年 を「小説の泉」 ( 別冊 ) 、「嘘」を「週刊朝日」 ( 春季増刊号 ) 、「直木三天狗・海道記」を「オール読物」、四・四 ~ 一一・一九「四十八人 十五と私」を「文藝往来气五月「絵すがた」を「サンデ 1 毎日」目の男」を「読売新聞」、四月「鞍馬天狗・拾いあげた女」、六 ~ 七月 ( 別冊 ) に発表。六月一一十五日から一一十五年十二月三十一日にかけ「鞍馬天狗・淀の川舟」、九月「マタハリの裁判」を「オール読物」、 むなかた て「宗方姉妹」を「朝日新聞」に連載、戦後の混乱期における引揚一〇・一 ~ 二七・二・八「激流」を「日本経済新聞」に連載。十月 げ家族である一一人姉妹の新旧世代の対照を人間関係のなかにとらえ、「鞍馬天狗・風とともに」を「オール読物」、十一月「モンナ・リザ 喪失しがちな古い日本の美に対する恐をこめてリズミカルな筆致の失踪」、十二月「モンテカルロの黒い鼠」を「オ 1 ル読物」に発 で綴った現代小説だが、前作「帰郷」との類似性が顕著とはいえ、表。一一月『日付のある文章』を創一兀社、三月『おぼろ駕籠』を中央 叙情性を深めた作品である。七 ~ 一一十五年十月「どこまでも、を「少公論社、三 ~ 十一一月『決定版鞍馬天狗』 ( 全十二巻 ) を中央公論社、四 女の友」、七・一一八「鞍馬天狗の返事」を「図書新聞」、八月「不幸 ~ 十一一月『大佛次郎作品集』 ( 全七巻 ) を文藝春秋新社、六月『虚無僧 な人々」を「読物街」に発表。一月『雪の雲母坂』、五月『帰郷』、変化』を湊晝房、八月『丹前屏風』を啓明社、九月『冬の紳士』を ようぎひ 七月『新樹』を苦楽社、十月『狼少年』を湘南書房、十二月『鎌倉新潮社刊。六月、最初の戯曲「楊貴妃」が水谷入重子、滝沢修など 通信』を研究社刊。この年の秋、苦楽社を閉じた。 によ 0 て歌舞伎座で上演された。この戯曲には官高力士という新 昭和ニ十五年 ( 一九五〇 ) 五十三歳発見があり、戯曲に新しい生命を盛りこんであるのが特色で、楊貴 一 ~ 六月「人美しき」を「タ刊中外新聞」、一 ~ 十一一月「古城の秘妃が若いころに高力士に恋心を抱いていたという設定が作者による 密」を「少年」一一月「一代女」を「小説公園」、「罪」を「サンデ初めての新解釈である。初演以後、東西の歌舞伎、新派でくりかえ 1 毎日」、「手函」を「小説と読物」、三月「北方の王者」を「朝日し上演された。 新聞三六 ~ 一一十六年一一一月「花の谷間」を「新女苑」、比月「こだま」を昭和ニ十七年 ( 一九五一 l) 五十五歳 「オ 1 ル読物」、八・一一 ~ 一六・二・一八「おぼろ鷲籠」を「毎日一月「その夜・その朝」、一一月コ一人の悪党」、三月「善意の人」、四 新聞」に連載。八 ~ 十一一月「花鏡」を共同通信系新聞に連載。三月月「黒手組」を「オ 1 ル読物」に発表。五月「天と地との間」を「サ 『大佛次郎集』 ( 谿文 ) を日比谷出版社、四月『宗方姉妹』を朝日ンデ 1 毎日」 ( 新緑号 ) 、「或る言葉」 ( 久米正雄追悼記 ) を「文藝春秋」 説 6 ) を講談社、十一月『初恋』に発表。七月十六日から一一十八年一一月十九日にわたり、「旅路」を 新聞社、五月『大佛次郎』 ( 作集 を東和社、十一一月『女王の愛人』を和平書房刊。この年三月、第五「朝日新聞」に連載、人生を″旅路〃とみなす作者の感懐を基調に 回芸術院賞を『帰郷』により受賞。四月、一一十五年度第一一回日本文して、人生の旅路で出会う人達も折々の道連れにすぎないという禅 芸家協会理事会にて評議員として推薦された。 味俳味の加わった作者の心境を登場人物を通して奏でた現代小説で、 昭和ニ十六年 ( 一九五一 ) 五十四歳同系列に属する前作の「帰郷」、「宗方姉妹」以上に作者自身の内的 一・七 ~ 四・二九「冬の紳士」を「サンデー毎日」、一 ~ 十一月「白深みを示す作品だといえる。八月「一夜の出来事」を「オ 1 ル読物」、 やしゃ 線」を「婦人公論」、一月「失はれたもの」を「文藝春秋」、「鞍馬九・二 ~ 一一八・一〇・四「鞍馬天狗・青面夜叉」を「サンデー毎日」、
日 1 一ニロ 昭和十七年 ( 一九四一 I) 四十五歳月、同盟通信社嘱託としてマライ、スマトラ、ジャ・ハ、十一月、マ あへん 一月六日から四月三日にかけて、醜悪極まる阿片戦争を日本の運命ラッカを旅行、翌年二月帰国、この時の見聞が後の「帰郷」執筆に と関連させて、野心的にして構想雄大に描いた「阿片戦争」を「東役立った。 まげもの 京日日新聞」に連載、作者をして″鞍馬天狗風の髷物ばかりを気軽 昭和十九年 ( 一九四四 ) 四十七歳 く書いて来た私はこの一篇を境にして気軽な男でなくなった″とい ~ 一三「南の言葉ーマラッカにて」を「福島民報」、三・五 わせしめた。一 ~ 十八年四月「春を待つ国」を「講談倶楽部」、一 ~ 「冬に寄せて」を「朝日新聞ー神奈川版ー气三・一一五「タ焼の花」 くすのきまさしげ 一一一年一月「楠正成」を「少年倶楽部」、一月「侘助長物」を「文を「 Nippon Ph 三名一 n 。」、四月「スラカルタの時計」を「文藝春 藝春秋」、三月「梔子花」を「オール読物」、六 ~ 十一月「鸛」を「サ秋」、「ラ , 力」を「改造」、五・一四「太平洋の守護神」を「朝 ンデ 1 毎日」、九 ~ 十一月「青空の人」を「飛行日本」、十 ~ 十一一月日新聞」、七月「道草」を「文藝春秋」に発表。一月二十五日から 「薩英戦争」を「週刊少国民」、一一一・五 ~ 一八・八・六「愛火」を一一十年一一月十一日にわたり「朝日新聞」に「乞食大将」を連載した くらのすけ 「西日本新聞」「北海道新聞」、十一一月「大石内蔵助」を「週刊朝日」が、新聞用紙不足のために小説のスペースがなくなり中絶、安芸の に発表。一月『明るい仲間』を杉山書店、二月『水の花』を六興商宮島のくだり以後は雑誌「新太陽」に三カ月にわたり分載した。こ たく 会出版部、八月『働く雪ちゃん』を泰光堂、十月『阿片戦争』をモの作品は戦国武将の後藤又兵衛の生き方に托して太平洋戦争末期の ダン日本社刊。 軍人批判をこめたスタティックな心境小説ともいえるもので、作者 昭和十八年 ( 一九四三 ) 四十六歳をして″私が舞台を過去に取った作品では最もいいのではないかと みなもとのさねとも 一 ~ 二月「大楠公の復活」を「週刊朝日」、一 ~ 十一月「源実朝」考える。作品もそれ以前とは変化し、大衆物の中からこれだけのも を「婦人公論」、一月「赤帽のすずき」を「日本の子供」、「人は知のを出したと思うと、自分が大衆文壇の沼の中に生い立ったのも先 らず」を「文藝春秋」、二 ~ 五月「火炎樹」を「婦人朝日」、七月ず多少の意義はあった、と自負した。″といわしめ、作者の文体を ′」さん 「山本一兀帥の武運に寄す」を「新文章」、「軽い午餐」を「文藝春秋」、確立せしめる一転機をつく 0 た時代物カ作である。十月「平熱」を 入 ~ 十一一月「鞍馬天狗・天狗倒し」を「週刊朝日」、「熊氏と雑巾「文藝春秋」、十一月「父兵衛出陣」を「少国民の友」に発表。一 儺」を「新美術」、八・一三「楠公の秘密」を「藜尺新聞」、八・一一月『山本十六元帥』、二月『みくまり物語』、六月『天狗倒し』、 あふ 六「誠意溢るる空気」を「朝日新聞」、一〇・七 ~ 一一・一〇「み十月『死よりも強し』を杉山書店、十一月『鞍馬の火祭』を北光書 くまり物語」を「毎日新聞」、十一月「京見物」を「銃後の京都」、房刊。 「山本元帥」を「航空朝日」に発表。この年、「鞍馬天狗・鞍馬の昭和一一十年 ( 一九四五 ) 四十八歳 年 火祭」を「毎日新聞産業版」に発表。ニ月『御存知鞍馬天狗』、四一 ~ 二十一年三月「からふね物語」 ( 「源実朝」 ) 続編 ) を「新女苑」、 月『楠木正成』 ( 上巻 ) を講談社、八月『』を杉山書店、九月『冬の一一月「遅桜」を「月刊毎日」、「名将立花宗茂」を「少国民の友」、 太陽』、十月『薩摩の使者』、十二月『薩英戦争』を北光晝尻刊。十入 ~ 九月「不死鳥」を「週刊朝日」、八・一一一「英霊に詫びる」を 」びすけ
背景に勤王・佐幕の争いを材にした、非凡な構想と筋の変化の妙味メンタルな作品である。六月「昼間の月」を「サンデ 1 毎日」、七 ~ により圧倒的好評を得た最初の新聞小説「照る日くもる日」を「大阪三年五月「幽霊船伝奇」を「日本少年」、八 ~ 三年一一月「鞍馬天狗 朝日新聞」に連載。この頃、最初四百字詰一枚八十銭の原稿料が一余燼」を「週刊朝日」、九 ~ 十一一月「海の男」を「少年倶楽部」、九 円二十銭にな 0 た。七月『黼物幻の義賊』 ( 流山竜太郎 ) 、十月『江戸 綺譚 月「雪の夜がたり」を「サンデー毎日」にそれぞれ発表。一一月『 春宵和尚奇縁』を博文館刊。十二 ~ 昭和一一年七月『照る日曇る日』小鳥を飼ふ武士』、『神風剣侠陣』 ( 流山竜太郎 ) を博文館、八月『泰 ( 前中後篇 ) を渾大防書房刊。この年、鎌倉材木座上河原に移り両親西大盗伝』、九月『角兵衛獅子』 ( 前編 ) を渾大防晝房刊。 なおきさんしゅ , ご を迎えた。直木三十五の来訪を受け激励されたのも材木座のその家昭和三年 ( 一九二八 ) 三十一歳 であった。 一 ~ 十一一月「南海行」を「少女倶楽部」、一 ~ 十一一月「山百合の草 昭和ニ年 ( 一九二七 ) 三十歳紙」を「婦人倶楽部」、一 ~ 七月「市井の鬼」を「文藝春秋」、一月 一月「女優ナナ」 ( 瓢亭白馬 ) 、一一月「坊主佐吉の旅寝夢」 ( 三並喜「官女」を「講談雑誌」、「正成の最期」を「少女の友」、一一・一一 0 とけん 太郎 ) 、三月「医師節庵」 ( 阪下五郎 ) 、「蝦夷の弁慶義経」 ( 赤松繁俊 ) 「大衆文芸の転換期」を「東泉日日新聞」、三月「杜鵑」を「中央公 ′ラブ を「。ホケ ' ト」に発表、三月にて同誌廃刊。この雑誌には、大佛次論」、四 ~ 九月「剣侠閃光陣」 ~ 「恐怖時代」を「文藝倶楽部」、 郎の筆名で鞍馬天狗を、三並喜太郎の筆名で世話物、阪下五郎では六 ・一 ~ 四・六・一〇「ごろっき船」を「大阪毎日新聞」、六 ~ 九月「山 たこ やや堅い歴史物といったように、それらの筆名を使いわけ、十五男」を「幼年倶楽部」、六・一五「凧」を「サンデー毎日」 ( 夏季特 の筆名を駆使して約百編の作品を発表、長兄野尻抱影から″法学士別号 ) 、六月「羽織」を「週刊朝日」、七 ~ 五年十一一月「山岳党奇譚 が講談を書いているとは何事だ″といわれ、一時はこころ暗然とな鞍馬 天狗」を「少年倶楽部」、七月 . 「仁義以上」を「改造」、九月「艶説 ったこともあったが、どうやら生活ができ、好きな本が買えるので陽炎陣を「講談倶楽部」、「銀カ簪」を「文藝倶楽部」 ( 増刊 ) 、十一 ~ ばなし 満足していた。多くの筆名を持ったのは職人の謙虚さと自分を大切五年五月「かげろう噺」を「講談倶楽部」に発表。三月『鞍馬天狗余 にする習癖のためであ 0 た。一 ~ 十一一月「地雷火組」を「講談倶楽燼』 ( 上下巻 ) を朝日新聞社、スチプンスンの「宝島・その他」 ( 大衆 部」、一 ~ 十一一月「猟奇館瓦解記」を「苦楽」、三 ~ 翌年五月「角兵衛文学 ド現代大衆 9 ) を平凡社、 8 ) を訳して改造社、六月『大佛次良集』 ( 文学全集 3 獅子」を「少年倶楽部」、三・一五「新両国八景」を「週刊朝日」十 ~ 四年八月『赤穂浪士』 ( 上中下巻 ) を改造社刊。この年、嵐寛寿 ふん 艶日別 賰特 ) に発表、五月十四日から翌年十一月六日にわたり、「快挙赤郎扮する鞍馬天狗第一作が映画化された。 三十二歳 穂浪士」を「東京日日新聞」に連載、赤穂浪士の義挙を、武士階級の昭和四年 ( 一九二九 ) イデオロギーに対立する新興町人階級の台頭顕著な元禄時代を背景一・三〇 ~ 一一一・一一〇「からす組」を「国民新聞」、一 ~ 七月「月 年 に、私恨によらぬ政治の中の事件として解釈する新史観に立っ作品かげの道」を「少女倶楽部」、一月「狂一一一口」を「改造」、「雪の夜が で、従来の大衆文学に圧倒的役割を演じていた講談的要素を清算打たり」を「文藝倶楽部」、三月「半身」を「サンデ 1 毎日」、五 ~ 五 破し、大衆文学の愛読者層に知識階級を加えるのに貢献したモニュ年九月「岩島奇談」を「日本少年」、五月「休みの日ーを「サンデ
388 十月「あきかぜ」を「オール読物」に発表。十一月「若き日の信の編集に木村毅、獅子文六などと参加した。 長」を「オ 1 ル読物」に発表、戯曲としては第二作目で文学的内容昭和三十年 ( 一九五五 ) 五十八歳 にすぐれた、清新の気に満ちたなかに近代味の付与されたもので、 一月二十日から九月十日にかけて、嘘のない、純粋な生き方を追求 信長の人間解釈に新風を盛り込んだ作品だといえる。十月、歌舞伎する主人公の心境を通して、孤独に耐える自由人の誠意と悲哀を現 座で菊五郎劇団により上演された。一月『四十八人目の男』を読売代批判をこめながら描き、人間存在の不安定さを標題 " 風船 0 に象 新聞社、四 ~ 十月『大佛次郎時代小説選集』 ( 全十巻 ) を同光社刊。徴した滋味溢れる心境小説「風船」を「毎日新聞」に連載。一・一一 昭和ニ十八年 ( 一九五三 ) 五十六歳一 ~ 一一・一一〇「薩摩飛脚」を新聞三社連合各紙に連載 ( 中絶して 四月「オ 1 ル読物」に戯曲「江戸のタ映」を発表、前二作が時代物いた作品を再執筆 ) 。一 ~ 三十一年一月「鞍馬天狗・影の如く」を だ 0 たが、この作品は初の世話物で、従来の歌舞伎手法を踏襲しな「サンデ 1 毎日」、一月戯曲「冬の宿」を「オ 1 ル読物」、四 ~ 五月 がらも、江戸の市井人の人間味を滋味豊かに表現し、三月、歌舞伎「颶風圏」、「罪」を「小説と読物」、六月「上田の話」、十二月「靴の あさづまふね 座にて菊五郎劇団により上演された。五・三 ~ 十・四「鞍馬天狗・音」を「オール読物」、一二・ ・一三「浅妻舟」を 雁のたより」を「サンデー毎日」、六 ~ 一一十九年一一月「彼」を「婦人「藜只新聞」に連載。一一月タ立の武士』を毎日新聞社、六月 公論」、七月、戯曲「たぬき」を「オ 1 ル読物」、九 ~ 一一十九年一一月 『まぼろし峠』を同光社、九 ~ 三十一年一月『薩摩飛脚』 ( 上下巻 ) を 「満月の客」を「週刊読売」、十一月戯曲「築山殿始末」を「オー 同光社、十一月『風船』を新潮社、十二月『死なぬ伊織』を同光社 ル読物」に発表、十月、歌舞伎座にて上演された。一一一・九 ~ 一一九刊。この年、『 Homecoming ( 帰郷 ) 』を米国ク / , 。フ社より刊行、 ・一一一「その人」を「朝日新聞」に連載。六月『青面夜叉スペイン語、イタリア語など数ヶ国語に翻訳出版された。三月、幸 の巻』を毎日新聞社、七月『大佛次郎集』 ( ) を角川書店、田露の「雪たたき」を脚色、歌舞伎座で菊五郎劇団により上演さ 八月『大佛次郎篇』 ( 衄剿 6 ) を新潮社、九月『大佛次郎』翁れた。 6 ) を講談社、十一月薙雁のたより』を毎日新聞社、十一一月『若昭和 = 一十一年 ( 一九五六 ) 五十九歳 き日の信長』を朝日新聞社刊。 二・一九 ~ 五・八「おかしな奴」を「週刊新潮」、六・二一 ~ 昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) 五十七歳五・一七「ゆうれい船」を「朝日新聞」、七・一四 ~ 三二・ 一 ~ 三十年四月「まぼろし峠」を「家の光」、二月「江戸の黄昏」「峠」を新聞一 = 社連合各紙に連載。四月『鞍馬天狗・影の如く・夜の を「小説の泉」、「色を染めた花」を「文藝春秋」、「紅葉山荘」を「オ客』を毎日新聞社、十月『別冊文芸大佛次郎集』を河出晝房、十 に現代日本 0 1 ル読物」、七・四 ~ 一ニ〇・三 ・一三「鞍馬天狗・タ立の武士」、十一月『大佛次郎・石坂洋次良集』 ( 文学全集 8 ) を筑摩晝房刊。四月、 一月「鞍馬天狗と三十年」を「サンデー毎日」に発表。十二月『大咽喉ガンの疑いで東大病院に入院、手術を受けた。九月、文化勲章 佛次郎集』孵代 2 ) を河出晝房刊。四月、胃のため慶応病院及び文化功労者選考委員となる。 に入院し手術を受けた。十二月、小山書店版『世界大衆小説全集』 昭和三十ニ年 ( 一九五七 ) 六十歳 , そ
「朝日新聞」、九・九 ~ 一一「日本の門出」を「足新聞」、九・一興出版部、十二月『詩人』を苦楽社刊。一月、研究社の雑誌「学生」 四 ~ 一〇・二五「ル飃」を「毎日新聞」、十 ~ 十一月「白猫」発刊に参与、以後一一十四年にかけて多くの随想を発表し絶讃を博し を「婦人画報」、十月「忘れていた本」を「文藝春秋」、一一・一四た。十一月苦楽社を創立し、雑誌「苦楽」を主宰した。 ~ 一七「文化局の創設を要望す」を「東只新聞」に発表。この年、 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 五十歳 ひがしくにのみや 入月、東久邇宮内閣参与となり、十月の内閣総辞職までその職にあ一 ~ 一一十三年五月「鞍馬天狗・新尺絵図」を「苦楽」、二月「昔 った。 気質」を「新夕刊」、四月「文学の冬眠」を「経済」、四・一一五「名 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 四十九歳演説」を「新夕刊」、六月「ジャンポオの早退」を「文藝春秋」、七 一 ~ 三月「乞食大将」を「新太陽」、一 ~ 五月「薩摩飛脚」を「学・三〇「美しい町」を「タ刊ニイガタ」、入月「為朝の絵本」を「学 生」、一月「痴言」を「りべらる」、一・一四「肉体なき評論」を「朝生」、九 ~ 二十三年一月「」を「新大阪」、十一月「山道」を「苦 こけっ 日新聞」、一一月「狐穴の日本人」を「別冊文藝春秋」、「文化に就て」楽」に発表。六月『乞食大将』を苦楽社、『裸体』を竹書房、七月 を「文化都市」に発表。三月から十一一月にかけて「朝日評論」に、 『真夏の夜の夢』を丹頂晝房、十二月『花紋』を講談社刊。 二十世紀初頭の革命指導者でありながら、一方ではロシアの秘密警昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 五十一歳 そうく 察の走狗だった二重スパイ、アゼフの怪奇な人物を描き、政治機構一 ~ 四月「黒潮」を「サンデー毎日」、四月「大のいる風景」を「文 が生む人間の悲劇性を活写した史伝「地霊」を連載、この作品は昭藝読物」に発表。五月十七日から十一月一一十一日にかけて、「帰郷」 かぶき 和五年執筆の「詩人」の連作ともいえる。三月「歌舞伎のために」を「毎日新聞」に連載、″さまよえるユダヤ人″を自称するコスモ ひなにんぎよう ふはくけいちょう を「月刊西日本」、三・一五「海を渡る雛人形」を「週刊朝日」、四・ポリタンの主人公に托して、戦後の浮薄軽佻な世相を批判し、日体 一一八「鯨のステッキ」を「週刊朝日」、五月「若き友に」を「女性の伝統尊重への喚起を促すといった文明批評を基軸にすえた清香溢 線」、「小さい大工」を「赤とんぽ」、六月「子供の部屋」を「文藝れる現代小説として好評を博した。五月「初恋」を「婦人」、六 ~ 春秋」、「水墨の眸」を「光」、七月「小ねこが見たこと」を「幼年ク一一十四年十一月「覆面の騎士」を「少年」、七 ~ 十月「土耳古人の対 ラブ」、八・一五「一年後」を「新夕刊」、八 ~ 十一月「真夏の夜の話」を「人間喜劇」、九月「隙間風」、十一月「秋タ夢」を「苦楽」、 しぐれちょう 夢」を「週刊朝日」、八月「静夜」を「苦楽」、「時雨の蝶」を「サン十二月「東裁判の判決」を「朝日評論」に発表。一月『白い夜』 デ 1 毎日」、九月「葉桜」を「モダン日本」 ( 夏季特別号 ) に発表。十を誠光社、五月『幻燈』を井原文庫、七月『黒潮』を毎日新聞社、 月一日の「こども朝日」に、無類の猫好きから、ねむり猫に己れを十月『鞍馬天狗・新東絵図』を講談社刊。この年、京都を数回訪 たく 托してスイッチョと猫を描きながら作者の心情の世界を象徴的に吐れ、以後、毎年の習慣となった。 露したメルヘン ( 童話 ) の傑作「スイッチ習ねこ」を発表。十一 ~ 昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 五十一一歳 十二月「迷路」を「京都日日新聞」、十一月「古い友達」を「オー 一 ~ 八月「色がたき」を「小説の泉」、一月「白い女」を「苦楽 J' ル読物」、十一一月「者」を「苦楽」に発表。七月『源実朝』を六「白猫白吉」を「こども朝日」、一一月「花火」を「小説界「半身」
4 ) を改造社、三 ~ 十月『大久保彦左衛門』 ( 前後篇 ) を賻文館、「タ焼富士」を「サンデー毎日」、八 ~ 十五年七月「員殻」を「新女 六月『大楠公』、『プウランジ = 将軍の悲劇』を改造社、『江戸日苑」、八 ~ 十一一月「幽霊大陸 ~ 行く」を「大陸」、「町の牧歌」を「雄 言』を博文館。 弁」、八月「新樹」を「週刊朝日」 ( 特別号 ) 、十一月「明るい日」を 昭和十ニ年 ( 一九三七 ) 四十歳 「オ 1 ル読物」、「面影」を「モダン日本」、「窓の女」を「映画朝日」、 ・三 ~ 五・三〇「生きている秀頼」を「週刊朝日」、一 ~ 十一一月十二月十九日 ~ 十五年六月十八日「水の階段」を「都新聞」に連載、 ひぼたん 「日本の星之助」を「幼年倶楽部」、「緋牡丹伝記」を「日の出」、主人公の青年と社会を構成する成人との断絶を、大正末期から昭和 三 ~ 九月「鉄の舌ーを「新青年」、五・二一 ~ 一一一・二九「逢魔が初年の都会におけるインテリゲンチャの影像に色濃く描いた作品で 辻」を東京・大阪朝日新聞に連載、七月「敵」を「週刊朝日」 ( 銷ある。三月『物薇の騎士』を中央公論社、六月『花紋』を実業之日 かいじん 夏読物号 ) 、「熱風」を「オール読物」、八 ~ 十一一月「灰燼」を「現代」本社刊。 に発表。三月『雪崩』、五月『海の女』を新潮社、六月『大佛次郎昭和十五年 ( 一九四〇 ) 四十三歳 一月「その朝」を「オール読物」、「礼儀」を「サンデ 1 毎日」 ( 増 本 4 ) をアトリ = 社刊。 集』 ( 説細集 昭和十三年 ( 一九三八 ) 四十一歳刊 ) 、三月「雨後」を「サンデー毎日」、四・二〇「江戸のタ映」を「週 一 ~ 三月「白夜」を「オ 1 ル読物」、一 ~ 十一月「都薇の騎士」を刊朝日」 ( 春季特別号 ) 、「帰郷」を「オール読物」に発表。この年、報道 「婦人公論」、一 ~ 十四年四月「花絞」を「新女苑」、四月「二度目班員として中支宜昌戦線に従軍し、そのルポを七月八日「東京朝日 の命」を「週刊朝日」 ( 春季特別号 ) 、「明るい時代」を「改造」、五月新聞に、八月には「文藝春秋」に発表。四月『熱風』を鱒書房、 たそかれ 「江戸の黄昏」を「講談倶楽部」 ( 増刊 ) 、六月「愛情」を「オ 1 ル 『タ焼富士』を博文館、『生きている秀頼・灰燼』 ( 新 ~ ・衆 9 ) を非 読物」 ( 臨増号 ) 、七 ~ 十四年十一一月「美女桜」を「講談倶楽部」、七凡閣、『美女桜』を博文館刊。 月「字都宮」を「週刊朝日」 ( 鈎夏特別号 ) 、八月「お種徳兵衛」を昭和十六年 ( 一九四一 ) 四十四歳 「日の出」、「焦土の上に」を「婦人倶楽部」、一〇・一三「満州の一 ~ 十七年三月「冬の太陽」を「少女の友」、一 ~ 三月「雲雀は空に」 ・一「薩摩の使者・鞍馬天狗」を「週刊朝日」、 旅を終えて・移民村にて」、一〇・一四「建設史の第一頁」、一 0 ・を「文藝春秋」、一 チャムス 一五「佳木斯の一夜」、一〇・一六「貴重なる試練」などの満州、一・一八「歴史小説のこと」を「朝日新聞」、四 ~ 八月「明るい仲間」 ベキン を「サンデ 1 毎日」、「薔薇少女」を「満州新聞」、四月「人間の街」 熱州、北京地方旅行報告を藜・大阪朝日新聞に寄稿。 昭和十四年 ( 一九三九 ) 四十二歳を「オール読物」、六・一一「西国道中記」を「週刊朝日」、七・五 ~ 一 ~ 十一一月「花丸小鳥丸」を「少年倶楽部」、一月「夢の浮橋」を八「北京の風」を「都新聞」、一〇・一四 ~ 一六「新京」を「報知新 「日の出」、「松花江」を「改造」、一一月「望郷」を「スタア」、三 ~ 聞」に連載。一一月『花丸小鳥丸』を中央公論社、四月『その人』、 四月「火星から来た紳士」を「新青年」、四・一一六 ~ 七・一〇「郷愁」五月『雲雀は空に』を博文館、八月『水の階段』を中央公論社刊。 を「読売新聞」、四月「霜の花」を「日の出」、六・四 ~ 一二・ この年、母ぎんが死去。
葩日 本」、五・二七「新しい家族」、七・三〇「鎌倉勢出陣」を「東京日 『ふらんす人形』を新潮社刊。 三十六歳日新聞」にそれぞれ発表、八月「瓦解の人々」を「講談供楽部」に 昭和八年 ( 一九三一一 I) 一 ~ 十一一月「海のあら鷲」を「少年倶楽部」、「じゃがたら文」を「少発表。五月『霧笛』を新潮社、『夜の真珠』を岡倉書房刊。 三十八歳 女の友」、一月「手紙の女」を「中央公論」、二月「土耳人の手紙」昭和十年 ( 一九三五 ) を「朝日新聞」、五 ~ 十二月「新田大草紙」を「冨士」、二十世紀初一月から十一年十月にかけて「改造」に、十九世紀末のフランスの 頭、ロシアのセルゲイ太公を暗殺したテロリスト、カリヤアエフのプウランジ = 将軍の栄光と悲惨を記すことにより、日本のファシズ 美的最期を描き、その秘密組織活動のさまを五・一五事件を頂点とム横行の時代風潮に対する抗議を秘めた史伝「プウランジ = 将軍の ひんばっ 悲劇」を連載、一 ~ 四月「死なぬ伊織」を「オール読物」、一 ~ する日本のテロ頻発に重ね合わせた史伝「詩人」を五月「改造」に ぐふう ・一「颶風月「レスナー館」を「中央公論」、「宗十郎頭巾」を「講談供楽部」、 発表したが、検閲にあい伏字だらけにて掲載された。六 ・一一一「雪の太鼓」を「週刊朝日」 ( 新春読物号 ) 、一一 ~ 十一一月「異 圏」を「週刊朝日」 ( 夏季特別号 ) 、六月「ダ凪」を「オ 1 ル読物」に ・一二 ~ 八・二六「異風黒白記」を「中 発表、七月七日から九月二十六日にかけて、故郷の横浜を背景にエ変黒手組」を「キング」、三 外商業新報」、四・五 ~ 八・六「大楠公」を「朝日新聞」、四・一〇 キゾティシズムの手法をとり入れて芸術味豊かに男女の交情を描い た開化物の第一作「霧笛」を東京・大阪朝日新聞に連載、八 ~ 九年「五重の塔」を「週刊朝日」 ( 大衆読物号 ) 、八・一三 ひこさえもん 四月「青空三羽鴉」を「少女倶楽部」、九 ~ 十月「仮面の女 , を「文「大久保彦左衛門を「東京日日新聞」、「大阪毎日新聞」に連載、 藝春秋」、十月「西洋の怪談」を「改造」、一〇・一三「アトランダ一〇・一「黒い眼」を「週刊朝日」 ( 秋季読物号 ) に発表。一月『水戸黄門』 ム今日の大衆文芸」、一四「邦枝・宮川・岸田一一一氏」、一六「大衆倶を新潮社、一一月『安政の大獄』 ( 前編 ) を改造社、『樹水』を新小説社、 楽部」、一八「戦争小説其他」を「東京日日新聞」にそれぞれ発表。四月『かげろふ噺』を福洋社、六月『能地獄の門』を新小説社、 一二・一〇 ~ 九・九・一〇「安政の大獄」を「時事新報」に連載。十月『異風黒白記』 (±齦燔 ) を新潮社、十一月『手紙の女』を竹 村書房刊。この年、『文藝春秋』に芥川賞・直木賞が制定され直木 四月『山を守る兄弟』を改造社刊。 三十七歳賞委員になる。 昭和九年 ( 一九三四 ) 三十九歳 昭和十一年 ( 一九三六 ) ~ 一二月「樹水」を「婦人公論」、「、隊の少年」を「少年供楽部」、 一 ~ 四月「夜の真珠」を「週刊朝日」、一月「地獄の門」を「講談供一 ~ 十一一月「海の女」を「日の出」、「狼少年」を「少年倶楽部」、 楽部」、一一 ~ 五月「京の夜がたり」を「日の出」、一一月「志摩の女」一 ~ 四月「花火の街」を「週刊朝日」、四月「四国四日記」を「文藝 ・六春秋」、六 ~ 十一一年八月「御存知鞍馬天狗」を「オール読物」、六・ を「週刊朝日」、「密使行」を「講談倶楽部」、四・一一五 ~ 一一 年「水戸黄門」を東京・大阪朝日新聞に連載、四月「本所小普請組」一〇「お文の場合」を「サンデ 1 毎日」 ( 夏季特別号 ) 、八・一一四 ~ 一 なだれ ・三一「雪崩」を里只・大阪朝日新聞に連載、この頃から自分の を「冨士」、「蘇生」を「文藝春秋」、「生けるダルタニアン」、五月二 「 = 一銃士の仕事部屋」を「改造」、五 ~ 七月「手函」を「モダン日新聞小説の文体を見つけるようにな 0 た。四月『天狗騒動』 ( 史小説
250 太公の乗用車の特徴であった。モスクワに青い洋燈を点じえている。 そろ ている馬車は他にない。それから二頭の馬は揃って白馬で カリヤアエフは死期が迫ったのを既に感じている様子で ある。 やみ あった。この自覚から、絶えず神経的な興奮状態にいた。 市会議事堂の入口に立って闇の中を見詰めていた男は、 この数日間ほど、彼が党に対する愛着と熱情とを口に出し 身を起した。 馬車はヴォスクレセンスカヤ広場へ入って来る。これは、て云ったことはない。 彼の持場であった。重大な運命が彼に廻って来たのである。私は我々が暗殺を決行すると決議した一月末に、当時ま 男の名はイワン・プラトノヴィッチ・カリヤアエフと云だ辻馬車馭者の服装のままでいた彼と会って話したことが サモスクヴォリエチ工区の薄汚いレストランで話 っこ。仲間に加わったのは、テロリスト達が前の年の八月、あった。・ 内務大臣のフォン・プレエヴェを暗殺した以前からである。したのである。カリヤアエフはめつきり瘠せていたし、鬚 ばうまう フォン・プレエヴェの暗殺の時にも頻りと自分がその任にを蓬と生していた。澄んだ色の目も奥深くく・ほんでいる。 えり 当りたいと申出て、この役目は他人に廻されたが、今度は紺色の上衣に赤いスカーフを襟に巻いていた。 「ひどく疲れているんです。」 最初から選ばれて、十一月にモスクワに潜入してから、三 カ月の間、馬車の馭者に変装して、総督の行動を不断に研と、彼は自分のことを云った。 ささら 「神経が簓のように成っているんですね。精一杯なんです。 究した男であった。 * あちら * けれど、首府でウラヂイミルを、ここでセルゲイをやれれ カリヤアエフは、無ロで、沈んだ人間の多いテロリスト 。そんな日の来るのを待っているんです。考えて御 の中では、変り種に見られている熱情家であった。文学がば : 好きで、いつも新しい詩人たちの名を口にする。言葉に波覧なさい、七月十五日、一月九日、それから、すぐと、こ 蘭の訛りがあるが、声の明るい、すぐ顔を赤くして話に熱の二つなんだ ! 僕は随分待っていた。それが革命なんだ。 自分が見とどけられないのだけが残念だが。」 中する男である。 * あお ちょっと黙り込んでから、また云った。 今度の計画のモスクワの指揮者は後年の「蒼ざめた馬」 しあわ そう の作家のサヴィンコフであった。自分がここに紹介する挿「モイセイエンコは倖せですね、あの男は冷静にやれる。 しま 話も、彼の回想録に依ったものであるが、サヴィンコフは僕にはそれが出来ない。セルゲイをやって了ってからでな この晩に先立っ数日前にカリヤアエフに会った時の話を伝いと楽になれないのです。 ( 中略 ) 失敗したら、どうする ぎよしゃ しき まわ はや うわぎ ひげ
1 毎日。に発表、六・一一一 ~ 五・六 ・一一「東足日日新聞」に、「由もに満州を旅行。 三十四歳 比正雪」を連載、不平分子のアジテ 1 ターとして、近代性のある心昭和六年 ( 一九三一 ) いんえい 理的陰翳を付与せしめた由比正雪と、彼を取巻く不平浪人たちに托一 ~ 九月「仮面舞踏会」を「新青年」、一 ~ 十一一月「青銅鬼狗」を して昭和初年の失業インテ印なる失業問題を批判した佳作である。「少年倶楽部」、一 ~ 七年六月「鼠小僧次郎吉←を「講談倶楽部」、 九月「怪談」を「改造」、「唐茄子」を「週刊朝日」、十一月「史実調一月「一夜の宿」を「朝日」、一一 ~ 七年四月「愿蔵火事」を「冨士」 査のいろいろ」を「文学時代」に発表。一月『角兵衛獅子』、三月に発表。三・二六 ~ 七・二四にわたり : フチ・プル階級とインテリ 『幽霊船伝奇』を先進社、四 ~ 十月『ごろっき船』 ( 上下巻 ) を改層の没落した世界をしみじみとした筆致で描き、芸術的に飛躍を意 世界探偵を平凡社、九 ~ 六年味する最初の現代小説「白い姉」を東京・大阪朝日新聞に連載。三 造社、七月、ゴーグの『夜の恐怖』 ( 小説全集 一一月『山宅奇談』 ( 上下巻 ) を先進社、十二 ~ 五年三月『から ~ 七年五月「妖魔の絵図」を「朝日」、五月「大衆文芸を語る」を 世界大衆 1 ) を改造「文学時代」、「焦明以前」を「改造」、六 ~ 七年九月「慶安異変。を す組』 ( 前後編 ) を改造社、デ = マの『鉄仮面』 ( 文学全集 「オ 1 ル読物号」、九・一八 ~ 七・四・一六「天狗廻状」を「報知 社刊。この年の夏、鎌倉雪 / 下四一一八の新居に移る。十一月三日、 新聞」、九月「僕の秋」を「文学時代」、「遊戯」を「週刊朝日」 ( 秋 父政助死去、行年八十歳。 昭和五年 ( 一九三〇 ) 三十一二歳季特別号 ) 、十一 ~ 七年十月「スペ 1 ドの女王」を「婦人世界」に連 一 ~ 六年十二月「日本人イオン」を「少年倶楽部」、一 ~ 九月「山載。十二月「江川太郎左衛門」を「モダン日本」に発表。九月『大 の娘」を「婦人世界」に連載。四 ~ 十一月にかけて「ドレフ = ス事佛次郎集』較 ) を平凡社刊。この年より約十年間、横浜の = 件」と題して、十九世紀末尾のフランスにおいて、スパイの嫌疑を = ー・グランドホテルに仕事部屋を置いた。 三十五歳 受けた市民ドレフ = スが醜悪な軍部の手により悲運におとし入れら昭和七年 ( 一九三一 l) れる過程を克明に記録し、当時の日本のファシズム台頭期における一 ~ 十一一月「薩摩飛脚」を「キング」、「山を守る兄弟」を「少年倶 こうや 軍部に対する警世の書ともいえる史伝を「改造」に連載して、史伝楽部」、「春雨の琴」を「少女の友」、一 ~ 八年八月「礦野の果」を「主 物に新しい分野を開拓した。四・二三 六・三・一五「日蓮」を婦之友」、一 ~ 九月「女殺し権現裏」を「現代」、一月「影」を「新 「読売新聞」、七月「花嫁」を「文藝春秋・オ 1 ル読物号」、九月青年」に発表、三月から八月にかけて、薄幸な女性の虚無的世界観 っしぎり 「辻斬の男」を「講談楽部」、十一月「秋草と黒い喪章」を「令女を西欧文学に対する該博な知性により活写した現代小説第一一作であ る「ふらんす人形」を「時事新報」に連載し、インテリ読者に迎え 界」に発表。五月『怪談その他』、八月『 = 水船地獄』を天人社、 「集』 ( 現代大衆四 ) を平凡社、九 ~ 十一月『由比正雪』 ( 前中編 ) られた。七月、マルセル・アルランの「姿絵」を訳して「中央公論」 を改造社、十月『ドレフュス事件』を天人社、十一 ~ 六年五月『日に発表、八月「幽霊と花嫁」を「文藝倶楽部」に発表、三月『日本 蓮』 ( 上下巻 ) を天人社、十一一月『大佛次郎集』鮴を改造社、人イオン』を講談社、五月『白い姉』を改造社、『天狗廻状』を新潮 3 ) を天人社刊。この年、九月、久米正雄とと社、六月『鼠小僧次郎吉』を新潮社、八月気青銅鬼』を先進社、 『軍事探偵篇』 ( 罪書 けんぎ さつま こと
のその後」を「朝日新聞」、七・一一一「黒いカルメン」を「読売新聞」と対談し「毎日新聞」に掲載。 六十六歳 に発表。七・二七 ~ 三七・七・一三「炎の柱」を「毎日新聞」に連昭和三十八年 ( 一九六一一 l) 載。十月一日から三十八年九月一一十九日にわたり「。ハリ燃ゅ」を「朝一 ・一「静かな時間」を「読売新聞」、一一・一四「柴田天馬さんの 日ジャ 1 ナル」に連載、一八七一年のパリに起った人民革命であること」を「朝日新聞」、四月「離合」を「婦人之友」、六・一二「長谷 てんまっ 。ハリ・コミューンの顛末を克明に描いた労作で、三十年来胸中に 川伸の人と文学」を「朝日新聞」、六・二一一 ~ 三九・四・一九「月の しゅうしゅ , あたためた題材を現地での史料蒐集、取材踏査により厳密な実証人」を「読売新聞」、七 ~ 八月「魔界の道真」を「心」、九・一一八「一 性を加え、作者自身の感慨・批判を抑制し歴史叙述しており、帝王冊の本『出家とその弟子』」を「朝日新聞」、一〇・五「『パリ燃ゅ』 から無名の人々に対する人間観察も行きとどき、その描写も躍動しを終えて」を「朝日新聞」に発表。五月『手紙の女』を光風社刊。 革命叙事詩として文学的にも見事に結実している。すでに発表され昭和三十九年 ( 一九六四 ) 六十七歳 た「ドレフ = ス事件」「プウランジェ将軍の悲劇」「。ハナマ事件」な三 ~ 十一月「。ハリ燃ゅ」の続編「焦土」を「世界」、七月「週間日 ど一連のフランス第三共和制時代を扱った実録史伝四部作の一つで記」を「週刊新潮」、七・一一「鞍馬古流」を「産経新聞」、七・一一 ひっせい あり、これらの手法は後年の畢生の大作「天皇の世紀」執筆に生か六「破られる古都の調和」を「朝日新聞」に発表。六 ~ 十二月『パ される。一一・一一七「大国となるにつき」、一二・三〇「幽霊都市」リ燃ゅ』 ( 上下巻 ) を朝日新聞社、八月『砂の上に』を光風社、十月 を「朝日新聞」に発表。五月『その人』、十一一月『虹の橋』を同光『月の人』を新潮社刊。一月から十二月にかけて「赤穂浪士」を村 社刊。この年、四月、妻を同伴して主にパリ・コミューン史料蒐集上元三の脚色にてテレビで放映。九月「風船」をフジテレビ のため再度渡欧、六月、帰国、十一月、″日本文学と郷土文化の向連続ドラマとして放映。十一月三日、大衆文学と純文学の調和を意 図した数々の作品を創作した業績に対して、第二十四回文化勲章を 上に貢献″した理由により神奈川県から神奈川文化賞を受賞。 六十五歳受賞。一一一・七 ~ 三一、「私の履歴書」を「日本経済新聞」に連載。 昭和三十七年 ( 一九六一 l) 六十八歳 ・一「書簡ネール首相へ」を「読売新聞」、三・六「わが小説」、昭和四十年 ( 一九六五 ) ・一一六 ~ 八・一九「鞍馬天狗・地獄太平記」を「河北新報」、一一・ 三・一五「世彊六百年」、五・二一「どこまでも、これだけはー ・一八 ~ 一二「破壊される自然」を「朝日新聞」、九・一七 ~ 四一・一 核兵器廃棄への訴えー」を「朝日新聞」、七・二一 ~ 三八・六 ・一六「タ顔小路」を「毎日新聞」、一〇・一〇「その日暮らし 四「さかさまに」を新聞三社連合各紙に連載。七・二三「九〇年一 ・二一「古典かぶきの弱さ」を「読売 後ー ( リ・コミ = ーンの跡を歩いてー」を「朝日ジャ 1 ナル」に発ー政治で古都を守れー」、一一 2 ) を新潮社、九月新聞」に発表。この年、一月、「パリ燃ゅ」および多年の業績に対 表。五月『お化け旗本』『大佛次郎集』 ( 全集 4 『花の咲く家』を光風社、十一月『炎の柱』を毎日新聞社刊。三月、して朝日賞受賞。 六十九歳 講演のため沖繩を旅行。五月、財団法人日本近代文学館設立にあた昭和四十一年 ( 一九六六 ) り監事となる。五・一〇「完全軍縮への悲願」と題して、湯川秀樹八・一一 ~ 四一一・一・一四「道化師」を「日本経済新聞」、一〇・