320 を探し歩いた。 と、ぼくの手を取って内へ入れ「何を泣くのさ」と、少し あざはすいけ もみじ をようきよう 字蓮池という所は、伊勢山から紅葉坂の反対側の方を西面倒くさそうにぼくを叱った。ばくはまだ恟々たるもの へだらだら降りて行って、中途から狭い横道をまた右へ降を胸に残しているので、「お父さんは ? 」と家の中を見廻 ざんこん りきった一劃の窪地であった。藪やら古い池の残痕やらをし「 : : : お父さんは何処へ行ったの」と、何度も訊ねた。 繞って安ッぽい借家がぼっ・ほっ建て混み初めて来たといっ 母のことばに依ると、父は敗訴の始末やら多額な賠償金 ごろ た風な場末であった。その一軒の格子先に、紛うなきわがの算段をするために、先頃、郷里の小田原へ行ったので、 家の標札を見つけたとき、ぼくはこれがわが家かと疑った。 ここ当分は留守だということであった。 そしておずおずと足を踏み入れるばかりな狭い土間の中へ のぞ 入ってまず奥を覗いた。 家はたった三間ほどであった。以前の家庭にあったようその時は、母のことば通りな父の不在を信じて、僕は内 な家具や飾りは何一つ見当らない。父の姿も見えなかった。 心ほっとしたものだが、然しそれから一と月も経っと、ぼ 奥の六畳にまだおむつの要る妹が団にころが 0 てい、狭くにもいろいろ疑わしい節が感づかれて来た。母としては、 ざお い裏庭の外に物干竿へ洗い物を懸けている母の後ろ姿があそのさい、ずいぶん切ない思いだったに違いない。母の言 うそ った。「おっ母さん」と、ばくはまだ他人の家のように上は、子供へも打明け難いための、真赤な嘘だったのである。 りもせず土間から首を伸ばして呼んだ。母の顔がそこの日 ぼくが奉公先へ出たあれから後、父は大審院の敗訴で なた 向からこっちを振向いた。人ちがいするほどその髪の毛も私書偽造横領罪とかいう判決の言い渡しをうけ、まもなく ほお 頬のあたりも窶れて見えた。「あら : ・ ーと云ったままし根岸監獄の未決監に収容されていたのであった。 まで ばらく母は笑いもせずぼくの方を凝視していたが、その手もっともそれから服役迄にも、訴訟相手の高瀬氏が願い から音をたてて物干竿が地へ落ちた。母はそれを拾い上げ下げしてくれるか、会社へかけた損害の賠償義務が果せな ようともせず、縁へい上り、座敷を小走りに駈けて、ば どしたら、あるいは体刑まで受けなくても済んだのかも知 くの顔のそばへ来た。そして「どうしたの、英ちゃん」とれないが、平素、借財はあっても預金などは皆無な父だっ は云ったが、すぐ何かを察したようだった。ぼくは主人か たし、家財道具まで一、二年の間に売喰いしていた始末な ただ らの手紙を母の前へおくと、何も云えなくなって唯泣き出ので、それも出来ず、高瀬氏の「吉川を横浜から屠る」と した。母はそうした感情に揺られた容子もなく「おあがり 公言していた憤りをも、ついに又、解くことが出来なかっ ゃぶ まっか
322 あの雨の晩、雨という題で一文書いてみせろと、客と主 ・ほくを使か何かに出した後で、おかみさんはさっそく・ほ 人から「ムわれた前々日の事、・ほくは飛んでもない大失敗をくの机のひき出しをあらためた。そして、主人の呉竹氏に こんな していたのである。 それを示し「こんな恐ろしい子ッてありやしない。 というのは、こうだった。昼間、奥の座敷に、おか 小僧はさっそく追ん出して下さい」と色を変えて迫ったも みさんがいつも掛りつけの髪結いが来ていた。そして、おのだそうである。それでも主人の呉竹氏は「まあ、まあ」 という風で取上げなかったそうだが、その翌晩ちょうど遊 かみさんの髪をにいていたのである。 鏡台を前にすえ、髪結いに髪を上げさせているおかみさびに来た俳友の一人に、ふとその事を相談したところ、そ んの半身が、ちょうど、・ほくの仕事机から店仕切りの中ガの人も又「そういう小生意気なまねをする小僧はやはり考 えものだな」という説で、一つどんな才なのか試してやろ ラスを透してよく見えた。 ひごろ ・ほくは恐らくおかみさんの顔に日頃から興味めいた何かうという所から、ぼくへ向って、突然、あんな難題を命じ たものだという。 を抱いていたのだろう。あの薄い生え際の毛へ、髪結いが、 なまはんか それも生半可、ハイなどと答えて、即座に書かなければ スキ櫛という歯の密な竹櫛を加えて、それを一と撫で一と 撫で、いやというほど力をこめてくたび毎に、おかみさまだよかったろうに、正直一途に小さな智恵をしぼって書 ため んの黄いろッぽい顔がくなって、眼じりも小鼻も吊り上いてみせた為、それが又、よけいに悪い結果になった。 あめ まゆ がってしまい、まるで飴が伸びるように顎から眉毛までを「こんな子は末恐ろしいよ、君」と、その人も呉竹氏へ云 ったそうである。思えばその頃、わが家の没落初頭に、父 細長くして、反ッくり返りそうになっているのが、見てい いつけんわざわい はげ ると、何ともおかしくてならなかった。それを又、一体どは高瀬理三郎氏の禿頭に加えた一拳が禍となって、自身 ういう心理であったものか、・ほくは仕事机の上に雑記帳をの生涯をどん底に落し入れたのみか、妻子まで離散と悲泣 ひろ 拡げて、と見、こう見、せッせと、おかみさんの顔をスケの運命へ追いやる序幕をここにつくり、ぼくは・ほくで又、 ッチし初めていたのである。元よりこっち側から見える中おかみさんのあまりに細長い顔につい興味を感じてそれを 障子のガラス越しなら、当然、おかみさんの方からも横目スケッチした為に、思わぬ筆禍に会ってしまい、それから で見えていたにちがいない。けれどそんな思慮もなく写生次々に食う為の職をさがし歩く路傍の小犬になってしまっ した雑記帳は、机のひき出しに入れた儘、すっかり忘れてたのであった。 いたのである。 ぐし とお あご
122 ら船仕立てで、芝まで行こうというのである。屋形船には、 もう斧四郎も、浜中屋のお菊ちゃんも来て待っているとい ふしようぶしよう うので、露八は、不承不承、 「じゃあ、後から行くーーー」 けいこ 稽古をしまうと、 と、返辞をした。 「そうそう」 「船で、待っていますよ」 思いだしたように、お喜代が云った。 お喜代は、一足先に行って、船宿で茶を喫んでいた。 しんめい * しようが あしただんな 「明日、旦那が、私と浜中屋のお菊ちゃんを、神明の生姜「まあ、しばらく見ないうちに、よい姐さんにおなりです まつり こと」 祭につれて行って下さるというのだけれど、露八さんも、 みなり 先に来ていたお菊は、見惚れるように、彼女の身装を見 行かない ? 」 ひとみ てそう云った。女並みの軽い嫉みも、眸のどこかに隠され 「さあ、それは、堪忍してもらいたいなあ」 ていた。 「な・せ」 お菊ちゃんは、浜中屋の娘分で、芝居町の笛吹きの立で、 「旦那と、お喜代さんと、行ったらいいさ」 小杉長五郎という男を聟に入れたことがあるが、二年も添 「でも、隣家の露八さんも誘って来いと云うんですもの」 ごけ 「向うよ、 ーしいかも知れないが、こっちが、やりきれない」わないうちに死に別れて後家になった。年は、お喜代の中 たのすけ 「そんな人じゃない、それは、さつばりした人です。それの姉のお里ぐらいで、三ッぐらい上であろう。田之助の方か きりよう * ちょうぶんさい に、私がこうして、露八さんを世話しているのに、一度も、ら首ッたけになったといわれるくらいな容貌で、鳥文斎 えいし えが 。ね、行って下さいよ」 ひき会わせないのも変だし : ・ 栄之の画く女のような気品があって細ッそりしていた。そ 「そんなに云うなら、行ってもいいが、どうも、この頭がれに、柳橋きッての浜中屋の娘というので、気位も高かっ た。いつも、武家娘のようにきちんとして、横笛を帯の間 まだ、気がさして、世間を歩く気がしないのだ」 かたみ 「いつまで、鬱ぎこんでいないで、大手を振って、歩けばに拠んでいる。それは、笛吹きの名人だった長五郎の遺物 かも知れないと人は云ったが、ほんとは、子どものうちか しいじゃありませんか。何も、世間に坊主がいないわけじ ゃなし : : : 」 ら笛が好きで、彼女の笛は、長五郎以上にもとから上手か いやおう ったのであった。 お喜代は、その翌日、嫌応なくまた誘いに来た。今戸か を見ることもあった。 となり ふさ かんにん むこ わた の たて
402 いというよりは、つまり幼稚というもんでしような」 もっ 正直、私は自分の中に今以て、老来なおさらもどかしい幼稚が じようし 失せないのに当惑している。この書が上梓されたすぐあとでは、 たにざき ながよよしろ , 谷崎潤一郎氏が「幼年時代」を書かれ、また長与善郎氏の「心の 遍歴」などもあった。それを見ると、ほぼおなじ時代をやや後か みね ら歩いていた自分ではあるのに、両者の高い晩節の嶺から振向か れた過去の整然とした記憶や心象の構造にひきくらべて、私の少 年期や「人生中学」の記などは、何とも他愛のない濘の回顧に 過ぎぬ感のみが多く、気恥かしいかぎりでしかない。で、折があ ったらもう少し補筆修正しておくべきであるとも思うのだが、ど うもいつまでも幼稚が意識 , こある自分には、自己の過去像を本気 で描き残しておこうなどという感興にはなれないのでついそのま まになっているのである。 昭和三十六年正月 英治追記
かねぐ そんな妙な気前のある母だったので、落目は人いちばい辛ると、母が金繰りに困っているのを知って、例の知人の富 かったのではあるまいか 樫夫人が、ごく親しいという古着屋を紹介してよこし、そ けれど仕舞いには、見得も持っていられなくなり、カゴの古着屋が「月々、質の利息を払っていらっしやるよりも、 いっそお手放しになれば、まとまったお金になりますか 虎の俥で、質屋通いもし初めた。その質屋へ、ぼくは一ど 母に伴れられて行ったことがある。座敷へ通され、茶菓がら」と、すすめる儘、その言葉に乗って、質物の総下見を 出て、もてなされたので、・ほくは質屋というような通有的したのだった。けれど値踏みの結果は、とても質値以上に は引取れないと云われ、あげくに質利子は、払わねばなら な感じはちっとも覚えないでいた。 すると、質屋の土蔵から幾個かのつづらが母の前に持ちないとあって、みすみす幾つづらの入質物を、全部ただ流 出された。つづらにはよく朱漆で家の定紋が描かれてあっしに取られてしまったということであった。 たものである。丸に鷹の羽の紋だったから、子供心にも 「おや、これは家のつづらだ」と怪しんで見ていた。質屋 の主人番頭と、もひとりの商人らしい男が、長い時間をか没落までの、こんな経過を書いていれば、それは、やく けて、五個か六個かのつづらの中の衣服を全部開けて、綿 たいもない事ばかりだし、限りもないので、もうやめる。 密にしらべ出した。ぼくの眼にも覚えのある女の子たちのそして、これだけはぼく自身、忘れえないといっていい ばかま 友禅物や母のよそゆきやら父の紋付袴やらが、何しろ座敷わが家のさいごの日を書いてしまいたい。さいごの日とい しはいになった。そして、ほとんど日も暮れ方になってうと、何だかすこし大げさだが、つまり・ほくが、あんにや たの 「ーー・奥さま、これはどうも、御相談どおりにゆきませもんにや時代の愉しい五、六年を過した赤門前の清水町の ん」と、古着屋らしい商人の方が、母に何か説きつけてい家と、それから高等四年までを学んだ南太田小学校を去っ た。そのときの母のかなしげな顔と、悔いの色は、わけもて、もう二度と、そこでの日も、ぼくの少年期も、終りを 告げる日となったときの記憶である。 残なく・ほくの胸までしめつけていた。 ごろ れ母はその帰り途に「だまされた・ : : ・」と暗い顔に、涙さ十四歳のときの、二月頃だった。 え泛かべていた。そして、ぼくへ「お父さんには黙ってお春には、小学校から中学へ入れるつもりだった。学校の しか 1 いで、叱られるからね」と何度もった。その日の事は、成績は、中くらいで、平凡な一生徒だ 0 たが、中学に入れ よく理解できなかったが、あとで母から聞かされた事に依る自信ぐらいはもちろんもっていた。ちょうど久保山の神 くるま みち
300 富樫さんの主人は、いわゆる浜の商館番頭なる者であった。 けれど、その面の児童の危険期ともいえる問題は、どう みやげ 海外の珍らしい物など手土産にしてはよく夫婦して見えるも理解以前にあるもののようである。ぼくを例にしていえ うめごよみ わが家のお馴じみ客であったが、この日は若い夫人だけで、ば、ぼくはもうその頃、誰にも内緒で「梅暦」や近松もの ずもじようるり 食卓にはお酒も出ていた。それを共にしながら、夫人はさ西鶴ものなどは読んでいたし、特に「竹田出雲浄瑠璃集」 うらや かんに「お宅は羨ましいわ。私も子どもが欲しくて欲しくのようなまる本でも自由に手に出来た時代であるから、そ たんどく て、いろんな事をしてみたんですけれど」というような意れが、文学上の何であるかなどは夢中でただ耽読していた おかみ 味をぼくの父へ訴え出した。母も交じって居、父が何か冗ものだった。だから茶屋の女将や、富樫夫人の云った会話 談めいたことをいうと、母が「ばかな事ばかり仰ッしやつの端も、それが大人のどんな意味の隠語であるかぐらいは、 て」と、一しょに笑い興じていた。が、そのうちに、少々、薄々ながら直感してしまうのであった。 それなのに、 浮わずったような調子で「いし 、え、ほんとなの。ほんとに、大人たちが、えてして、子供の前で、不用意な過ちを冒し うちではだめなんですの。いつも、私の方がこれからと思ているのは、まったく、子供の内面成長をおろそかに見、 どんよく まえとり っているのに、たくの方ではもうすんでしまっているんで かって自分の幼い肉塊が、あの貪欲な摂取欲をもっ蝌取草 すもの」と云うのが聞えた。そして酒の上の父が何かまたのような生態のものであったことを、忘れるともなくいっ けいぼう 大胆な閨房の秘語を飛ばしたとみえて、つづいて母が「ま。か忘れているからにほかならない。 と、ばくは思うの しか およしなさい。し 、くら御冗談でも、よその奥さんに」と、 だが、然し、そう考えるのはひとりぼくのみが例外に早熟 ふきげん すこし不機嫌に云ったのが、何の意味か、ぼくにはおぼろだったせいであろうか。統計に依ったわけでもないから、 に分っていた。 一般的な確言はしにくい気もするのである。あるいは、子 ぼくは客間に居たのではない。遠くのぼくの机にまでそ供の中に伸びつつあってしかも外に見せない子供の性のす れが聞えていたのである。前のお茶屋の女将のばあいとい がたは、それそれ、もっと底深い個人差を意外なほど持っ このときの片語も思い出せる程なのは、そのさい少年ているものなのかどうなのか。 のうり の脳裡によほど、つよく響いたからであろう。何しても無 一見、他人から・ほくが″良い子〃に見えた第一の原因は、 影響ではありえなかった。 いつも身なりをきちんとしていたことであろう。父はひど もちろんそれは理解というような事とは違う。さきにもく身なりのやかましい人だった。母にたいしては「おひき もっ 云ったように、理解以前のものにすぎない。 ずり」という言葉を以て、たえず身だしなみを、うるさく
さかな ス、卯杖、秋声、日本俳壇など、その頃の俳句雑誌のあらら、ぼくらを肴に、自分も飲んでいるのだろう、何かきや ッきやッと笑いながらお弓さんをからかい抜いた。お弓さ ましはあったような気がする。父はぼくが早くからこんな ひごろ 物になずんでいて、また欲しがっていたのを知っていたのんが日頃、英どんにたいして余り好意を持ち過ぎていると ごく だ。どうかした拍子でぼくを憎しげに「穀つぶし」と呶鳴 いうやきもちらしかった。もっと露骨な猥せつな言であっ ひも ったりする事も、病気と貧苦のせいだったのだ、父も遠く た。伊東さんが、やっと蒲団蒸しの紐を解いてくれたとき、 すみ 離れればやはりぼくを愛しく思い出しては居てくれるのか。お弓さんは泣いていた。ぼくは店の隅の暗い所へ逃げこん そんな感激もあわせて胸につつみながら、当時のホトトギだ。 ため スを、夜更けるまで読みつつ寝たことは、ぼくの夢を少年又、晩春の頃だった。爺やが風邪で寝ていた為、浦賀造 の夢そのまま毎晩、のどかにしてくれた。 船所へ納めている同地の雑貨店へ、卸し売の白酒を、荷車 に一荷積んで、和平どんが前を曳き、ぼくが後押しして行 ったことがある。 和平どんは、いつも人気者だが、悪ふざけの度を越す人浦賀街道の山道までかかると、和平どんは一ぶくしよう でもあった。或る晩、店を閉めた後、店員たちが大いに酔と云い出し、車を止めて休んだのはいいが、そのうちに しやペ った。主人夫妻は不在であった。ぼくは和平どんに呼ばれ「おまえ、店へ帰っても、喋るんじゃなしそ しし、刀途 こわ ふとん て奥へ行った。すると、大勢の中でいきなり蒲団にくるま中で壊れたと云っとくんだから」と云って、四打入りの箱 れた。おなじ蒲団の中へ又、支店の女中のお弓さんを一をコジ開け、中の白酒を二本ほどラッパ飲みにしてしまっ しょにくるんだ。「手を貸せ、手を貸せ」とほかの者を呼た。そして残りをぼくにくれた。 び、和平どんは帯か何かでぼくとお弓さんを蒲団巻きにし ぼくは眼がくらくらし出した。いや、それ所ではなく、 和平どんはすっかり酩酊してしまい、それからの峠の下り がけ もちろん、ぼくとお弓さんも、極力抵抗はしたが及ばなを何べんも転びかけた。また崖へ車をぶつけたりして、あ かったのである。上をギリギリ巻ぎ締められているのでおと白酒のビンを何本も破り、白酒を道々撒いて歩いた。ど 弓さんの両手はぼくを抱えていた。ぼくは手のやり場がな うなる事かと、ぼくは尾いて行くばかりであり、あんなに く、顔は火照ッてしまい、ただ眼をつぶっていた。 困った事もないが、面白かった事もない。 和平どんは、酒宴の同僚たちへ、この余興を提供しなが支店勤めで、辛かった仕事は、サイダーやビールの納入 うつえ つら めいてい おろ
しょになった先妻があり、ぼくには異母兄にあたる政広と要するに、若い日の父は、こんな風な単純さを、誇って どうせい よぶ一子もあった。 さえいたようである。その後、花柳界の婦人と同棲したと 父の先妻は、小田原の花街でも評判な美人だったという いう件なども、官員さん社会には、定めし指弾されたこと ことである。親類中の反対も世間の悪評も押切って、一し だろう。まもなく、長野県庁へ転任を命ぜられ、長野市に ょになったものらしい。これが土地でやかましく云われた下宿住居している間に、小田原に残しておいた妻が、留守 ざた のは、父の職業が、いわゆる当時の″官員さん〃なるものの間に、男に殺されたのであった。情痴沙汰で、これは新 ため めんばく で、県庁の酒税官であったせいだろう。 聞にも書かれたりした為、父は面目無さに、辞表を出し、 この酒税官時代、各地の醸造家の酒蔵を視てあるく間に、それきり官途もやめ、数年は小田原に帰らず、放浪してい っちか 父は後年の大酒になる素地と、道楽者の味境をそろそろ培たらしい っていたにちがいない。 けれど父その者は、祖父の銀左衛門仕込みの「さむらい くんと ) らんぎく の子は」という薫陶を、そのまま無自覚にうけついだ自身父は南画をよく描いた。ちょッとした山水や蘭菊などを がんこ を、自身の真骨頂としていたらしく、一徹で、頑固で、明黄大癡風に画いて、牛石、逸民、石声などと雅号を入れて 治時代の人間に共通な覇気と、立志の夢に燃え、小田原の いた。漢詩も得意で、ちょっとした葉書や手紙ぐらいは、 こようじ 花街で、女出入の評判を立てなどしたくせに、ちっとも、筆がなくても、マッチの棒とか小楊枝の先をちょっと噛ん 垢抜けのした青年ではなかったようだ。 で、竹筆のような味の文字をすらすら書いた。 かげ よく自慢そうに、子のぼく達へ話した事のうちでも、そ少年時代を道了権現の寺房で送ったお蔭だよとよく云っ の酒税官時代に、何でも天竜川の岸で、寒中だったそうだていた。しかし、大胆なものである。それッばしの余技を がーー対岸の造り酒屋まで行くわけだが、よほど下流へ迂もとでに、長野県庁をやめた後は、一年余りを画家と称し かい 回しなければ渡船がない。それに日も暮れかかっていたのて遊歴したのだといっていた。父の描いた余り上手でない ころ で、ままよと、真ッ裸になって、天竜川を泳ぎ渡って行っ墨闌や四君子などを、・ほくも子供の頃、よく見たものだし、 おぼ たが、寒中の冷たさと、流れの急に、川の中ほどで溺れ損柱掛けだの額面などを人から依頼されると、これは大得意 だんな ね、「死ぬかと思った」という事など、何度聞かせられたで、誰にでも描いてやった。出入の大工が「旦那の御きげ かわからない。 んの悪いときには絵をお願いするに限ります」と、母に云 あか こうたいち
やがて、家の没落が、父自身の口からあきらかにされ、 0 あ 同時に、学校は中退しろ、他家へ奉公に出ろ、と突然云い 或る日の酒父像 渡されたのだが、その日その時まで、全然、何も知っては もろ いなかった。自分らの暿々と暮していた家庭がそんな脆い だから、そ あんにやもんにや、などという言葉は下町でも今は余りものとは、夢にも思えなかったのである。 使われていないのであるまいか。を ・まくら子供時分にはややの間の記憶はみな後日になって独り思い当ってきたり、母 もすると「 この子は、ほんとにまだ、あんにやもんに の過ぎた愚痴やら周囲の変化から自然あとで察しられたこ まで はなはあいまい やで」とか、「どうして、そういっ迄、あんにやもんにや とでしかない。甚だ曖昧な云い方だが、事実何とも、あん なの」などとのべっ云われたものだった。 ーーそれ にやもんにやの年代だったのだから仕方がない。 十四、五歳ともなれば、現代の子は、い わゆる十代の季が・ほくの幾ッぐらいかといえば、それもはっきりいえない 節をはっきり持ち、異例だろうが三面記事にも時々登場し が、何しろぼくが十四歳になる前の一年半か一年そこそこ て、単独の自殺もする、心中もやる。そんな子でなくても、の間に、らちゃくちゃなく、一家破減となったのは確かで きゅうかく 両親へは批判の眼をもつ。大人達へのたいがいな嗅覚は備あった。同時に、今となって思えばそれがぼくの尊い、あ ひとみ しゅうそく えてしまう。決して″あんにやもんにや〃なんていえる眸んにやもんにや時代の終熄でもあったのである。 の群れではない。 けれど、・ほくら明治の子には、それはいかにもふさわし い言葉であったらしい。ぼくらは間違いなくその分らず屋何か、家の中が近ごろ変だと子供心にも感じ出した事の 自分のばあい 以上の、あんにやもんにや達であった。 うちでも、いちばん変に思ったのは、真夜中に二階の道具 で云えば、現に家庭の内面では、ぼくの十三から十四の間類を、見知らぬ他人が何人も来て、まるで芝居で見た石川 ごえもん に、没落へ入る傾斜を急にしていたはずだし、いよいよ大五右衛門の手下達のように、梯子段から裏口へ担ぎ出して ゆく光景だった。 酒になるばかりだった父の酒狂ぶりにも、母の悩みにも、 ひそ 義兄の一身上や何かにつけてのごたごたにも、「これは、 当然、その物音には、ぼくら子供も、密かに眼をさまし ほかげ ただ事でない」ぐらいな感じは子供心にも分って来そうな た。そして深夜の奇異な大人たちの行動や灯影のうごきに、 ものだったのに、ぼくは一こう気づいてもいなかった。 唾をのみ、凝と、団の中から薄目をあいて見ていたも たけ はしごだん かっ
やら聞こえる。ーー・露八は、がらんとした青楼の広間を見 まわした。丹波の女も、部屋に見えないし、鏡台も、赤い 蒲団も、なかった。 「始まったかな ? 」 予感は、大晦日ごろからあった。大天災でも襲ってくる 前のようにむしむしとした空気である。しかし、戦争が、 わかっていたところで、露八は、圏外の人間だし、どうい う考えも無論なかった。眼のあたりに、避難する人々の混 乱を見ても、べつに、その心境は急に変わりそうもない。 体一つの境遇が、どんな強味かということを、ちょっと、 愉快に思って、まるでこの世の終りのように騒いでいる世 おおみそか ならづけ 間の物音を、耳で、聞いているだけであった。 大晦日も、元日も、そこで越して奈良漬のように露八は 漬っていた。 昼遊びの客が、残して行った酒が一間にそのままある。 すると、正月三日の夕方ぢかくである。ぐわらぐわらと、露八は、水のかわりに飲んだ。そして、畳の上に、寝てい ふとん 家中で、家財を往来へ出し初めた。露八の寝ていた蒲団また。 で男たちが来て、彼の体を、ゴミでもはたくように払って むくりと、その畳が、持ちあがるような気がした。と思 あわただしく、二階から外へ投げ出している。 ううちに、遠い大砲の音が、じいんと、欒にったわって、 くるわ かす 遊廓中が、同じ騒ぎだった。 微かに家がふるえる。 八荷は、車につみ、背に負って、どこともなく、われがち「ははは。やってるな」 てぬぐい すそ ここまではとどくまい やに逃げ出してゆく。遊女たちは、手拭をかぶり、裾を折っ なだ たまおと のて、これも、手をつなぎ合って、雪崩れてゆくのだった。 そう前提しておいて、次の弾丸音を聞くのである。に、 うわさ 「煙で、真っ黒だ」 伏見附近か、鳥か、高瀬川堤という噂なのだ。 屋根にも、かいる。 ナしふ砲声は近づいていた。寒 夜中から暁にかけて、・こ、・、 瓦が落ちる。どこかで、女の悲鳴やら、子どもの泣き声いので、露八は、階下の台所へ行って、火をおこした。食 ッとこみると、兵隊じゃ、あんめえ」 「じゃあ、何だい」 どろぼう 「泥棒とはちがうのけ ? 」 たんばぐり 「既つ、丹波栗の、おたんちん。 朱夜黒昼 かわら あっちへ行けつ」 あけ した