0 昭和 44 年ハワイから帰国後の宴。右よ り酉子夫人 , 川端康成夫妻 , 次郎 大左 の 井上靖氏も指摘しているように、 こ、つい、つ「特別席」 で人 ィ夫の「大人の文学」が正当に評価されだしたのは、よう ワ雄やく戦後のことである。晩年の大佛次郎は、一般に文 田学者のもっている社会的信用以上に、知的指導者とし ~ 年藤 ての信頼を獲得していた。 文化勲章受章者となったの 和妻も、当然のことである 昭夫 おわりに、本集のなかには収録されなかったか、 作家としての大佛次郎にも触れておく必要があろう。 学生時代から演劇好きであったことは、すでに触れて おいた。そして、ある時期の氏は、まるで憑かれた人 のように戯曲を執筆している。代表的なものに、『若 き日の信長』 ( 昭和二十七年 ) 、『江戸のタ映』 ( 昭和 - きやまレ一の 二十八年 ) 、『築山殿始末』 ( 昭和二十八年 ) 、『魔界の 道真』 ( 昭和三十二年 ) 、『関ヶ原前夜』 ( 昭和三十三 せっしよう 年 ) 、『殺生関白』 ( 昭和三十四年 ) がある これらはいすれも十一代市川団十郎 ( 当時九代目海 蔵 ) のために書かれ、団十郎によ「て演しられたも かふき のであり、戦後の歌舞伎上演史のなかでも、もっとも 質の高い本格的史劇の骨骼をそなえたものであった。 大佛氏としては、団十郎という得がたい素材によって、 大いに創作意欲を刺激されたのであったろう。昭和 十五年に『平重衡』の上演をめぐって、大佛氏と団十 郎との摩擦が生して以後、ついに氏が戯曲の筆をとろ のふなが ー」げハ ) ・り 420
おヾ当 上昭和 45 年安 ゆきひこ 田靫彦展の会場で 左「スイッチョ ねこ』 ( 昭和 46 年 11 月・講談社刊 ) さ し絵は朝倉摂 昭和 44 , 5 年頃自宅の庭で くつろぐ大佛夫妻 が院国十 で 日寺 く て も え死 み し っ っ し、 つ 、ん 氏オ 日寺 っ 四 皿七腸 こ天なす た て と た っ 稿書月 皇若しハ 四 は 仕 が . 年・の な、 い し だ た ら ′つ た を ほ見事 け そ十 く 死 い ら か な の ん五 の 々 の書な っ 舞 セ月部魔世 し情歳 れ 八 を さ ま ば か は が さ 、大 で 年 と 紀 で く い じ つ ん ン つ 月リ あ 姿 が後大 を め も タ 肝切の き た か つ、 の の 執 る勢 臓言除戦 の イ弗 も で 小 ノ、し、 、け資一 、た な で ド章 い筆氏 年氏意と あ 康 た料 年 く が し る で 療ロ 生四 わ 齢は を と し を間 味カ し 、れ は、 の は る で ぇ 、月匈 は 養 晩 か脊誓な く 運 で十も よ る部、 び 、生再六あ年 し 本隹 3 、い 氏 の も こら あ っ は み 作 す活入 っ ま っ て は つは ペ痛 と 家 氏圧 っ を院 秋オ て も 、で た 優 と ん て の迫 み も 原 い 氏 ン で : こ つ し、 努 らす 、と っ し を 回四 不高 た ↓忽はた ん ら カゞ っ と奔し へ 病 た度血十用 カ か十 よ て た・ て は れ し ) が郎 は起 ツ院 こ圧二紙は り り そ 、て て い書 ド生四 わ症年 な き い し そ へ と と っ が か大 ッ 資発 た け の活十 お で の な た っ た て 料 っ入月格カ な な ド で が佛 い の っ し、 、闘 でわ氏 を も あ 年 て院 づ ら と 疋 っ し、 つ の氏 れ坐た 当各 はな 潰 3 と み あ い つ た れ の つ は四瘍当同 よ す 理 . ら 坐た る る と ープ 入 421
明治 33 年 4 月中央立っているのが幼年時代 の次郎。その左は長兄野尻抱影 正義の秩序がつくりだされるのだから、読むほうはこ たえられない この「鞍馬天狗』を書きはしめた大正十三年、大佛 次郎は二十七歳である。生れたのは、明治三十年 ( 一 八九七 ) 、横浜市町十番地。鞍馬天狗に文明開化ふ うなハイカラさのあるのは、大佛氏の育った横浜とい う土地柄と無縁ではあるまい。一高、東大とすすんだ 彼は、かならすしも文学者になることを志望していた のではなかった。大学も法学部政治学科だし、卒業後 は外務省条約局に勤務している。氏は晩年に至るまで、 ふうばう 端正で堂々たる風貌を失わなかったが、ダブルの洋服 のよく似合うその美丈夫ぶりは、文人というより洗練 された一流外交官をより多く思わせるものであった。 氏が外交官の途を数年にして辞すのは、官吏として 次不適格だったせいではない。文才のほうがありすぎた 代のである。 氏の文オや演劇への傾倒は、すでに学生時代から、 文しゅうぶん芽生えていた。第一高等学校在学中に、す でに単行本『一高ロマンス』が出版されている。昭和 一四十八年 ( 一九七三 ) に七十六歳の高齢でなくなるま 」年でに数百冊も出たその出版物の、最初の作品がそれで ある。 大東京帝国大学の学生時代には、友人と「テアトル・ 394
1 毎日。に発表、六・一一一 ~ 五・六 ・一一「東足日日新聞」に、「由もに満州を旅行。 三十四歳 比正雪」を連載、不平分子のアジテ 1 ターとして、近代性のある心昭和六年 ( 一九三一 ) いんえい 理的陰翳を付与せしめた由比正雪と、彼を取巻く不平浪人たちに托一 ~ 九月「仮面舞踏会」を「新青年」、一 ~ 十一一月「青銅鬼狗」を して昭和初年の失業インテ印なる失業問題を批判した佳作である。「少年倶楽部」、一 ~ 七年六月「鼠小僧次郎吉←を「講談倶楽部」、 九月「怪談」を「改造」、「唐茄子」を「週刊朝日」、十一月「史実調一月「一夜の宿」を「朝日」、一一 ~ 七年四月「愿蔵火事」を「冨士」 査のいろいろ」を「文学時代」に発表。一月『角兵衛獅子』、三月に発表。三・二六 ~ 七・二四にわたり : フチ・プル階級とインテリ 『幽霊船伝奇』を先進社、四 ~ 十月『ごろっき船』 ( 上下巻 ) を改層の没落した世界をしみじみとした筆致で描き、芸術的に飛躍を意 世界探偵を平凡社、九 ~ 六年味する最初の現代小説「白い姉」を東京・大阪朝日新聞に連載。三 造社、七月、ゴーグの『夜の恐怖』 ( 小説全集 一一月『山宅奇談』 ( 上下巻 ) を先進社、十二 ~ 五年三月『から ~ 七年五月「妖魔の絵図」を「朝日」、五月「大衆文芸を語る」を 世界大衆 1 ) を改造「文学時代」、「焦明以前」を「改造」、六 ~ 七年九月「慶安異変。を す組』 ( 前後編 ) を改造社、デ = マの『鉄仮面』 ( 文学全集 「オ 1 ル読物号」、九・一八 ~ 七・四・一六「天狗廻状」を「報知 社刊。この年の夏、鎌倉雪 / 下四一一八の新居に移る。十一月三日、 新聞」、九月「僕の秋」を「文学時代」、「遊戯」を「週刊朝日」 ( 秋 父政助死去、行年八十歳。 昭和五年 ( 一九三〇 ) 三十一二歳季特別号 ) 、十一 ~ 七年十月「スペ 1 ドの女王」を「婦人世界」に連 一 ~ 六年十二月「日本人イオン」を「少年倶楽部」、一 ~ 九月「山載。十二月「江川太郎左衛門」を「モダン日本」に発表。九月『大 の娘」を「婦人世界」に連載。四 ~ 十一月にかけて「ドレフ = ス事佛次郎集』較 ) を平凡社刊。この年より約十年間、横浜の = 件」と題して、十九世紀末尾のフランスにおいて、スパイの嫌疑を = ー・グランドホテルに仕事部屋を置いた。 三十五歳 受けた市民ドレフ = スが醜悪な軍部の手により悲運におとし入れら昭和七年 ( 一九三一 l) れる過程を克明に記録し、当時の日本のファシズム台頭期における一 ~ 十一一月「薩摩飛脚」を「キング」、「山を守る兄弟」を「少年倶 こうや 軍部に対する警世の書ともいえる史伝を「改造」に連載して、史伝楽部」、「春雨の琴」を「少女の友」、一 ~ 八年八月「礦野の果」を「主 物に新しい分野を開拓した。四・二三 六・三・一五「日蓮」を婦之友」、一 ~ 九月「女殺し権現裏」を「現代」、一月「影」を「新 「読売新聞」、七月「花嫁」を「文藝春秋・オ 1 ル読物号」、九月青年」に発表、三月から八月にかけて、薄幸な女性の虚無的世界観 っしぎり 「辻斬の男」を「講談楽部」、十一月「秋草と黒い喪章」を「令女を西欧文学に対する該博な知性により活写した現代小説第一一作であ る「ふらんす人形」を「時事新報」に連載し、インテリ読者に迎え 界」に発表。五月『怪談その他』、八月『 = 水船地獄』を天人社、 「集』 ( 現代大衆四 ) を平凡社、九 ~ 十一月『由比正雪』 ( 前中編 ) られた。七月、マルセル・アルランの「姿絵」を訳して「中央公論」 を改造社、十月『ドレフュス事件』を天人社、十一 ~ 六年五月『日に発表、八月「幽霊と花嫁」を「文藝倶楽部」に発表、三月『日本 蓮』 ( 上下巻 ) を天人社、十一一月『大佛次郎集』鮴を改造社、人イオン』を講談社、五月『白い姉』を改造社、『天狗廻状』を新潮 3 ) を天人社刊。この年、九月、久米正雄とと社、六月『鼠小僧次郎吉』を新潮社、八月気青銅鬼』を先進社、 『軍事探偵篇』 ( 罪書 けんぎ さつま こと
クション全集』 ( 全五巻 ) を朝日新聞社、六月『天皇の世紀七 ( 大政の大作である。四月三十日午後一一時七分、転移性肝がんのため、か ねて入院治療中の藜只都中央区築地の国立がんセンターにて死去、 奉還 ) 』、十一月『天皇の世紀八 ( 江戸攻め ) 』を朝日新聞社刊。 七十五歳葬儀は五月三日、鎌倉市扇が谷の寿福寺にて挙行された。墓地は寿 昭和四十七年 ( 一九七一 l) 一・五 ~ 四・一四「天皇の世紀・旅」、四・一七 ~ 七・一一「天皇福寺にある。四十七年六月二日から四十八年四月一一十五日にわたり ・二一第三回休載 ) 、病室で綴った「つきぢの記」と題する病床日記の一部が六月十八 ~ の世紀・武士の城」、 ( 七・一二 ~ 四八・一 七・一一「『天皇の世紀』休載にあた 0 て」を「朝日新聞」に発表。十九日「朝日新聞」に発表された。五月『大佛次郎集』 ( 全集 ) 五月『都そだち』を毎日新聞社、十月 ~ 四十八年七月『大佛次郎自を集英社、十二月『冬の花』 ( 愛蔵版 ) および『冬の花別冊大佛次 選集・現代小説』 ( 全十巻 ) 、十月『天皇の世紀九 ( 武士の城 ) 』を郎人と文学』を光風社書店刊。この年、多年の業績を記念して、 新潮日本 5 ) を新潮社刊。この年大佛次郎文学賞が設定された。 朝日新聞社、十一月『大佛次郎集』 ( 文学全集 2 十一月二十三日から十二月四日にかけて横浜伊勢佐木町、有隣堂書 昭和四十九年 ( 一九七四 ) 店にて「大佛次郎・人と作品展」を開催。 一月 ~ 十一一月『大佛次郎随筆全集』 ( 全三冊 ) 、七月『天皇の世紀十 昭和四十八年 ( 一九七三 ) ・一三 ~ 四・一一五「天皇の世紀・金城自壊」を「朝日新聞」 ( 週 ( 金城自壊・総索引 ) 』を朝日新聞社刊。 昭和五十年 ( 一九七五 ) 四回、月 ~ 才曜日 ) 連載、明治天皇生誕の嘉永五年 ( 一八五三 ) か ら起筆、第一五五五回、「金城自壊」の章 ( 五四 ) 、奥羽越列藩同盟三月 ~ 『大佛次郎時代小説全集』 ( 全一一十四巻 ) を朝日新聞社より現 と薩長など官軍との対決を扱 0 た″北越戦争の叙述にて、作者病在刊行中。この年、「大佛次郎記念館」 ( 仮称 ) を横浜市中区日本大 気のため中断せざるをえなか 0 たこの畢生の史伝は、膨大な史料を通三番地の旧英国領事館に開設することに決定、年内開館予定をめ ざして準備中である。「大佛次郎記念館」には大佛次郎の蔵書、文 駆使、引用し解釈を加え、幕府、倒幕側双方のイデオロギ 1 に偏す 化勲章、多数の表彰状、愛用品などが収められ、閲覧に供せられる ることなく、庶民の側にも視点をすえて、文学者としての独自の史 観により近代日本の原点たる明治維新を捉え直し、今後の日本の激予定である。 動期に対応することを意図して執筆されたものである。昭和四十年 * 博文館刊行雑誌「ポケット」掲載作品については、福島 五月から執筆準備を開始、はじめのうちは一回分の執筆を終了する 行一「大佛次郎年日誌稿」 ( 「防衛大学校紀要」昭 3 、 のに八時間 ~ 十時間を要し、少なくとも五時間を必要とした。膨大 9 ) を参照した。 な史料を読み、そのうえで執筆、その原稿も時間をおいて三度くり かえして手を入れた。この間、癬盟に鞭して各地を取材踏査した。 四十七年五月、肝臓障害で数度目の入院以後、死の床にて執念の執 筆を続け、原稿用紙 ( 四百字詰 ) 枚数総計七七七五枚に達する未完
日 1 一ニロ 二 ~ 七月「冬の木々」を「小説新潮」、四・七 ~ 九・一五「鞍馬天狗三月十五日から九月十三日にわたり「朝日ジャ 1 ナル」に、スエズ しょ《が、 かいさく ・女郎蜘蛛」を「サンデ 1 毎日」、一〇・二七 ~ 三三・四・二一「橋」運河開鑿に成功した偉人、レセッ。フスの栄光と転落の生涯を描きな を「毎日新聞」に連載。十 ~ 三十四年三月「新編鞍馬天狗・深川物がら、その悲劇をひき起した政治機構の醜悪さや大疑獄事件の実体 語」を「家の光」、十一月戯曲「魔界の道真」を「オール読物」に発を通して、議会の腐敗ぶりを克明に追求し今日の議会政治に対する 表。四 ~ 八月『ゅうれい船』 ( 上下巻 ) を朝日新聞社、四月『浅妻船』反省を促す実録史伝「。ハナマ事件」を連載。五・一「荷風散人を悼 現代国民 5 . 肥 ) ( 正続編 ) をむ」を「毎日新聞」、六・二五 ~ 三五・二・二四「桜子」を「朝日新 を光風社、七 ~ 十一月『大佛次郎集』 ( 文学全集 角川書店、十二月『おかしな奴』を光風社、女郎蜘蛛』を毎聞」、八・一一「『松川判決』を傍聴して」を「朝日新聞」、十一月戯 ・二一 ~ 三五・六・二〇「孔雀長屋」 日新聞社刊。この年、五月「海北友松」、十月「魔界の道真」が歌曲「殺生関白」を「心」、一一一 舞伎座で上演された。九月、三十一一年度文化勲章及び文化功労者選を「週刊新潮」に発表。五月「浅妻船」、十月「殺生関白」を菊五郎 劇団のために脚色演出した。九月『水に書く』を新潮社、十月『冬 考委員になる。 昭和三十三年 ( 一九五八 ) 六十一歳あたたか』を光風社刊。この年、日本芸術院会員になる。十二月一一 四・五「友を語る」を「朝日新聞」、五月「『照る日くもる日』と筆十一日から翌年一月十二日にかけてインド各地を訪れ、そのルポを 「読売新聞」に翌年掲載、後に『砂の上に』に所収。 名」を「週刊朝日」、八・一一「ヨーロッパの旅」、八・一二「。フリ ムゼル峠」を「朝日新聞」、八・一一一 ~ 二四「ローマ日記にかえて」昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 六十三歳 を「東新聞」、一〇・六 ~ 三四・五・一三「冬あたたか」を「日二・一五 ~ 一一・八「新樹」を「東京新聞」、六・二六 ~ 三六・ 本経済新聞」、一〇・一九 ~ 一一・三〇「鞍馬天狗・黒い手型」を二・二五「花の咲く家」 ( 第一部 ) を「サンデ 1 毎日」、一〇・一 「週刊明星」、十月七日より毎週火曜日「神奈川新聞」に随筆を長「永仁のツボのこと」、一一・九「赤毛のカプキ」、一一一・八「日日 期間連載。一一・二〇「荘八さん」を「朝日新聞」に発表。十一月の危険」を「朝日新聞」に発表。三月『。ハナマ事件』を朝日新聞社、 むだ より「西日本新聞」に百回にわたり、簡潔にしてきりつとした無駄四 ~ 三十六年一一月『鞍馬天狗』 ( 全十巻 ) を中央公論社、六月『桜 のない筆致で、文明批評としてもよめる好随筆「水に書く」を連載。子』を新潮社、七月『孔雀長屋』、十一一月『新樹』を光風社刊。この あと 十一 ~ 三十四年二月「鞍馬天狗・西海道中記」を「週刊明星」、一年、秋には横浜市富岡にある直木三十五旧居址に記念碑建立のため 一一・五「パリで見た桜の国」を「朝日新聞」に発表。七月『橋』を助力した。「 The Journey ( 旅路 ) 」がクノップ社より英訳出版さ 毎日新聞社刊。この年、五月、アメリカ、フランス、イギリス、イれた。 ようきひ タリアなどの諸国を旅行。一二・ ~ 一三「楊貴妃」が藤原歌劇昭和三十六年 ( 一九六一 ) 六十四歳 年 団によりオペラ化され産経ホ 1 ルで上演された。戯曲「関ヶ原前夜」一 ~ 三十七年一一一月「お化け旗本」を「週刊朝日」、一 ~ 三十七年一 も執筆。 月「虹の橋」を「婦人之友」、三月戯曲「おぼろ夜」を「オール読 昭和三十四年 ( 一九五九 ) 六十一一歳物」、四・二七「アルジェリアの反乱とパリの表情」、五・七「パ
背景に勤王・佐幕の争いを材にした、非凡な構想と筋の変化の妙味メンタルな作品である。六月「昼間の月」を「サンデ 1 毎日」、七 ~ により圧倒的好評を得た最初の新聞小説「照る日くもる日」を「大阪三年五月「幽霊船伝奇」を「日本少年」、八 ~ 三年一一月「鞍馬天狗 朝日新聞」に連載。この頃、最初四百字詰一枚八十銭の原稿料が一余燼」を「週刊朝日」、九 ~ 十一一月「海の男」を「少年倶楽部」、九 円二十銭にな 0 た。七月『黼物幻の義賊』 ( 流山竜太郎 ) 、十月『江戸 綺譚 月「雪の夜がたり」を「サンデー毎日」にそれぞれ発表。一一月『 春宵和尚奇縁』を博文館刊。十二 ~ 昭和一一年七月『照る日曇る日』小鳥を飼ふ武士』、『神風剣侠陣』 ( 流山竜太郎 ) を博文館、八月『泰 ( 前中後篇 ) を渾大防書房刊。この年、鎌倉材木座上河原に移り両親西大盗伝』、九月『角兵衛獅子』 ( 前編 ) を渾大防晝房刊。 なおきさんしゅ , ご を迎えた。直木三十五の来訪を受け激励されたのも材木座のその家昭和三年 ( 一九二八 ) 三十一歳 であった。 一 ~ 十一一月「南海行」を「少女倶楽部」、一 ~ 十一一月「山百合の草 昭和ニ年 ( 一九二七 ) 三十歳紙」を「婦人倶楽部」、一 ~ 七月「市井の鬼」を「文藝春秋」、一月 一月「女優ナナ」 ( 瓢亭白馬 ) 、一一月「坊主佐吉の旅寝夢」 ( 三並喜「官女」を「講談雑誌」、「正成の最期」を「少女の友」、一一・一一 0 とけん 太郎 ) 、三月「医師節庵」 ( 阪下五郎 ) 、「蝦夷の弁慶義経」 ( 赤松繁俊 ) 「大衆文芸の転換期」を「東泉日日新聞」、三月「杜鵑」を「中央公 ′ラブ を「。ホケ ' ト」に発表、三月にて同誌廃刊。この雑誌には、大佛次論」、四 ~ 九月「剣侠閃光陣」 ~ 「恐怖時代」を「文藝倶楽部」、 郎の筆名で鞍馬天狗を、三並喜太郎の筆名で世話物、阪下五郎では六 ・一 ~ 四・六・一〇「ごろっき船」を「大阪毎日新聞」、六 ~ 九月「山 たこ やや堅い歴史物といったように、それらの筆名を使いわけ、十五男」を「幼年倶楽部」、六・一五「凧」を「サンデー毎日」 ( 夏季特 の筆名を駆使して約百編の作品を発表、長兄野尻抱影から″法学士別号 ) 、六月「羽織」を「週刊朝日」、七 ~ 五年十一一月「山岳党奇譚 が講談を書いているとは何事だ″といわれ、一時はこころ暗然とな鞍馬 天狗」を「少年倶楽部」、七月 . 「仁義以上」を「改造」、九月「艶説 ったこともあったが、どうやら生活ができ、好きな本が買えるので陽炎陣を「講談倶楽部」、「銀カ簪」を「文藝倶楽部」 ( 増刊 ) 、十一 ~ ばなし 満足していた。多くの筆名を持ったのは職人の謙虚さと自分を大切五年五月「かげろう噺」を「講談倶楽部」に発表。三月『鞍馬天狗余 にする習癖のためであ 0 た。一 ~ 十一一月「地雷火組」を「講談倶楽燼』 ( 上下巻 ) を朝日新聞社、スチプンスンの「宝島・その他」 ( 大衆 部」、一 ~ 十一一月「猟奇館瓦解記」を「苦楽」、三 ~ 翌年五月「角兵衛文学 ド現代大衆 9 ) を平凡社、 8 ) を訳して改造社、六月『大佛次良集』 ( 文学全集 3 獅子」を「少年倶楽部」、三・一五「新両国八景」を「週刊朝日」十 ~ 四年八月『赤穂浪士』 ( 上中下巻 ) を改造社刊。この年、嵐寛寿 ふん 艶日別 賰特 ) に発表、五月十四日から翌年十一月六日にわたり、「快挙赤郎扮する鞍馬天狗第一作が映画化された。 三十二歳 穂浪士」を「東京日日新聞」に連載、赤穂浪士の義挙を、武士階級の昭和四年 ( 一九二九 ) イデオロギーに対立する新興町人階級の台頭顕著な元禄時代を背景一・三〇 ~ 一一一・一一〇「からす組」を「国民新聞」、一 ~ 七月「月 年 に、私恨によらぬ政治の中の事件として解釈する新史観に立っ作品かげの道」を「少女倶楽部」、一月「狂一一一口」を「改造」、「雪の夜が で、従来の大衆文学に圧倒的役割を演じていた講談的要素を清算打たり」を「文藝倶楽部」、三月「半身」を「サンデ 1 毎日」、五 ~ 五 破し、大衆文学の愛読者層に知識階級を加えるのに貢献したモニュ年九月「岩島奇談」を「日本少年」、五月「休みの日ーを「サンデ
388 十月「あきかぜ」を「オール読物」に発表。十一月「若き日の信の編集に木村毅、獅子文六などと参加した。 長」を「オ 1 ル読物」に発表、戯曲としては第二作目で文学的内容昭和三十年 ( 一九五五 ) 五十八歳 にすぐれた、清新の気に満ちたなかに近代味の付与されたもので、 一月二十日から九月十日にかけて、嘘のない、純粋な生き方を追求 信長の人間解釈に新風を盛り込んだ作品だといえる。十月、歌舞伎する主人公の心境を通して、孤独に耐える自由人の誠意と悲哀を現 座で菊五郎劇団により上演された。一月『四十八人目の男』を読売代批判をこめながら描き、人間存在の不安定さを標題 " 風船 0 に象 新聞社、四 ~ 十月『大佛次郎時代小説選集』 ( 全十巻 ) を同光社刊。徴した滋味溢れる心境小説「風船」を「毎日新聞」に連載。一・一一 昭和ニ十八年 ( 一九五三 ) 五十六歳一 ~ 一一・一一〇「薩摩飛脚」を新聞三社連合各紙に連載 ( 中絶して 四月「オ 1 ル読物」に戯曲「江戸のタ映」を発表、前二作が時代物いた作品を再執筆 ) 。一 ~ 三十一年一月「鞍馬天狗・影の如く」を だ 0 たが、この作品は初の世話物で、従来の歌舞伎手法を踏襲しな「サンデ 1 毎日」、一月戯曲「冬の宿」を「オ 1 ル読物」、四 ~ 五月 がらも、江戸の市井人の人間味を滋味豊かに表現し、三月、歌舞伎「颶風圏」、「罪」を「小説と読物」、六月「上田の話」、十二月「靴の あさづまふね 座にて菊五郎劇団により上演された。五・三 ~ 十・四「鞍馬天狗・音」を「オール読物」、一二・ ・一三「浅妻舟」を 雁のたより」を「サンデー毎日」、六 ~ 一一十九年一一月「彼」を「婦人「藜只新聞」に連載。一一月タ立の武士』を毎日新聞社、六月 公論」、七月、戯曲「たぬき」を「オ 1 ル読物」、九 ~ 一一十九年一一月 『まぼろし峠』を同光社、九 ~ 三十一年一月『薩摩飛脚』 ( 上下巻 ) を 「満月の客」を「週刊読売」、十一月戯曲「築山殿始末」を「オー 同光社、十一月『風船』を新潮社、十二月『死なぬ伊織』を同光社 ル読物」に発表、十月、歌舞伎座にて上演された。一一一・九 ~ 一一九刊。この年、『 Homecoming ( 帰郷 ) 』を米国ク / , 。フ社より刊行、 ・一一一「その人」を「朝日新聞」に連載。六月『青面夜叉スペイン語、イタリア語など数ヶ国語に翻訳出版された。三月、幸 の巻』を毎日新聞社、七月『大佛次郎集』 ( ) を角川書店、田露の「雪たたき」を脚色、歌舞伎座で菊五郎劇団により上演さ 八月『大佛次郎篇』 ( 衄剿 6 ) を新潮社、九月『大佛次郎』翁れた。 6 ) を講談社、十一月薙雁のたより』を毎日新聞社、十一一月『若昭和 = 一十一年 ( 一九五六 ) 五十九歳 き日の信長』を朝日新聞社刊。 二・一九 ~ 五・八「おかしな奴」を「週刊新潮」、六・二一 ~ 昭和ニ十九年 ( 一九五四 ) 五十七歳五・一七「ゆうれい船」を「朝日新聞」、七・一四 ~ 三二・ 一 ~ 三十年四月「まぼろし峠」を「家の光」、二月「江戸の黄昏」「峠」を新聞一 = 社連合各紙に連載。四月『鞍馬天狗・影の如く・夜の を「小説の泉」、「色を染めた花」を「文藝春秋」、「紅葉山荘」を「オ客』を毎日新聞社、十月『別冊文芸大佛次郎集』を河出晝房、十 に現代日本 0 1 ル読物」、七・四 ~ 一ニ〇・三 ・一三「鞍馬天狗・タ立の武士」、十一月『大佛次郎・石坂洋次良集』 ( 文学全集 8 ) を筑摩晝房刊。四月、 一月「鞍馬天狗と三十年」を「サンデー毎日」に発表。十二月『大咽喉ガンの疑いで東大病院に入院、手術を受けた。九月、文化勲章 佛次郎集』孵代 2 ) を河出晝房刊。四月、胃のため慶応病院及び文化功労者選考委員となる。 に入院し手術を受けた。十二月、小山書店版『世界大衆小説全集』 昭和三十ニ年 ( 一九五七 ) 六十歳 , そ
「朝日新聞」、九・九 ~ 一一「日本の門出」を「足新聞」、九・一興出版部、十二月『詩人』を苦楽社刊。一月、研究社の雑誌「学生」 四 ~ 一〇・二五「ル飃」を「毎日新聞」、十 ~ 十一月「白猫」発刊に参与、以後一一十四年にかけて多くの随想を発表し絶讃を博し を「婦人画報」、十月「忘れていた本」を「文藝春秋」、一一・一四た。十一月苦楽社を創立し、雑誌「苦楽」を主宰した。 ~ 一七「文化局の創設を要望す」を「東只新聞」に発表。この年、 昭和ニ十ニ年 ( 一九四七 ) 五十歳 ひがしくにのみや 入月、東久邇宮内閣参与となり、十月の内閣総辞職までその職にあ一 ~ 一一十三年五月「鞍馬天狗・新尺絵図」を「苦楽」、二月「昔 った。 気質」を「新夕刊」、四月「文学の冬眠」を「経済」、四・一一五「名 昭和ニ十一年 ( 一九四六 ) 四十九歳演説」を「新夕刊」、六月「ジャンポオの早退」を「文藝春秋」、七 一 ~ 三月「乞食大将」を「新太陽」、一 ~ 五月「薩摩飛脚」を「学・三〇「美しい町」を「タ刊ニイガタ」、入月「為朝の絵本」を「学 生」、一月「痴言」を「りべらる」、一・一四「肉体なき評論」を「朝生」、九 ~ 二十三年一月「」を「新大阪」、十一月「山道」を「苦 こけっ 日新聞」、一一月「狐穴の日本人」を「別冊文藝春秋」、「文化に就て」楽」に発表。六月『乞食大将』を苦楽社、『裸体』を竹書房、七月 を「文化都市」に発表。三月から十一一月にかけて「朝日評論」に、 『真夏の夜の夢』を丹頂晝房、十二月『花紋』を講談社刊。 二十世紀初頭の革命指導者でありながら、一方ではロシアの秘密警昭和ニ十三年 ( 一九四八 ) 五十一歳 そうく 察の走狗だった二重スパイ、アゼフの怪奇な人物を描き、政治機構一 ~ 四月「黒潮」を「サンデー毎日」、四月「大のいる風景」を「文 が生む人間の悲劇性を活写した史伝「地霊」を連載、この作品は昭藝読物」に発表。五月十七日から十一月一一十一日にかけて、「帰郷」 かぶき 和五年執筆の「詩人」の連作ともいえる。三月「歌舞伎のために」を「毎日新聞」に連載、″さまよえるユダヤ人″を自称するコスモ ひなにんぎよう ふはくけいちょう を「月刊西日本」、三・一五「海を渡る雛人形」を「週刊朝日」、四・ポリタンの主人公に托して、戦後の浮薄軽佻な世相を批判し、日体 一一八「鯨のステッキ」を「週刊朝日」、五月「若き友に」を「女性の伝統尊重への喚起を促すといった文明批評を基軸にすえた清香溢 線」、「小さい大工」を「赤とんぽ」、六月「子供の部屋」を「文藝れる現代小説として好評を博した。五月「初恋」を「婦人」、六 ~ 春秋」、「水墨の眸」を「光」、七月「小ねこが見たこと」を「幼年ク一一十四年十一月「覆面の騎士」を「少年」、七 ~ 十月「土耳古人の対 ラブ」、八・一五「一年後」を「新夕刊」、八 ~ 十一月「真夏の夜の話」を「人間喜劇」、九月「隙間風」、十一月「秋タ夢」を「苦楽」、 しぐれちょう 夢」を「週刊朝日」、八月「静夜」を「苦楽」、「時雨の蝶」を「サン十二月「東裁判の判決」を「朝日評論」に発表。一月『白い夜』 デ 1 毎日」、九月「葉桜」を「モダン日本」 ( 夏季特別号 ) に発表。十を誠光社、五月『幻燈』を井原文庫、七月『黒潮』を毎日新聞社、 月一日の「こども朝日」に、無類の猫好きから、ねむり猫に己れを十月『鞍馬天狗・新東絵図』を講談社刊。この年、京都を数回訪 たく 托してスイッチョと猫を描きながら作者の心情の世界を象徴的に吐れ、以後、毎年の習慣となった。 露したメルヘン ( 童話 ) の傑作「スイッチ習ねこ」を発表。十一 ~ 昭和ニ十四年 ( 一九四九 ) 五十一一歳 十二月「迷路」を「京都日日新聞」、十一月「古い友達」を「オー 一 ~ 八月「色がたき」を「小説の泉」、一月「白い女」を「苦楽 J' ル読物」、十一一月「者」を「苦楽」に発表。七月『源実朝』を六「白猫白吉」を「こども朝日」、一一月「花火」を「小説界「半身」
4 ) を改造社、三 ~ 十月『大久保彦左衛門』 ( 前後篇 ) を賻文館、「タ焼富士」を「サンデー毎日」、八 ~ 十五年七月「員殻」を「新女 六月『大楠公』、『プウランジ = 将軍の悲劇』を改造社、『江戸日苑」、八 ~ 十一一月「幽霊大陸 ~ 行く」を「大陸」、「町の牧歌」を「雄 言』を博文館。 弁」、八月「新樹」を「週刊朝日」 ( 特別号 ) 、十一月「明るい日」を 昭和十ニ年 ( 一九三七 ) 四十歳 「オ 1 ル読物」、「面影」を「モダン日本」、「窓の女」を「映画朝日」、 ・三 ~ 五・三〇「生きている秀頼」を「週刊朝日」、一 ~ 十一一月十二月十九日 ~ 十五年六月十八日「水の階段」を「都新聞」に連載、 ひぼたん 「日本の星之助」を「幼年倶楽部」、「緋牡丹伝記」を「日の出」、主人公の青年と社会を構成する成人との断絶を、大正末期から昭和 三 ~ 九月「鉄の舌ーを「新青年」、五・二一 ~ 一一一・二九「逢魔が初年の都会におけるインテリゲンチャの影像に色濃く描いた作品で 辻」を東京・大阪朝日新聞に連載、七月「敵」を「週刊朝日」 ( 銷ある。三月『物薇の騎士』を中央公論社、六月『花紋』を実業之日 かいじん 夏読物号 ) 、「熱風」を「オール読物」、八 ~ 十一一月「灰燼」を「現代」本社刊。 に発表。三月『雪崩』、五月『海の女』を新潮社、六月『大佛次郎昭和十五年 ( 一九四〇 ) 四十三歳 一月「その朝」を「オール読物」、「礼儀」を「サンデ 1 毎日」 ( 増 本 4 ) をアトリ = 社刊。 集』 ( 説細集 昭和十三年 ( 一九三八 ) 四十一歳刊 ) 、三月「雨後」を「サンデー毎日」、四・二〇「江戸のタ映」を「週 一 ~ 三月「白夜」を「オ 1 ル読物」、一 ~ 十一月「都薇の騎士」を刊朝日」 ( 春季特別号 ) 、「帰郷」を「オール読物」に発表。この年、報道 「婦人公論」、一 ~ 十四年四月「花絞」を「新女苑」、四月「二度目班員として中支宜昌戦線に従軍し、そのルポを七月八日「東京朝日 の命」を「週刊朝日」 ( 春季特別号 ) 、「明るい時代」を「改造」、五月新聞に、八月には「文藝春秋」に発表。四月『熱風』を鱒書房、 たそかれ 「江戸の黄昏」を「講談倶楽部」 ( 増刊 ) 、六月「愛情」を「オ 1 ル 『タ焼富士』を博文館、『生きている秀頼・灰燼』 ( 新 ~ ・衆 9 ) を非 読物」 ( 臨増号 ) 、七 ~ 十四年十一一月「美女桜」を「講談倶楽部」、七凡閣、『美女桜』を博文館刊。 月「字都宮」を「週刊朝日」 ( 鈎夏特別号 ) 、八月「お種徳兵衛」を昭和十六年 ( 一九四一 ) 四十四歳 「日の出」、「焦土の上に」を「婦人倶楽部」、一〇・一三「満州の一 ~ 十七年三月「冬の太陽」を「少女の友」、一 ~ 三月「雲雀は空に」 ・一「薩摩の使者・鞍馬天狗」を「週刊朝日」、 旅を終えて・移民村にて」、一〇・一四「建設史の第一頁」、一 0 ・を「文藝春秋」、一 チャムス 一五「佳木斯の一夜」、一〇・一六「貴重なる試練」などの満州、一・一八「歴史小説のこと」を「朝日新聞」、四 ~ 八月「明るい仲間」 ベキン を「サンデ 1 毎日」、「薔薇少女」を「満州新聞」、四月「人間の街」 熱州、北京地方旅行報告を藜・大阪朝日新聞に寄稿。 昭和十四年 ( 一九三九 ) 四十二歳を「オール読物」、六・一一「西国道中記」を「週刊朝日」、七・五 ~ 一 ~ 十一一月「花丸小鳥丸」を「少年倶楽部」、一月「夢の浮橋」を八「北京の風」を「都新聞」、一〇・一四 ~ 一六「新京」を「報知新 「日の出」、「松花江」を「改造」、一一月「望郷」を「スタア」、三 ~ 聞」に連載。一一月『花丸小鳥丸』を中央公論社、四月『その人』、 四月「火星から来た紳士」を「新青年」、四・一一六 ~ 七・一〇「郷愁」五月『雲雀は空に』を博文館、八月『水の階段』を中央公論社刊。 を「読売新聞」、四月「霜の花」を「日の出」、六・四 ~ 一二・ この年、母ぎんが死去。