた近世ジレッタンチズム の影響も混っていよう」とみすから語るように、荷風 ん , 不 は江戸文学とフランス文学にわれた作家の眼光をも って東京の市街を見ている。都市空間のあれこれの断 面を探りながら、そこにいわば累層された過去の時間 あきち 一汁の厚みを見ているのである。く、水。日く、閑地。 かっ 0 らめ

7. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

すこぶる つり ムかがわ い柳島に遊び深川に戯れたような風流を許さず、また釣やしたる水とを有する頗変化に富んだ都会である。まず品 なお いりうみなが こんにらすみだがわ・ハリー 川の入海を眺めんにここは目下猶築港の大工事中であれば、 幻網の娯楽をも与えなくなった。今日の隅田川は巴里に於け 、た ごと るセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育将来姆なる光景を呈し来るや今より予想する事はできな わずか われわれ こんにち ふこく 戸ンドン 。今日まで吾々が年久しく見馴れて来た品川の海は僅に のホドソン、倫敦のテエムスに対するが如く偉大なる富国 * だるませんひうじか まうしゅうがよい しな の壮観をも想像させない。東京市の河流は其の江湾なる品房州通の蒸汽船と円ッこい達磨船を曳動す曳船の往来す うつく がわいりうみ 川の入海と共に、さして美しくもなく大きくもなく又さほる外、東京なる大都会の繁栄とは直接にさしたる関係もな でいど しお どろうみ どっち どに繁華でもなく、誠に何方つかずの極めてつまらない景い泥海である。潮の引く時泥土は目のとどく限り引続いて、 げたすみだわら 色をなすに過ぎない。しかし其れにも傔ず東京市中の散岸近くには古下駄に炭依、さては皿小鉢や椀のかけらに船 ぬまら きたなどぶ やはり こんにらなお 歩に於て、今日猶比較的興味あるものは矢張水流れ船動き虫のうようよと邁寄るばかり。この汚い溝のような沼地を ごか ておけ おりおりごかい ところ 掘返しながら折々は沙蚕取りが手桶を下げて沙蚕を取って 橋かかる処の景色である。 かなたこなたみおそだ これ いる事がある。遠くの沖には彼方此方に澪や粗朶が突立っ 東京の水を論ずるに当ってまず此を区別して見るに、第 あいだ ちりあくた なかがわろくごうがわごと 一は品川の海湾、第二は隅田川中川六郷川の如き天然の河ているが、これさえ岸より眺むれば塵芥かと思われ、その間 ただし ついか、 うかか、ぶねのりとりこぶね おとなしがわ おうじ かんだ に泛ぶ牡蠣船や苔取の小舟も今は唯強いて江戸の昔を追回 流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川 め 、ようばししたやあさくさとう ほんじよふかがわ さいり・ゅう の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁しようとする人の眼にのみの風趣を覚えさせるばかり さくらがわねづ 華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川、根津の藍である。かく現代の首府に対しては実用にも装飾にも何に 染川、麻布の古川、下谷の忍川の如き其の名のみ美しき溝もならぬ此の無用なる品川湾の眺望は、彼の八ッ山の沖に なら 渠、もしくは下、第六は江戸城を取巻く重の濠、第七並んで泛ぶ此も無用なる御台場と相俟 0 て、いかにも過去 しのばずのいけつのはずじゅうにそう った時代の遺物らしく放棄された悲しい趣を示している。 は不忍池、角筈十一一社の如き池である。井戸は江戸時代に しらま ら′、ル、も あわかずささん ゅしまてんじん あっては三宅坂の桜ケ、清水谷の柳の、湯島の天神天気のよい時白や浮雲と共に望み得られる安房上総の山 の御福の華の如き、古来江戸名所の中に数えられたものがとても、最早や今印の都会人にはの花胖戸助六が台詞 、ら・カし 多かったが、東京になってからは全く世人に忘れられ所在にも読込まれているような爽快な心持を起させはしない。 いんめつ 品川湾の眺望に対する興味は時勢と共に全く湮減してしま の地さえ大抵は不明となった。 かわ かかわ た みぞ 東京市は此の如く海と河と堀と溝と、仔に観察し来れったに係らず、其の代りとして興るべき新しい風景に対す こんにらおい いまなりた よど それら すなわ 即ち流れ動く水と淀んで動かぬ死る興味は今日に於ては未だ成立たずにいるのである。 ば其等幾種類の水 つった

8. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

もとやなぎばしみずぎわ おおかわばた ところ あいだこ 遠と題して、遠く樹木の間に此の兵営の正面を望んだ処替えられてしまった。大川端なる元柳橋は水際に立っ柳と もろとも * ひやつばんぐい あらたこうじよう が描かれている。当時都下の平民が新に皇城の門外に建て諸共全く跡方なく取り払われ、百本杭はつまらない域に こんにち あらた られたこの洋造を仰ぎ見て、いかなる新奇の念とまた崇改められた。今日東京市中に於て小林翁の東京名所絵と参 拝の情に打れたか。それ等の感情は新しい画工の云わば稚照してに其の当時の光景を保つものを求めたならば、虎 、ゆうこうがくりようれんがづくり あいま もくはんずり 気を帯びた新画風と古めかしい木板摺の技術と相俟 0 て遺のに残 0 ている旧工学寮の煉瓦造、九段坂上の燈明台、 ときわばし 憾なく紙面に躍如としている。一時代の感情を表現し得た日本銀行前なる常盤橋其の他数箇所に過ぎまい。宦舒の建 さくら・だそと ごと はなは る点にて小林翁の風景版画は甚だ価値ある美術と云わね築物の如きも明治当初のままなるものは、桜田外の参謀本 えどしぎわえてい、よく かんだばしうち 、よさいきのしたもくたろう ばならぬ。既に去歳木下杢太郎氏は芸術第一一号に於て小林部、神田橋内の印刷局、江戸橋際の駅逓局なぞ指折り数え いったんも 翁の風景版画に関する新研究の一端を漏らされたが、氏はるほどであろう。 あきら 進んで翁の経歴をたずね其の芸術について更に詳細なる研閑地のことから又しても話が妙な方面へそれてしまった。 しかあ、ら 然し閑地と古い都会の追想とはさして無関係のものでは 究を試みられるとの事である。 しばあかばね かいぐんぞうへいしよう * ふでやこうべえ ムるかわもくあみ 小林翁の東京風景画は古河黙阿弥の世話狂言筆屋幸兵衛ない。芝赤羽根の海軍造兵廠の跡は現在何万坪という広い ありまこうや あきち うかが 明石島蔵などと並んで、明治初年の東京を窺い知るべき無閑地になっている。これは誰も知っている通り有馬侯の屋 もと か、がららよう すいてんぐう しきあと くだ 上の資料である。維新の当時より下って憲法発布に至らん舗跡で、現在蠣殻町にある水天宮は元この邸内にあったの うちあかばね いちりゅうさいひろしデ こんにらごじん とする明治一一十年頃までの時代は、今日の吾人よりして之である。一立斎広重 0 東都名勝の中赤羽根の図を見ると柳 あかばねがわっつみ きび おいしげ にんじよう を回顧すれば東京の市街と其風景の変化、風俗人情流行のの生茂った淋しい赤羽根川の堤に沿うて大名屋敷の長屋が 推稷等あらゆる方面に渉 0 て甚だ興味あるものである。さ遠くいている。其の屋根の上から水天宮〈寄進のが さまえが ひらめ しばしば いくすじ ひょりげた れば滑稽なるわが日和下駄の散歩は江戸の遺跡と合せて屡幾筋となく閃いている様が描かれている。此の図中に見る しゅぬりごしゆでんもん なまこかべ っと この明治初年の東京を尋ねる事に勉めている。然し小林翁海鼠壁の長屋と朱塗の御守殿門とは去年の春頃までは半ば お、もかげ・とど なお わず あたら はんものえが の版物に描かれた新しい当時の東京も、僅か二三十年とは崩れかかったままながら猶当時の面影を留めていたが、本 れんがづくり 経たぬ中、更に更に新しい第一一の東京なるものの発達する年になって内部に立つ造兵廠の煉瓦造が取払われると共に、 あとかた ぜんじあとかた に従って、漸次跡方もなく消減して行きつつある。明治六今は跡方もなくなってしまった。 * くめ かめがねばし せぎい もっ すじかいみつけ その時分ーーー・・、今年の五月頃の事である。友人久米君か 年筋違見附を取壊して其の石材を以て造った彼の眼鏡橋は ねこそうどうふるづか ありま それと同じような形の浅草と共に、今日は皆鉄橋に架けら突然有馬の屋敷跡には名高い猫騒動の古塚が今だに残っ しか これ

9. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

んとて停車場に行きしが従業員出勤せず。汽車の運転ほと死のうちに一生を得たりしなり。薄暮後丘に怪鳥の鳴くを ムくろう んど中止の状況なりと語れり。 聞く。梟に似て梟にあらず。何の鳥なるを知らず。 、じゅく 荷風 旅に出てきく鳥やみな閑古鳥 八月十八日。食料いよいよ欠乏するがごとし。朝稀粥を かゆ うえしの すす 駸り昼とタとには粥に野菜を煮込み飢を凌ぐ。ただ空襲警八月一一十一日。陰。後に晴。涼風あり。重ねて郵書を法 報をきかざることをもって無上の至福となすのみ。夕飯の隆寺村なる島中氏に寄す。漂泊の身もしかの地に至ること やっかい のち月よければ三門神社の山に登る。涼風水のごとし。帰もありなばその人の厄介にならん下心あればなり。予も今 おうなあ 込ゅうりしおづけもら 途大熊氏の媼に逢い胡瓜の塩漬を貰う。 は心しきものになり果てたり。正午用事ありて焼け跡の かくかく 八月十九日。日曜日。陰。後に晴。重ねて東京の大賀氏町に行く。残暑の日光焦土に赫々たるのみにて通行人数う に書を寄す。また木戸氏の安否を問う。 一別以後杳としてるばかりなり。手荷物さげたる女多く軍人兵卒また職工の ぐうきょ まれ 音信なければなり。午後寓居の後園より林間の小径を攀じ姿を見ること稀になりぬ。休戦後わずかに数日にして世態 ぶどう 妙林寺の墓地に入り読書また午睡す。けだし流浪中の一快の変すでにかくのごとし。焼け跡の町の角々に黒葡萄を売 こうこう 事たり。深夜明月皎々。 る露店あり。路上またるところ葡萄の皮の捨てられしを 八月一一十日。晴。休戦となりたれば昨日東帰の意を五叟見る。これ兵営工場の開放せられしがためなり。製薬に葡 ーもと 子の許に書き送りしが、今朝の新聞に国内治安の維持確保萄の果実を用いることなくなりしがためなりと語る人あり。 せらるるの日まで庶民入京禁止の由見えたるをもって、重災前電車の乗換場なりし山下町の角に飲食店出来、コーヒ ねて帰京延期のことを報ず。午前庭瀬なる果樹園の主人平ー五銭の貼札を掲げたり。これまた休戦後初めて見るとこ おうな ぐうきょ ろなり。汗まみれになりて寓居に帰るに三門町大熊氏の媼 松氏来り話す。 ひとかご よはひ お、な 桃つくる翁めでたぎ齢かな 荷風 葡萄一籃を持ち来れり。一貫目七円なりと云う。露店商人 まる れ、ろく きんこう の一句を贈る。午後突然轣轆たる車声の近巷に起るをきく。の路傍にて売るものに比すれば品質遙かに優れり。この夜 どうくっ 怪しみて人に問うに妙林寺の後丘松林深きところに洞窟あ月まどかなり。思うに旧七月の幾望なるべし。来月は早く んとく ちゅうしゅう り。飛行機材料を匿せしが、武装解除となりしため、日 も中秋なり。漂泊の身今年はいずこの里、いずこの町に 日これを岡山駅停車場に運搬するなり。今日早朝より貨物至りて良夜の月を見るならん。東京を去りてよりいっか九 ひんばん 自動車の往復にわかに頻繁を極むと。これによって初めて十日に近し。 せいたん しげつし ゆえん 八月一一十二日。晴。清潭氏来書。梓月子に就いて句を学 七月中旬機銃掃射の近巷に行われし所以を知れり。予は万 し ごそう はん はりふだ かんこどり

10. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

夜はまた山間に散在する燈影、劇場の背景に似たり。熱海 町中にても見受くるように相成り申し候 : : : 露は尾花 仙の勝景は予の初めて観るところなれど、何のゆえにや岡山 と寝たというなどと節までつけて唄っていた昔の人は 市郊外の田園におけるがごとく、その印象優美ならず。す やつばり苦労人に御座候停戦に由り軍国官僚の退散は なわち予が詩興を動かすべき力に乏しきがごとし。ことに 実に積年の暗雲を一掃して秋晴れの空を仰ぐがごとく 家屋道路海辺の埋立地のごときむしろ目にすることを欲せ 近来の一大快事に御座候 : : : 老生もこれから先の進む こうり ざるところなきにあらず。行李を解きてよりすでに数日を べき道も五里霧中ぐずぐずと毎日を退屈しながら形勢 まか 観望罷りあり候 経たれど、一一一度郵書を投ずるがため杖を門外に曳きしの み。終日一室に羸臥し読書に空腹の苦しみを忘れんことを九月十日。くもりて蒸暑し。隣家の人昨日東京まで用事 あたみ きばあじ 願うのみ。この地の食料折々鯖鰺などの配給なきにあらねあり。最終の列車にて熱海に帰らんとする途中、藤沢の駅 ばれいしよかばらや びよう ど、馬鈴薯南瓜のごとき腹のはる野菜少し。これを薇陽総にて米軍の一隊四五十人ばかり乗車せんとするに会う。客 ぎっとう 社の旅宿に比すればその量半ばに及ばず。将来の健康を思車雑沓して乗るべからず。 ( 中略 ) 乗客はその列車すでに や ゅううつ 、朝夕秋風の冷なるを知るにつけ心情憂鬱ならざるを得最終のものなれば已むことを得ず一夜を駅の構内に明かし ず。 今朝未明の汽車を待ってわずかに帰るを得たりと言えり。 九月初七。午後古田中村の二氏東京より来り話す。このこれまたかって満州において常に日本人のその国人に対し てなせしところ。因果応報と云うべき歟。この日岡山より 日晴、後に雨。 九月初八。陰晴定らず。残暑なお盛んなり。 転送の郵書数通を得たり。 ぐうしゃ 九月初九。日曜日。昨夜深史より東南の風烈しく暑気た九月十一日。半陰半晴。海暗く山上常に雲あり。寓舎の ちまち夏のごとし。隣人の語るを聞くに、、 田原御殿場の書庫に博文館版帝国文庫本多くあり。大岡政談を取って読 しゅうう 辺に米国進駐軍の一隊あり。東京市中米兵の三々伍々散歩む。夜半驟雨しばしば来る。 ひる するを見ると。今朝東京の旧友某子の書を得たり。その一 九月十一一日。雨。午に近くして歇む。人より恵まれし木 めんゆかた 節に、 綿浴衣一枚のほか家の内にて身につくるものなし。昨来雨 もろ そうさ : ・十七日以来御家の大事に九太夫と伴内、さては師とともに新寒窓紗を儺すにつれ憂愁おのずからまた雲のご まわ にがにが 直まで、うようよと騒ぎ廻るさま、ただただ苦々しきとし。哺下木戸氏東京より来り褞袍の古きものあれば近き そうろう 極みに御座候異人も追い追い城下に入り込みチラホラうちに持ち来るべしと言う。この日東条大将その他旧軍閥 なお っえ ばんない ごてんば どてら うた ムじさわ おばな