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検索対象: 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集
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1. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

目一一三八番地に移居。九月、「冬日かげーを「中央公論」に発表。 Ⅷ十月、「東雲」を「太陽」に掲載、十一月、「あづま橋」を中央公論 社から刊行。 昭和三十三年 ( 一九五八 ) 七十九歳 一月、「十年昔の日記」を「中央公論」 ( 以後、昭三三・四、一〇掲 ばんしやく 載 ) に、八月、「晩酌」を「中央公論」に発表。十一月、「永井荷風 日記」 ( 全七巻、昭三四・五完結、東都書房 ) の配本開始。 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 一月、「向島ーを「中央公論ーに発表。四月三十日午前三時ごろ、 かいよう 潰瘍の吐血による心臓発作のため死去。遺体は、朝、手伝い婦によ って発見された。行年、満七十九歳四か月。「断腸亭日乗」の絶筆 は「四月廿九日、祭日。陰 . の一行であった。五月一一日、自宅で葬 ぞうしゃ 儀が行なわれ、遺骨は東京都豊島区雑司ヶ谷の永井家の墓所に納め られた。その跡は養子永井永光が相続した。 ( 竹盛天雄編 )

2. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

四十一一歳 発表。この年五月はじめ、旅籠町の住居を引き払って、大久保余丁大正十年 ( 一九一一一 ) 町本邸に帰り、玄関の六畳を断腸亭ど命名、そこに起居する。九一月、「夜網誰白魚」 ( 戯曲 ) を左団次のために執筆 ( 三月、明治座 で上演 ) 。三月、「雨瀟瀟」を「新小説 , に発表し、七月、「三柏葉樹 月、再び浅草旅籠町に住んだが、一か月余りで余丁町に帰った。 大正六年 ( 一九一七 ) = 八歳頭夜嵐」 ( 戯曲集 ) を春陽堂から刊行。 ぎつね 四十三歳 大正十一年 ( 一九一 = l) 一月、「懸想狐」 ( 戯曲、後に「旅姿思掛稲」 ) 、一一月、「初硯」、五月、 こびき 「飛花落葉」 ( 後「草」 ) 等を「文明」に発表。九月、木挽町九丁目一一月、「早春」 ( 戯曲 ) を「明星」に掲載、三月、「秋のわかれ」 ( 戯 に住み、家を無用庵と名づける。十一一月、「腕くらべ」を私家版五曲集 ) を春陽堂より刊行。三、四月、「雪解」、五月、「春雨の夜」を 十部限定として印刷、知友に配る ( 日付は「十一一月排印」、実際は「明星」に掲載、六月より大正十一一年一月までコ一人妻」を「明星」 に連載。七月、「雨瀟瀟」を春陽堂より刊行。九月末から十月初め、 大七・一のこと ) 。この月、籾山庭後と意見の相違が決定的となり、 市川左団次一行とともに京都へ行く。十一一月、「隠居のこごとー ( 後 「文明 . より手を引く。 三十九歳「隠居のこゞと」 ) を「明星」に発表。 ぎつ 大正七年 ( 冖仇一八 ) 四十四歳 一月、「おかめ笹」 ( 一ー九 ) を「中央公論」に発表し、「断腸亭雑大正十ニ年 ( 一九一一三 ) 稾」を籾山書店から刊行。一一月、「腕くらべ」 ( 十里香館刊・新橋堂三月より大正十三年一月まで「耳無草ー ( 後「隠居のこゞと」に統一 される ) を「女性ーに掲載、六月、コ一人妻」を東光閣より刊行。 発売 ) を市販し、三月、「書かでもの記」 ( 後「花月」大七・五、六、 十 ) をコ二田文学」に掲載。五月、井上唖々・久米秀治らと雑誌「花同月、「寐顔」を「女性、に発表。九月一日、関東大震災にあうが、 月」を創刊、同月より十一月まで「おかめ笹」続稿を掲載。七月、偏奇館被害なし。十月、「梅雨晴」を「女性 , に発表。この年、外 らんぎんわしづーどう ばくしょ 「狂歌を論ず」、「夏ごろも、 ( 「夏ごろも」「来青花」「曝書」に分立 ) 史伝の刺激により、大沼枕山、鷲津毅堂らの事跡に興趣を持ち、史 等を「花月ーに発表。十一月「花月ーを廃刊 ( 雑誌は十一一月まで ) 。料探究はじまる。 四十五歳 大正十三年 ( 一九二四 ) 十一一月、余丁町の邸宅を売り、築地一一丁目三十番地に移る。 そ ) 一月、「十日の菊」、一一月より七月まで「下谷のはなし」 ( 後「下谷叢 春陽堂元版「荷風全集」の配本開始 ( 全六巻、大一〇・七完結 ) 。 わいだん 四十歳話」 ) を「女性」に、四、五月、「猥談」 ( 後「桑中喜語」 ) を「苦楽」 大正八年 ( 一九一九 ) 、へん あぎぶぎつ、 十一一月、「花火ーを「改造」に発表。この年、玄文社「新演芸」のに発表。九月、「麻布襍記」を春陽堂より刊行。十一月、「机辺の記」 ( 後「几辺の記」 ) を「女性」に掲載。 芝居合評会の常連として勤勉に出席する。 四十六歳 大正十四年 ( 一九一一五 ) 四十一歳 大正九年 ( 一九一一〇 ) 一月、感冒により三月まで病臥。三月、「江戸芸術論」、四月、「おか一月、「七月九日の記」を「女性」に、一一月、「葷菴漫筆」 ( 後「葷斎 め笹」を春陽堂より刊行。四月、「小説作法ーを「新小説 , に発表。漫筆」 ) を「苦楽」 ( 以後は「女性」の同年四月より十月まで連載。 五月、麻布市兵衛町一丁目六番地に偏奇館を完成、これに移居する。六月、春陽堂重印「荷風全集」 ( 第五巻 ) を配本開始 ( 全六巻、昭 びようが へん、かん ねがお くんあん いん、よ くんさ、

3. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

っしみやげ 始。同月、「葛飾土産其一」を全集付録第一号にのせ、五月、「心づ 昭和ニ十八年 ( 一九五 = l) 七十四歳 くし」を「中央公論 , に発表。十一月、「偏奇館吟草」 ( 詩集 ) を筑一月、「荷風戦後日歴」 ( 以後、昭二八・四、七、一〇 ) 、三月、「漫 摩書房から刊行。十一一月一一十八日、市川市菅野一一一一四番地に家を談」を「中央公論」に発表。五月、丸ビルの中央公論社画廊で永井 買い求めて移った。このころより、日課のごとく浅草がよいを続け荷風個展が催され、十一月、「雑話」を「中央公論」に発表。 る。 昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) 七十五歳 七十歳 一月、日本芸術院会員に選ばれる。一一月、「裸体」を中央公論社から 昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) あづま 一月、「にぎり館 , を「中央公論」に、四月、「停電の夜の出来事」刊行。三月、「吾妻橋」を「中央公論ーに発表。五月、「浅草交響 ( 戯曲 ) を「小説世界」に発表。五月、「雑草園」を中央公論社から曲」 ( シナリオ、昭一三・六作 ) を「サンデー毎日」新緑特別号に発 だんらようていにらじよう 刊行。六月から「断腸亭日乗」を「中央公論ーに連載 ( 昭一一四・六表。六月、「日曜日」を「中央公論」に掲載。十一月、「腕くらべ」 ー一一一昭一一五・四ー五 ) 。七月、「秋の女ーを「婦人公論」に、「春 ( 私家版複刻限定五百部 ) を荷風全集刊行会より刊行。十二月、「荷 はと 情鳩の街」 ( 戯曲 ) を「小説世界」に発表。十月、「人妻」を「中央風ないしょ話」 ( 相磯勝弥との対談 ) を「中央公論 . に掲載。 昭和三十年 ( 一九五五 ) 七十六歳 公論」文芸特集第一号に発表。 昭和ニ十五年 ( 一九五〇 ) 七十一歳 一月、「心がわり」、三月、「たそがれ時」、五月、「うらおもて」を 一月、「買出し」を「中央公論」に、「葛飾土産」 ( 「宮城環景ーを含「中央公論」に発表。七月、「荷風思出草」 ( 対談 ) を毎日新聞社から ままがわ む ) を「中央公論」文芸特集第一一号に、「真間川の記」 ( 後「葛飾土刊行。八月、「捨て児」、十一月、「水のながれ」を「中央公論ーに発 産」に入る ) を「屋望ーに発表。一一月、「葛飾土産」を中央公論社か表。 七十七歳 ら刊行、「裸体 , を「小説世界 , に発表。六月、「渡鳥いっかへる」 昭和三十一年 ( 一九五六 ) を「オール読物ーに発表、「断腸亭日乗ーを「風雪 , に連載 ( 八月一月、「袖子」を「中央公論 , に掲載、「永井荷風集」 ( 「現代日本文 学全集」第十六巻、Üは第六八巻として昭三三・一刊 ) を筑摩書房 まで ) 。七月、「老人」を「オール読物」に発表。 七十一一歳から、「澤東綺譚」 ( 私家版複刻限定五百部 ) を八木書店から刊行。 昭和ニ十六年 ( 一九五一 ) 一月、「永井荷風作品集」 ( 創元社、全九巻、昭一一六・五完結 ) の配三月一一十四日から四月一一十三日まで、「葛飾こよみ」を「毎日新聞」 譜本開始。九月、「荷風の日記」 ( 後「断腸亭日乗」 ) を「中央公論」文夕刊に連載。四月、浅草松屋で毎日新聞社主催の永井荷風展が開か れ、五月、「男ごゝろ」を「中央公論」に発表。六月、「永井荷風選 芸特集第九号に寄稿。 年昭和ニ十七年 ( 一九五一 l) 七十三歳集」 ( 全五巻、昭三一・一〇完結、東都書房 ) の配本開始。八月、「葛 四月、「夢」 ( 昭五・一一一作 ) を「中央公論ー春季文芸特集号に発表。飾こよみ」を毎日新聞社から刊行。 七十八歳 十一月、文化勲章を受ける。十一一月、「異郷の恋」 ( 初版「ふらんす昭和三十ニ年 ( 一九五七 ) 物語」収録 ) を「中央公論」に発表。 一月、「夏の夜」を「中央公論」に発表。三月、市川市八幡町四丁

4. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

ノ 一月、ニューヨーク西区八十九丁目のフランス婦人の家に移り、フ 、ラタンの一夜」 ( 後「おもかげ」 ) を「太陽」に、「悪感」 ンンガポール ランス語会話の練習をする。一一月、「強弱」 ( 後「牧場の道」 ) を「太 ( 後「新嘉坡の数時間」 ) を「秀才文壇」に、「晩餐の後」 ( 後「晩餐」 ) パッサンの扁 陽」に、三月「夏の海 , を「新小説」に発表。九月中旬から十月上を「趣味ーに、「モゥパッサンの旅行日記」 ( 後「モー 旬まで病床にあった ( 腸チフスの疑い ) 。十月、「長髪」を「文芸供舟紀行」 ) を「早稲田文学」に発表。一一月、「深川の唄」を「趣味」 どんてん 楽部」に、「夜半の酒場」を「太陽」に発表。 に、三月、「曇天」を「帝国文学」に「監獄署の裏 , を「早稲田文 明治四十年 ( 一九〇七 ) 一一十八歳学に発表。同月、「ふらんす物語」を博文館より刊行したが、届出と しゆくはい 一月、ふたたびフランス老婦人の一室に移りフランス語にはけん同時に発禁となる。五月、「祝盃 , を「中央公論ーに、「春のおとづ ばたん だ。五月、「雪のやどり」を「文章世界」に、「旧恨ーを「太陽 . に発れーを「新潮」に、七月、「歓楽ーを「新小説」に、「牡丹の客ーを 表。六月、ニューヨーク湾内のスタトン島に過ごし、そこでロザリ 「中央公論」に、八月、「花より雨に」を「秀才文壇ーに発表し、九 ンという中流家庭の娘を知る。「オペラの「ファウスト」」 ( 後「歌月、京都に遊んだ。「歓楽」を易風社から刊行したが発禁処分とな あっせん 劇フォーストを聴くの記」 ) を「新小説 , に発表。父の旋で正金銀る。十月、「帰朝者の日記」 ( 後「新帰朝者日記」 ) を「中央公論 , 行フランスリョン支店に転勤することになり、七月十八日、プルタ にのせ、「荷風集」を易風社から刊行。十一一月、「すみだ川 , を「新 そうせき ンユ号にてフランスへ向った。二月八日、・ハリに着き、三十日、リ 小説」に発表し、夏目漱石の求めにより、「冷笑」を「朝日新聞に ョンに至り、同市の正金銀行支店職員となる。十月、「春と秋」を十三日から翌年一一月一一十八日まで連載 ( 回 ) 。この年、ポードレー いわやさぎなみ 「太陽」に発表。十一月、「あめりか物語」草稿を巌谷小波に送る。 ルらフランス象徴詩派を中心とする訳詩が多い。正月以来、浜町不 明治四十一年 ( 一九〇八 ) 一一十九歳動新道の蔵田よしと馴染んだが、夏、新橋・板新道の新翁家の妓 三月、正金銀行を辞し、・ハリに行く。四月、コンセール・ルージュ松 ( 吉野コウ ) を知る。 リを去り、ロンドン にて、初めて上田敏に会う。五月一一十八日、・ハ 明治四十三年 ( 一九一〇 ) 三十一歳 さぬー に着き、三十日、讃岐丸にて帰国の途に上る。七月十五日、神戸一月、「見果てぬ夢」を「中央公論 , に発表。一一月、慶応義塾大学 お・つ物、い に着いた。八月、「あめりか物語」を博文館より刊行。九月、「ひ文科革新の事にあずかり、森外・上田敏の推薦を受けて文科の教 とり旅」を「中学世界」に、十月、「 ADIEU ( わかれ ) 」 ( 後「巴授となる。五月、「三田文学」を主宰して創刊し、反自然主義陣営の 里のわかれ」 ) を「新潮」に、十一月、「蛇つかい」を「早稲田文有力拠点となった。同誌に随筆「紅茶の後」の連載を始める。「冷 たそがれ 学」に、「黄昏の地中海」を「新潮」に、十一一月、「成功の限み」笑」を左久良書房より刊行。八月、「伝通院ーを「三田文学」に発 ( 後「再会」 ) を「新小説」に発表。この年、柳橋の妓鈴木かつを表。九月、「平維盛」 ( 戯曲 ) を「三田文学」に掲載、同月、市川左 だんじ 知る。 団次らによって明治座で上演される。この年「三田文学」「うハル 明治四十ニ年 ( 一九〇九 ) 三十歳等に訳詩を数多く発表。秋、富松が金持ちによって落籍されて身を ともえややえじ ーっね 一月、「狐」を「中学世界」に、「祭の夜がたり」を「新潮」に、「カ隠したので落胆したが、新橋の芸妓巴家八重次 ( 後の藤蔭静枝 ) と これもり ばんさん すいせん

5. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

ちるやまどのゆうばえ 知り初め、交情が深ま 0 た。十一一月 ( カ ) 慶応義塾に通う途中、大月、「安伊者の死」 ( 後「散柳窓タ栄」 ) を「三田文学」に発表。 さんご げやく 四月、「珊瑚集」を籾山書店から刊行。五、六月、「父の恩」 ( 以下大 逆事件の被告を護送する馬車に出会って、深い衝撃を受ける。 八・八「新小説ー未完 ) 、七月、「浮世絵の山水画と江戸名所」を「三 三十一一歳 明治四十四年 ( 一九一一 ) れいびよう 一月、「秋の別れ」 ( 戯曲 ) 、一一月、「下谷の家」、三月、「霊廟」など田文学」に発表。八月、慶応義塾大阪講演会のため西下し、京都に ほくさいでん うたまろ もみやま を「三田文学ーに発表。「すみた川」を籾山書店から刊行。五月、遊ぶ。九月、「ゴンクウルの歌麿伝並に北斎伝」を「三田文学」に 「ビヱール・ロチイと日本の風景」を「三田文学」に発表。七月、発表。 ばたん 三十五歳 「牡丹の客」 ( 「荷風集」改題 ) を籾山書店から刊行。八月、船で神大正三年 ( 一九一四 ) はるのぶにし、え 戸、門司を経て長崎に随ぶ【同月、「眠られぬ夜の対話」 ( 後「短一月、「浮世絵の鑑賞」を「中央公論」に、「鈴木春信の錦絵」を「三 夜」 ) 、十一月、「谷崎潤「郎氏の作品」を「三田文学」に発表。同田文学」に掲げ、以後江戸芸術の論を次々に発表。三月、「散柳窓タ みつがしわこすえのよあらし さいおんじ、んもら 月、「紅茶の後」を籾山書店から刊行。十七日夕、西園寺公望の主催栄」を籾山書店から刊行し、「三柏葉樹頭夜嵐。 ( 戯曲 ) を「三田文 学」に発表。五月、食あたりのため苦しむ。八月三十日、市川左団 する第六回雨声会に招かれる。 ばいしやく 三十三歳次夫妻の媒妁で巴家八重次こと金子ャイとの結婚披露をした。同月 明治四十五年・大正元年 ( 一九一一 l) びよりげた 一月、「暴君」 ( 戯曲、後「煙」 ) を「中央公論」に、「わくら葉」 ( 戯より「日和下駄ー一名東京散策記」を「三田文学」に連載 ( 大四・ しようたく 曲 ) を「三田文学」に発表。一一月、「妾宅」 ( 一ー四、以下は五月六まで ) 。八重次のことが原因となり、この年から弟威三郎との間 しんせき ざん ! あ が気まずくなり、親戚縁者からもみずから遠ざかる。 「三田文学」 ) を「朱馳」に、「掛取り」を「三田文学ーに発表。三月、 だんな 三十六歳 「若旦那ー ( 後「色男」 ) を「三田文学」に、四月、「風邪ごゝち」を大正四年 ( 一九一五 ) 「中央公論」に、「浅瀬」を「三田文学」に発表。五月、「昼すぎ」を一月、「夏姿」を籾山書店から書き下ろしとして刊行、発禁処分を受 「三田文学」に掲載。六月、「名花」、七月、「松葉巴」、九月、「五月ける。一一月、妻ャイと離婚。五月、京橋区築地一丁目に移居。「荷 しよう 闇 . を「三田文学」に掲載。九月一一十八日、本郷湯島四丁目材木商風傑作鈔」を籾山書店から刊行。九月、宿痾 ( 胃腸病 ) 再発。十月、 斎藤政吉の次女ヨネと結婚。十一月、「新橋夜話」を籾山書店から刊宗十郎町の妓家に隠れ住み、「日和下駄」を籾山書店から刊行。 三十七歳 行。十一一月下旬八重次と箱根に遊び、帰京後も妓家 ( 巴家 ) に暮ら大正五年 ( 一九一六 ) はたご のういつけっ 一月、浅草旅籠町一丁目一三番地米田方に転居。一、一一月、「花瓶」 譜して家に帰らなかった。三十日、父久一郎が脳溢血でたおれたが、 つ、じぐさ 荷風の所在は不明であった。この年、「三田文学ーの編集、内容等にを「三田文学」、「築地草」を「娯楽世界」に発表。一一月限り慶応義 塾大学教授、「三田文学」編集を辞す。四月、籾山庭後、井上唖々 年ついて、慶応義塾当局の非難や干渉が強まる。 三十四歳らと雑誌「文明」を創刊。同月十八日夕、雨声会に出席。同月、 大正ニ年 ( 一九一 lll) やたて 一月一一日、父久一郎が死去。満六十歳。一一月、これを機会に妻ヨネ「けふこのごろ」 ( 後「矢立のちび筆」 ) 、四、五、六月、「矢はずぐ 三、四さ」、八月より大正六年十月まで「腕くらべ」等を次々に「文明ーに と離婚し、巴家八重次を四谷荒木町に囲い外妾とした。一、 しゆくあ もみやまていご

6. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

一一・五完結 ) 。 より刊行。十一一月、関根歌と縁を切る。 五十三歳 昭和七年 ( 一九三一 l) 大正十五年・昭和元年 ( 一九一一六 ) 四十七歳 ことだま ぶんこう 三月、「下谷叢話」、四月、「荷風文稾」を春陽堂から刊行。同月、五月、「正宗谷崎両氏の批評に答ふ」を佐藤春夫編集の「古東多万 はくちょうまさむね 「白鳥正宗氏に答るの書」を「女性」に発表」、七月、「貸間の女 , ( 卍 ) 」に掲載。 五十四歳 ( 続稿、昭二・七 ) を「苦楽 . に発表。この年の夏より銀座タイガー 昭和八年 ( 一九三 = D ふみはご に立ち寄る。 四月、「文反古ー ( 後「申訳」 ) を「中央公論」に発表、「荷風随筆」を 四十八歳中央公論社より刊行。この年から翌年へかけて、私娼黒沢きみを知 昭和ニ年 ( 一九二七 ) なるしまりゅうはく る。 四月、「成嶋柳北の日記につぎて」 ( 後「成嶋柳北の日誌」 ) 、六月、 むこうじま 五十五歳 昭和九年 ( 一九三四 ) 「荷風随筆ー向嶋帝国劇場のオペラ」等に続き、以後次々に「中 央公論ーに随筆を発表。七月、「永井荷風篇」 ( 明治大正文学全集第八月、「ひかげの花」を「中央公論ーに発表。 がに 五十六歳 三一巻 ) を春陽堂から刊行。「荷風随筆ー上野」、「やどり蟹」 ( 後昭和十年 ( 一九三五 ) あめしようしよう 「かし間の女」 ) を「中央公論ーに発表。八月、軽井沢に左団次とと四月、「冬の繩」を偏奇館より自費出版し、九月「雨瀟瀟」を野田書 もに避暑に行く。九月、「永井荷風集」 ( 現代日本文学全集第二一一房から三百部限定で刊行。十一月、「すみた川」を小山書店から刊行。 すずりゅう 五十七歳 昭和十一年 ( 一九三六 ) 巻 ) を改造社より刊行。三番町の妓関根歌 ( 寿々屯 ) を身受けし、 四月、「机辺之記」 ( 影印本五百部限定 ) を青燈社より刊行。六月、 十月、飯倉八幡町に囲う。次弟鷲津貞一一郎死去。満四十四歳。 四十九歳「残春雑記ー鐘の声放水路玉の井 . ( 後「玉の井」は「寺じまの 昭和三年 ( 一九二八 ) 三月、「新選永井荷風集」を改造社より刊行。四月、関根歌に三番町記」 ) として「中央公論」に掲載。この年、五月ごろよりしきりに 十番地にて待合幾代を開業させる。五月、「森陽外・永井荷風・小山瀏東の地に遊ぶ。 五十八歳 昭和十ニ年 ( 一九三七 ) 内薫篇」 ( 日本戯曲全集第四〇巻 ) を春陽堂より刊行。 をいげん 五十歳 一月、「万茶亭のタ ( 其他一一篇 ) 」 ( 後「作後贅言」「町中の月ー「郊 昭和四年 ( 一九一一九 ) ーくとうーだん 外」 ) を「中央公論」に発表し、四月、「東綺譚」 ( 烏有堂、私家版 ) 一一月、「かたおもひ」を「中央公論」に発表。 五十一歳をつくり、十六日より六月十五日まで「澤東綺を「東京 ( 大阪 ) 譜昭和五年 ( 一九三〇 ) 朝日新聞ーに連載 ( 回 ) 。八月、「澤東綺譚」を岩波書店から刊行。 十二月、「夢」を脱稿する ( 昭一一七・四発表 ) 。 年昭和六年 ( 一九三一 ) 五十一一歳九月八日、母が死去。満七十六歳。義絶中の弟威三郎と会うのを あじさい 三月、「紫陽花」 ( 後「あじさゐ」 ) 、五月、「榎物語」を「中央公論」忌避し葬儀に列しなかった。浅草通いが激しくなり、オペラ館など に入って時を過す。 に、八月、「夜の事を「三田文学」に、十月、「つゆのあとさき、 五十九歳 を「中央公論ーに発表し、十一月、「つゆのあとさき」を中央公論社昭和十三年 ( 一九三八 ) ないかおる えのき ししよう

7. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

一月、落語家朝寐坊むらくの門人となり、三遊亭夢之助の名で、夜行され、七十五円を得る。十月、「新任知事」を「文芸界」に発表。 夜席亭に出入りを始める。五月、「三重襷ーを広津柳浪名義で「煙明治三十六年 ( 一九〇一一 l) 一一十四歳 おーノがー 草雑誌」 ( 未見、八月、「大阪商事新聞」第一一九号「森の下露」に掲一月、市村座で初めて森外に紹介される。五月、「夢の女」を新声 くらぶ 載されたものを確認した ) に、十月、「薄衣」を「文芸倶楽部」に社より刊行。同月九日より八月一一十三日までゾラの「獣人ーを翻案 、やら 荷風・柳浪合作名義で掲載し、「タせみ」を「伽羅文庫」第一号に、 した「恋と刃」を「大阪毎日新聞」に連載。九月、「女優ナゝ」 ( 翻 同じく荷風・柳浪の合作名義で発表。この年の初冬、清国人羅臥雲訳・評論 ) を新声社より刊行。父の勧めによって渡米することにな いわやさざなみえっ しなの ( 蘇山人 ) の紹介で巌谷小波に謁し、木曜会会員になる。十一一月、外り、同月一一十一一日、信濃丸にて横浜を出帆。十月、タコマに着く。 国語学校を第一一学年在学中のまま除籍される。 十一月、「恋と刃」を新声社より刊行。タコマでは、父の知友古屋 明治三十三年 ( 一九〇〇 ) 一一十一歳商会タコマ支店の山本一郎方に寄寓。 エンコイ 一月、「烟鬼」を「新小説 . 番外当選作 ( 点 ) としてのせ、「濁り 明治三十七年 ( 一九〇四 ) 一一十五歳 そめ」を「よしあし草ーに、「うら庭」を「文芸新聞 , 第三号に発芸術上の革命が、内部に起きつつあるように感じ、ゴオチェのよう キャビン 表。一一月、父久一郎日本郵船株式会社横浜支店長に転任。六月、榎な新形式の伝奇小説を書きたいと思うようになった。四月、「船室 かぶー おうち ンヤトル 本虎彦の手引きで、歌舞伎座立作者福地桜痴の門下となり、同座の夜話」 ( 後「船房夜話」 ) を「文芸倶楽部」に、五月、「舎路港の一 ひょうしー 作者見習として、拍子木を入れることから始める。同月、「おぼろ夜」を「文芸供楽部」に発表。十月、タコマを去り、十一月、ミシ 夜」を「よしあし草【に、「をさめ髪」を「文芸倶楽部」に発表。ガン州カラマズに移り、カラマズ・カレッジに聴講生として入学、 九月、「花ちる夜」を「関西文学」に発表。 英文学・フランス語を学ぶ。 明治三十四年 ( 一九〇一 ) 一一十一一歳 明治三十八年 ( 一九〇五 ) 一一十六歳 やまと 三月、「小夜千鳥」を「文芸倶楽部」に発表。四月、日出国新聞に六月十五日、カラマズを去って、三十日、ニューヨークに入る。七 入社、雑報欄の助手をつとめ、同月十九日から翌年五月一一十四日ま月、アメリカの生活が詩情を喜ばせる点に欠けているのを嘆じて、 で小説「新梅ごよみ」を同紙上に掲載したが、不評のため第三十一一一フランスに行き、その文学を研究しようと決心する。これよりさ 回 ( 三四日間 ) で中絶。九月、人員整理の名目で日出国新聞社を解き、六月、「岡の上 . を「文芸倶楽部」に、「酔美人」を「太陽」に ぎようせ 譜雇され、暁星学校の夜学に入りフランス語を学び始める。 発表。八月、父の渡仏反対の報に接し、絶望的な心情に沈む。九 明治三十五年 ( 一九〇一 l) 一一十三歳月、ポトマック公園でイデス (Edyth Girard) を知り、以後急速 そうしょ たんでー 年四月、「野心」を新青年小説叢書として美育社から刊行。ゾライズムに交情が深まり、耽溺生活に入る。十月末、公使館を解雇され、十 の影響が見られる。六月、「闇の叫び」を「新小説 , に発表。九月、一月、カラマズに帰る。十一一月、父の配慮で正金銀行ニューヨーク 父、大久保余丁町七九番地に移り、来青閣と命名。金港堂の長篇小支店に入社。 説募集に応じて選外になっていた作品「地獄の花」が金港堂より刊 明治三十九年 ( 一九〇六 ) 一一十七歳 あきねばう に 0

8. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

一一月、「おもかげ」を「中央公論ーに掲載、三月、「仏蘭西近代抒情方に避難した。四月十五日、東中野文化ア・ハートに移り、五月一一十 こまば しせんさんご 詩撰珊瑚集」を第一書房かあ刊行。四月、「女中のはなし」を「中央五日、再度罹災して、駒場に避難する。六月一一日、東京を脱出し、 公論」に発表、五月、「飾情話」 ( 歌劇脚本 ) を「新喜劇」に発表、明石を経て岡山に行き、同月一一十八日、岡山空襲で罹災、八月十三 同月、菅原明朗の作曲で浅草オペラ館にて上演された。七月、「お日、勝山に疎開中の谷崎潤一郎を訪い、十五日再会を約して別れ、 もかげ」を岩波書店から刊行。 岡山に帰りついて敗戦を知る。九月、杵屋五叟の疎開先の熱海和田 、ぐう 昭和十四年 ( 一九三九 ) 六十歳浜木戸方に寄寓。十一月、「冬の蠅」を扶桑書房から刊行。十一一月、 アメリカ したやそうわ 「亜米利加の思出」を「新生」に寄稿。 十一月、「改訂下谷叢話」を冨山房から刊行。 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 昭和十五年 ( 一九四〇 ) 六十一歳 六十七歳 一一月、左団次死去。荷風は追憶座談会に紙上参加の形で、三月一一十一月、杵屋五叟が市川市菅野に移居したのでともに転じてそこに寄 六、一一十七、一一十八日、「谷中の隠家浮世絵漁り古もの趣味 . 寓。「踊子 , を「展望」に、「勲章ーを「新生ーに発表し、「浮沈」を ( 後「市川左団次追憶座談会」 ) を「都新聞。に寄稿。 「中央公論」に連載開始 ( 六月まで ) 。一一月、「冬日の窓」を「新生」 昭和十六年 ( 一九四一 ) 六十一一歳に「為永春水ーを「人間」に発表。三月から六月まで「戦災日録」 左団次との交友を偲んで、四、五月、「杏花余香」 ( 日記 ) を「中央 ( 後「罹災日録」 ) を「新生」に連載し、六月、「腕くらべ」 ( 増補版 ) ためながしゅんすい 公論」に寄せた。七月、「為永春水」を執筆し、十一一月八日、「浮沈」を新生社から刊行。七月、「問はずがたり」を「展望」にのせ、「問 を起稿する。 はずがたり」を扶桑書房から刊行。八月から十一一月まで「昭和十六 昭和十七年 ( 一九四一 l) 六十三歳年の日記」を「新生」に連載し、九月、「来訪者」を筑摩書房、「ひ 三月十九日、「浮沈」脱稿。十一一月、「冬の夜がたり」「勲章」執筆。かげの花」を中央公論社から刊行。十二月、「草紅葉」を「中央公 昭和十八年 ( 一九四三 ) 六十四歳論」に掲載。 へんーかんぎんそう 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 十月、詩篇を整理して「偏奇館吟草」を編集し、十一月、「枯葉の 六十八歳 記」その他を執筆。 一月、市川市菅野小西茂也方に寄寓、「罹災日録」を扶桑書房より刊 昭和十九年 ( 一九四四 ) 六十五歳行し、「浮沈」 ( 非売品、限定一一百部 ) を中央公論社、三月、「夏姿」 一月、「枯葉の記」、一一月、「雪の日」 ( 前半 ) をともに「不易」に発を扶桑書房、五月、「浮沈」を中央公論社、「勲章」を扶桑書房、六 、ねやごそう 表。「踊子」を脱稿。三月、杵屋五叟 ( 大島一雄 ) の次男大島永光を月、「荷風日歴」上下一一巻を扶桑書房から刊行。十月、「木犀の花」、 ささめゆきもうひょう 養子にする。四月、「来訪者」を脱稿。十月、「ひとりごと」初稿、十一月、「細雪妄評」を「中央公論ーに発表。 昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 六十九歳 十一月、「ひとりごと」続篇を脱稿。 昭和ニ十年 ( 一九四五 ) 六十六歳二月、「荷風句集」を細川書店から刊行。三月、中央公論社版「荷風 三月十日、早朝四時東京大空襲のため偏奇館炎上。原宿の杵屋五叟全集」 ( 全一一四巻、昭一一八・四完結 ) の第一回配本 ( 第五巻 ) を開 しの あさ じよじよう はえ もくせし あたみ

9. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

皆、発表の時期がくるまでフランス大使館の金庫の中戦時中の荷風の態度が、ようやく戦後の″民主主義″ にあすけてあるそうだ、とか・ の社会で公認され、かえって美徳のようにたたえられ 2 るにいたったからでもあろ、つ。その最もいちしるしい例 いまになってみると、こうしたうわさの大半は単な として、荷風が大逆事件に療慨して江戸戯作者流の花柳 る風評ではなくて、少なからす根拠のあるものであっ 」説を書くことになったという説が、こと新しく取り上 たことがわかる。ヤミ物資に興味を持ったのは、当時 げられ、あたかも荷風が抵抗の作家であったかのように の庶民一般、誰しも当然のことであるが、発表のアテ 持ち上げられたりしたことがあげられる。たしかに荷風 : もないのに「浮沈」、「踊子」、「来訪者」、「問わすがた は社会的関心があって、たとえば同し傾向の作家のよう り」、「勲章」等々のカ作をつぎつぎと書きつづけてい じゅんいちろう たとい、フことは本当だったし、その原稿をフランス大 にいわれている谷崎潤一郎や徳田秋声などが、最初か くら 使館にあずけていたというのは誤伝だとしても、荷ら自分自身の世界だけしか問題にしていないのと較べ ると、眼を自分の外側に向けて、しばしば為政者や権 風が自分の遺産をフランスの芸術院に寄附したいとい っていたことは日記にも出ている。いすれにしても、 力者をからかったり、ときにはハッキリと敵対、いを表 文士の大半が、国民服にゲートルを巻き、なかには軍明したりもしているが、しかし、だからといって荷風 は、べつに戦後のいわゆる〃民主主義文学〃の作家で 刀まで吊ったりする人もいて、軍部に迎合した嘘つば はなく、大逆事件の被告の思想に共鳴していたわけで ちの戦記や、毒にもクスリにもならない銃後の愛国物 じゅん 語を書きながら、しつに意気消沈していた時代に、永もないだろう。そのへんを石川淳氏は最も鋭く指摘し ー、カらくじっ て、「敗荷落日」のなかで、次のようにいっている 井荷風のこうした姿勢は、うわさに聞いただけでも私 たちを感奮興起させるものがあったわけだ。 《・ : ・ : 随筆家のもう一つの条件、食うにこまらぬ という保証のはうは、荷風は終生これをうしなわ す、また、つしな、つまいとすることに勤勉のよ、つで 荷風の人気が、こういう戦時中の反時代的な姿勢た もちろん しか けにささえられていたというわけでは勿論ない。 あった。ところで、この保証とはなにか。生活上避 けがたい出費にいつでも応することができるだけ し戦後の一時期、荷風の名前が世間一般にひろまり、 の元金。それを保有するということになるだろう。 ほとんど名物男のようになった一つの理由は、やはり だれ げさくしゃ

10. 現代日本の文学 Ⅱ-2 永井荷風集

414 注解 老 と名づけられた。 五セガール、ド、リョン Gare de Lyon リョン駅。パリから マルセーユ方面行き鉄道の発着駅。 天ジ = ール、プルトン Jules Ad01phe Breton ( 1827 ー 198 ) フランスの画家。詩も書いて知られている。 発デジョン Dijon フランスのプルゴーニュ地方の首都の名。 ふらんす物語 ( 抄 ) フランス料理と・フドウ酒で有名。 六 0 別れた女作者荷風は、アメリカ時代の中頃、明治三十八年 五三ル、アーヴル港 Le Havre フランスのノルマンディーに しようふ 九月ワシントンで Edyth Girad という娼婦と知り合い、明治 あるセーヌ湾に面した港。 四十年七月フランスに渡るまで親しくしており、リョン時代に ー。ハッサン Henri ・ René-Albert ・ Guy de Maupassant おいても文通があった。 ( 188 ー 1 田 3 ) 荷風の尊敬したフランス自然派小説家。ノルマ 、、ユッセ AIfred de Musset ( 1810 ー 1857 ) フランスのロマ ンディーの生まれ。荷風は明治三十五年頃、ゾライズムに触六三 ン派の詩人。小説家、劇作家。「世紀児の告白」「たわむれに恋 れ、その影響の下に作品を書いているが、渡米後の明治三十七 はすまじ」などが有名。 。、ツサンに関心が推移している。「モー 年春頃には、モー / 。、ツサンの扁舟紀行」などに、その傾奎ベルリオ Hector Berlioz ( 一き 3 ー一 869 ) フランスの作曲 ンの石像を拝す」、「モー′ 家。初期ロマン楽派に属し、「幻想交響曲」「リア王」「ローマの 倒ぶりがうかがわれる。 謝肉祭」などが有名。 五五ゾラ Emile Zola ( 1 0 ー 1902 ) 若き日の荷風を魅了したフ ランス自然派小説家。「実験小説論」で遺伝と環境の二つの面か六三ラマルチン Alphonse de Lamartine ( 】 78 ー一 9 ) フラン スのロマン派詩人。外交官として各地に滞在したが、のち政界 ら人間を追及することを唱え、社会改革の熱情をもって、「ル そうしょ に出て、一八四八年の革命には、臨時政府の首相・外相として ーゴン・マッカール叢書」一一十巻を書いた。 LaBétehumaine めいそう 活躍した。「瞑想詩集」「ジョスラン」などがある。 を荷風は明治三十五年 ( 一一十三歳の時 ) に紹介し、翌三十六年 六三アンジ = ロス angelus ( ラテン語 ) カトリック教会での朝・ 翻訳小説「恋と刃」を発表している。 正午・タのお祈りのこと。またはその時に鳴らす鐘のこと。 。、リのロンドン向け鉄道の発着 ル St ・ Lazare / 癸サンラザー 六四ガロン Garonne ビレネー山脈に源を発し、ビスケー湾に 駅。 注ぐ全長約六五〇キロの大河。 パルナッス派 parnassiens 十九世紀の中期に盛んだった 高踏的な詩派。ルコント・ド・リールを中心にして、一時、詩奕サン。ヒエール St. Pie 「 e クラシック調の建築の旧ベネティ ムうび クト派の僧院であったが、市立美術館となっており、ロダンの 八六六年 ) によって高踏派 壇を風靡した。「現代高踏詩集」 ( 一