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検索対象: 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集
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1. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

ほうがんよしつねあと 読んだ。奥州に残る判官義経の迹をたどる為である。大体、の語り手の姿を暗示してくれている。 さいもん 平家琵琶をふくめて座頭の物語琵琶がはやったのは、都か祭文語りが、どんな物語をしたかは、文字に書き取って ら瀬戸内海沿岸の中国地方と九州の範囲が主で、東国には ないから、そんな近い時代まで我々の側に出て来ていなが ばんどう 伝来がない。平氏を中心の悲歌で粗野な坂東の人情に合わら、テクストは忘れられ消えてしまった。私が知り度いと よりともぎら たん ず、また頼朝に嫌われた義経の武勇譚だから敬遠された故思った奥浄瑠璃についても同様である。都会に文章で書か * さんじよ もあろうが、琵琶と言う楽器が散所座頭が背に担って峠越れた本が作られると、その方が根拠ある正しいもののよう そぼく えの道を行く他に、奥まで普及しなかった事情にも依るとに見られて、扇拍子で語られた素朴な物語は光が薄れ、知 みかわやはぎ 思う。 る者を急速に失くす。三河国矢作で生れた浄瑠璃物語が遠 じようるり 田辺氏は、奥州の語り物、つまり後の奥浄瑠璃が琵琶とく奥羽に流れ込んだものか、あるいはもっと古く、土地に は関係なく、節をつけて聞かせるのにも初めの時代は扇拍独自に発達したものか、それも都で『義経記』のような本 へんしゅう 子を入れたものだったと書いている。 が編輯されて了うと、権威がそちらに移って、草の中にあ はる要る 散所法師が遙と琵琶を持ち込む時代が来ても、奥地の った『義経記』の原型が魅力を失って消えたものなのか ? 山里では、扇を半分ひらいて、ななめ逆さにして、要のと我々には、何とも決められない。奥浄瑠璃の曲で、今から ころを左手で持ち、あたかも小さい琵琶を抱えたような形三十年前の昭和九年に本田安次氏が、鈴木幸竜という語り うしわかあすま にこう なすの にして、右手の指をそろえてその爪先で扇の骨のところを手から聞き取ったのが、「牛若東下り」「尼公物語」「那須 よいち たた 掻き鳴らして拍子を取る。扇を閉じたまま机や台を叩いて与一扇の的」の三曲で、これはテクストが残った。他に仙 拍子をとった時代に続いて、琵琶と言う楽器があるのを知台放送局が、同じ鈴木の「田村三代記」石垣勇栄の「天神 ってから、こんな奏法を真似たものか、とにかく原始的な記流罪の段」を録音したと言うが、この語り手は二名とも 囲語り方である。 故人となって、岩手県一ノ関市に北峰一之進さんが選択無 * さいもん の山形生れの若い友人が、昭和の初めまで故郷の村に祭文形文化財となって現存されているが、北峰氏が伝承したの 軽語りが来ると老人たちが楽しんで聞きに行ったと話してく は「田村三代記」「牛若東下り」「黒白餅合戦」の三曲だけ れた。法螺貝を吹き、錫杖を鳴らして村に入って来る。 だそうで、奥浄瑠璃そのものがもっと山奥をさがさないと 東京の下町でも大正年間にまだ同じものを見かけたそうだ残っていないし、牛若丸の義経の曲が残っていそうで、意 しゅげんやまぶし こうわか が、修験山伏の姿を僅かに留めて、扇拍子より以前の物語外に残ってない。島津久基博士の所説でも現存する幸若舞 わず しやくじよう とど つまさき ため かなめ ぎけいき もち

2. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

いずみ ありげなので心をひかれる内に、かねて奥州の藤原秀衡か泉 ) に都を建て、自分たち父子で仕えて源氏を主人にして さまのかみよしとも らこの寺に左馬頭義朝の遺児が入っていると聞いていたし、威勢をほしいままにしたいと話していたと聞かせ、「かど 秀衡がその事実に深い関心を持っていたのを思い合せて、 はかし参らせ、御供して秀衡の見参に入れ、引出物取りて よくとく 牛若に言葉をかけて見る。あなたは、どなた様のお子です徳 ( に ) 付かばや」と慾得の打算から奥州に誘ったように か、私は京の者ですが、黄金をあきなって毎年奥州に下る成っている。美しい稚児で、その上血統正しい生れだから ことが御座います。もしや、あなた様が、奥の方にゆかりである。『平治物語』の記事は、『義経記』と反対に牛若 おお さんけい の方でもおありでしようか、と尋ねると、牛若は仰せのよの方から按馬に参詣の吉次に向って「この童を陸奥国へ具 よろ - 」 うな特別な生れの人間ではありませんと答えただけで、相して下れ。ゅゝしき人を知りたれば、その悦びには金を乞 うわさ 手にならなかったが、この男が噂に聞いた金売吉次なのだひて得させんずる」と申出たので、お供申すのはやさしい とカ ちゅうちょ な、奥州のことをよく知っていよう、と、幼時から大望た が、お寺の坊さま方からお咎めがありましようと躊躇する しっそう けを養って来たことだから、既に十六歳にもなっていて、 と、自分が失踪しても誰も問題にしないと主張するので、 みちのく 心をひかれたのは争われない。「陸奥とは、どのくらい広それでは追って日を定め、迎えの人を寄越しましようと約 しもうさのくに ふかずみ みささぎのすけ いところですか」とこちらから尋ねる。 東し、やがて下総国の者で深栖三郎光重の子陵助重頼と * けんざんみよりまさ 言うのを迎えに寄越した。聞けば源三位頼政にゆかりの武 さか 士なので、初めて牛若は、「今は何をか隠しまゐらせ候べ さまのかみ き。前左馬頭義朝の末子にて候、母も師匠も法師になれと 陸奥の模様を尋ねてから、その中に源氏平家が闘う時が申され候へども、存ずる旨はべりて、今までまかり過ぎ候 来たら役に立つべき者が、どれほどいるだろうか、と尋く。へども、始終、都の栖居難義にお・ほえ候、御辺具して、ま たま ふじわらのひでひら 囲その時、吉次が、奥州の藤原秀衡の名を出して、従う郎党づ下総まで下り給へ、それより吉次を具して奥へとをり侍 のが十八万騎もいる。これはお味方になるものだ、と牛若がらん」と話して、十六歳の承安四年三月三日の明け方に、 経まだ源義朝の忘れがたみと名乗らぬ内に心得た様子で話し鞍馬を出て東路に向うことにな 0 た。つまり吉次は、最初 話をつけて、人を迎えに寄越し途中からまた出て来て、奥 て聞かせる。 さまのかみきんだちくらま 『義経記』では、吉次が秀衡から左馬頭の君達が鞍馬と申州平泉の秀衡のところへ送ることになる。 いわいのこおりひら す山寺に入っている。これを奥州に迎えて、磐井郡 ( 平この経過は、物語のことだから、それこそいろいろに説 ぎけいき あずまじ せいきょ

3. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

* とぎ を割ってきそい出たような姿である。能楽が悦ばれ、お伽て、衣川で悲痛な最期を遂げる。そのあとに、鎌倉から頼 えいよう ぞうし 朝が大軍で攻め込んで来て、三代の栄燿を尽した奥州の藤 草子が作られた。この能楽やお伽草子の中に扱われて、 わら つの間にか判官義経が段々と大きな比重を持ち始めた。こ原氏を亡ぼし、孤立して華麗だった都市を焼払った。変化 れは『平家物語』のほかに『義経記』が平行して強く働きが乏しく冬眠を続けているような奥地の時間の中では、百 やまぶし かけているのである。まだ文字にはならずに盲法師や山伏年でも二百年でもこれは忘れることが出来ない話題だった などが人を集めて語っていた間の義経のいろいろの物語がろう。座頭や山伏がそれを話せば、人が集って来た。 影響を及ぼした例もあったろう。民衆に受けたものはすぐ『義経記』は、都に伝わって筆で書かれる前に、東北の草 に真似手を出す。二百年ほどの間隔をおきながら、義経の深い中で暖められていた。田舎では、古い昔の記憶がなか なか消えない。おん大将と言えばいつまでも義経のことな 新らしい話がどこから復活し、どこで創作されていたかが のだ。 問題なのである。 『平家物語』ともまた違う新らしい文体を作り出し、格調 も正しくまとめて書かれたのは、間違いなく地方ではなく 海尊 そうわ 都に於てであろうが、各段の插話や、筋を一貫させた叙述 へんしゅう ぎけいぎ の手法は、都で編輯される以前に、どこか外でやはり語り『義経記』よりずっと昔に『平家物語』があって、琵琶法 物として流行して、京に流れ込んでそこで新たに洗練の手師の飯の種になって普及している。『平家物語』にくわし よしつね を経たものである。 く書いてある義経が活躍した最も華やかな時期を、『義経 いちのたにやしまだんうら 柳田国男氏が大正十五年十月、十一月の『中央公論』に記』では、一谷、屋島、壇の浦を数行で片付けて、義経の 書いた「東北文学の研究」が最初にこの問題に触れた。生立ちと没落の方をくわしく物語っている。『義経記』と ほうがん 囲『義経記』が成長したのは、義経自身と同じく、奥の東北題しながら判官義経の世ざかりの頃の話は省略して、これ のの土地に於てであって、都や鎌倉で忘れている間に断片的までに盲法師や座頭があまり語らなかった時期の物語を集 しげき 経に民間で育て上げられた。外からの刺戟のすくない生活の成した。これが文字を介して読む本だったとしたら実に奇 ころあ、 中に、座頭や山伏たちが語るのが、頃合の聴衆を見つけて妙な現象なのだが、語り物を集めて多少の矛盾を間題とせ ず一本にしたものだから、『平家』に在るくだりは、必要 話を成熟させ、次第に形をつけて来たと言うのである。 あれだけめざましい働きの後に義経が、奥州に落ちて来でないと見て省いたのである。競争にならぬと信じたのだ まね かまくら よろこ ころもがわ ほろ

4. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

である。さすが頭殿の忘れがたみと感じることが多かった たとしても、一歩、郊外に出れば、北の自然の寒暑に荒い たばしね ろう。立派な者に育ててやりたくもなる。七堂伽藍は都に息吹をとどめた原野であゑ北上川を桜川、束稲山を東山 真似てあるが、奥の土地は、冬のきびしさも永く、人の気と呼び、京都の優雅の風を真似たと伝えられているが、そ 風も粗野で豪快で、一度心を許したら変えない気性のものれが、どれまで真実だったかは疑わしい。今日行っても、 やまはだ だったろう。仮説ばかりであるが、その後の経歴に起った東稲山も山肌の荒れた石だらけの裸か山で、苦労して石を ようや ことを見ると、秀衡は、年が経つほど義経を大切と思い始除いて漸く一部の猫の額のように狭い土地を開墾して山畑 める。人間として異例の保護者となる。 にするくらいで、当時は今と違 0 て原始林が黒々と山を っていたとしても、京の町のなかに人の肌に触れて暖かに 伊勢三郎 在る東山の優雅な趣きなど望み得ず、森や沼や、出水の度 に気まぐれに河床を変えてうねる北上の大河があって、奥 義経は、これから、あしかけ六カ年、奥州で暮らす。十の土地のまだ原始的な雄大な地塊が、平泉を囲繞し大きく まず 七歳から二十二歳の冬までである。昔の人間は成年が早い。展開していた轡である。 人間の形成に最も大切な時期で、境遇の不幸が義経の場合義経の青春をはぐくんだのは、こういう土地である。決 さじんこうずいはんらん でも成長の拍車となっている。 して都雅な場所ではなかった。夏の砂塵、洪水の氾濫、冬 この平泉の六カ年を義経が何をして暮らしていたか、知の封鎖と氷と雪、対立者として抵抗を強制する荒々しく粗 る便りは記録に何も残ってない。奥州は、当時の日本の塞野なものの筈であった。平泉の外に出れば、人間が未開で 外の土地である。しかし都に生れたとしても、物ごころつあったことも考えられよう。 くらま ふじわら くと町から離れた山の中の鞍馬の寺にいたことだから、遠奥州藤原氏が、蝦夷の血を継いだ異民族だと見て来た伝 さび い奥州の土地の生活にも別に淋しくも思わず素直に入り得統的な誤解は、三代の金棺をひらいて行われた学術調査で たろう。封鎖された寺のせせこましい生活から解放された一度に否定された。京都から蛮族扱いを受けていながら、 とうい えん ことこそ大きい。行動するのに、他人が寝鎮まるのを待ち、奥州藤原氏は人種的に純粋に日本人であった。「東夷の遠 しゅう ふしゅう 足音を忍ばせて僧正ヶ谷まで出て行かねばならぬようなこ酋」とか「俘囚の上頭」とか、中尊寺の願文の中に自ら称 ぎよひらけんそん とは、もうなかった。 したのは修辞学の問題で、仏の前に清衡が謙遜に身を屈し にじ つら 平泉は草野に虹を見るように美しい建物を列ねた町だっ た言葉だったのである。しかし、義経の若い日に、平泉の よしつね がらん いぶき はだ いによう

5. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

270 ひたちほうかいそん かぶぎ * かんじんちょう っ一つ、か ? ・ 常陸坊海尊と言えば、歌舞伎の「勧進帳」でも四天王の かめい かたおかするが 柳田氏はこう説明している。 有力な一人で、亀井、片岡、駿河次郎の三人が男ざかりの しらがあたま 『義経記』の「各部の作者産地はそれぞれに別であった。若武者なのにくらべて、常陸坊ひとりだけ白毛頭で、分別 京都はとにかく、吉野山中の寺生活などが、とうてい奥州のを描いた扮装で出て来る。弁慶よりも老人の役である。 に居ては語れなかったと同じく、奥州及びこれに通う道筋これが、主君の身のあわやと言う時は他の三人のはやり気 の物語は、京都居住者の想像し得る境ではなかった。すなな若者と一緒になって殺気立って詰めかけて弁慶に押しと わち、この方面に住んで語りを職とする者の、参与して居どめられ、あとになって弁慶の智謀に及ぶべからずと述懐 たことを推定する根拠である」 する。弁慶よりもずっと人の好い爺さんである。 義経主従は作り山伏となって奥州へくだる。少年の日に この海尊が、衣川で義経の最期の時に「常陸坊を初とし 奥州に身を寄せた時の話とともに、この部分の物語は事こて残り十一人の者ども、今朝より近きあたりの山寺を拝み くまの まかに書かれ地理にも精確である。吉野山の話なども熊野に出でけるが、その儘帰らずして失せにけり。言ふばかり はぐろさん の山伏と奥の羽黒山の山伏との下向交流の間に、自然と運なき事どもなりーと『義経記』に記してある。逃げたの ばれて行ったものなのかも知れない。『義経記』が山伏のだ。 作法にくわしいことにも、この秘密が隠れていよう。文字『義経物語』と言う本にも「はうぐわん ( 判官 ) の御こと のない奥羽の庶民から見れば、山伏はインテリで文化人で、は、たのみがたくやおもひけん。やがて帰らずうせにけ はず その話すことは傾聴される筈であった。その上に今日からり」とあって、十一人が急に逃げたので義経は弁慶以下主 たかだち は想像もっかぬくらいに、いろいろの原因に依る盲人が多従わずか十三人で三万余騎の寄手を高館に迎えて闘う。十 かったことだ。村里から動くことのない座頭は、世間のひ一人ぐらい居なくとも同じようなものだが、この際になっ ろい山伏から聞いた話を、殊に奥州とは関係の深い義経のて、主人を見捨てた海尊は、勧進帳の花道に、一番もっと ことならば一層心を入れて、ひろい集めて、話して土地のもらしい顔付をして出て来る四天王の一人らしくない。主 よろ - 」 者たちを悦ばせたろう。ここでも、ザルツ・フルクの枝は、君の急を見て逃げたとは不面目な話である。 塩の結品をつけて、次第に人を魅する豊かな性質を帯びて おかしいのは、この海尊が衣川の戦に出ずに、死ななか 来る。文字以前の『義経記』の插話の原形が各所に出来上ったと言うことから、その後、いつまでも生きていたと言 って成長して来ていた。 う話が生れて来るのである。キリストが十字架を背負わさ やまぶし そうわ よ

6. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

あづまかがみ でも知れるが、『吾妻鏡』文治五年の奥州征伐のくだりに、 『義経記 ~ では京を離れると大津に出て、大津次郎と言う 中尊寺に鎮守として南方に日吉神社、北方に白山神社を勧湖水に廻船を持っ商人の義侠に依って湖北の海津の浦に上 請してあったこと、秀衡が建立した無量光院にも同じく日陸したことに成っているが、伊勢に出て美濃を通り、北陸 吉、白山両社を鎮守に祀ってあ 0 たと言うのと共に、藤原路へ出たとすると、人の注意の外にある道筋で、更に白山 清衡の中尊寺以来、秀衡も白山神社を深く信仰し金銅仏、勢力が庇護し途中から船で海上を越後の国へ抜けたと考え 高麗狗、鐘など寄進したくらいだから、使者を立てることると女連れでも、『義経記』などの物語に、いろいろと装 ひらいずみ もあったろうし、白山の僧衆が招かれて平泉に赴いた者も飾をほどこして話の筋に瀾のあるものにしたのとは反対 あったと考えてよい こう見て来ると、義経主従が山伏と に、比較的無事に奥州に下ったのではなかったろうか ? なって奥州に下るのに、先に人を遣って秀衡に連絡すれば『義経記』の平泉寺のくだりも危機感を伴って劇的に書か 白山の衆徒に依頼して旅の安全を計ることも出来ないわけれているが、実は義経が北の方を稚児風に男装させて伴い がない。奥州に遠く離れているが、秀衡は白山諸社には大ここに泊った事実が、秘密を守りながら寺の者の記憶に残 かくまひえいざんえんりやくじ 檀那である。その上に義経を匿った比叡山延暦寺と白山のって、やがて盲法師などの語り物に潤色されて編輯される 関係が密接なのである。 ように成ったのではないか ? 女であることが遂にあばか いよのかみよしあぎ こと かんげん 『吾妻鏡』の文治三年一一月十日には、「前伊予守義 ( 義れず、結局義経が笛を吹き、寺の稚児が琴を弾き、管絃を のがっき 経のこと ) 日来所々に隠れ住み、度々追捕使の害を遁れ訖奏して「おもしろしとも言ふも愚か」なほど目出たく衆徒 せみの おもむこむ んぬ。遂に伊勢、美濃等の国を経て、奥州に赴く。是れ陸が歓を尽して夜を過ごしたことに成っている。道の順序で おうどう 奥守秀衡入道の権勢を恃むに依りてなり。妻室男女を相具ないものを、義経から「横道なれども、いざや当国に聞え やまぶし うんぬん す。皆、姿を山臥 ( 山伏 ) ならびに児童等に仮ると云々」たる平泉寺を拝まん」と言出して、家来たちが明らかに不 囲とあって、ここでも北の方などを従えて行ったことになっ承なのに立ち寄ることにしたと言う記事も、危険な旅をし のている。北の方とは一条今出川に館のあった久我大臣の姫ているものなら人が普通しないことで、白山衆徒が味方し 経のことを言うのか、その他の誰か、不明だが、侍女などほた事実を種に、世間向に面白く作 0 た話であろう。 かの女たちもいたらしく、男装していたとしても、さして遂に義経は、秀衡の領分の中に入った。栗原寺に着いて 虎の尾を踏むほどの不安もなく旅行して行ったもののよう から亀井六郎、伊勢三郎を使者に立てて平泉に遣わした。 に見える。 ここでは義経は、まだ一の谷、屋島、壇の浦の合戦に大勝 たの たち ひご おおっ

7. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

あみだぶつ 六の阿弥陀仏の堂を作り、死ぬ時はその本尊につながる五これは金の産出が領内に多かった関係からではない。光堂 くぎよう 色の糸を手に取って安らかに念仏往生を遂げた。京の公卿に使用した金の量などは全体としても大したものでない。 きょひらそばく だけでなく武将の間でも、最期の時は阿弥陀仏が多くの菩清衡が素朴に抱いた浄土往生の夢の方が金色に輝いている さっ 薩や歌舞する天女を従えて、紫色の雲に乗って迎えに来るのである。 と信じていたのである。臨終には、安置してある阿弥陀仏それにしても、奥六郡に礎をおろした三代の実力が、金 の手にかけた五色の糸の一端を指に持って、極楽浄土へその産出と、良馬を養ったのに依る事実は認めざるを得ない。 よりとも のまま導かれて行くと信じた。金色堂が三代の金棺を収め天下を握って日の出の勢いの源頼朝が奈良の大仏の再建に ひでひら て葬堂のように見えたのは、生前から浄土と信じられた堂際して、金千両を献じたのに対して、奥州の秀衡は極めて かまくら に、死後も居られるように子孫が処置を怠らなかったもの普通の態度で五千両を寄進した。開店そうそうの鎌倉幕府 くぎ に違いない。頼朝が攻め入って首を挙げ、額に五寸釘を打の台所にくらべて、五倍の経済の余力を持っていたのであ むつのくに やすひら って門の柱に獄門にかけた四代泰衡まで、誰が親切に計らる。文治二年十月陸奥国の年租として黄金四百五十両を送 もとひら り、基衡は砂金百六十五両を送った。土豪と見えた奥州藤 ったことか不明だが、光堂の父親の金棺の中にひそかに首 級だけ収めてあったのである。清衡が建てたこの堂を現世原氏の富力はたくましい。紺紙に金銀泥で一切経を書いて これは疑問とする余地 にある極楽浄土と信じた故に、死後もそこに金棺に身を横寄進したことなど物の数ではない。 そう があるが、伝説では、経蔵に在る宋板一切経を宋から入手 たえるのを奥州藤原氏の代々が希望したのではないか ? する為に送った砂金は十万五千両だと言う。 金色の棺と言うのも実は異例で特別のことである。 ひでひら すわ 若い義経が入道姿の秀衡に伴われて、この光堂の床に坐岩手大学の森嘉兵衛博士の研究、「奥州産金の沿革ーで とおだ っている情景も空想できるとして、杉の木立を斜めに朝日は、藤原氏の経営した金山を遠田郡の黄金迫、気仙郡世田 もとよし 囲が漏れる夏の爽やかな朝など、光を受けたこの堂は、真実、米、今出山の両金山、並びに栗漿郡の高倉、本吉郡の気仙 ぬまわが まぶ 。沼、和賀郡沢内の大荒沢金山と推定していられる。大体、 のこの世のものでないように眩しく輝いていたことであろう 経 遠田郡より北方に在って、このことは奈良朝の金華山など、 義 南にあった産金地よりも、遠く北方に新らしく金山を見つ 黄色い鳩 けて、まだ手をつけない鉱脈を掘り始めたもののようであ ぎんばく かねうりぎちじ 光堂は、建設当時屋根まで金箔を置いたと伝えられたが、る。これが金売吉次の名で象徴される代々の、一群の商人 わら こんし けせん

8. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

たま 立ち給ひ候はば、死出の山にて御待ち候へ。弁慶先立ち参のは五月二十二日で、六月十三日には義経の首級を泰衡の かじゃ ほうがん さんず らせ候はば、三途の川にて待ち参らせん』と申せば、判官使者、新田冠者が運んで、鎌倉の入口、腰越まで来て実検 ひとしおなご 『今一入名残りの惜しきそよ。死なば一所とこそ契りしに、を求めた。 よしもり かじわらかげときや 我も諸共に打出でんとすれば不足なる敵なり。弁慶を内に頼朝は、義経をよく知っている和田義盛と梶原景時を遣 ぞう 止めんとすれば、味方の各々討死する。自害のところへ雑って見させた。首級は美い酒に浸して腐らぬようにしてあ ぎず った。検使の役の両人とも、平家討伐の際に総大将の義経 人を入れたらば、弓矢の疵なるべし。今はカ及ばず、たと あづまかがみ ひ我先立ちたりとも死出の山にて待つべし。先立ちたらばの供をして付添った者たちである。『吾妻鏡』にも、両人 かたぎやく 実に三途の川にて待ち候へ。御経もいま少しなり。読み果とも涙を拭ったと書いてある。敵役の梶原でも、義経の変 めんぼう つる程は、死したりとも、われを守護せよ』と仰せられけり果てた面貌を見て無常を覚えたことだろう。驕る平家一 れば『さん候』と申して御廉を引上げ、君をつくみ \ と見門を華々しく西海に攻め落した大将軍が、実にこの首級の むせ なごり 参らせて、御名残惜しげに涙に咽びけるが、敵の近づく声ひとだった。 いとま 幀朝は、待ちかまえていた機運が到来したことを知った。 を聞き、御暇申して立出づる」 ( 『義経記』 ) びでひら 秀衡入道が在る間は決して手を出さなかったが、義経を討 さて、その後が武蔵坊弁慶の立往生である。 ふじわら よろい 「鎧に矢の立っこと数を知らず。折り掛け / \ したりけれって寄越したとしても、奥州の藤原氏がそのまま在ること しらは ば、簔を逆様に著たるやうにそありける。黒羽、白羽、染を許すものでない。飛脚を京都に出し奥州の泰衡を追討す 、色々の矢ども風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花る宣旨を下されたいと申入れた。七月十七日、大軍を三手 の秋風に吹きなびかるゝに異ならず。 ( 中略 ) 敵を打払ひてに分けて奥州に進発させ、自ら二日遅れて鎌倉を出陣した。 っえ 長刀を逆様に杖に突きて、仁王立に立ちにけり」。突立っ実戦場に頼朝が馬を進み入れたのは治承の挙兵以来のこと にら で、その間の戦争を兄に代ってした義経は、最早、世にな 「冫しつか死んでいた。 囲たまま敵を睨んで、人が知らぬ司こ、、 周 。それも奥州に秀衡入道も義経も居なくなったから、形 軽夏草 だけの征旅である。 ひらいずみ 大軍は圧倒的な勢いで抵抗を排除して平泉に迫った。八 よりとも みそか 泰衡は、すぐさま飛脚を頼朝に送って、去月晦日、民部月廿一日には、戦敗れた泰衡が、暴風雨の中を平泉に戻っ かまくら っ 0 しようゆうやかた たが、敵の追撃が如何にも急なので、自分の館の門前を通 少輔の館で義経を誅したと知らせた。使者が鎌倉に着いた にん ちゅう こし 1 」え

9. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

の続くところに稲村ヶ崎を見て、鎌倉の玄関先である。歩 いても一時間の距離だが、頼朝に対面を許されず鎌倉を見 ずに都に戻って、その後は討手を受け亡命の旅を続ける。 そして最後に討たれて首だけになって奥州から送られて来 るが、その折も鎌倉に運び入れられることなく、またもや よしもり かじわらかげとき 腰越で抑えられ、和田義盛、梶原景時の二人が幕府から出 むね かけて、義経の首級に違いない旨、確かめた。 ふじさわしらはた さがみ 『新編相模国風土記稿』に藤沢の白旗明神の社の項があっ まっ て、義経の首を実検の後に、この地に祀って当所の鎮守と したと伝えた。私は戦前まで藤沢にあったゴルフクラ・フへ 通うのに、藤沢の宿を通る東海道から横に入ったところで、 廃園 神社があるのを自動車から見かけてあった。白旗明神がそ れらしく思われたので、急に行って見たくなった。義経の くろう おんぞうし 源家の御曹司、「源氏の大将」と言えば、もつばら九郎墓がどこに在るのか、あまり人は知らない。墓でなくとも ほうがんよしつね くびづか 判官義経のことのように考えられながら、義経は例外とし首塚でも白旗明神に残っていないか、と思った。 かまくら ~ * あさいりようい てしか鎌倉にいる間の消息を残してない。御承知のように浅井了意の『東海道名所記』にも、この社のことが出て よりとも 頼朝が平家討伐の旗あげをした時、義経は隠れていた奥州いる もはや ひらいずみ の平泉から駆けつけて来る。頼朝が最早出陣していたので、「右のかた町はづれより十五町ばかり行て白旗といふ里あ 囲鎌倉には入らず、あとを追って東海道黄瀬川で兄弟の対面り、むかし源九郎義経、奥州高館の城にたてこもり、つひ のをした。そして平家を亡ぼして華々しく勝利を得たところに自害せらる。義経、弁慶がくび鎌倉に上せけるに夜の間 経で頼朝の不興を買い、鎌倉の入口にあたる腰越まで戻ってにふたつのくび、此所にとび来れり、里人これを見れば、 来たが入市を拒まれる。 大なる亀のせなかにのりて、声をいだして笑ひければ、鎌 腰越は七里ケ浜の西のはずれにあって、江の島が目の前倉へ此よしを申しつかはし、すなはち神にいはひて白旗明 なぎさ いそなみ の海の上に在るし、長い汀にレエスのようにひろがる磯波神と申す。その前に弁慶が塚あり」 義経の周囲 ほろ こしごえ 0 この かめ いなむらさき ペんけい たかだち

10. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

* ばんよ ノ寺僧円豪西塔ノ院主実詮ノ許ニ告送ル ( 一昨ロノ事云段は目下ないが、鎌倉に渡すよりも、奥州に蟠踞して頼朝 ふじわらのひでひら 云 ) 実詮能保ニ告グ能保院ニ申スーとあって、都のが背後の気がかりとしている藤原秀衡のもとへ義経が身を ひざ 郊外ながらお膝もとの鞍馬山に義経が隠れていることは、投じることに、一種残忍な興味と期待を抱いていられたの ではないか ? 奥州の藤原氏の潜在的実力に、俊敏で戦争 道筋があって後白河法皇の上聞にも達しているのである。 とね あづまかがみ この年『吾妻鏡』の七月十日のくだりには、義経の小舎に強い義経が加われば、これは天下が再び大きくひと揺れ ひえいざん 揺れるところである。 人童五郎丸が捕えられ、六月廿日あたりまで義経が比叡山 に隠れていて、叡山の悪僧俊章、承意、仲教などが同心与鎌倉では、奥州の藤原氏の土着の勢力を平家討伐の間も 力していたと自白したので、叡山座主に警告し、法皇に奏始終、背面の脅威として圧迫に感じて来た。早晩これと対 上させた。廿六日になると、義経をかばっていた山僧が逃決せねばならぬとは幀朝が早くから覚悟の上のことだった ひらいずみ 亡したと叡山から報告があ 0 た。た御門の法皇の御所でろう。木曽・平家の勢力を破 0 たあとは、平泉たけが残 0 ′、ぎよう おうみのくに せんぎ も公たちが僉議し右の山僧たちが近江国北陸道などに所て鎌倉の敵国となる。義経が秀衡を頼って奥にくるたろう にら はず 縁あって逃げたと思われるから逮捕して差出した者に賞をと頼朝が睨まぬ筈はない。ひょっとすると、義経が平泉へ かまくら 与えると院宣を出した。朝臣たちが今になって鎌倉をにく行くと知っていて、平気で通してやる深いたくらみぐらい、 おむろ み、ひそかに義経に同情したもので、御室の仁和寺宮守覚あったと見ることも許されるかも知れない。 よりとも にら 法親王が義経をかばっていると睨まれた。頼朝は義経を逮流離の身となると、義経が奥州の秀衡の下で送った日々 きよう力し 捕出来ぬのを主な口実として、全国の守護地頭を支配するをなっかしんだのは当然である。孤児の境涯で初めて受け 権力を強引に朝廷から奪った。鎌倉に対するその報復に今た人のなさけだし、それも力強い巨人のような存在の慈愛 であった。兄頼朝の挙兵を知って出陣しようとしたのを、 となって義経を庇う動きが出たのである。 と かげみつ 囲京都に対する頼朝の追及は急である。堀弥太郎景光と言そうは急いでしないで、ここにいろと、制めてくれた親切 つぐのぶ かけおち もくのかみのりすえもと のう者が捕えられて、義経の使者として度々木工頭範季の許にも背いて、駆落するように出発すると、そのひとは嗣信、 えら ただのぶ 経に向い示し合すことがあったと自白したが、この木工頭高忠信のような秘蔵の家来を択んで義経の供をするように後 倉範季と言うのは後白河法皇に近い臣下なのだから、事はを追わせた。吉野山の雪の中で後に残って身代りとなろう てんぐ 微妙である。日本国第一の大天狗は、頼朝が次第に圧力をとする忠義の忠信に、自分は奥へ下ると義経は打明けて、 強めて来るのを、快しとしない。京方には義経を助ける手そなたもむだに死なずにあとを追って来いと告げた。 さいとう