の激しい時期を模索と動揺を重ねながら、懸命に自己「て行く自然への凝視と、沈潜した日常吟の世界にあ をつきつめて行く者のいのちの軌跡がある。そして、 る。芭蕉あたりを通過した観照はおのすから一種象徴 むし この歌集が歌壇内外、というよりも寧ろその外におい 性をおび、この前後からの写生理論の形成とあい応す て注目を浴びたのは配列の効果をふくめて、以上の点 るものであった。巻末の大作「籀根漫吟」はこの歌集 むろうさいせい によるところが多いであろう。たとえば、室生犀星、 の到達点を示すものと言うべきであろう。そして集い あくたがわリゅうのすけ 佐藤春夫、芥川龍之介、字野浩二などがそれであり のなにげない日常吟の中にも「重い悲的なモーメン 芥川は有名な「僻」中で次のように回想している トの暗示」を見出すと論じたのは寺田寅彦であった 「僕は高等学校の生徒だった頃に偶然『赤光』の初版 茂吉の短歌は『赤光』『あらたま』の二集によって を読んだ。『赤光』は見る見る僕の前へ新らしい世界を はばその基本的スタイルかうかかえると一一口って、 既出した。 ( 中略 ) 僕の詩歌に対する眼は誰のお世話大正六年末、長崎医学専門学校に赴任した彼は、以後 になったのでもない。斎藤茂吉にあけて貰ったのであ 約七年間、歌壇的活動の中絶期を迎える また彼ー ま、茂吉の歌に見る西洋は「おのすから深処 四 に徹した美に充ちている」「感受性ばかりの産物では どくおう 正直に自己をつきつめた痛いたしい魂の産物で 大正十四年一月、三年余の独墺留学から帰国する茂 ある。」とも言う。これは『あらたま』の作品を引いた 吉を待っていたのは自宅青山脳病院の全焼であった。 上での評価である力不 ゞ、多して『赤光』の一部に適用す青天の霹靂のようなこの火難は、船中にあった前年末 ることもできるであろ、つ の失火によるもので、以後彼ー ま病院再建のために養父 大正三年、斎藤紀一の次女てる子との結婚生活に入 紀一をたすけ、苦難の日々を送らなければならなかっ 0 た茂吉は、徐々に『赤光』の余を脱し、翌年あた た。しかし、生活的あるいは精神的な危機意識がかえ 、一うよう りから新しい歌境への転移を見せ始める。第歌集『あ って作歌の昻揚をもたらすのは、茂吉の歌人的生涯に らたま』は『赤光』のあとをうけて大正六年までの作通じる特色である。帰国早々歌壇に復活した彼は、島 を収めるが、その特色は古典的スタイルのうちに深ま木赤彦の死後、再び「アララギ」の責任者となり、旺
のであろう。この作歌は中学卒業 ( 明治三十四年 ) と とくに大正二年にかけて急激なたかまりを見せて行く かっ、一う ともに中絶の恰好になるが、三年後、正岡子規の歌集これは左千夫との作歌観上の対立を深めていった歌論 6 せししよう ( 「竹の里歌』 ) に出会い「己と真の交渉ある先蹤を見出」活動ともまた並行するものであ「た。 すに及んで本格的なものとして復活する。そして、与 処女歌集『赤光』が世に出たのは大正二年十月、あ さのひろしあきこ 謝野寛・品子中心の新詩社あたりに集まる当時の青年 たかも同年五月に郷里で母の死を見送り、七月末左千 た十っ AJ は別」 ~ 般的に地味な子規の歌に共鳴し、さ夫の急死にあうなど、あいつぐ悲傷事をへた後のこと わぎし らにその系統をひく根岸派につながって行くところに、 であった。そして『赤光』の構成が逆年代順の配列を ひほう・ 露伴傾倒の場合とあい似た茂吉の性向がうかがえる とるために、左千夫の死の衝撃を詠った「悲報来」を その頃の露伴文学は既に盛期を過ぎたものとみなされ、巻首に、ついで大作「死にたまふ母」や「おひろ」など 気鋭の一高生あたりがかえりみるところではなかった 掫歌・恋愛歌の絶唱が踵を接して現われ、開巻早々売 一三ロ こうよ、つ のである。 者を異常な昻揚感へと捲き込んで行く形になっている こうして明治三十七年末と推定される頃、『竹の里初版のこの配列は茂吉の意図いかんにかかわらす、殪 歌』に邂逅した茂吉は、翌々年、子規の後継者である し医」たより んど独創的でさえあるだろう。なぜなら、 さちお 伊藤左千夫の門に入り、根岸短歌会の機関誌「馬酔木」 『赤光』の頂点をなす世界にひき込まれた読者は、こ おうせい から「アララギ」へと旺盛な作歌活動をつづけて行っ れらの作の余韻を重ね合わせながら年次をさかのばっ しやっこう かっこう た。いわゆる茂吉の『赤光』時代はこの頃から始まる て行く好になるからである。したがって『赤光』の のである。 到達点を見きわめた目でそれ以前の歌を読むとき、我 我は無意識的にもそれを生の流れの過程として捉える ことになる 『赤光』は斎藤茂吉の名を、ひいては「アララギ」の 茂吉の歌がきわだってその個性を明かにしてくるの存在を一躍注目させ、北原白秋の『桐の花』 ( 大正二 は、東大医学部を卒業し、研究室員として、付属病院年一月刊 ) とともに大正初頭の歌壇に一期を画すもの ( 病院 ) に勤めはしめる明治四十四年あたりからで、 として迎えられた。そこには近代短歌史上、最も揺れ 力、一一う すて
右民家の石屋根 ( 長野県茅野市にて ) 屋上の石は冷めたしみすすかる信濃のくにに 我は来にけり うれひわ 屋根にゐて微けき憂湧きにけり目したの街の なりはひの見ゅ ( 「赤光」より ) ー洋の込 しなの うみ 罌粟はたの向うに餬の光りたる信濃のくにに 目ざめるかも な・み . こは」ろ 諏訪のうみに遠白く立っ流波つばらつばらに ( 「赤光」より ) 見んと思へや 島木赤彦家より諏訪湖を望む
大正一一年 ( 七月び 1 悲報来 ひた走るわが道暗ししんしんと堪へかねたるわが道くらし ま ほたる らほのぼのとおのれ光りてながれたる螢を殺すわが道くらし あ 侊すべなきか螢をころす手のひらに光っぷれてせんすべはな し いくにん 氷室より氷をいだす幾人はわが走る時ものを「ムはざりしか ひむろ しやくくわう 赤光・あらたま ( 抄 ) 版赤光 こら も 氷きるをとこのロのたばこの火赤かりければ見て走りたり なげ 死にせれば人は居ぬかなと歎かひて眠り薬をのみて寝んと す * あかひこ あ こなく 赤彦と赤彦が妻吾に寝よと蚤とり粉を呉れにけらずや しなの 罌粟はたの向うに湖の光りたる信濃のくにに目ざめけるか も 諏訪のうみに遠白く立っ波つばらつばらに見んと思へや あめ あかあかと朝焼けにけりひんがしの山並の天朝焼けにけり 七月三十日信濃住諏訪に滞在し、一湯浴びて寝ようと * さちを に浸ってゐた時、左千夫先生死んだといふ電報を受取った。 しまきあかひこ 予は直ちに高木なる島木赤彦宅へ走る。夜は十一一時を過ぎ てゐた。 2 屋上の石 はざま あしびきの山の峡をゆくみづのをりをり白くたぎちけるか けし うみ れ な み のみ
斎藤十右衛門宅 ( 金瓶 ) 。茂吉の実妹なをの婚家先であ り、昭和二十年四月から翌年二月まで茂吉はここで疎 たまねぎ 開生活を送った。「十右衛門が手入をしたる玉葱の玉あ らはれて夏は深まむ ( 「小園」 ) 。手前はオキナグサ 茂吉の生家・守谷伝右衛門宅 ( 金瓶 ) 。母屋は戦後の建 ようさん 築。茂吉出生の当時は、養蚕向きに建てられて三階建 ての豪壮なものであったという。「ひとり来て蚕のへや に立ちたれば我が寂しさは極まりにけり」 ( 「赤光」 ) かふこ
斎藤茂吉文学糸己行 吾妻連峰 ( 福島県 ) を望む 山かげに消のこる雪のかなしさ に笹かき分けて急ぐなりけり 笹はらをただかき分けて行きゅ けど母を尋ねんわれならなくに ( 「赤光」より ) 五日ふりし雨はるるらし山腹に あづま 迫りながるる吾妻のさ霧 うっしみ 現身の声あぐるときたたなはる やまこだま 岩代のかたに山反響すも あづまね 吾妻峰を狭霧にぬれて登るとき つがの木立の枯れしを見たり ( 「あらたま」より ) 左蔵王山にて さぎり やまはら
北原白秋集目次 北原白秋文学紀行 柳川など 邪宗門 ( 抄 ) 思ひ出 ( 抄 ) ・ 東京景物詩及其他 ( 抄 ) ・ 童謡 : 桐の花 : 注解 北原白秋文学アルバム 評伝的解説 北北 原隆太郎四一一五 注解 原隆太郎四三七 四四九斎藤茂吉文学アルバム 河村政敏四四九評伝的解説 斎藤茂吉集目次 一斎藤茂吉文学紀行 杜夫一七上山など 赤光・あらたま ( 抄 ) : 念珠集 ( 抄 )••・ 小園・白き山 ( 抄 ) : 七九 本林勝夫四一一九 本林勝夫四四一 四五九 本林勝夫四五九 北杜夫一一八 ・一九五
ひたいそぎ動物園にわれは来たり人のいのちをおそれて来 こり′ わが目より涙ながれて居たりけり鶴のあたまは悲しきもの を あか けだもののにほひをかげば悲しくもいのちは明く息づきに けり こつがめ 骨瓶のひとつを持ちて価を問へりわがロは乾くゆふさり来 べびそ さけび啼くけだものの辺に潜みゐて赤き葬りの火こそ思へ れ すぎ 納骨の箱は杉の箱にして骨がめは黒くならびたりけり 鰐の子も居たりけりみづからの命死なんとせずこの鰐の子 上野なる動物園にかささぎは肉食ひゐたりくれなゐの肉をは おのが身しいとほしきかなゅふぐれて眼鏡のほこり拭ふなくれなゐの鶴のあたまを見るゆゑに狂人守をかなしみにけ りけり ま た 7 冬来黄涙余録の一一 ら 泥いろのは生きんとし見つつしをればしづかなるか あ 自殺せる狂者をあかき火に翠りにんげんの世に戦きにけりも 光 くちはし 赤 みづひかり ペリカンの嘴うすら赤くしてねむりけりかたはらの水光はるかなる南のみづに生れたる鳥ここにゐてなに欲しみ啼 9 力も 両手をばズボンの隠しに入れ居たりおのが身を愛しと思は ねどさびし うそ寒きゅふべなるかも葬り火を守るをとこが欠伸をした かく めがね をのの をた わに
ひとむきに細篁をかたむけし寒か・せのなごりふかくこも へやたれ りつ ほそほそと女のこゑす我が室に誰か来るかとおもひけるか も ひとときを明るく照りしたかむらにこもるしづかさやタづ きにつつ 朝早く溜まる光にかがやきてえも言はれなき塵をどり居り 2 雑歌 4 春雨 とのも 野のなかの自づから深き赤土ぞこに春さりくれど霜をむす外面には雨のふる音かすかなりこころ静かに二階をくだる ぶに うつつ しづかなる夜とおもふに現なる馬ちかくゐて英るきこゅ しづかなる冬木のなかのゆづり葉のにほふ厚葉にのかな しさ かりそめの病といへど心ほそりさ夜ふけて馬のおとをこそ きけ 汗たらし朝坂のぼる荷ぐるまの轍おもひきり霜柱つぶす へやしはぶ この夜半に目ざめたる者のひとり居てむかうの室に咳ける あが母の吾を生ましけむうらわかきかなしきカおもはざら めや大悲一一首 びとりごと ま かかる夜半に独言いふこゑきこゅ寝るに堪へざらむ狂者ひ た ら ははそはの母をおもへば仮初に生れこしわれと豈おもはめとりふたり 5 折にふれ 光 赤 たま 3 朝 目のまへの電燈の球を見つめたり球ふるひつつ地震ゆりか きその夜の戸閉わすれて粧しより朝てる光のなかに寝てゐ〈る っ とじめ おの ほそたかむら かりそめあ わだち あに た た はなひ ちり
こうしよくしし 笛の音のとろりほろろと鳴りたれば紅色の獅子あらはれに けり あたま いとけなき額のうへにくれなゐの獅子の頭を見そめしかも よ 春のかぜ吹きたるならむ目のもとの光のなかに塵うごく見 ゅ あかあかと日輪天にまはりしが猫ゃなぎこそひかりそめぬ れ あめ くわいてんくわう くれなゐの獅子のあたまは天なるや廻転光にぬれゐたりけ り ( 一月作 ) さんげの心 ま雪のなかに日の落つる見ゅほの・ほのと懺悔の心かなしかれ らども あ 侊こよひはや学問したき心起りたりしかすがにわれは床にね むりぬ 風引きて寝てゐたりけり窓の戸に雪ふる聞ゆさらさらとい ひたび てん ねこ さんげ ちり ひて まなこ あわ雪は消なば消ぬがにふりたれば眼悲しく消ぬらくを見 む ひる日中床の中より目をひらき何か見つめんと思ほえにけ 雪のうへ照る日光のかなしみに我がつく息はながかりしか も をんごく 赤電車にまなこ閉づれば遠国へ流れて去なむこころ湧きた こよひもはやいくとを 家ゆりてとどろと雪はなだれたり今夜は最早幾時ならむ もがみかみやま しんしんと雪ふる最上の上の山弗は無常を感じたるなり ひさかたのひかりに濡れて縦しゑやし弟は無常を感じたる たま 電燈の球にたまりしほこり見ゆすなはち雪はなだれ果てた ひなか なか よ