桑の香の青くただよふ朝明に堪へがたければ母呼びにけり 8 * あづま 吾妻やまに雪かがやけばみちのくの我が母の国に汽車入 りにけり 死に近き母が目に寄りをだまきの花咲きたりといひにける かな 朝さむみ桑の木の葉に霜ふれど母にちかづく汽車走るなり 春なればひかり流れてうらがなし今は野のべに蟆子も生れ うれへ 沼の上にかぎろふ青き光よりわれの愁の来むと云ふかや 上の山の停車場に下り若くしていまは鰥夫のおとうと見た死に近き母がをりつつ涙ながれて居たりけるかな 母が目をしまし離れ来て目守りたりあな悲しもよ蚕のねむ 共の一一 はるばると薬をもちて来しわれを目守りたまへりわれは子 なれば 我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母 よ 寄り添へる吾を目守りて言ひたまふ何かいひたまふわれは つばくらめ 子なれば のど赤き玄鳥ふたっ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふな なげし やりちり 長押なる丹ぬりの槍に塵は見ゅ母の辺の我が朝目には見ゅ いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死 たいやうくわう 山いづる太陽光を拝みたりをだまきの花咲きつづきたりゆくを そひね とはた 死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる ひとり来て蚕のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけ てん かふこ か あさあけた たらち ぶとあ かふこ
200 たらの芽を摘みつつ行けり寂しさはわれよりほかのものと かはしる あけび 寂しさに堪へて分け入る我が目には黒ぐろと通草の花ちり はざま はるけくも峡のやまに燃ゆる火のくれなゐと我が母と悲し やまはら 山腹に燃ゆる火なれば赤赤とけむりはうごくかなしかれど も けり にけ・り 山かげに消のこる雪のかなしさに笹かき分けて急ぐなりけ見はるかす山腹なだり咲きてゐる辛夷の花はほのかなるか も ささ 笹はらをただかき分けて行きゅけど母を尋ねんわれならな蔵五山に璉ら雪かもかがやくとタさりくればゆきにけり くに ふもと しみじみと雨降りゐたり山のべの土赤くしてあはれなるか 火の山の麓にいづる酸の温泉に一夜ひたりてかなしみにけも をんてん 遠天を流らふ雲にたまきはる命は無しと「ムへばかなしき かすみ ほのかなる花の散りにし山のべを霞ながれて行きにけるは も やま峡に日はとつぶりと暮れたれば今は湯の香の深かりし じゅんさい 湯どころに二夜ねぶりて奪菜を食へばさらさらに悲しみに けれ きさだけ 山ゅゑに笹竹の子を食ひにけりははそはの母よははそはの 母よ ( 五月作 ) 7 おひろ其の一 なげかへばものみな暗しひんがしに出づる星さへ赤からな っ さん ひとよ ささ かひ ふたよ いのち
ひた心目守らんものかほの赤くの・ほるけむりのその煙はや あさひこ 天のなかに母をひろへり朝日子のの・ほるがなかに母をひろ へり 日のひかり斑らに漏りてうら悲し山蚕は未だ小さかりけり こつがめ ふき 蕗の葉に丁寧に集めし骨くづもみな骨瓶に入れ仕舞ひけり はふみち よだ 葬り道すかんぼの華ほほけつつ葬り道べに散りにけらずや ひばりな うらうらと天に雲雀は啼きのぼり雪斑らなる山に雲ゐず おきな草ロあかく咲く野の道に光ながれて我ら行きつも ひとはふりどあめあ あざみ どくだみも薊の花も焼けゐたり人葬所の天明けぬれば あま わが母を焼かねばならぬ火を持てり天っ空には見るものも 其の四 なし かぎろひの春なりければ木の芽みな吹き既る山べ行きゅく 星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにわれよ けり やまばと ほのかにも通草の花の散りぬれば山鳩のこゑ現なるかな まさ夜ふかく母を葬りの火を見ればただ赤くもぞ燃えにける 山かげに雉子が啼きたり山かげの酸つばき湯こそかなしか らかも あ りけれ 晄はふり火を守りこよひは更けにけり今夜の天のいつくしき 酸の湯に身はすつぼりと浸りゐて空にかがやく光を見たり うっしみ 火を守りてさ夜ふけぬれば弟は現身のうた歌ふかなしくふるさとのわぎへの里にかへり来て白ふぢの花ひでて食ひ 共の三 * やまこ なら 楢わか葉照りひるがヘるうつつなに山蚕は青く生れぬ山蚕 はだ はふ よな こよひてん あ さん ていねい あけび うつつ
しゅうじっせわ おおむ ている。父の日記は概ね農業日記であるが、こういう事もする。母は家に居るときには終日忙しく働くのにその女は 漏らさず、極く簡単に記してある。青根温泉に行ったとき決して働かない。それが童子の僕には不思議のように思わ かす れたことをお・ほえている。 のことを僕は極めて幽かにお・ほえている。父を追慕してい わによう ると、おのずとその幽徴になった記憶が浮いてくるのであ僕は入湯していても毎晩夜尿をした。それは父にも母に る。 も、もはや当りまえの事のように思われたのであったけれ ども、布団のことを気にかけずには居られなかった。雨の 父は小田原提灯か何かをつけて先へ立って行くし、母は その後からついて行くのである。山の麓の道には高低いろ降る日にはそっとして置いたが、天気になると直ぐ父は屋 かっこう ろしゆっ いろの石が地面から露出している。石道であるから、提灯根のうえに布団を干した。器械体操をするような恰好をし の光が揺いで行くたびにその石の影がひょいひょいと動く。て父が布団を屋根のうえに運んだのを僕はお・ほえている。 とうじ たくさん その石の影は一つ二つではなく沢山にある。僕が父の背な或る日に、多分雨の降っていた日ででもあったか、湯治 それ 客がみんなして芝居の真似をした。何でも僕らは土戸のと かで共を非常に不思議に思ったことをおぼえている。 くらざしき まだ夜中にもならぬうちに家を出て夜通し歩いた。あけころで見物していたとおもうから、舞台は倉座敷であった おうな せんだい かつば とお らしい。仙台から湯治に来ている媼なども交って芝居をし がたに強雨が降って合羽まで透した。道は山中に入って、 みずかさ 小川は水嵩が増し、濁った水がいきおいづいて流れている。た。その時父はひょっとこになった。それから、そのひょ はやして 、、、めん 月幅が大きくなって橋はもう流されている。山中のこの激っとこの面をはずして、囃子手のところで笛を吹いていた ことをお・ほえている。 流を父は一度難儀してわたった。それからもどってこんど わけ は母の手を引かえて二人して用心しながら渡ったところを父の日記に拠ると、青根温泉に七日いた訣である。それ せいてん ひのとい 僕はお・ほえている。それから宿へ著くとそこの庭に四角なから、明治二十丁亥年六月二日。晴天。夜おいく安産。と 集箱のようなものが地にいけてある。清い水がそこに不断に父の日記にあって、僕の弟が生れているから、青根温泉湯 うなぎ 珠ながれおちて鰻が一ばい泳いでいる。そんなに沢山に鰻の治中に母は懐姙したのではないかと僕は今おもうのである。 いるところは今まで見たことはなかった。 念 帳場のようなところにいる女は、いつも愛想よく莞爾し ているが、母などよりもいい著物を著ている。僕が恐る恐 るその女のところに寄って行くと女は僕に菓子を呉れたり ゆら ちょうちん きものぎ よどお にこにこ やく ふとん かいにん よ たぶん まわ っちど あんざん
の外は、ありあけ月夜。おぼゝしき夜空をわたる雁の つらあり 道の辺の広葉の蔓けざやかに、日の入りの後の土あかり マナカヒ 眉間に、いまはのなやみ顕ち来たる母が命を死なせじと マド すも 汽車のこゝにし迫る小松山峰の上の聳りはるけくし 見ゅ 死にたまふ母の病ひに趨くとゐやまひふかし。汽車のと ヒトヨ よみに タ闌けて山まさ青なり。肥後の奥人吉の町に、燈の つらなめる 汽車はしる闇夜にしるき霜の照り。この冷けさに、人は 死なじも 温泉の上に、煙かゝれる柘の枝。空にみだるゝ赤とんば かも ケフチクタウ 聰の外は師走八日の朝の霜。この夜のねぶり難かりし 夾竹桃 さめみ、と、今朝は霧ふる夾竹桃。片枝の荒れに、花はあ 汽車に明けて、野山の霜の朝けぶりすがしき今朝を母かるき サチプヲウ 死なめやも 左千夫翁五年忌 だ ひ あ病む母の心おろかになりぬらし。わが名を呼べり。幼名水むけの茶碗の湛へ揺れしるし。備れる墓のぬしとな りませり まによび や 海 山および海 吹きとほる風のそよめき、線香は、ほむら立ち来も。卒都 速吸の門なかに、ひとっ逢ふものにくれなゐ丸の艫じ婆のまへに るし見ゅ ハヤスヒト ハス ヤミョ プクョ サヤ カ′ トモ カリ ュ チャワンタ′ カプラ ソダ
ジをゲ ^ 星満ちて霜気霽れたる空濶し。値ひがたき世にあふこあらず ともあらむ 母 夜の町に、室の花うるわらはべのその手かじけて、花たこの心悔ゆとか言はも。ひとりのおやをかそけく死 ばね居り なせたるかも 道なかに花売れりけり。別れ来し心っゝしみに花もと かみそりの鋭刃の動きにおどろけど、目つぶりがたし。 めたり 母を剃りつゝ 過ぐる日は、はるけきかもと言ひしかど、人はすなはちあわたゞしく母がむくろをはふり去る心ともなし。夜は はるけくなりつ の霜ふみ 山うら 見おろせば、膿涌きにごるさかひ川この里いでぬ母が世 御柱海道凍てゝ真直なり。かじけっゝ鶏はかたまりてなりし 居る まれ / 、は、土におちつくあわ雪の消えっゝ、庭のまね オホゾミコプミ うちわたす大泉小泉山なほ見え、刈り田の面は、昏く濡れたり だくなりたり コケ ひ その山かげには、赤彦さんの生家がある。 苔つかぬ庭のすゑ石面かわき、雨あがりつゝ昼の久し あ の さ ( ャッガネ や八个嶺のその山並みに、蓼科の山の腹黄なり。霧霽れ来 れば 古庭と荒れゆくつぼもほがらかに、昼のみ空ゅ煙さが るも 諏訪びとは、建御名方の後といへど、心穏ひのあしくも オンバジラ タゲミナタ ヒロ タテジナ ウナワ
108 時に白日、 おほぢ 大路青ずみ、 白き人列なし去んぬ。 せつな 刹那、また火なす身熱、 なべて世は日さへ爛れき。 病むごとに。 なげ 母は歎きぬ。 『身熱に汝は乳母焦がし、 また、 JOHN よ、母を。』と。ーーー今も おもひで 常うるはしき追憶の 国へかゆきし。 稚児なれば はやも眠りぬ、その膝に。 しん ねっ 身熱 母なりき。 われかき抱き、 ザポンちる薄き影より のびあがり、泣きて透かしつ。 うばひつぎゅ 『見よ、乳母の棺は往く。』と。 とこ ひる ただ ひざ われ青む、かかる恐怖に。 梨 ひと日なり、夏の朝涼、 にごりざけ 濁酒売る家の爺と おぢ その爺の車に乗りて、 市場へと。 途にねむりぬ。 めづ 山の街ーー珍ら物見の 子ごころも夢にわすれぬ。 たまな さなり、また、玉名少女が ゑみ ゆきずりの笑も知らじな。 その帰さ、木々のみどりに うぐひすな 眼醒むれば、鶯啼けり。 山路なり。ふと掌に見しは 梨なりき。清しかりし日。 ウオア 水ヒアシンス 月しろか、いな、さにあらじ。 まち かへる みち あさすず おそれ
264 ちょっとよ 石を一寸避けると小さい蟹を幾つも捕えることが出来る。 そうすると二三日で痂が取れて行った。そこへまた油薬 しっそう 僕はそれをつぶして臓腑をかぶれかかっている腕になすりのようなものを塗って呉れた。ひどく苦しんだ漆瘡の男根 つけたけれども、赤く腑れて汁の出て来たところは今度は図はかくのごとくにしてついに直った。瘡は極く『平凡』 結痂して行った。 に癒えた。 絵のところだけが黒く結痂したから、直ったのかという『はじめは脱兎の如く』とっておいて、そして、『おわ ひそ しよじよ とそうでない。それだから風呂に入った時などに、秘かに りは処女のごとし』と云うあたりは、味ってみるとどうも かさぶた ただ ちんぶ その痂を除いてみると、その下は依然として爛れて居っ旨いところがある。ただ余り陳腐になっているから、今ま みそ て深い溝のようになっている。そして次の日には一一たびそでそれを味わぬのであった。その陳腐さは、レオナルド・ こに織駐するという具合でなかなか直らない。ほかの子供ダ・ヴィンチの画いた、モナ・リザ・ジ ' 0 ンダの像のよ しっそう 等は、そういう女陰・男根図のことなどはいつのまにか忘うなものであった。そして僕の漆瘡物語の結末が消えるよ はず ことわざ れて行った。それはその筈で描いて貰ってからすでに一ヶうにして無くなってしまったときに、この諺、警句をお 月余も経過したのであるからげて取れてしまったのが多もい起したのであった。おもい起して味ってみるとどうも かった。縦い残っていてもそんなものはもう珍らしくはな言方に旨いところがあった。僕は心中ひそかに満足をお・ほ かった。ただ僕ひとりは毎日そのことで苦しんだ。そしてえた。レオナルド・ダ・ヴィンチをおもい起したのはこう わけ 痛いのを我慢して痂を除いてはそこに蟹のをつけてい いう訣である。 みぞ およ るに過ぎなかった。痂を取ったところの溝がだんだん深く『凡そ児童はその父の能力に就いてどう思惟しているか』 なるのに気付いてもそれを母や父に打明けることが出来なということに就いて、ある時期には児童は父の万能を信ず た 。僕は空しく二月を過ごした。 ることがある。さて時が経っと、児童のまえには父は追々と ある けれども、或時とうとうそれを母から見付けられその成平凡化されて行く。僕の父もその数に漏れなかった。僕が ますます 行を一々白状してしまった。母は僕を父のところに連れて少しずつ大きくなるに連れて僕の父も益々平凡化されたか さんりようぎよう 行った。僕は恐る恐るすでに結痂した男根図を父に見せた。ら、父が三稜鏡を炎のなかに投じた話などをしても僕は しか しっそう 父も母も共に笑った。叱られるつもりのところ叱られなか 心中感服したことはない。然るに僕が漆瘡であれほど苦し ったので僕も大きなこえを立てて笑った。その晩に父はどんだ時に、父は極めて平凡にそれを直して呉れた。僕はそ あぶらぐすり ろどろした油薬のようなものを拵えて来て塗って呉れた。の時、父には何か知らんやはり特殊の『能力』があるので けつか むな たと かに けつか こしら だっと 1 」と かさぶた しか かさ
公琿別 茂吉の子ということが私にはなにか恥すかしく、歌碑 ゅ和家 み昭 ~ 「部 などの除幕式などにも、一切母や兄にまかせて、一度 一も出席したことがない 山田 : 上石 館のすっと手前に、出羽ケ嶽文治郎の手形がある。 すもう 館 ( で身長二〇四センチ ( 六尺七寸三分 ) のこの角力とりが青 念屋先 山の家にくると、幼い私はこわくて泣いたものであっ 記書開 吉」禽疎 た。また茂吉は弱くなった出羽ケ嶽を叱激励し、観 茂聴の 心藤吉戦にも出かけ、幾首かの歌も作ったものであった。 斎左茂 館内には相当に多くの展示物がある。もっとも印象 に残ったのは、やはりその遺品、晩年まで着ていた黒 の背広、これは記億にないかなり上等品らしい茶のオ くつきやはん 靴、脚絆、大筆、日本、マフラーなどであ その横に、デスマスクが置いてある。 月さくちぢこ まったような、かって私が涙ながらに見た凝固したよ うな死顔である。 きちフめん 原稿、書簡類は古いものが多い。几帳面な毛筆書き さねとも で、昭和七年の『源実朝』の原稿は、朱筆で書き入れ、 直しが記されている。東京文房堂製の原稿用紙であっ た。この文房堂の原稿用紙を、父の死後、遺品として 私は母から幾帖か貰ったものであった。 この公園には、山形県でもっとも新しい茂吉の歌碑 がある
ひたまふなり あさましき歩兵士官のなれる果て斯くながらへむ我が 母ありきー いきどほりより澄み来たる顔うるはしく常子にあらず にいましき グチ毛ウマイ 愚痴蒙昧の民として我を哭かしめよ。あまりに惨く死 姉が弾く琴の爪おとうちみだれ、吹雪と白み怒るわにしわが子そ が母 調和感を失ふ * マナカヒ 常磐津ぶしに、名手絶ゅ 眉間の青あざひとっ消すゝべも知らで過ぎにしわが 関のに桜散る夜はー目つぶりて音に立ちがたき三味を世と言はむ 聴くべし ッヒカへ 我ひとり起ちて還らむさびしさを知られじとして、人知 竟に還らず れず去る 我どちにかゝはりもなきたゝかひを悔いなげゝども、子 はそこに死ぬ わが為はあはれむ勿れ。肩あげて若き群れより、時あ りて出づ たゝかひに果てし我が子のおもかげも、はやなごりなし。 イクサ 軍団解けゆく たゞひとりあるかひもなき身なれども、癒えて肉づくー な 誰に告げなむ ケンジュ ぐたゝかひに果てにし子ゅゑ、身に沁みてことしの桜あ 大儒詠 はれ散りゆく しづかなるタに出でゝ人を見るー。やゝ人がほもおぼ 幻戦ひにはてし我が子のかなしみに、国亡ぶるをおほよそろなるころ に見つ ワレ 力へ ムゴ