だ書かれたことのないような、日本人の内的世界を描ろう。 き出そうとしたもので、その点では普通の小説を読む この小説は、幾代もに渡る人びとの心の底に、ある 7 のと少し違った理解の仕方が必要かと思われる。 いは意識下の意識の中に、執念深くひそかに流れつづ 「死者の書』の作者が小説の主人公としてます登場さ ける前代の執着が、新しい世の浄化を経て、新しい生 おおつのみこ しがつひこ せてくる大津皇子 ( 滋賀津彦 ) は、死後百年近くもたっ活の情熱に昇華してゆくことを書いていると言えよう。 て、一一上乢の心の中でその感覚をよみがえらせ、死 しかも作者は、人間の内的なそういう営みは、古代 おとめ の間際にこの世の清く美しい乙女の上に凝らした執着の一時期にだけあってそこで終ったのでなく、それぞ をよみがえらせる。しかもその執着の思いは、大津皇れの時代なりの姿で、今もわれわれの心の内的な葛藤 として続い 子のみに限らす、遠くは大風主の娘を愛して天の神の ていると考えている。だから、この小説は あめわかひこ めとリのおおきな 罰を受ける神代の天若日子や、女鳥女王に懸想して命 単なる古代小説ではなく、現代のわれわれの心にも、 はやふさわけのおおきみ を絶たれる隼別王をはじめ、古代の村の世々の男の心 十分に語りかけてくる力を持っているはずなのである。 にひそむ、しすまりカたい執念の心にまでひびきあう さて、一生を独身で過し、頼りにする養子を黄島 思いである。 で戦死させた戦後の迢空、晩年の迢空の短歌作品は、 大津皇子の死に際のいは、それから三代を経た今歌集『倭をぐな』に収められている。「倭をぐな』は、 なんけ の藤原氏の娘、南家の郎女の上にまで及んでゆくが、 その内容が「倭をぐな」と「倭をぐな以後」の二部ー そうめ、 郎女の側からいえば、新しい世の聡明な智恵と宗教心 分かれ、前者は戦争中から昭和二十二年末までの作品、 を身につけた姫の心は、古い大津皇子の執着を、新し 後者は二十三年から亡くなる二十八年までの作品を収 あみだぶつ い阿弥陀仏への宗教的な憧として浄化させて行く 録している。本集では、そのうちの「倭をぐな」の部 めだけ 姫は大津皇子の葬られた二上山の男獄・女獄の間に姿から歌を抄出した。 を現わす金色の仏の姿に引き寄せられ、その宗教的自 戦死した子をみく歌、国敗れたのちの人の心の 覚を深めてゆくのである。姫の新しい智と愛によって、 荒廃を悲しむ歌、荒廃の中から次の世を負う幼い者、 しず おんねん 久しく鎮まらなかった大津皇子の古代的怨念も安らぎ若い者に末長い望みを托そうと願う歌など、その哀し を得る、というのが、『死者の書』の一つの主題であ くはげしい内容は、戦前の歌に見られないものがある。 いらつめ おおく おだけ 0
「ひそけさ」の内容は、中世の隠者風な消極的で閉鎖 的なわび・さびの田 5 いではなくて、「海やまのあいだ」 ゅうきゅう に散在して生きる人間の、生活の中に保たれた悠久の 思いに触れて、現代のはかない都会人である迢空が漏 らす、なげきのため息のようなものである 迢空の歌を読まれる人はきっと奇異な感じを受けら れるであろうと思う、表記の上の句読や字あけの問 釈迢空は短歌のはかに詩も作り、三冊の詩集が残さ 題について、『海やまのあひだ』の後記の中で、迢空れている。さらに、昭和十四年には、小説「死者の書」 はみずからその抱負を二つに分けて語「ている。短歌を雑誌「日本評論」に発表し、後に推敲の手を加えて を文字に書き、活字に組んで示す時に、句読点を打「十八年に単行本として刊行した。 て歌の切れめを明らかにするのは当然のことで、作者『死者の書』は、描かれている時代が遠い八世紀の古 自身の呼吸や思想の休止点を示すことをしないのは怠代であること、ト 見の中の時間の流れ方と場所の関係 慢であるとい、つのか、その一つである。さらに、より が複雑に構成せられていること、登場人物の関連が複 積極的な理由として、関東大震災直後のすさみきった 雑であること、などの点で、かなり難解な小説だと考 なめ 町を歩きながら、自分は、滑らかな短歌の調子には表えられている。また、あれはど古代に対してするどい すことのできない思いを感して、短歌に近い四行詩の見通しを持ち、日本古代学の独自の体系を形成した学 しのぶ 作品を作「た。短歌に句読点を打「て、いろいろな休者折ロ信夫の、研究成果の表現としての作品であると 止点を考えているうちに、短歌の次の詩型が次第にわ いう考えが、この小説を小説として自由に読む立場か れわれの、いにはっきりととらえられてくるのではある らわれわれを遠のかせてしまいがちである。 まいか。そのための協同作業の一端を、ます自分がや しかし、『死者の書』はあくまで小説である。われ ってみよう。それが迢空が歌に句読点をつける理由の われはこれを読む時、作者の心の奥に横たわる学的蓄 第二であった。 積から一往、、いを自由にして読んだ方がよい 迢空は千年以上も日本人が作りつづけてきた短歌と 『死者の書』は従来の日本の作家の、どの小説にもま 0 てきあ、 いう定型詩をこの上なく愛していたが、それを溺愛し たのではなく、更に現代に即した、短歌の次の詩型を 7 常にさぐり出そうとする青熱を失なわなかった。
まんだら 皇子の霊魂におびかれて、当麻寺で名高い曼陀羅を織 り上げる妖しい古代信仰に満ちた物語なのである。 あと で岳 もともと「死者の書」は、古代エジプトのピラミッ 路め雌 要を ドのなかの槲に納めてあ 0 た書物で、冥府の道案内が の左 記してあった。迢空は意識して、その題名を摸したの 交岳である 代を 上右 近山 か鳥二 や方 び傍後 里の の姫 当中 上右 「死者の書」とゞめし人のこ、ろざしー遠いにし へも、非しかりけり 神像に彫れるえぢぶと文字よりも、永久なるも のを我は頼むなり ちょうくう みだ そもそも迢空は、「山越しの弥陀をめぐる不思議」と 、泉為恭筆の張陀飛迎図についての思い出話 に惹かれた。そうした過去の因縁を彼は興味ぶかく思 ったのである。『死者の書』の成立については、 「さて、今覚えてゐる所では、私の中将姫の事を書き 出したのは、「神の嫁』といふ短篇未完のものがはし めである。 ( 中略 ) が、横佩垣内の大臣家の姫の失踪事 件を書かうとして、尻きれとんばうになった。その時 の構図は、凡けろりと忘れたやうなあり様だが、藕糸 曼陀羅には、結びつけようとはしては居なかったので はないかと思ふ。 シシャフ : オョソ シッソウ 41
時、宮廷のことに関して、はなはだしく神経質であった時の一 部の勢力を意識してのことであった。大津皇子は天武天皇の皇 子、母は天智天皇の皇女で持繃天皇の姉にあたる大田皇女。母 しゅちょ , と同じ天智天皇の皇女山辺を妃とした。朱鳥元年九月、天武天 しらぎ 皇崩御後まもなく、新羅僧行心らにそそのかされて謀叛を企て おさだ たが発覚するところとなり、同年十月三日、訳語田の地にて処 死者の書 刑された。行年二十四。 = 石死者の書古代 = ジ。フトでは、死者のにおける旅路は決 = 石耳面刀自藤原足の女。鎌足の第一一子不比等の妹で、大友 して平穏なものではなく、無数の危険がその行程の前途に横た 皇子の妃だったという。 いっきのみや わっていると考えられていた。いわゆる『死者の書』とは、こ 三天伊勢の国 : : : 巫女斎宮のこと。斎宮は伊勢の神宮に奉仕 の旅路を安全なものとする目的で、紀元前一一千年頃、パピルス じゅじゅってき した未婚の皇女、または王女をいう。ここでは大津皇子の同母 おおくのひめみこ の巻き物や動物の皮に、呪術的に書かれたものである。著者が あみだぞう 姉大伯皇女のこと。十四歳で斎宮となり、皇子の死の一か月半 『山越しの阿弥陀像の画因』の中で「ゑぢぶともどきの本」と 後朱鳥元年十一月十六日、一一十六歳のときに帰京している。 自ら述べているように、この作品はその『死者の書』を意識し = 一九「巌石の上に : : : 」大伯皇女の弟を悲しむ歌。『万葉集』巻 て書かれている。最初、昭和十四年一月から三月にわたって 「日本評論」に連載し、昭和十八年九月、青磁社から刊行され = 一九うっそみの : ・ ・祠前・一六五。 た。四六判百八十一一ペ 1 ジ、定価三円八十銭。装梶は著者のエ = 一〈一一上山奈良県北城郡と大阪府南河内郡の境にある山。葛 城の一一上山といわれ、葛城山脈のひとつ。二峰あり、ヒ : 」カ雄岳 夫になり、数種の△山越し阿弥陀像 > の図版五枚を挿圦し、見 返しには紺紙金泥の写経風を摸し、光明皇后筆の楽毅論を印刷 で高く ( 五一〇メートル ) 、南が雌岳でやや低い ( 四七四メー した。なお、青磁社本刊行に際し、著者は全編におよぶ改訂を トル ) 。雄岳の頂上に二上神社と大津皇子の墓がある。ただし おこなった。著者は、「日本人の考へた山越しの阿弥陀像の由 著者は、本書の第一一章では、墓のあり場所を山頂とはしていな 来を書くことは、日本人総体の精神分析の一部に当ることをす むちまろ るやうなことになるかもしれぬ」 ( 『山越しの阿弥陀像の画因』 ) 三三藤原南家郎女「南家」は不比等の子、武智麻呂の流れ。武 と言い、また、自分の作品の多くが消え去ることになっても、 智麻呂の子、豊成の女がこの郎女。 注『死者の書』だけは残る、と言 0 たというが、発表当時はあま = = 天若日子の昔語り天 0 神の使として既雲に下り、下照姫を り評判にならなかった。 妻として、天っ神に叛いて殺された。アジシキタカヒコネノ神 しがつひこ 三一七彼の人滋賀津彦。実は大津皇子。そう名づけたのは、発表 によって喪屋を破壊され、肉体から遊離した霊魂を呼び迎える 釈迢空集注解 おおつのみこ てんむ おおたのひめみこ むほん
かみやま た 二上山など 釈迢空文学紀行 北杜夫 葛の花踏みしだかれて、色あたらし。この山道 を行きし人あり ちょうくう 迢空の「海やまのあひだ』に出てくるこの歌を、私 は青年期、ずいぶんと好きだった。今も更めてこの沈 んだ抒情に感服する。 ところでこの歌は壱岐の島山 ( 最近の説では奥熊野 ) を 詠んだ歌ということになっている。日数の都合で壱岐 までは行けなかった。 宝で、私はこの文学散歩の場所を、名著「死者の書』 国 に関係する二お臨、更には当麻寺を選んだ。 で 築それにしても、「死者の書』とは、またなんと神韻 の に富んだ稀有な文学であろう。 期 良 奈「彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。まっ黒い夜 の中に、更に冷え圧するもの、澱んでゐるなかに、目 のあいて来るのを、覚えたのである。 塔したしたした。耳に伝ふやうに来るのは、水の クラヤミ 垂れる音か。たヾ凍りつくような暗闇の中で、おのづ 東と睫と睫とが離れて来る。」 の , 麻要するに、死刑に処せられて二上山に眠る鬼 が献貂郎第によ 0 て目覚めさせられる。そして郎女は、 マッ材
釈迢空集目次 釈迢空文学紀行 一一上山など 死者の書 : 海やまのあひだ ( 抄 ) : 倭をぐな ( 抄 ) ・ 注解 釈迢空文学ア化ハム 評伝的解説 00 北杜夫三九 岡野弘彦四三三 岡野弘彦四四五 四究 岡野弘彦四六九 : 三一七 ・・三七七 : 四 0 三 編集責任 製作担当 校正責任 作品校正 レイアウト 写真撮影 桜田満 木幡英次 須山康邦 石崎和子 大川泰央 成田牧雄
『一年有半』 ( 明治三十四年 ) は死の宣告を得て書かれたもの。 ら」とも一一 = ロう。 一益割礼ユダヤ教の宗教的儀礼で、包皮を環状に截断する。 念珠集 ( 抄 ) 一益湯殿山出羽三山の一つ。山岳信仰の対象として男子が十五 歳になると初詣をする風習があった。 一一五五 4 蹂集著者の第一随筆集。昭和五年八月、鉄塔書院刊。大 正十四年以降刊行年までの雑誌・新聞等に発表した日本関係の一益一厘銭当時の貨幣の単位。一円の千分の一にあたる。 諸文を収める。並行して執筆した滞欧随筆とともに散文家とし 小園・白き山 ( 抄 ) てもすぐれた手腕を示した。「アララギ叢書」第四十七編。 一一査小園第十五歌集。昭和一一十四年四月、岩波書店刊。十八年 一一五五笈を負う郷里を出て遊学すること。 以後、金瓶から大石田に移る一一十一年一月までの作を収める 一一五五・ハヴァリア Bavaria ・ハイエルン (Bayern) の英語名。現西 ( ただし戦争関係のものは除く ) 。七百八十一一首。「アララギ叢 ドイツ東南部の州。 書」第百三十七編。全集本では増補して八百四十三首。 一甕心に創痍を得て帰国直前、自宅の青山脳病院が全焼したこ 一石一蝦夷蝉北海道・東北地方に多い羽の透明な大形の蝉。 とから来る調訷的打撃。 一一五九碧梧桐東梧桐 0873 ~ 一 937 ) 高浜虚子とともに子規門一石 = 八木沼丈夫一 895 ~ 一 944 歌人・ジャ 1 ナリスト。著者の傾 かみのやま 倒者の一人。戦中満州で活躍した。軍歌「討匪行」等の作詞者 俳人の双璧。明治三十九年十月に上山を訪れている。 みちつね としても有名であった。 一一六 0 三島県令三島通庸 ( 1835 ~ 1889 ) 強引な土木事業で知られ さつま 毛五弟米国著者の義弟。斎藤紀一の次男で明治四十二年生。 た薩摩出身の官僚。後警視総監。「県令」は当時の県知事。 一石五松田やを本名なか。斎藤家の女中として生涯を送った。 一一六 0 ヴァチカノの宮殿教皇庁のあるヴァチカノ市国の宮殿。ル おぎう 一石〈徂徠先生荻生徂徠 ( 一 666 ~ 一 728 ) 江戸時代の学者。 ネッサンス芸術の粋を集めた美術館、礼拝堂等で有名。 一わが母斎藤紀一の妻ひさ ( 勝子 ) のこと。 実一三稜鏡プリズム ( P ュ sm ) のこと。 よ・′、い 一一芫コレヒドルフィリピンのマニラ湾口にある小島。全島要塞 実一木偶法印ここの「法印」は山伏。「木偶」は、でくのぼう。 と , ちゅうけんくもえもん 化され、戦争中再度にわたって日米両軍の死闘が行われた。 一一六一雲右衛門桃中軒雲右衛門 ( 1873 ~ 19 】 6 ) 浪曲師。「赤穂義 ぶし 一穴 0 結城哀草果 1893 ~ 1974 歌人。作者と同郷の最古参の門下。 士伝」など武士道ものを得意とし、関東節で知られた。 解 一一六一森文部大臣森有礼 ( 一 847 ~ 一 889 ) 伊藤博文内閣の文相。明 = 合松根を掘る松根油をとるため。戦中航空燃料に用いるため、 さかんに採取を奨励した。 治憲法発布の日に暗殺された。 注 一一会施餓鬼施餓鬼会。死者の冥福のため飲食を供する法会。 一古篆漢字の古体。篆書。 = 会あぎとふ水面で魚が口をばくばくさせること。 引一一六三 präputium ラテン語。陰茎の包皮。 一一六三中江兆民一 847 ~ 190 一明治初期の思想家・ジャ 1 ナリスト。一穴六フェニキスフェニックス (Phoenix)0 不死鳥。
左昭和二十三年五月、前年刊行の詩 集『古代感愛集』により芸術院賞受賞。 その祝賀会で慶応義塾大学国文科の学 生たちと ( 前列右から五人目が迢空 ) 昭和 25 年 10 月 24 日 , 柳田国男 ( 左より二人目 ) に随行し て関西旅行に赴く ( 東京駅 ) 。左端柳田夫人 , 中央迢空 小説『死者の書』 ( 昭 和 18 年刊行 ) のとびら 昭和 27 年 5 月 5 日 , 金田一京助 ( 左 ) の喜寿の祝賀会で ( 撮影・伊馬春部 ) 昭和 24 年 8 月 , 籀根山荘で。肖像制作 は今宮中学時代の教え子伊原字三郎
釈 S 色空文学糸己イ丁大和翦麻の里より菫工の雄岳 ( 右 ) ・雌岳を望む うちわたす大茅原となりにけり。 茅の葉光る暑き風かも 山深くわれは来にけり。山深き 木々のとよみは、音やみにけり ( 「海やまのあひだ」より ) 左長野県下伊那郡にて 男嶽と女嶽との間になだれ をなした大きな曲線が、又 次第に両方へ聳って行って ゐる、此二つの峰の間の広 ソラギ い空際。薄れか、った茜の 雲が、急に輝き出して、白 鋕の炎をあげて来る。山の 間に充満して居たタ闇は、 光りに照されて、紫だって 動きはしめた。さうして暫 らくは、外に動くもの、な い明るさ。山の空は、唯白 白として、照り出されて居 ( 「死者の書」より ) カヤハラ アヒ アカを
日 創刊。九月、「民間伝承」創刊。十一月、大阪木津の折ロ家から分 学の教え子滕井洋の生家を訪う。七月、民俗芸術の会発足。 四十一歳家。十二月から翌年一月にかけて春洋を伴い、第三回沖繩旅 昭和三年 ( 一九一一八 ) 四十九歳 《・じよ , そ , も , 四月、慶応義塾大学文学部教授となる。十月、長兄静没。大齎昭和十一年 ( 一九三六 ) 五〇五二番地に転居し、鈴木金太郎とともに藤井春洋が同居。これ一一月一一十六日、一一・一一六事件起こり、東騒援。草莽志を陳べるに よしなく、憂い深く、憤りに燃えた。 まで転居八度を数えたが、以後は没年までこの借家に居住する。 五十歳 昭和十一一年 ( 一九三七 ) 四十一一歳 昭和四年 ( 一九二九 ) 三月、これまで丸刈りにしていた頭髪をのばし、白髪を染めた。八 四月、『古代研究』民俗学篇田・同国文学篇、大岡山書店刊。 四十三歳月、那須において、改造社の『新万葉集』の選を始める。 昭和五年 ( 一九三〇 ) 五十一歳 一月、第一一歌集『春のことぶれ』梓晝房刊。四月、「東足日日新聞」昭和十三年 ( 一九三八 ) むろうさいせい ( 後の「毎日新聞」 ) の歌壇選者となる。六月、『古代研究』民俗学七、八月、室生犀星、堀辰雄の尽力で軽井沢に滞在。十一一月、箱根 おそれざんおが 篇大岡山書店刊。八月、最初の東北旅行、遠野、恐山、男鹿などにこもって「死者の書」執筆。 昭和十四年 ( 一九三九 ) 五十二歳 を歩く。一月、「婦人公論」の歌壇選者となる。 四十四歳一月、「日本評論」に「死者の書」を連載。四月、仙石原に山荘を 昭和六年 ( 一九三一 ) 一月、藤井春洋入営。「週刊朝日」文芸募集の短歌欄選者となる ( 十建て、休瑕の多くをここで過ごすようになる。 よさのあきこ 昭和十五年 ( 一九四〇 ) 五十三歳 一一月、与謝野品子と交替 ) 。年末、春洋除隊。 四十五歳四月、国学院大学学部講座に「民俗学」開設。 昭和七年 ( 一九三一 l) 五十四歳 三月、文学博士となる。四月、『日本文学の発生』岩波書店刊。十昭和十六年 ( 一九四一 ) 入月、中国旅行、山海関、南京、杭州を回る。十二月、太平洋戦争 月、改造社より雑誌「短歌研究」創刊され、選者の一人となる。 四十六歳おこり、春洋応召。この年「婦人日本」の短歌欄選者となる。 昭和八年 ( 一九三 = l) せんごくはら 五十五歳 昭和十七年 ( 一九四三 ) 八月、箱根仙石原に温泉分譲地を買う。 昭和九年 ( 一九三四 ) 四十七歳四月、春洋召集解除。六月、日本文学報国会国文学部理事・短歌部 一月、姉あゐ没。一一月、春洋膿胸を病み、臥床四ヶ月におよぶ。四会会員となる。七月、柳田国男、穂積忠と伊豆に遊ぶ。八月、叔母 あめっちの 月、鈴木金太郎大阪に転勤、同居生活は一一十一年間にわたった。十ゅう没。九月、歌集『天地に宣る』日本評論社刊。 五十六歳 昭和十八年 ( 一九四 = l) 一一月、日本民俗協会発足、幹事となる。 年 昭和十年 ( 一九三五 ) 四十八歳四月、大日本芸能学会創設、会長となる。会誌「芸能」発刊。八月、 七月、信州小谷温泉への途次、下川原で落馬、以後腰部神経痛の原『死者の書』青磁社刊。九月、春洋再び応召。翌年六月まで加藤守 因となる。八月、民間伝承の会発足。日本民俗協会より「日本民俗」雄同居。 よるみ