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検索対象: 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集
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1. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

302 げて、奥へ逃げこんでしまった。 て、よその門口から門口を断られて歩いたり、ひとの切れ そんな事が根にあったせいだろうか、もとより子供心の草履を拾って足にはきながら食を探す路傍の小大になって わんばく 腕白にすぎないわざだが、・ほくはこの貞をよくいじめた。 いた。ーーー何かつらい思いにくるまれて、ぼろ。ほろと、ひ 女中いじめは母が最も注意していた所だが、一度などは、 とりでに顔が下へ向いてしまう時など、貞の顔が、往来の 母も留守だったのであろうか、何か気にくわない事から怒地面に見えてきた。そして、貞はもうお嫁に行っただろう すみ り出して、・ほくは貞を追ツかけてゆき、廊下の隅へ追いっかなどと思ったりして、もしどこかで、貞に会ったら、ど なぐ めて、持っていた本で貞の頭や横顔を夢中で撲った。貞は、 うしようと、本気になって歩くにも心を労ったり、心のな 壁を背にしてべたんと下へ坐ってしまい、両手で顔を掩つかで、謝ったりしたものだった。 ていつまでも凝とうごかなかった。けれど、・ほくは貞が又、 いつものソラ泣きしているものと思って、もう一ペんカま けんか かせに貞の髪の毛がこわれるほど本で打った。すると貞は 前に、外では喧嘩をしたことがないと書いたが、外でも にら 一度、やったことがある。 途端に、きっと顔をふり上げて、ぼくの顔を睨みつけた。 にじ はなぶさ 歯から血が滲んでいた。いつものソラ泣きではなかった。 名は記憶にないが、相手は・ほくらより一学級上で、英 と思っただけでも、ぼくは何か自分の手がしびれたような町の焼芋屋の息子だった。二度も落第していたので、小ッ くや むらすずめ 気がしていたのに、貞はいかにも口惜しげな眼をじっとす・フな・ほくなどよりはるかに大きかった。これが・ほくら群雀 えて「覚えてらっしゃい。今に今に、 : : : 坊っちゃんだつの同級生には、鷲みたいな脅威であった。たびたび皆で歯 まで うち まわ ていっ迄、お家に居られやしませんからね。そして、よそぎしりしていたが、どうにも強くて彼の影を見ると逃げ廻 るだけだった。ところがある日、どういういきさつがあっ へ出て行けば、誰かにきっとこんな目にあわされるんだか ら」と、泣きじゃくり、泣きじゃくり、又・ほくを睨み直したのか、・ほくが帰る途中、彼の方から前に立って、・ほくの みちたちふさ て何度もった。 行く途に立塞がった。 ・ま このとぎほど、・ほくは自分の悪さを身に沁みて感じたこ ほかの連れは、彼を見るやいなやみな逃げてしまい こわ とはない。恐いような気もちにさえ襲われた。貞は、ちぢくだけ一人逃げ損なってしまった。もう逃げられないとい ぼくろ れ髪で額のまん中に、地蔵黒子があった。それから幾年かう気力、ド ・、まくを盲目にしていた。・ほくは二三度、肩かどこ 後には、ぼくは貞が云った通りになった。行商箱を背負っ かを小突かれたように思う。学校カバンを肩に掛けていた じっ ぞうり わし

2. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

274 何しろ、・ほくは遊べなくなっていた。この頃から急に、 しにア・フ公の顔がこっちを見た。 ばくは奇妙な気もちに行き選ぐれて帰った。ショックと父のあり方が、前にもまして厳格な存在に映ってきた。父 しっと いうほど強い嫉妬でもなかったし、少女とア・フ公の戯れも、は、かって自分が受けた通りな子弟教育の範を、封建その くんと′ノ 大人の行為のそれとは違うものであったろう。けれど当座ものの薫陶を、子のぼくへ、課し初めて来たのである。 たま は、堪らない少年の孤愁にとらわれ、それからは、ア・フ公毎日の学科がすむのは、午後二時か三時頃である。もう とも口をきかなくなり、日曜日の讃美歌も歌いに行かなく級友はみな帰ってしまい、ガランとした教室の中には、・ほ なってしまった。 くと英語の先生だけが残っている。ナショナルのリ 1 ダー の一を前に "lt is a dog" だの "lt is a hat" などを繰 返しているうちに窓外は薄暗くなってゆき、帰りたさ、遊 母は、ぼくを、よく口ぐせに「医者にしたい」と云ってびたさに、堪らなくなってくる。 ダーの上へ、涙をばろばろ いた。父は「ばかをいえ、これからは貿易だ、事業家にす自分も知らないうちに、リー じゅく る」と云っていた。母の考え方は、母が娘時代を近藤塾でこ・ほしたりした。これを半年ほどやってゆくうちに又、九 過していた影響であったろうし、父は自分のやっている輸歳の一月からは、もう一つ夜学の励みが加えられた。 さんばし 夕方、家に帰ると、すぐ晩飯を喰べてから、今度は、前 出入業や桟橋会社の事業が好調のさかりだったので「わが に書いた少女の家のスジ向いに住んでいる漢学の先生の所 子も、将来は横浜でーという考えだったにちがいない。 へ、毎夜夜学に通うのだった。 ・ほくは八ツの尋常一一年頃から、学課が終っても、毎日、 ただ一人だけ、二時間ずつ、学校に残された。そして、一 この先生は、お母さんらしい老婆と学生の弟さんと三人 こうとう 人の英語教師から、英語の単独教授をうけた。 暮らしで、奥さんはなかったようだ。水戸の人で、岡鴻東 これからは貿易だ、英語だ、という考えと子供への方針と覚えている。まだ三十がらみの小づくりで温容な人だっ もんっき から、父が特に山内先生に依頼して、ぼくに早くから外語た。いつも黒木綿の紋附の羽織を着、襷をはき、・ほくのお を身につけさせようとしたものだった。 辞儀に対してさえ、礼儀正す風だった。桑の木か何かの小 もひとつの理由は、ぼくの素質と素行を見て、親の眼か机をおいて、先生と向いあうのである。 ら「これはいかん」と、何か父の頭に、教育方針の一変を いちばん最初に先生から示された教科書は″中学漢林″ 思わせるものがあったのかもわからない。 で、外史や十八史略の抜抄であった。それで多少興味づけ ごろ

3. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

みやくはく のそ ただ脈搏だけをしている何キロかの肉塊にすぎない。多少、な暮しの家かと、恐々、おふくろのヘソの穴から外を覗い 記憶めいた覚えも、父母か周囲の移植であり、もし人間が、てみると、家は大阪のゴミゴミした横丁で、おやじは古着 完全なる自己の出現を、自己の官能で知りたいと希ったら、屋らしく、無精ひげを生やして、ポロの山の中でゼニ勘定 はんもん か何かしているし、おふくろはビイビイ泣く餓鬼どもを台 これは煩悶に値することである。そんな煩悶はくだらない あきら と諦めていられる人間だからいいが、よく考えてみると、所でどなっている。こいつあ、たいへんな貧乏長屋だ、し しやく : 」というような 癪にさわることでもあるのだ。なぜなら社会は無知を恥じまッたと思ったが、もう追いっかない : じちょう るようにできているが、人間のロぐせに云う「おれが」で自嘲の人生揶揄を書いていた。 も、「われわれ」でも、その生命の出発点から、てんで自 間に合わなくては仕方もないが、出来ることなら誰でも 分でも分っていない「おれ」なのだ。 直木のように一応へソの穴から外をたしかめてから出て来 たんな - 発車駅の東京駅も知らず、横浜駅も覚えがない、丹那トたいだろう。ぼくの場合は、直木家のごとく、ほかに。ヒイ ンネルを過ぎた頃に薄目をあき、静岡辺でとっぜん″乗っビイいっている者はなかった。ぼくの生れる前の一女子国 ていること″に気づく、そして名古屋の五分間停車ぐらい子は生後まもなく亡くなっていた。ぼくは父二十九、母二 からガラス越しの社会へきよろきよろし初め「この列車は十六という若夫婦の間に生れ、前に一女を失っているので どこへ行くのか」と慌て出す。もしそういうお客さんが一 「こんどは失くさないように」と哺育は大事にされたらし あた 人居たとしたら、辺りの乗客は吹き出すに極っている。無 あわ 知を憐れむにちがいない。ところが人生列車は、全部の乗といっても、母は多産の方で、ぼくをかしらに七人も生 客がそれなのだ。人間が生れ、また、自分も生れているとんでいるので、大事にされたといっても、あとのヒョコが まで こつけい 続々出て来ない迄の間であったろう。老いての後の母のく いうことは、じつに滑稽なしくみである。 りごとといえば「おまえ達の小さいうちは、乳にも背中に ひざ も膝にも、たかられて居て、一ペんでも落着いて御飯を喰 人権がある以前に、人間には、当人の諾否なく、その人権べたことはなかったよ」という育児の苦労ばなしが大半で、 を附与するという人権無視がある。むかし直木三十五が苦またそれをぼくらが聞いてやるのが母には何よりの慰めの ようであった。 楽かオールに書いた半自叙伝的な物の書き出しには「 いったい、おれがこれからオギャーと生れ出る所は、どん ころ あわ わが こわごわ

4. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

のもこの頃からである。・ほくの読書の初めといっていい。 を一枚ゴマ化した。そして、それの隠し場所に窮したあげ 博文館の少年世界は、まだ少し難しい感があった。そこへ 、着物の上ゲの縫目にじこんで澄ましていた。ところ あわせ すそ すべ ゆくと、小波の世界お伽噺は菊判四号活字で読み易くもあが袷なので、いつのまにか二十銭玉は、裾の方へ辷り落ち ったせいか、すでに何十種も出版されていたが、出ているてゆき、歩くたびに、コッコッ足へ触るのだった。 限りの物はあらまし読んだ。 どうかして費いたいのだが、費う手段を知らないのであ たしか定価は一部七銭だったと思う。家庭では、そうそる。寝るにも起きるにも、着物が心配でならなかった。そ かしやく う七銭の本は買ってくれないのである。牛島坂の上に、格して硬貨が足に触るたび、人知れない苛責にひとりいじけ あやま 子作りのしもたやがあって、そこの小母さんが玄関の上りていた。い っそ謝ろうかと何度も思うのだが、日がたっ程、 三畳に書棚をすえ、その世界お伽噺から、金港堂のお伽文母にも云えなくなっていた。唯、罪の負担と、銀貨の処置 庫だの、日本偉人伝だの、イソップ物語だの、子供向きのに、当惑していた。 ものばかりをおいて貸本屋をしていた。 ある時、ぼくはその事を、年上の一人の友達にそ 0 と 貸本のお伽噺は、すべて一冊一銭だった。だが、馴れてった。近所のア・フ公という背のヒョロ長い子だった。アプ 来ると、一銭持って一冊借りにゆき、格子の外から歩き歩公は子供のくせにロのまわりに黒っぽいヒゲが生えていた。 まゆめ き読み初める。そして読み終ってしまうと、途中から又、眉と眼がくッ附いているような顔だった。よく腰巻一つで はだし 大急ぎで引返して「小母さん、これはもういっか読んだ本波止場を裸足で歩いているアラビア人と似ていた。やはり だからほかのと取り換えてくんない ? 」とべつな本を借り混血だったのだろうが、どんな家庭の、どんな職業の人の て帰ったりした。 子だったかは、覚えていない。 この手を何べんとなくやっているうちに、ある時、針箱とにかく、ア・フ公に、秘密を打明けたのは確かである。 の前から立ちもせずに振向いた小母さんから「英ちゃん、すると彼は、ぼくの着物の裾をめくり上げて、裾の縫目を これからは、あんたにだけは一銭で二冊ずつ貸して上げる歯でみ切った。そして角にギザギザのある二十銭銀貨を から、いちいち私を二度ずっ立たせないでおくれね」と云手品のように揉み出した。彼はそれを握った儘、・ほくの手 われて、顔じゅう熱くなった気持はいまも忘れえない。 には渡さなかった。・ほくも又、自分で持っ勇気はなかった。 そろそろ悪智が芽生え出していたのである。一度こんなアプ公は突然、こう叫んだ。 事があ 0 た。どういうみか、母の眼を麝んで二十銭銀貨「伊勢佐木町〈行こうや、伊勢佐木町へ連れて ' てやる」 しょだな ころ ただ

5. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

らいの子が豆腐など買いに行けるか、といって威張ったそ時には自省してみる必要がぼくにはある。忽然と社会の木 また うじゃよ オいか。な・せ、青くなるか。切れ」と云って、銀左の股から生れて来た者みたいに、・ほくは自分を取澄まして 衛門がねめつけた。いくら謝っても、ペソを掻いても、断安易にうぬ惚れてもいられない。 じて「切れーと云うのみでゆるさない。 じゅく 家じゅうの騒ぎになった。姉はもちろん風邪ひきの母も 塾の明治娘 下男もみな一室に寄って来て、丈之助の代りに泣いて託び なだ るやら宥めるやらを尽したが、銀左衛門はゆるすとはいわ ない、そのうちに、深夜になった。堪らなくなって、姉や文芸家協会の会員カードを初め、よくいろんな問合せや 下男たちは、戸外へ走って行った。親類の者を呼び集めに申込書などに、略歴、本名、生年月日などの記入欄がある 行ったのだった。後から後からいろんな顔が加わった。けが、いったい、生れた月日などを、他人が何の便利につか れど、銀左衛門は、それらの人々のとりなしにも「うん」うのだろう。ヘンな習慣である。自分自身にさえ、間違い とはいわない。そのうちに、とうとう夜が明けてきた。やのない生れ月や日を確める必要などは一生の間でもめった っと銀左衛門も折れた様子で「では・ : と云ったのが朝にありはしない ころ 陽を見た頃だった。「ゆるすわけにゆかないが、親類の衆だが、何だかここではそれが必要事みたいになって来た にあずけておく」それが、銀左衛門のさいごの云い渡しだので、明記すると、ぼくのは″明治二十五年八月十三日 生〃が戸籍面である。 ったという。 その場から丈之助は叔母か誰かに手をひかれて親類の家ほんとは、十一日生れだが、届け出が二日遅れたのだそ へ連れて行かれた。よくある親類預けになったわけである。うだ。どうでもいいようなものの、母の亡い今日、そんな の親類も貧乏だったろうし、しつけとか、こらしめの意味も事もまた聞いておいてよかったと思っている。自分だけに ふくめて、それからすぐ丈之助は、小田原から数里奥の道とっては、地球の実存以上、重大であった自分の誕生日が、 了さまと俗にいう山の寺房へ寺小姓にやられてしまった。 あいまいもこであるよりは、やはりはっきり分っていた方 ごんげん 忘 ぼくの父は以後十四歳まで、道了権現の山の中におかが気もちがいい れ、おかげで修学もできたが酷使されていたのだそうだ。 といっても単に生れたんだという測とした観念のほか、 まで こういう祖父と父とからつながっているぼくであった。と、もの心がつく迄の何年かは、誰でも例外なしの空白である。 一三ロ たま こっぜん

6. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

ため 口に出した例しもない。だから「おっ母さんは・ほくに何かしまうと、忙しげに自分で髪を梳き、束髪にきゅっと結ん ごと ふろしぎ 隠しているーとは知っていたが、然し、監獄署からの郵便で、何か難しい書物だの鼻紙などを例の如く小風呂敷につ まで 物を見る迄は、まだはっきり父の所在について何うこうのつみ、千代を負ぶって「英ちゃん、またお留守番していて ね」と、洋傘を手にしかけた。 考えも格別もっていなかった。そのくせ、父が入獄してい その日まで、ぼくは父の事は母へは何も触れずにいたが、 るのだと明確に分っても、急に真っ暗な悲しみにくるまれ かを無性に父が恋しくなって「ぼくも一しょに行くーと云い出 たという覚えは少しも残っていない。な・せだろう ? げた いま考えてみると、父にたいする畏敬というか信頼というした。そして、下駄をはいて外へ出てしまった。母はおそ らく当惑したことであろうが、何のかのと云いながらも、 か、とにかく監獄にやられようが路傍で失業して居ようが、 子にとっては、あくまで父そのものであって、それ以外な戸閉まりをし直して、黙って・ほくを連れて行った。まだ電 何者でもない気もちが子の根底になっているのである。 車もなく人力車にも、もう乗れる身ではない。母は当歳の これは、ぼくだけでなく、明治の子には、共通なとも云赤ンぼを負い、四ツの浜ちゃんの手をひき、炎天の長い道 えるのではあるまいか。もちろん教育もそう仕向けていた程を根岸まで根よく歩いた。今でこそ何でもない近さだが、 たど れんが し、社会のしくみもそうだった。その点では家族主義の成当時は川沿いや田舎道をさんざん辿って、あの高い赤煉瓦 功が国家の上に実をむすんでいた最盛期だったかもわからの塀が見えて来る迄には、足も棒になるほどだった。 ない。何しろ、どんな低い職業であろうと貧乏人の子であ監獄前に橋があり、河を前に代書屋や差入屋が軒を並べ あか・こ ろうと、自分の父は世間の中でも一番いい人、正しい人とていた。その一軒に入って、母は背の赤児に乳をのませ、 して、信頼していたものである。少なくも、・ほくの気もち何か用をすますと「おまえは、ここで待っていらっしゃい。 はそうだった。だから父が根岸の監獄にいると分っても、子供は入れない所だからね」と、ぼくをおいて橋を渡り、 父と罪悪とを、あわせて考えることはできなかった。かえ鉄と赤煉瓦の大きな門の内へ隠れてしまった。ぼくは河べ ひごろこわ いたずら って、日頃恐い父が、なっかしくなり、子供心にも、父のりに並んでいるオボコ釣りの人の間を見て歩いたり、悪戯 事を見つけて、結構、飽きもせず遊んでいた。 孤独な姿が想像され、少しばかり涙が出た。 ・こ、ぶ経ってから、母が戻って来た。そして又、元の道 を、親子四人、日照りの下を黙々と歩いた。「ぼく、お腹 夏の終り頃であった。母は子供たち三人を学校へ出してが減ッちゃった」と、怺えきれなくなって訴えた。たしか こら なか

7. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

372 冬の夜など、乾いた事のないドッグの底での居残り作業なかったのである。 は、零下何度なのか、陸では知らない寒さだった。 まわ しかし技師や監督も見廻りに来なくなる夜半過ぎになる ろうそく と、彼らは適宜に暖を取りに上って行ったり、蝋燭の灯を 小屋の仲間は、雨の日とか、夜業の夜には、暇を盗んで こしら 寄せて、ばくちの盆ゴザを拵え始める。二個のサイコロをよく手製の木靴を作っていた。 誰かは必ず内ポケットに用意していた。船底とかぎらず、 どこからか杉材を見つけて来て、足型ともん数に合せ、 うわやくめ なたのこ 沖仕事に出ても、途中のサイバン船上ですら、上役の眼さ鉈や鋸や小刀で、まず靴の底から作り初める。サンダルの えなければ開帳する。 底部と思えば間違いはな、 ぼくはよくその仲間から立番を命じられた。後では五銭皮革の部分はズックで作る。これはロップ小屋などから のぞ 玉ぐらいを誰かがくれる。けれど度々のうちには覗いてみ持ち出してくる。そして・フリキ板を細い帯状に切り、木の たくなり、すぐ彼らの熱中する理由と丁半のルールも分っ底部の縁とズックの被包面との継ぎ目を縫糸の代りに鋲で た。恐々何枚かの銅貨を手にしてそっと仲間のコマと一しトントン打ち止めるのである。紐通しの穴金具は、これは ょに張ることも覚え、いっかばくも機会があると人なみに靴屋で買っておく。 それでもう穿けるのだが、なお防 顔の中へ顔を突っ込んでいた。するとある折、綽名を・ ( テ水の為に、ズックの面をお手の物の油脂で塗りたくる。案 ひげづら レンとも神父サンとも呼ぶ髯面の老工員力、に ・、まくを上わ眼外丈夫で、何よりも足がとても暖い。だから船具部ではこ にら ごしでジロと見、「よしな。おめえは」と、ぼくを睨んだ。れを穿いていない者はない。足だけ見ても、あいつは船具 ちかごろ それから夜明け方、小屋へ引揚げてゆく途中で又、ショゲ部だなと、ひと目で分った。近頃はどうか知らないが、木 たた ている・ほくの肩をその人が叩いた。 靴にべンキの乾漆服という妙な好の工員はドックにだけ 「あんなこと、覚えたって、しようがあるめえ。おれみたしか見られる風俗ではないかとおもう。 はだ いに成ッちゃうぜ」 帽子もペンキが積もって蟇の肌みたいになったのを皆か きぐっ 小屋へ戻ると、彼はぼくに一そくの木靴をくれた。それぶっている。船腹塗装を終日する日などは、足場の上はい うらや までぼくはみんなの穿いている木靴を羨ましいとは思ったつも風が強いので、ペンキ刷毛の先からテレビンの飛沫が が、革靴のように売ってもいず、手に入れる工夫も知らず、吹きかかって、睫毛もくッついてしまったりする。夕方は 始終、水びたしの足に、ただの破れ靴か草鞋しか穿いてい顔見合せて、相互の姿をお笑い物にして笑うのだった。 しんぷ わらじ あだな ため ふち まっげ ひも

8. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

云った。母は沢山な子持ちになってからも、早朝に起きて洋服の・ハンドでも、腹のくびれるほど固く締めないと気が てのひら おしろい 台所へいくと、引窓の明りの下で、すぐ掌に水白粉を溶すまなかったが、この頃は逆にゆるやかでないと気もちが みずぐし いて手早く顔になすっていた。そして水櫛で髪をなでつけ、悪いようになった。幼少の習慣もひどいものだが、だんだ それからお勝手にかかるのが長い間の、 , ーー年老 0 た後まん変 0 てくる自分のもや横着さにも気づかれる。 での習慣だった。 だから、ぼくら子供らは、母の寝起き姿のままの汚ない 素顔や、だらしのないは、殆んど見ない程だ「た。今良い子の・ほくは、外でも喧嘩はしなかった。しかし父の 留守を窺って、家の内では何をやってた事やら分らない。 でも母の顔を思いにえがくと、どんな貧乏時代の母でも、 母は薄化粧したきれいな人として胸に浮かんでくるのであみどり屋の売溜めから折々銀貨をクスネていたのは長いこ しゃれ とであったが、一度も叱られた覚えがないから、父も母も る。こんなのは、たいへんなお洒落ともいえるわけだが、 ・ほくの行為をつい知らず仕舞いでいたのであろうか。 父にいわせれば、それが女のたしなみだったようである。 いやたった一べン、店の隅でそれをやっていた所を、女 といって、鏡台の前に長々と坐って、母が口紅をつけたり 髪をいじくっている姿も余り見たことはない。それなどを中の貞というのに見つけられたことがある。貞は根岸の漁 当時のことばで「おひきずり」と云ったのであろうと思う。師の娘であった。・ほくのすぐ下の弟は病気して、しばらく へこおびぎま ・ほくら男の子は、紺ガスリに黒の兵児帯と極っていた。漁師の家へ里子に預けられていた。夏など、ばくもよく海 紺ガスリ以外ほかの着物は着せられたことはない。学校通水浴に行ったりした。そんな縁故から来ている娘だったの いには必ず小倉の袴をはき、袴のはき方は父からじかに教で、どっちにも馴れ馴れしさがあったにちがいない。貞は、 さんすきま ひも わった。どうかして、その袴の紐をぶらぶら垂らして歩い・ほくがあの旧式な銭箱という物を横にして桟の隙間から銀 誉ロ のているのを見られると、すぐ母からも叱られた。当時、横貨を棒か何かで掻き出そうとしているキワどい所を見つけ ・ : 」と、大きな眼をみはり「英さんたら、そ 浜には不良の愚連隊が横行して、おそろしく長い羽織の紐て「あらっ : くび を附け、その先っぽをチョッキリ結びにして頸へ引っ懸けんな悪い事をして。お母あさんに云いつけますよーと云っ まわ て歩くのが澹行ったが、そんな真似などすればなお叱られた。「なにつ」・ほくはかえって貞へ食ッてかかった。「いし ししつけてみろ」そう云って、ひどいけんま 。しつもきちんとしていないといけなっけるなら、、、 礙た。ともかく服装よ、、 かった。その習性で、・ほくはつい近年まで、和服の帯でもくで、貞をなぐりそうにした。貞は何か、捨てことばを投 こくらはかま うかが

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386 もうじゃ たに違いないと見、流行の苦学亡者を論成するような語で、りついた。そしてひと寝入りして、翌日は又、黙々と、ラ くぎ まわ あたまから・ほくを叱ッた。「まして、おまえの家では、おセン釘削りの器械を廻していた。 まえが居なくな 0 たら、困るじゃないかね。お父さんは働あとで反省してみると、昨夜の事は、母へも悪い事をし けん人だというし、おいくさんだ 0 て、まだ小さいのを沢たと思 0 た。ぼくの家が、転々と、どん底からどん底へ落 山抱えている所だし」と「ム「たりした。そして「汽車賃だちて行 0 た多年の間も、引 0 越し先を尋ねては、先方から けは上げるから、帰んなさい。帰って、家の手助けをせに訪うてくれるような人はひとり斎藤の伯父だけだった。し や不可ん。おまえは、おいくさんの長男ではないか」と云かも、その人に嫁いだ、・ほくの母の姉は、もう故人となっ うのみで、何も耳には入れてくれないし、又ぼくも、ここて、後添えの夫人が家庭にいるのである。そんな事も思わ 迄来る途々考え抜いていた事の一端すらも、ロに出すことず、母に黙 0 て、斎藤家を頼って行ったのは、無分別とい が出来ずにしまった。 うものに極っている。・ほくは母への手紙に「 : : : もう行き ません、何があっても頼りにはしません、斎藤家へ謝って おいて下さい」と、書いた。 しか 訪れた悔をその儘抱いて、ぼくは夜半の一時頃、斎藤家然し、斎藤家の方でも、後には、ぼくの出京が、母も諒 の門をすごすご辞した。金も無いが、もう電車も通ってい解上の事であったのを知って、ひどく気の毒がったそうで ない。青山の果てから本所の果て迄、又ぶらんぶらん歩いある。という話を、後年、従妹から聞かされた。その従妹 て帰った。 の園子は、まもなく横浜の岡野銀行頭取の石渡又七へ嫁い かまくら 生来の空想癖にすぐ遊ぶせいか、を ・まくはこういう場合も、で、つい昨年迄、鎌倉に住んで居た。この″忘れ残りの 道の遠さとか、人の辛さとか、そんな事は余り心にこたえ記〃の初めの方に書いた、ぼくの母に関する娘時代の事は、 この晩の長い帰り道も、何を考え考え歩いたろうか。従妹の記憶に依る所が多かったのである。けれど、その従 腹も減っていたに違いないが、さつばり悲痛な気持ちはな妹も、ついこの春亡くなった。 しんせぎ かったようだ。親戚の冷たさとか、世間の無理解に不平を なすりつけてみるとか、そういう卑屈感は、少しも心を もや たの てさげ ませていなかった。至極のん気に、夜靄のさまよいを愉し菊川町界隈の沢山な小工場の中に、 tn 手提金庫製作があ みつつ、夜明け近く迄に、ぶらんぶらん菊川町の工場へ帰った。四月頃、ばくはラセン釘工場の主人とも諒解の上で、 しか つら ごろ のちぞ

10. 現代日本の文学 Ⅱ-4 吉川英治集

そどく られてから論語や小学の素読へ移った。和書のページの難 しゆとうし 解な辞句の所には、朱唐紙を小さくちぎり、ちょっと舐め 父がぼくに課したことは、もちろん父の愛情と信じてし て、疑問の印に、辞句の部分へ贈りつけておいたりする。 ていたことであろう。なし易い小愛を超えた父性の大愛と あの和書の中へ点々と貼った紅梅みたいな朱唐紙の色だけも考えていたにちがいない。今の父親や教育者には理解し には、子供心にも優雅なものを感じたりした。 ・、たいものだろうし、現在のぼく自身にも、到底できない。 だが、いくら家の近所にしろ夜学が終って帰ると、もうけれど間違いなく、こういう父性と家庭環境に培われた 八時か九時近かった。その頃、父も会社から帰っている。 ぼくではある。だから現在の・ほくの子供らから、・ほくを見 ゅむ そして時には又、父の前で、英語と漢学の復習をさせられれば、ぼくという父にも多少どこかに祖父的な煙たさがあ た。わずかな時間だったろうが、これが何より辛くて、 るかもしれない。ぼく自身は充分、今日という時代反省を ちばん長い時間に思われた。冬の夜などは、室内の暖かさ経ているつもりではいても、どこかに何かは遺伝している に、どう気をひきしめても、つい居眠りが出てしまう。 だろう。しかし、今日の親たちがわが子への、余りな放任 いっかっく そんな時、父から一喝を喰うのは、のべつだったが、あぶりや甘やかしにまかせている風潮にも、いささか疑いが る夜の如きは、いきなり父が立上って、縁側の障子を明けないではない。時には、かってのきびしい父性に郷愁を感 たと思うと、ぼくは外の庭へ突き飛ばされていたことがあじることが正直否みなく、ばくにはある。 る。忘れもしない、その晩は雪が降っていた。母の姿が廊暴風雨の日曜日だった。 下に見えると「ばかっ、誰がゆるした。上げてはいけない 日曜日ではあったが、父は何かのため、その朝も会社に 雨戸を閉めてしまえ」と、障子の内でなお父の云うのが聞出かけた。当時は、お弁当の配達屋さんというのがあって、 えた。 毎朝、箱車を曳いて勤め人の家々から、お昼の弁当箱を集 ロ のぼくは、わんわん泣き喚きながら二、三十分間も外からめて歩く。そして正午迄に、それそれの主人の出勤先へ弁 障子の内へ謝った。その辺、夢中だったので、よく覚えて当を配達してくれるのだった。 その配達屋も、日曜日は休みである。ところが、父はそ 忘いないが、やがて、裸足で台所ロの方へ廻ってゆき、氷の ような足を母の手で拭いてもらった。そして、母と一しょの朝出がけに「英と、きの ( 妹 ) に弁当を届けさせろ」と に泣きじゃくりながら、もう一ペん父の前に坐らせられた。母へ いいつけて出たらしい。ぼくは、ぼくより二ッ年下の ばんがさ きのと一しょに一本の番傘を斜めに持ちあい、大あらしの はだし わめ つら っちか