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1. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

こうもん こういう特異児の持ちまえで、肛門筋は無知覚にひとしく、狂相に似たものがあった。 その世話だけにも、母は追われ通しの姿であった。 ぼくは、その頃のわが家と、毎日の事を、今、思い出そ しか 然し、貧乏と、これだけの事だったら、まだまだ母は働うと努めているが、誇張でなく、又肉親だからでもなく、 き効いもあったろう。が、義兄の置き去り子が来てから、 ・ほくは心から、ぼくの母を偉かったと思わずにいられない 更に悲惨を加えたのは、病人の父が、時々、我慢がならな母は、その畸形な子へも、・ほくらにする愛情と少しも変ら はだ せつかん いように起き上って、その子を折檻する時の、何ともいえない慈愛の姿で、哺育の肌やら丹精の手を尽していた。時 かんしやく ない悲鳴と家じゅうの暗さだった。 には、ぼく達がひがまれる程、可愛がった。父が癇癪を起 きけい わら 畸形の子は、手離しでは置けないので、藁で編んだお飯すと、いつも身を以ってその子を庫うのは母であった。 っ 櫃入れの中に入れて、食事もロへ入れてやるのであった。 正直、ぼくらにしてさえ、義兄の無責任を、その子へ門 きげん やっかい 機嫌のいい日は減多になく、のべつ、おひつの中でシュク うように、つい厄介者としたり、憎しみを向けたりした。 シュク食物を泣きせがんでいる。父にはそのシュクシュクけれど・ほくの母には、まったくそれが見えなかった。近所 かしやく の人はみな、母のほんとの子だと信じていた。その子は、 が昼夜なき呵責に聞えるのではあるまいか。 父にすれば、この数奇な孫は、自分の過去を責める獄卒やがて数年後に病死したが、まだまだ貧乏の最中だったの か因果の変形みたいに思われた事でもあろう。ーー実父ので、葬式もしてやれなかった。 ひつぎ 自分を裏切った上、こんな置き土産まで残して行った、ぼ たしか母が果物屋から求めて来た空箱を柩としたように くの義兄政広の出奔という事が、どんなに病床の父を、や覚えている。母は「女の子だからね : : : 」と、その子の体 もだ おしろい りば無い怒りに悶えさせたことか、その気持ちは、母やばじゅうをお湯で浄めてやったり、顔へも白粉や紅をつけて くにも、分らないではなかった。 やった。そして果物箱の棺へ納めてやりながら「 : : : あん 1 三ロ あわ の父自身も又、そんな憐れな宿命の子を、叱ったり打った たは、よほど運の悪い子ね、こんど生れてくる時は、い、 けんえん りなどした後は、さめざめと、自分が嫌厭される容子だつお父さんとお母さんの仲に生れて来るんですよ」と、云い まくら いた。慚愧にたえない姿をして、枕に額を押しあてた儘、息聞かすような独り言を洩らしていた。 までうつぶ この子の葬式に行ったのは、ぼく一人であった。棺を風 ぎれのやむ迄、俯伏していた。そして、吐血後の胃潰瘍の ろしき 症状は、この前後から、また目立って悪くなった。ただの呂敷につつんで人力車の蹴込みに乗せ、施主会葬者、ぼく ぽだいじ 病色だけでなく、父の顔には、極度な神経衰弱だろうか、 一人きりで菩提寺の蓮光寺へ持って行った。ずいぶん気ま ざんき みやげ しか くだもの けこ れんこうじ

2. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

てくび この児はまだ坐れないらしく、手頸も足もひどく痩せ細けれど、わが子のロ数まで減らしている窮乏のどん底へ ろっこっ っている。まるで肋骨の上に細い首が乗ツかっているよう持って来て、どうして、そんな虚弱な子を引取れよう。何 こじわ かけあ ばあ な畸形だった。泣き顔には小皺が寄って、小さなお婆さんしろ父は病人で懸合いにも立てないので、母一人でただ謝 の顔みたいである。「 : : : どこの子 ? お母さん」・ほくがまりつづけていた。ところがその日、山田の使と称する者 訊いても、母も病床の父も、共に唯、暗然としているだけが、人力車に乗って訪れ、上り口へ子供を捨てるようにし て、さっさと帰ってしまったというのである。 その晩、あとで母から聞いた話によると、これは出奔し母はまったく途方に暮れた。自分の乳呑み児もある上に、 ころ た義兄政広の子であった。まだ家が以前の清水町にいた頃、こんなひょわい畸形の子を又抱えては、明日からの手内職 恋愛結婚をした義兄と愛人のお八重というひとが、 ・ほくらの仕事も台所仕事もろくに出来はしないであろう。それも、 あきら と一つにいたことがある。その後、半年そこそこでお八重実子の孫とでもいうのなら、これ又、諦めもっこうが、母 は実家へ帰ってしまい、義兄も出奔してしまった事は、先にとっては、義理の子の、しかも、ちょっと居ただけの嫁 に書いた通りである。 さんとの仲に出来た置き去り子に過ぎないのである。 その晩も、夜どおし、びいびい泣くのをあやしたり、し だからこの問題は、当然、とうに解消されていたはずだ った。ところが、お八重が実家へ帰ってから産んだ義兄ともの始末などで騒いだが、以後の養育は、並たいていな世 びろう の仲の子は、月足らずでもあったのかい或はひかんという話ではなかった。ここに詳述出来ないほど、尾籠な手数が せんたく 虚弱体質か、三ツになっても、坐れない、歩けない、発音かかり、食餌の苦労やら、日に何度もの着換えの洗濯やら、 やっかい 言語に絶する厄介さと、飢餓の絵その儘なわが屋根の下だ も満足でないという畸形児だった。 お八重の親は、名うてな相場師で、義兄との結婚前にも、 さんざん、ぼくの父を物質的にも精神的にもいためつけた 程な男である。こんな畸形児を、可愛がって養っておくは 言語に絶するなどは、ちと誇張めいた云い方のようだが、 ずはない。それに娘の再縁にも邪魔になる。そこで当然、 「この子は、相違なく、貴殿の子息の実子であるから、引何しろその子は、狸のように腹ばかり大きく出ていて、 取って貰いたい」と、再三書面や仲介人を向けて、談じ込くら食べさせてもすぐ食べたがり、朝から晩まで、お婆さ んで来ていたらしい んのような泣き皺を作って、食物ばかり欲しがるのだった。 もら かわい ただ あるい しよくじ たぬき

3. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

校へ行っても、ほかの子と差別されたり、いじめられたり ばくの生れた当時の両親は、横浜の根岸に住んでいた。するからである。 くらぎ その頃はまだ横浜市ではなく、神奈川県久良岐郡中村根岸だからぼくの両親は、それらの子たちには、親のごとく という田舎だった。家の前から竸馬場の芝生が見えたとい慕われたらしい。又、より以上に、感激してくれたのは、 うことである。 その子供らの肉親たちであったという。大げさに云えば、 ありがた 根岸競馬場は、横浜に外人居留地地区ができ、通商条約神さまか何そのように、有難がられ、月謝よりも、朝晩の ほっき ように、子の親たちが、畑の物や魚などを台所へ置いてゆ などが結ばれた後、外人ばかりの発起で創立されたという あざ くので、生活は楽だったし、よろこばれる張合で、毎日の から、おそらく明治維新前からのものであろう。字根岸、 字相沢などという部落が、急激に異国色に富む郊外として疲れなども、その数年は忘れていた程だったと、母は後々 開けて来たのは、この競馬場が置かれ、また海を望む高台まで述懐していた。 それとおもしろい事に、日本人の観念のあいだには、古 に、外人住宅が多く建ち並んだ事からだろうと思われる。 むとんじゃく かめだ い部落的な差別があっても、外人たちは、無頓着だから、 この辺の地主で、亀田某という人の借家に住み、それが 縁で、亀田氏のすすめから、ぼくの両親は、一つの生活にそういう中に、ジョ 1 ジだのフランクだのという眼の青い 子も、一しょになって、日本の小学読本を読んだり、歌っ ありついていたらしい たりして、けっこう仲よく飛び刎ねていた事だった。もっ 寺小屋、幼稚園まがいの、小さい学校を自宅でやってい たのである。元よりたくさん子供を預かったわけではなく、とも、これは明治二、三十年頃の横浜そのものの縮図でも 相沢の貧民街の子供らが対象だった。ところが、近所に住あったのだ。 む外国人の子供たちも来るようになり、思いがけないそれ ラロ のは成功であったらしい くっ 残相沢の貧民窟から奥の丘には、日本人墓地やナンキン墓多くを聞かされていないが、ぼくの父吉川直広が、横浜 れ などもあって、不当に社会からへだてられている人々が低の端ッこで、そんな国際的寺小屋の先生にたどりつく迄に 忘 、は、小田原の郷里を出てから後、もう相当、いろんな人生 地に部落をなしていた。地主の亀田氏は、そこの子たちに 深い同情をもっていた。ぼくの両親に、寺小屋をすすめた経路をふんでいたように思われる。 ため のも、その為だったろう。そこの貧しい子に限って、小学妻帯も、ぼくの母が初婚ではなく、その前に小田原で一 ころ

4. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

258 この近所での遊び仲間は、そうした職人絵描きの子だの、た最初の経験であったことはまちがいない。 牧師の子だの、医者や勤め人といったような家庭の子供達野放しな児童のあいだでは、遊戯以外、どうかすると、 だったが、その晩は、どうして夜まで遊んでいたのか、・ほ こんな気まぐれも行われていたのである。タコの心理や環 くらは、野良犬のひとかたまりみたいに、まだ遊び呆うけ境などにも、学問的にはいろいろ云えるだろうが、大人の ていた。 頭脳では分析のつかない点もある。電燈がなくランプ時代 そのあげくだったと思う。・ほくらより年上で、章魚とアの暗さというものをもう今日の・ほくらは思い出せなくなっ ダ名していた子の周りへ、みんなが円くなって集まった。 ている。原困のひとつは、世間の暗さにあったように思う。 くらやみ 何か秘密めいた興味が・ほくらを燃やしていた。タコは杉それに適合して、どんな暗闇でも、蹴っまずかずに飛んだ どびん をうしろに腰かけ、衣服の前をあけはだけて、土瓶のり刎ねたりしていた。いわば野性の子達であ 0 た。 ロほどな小さな性器をびんと立ててみんなに誇示していた。 ・ほくの家はよく引っ越した。青い窓の家から、もっと坂 どういうものか誰も笑いもしなかった。まじまじと、見の上の、そして前より広い家へ移った。 まもりあっていた。そのうちにタコは腰をにじらせて少し 門を並べて、すぐ隣りは、郵船会社の小沼さんだった。 - 」かん 位置を更えた。月の光がうまいエ合いに彼の股間へ青白く勤め人が立派なものに見えたのは、小沼さんの出勤ぶりを 射しこみ、奇妙な物が一そう鮮らかに見えたので、そのと見てからである。毎朝、お迎えの人力車が来る。美しい鼻 き初めてみんながクンクン鼻を鳴らして笑った。するとタ下の髭と金ぶちの眼鏡に、葉巻のにおいが流れ、小間使が、 ひざ コが誰かに「舐めろ」と命令した。「舐めないとぶンなぐ膝まで手を下げて見送っていた。 おどか まもなく、又、その後から、ふつくらと色白で、・ほくを るそ」と脅した。「ムわれた者が犬ころみたいに四つンい になって、タコのそれを口に入れた。タコはまた次の者に見るといつもほほ笑みかけてくれる奥さんが、どこかの女 命令した。順々に四ッ足じみた背中が引っ込んではまた次学校へ出勤してゆく。奥さんは髪を流行のイギリス巻にし はかまくっ の背中がタコの前に出た。 ていた。和服のときは袴に靴をはいて出かけ、洋装にはネ 正確にいえないが、・ほくは五ツか六ツだった。でもこのツトで顔をつつんでいた。自分に子が無かったせいか、 晩の印象は、ひどく鮮明なのである。・ほく自身にはタコのくはこの小沼さん夫婦にたいへん愛された。日曜日という ほふく 前に匍匐した覚えは残ってない。おそらく逃げ帰っていたと極って「大将サン、遊びにいらっしゃい」と、呼んでく ごちそう のであろう。然し、性器について何か意識を灼きつけられれる。どういうわけか大将サンと・ほくを呼び、御馳走して あざ ひげ めがね

5. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

二回吉原で必要を処理することを、その貯蓄思想や暇を惜 しむ点からも、規定していたらしいが、仮店風景となって のべっ勤勉家とサシでいるので、ぼくも勤勉家でないわ からは、面白さも加わり、ぼくという留守番もできたせい たくあんづけ けにゆかない。へコ帯紺がすりで、沢庵漬や干魚を提げた か、俄然、回数がひんばんになっていた。 たの だから週に幾晩かは、ぼく一人である。かかる夜は愉しり、共同水道へ、水汲みに行くなどは、初めはテレたが 「 e さんとこのお弟子さん」と、長屋中は親切にしてくれ かった。母に手紙を書いたり、読みたい物を読み耽った。 はず 朝になると、朝帰りの仲間が必ずぞろそろ立ち寄る。ゅう た。そのうちに長屋端れの共同水道へ水汲みにゆくのも、 べのもてたはなし、ふられたはなし、ワリ勘のやり取りなひそかな愉しみになっていた。折々、水道栓でぶつかる初 なが ど、人にもこの家は気楽だったに違いない。職人なので長初しい娘があった。紙人形のように薄手で弱そうな子であ じり 尻をする者はなく、氏もそんな日のあとは馬力をかけてった。露地で逢っても俯し眼に過ぎるだけだった。が、彼 仕事に打込む。急ぎ仕事がたてこむと、徹夜続きもめずら女の家の裏は、こっちの格子先だから、彼女の朝夕の声も、 しくない。仲間は氏へ面と向って「女郎買のヌカ味噌家族の暮らしぶりも、居ながらにしてよく分った。 まで ぐしつ 汁」と云ったり「そんなに、眼さ赤くただれる迄、金ばか花簪や花櫛の摘み細工、と云っても、現代人には通じ ゆいわたももわれ し蓄め込みなすッて、どうする気かね」とからかったりす難いが、下町娘の結綿や桃割などの髪によく挿したそれの りんしよく るが、氏の貯蓄心と吝嗇は徹していた。女郎買を除いた造花仕事を、一家中でやっていた。両親も兄弟も、みな上 以外では、憑かれた人のような面もあった。たとえば、婚方弁なので、彼女も東京生れではあるまい。「 z 子、 Z 子」 礼の折詰でも提げて帰ると、その鯛一尾を、幾日間も茶だと呼ばれるのを、つつ抜けに聞いているから、・ほくは名ま んすから出し入れして、焼き直しては一人で喰べ、あとので知っていた。自分の思い過ぎか、ぼくがドプ板を踏んで の骨でも、味噌汁に入れろと、ぼくへ命じる、といった風で外へ出ると、彼女も買物に出て来たりした。近くの縁日で あぜん あった。横浜ッ子の放漫な気質に馴れていたぼくには、初もよく行き会った。唖蝉作の流行歌 , ーーああ夢の世や夢の めは何とも奇異な人にみえたが、後にはその徹底ぶりに感世や、のメロディがどこかでする青白いアセチレン瓦斯の 忘 しか 服した。問屋先でも、 e 氏の吝嗇は有名だったが、然し信明減が、ひどく印象的に・ほくへ彼女を焦きつけた晩もある。 用のできる堅人、期日を守る勤勉家としては、誰にもみと開盛座の立見席で気づくとすぐ佩の人中に z 子の横顔が見 えたりした。然しどんな機会にも二人はロをききえなかっ められていた。 かたじん ふけ かんざし せん かみ

6. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

じようぎ きりだったその義兄も、三十何年振りかで、とっぜん、ぼ子弟に、ぼくの過程をひきあいに出して定規に当てような くの芝公園八号地の当時の住居を、尋ね当てて来たことだんていう時代知らずでもないつもりだ。 どろ った。ぼくもやっと、作家生活に入り出した初期の頃であけれど、過去の親たちが歩いた泥ンこな道にも、振返れ る。 ば、これからの子が、ぬかるみを歩く用意の足しになるぐ だが、すでに両親共、この世にはいなかった。人生、おらいなものはあろう。ぼくの父は、予期してではあるまい おかたは、まあそんなものであろうか。 が、偶然、子のぼくをして、ぬかるみを少し歩かせ過ぎて くれたようだ。といっても、父の死までのぼくの体験など も、やっと人生中学の門を卒業して出た程度にすぎない。 だこう 以上はぼくの人生中学の通信簿といったところだ。父は怖 駄稿、ここで終りとする。 ろくな記憶も、語るべき内容もないのに、四半自叙伝なかったが、怖かった父とか先生というものは又、妙に、後 ではなっかしく、そして、有難かったりするものである。 どと烏滸なタイトルを掲け、気恥かしいことだった。つい 云うまじき事まで云ってしまった気がしてならない。だが、 しん さいごに一言すれば、ぼくの青少年期は、何ともひどい辛 さん 酸をなめて来たかのようだし、読者もそう読まれたか知ら なしが、ぼく自身は、ちっともそんな気はしていないので いな ある。社会も家も否みようのない時代のワクの中のものだ なぜか、私はよく訊かれる。「あなたは髪を染めていらっしゃ ったせいであろう。いわばぼくも、封建の子の一型だった ものに過ぎない。現代の太陽族とかいう剌たる青春男女るので ? 」と人みなが問うのである。飛んでもない。私は日常髪 を洗うことさえしない不精者だ。けれど考えてみると、私も間も のには、おそらく事々一笑にも値しまい。けれど人生の真価 なく古稀といわれる年齢になるらしい。人が疑うのは当然だっ と迄云わないでも、どっちが、生命の充実とそのよろこび にもかかわらず気持ちにおいては、この「四坐自叙伝」 を持続しうるか、それはさいごの道まで歩いてみないと分 忘 中の私から、いまだに大して成長もしていない自分に思われて仕 るまい。・ほくとしては、これまで書いた十代から二十代迄方がない。だから人がまま「お若いですなあ」と云うのに対し 礙でも、充分愉しかった。いまの青年たちの日々と較べても、て、このちぐはぐな気持ちをどう現わしようもなく、私はいつも 悔ゆる思いは湧いて来ない。といって、自分の子や周囲のこう答えて笑いはぐらすのであった。「いや幼稚なんですよ。若 はつらっ ) 0 あとがぎ こわ

7. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

やがて、家の没落が、父自身の口からあきらかにされ、 0 あ 同時に、学校は中退しろ、他家へ奉公に出ろ、と突然云い 或る日の酒父像 渡されたのだが、その日その時まで、全然、何も知っては もろ いなかった。自分らの暿々と暮していた家庭がそんな脆い だから、そ あんにやもんにや、などという言葉は下町でも今は余りものとは、夢にも思えなかったのである。 使われていないのであるまいか。を ・まくら子供時分にはややの間の記憶はみな後日になって独り思い当ってきたり、母 もすると「 この子は、ほんとにまだ、あんにやもんに の過ぎた愚痴やら周囲の変化から自然あとで察しられたこ まで はなはあいまい やで」とか、「どうして、そういっ迄、あんにやもんにや とでしかない。甚だ曖昧な云い方だが、事実何とも、あん なの」などとのべっ云われたものだった。 ーーそれ にやもんにやの年代だったのだから仕方がない。 十四、五歳ともなれば、現代の子は、い わゆる十代の季が・ほくの幾ッぐらいかといえば、それもはっきりいえない 節をはっきり持ち、異例だろうが三面記事にも時々登場し が、何しろぼくが十四歳になる前の一年半か一年そこそこ て、単独の自殺もする、心中もやる。そんな子でなくても、の間に、らちゃくちゃなく、一家破減となったのは確かで きゅうかく 両親へは批判の眼をもつ。大人達へのたいがいな嗅覚は備あった。同時に、今となって思えばそれがぼくの尊い、あ ひとみ しゅうそく えてしまう。決して″あんにやもんにや〃なんていえる眸んにやもんにや時代の終熄でもあったのである。 の群れではない。 けれど、・ほくら明治の子には、それはいかにもふさわし い言葉であったらしい。ぼくらは間違いなくその分らず屋何か、家の中が近ごろ変だと子供心にも感じ出した事の 自分のばあい 以上の、あんにやもんにや達であった。 うちでも、いちばん変に思ったのは、真夜中に二階の道具 で云えば、現に家庭の内面では、ぼくの十三から十四の間類を、見知らぬ他人が何人も来て、まるで芝居で見た石川 ごえもん に、没落へ入る傾斜を急にしていたはずだし、いよいよ大五右衛門の手下達のように、梯子段から裏口へ担ぎ出して ゆく光景だった。 酒になるばかりだった父の酒狂ぶりにも、母の悩みにも、 ひそ 義兄の一身上や何かにつけてのごたごたにも、「これは、 当然、その物音には、ぼくら子供も、密かに眼をさまし ほかげ ただ事でない」ぐらいな感じは子供心にも分って来そうな た。そして深夜の奇異な大人たちの行動や灯影のうごきに、 ものだったのに、ぼくは一こう気づいてもいなかった。 唾をのみ、凝と、団の中から薄目をあいて見ていたも たけ はしごだん かっ

8. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

奥の茶の間では、三味線の音やら賑やかな笑い声がしてい家中がオティちゃんにつりこまれて陽気になった。 四ることがよくあった。 オティちゃんには一人の妹がある。ふみちゃんといった。 妹たちのために、一週間に何度か、踊りのお師匠さんがふみちゃんはぼくと同級生であり、気だても姉とは正反対 来る。それをすすめたのは、どうも義兄の政広らしい。義に内気にみえる。そしてこの妹の方は、近藤夫人のいまの 兄は小田原の花柳界で育ったので、踊り、長唄、芸事なら旦那の子であると聞かされていた。そう聞くと、どこかお 何によれ上手であったし、また好きであった。もちろん父坊さんの子くさい所もあった。けれど・ほくは、おない年で ほうらつぎようじよう の承諾をえた上だろうが、母も父の放埓な行状や家事のもあり、ふみちゃんとよく遊んだし、また少年期の初恋み 行末にクョクョするのを忘れて、せめてそんな事にでも気たいなものをほのかに抱いていた。 けれど、ふみちゃんは、姉と一しょにぼくの家へ来ても、 を紛らわせようと努めていたふうがある。 しゃ 踊りのお師匠さんはソレ者上りらしいきれいなお婆さんめったにぼくへロもきかないし、遊ぶといっても打解けて はくれない。唯一ペん、月の晩、大勢で隠れンぼをしたと だった。紹介者はすぐ近所に住んでいた近藤夫人である。 だんな おぐらへい き、二人してよその小暗い塀の蔭に潜み、やがてほかの子 近藤夫人のいまの旦那は普門院の住職だということだが、 らしやめん 以前は富豪な外人の洋妾であったという。子どもまで産んがみな出て行っても、二人だけは寄り添ったまま、そこに だので、その外人が本国へ帰るさいに、一生涯の養育費と屈みこんでいて、おたがいの息づかいを意識しながらわざ かげ といつまでも隠れていたことがある。 生活を保証してゆき、お蔭でいとも安楽に暮しているとい う婦人であった。 一葉の″たけくらべ″をみると、浅草界隈の事だったあ ころ 外人との間にできた子は、その頃もう十七、八になっての時代の世間が、横浜のぼくらの子供仲間にもそっくりそ エリザ・ヘス女王型の美人であった。ぼくたちは「オテの儘あった気がする。オティちゃん姉妹のことを、今でも あざ まぶた こう鮮らかに臉に描けるのは、やはりもう・ほくの少年期に イちゃん、オティちゃん」と馴れッこく呼んでいた。オテ たもと イちゃんは洋装したことがなく、いつも袂の長い和服を着も、はっきりした異性への思慕が芽生え出していたからで あろう。けれど、ふみちゃんに関するかぎり、思い出せる ていた。背が高いので、帯附きもよく似合う。「あれで、 濃い記憶は、その月の晩一ペんの事でしかない。ふみちゃ あいの子でなければ」と、「ムう人もあった。 オティちゃんは陽気な性で、オティちゃんがわが家へ来んは、学校の卒業まぎわに入院し、やがて病院で死んでし ると、母も日頃の苦労顔をどこかへやって笑いこけるし、 まった。胸が悪かったのかもしれない。ふだんからそんな しやみせん にぎ うた ばあ カカ いちょう ただ

9. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

又十郎は若い柔軟な四肢をすっくと伸ばした。父の木剣に、朱をそそいで立腹したのである。 やぎゅう いえすじ も正眼である。相構えになって父を見る。 「今の一言は、柳生の家系の者にはない事だ。未練な愚痴。 かすみ 木剣は見えて、父の姿は見えない心地がした。霞という無恥な嘆声。聞き苦しいたわ言である。そのような心根故 ひとたま 体を取ったなと悟る。一呼吸、二呼吸、父の息がひびいてに、 この老人の太刀にすら一堪りもなく打ち据えられるの じゃ。今日という今日、わしも初めて知った。平常人々か くる。悲しいかな御老体だ。又十郎は打ち込もうとした。 わら とたんに、それを知ったように、父の体が波間の月みたいら、但馬どのは子に甘い、子に眼がないと嗤われていたこ に揺らっーーーと上った。 との真実を」 おのの ーーー来る ! 怒り顫いていうのである。はっと又十郎は地へ手を と感じたせつな、ばんと又十郎の木剣が鳴った。動作はついてしまった。生れて初めて見た父の形相に彼も慄えた。 意識でなく霊だった。どう闘ったか覚えないのである。だ 恐い父としていた平常の父の姿は、実は甘えて居るから たた ゆる がその瞬間、又十郎は木剣を地へ叩き落されていた。さつの恐さであった。今の父の面には微塵もそんな弛みはない。 すき と、手を伸ばして拾いかけた時、もう一撃、肩を打たれて、寸分の情も隙も見せない。 「参りました ! 」 「おのれ如き性根の者が、柳生家の子よ、柳生流のつかい りゅう 思わず云って、地へ坐っていた。 手よと、世に思われては、わが家の流を誤まるのみか、流 残念でならなかった。又十郎は肩で喘ぎながら、敗れた祖の御恥辱と申さねばならぬ。それもこれも、上様より戴 こうろく 木剣を把って、 く高禄に安んじ、子に愚なるこの父の許にいて、修行の精 「短かった。この木剣が、もう三寸程も長かったら、お父進を心に失うておる証拠でのうて何であろう。今日限り、 そのような人間は、子でない父でない。勘当申しつけた。 上には負けないものを」 きっと つぶや ーーー上様のおん前にて、屹度、義絶申し渡したぞ。口惜し 抄と、未練そうに呟いた。 影 その負け惜しみの口惜しそうな態が、真実味を漂わせて、くば、その性根のたたき直るまで、修行いたして参れ。 月 おもて ーーええ、見るもわしい奴」 性見ている家光や周りの者にはおもしろかった。人々の面に ちょうちょう かるい苦笑がながれた。 云いながら、但馬守の手にある木剣は、丁々と、又十 たじまのかみ 郎の五体を何度も打ち続けていた。 するとふいに、但馬守が、 ひど 「だまれつ」と、辺りの耳を奪うような大喝で叱った。面「酷い : : : 余りな一徹」 だいかっしか ′」と みじん ふる いただ

10. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

ため 口に出した例しもない。だから「おっ母さんは・ほくに何かしまうと、忙しげに自分で髪を梳き、束髪にきゅっと結ん ごと ふろしぎ 隠しているーとは知っていたが、然し、監獄署からの郵便で、何か難しい書物だの鼻紙などを例の如く小風呂敷につ まで 物を見る迄は、まだはっきり父の所在について何うこうのつみ、千代を負ぶって「英ちゃん、またお留守番していて ね」と、洋傘を手にしかけた。 考えも格別もっていなかった。そのくせ、父が入獄してい その日まで、ぼくは父の事は母へは何も触れずにいたが、 るのだと明確に分っても、急に真っ暗な悲しみにくるまれ かを無性に父が恋しくなって「ぼくも一しょに行くーと云い出 たという覚えは少しも残っていない。な・せだろう ? げた いま考えてみると、父にたいする畏敬というか信頼というした。そして、下駄をはいて外へ出てしまった。母はおそ らく当惑したことであろうが、何のかのと云いながらも、 か、とにかく監獄にやられようが路傍で失業して居ようが、 子にとっては、あくまで父そのものであって、それ以外な戸閉まりをし直して、黙って・ほくを連れて行った。まだ電 何者でもない気もちが子の根底になっているのである。 車もなく人力車にも、もう乗れる身ではない。母は当歳の これは、ぼくだけでなく、明治の子には、共通なとも云赤ンぼを負い、四ツの浜ちゃんの手をひき、炎天の長い道 えるのではあるまいか。もちろん教育もそう仕向けていた程を根岸まで根よく歩いた。今でこそ何でもない近さだが、 たど れんが し、社会のしくみもそうだった。その点では家族主義の成当時は川沿いや田舎道をさんざん辿って、あの高い赤煉瓦 功が国家の上に実をむすんでいた最盛期だったかもわからの塀が見えて来る迄には、足も棒になるほどだった。 ない。何しろ、どんな低い職業であろうと貧乏人の子であ監獄前に橋があり、河を前に代書屋や差入屋が軒を並べ あか・こ ろうと、自分の父は世間の中でも一番いい人、正しい人とていた。その一軒に入って、母は背の赤児に乳をのませ、 して、信頼していたものである。少なくも、・ほくの気もち何か用をすますと「おまえは、ここで待っていらっしゃい。 はそうだった。だから父が根岸の監獄にいると分っても、子供は入れない所だからね」と、ぼくをおいて橋を渡り、 父と罪悪とを、あわせて考えることはできなかった。かえ鉄と赤煉瓦の大きな門の内へ隠れてしまった。ぼくは河べ ひごろこわ いたずら って、日頃恐い父が、なっかしくなり、子供心にも、父のりに並んでいるオボコ釣りの人の間を見て歩いたり、悪戯 事を見つけて、結構、飽きもせず遊んでいた。 孤独な姿が想像され、少しばかり涙が出た。 ・こ、ぶ経ってから、母が戻って来た。そして又、元の道 を、親子四人、日照りの下を黙々と歩いた。「ぼく、お腹 夏の終り頃であった。母は子供たち三人を学校へ出してが減ッちゃった」と、怺えきれなくなって訴えた。たしか こら なか