110 なく、痛覚のない肉の塊りを見るようであった。 「忘れた ? 」 にこりとして、 画家が見た恭吾の動かない姿勢と強い物の見詰めようは、 この男を対象にして、目を離すまいと固く決意したもので 「それなら、それでよい。思い出すようにしてやろう。」 あった。男は、ジャズ・ソングを歌ってはしゃいでいる学「何ですか ! 」 しよら と、強い声で云った。 生たちの方を見まもっていたが、くして恭吾がなお見詰 ねむ めているのを知ると、瞼を閉じて睡ったように見せかけて「失敬じゃないですか。不意に。」 「そうだ。礼儀は抜いておる。二つの方法がある。」 と、恭吾は、語気を確かに、云い切った。 目をつぶると、彼は、不思議にも、子供つぼい顔立ちに 「君が両親と一緒におるなら、君の家まで行って親の前で なって来るのだった。 東中野に着いて、ドアの開いた音で男が急に気がついた話す。それを君が好まぬならばどこかその辺の焼跡の、邪 ように目を見ひらき、重々しく降りて行くのを見ると、恭魔の入らぬような場所をさがして、話すことにしよう。ど っちを取る ? 吾は、やはり立ち上って、後に続いた。 迫る強い気力に、相手は急に動揺を感じたものらしかっ 男ははっきりと振り返って恭吾を見た。改札口から出て、 小屋掛けの一部落を過ぎると、道路は焼跡の間を通ってい た。その癖、恭吾は、闇の中でも冷静な表情でいるのがわ る。一塊りになって駅から吐き出された人々は、道を分れかった。 て次第に、離れ離れになって来た。恭吾が男に追いついた若い男は、急に威嚇的に吠え立った。それは兵隊のもの 時、焼野原の向うの黒い丘の上に、遅い月が上っているのであった。 「やるって云うのか ? 」 が見えた。 「そうだ。」 「君。」 けんか 「自分は、あんたのような年上の人間を相手にして喧嘩す と、並んで歩きながら顔を見て、 る気はないですよ。」 「僕を忘れていなかったな。」 男は急に鞄を持ち直して振り向いたが、歩くのをやめな「有難う。だが、そんな遠慮は一切要らぬ。私は君には年 寄り臭く見えるだろうが、国家の保護を抜きに外国を歩い ていた男だ。」 「どなたでしたろう ? 」 まぶた くさ
126 に身をやっしている。弱い者のすることさ。自由というも「小野崎さん、お客さんよ。」 がんこ のは、弱い者には決してありはせぬ。君は自分が頑固者だ 小野崎公平は、画板に向って、やや疲れて来たように感 と主張する。そう考えて武装しているのが、弱者の証拠さ。じているところだった。 かいがら 貝穀の中に、小さく、しやがんでいるのだ。外を見るのが「誰れ ? 」 おそ 怖ろしいのだ。死んだ方がいいと、ふてているのが、生き「誰れだか知らないわ。若いきれいな女のひとよ。」 せんたくもの 洗濯物を抱えていたこのア。ハートの管理人の女房は、そ る能力を自分から認めていない証拠だ。」 うた のまま鼻歌を唄いながら廊下の奥の露台に出て行った。 六畳一間の部屋の中は、画の道具だけでなく、ギタ 1 や 「俺を見たらいい。裸でいるが、怖れるものは何一つ持っ くっ なべやかん ばれいしょ ていない。俺が、貴さまの地位にいたら、踏切番でも靴み鍋や薬罐で散らかっていた。新聞包みからは馬鈴薯が転が り出していた。 がきでも外聞も考えずに堂々とやって、生きて見せるのだ。 「女 ? 」 貴さまには、世間が、こわくって、それが出来ぬ。」 にら だいかっ と、答える者がないのに問い返しながら、画家は、描き 牛木利貞は立ち止って睨むと、大喝した。 かけの画を未練らしく眺めた。これは郊外のマ 1 ケットの 「帰れ ! 」 カストリ横丁をスケッチして来たのを、仕上げにかかって 恭吾は無言で背中を見せて立ち去った。月明りの道に、 すぐ姿は見えなくなった。しかし、牛木利貞がゆっくりと いたのである。この頃画の中にあるカストリ屋へ通うので 道を歩いて我が家に帰って見ると、家の中に恭吾は上って、急にこの画が出来上った。 妻と話していた。笑って見上げると、 画家は、手さぐりで卓の上の煙草の函を拾い、抜き取っ くわ 「不健康な幽霊を一つ落してやった。」 て口に咥えて階段を降りて行った。狭い玄関の土間に外を と、云った。 向いて立って、洋装の若い女が待っていた。入口にある桜 「この家は、俺が入って来たので穢れたかね。」 の木が花の枝を一部分見せている。 仏壇には新らしく立てた線香が煙っていた。 女は足音を聞いて振り返った。まったく画家の知らない ふちど パ 1 マネントを 娘であった。逆光になって光に縁取られ、 かけた髪が目立ってゆたかなのが見えた。 遅日 「小野崎ですが。」 おれ けが だ なが たばこはこ
163 帰郷 うれ く嬉しいんだ。それから、戦地で今日は死ぬか明日は死ぬたりは忘れさせてくれた。 かと思いながら極端に暮して来ただけに、生きている限り、道は、根岸の競馬場を左に見て、海とは反対の方角に、 自分のいのちは大切だと思うし、強制も命令もされないで丘づたいに通っていた。小さい谷が幾つも落ち込んでいて、 生きるいのちなのだから死ぬ時が来るまで自分の思うとおその向うの平地に、横浜の町が、掘割や道路とともに低く りに生きて見たいって欲望ですね。これが、多分、戦争へ一望に眺められた。画家が立ち止ってスケッチを始めると 出なかった人間より強いんじゃないかと思います。」 伴子たちは道端に立つか、樹の陰の草の上に腰をおろして 「うむ、それアね。」 待った。 うなず * ひろしげ と、画家は明るく頷いて見せた。 広重の風景画にでもありそうな瘤のような草山があるか がけ 「だから、僕は自分の利己的な考え方からしても、小野崎と思うと、土を削り落して、急角度に崖が落ちている場所 かす さんのように、日本人の堕ち方に、落胆していませんよ。 があって、その遠景に町が春らしく霞んでひろがっていた。 けだもの 最低の、ぎりぎりのところから始めても、日本人は立ちな「この辺の坂は、皆、獣物の名がついているんです。」 おれる民族だと信じています。今は、ほんとうに悪いんで と、雄吉が教えてくれた。 さる す。しかし、人間なんかよりも、悪くなるように境遇がし「豚坂、牛坂、猿坂、狸坂。昔、開けない時分に、猿や狸 ているでしよう。僕なんか、もっと、ひどい生活をして来が実際に住んでいたのかも知れませんね。もとは、もっと しげ たから、今でも夜、寝ようとして床の上に転がって電燈を木が一面に繁っていて、昼間でも気味が悪いくらいに淋し 消すと、現在の幸福だけ算えて、ひとりで楽しくなって来い場所だったんです。」 るんです。自分は内地に帰 0 て来ているぞ。蒲団の上で寝坂は、どれも急で、見おろすような真下の谷に曲りくね ているんだぞ。この家には屋根があるから雨が降っても起って降りていた。段を作ってあるのもあれば、道祖神らし ほこら きる心配ないそ。そんなことが嬉しいんですよ。ちょっと い石の祠を置いてあるのもある。谷底には昔から在った農 かや たけやぶ つばき 馬鹿のようなものですがね。しかし、 ・ : その、単純なの家らしく茅ぶき屋根も見えた。竹藪に、椿の花が紅いのも が兵隊でした。」 目に留った。ここから見て、低く展開している現代の街は ふぞろ 不揃いに、所々に突っ立っているビルの建物などから、石 雄吉の案内で山手の丘に登って画家が写生をするのに伴やコンクリ 1 トで出来た墓場を見るように乾いた感じであ 子は一緒に歩いた。俊樹といた時の不快な記憶を、このふった。数十万の人間が、そこに住み、各自の生活を営んで ふとん なが たぬき こぶ あか
129 帰郷 いかが そう云って了ってはいけなかったのだ。しかし、画家は、う迫っております。来週の水曜日に伺って如何で御座いま ため この如何にも若々しい婦人記者の為に、最初から画を描くしようか。」 ためいき 「いいでしよう。」 気でいた。重病人のように大きく溜息をすると、また遙か おうよう たけ と、鷹揚で、 に自分の知っているマラッカの為に猛り立つように、 「マラッカは、こんなものじゃありませんそ。実に、実に。 「いや、社が銀座近所なら、わざわざこんなところまで来 色が重たくて軽快なのです。強烈でいて、さびているて貰わなくても、こちらから、届けますよ。お嬢さん。 おまけにね、画には一枚、色をつけて行ぎましよう。いや、 んだ。」 それは色刷にして出して欲しいというのでなく、あなたに、 ため 「それからね、お嬢さん、僕の確信するところに依れば、 マラッカの街の美しくさびた色を見せて上げる為だ。お嬢 マラッカの街に郵便酎は突っ立っていなかったようです。さん、その画はあなたに差上げましよう。」 それから、当時、煙屋にぶらりと入って煙草を手に入れ るなんて、ちょろまかなことは絶対に出来なか 0 たので外に出ると守屋伴子は日頃のやかな性質を取り戻した。 歩く動作から姿勢まで、水流を泳ぐ小魚のように、いきい 「御自由にお描き願えないでしようか。」 きとしたものに溢れて、自分の心持も、儀礼や怠りから脱 「そうだ、自由に、 : : : 僕は僕の知っているマラッカをけ出ていた。 空気は冷たいが、春が来ていた。電車の窓から焼跡の荒 けむ 野を見ると、柳の緑が目に暖かく烟っている。目に触れる 伴子は、ほっとして、 もののどこにも、新らしいものが起ろうとする気配を伴子 「そう願えますと : : : 」 ようや 画家は、難かしそうな顔をしている芝居を漸くやめて、 は感じていた。生活がこれから始められるのだと信じてい 人違いするくらいに、 にこにこした童顔を見せた。 られるのは幸福であった。終戦後の東京に幾らでも目につ 「描きますかな。」 く切ないものや悲しいものも別に伴子の心を翳らさなかっ へんしゅう 「どうぞ。」 た。洋裁の仕事のほかに、雑誌の編輯を手伝うことになっ と、叫んで、 たので、収入に安定を得たのである。エトワールというの 「それで、いっ頃頂きに伺いましたら ? 実は締切りがもは、前から時々洋裁の記事を書いていた雑誌なのである。 はる あふ かげ
132 伴子は、訪ねたばかりの小野崎公平画伯のことを思い出 と、覗いて見て、 「君も寄って行くかね。」 さしえ 「今日は、画家の小野崎さんに挿画をお願いに伺 0 て来た店は開いてあるが、まだ片附いていないで、若い男たち たな ところなんです。」 が踏台を置いて棚の本を整理していた。 「小野崎 小野崎公平だね。美術雑誌なんかやってい 「藤原君、来ていますか。」 た。あれがまた画を描いているのかね。古い男だ。仏闌西父親がこう尋ねる間に、伴子は、こちらを振り向いた青 から帰った時分は、派手にフォー・フの評論なんかやってい年の中に、知っている顔を見出して微笑した。 たが、その後あまりば 0 とした風にも聞かないから、死ん「藤原さんは、ちょ 0 とお出かけにな 0 ているんですが、 だのかと思っていた。年だけは、もう大分のものだろう。」どなたでしよう。」 「それは元気な、面白い方 ! 」 と、他の青年が兵隊上りとわかる生真面目な口調で尋ね 「小野崎なんかでなく、もっと大物の画家に頼むのなら、返すと、 ハ。ハからロをきいてやるよ。みんな、友人だ。」 「隠岐達三先生だよ。」 うなず わき 伴子は、ただ頷いて見せて徴笑する。 と、伴子の知人が脇から注意した。 「その内、僕も、何か書いてやる。」 伴子が、心持ち、顔をあからめたのは、その青年が、別 「ほんとう ? 」 の場合に、失敬ですけれどと断わって達三の著書を面白く 「一度ぐらいはね。君のところの雑誌なんかには、少し、 ないと云ったのを思い出したのと、達三が自分とすぐに認 もったい よろこ 勿体ないからね。」 められて、くすぐったい表情を作りながら、内心、悦んで 「ひどいわ。そう低いものじゃないのよ。良くして行こう いるのを感じたからであった。 としているの。」 「あ、隠岐先生ですか。」 芽柳の枝が垂れているのが、ショウウインドウの硝子に と、他の者は、色めいて見えた。 映っていた。もと何の店だったのか、大きな窓の中に、無多年、学生を教壇から見おろしている間に、達三は、若 器用に本を並べてあるのが、達三の話していた店開きしたい者をどう遇すればよいかを覚え込んでいた。厳格に距離 ばかりの古本屋であった。 を隔てて見くだして置くのと同時に、時折、自分の方から 「ここだ。」 進み出て行って、学生と友達づきあいの擔け方をして見せ ガラス フランス
「君は、また、ここに何をしに来たのだ ? 」 「帰りましよう。」 左衛子は、丘の上で画を描いている画家のことを思い出質問の意地悪さを感じながら、 「マラッカを見ていなかったものですから、報道班の画家 自動車を返して、さっきの橋の附近まで来ると、前方のの方に、案内して頂きましたの。」 ほとん とま 通路の中央に自動車が停っているのが見えた。自動車は殆「見物 ? 」 「ええ、まあ。」 ど全部徴発して、軍の日本側の主な機関が使用していたこ にこりとして、大佐の連れの副官の若い中尉の、これは とで、左衛子は近寄りながら、その車の乗手に注意した。 えしやく 帝大出で、心安くしている方にも会釈を送った。 高級車のキャデイラックの新式のものだった。 これがパンクしていたので、タイヤを取換えるので、人「見物の時期でもなかろうが、連れはあるんだね。」 は降りて道端の樹の陰に立っていた。防暑服の若い海軍士「ええ、お仕事をしていらっしやるんです。」 大佐は相変らず棒のように突っ立っていたが、 官に、ヘルメット帽をかぶった背広の中年の紳士である。 「それで、今日中に、昭南に帰るつもりか。」 先方からもこちらの自動車を注意して見まもって待ってい 「ええ、店が御座いますから。でも、お車は大丈夫なんで すか。御用をお急ぎのようでしたら、手前どものを差上げ 「あ ! 」 と、左衛子は急に、 「いや、それまでのことはない。しかし、単車で夜道にな 「ドラ。停めて。」 ほこり 急停車した勢いに舞い立った埃を、ヘルメット帽に手をると、途中が危険だから、帰りは急ぐか、どこかで私たち 掛け顔をそむけて避けた平服の紳士は、セレター根拠地のを待って一緒に行くといい。昼間はよいが、夜はジョホ 1 参謀の牛木大佐で、左衛子がこれまで客として観察して来ルの辺が近頃、物騒のような情報が入っている。」 た限りでは、先任参謀の威厳を保とうとしているのか無愛「何か出るのでしようか。」 無邪気らしい驚き方を顔に見せて、左衛子は成功した。 想で、うちとけにくい人柄であった。 「それア・ : : ・」 「・ハンクで御座いますか。」 と、大佐は、初めて笑って見せて、 大佐は、例の、木の実を嵌めたように固い、きびしい目 つき 「ゲリラも出るが、あの辺は虎の出る名所だ。」 附で見まもっていたが、 とら
ちんうつ て沈鬱な調子のもので、遠景に長く突き出している揶子の みさき はんらん 林ばかりの黒い岬とともに、光の氾濫した町を一層絢爛と したものに見せているのだった。刻々と、その光は動いて、 海の上にはみ出して行こうとする。 「丁度いい時、来たんですなあ。」 と、画家は向きを変えて、ゆるい坂道を前面に在る昔の はいきょ 石のカトリック寺院が廃墟となって、四方の壁だけ大きく 立っているのを見上げながら歩き出した。 かま 丘の斜面の芝原で柄の長い鎌をふるって草を刈っていた さえこ マレー人が、二人を見て高野左衛子の日本の着物の姿に驚 いたように手をやすめて突っ立って見ていた。日本人が出 なが 会って見ても、この南方では、はっとして眺めるほど、純 粋の日本の夏姿であった。いや、昔の東京の町なかでもホ 「どうです ? 」 テルのロビーにいる時か、歌舞伎の廊下でも歩く時でない と、画家は連れを返り見た。 と、これまでに、大胆に人目を惹く身なりを、しかもきり 「よい景色のところでしよう。」 っとした感じに着こなす女は見られない。 一時間ばかり前に、強いスコールが過ぎて行った後で、 高野左衛子は、内地の生活では洋装一点張りだったのが、 あかがわら しげ くすんだ赤瓦に白壁の多いマラッカの町は、繁る熱帯の樹シンガポ 1 ルへ来るようにきまると、普通ならば和服に慣 樹とともに、洗い出されたように目に鮮やかな色彩を一面れた者も洋装に変えるところを、逆に、日本の夏の着物や すさ そろ 郷に燃え立たせていた。雨雲の一部が裂けて、凄まじいばか帯を揃えて持って来た。落着いた好みに、どこの令夫人か りの日光が降りそそいでいる。町を縁取っている海は、まと町で人を驚かすかと思うと、思い切って派手な白縮緬の 帰だ黒雲の下にあ 0 て、泥絵具で描いたように光のない火色染浴衣で、平気で自宅で客の前に出ていた。 をしていたが、これもやがて晴れて来るので、見ている間 「驚いていますよ。」 に、青みをさして変化して来る。その青い色が、まだ極め 「え ? 」 帰郷 じゃく かぶぎ ひ しろちりめん けんらん
らを見まもったが、 「うん、マダム。」 自動車は門を入って植込みの間を走ってから白く塗った ぜいたく 珍らしいことね。お酔いになったの。」 ポーチの下で停る。もともとこれは英国人所有の相当贅沢「小野崎さん な邸宅で、庭には青い芝が手入れよく刈り込んで、さまざ「やあ、醜態だ。」 と、画家は、起きなおっただけで、まだ長椅子に腰をお まの熱帯樹や、花壇を囲んでいる。 左衛子が入口の呼鈴を押すと、屋内が急に明るくなって、ろしたまま、 硝子は入れてなくて蚊除けの網戸越しに、電燈の光は、近「だが、奥さん。どこへ行ってたんです。もう、朝だろう ? 」 やみ それに返事は与えないで、 くの庭木の色を闇の中に浮き上らせた。 とびら 扉をあけて迎えたのは、簡略な洋装に、化粧の濃い日本「そんなとこにお寝みになって、蚊はいませんでした ? 」 「お別れに来たんですよ。奥さん、朝の汽車で急にビルマ の少女である。 へ立っことになったので : : : 」 「お帰りなさいまし。」 ぞうり 左衛子は草履のまま、屋内に入って、後を閉めさせると、「およしなさい。今から、そんなところへいらっしやる 「警報で、足留めされていたのよ。いいから、もう寝て頂の。」 「いや、ビルマにだけは、まだ行ったことがないんだし、 インド / パールで勝っと、今度は印度へ入るんだから、思い切 そのまま、正面の階段を二階の寝室に上ろうとしたが、 もとの客間にあたる右手のホ 1 ルの隅に酒場が出来ていてって行って見る気になったんだ。」 「およしなさい。苦労なさるわよ。小野崎さんだって、も ・ハ 1 テンの出入りする狭い戸口があったのを入ってカウン う五十でしよう。」 ターの電燈を点じ、電気冷蔵庫の蓋をあけた。 びん タンサン水の瓶のつめたく冷えているのを取出した時、「驅じや若い者に負けませんよ。」 すきし 郷灯を消してあるホ 1 ルの暗い中で椅子の軋む音がした。怪初めて、左衛子のいるカウンターの方へ歩いて来ながら、 のぞ つもより白く見え、その下 しんで覗き込むと、誰れかが長椅子に窮屈に寝込んでいた寝みだれた画家の髪の毛は、い ひじ 帰 に酔いざめの、好人物らしい顔があった。 のが、肱を曲げて腕時計を見ているらしかった。 「印度へ出るんですよ。これア、行って画を描きたいです 「どなた。」 酔いの残っている鈍い動作で先方も起きなおって、こちょ。」 ガラス よびりん ふた すみ ちょう からだ
が鮮やかであった。着飾った男女が、絶え間なく階段を昇に左衛子がいることが、京都にいる父親のことを一層鮮明 って来ていた。 に胸に感じて来るような具合であった。母親から禁じられ 「岡部って男は、好い青年ですなあ。」 たばかりのものだったせいかも知れない。闌の花を胸につ と、画家は、贔屓を明らかにした。 けている左衛子が、形のい、 し肢体そのもので、父親のこと 「あれでね。文化も何も、人間の貧乏をなくす工夫をしなを暗示しているような心持がした。自分よりも、左衛子が けれア決して始まらないのだと気がついてくれれば、もっ父親の消息を知っているからだと信じられ、そのことが憎 といいのだ。しかし、真面目で動揺のないのは近頃珍らし いような心持さえ動いた。 かえ くいい若い者だ。のらくらする奴らばかりですからね。」 我れに復って、改めて、こんな華やかな人波の中に入っ 左衛子が純白の洋装で、段を昇って来た。 ても、左衛子が美しいのを見まもった。 「やあ。」 「帰りにどこかへ行って、冷たいものでも飲みましよう。」 おっしゃ と、大きな体格の画家は、手を上げて見せて、 「冷たいビールを、と仰有るんですな。」 「どうも、どうも。」 如何にも都会の夜に聞くものらしい、こんな会話を聞い 左衛子は、伴子にほほ笑んで見せて、 ていながら、伴子はその間にも父親が自分の胸に占めてし まった位置が、もう動かせないものになっているばかりか、 「もう、まるで夏ね。でも、よくいらしって下さったわ。 おいそがしいのじゃ、なかったの。」 刻々と大きくなって行くようなのが、不安であった。 そう云われただけで、伴子は、すぐにまた、朝、家の中美しい曲の演奏を聞いていて、伴子は我慢出来ず段々と に起ったことを、また新らしく思い出すのだった。澄み切目に涙を泛べて来た。照明が舞台に限られていたので、聴 ることが出来ないで、重い影が心に残っていた。何かに強衆で一杯に埋まった座席は薄暗く、隣りにいる左衛子にも、 く拘束されているような感じである。左衛子が白一色の胸伴子が目で泣いているとは見えない筈であった。 ようらん 郷 に、薄い紫色の洋闌の花を、一輪挿しているのを美しいと 曲はチャイ 0 フスキーの四重奏曲の一つであ 0 たが、 見ながら、張りのない心の状態で注意がすぐと逸れていた。伴子は音楽にずっと随いていたのではない。時折、悲しさ 帰 「あれから、ずっと、お元気 ? 」 のあまり、楽の音は耳から遠ざかっていた。 と、二階への階段を並んで昇りながら、左衛子が尋ねた。隠岐の父親の小心で利己的な気質が、俄かに壁のように それに答えながら、自分も妙に思ったくらい自分と一緒目の前に立ち、押し倒さねば、息が苦しくなるばかりだと したい らん
147 帰郷 した。障子があいた時、三味線と唄声がはっきりとこの家こ。 の二階のものと知れ、左衛子なのは、もう、まぎれもない 「洋装ばかりと思っておりました。」 のだった。 「気まぐれなの。そうね、布を見て頂くのでしたわね。今 女中は伴子を招じ入れて、廊下の片側のドアをあけて、 日でなければいけないでしようか ? 」 洋風の客間に通してから、奥へ入って行った。古い洋間だ「い いえ、また伺ってもよろしゅう御座いますけれど。」 ふじだな ったが、藤棚のある庭に窓を展いて明るく、壁に掲げてあ「ゆっくりしていらっしゃいましね。お話ししたいことも る画も好みの現代的な新制作派の知名の画家のもので、椅ありますの。」 子も調度も新らしいものだった。 しげしげと、左衛子は伴子を見まもった。ただの洋裁店 とま まなざし 三味線は停った。木がこみすぎた感じの庭の宙に、雨のの店の者を迎えたものでなく、うちとけて深い眼差であっ 糸が白く光ったかと思うと、すぐに消えた。 間もなく、女らしい客を送り出して、左衛子の声が玄関「おきれいね。」 で聞えていた。 と、云って、 「やはり、お父さまに、よくお似になっていらっしやる 「あら、降って来たんじゃありません ? 」 伴子の前に立った左衛子は、黒いくらいに紺の深い結城わ。」 あわせ がすりの袷に帯を結んでいて、昨日とは別人のようだった。伴子は、目を上げた。驚くのは遅かったし、また、左衛 りゅうぎゅうびんがた 音をさせない雨が藤棚の下になっているヴェランダのた い花模様を染めたものである たきを静かに濡らしていた。 「御免なさい。お待たせして」 「伴子さん。」 と、笑顔を向けて、 と、左衛子が云った。 「お師匠さんが遊びに来ていたものですから : : : でも、よ 「あなたにお願いがあるのよ。」 く、いらしって下さったわね。家が古いものですから、こ うっとう んな日は、鬱陶しいのです。」 「和服もお召しになりますの。」 「あなた、私の秘書のようなものになって下さらない ? : 別に特別なことをして下さらなくともいいの。ただ、 と、伴子は、驚嘆から漸く醒めて来たような顔色であっ ようやさ ひら ゅうき