義経記 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集
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1. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

昭和 42 年飛鳥の石 舞台を訪ねる次郎 義経の周囲 大佛次郎物 「義経」の決定版′ 大佛文学がここに結品する 筆麗にして精稼の歴史随想 算的記念碑である。 それはともあれ、大佛氏は昭和四十一年 ( 一九六六 ) に『義経の周囲』を刊行している。これもまた、いわ ゆる小説ではない。そして、この作品の面白味は、い わゆる小説を越えたものである。 誰もが知っているように、義経は三十一歳の若さで おくせつ 自殺した。義経には、一ム説、臆説、風説がっきまとっ ているが、ますたしかと思われるのは、十六歳で鞍馬 ひでひら 山を脱走して東北の藤原秀衡のもとで成長し、やがて レリとも 二十二歳で成人した姿を黄瀬川の兄頼朝の前にみせる。 それから何も跡を留めず、鎌倉にあしかけ五年を送っ てから、二十六歳で出陣し、二十六、二十七歳の二年 間に、木曽義仲を破り、ついで屋島、蹶の浦に平家を 攻めほろばし、絶頂の働きをみせながらその年のうち に没落し、世間の表面から隠れて流離放浪し、一一十九 たかだち 歳で奧州に落ち、三十一歳の閏四月三十日に高館で自 殺する しよう力、 義経が、天下に華やかな生涯を見せたのは、わすか 和聞 昭新 に二カ年に足りぬ短時日で、その前後のことは、ほと んど世間に隠れている。 作者は『保元物語』『平治物語』『平家物語』『義 1 、、ノ . 辛記』『源平盛衰記』のような軍記物語、および『吾 「れ社妻』のような史書、『玉葉』などの記録文書を縦横 し、 . しつ 416

2. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

一て - つけい くびづか よしとも も造詣がふかかった。 「義経の周囲」は義経の首塚と 平治の乱で父の義朝が殺された後、母の常盤は清盛 おおくらきよう いわれる藤沢の白旗明神の話から筆をおこし、きわめ の寵をうけ、やかて一条大蔵卿に嫁ぐが、義経もまた たかだて て自由な形式で史実をさぐり、 高館での自刃までを紀 そこへひきとられたのであろう。その間の消息はあい とう - 一うまうれんにん 打ふうにたどって、その最後を芭蕉の句にちなむ「夏草まいだが、七歳のとき鞍馬山へのばり、東光坊蓮忍の や」の思いをこめて結んでいる 稚児となったことは史料で裏づけられる。しかしそれ この記一丁 辛彳ふうな史話をたすさえて義経の足跡を追っ につづく鞍馬時代や奥州下りは俗説の中にある腰越 てゆくのは、二重の興味をさそわれる。というのは、 状によると、田舎の各地に身をひそめ、遠く離れた土 あれはどよく知られ、判官びいきのもととなっている 地で百姓たちの奉仕をうけたとなっているが、奥州下 義経の生に、 いくつもの空白の部分があり、それを の経緯はあまりよくわからない鞍馬の天狗に僧正 埋めるのは容易なことではないからだ。いやむしろ、 ヶ谷で兵法を習ったなどというのは完全な虚構だ。金 その空白の部分をもとにさまざまな虚構化が加えられ、 売り吉次との関係や基の宿て熊壥長を討ちとる話、 いわゆる義経伝説が形成されてきたといえよう。 藤原窄衡のもとに身をよせた義経が、京 ~ もどり弁 義経関係の事績は、当時の一等史料である九条兼実變と五条の橋の上でわたりあうことなど、いすれも後 へんさん の日記「玉葉」や、鎌倉幕府の公式編纂物「第」 世のこしらえごとだ。 の記録には、あまりでてこない。・ こくアウトラインを その動きが歴史の脚光を浴びるのは治承四年以後で しめすだけだ。しかし「平家物語」や「源平盛衰記」 あり、鎌倉滞在中はふたしかだが、義仲追討の兵をす になると人間味が加わり、同時に歴史ばなれがはじま すめ、さらに平家を西国へ追い落してゆく活躍気 るそして「義経記」では偶像化された義経像がつく かなりくわしく伝えられているしかし兄頼朝と不仲 り出されるのだ。 「玉葉」から「義経記」へのプロセ 一転して追われる立場になってから、死に スは、歴史家からみれば実像から虚像への転化であり たるまでの足どりはふたたび歴史の薄明にとざされて あまり問題にならないかもしれないか、一般の大衆に しまうのだ とっては偶像化、英雄化された義経像こそ関心の的と 文治五年閏四月に衣川の館で果てたとき、義経はま なる だ三十歳の若さだった。生前のはなやかな一時期があ ねざわ ころも

3. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

しんぐう ゅぎいえ し、亡命して来た都の公卿文人などを介して、都には出ずい叔父の新宮十郎行家にそそのかされて、頼朝追討の院宣 に京都の空気が窒息的なのを感覚している。幾度も彼はすを賜りたいと法皇に願い出る。 いとまたまちんぜい ぐにも都に出て来そうに見えて決して出て来なかった。用「勅許無くんば、身は暇を給ひ鎮西に向ふべし」とて、 ぎよくよう 心深く、自分の代りを上京させて、野生的で新興の気分に『玉葉』には、「ソノ気色ヲ見レ、主上、法皇已下、臣 こと 1 」と はつらっとした鎌倉から自分は離れない。新らしい武家の下上官、皆悉ク相率ヰテ下向スベキ趣也」っまり平家が 体制を作り上げるのには、保守的な京に出てその支配の害や 0 たことを、今度は義経がやりそうに見えたので、都を ろうよ、 毒を受けぬ方がいいと見とどけたからである。野人の木曽挙げて狼した。朝廷では、頼朝を討てと宣旨を下した。 義仲は折角平家覆減の先頭を切って京に入りながら朝臣た平家一門が都落ちすれば木曽義仲と結び、やがて木曽を抑 ちに翻弄され、利用された上で打捨てられ身を亡ぼした。 え切れなくなると、鎌倉の頼朝にひそかに追討の宣旨を下 今や、気の毒な判官義経が、まだそれとは知らずに、都のした。同じようにして後白河法皇は、上昇して来る頼朝の あり 陰険な空気の中にあって、見捨てられようとしている。蟻勢力に対して義経を利用しようとして、両者の確執を深め 地獄か底無しの沼に踏み入って、いつの間にか没落と死がるように仕向けた。『玉葉』の著者が「自他共ニ道理ヲ失 ろうぜき あに 準備されているのを知らない。平家の専横や、木曽の狼藉フ、天魔、豈便ヲ得ザランヤ」と歎いたのにもかかわらず、 から自分が救ってやった都だから、法皇を初め、朝廷の上義経に頼朝追討の宣旨が下った。 下ともに自分に味方してくれるものと信じていたのだ。そ そして義経が直ちに兵を集めようとして失敗し、都落ち の間に、義経を取りかこむガスは次第に濃密に、目には見して西に下ったのを見ると、前の宣旨を無効にする為に、 えぬ影響を進めて来る。鎌倉から付せられた大名たちが離行家、義経を呼び出すように院宣が下った。やがて鎌倉か れて行き、近江の源氏がまた義経の呼び出しに応じなかつら北条四郎時政が上京して義経追討の許しを乞うと、法皇 たのを見ると、昨日までチャホャしていた人々が急に背をは少しもためらわず、これに許可を与え、義経討伐を認め 向ける。しかし都には義経を抑える武力のある人間はいな た。義経が都落ちした『玉葉』の元暦二年十一月三日のく いのだ。 だりに記載してある。 とさのぼう らくちゅうきせん 土佐坊の事件で、義経は激怒し、前から空想していた日「天晴外、去夜ョリ、洛中ノ貴賤多ク以テ逃レ隠ル。今暁、 ろうぜき 本の西の半分を自分が支配して頼朝の鎌倉の勢力に対抗し九郎 ( 義経 ) 等下向ノ間、狼藉ヲ疑フタメ也。今猶ホ敢テ ただ かすが ようとする企てを急に実現しようとした。ルンペン性の強動揺セズ、只太神宮春日大明神ヲ念ジ奉ルノ外、更 = 以テ とぎまさ なげ もっ

4. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

しゆら くげん 銅板が各地の寺の壁や銅像の基台に嵌め込んである。ジャ などが修羅道の苦患を免れて、地獄を楽土にしようと評定 ンヌは義経の最期よりむごたらしく、生きながら火刑にさの上地獄征伐の軍を起す。クーデタ 1 か革命なのである。 れたが、ふたりとも生前の輝かしい功績にひきかえて、哀何しろ、地獄には歴史あって以来の猛将勇卒が当然に亡者 れな死を遂げたことで、民衆の同情がどの時代からも集っとなって集っていることだから、強いといわれた面々が皆、 はんらん あくげんたよしひら た。民衆は石のように黙っている場合も、政治の上の強権叛乱軍に参加する。その顔ぶれを見ると、悪源太義平、九 きそよしなかにったよしさだくすのきまさしけのとのかみのりつね が犯した罪悪に対しては強い批判力を持つ。義経の名声は郎判官、木曽義仲、新田義貞、楠正成、能登守教経、平 まさかどおだのぶなが たかときむかんのたゆうあつもり 生きている間よりも死んでから確立された。 高時、無官大夫敦盛、相馬将門、織田信長、これに古くは かげきょ よりみつ 死んだのは義経三十一の時である。今日なら大学を出て田村将軍、頼光と四天王、弁慶、悪七兵衛景清、これ讎 さかちょうはん どろぼう 会社に就職して七、八年目、やっと結婚してアパート の中坂長範のような大泥棒まで、地獄に来て亡者になった分に おもちゃ に家庭を持ったところである。それまでの匕、八年間に木は敵も味方もない、「まるで武者人形の玩具箱をひっくり そよしなかほろ さわぎ 曽義仲を亡ぼし、おごる平家を西海に追落して目ざましい かへしたやうな騒 [ となったが、誰がこの地獄破りの総大 ばんどうむしゃ 働きを示す若さに溢れた大将であった。そして坂東武者の将に推されたかと言うと、先輩後輩が一致して九郎判官義 野太く粗野な性格よりも京風の優雅な天性や教養をそなえ経の号令に従うことに異議なしとする。 しげもり からめて ていたように文字の上でもまた言伝えでも信じられて来た。 義経の総帥の下に、小松内府平重盛が副将となって搦手 ごと 稚児姿の牛若丸が成長して華やかな武将に育ったと誰しの大将。つまり強い大将は歴史あってこの方、雲の如く出 も信じたことだ。ジャンヌ・ダルクは敗けいくさも知っこ オているが、その中でも優れているのが九郎判官義経という が、九郎判官義経は進んで退くことを知らず、海に山に結論を出さないと、金平本を見る者、聴く者がおさまらな よりとも 「平攻めに攻めて」一直線に成功を重ねた。これが兄頼朝かった。つまり、どこまでも古今の名将、肩を並べる者が と不和になると、別人のように弱くなって山野に隠れ、追あろうとは民衆は考えない。 われる苦しみの末に、まだ若くて討たれて終るのである。 江戸でそうだったとして、東北地方での判官贔員は、義 民衆は義経が無類に強い大将だった事実の方を忘れない。 経が自分たちの土地の北上川のほとりで、悲壮な最期を遂 * じようるり ぎけいき げたことから由米し、やがて『義経記』となる奥浄瑠璃や 天狗に教えられた神わざの連続である点に力点を打つ。 へきち じゅんほく 徳川時代に入り寛文元年に出板された『義経地獄破』と語り物で山間僻地に至るまで人々の純朴な感動を呼んで来 * きんびらじようるり お ため いう金平浄瑠璃があって、地獄に堕ちた古今の武将、勇士た代々の伝承の為らしい。明治大正の年代になっても、旅 てんぐ あふ

5. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

ない。ただ彼らは、どんな乱暴でも仕出来す野人だから上たのもそれで、頼朝から強い停止の意思表示が出たのも無 視して、やたらに義経に官職を与え、逆に義経の身を危く 手にあやつって利用し、用がなくなったら打捨てる。 ときただ 平大納言時忠が、義経に対して採った態度が、都の朝廷させた。平大納言時忠は源氏の大将義経を娘の婿だと見て、 の人の露骨な標本のようなものである。義経の都入りが急これを後光にして羽振りよく得意でいる。法皇も彼を通じ かわ′」 だったので、平大納言は不利な重要書類を入れた皮籠を没て、義経をコントロールするようになる。多くの朝臣公卿 かまくら 収された。手紙の類であるが、これが鎌倉方に検閲されるたちが、義経の味方に付いているように信じられたが、実 、はそこに、優雅に見える都の棘も毒も隠されている。秋の と、身辺が危くなる者が大勢出る。自分の命も危かろうと 息子の中将といろいろ相談し、おのれの姫で都でも美人で扇のように義経を捨てる時が来ていた。 義経は出生から孤独の境遇であったが、生成する力で不 知られたのを義経に提供して、危険を逃れたいと企てる。 ふじわらのひでひら 「清くたはやかに、手跡うつくしく、色なさけありて声幸を受けつけず、また藤原秀衡のような良い保護者を得た はなやか ことで、気性ものびのびと育った。他人にだまされて、つ 花なる人なり」と在る。東国から出て来た田舎武士が、 地位ある都の姫にあこがれて欲しがるのは当然と自分の方らい目に遭った経験もなかったろう。人間の善意にかこま から予定してのことである。相手は若くて戦勝に酔って得れて今日に生立った。だから機敏ではつらっとした精神の 持主なのにかかわらず、人の善意を信じ易く純粋な性質で 意の絶頂にいた。何が起って来ても驚くことを知らない。 大納言から内々人を立てて、ほのめかすと、判官も承知のある。兄頼朝から冷やかにされても、京都や西国に自分に ようで、その姫を送る。そんなことは普通のことと考えて好意を持っ味方が多いものと、信じ切っていた。大宮人が いるので、策略が成功したと見てから、文のことを頼む頼朝などより冷酷で、陰険に優雅な笑で義経に対してい と、義経は無邪気な男、封もひらかず返してくれた。大納るものとは知らなかった。 囲言はほっとして、自宅の坪 ( 内庭 ) の中でこれを焼却して頼朝の方は物ごころついた時、敗軍して都を落ち、父や の不利な証拠を失わせた。「何事にか有けん。悪事共の日記肉親の兄たちの、むごたらしい最期に出会い、自分も捕わ れて既に命がない場合に流人となり、その後も最初生れた 経とそ聞えし」と、『源平盛衰記』は伝えている。 すけちか あゆげいごう 公達は阿諛迎合に慣れている。ねたみ多く煩さい小世嬰児を伊東祐親にむざんに殺され、にがい経験を重ねて人 界なのである。正直で純粋な地方人無骨な武士ほど、そのの中に育った。本能のように周囲に対し警戒する神経を作 やす 巧みな誘惑に陥ち易い。法皇が義経を親愛するように見えり上げたのである。これが政治家としても成功した理由だ うる あかご とけ

6. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

あづまかがみ でも知れるが、『吾妻鏡』文治五年の奥州征伐のくだりに、 『義経記 ~ では京を離れると大津に出て、大津次郎と言う 中尊寺に鎮守として南方に日吉神社、北方に白山神社を勧湖水に廻船を持っ商人の義侠に依って湖北の海津の浦に上 請してあったこと、秀衡が建立した無量光院にも同じく日陸したことに成っているが、伊勢に出て美濃を通り、北陸 吉、白山両社を鎮守に祀ってあ 0 たと言うのと共に、藤原路へ出たとすると、人の注意の外にある道筋で、更に白山 清衡の中尊寺以来、秀衡も白山神社を深く信仰し金銅仏、勢力が庇護し途中から船で海上を越後の国へ抜けたと考え 高麗狗、鐘など寄進したくらいだから、使者を立てることると女連れでも、『義経記』などの物語に、いろいろと装 ひらいずみ もあったろうし、白山の僧衆が招かれて平泉に赴いた者も飾をほどこして話の筋に瀾のあるものにしたのとは反対 あったと考えてよい こう見て来ると、義経主従が山伏と に、比較的無事に奥州に下ったのではなかったろうか ? なって奥州に下るのに、先に人を遣って秀衡に連絡すれば『義経記』の平泉寺のくだりも危機感を伴って劇的に書か 白山の衆徒に依頼して旅の安全を計ることも出来ないわけれているが、実は義経が北の方を稚児風に男装させて伴い がない。奥州に遠く離れているが、秀衡は白山諸社には大ここに泊った事実が、秘密を守りながら寺の者の記憶に残 かくまひえいざんえんりやくじ 檀那である。その上に義経を匿った比叡山延暦寺と白山のって、やがて盲法師などの語り物に潤色されて編輯される 関係が密接なのである。 ように成ったのではないか ? 女であることが遂にあばか いよのかみよしあぎ こと かんげん 『吾妻鏡』の文治三年一一月十日には、「前伊予守義 ( 義れず、結局義経が笛を吹き、寺の稚児が琴を弾き、管絃を のがっき 経のこと ) 日来所々に隠れ住み、度々追捕使の害を遁れ訖奏して「おもしろしとも言ふも愚か」なほど目出たく衆徒 せみの おもむこむ んぬ。遂に伊勢、美濃等の国を経て、奥州に赴く。是れ陸が歓を尽して夜を過ごしたことに成っている。道の順序で おうどう 奥守秀衡入道の権勢を恃むに依りてなり。妻室男女を相具ないものを、義経から「横道なれども、いざや当国に聞え やまぶし うんぬん す。皆、姿を山臥 ( 山伏 ) ならびに児童等に仮ると云々」たる平泉寺を拝まん」と言出して、家来たちが明らかに不 囲とあって、ここでも北の方などを従えて行ったことになっ承なのに立ち寄ることにしたと言う記事も、危険な旅をし のている。北の方とは一条今出川に館のあった久我大臣の姫ているものなら人が普通しないことで、白山衆徒が味方し 経のことを言うのか、その他の誰か、不明だが、侍女などほた事実を種に、世間向に面白く作 0 た話であろう。 かの女たちもいたらしく、男装していたとしても、さして遂に義経は、秀衡の領分の中に入った。栗原寺に着いて 虎の尾を踏むほどの不安もなく旅行して行ったもののよう から亀井六郎、伊勢三郎を使者に立てて平泉に遣わした。 に見える。 ここでは義経は、まだ一の谷、屋島、壇の浦の合戦に大勝 たの たち ひご おおっ

7. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

在も知らなかった。 九郎と言う名で出て来る。 ねのいゆきちかたての 宇治川の陣で激流を押渡って木曽義仲の将根井行親、楯 一週間後の廿日のくだりを抜書きすると、形勢が刻々と ちかただ 親忠などの手勢を潰走させ、息をつかせずあとを追って、変化し、宇治に現れた東軍が忽ちに六条河原に入って来た 都に入って来た。義仲は、六条河原で坂東勢の急襲を受け、のを記録している。 こうむ 最後に義経の本隊と接触して打撃を蒙り、からくも脱出し「卯ノ刻、人告ゲテ「ムク、東軍已 = 瀬多ニ付キ未ダ西地ニ た。義経は退却する敵を目の前に見ながら、後白河法皇の渡ラズ云々、相次デ人云ク、田原ノ手已ニ宇治ニ着ク云々。 にしきひたたれもえぎ からあやかさね いる六条殿に向った。「赤地錦の直垂に萌黄の唐綾を畳て、 詞訖ラザル = 六条川原ヲ武士等馳走ス云々、仍チ人ヲ ( びざくれない よろい くわがたかぶとけにん と - 」ろ これ 坐紅におどしたる鎧着て、鍬形の兜下人に持せて後にあシ之ヲ見セシムルノ処、事已ニ実ナリ。義仲方ノ軍兵、昨 こがね そでなむそうびようはちまんだいほさっ り。金作の太刀をはき、鎧の袖に南無宗廟八幡大菩薩と書日ョリ宇治ニ在リ ( 中略 ) 敵軍ノ為ニ打敗ラレ了リ、東西 さっそう すなわ やまとおおじ きつけたり」 ( 『源平盛衰記』 ) 。まことに若く颯爽たる大将軍南北ニ散リ了ンヌ、即チ東軍等追ヒ来リ、大和大路ョリ京 はたけやま しげたた うまのじよう ろうぜき みようが 振りで、供をしたのは畠山次郎重忠、渋谷右馬允、河越太 = 入リ、 ( 九条川原辺 = テ ( 一切狼藉無シ、最モ冥加ナ しげより しけふさかじわら かげすえ きびすめぐ 郎重頼、その子小太郎茂房、梶原源太景季、佐々木四郎高 リ ) 踵ヲ廻ラサズ六条ノ末ニ致リ了ンヌ」 ばんどうむしゃ 綱と、粒の立ったそうそうたる坂東武者ばかりだったのは進撃が急速で、あっと言う間に、市中に入って来た。し よろこ ろうぜぎ 偉観だったろう。法皇がお悦びになって、異例のことで中かも、合戦時にはっきものの狼藉がなく、見事だったと言 すご 門のところまでお出ましになって、彼らを見た。源九郎義 う。源九郎義経は、東山の尾根の妻い月の出を見るような くらま よりとも 経が昔、鞍馬の稚児牛若丸だったことも知らずにいる都人姿でぬっと立ち現れたのである。頼朝は知られていても、 の前に初めて姿を見せたのである。京方の日記『玉葉』に義経の名は、初耳だった。鎌倉にいた三カ年、目立っこと 義経の名が出るのは、寿永三年正月十三日のくだりが最初を何もしていないことで、それだけの武将だとは伝えられ 囲である。 てない。行動を起した時も東国の年貢を運上すると言う名 周「天晴ル、今日払暁 = リ未刻 = 至リ、義仲東国 = 下向ノ事、目で鎌倉を出て、兄の範頼と、一一軍に分れて、義経は一方 経有無 / 間ヲ変々スルコト七八度、遂 = 以テ下向セズ。是レの指揮者だったのに過ぎない。 ~ 我おうみつかわ わず 近江ニ遣ス所ノ郎従、飛脚ヲ以テ申シテ云フ。九郎ノ勢僅富士川の合戦のあとで、頼朝は直ぐに京に攻め上ること うんぬんあえ すなわ 四カニ、千余騎云々、敢テ義仲ノ勢敵対スペカラズ、仍チをしないで、東国を固める仕事に専念し、敵対する豪族の 00 たちま とうりよう 忽チ御下向有ルべカラズ云々ー 討伐に自分で出陣している。前にも書いたが、棟梁にかっ ぎそよしなか ついもっ たちま すで ため

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他ニ計無シ、其上ノ事 ( 宿業ニ任ズベキ力、 ( 中略 ) 辰刻、零落する。おいとまを申しに伺うべきであるが、行粧異体 義経等、各自ノ暇ヲ申シ西海 = 赴キ訖ンヌ」。法皇を初め、なればこのまま出発仕りますと断らせて静粛に発向した。 『源平盛衰記』では、鬱を着た姿で義経が院の御所にて大 内裏の人々が予定どおり、義経を捨てたのである。 あいさっ ひざまず 庭に跪いて挨拶したことになる。 さしぼう む わず 武蔵坊 相従う兵は僅か二百余名だけである。その人数の中に、 ときわ 母の常磐が再婚して生んだ侍従良成がいる。目ぼしい武者 びようえじようただのふ ゅぎいえよしつね 頼朝は、行家、義経を攻めるように十月二十五日に小山は奥州から従って来た佐藤四郎兵衛尉忠信、伊勢三郎義盛 むさしぼうべんけい ゅうき あづまかがみ などの他に、『吾妻鏡』はここで初めて武蔵坊弁慶の名を 朝政、結城朝光等に先陣を命じ出発せしめた。二十九日に は自ら大将となり、大軍を以て鎌倉を出て、十一月二日に挙げる。弁慶のような伝説的巨人が、いっ頃から義経の身 駿河の黄瀬川駅まで出て、京都の様子を知る為に威勢を示辺に出現したのか一切不明である。五条橋の話は、この都 してここに滞在した。黄瀬川は治承四年の旗挙げの時、奥落ちの時よりも遙か後世になって誕生したものなのは疑う 州から義経が駆けつけて来て、兄弟が初めて対面し、頼朝余地がない。 この場合の義経の進退が立派だったことは、気難しい も弟のけなげさを知って落涙した場所である。この度はそ ぎよくよう の弟を亡ぼす為に、ここまで軍を進めて義経をめぐる都の『玉葉』が偽りならぬ感動を伝えている。十一月三日のく 動向を偵察した。 だりに、「天晴ル、去夜ョリ、洛中ノ貴賎多ク以テ逃レ隠 ろうせき 一方、義経が西国に下ろうとして都を離れたのは、十一 ル。今暁、九郎等下向ノ間、狼藉ヲ疑フタメ也」。市中騒 こと 1 」と 月三日のことである。その前日に法皇から御下文を賜って動したが、何事もなく終った。「京中悉ク以テ安穏ナリ 義経を九州の地頭に、叔父の行家を四国の地頭に任命し、義経等ノ所行、実 = 以テ義士ト計フベキ力。洛中ノ尊卑随 も おお 囲その地の住人に両人に従うように仰せ出された。だから義喜セザル無シ。若シ以前ノ風聞の如クン・ ( 、王侯孵相一人 よろこ トシテ身ヲ全フスペカラズーと悦んでいる。 の経の都落ちは任地に赴くことになるが、数日間都の上下が ぶんご 経恐布したように、法皇を奉じて下るようなことはしなかっ 七日になると、義経の一行が豊後の国の武士たちに攻め きそよしなか ろうぜぎ た。出がけに木曽義仲のように乱暴狼藉をして出て行くこられて死んだとか、逆風の為に乗船が沈み、海中に溺れた にしきひたたれもえぎおどしよろい れともない。義経は赤地の錦の直垂に萌黄縅の甲をつけ、使などと、流言が都で行われた。事実ならば、「天下ノ為ニ ちんぜい けんせき 者を六条殿にまいらせて、鎌倉の譴責を逃れる為に鎮西にハ大慶ナリ」と兼実は書き、「義経大功ヲ成シ、共ノ詮無 するが よりとも その いとま かまくら おわ ため たっ まっと はる かねざね つかまっ ′一と ナいしよう よしもり 0

9. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

338 梶原が頼朝の耳に入れたことがあったかどうか ? 事にふから出て来た勢力を、下に見くだす習性である。勢力に応 じて都合よく利用するが、本心では軽蔑したり嫌う。位階 れて、これも梶原の申状と言うことに、その頃から成りが げんろくちかまつもんざえもん ちで人にうとまれ、やがて後の世の元禄の近松門左衛門のや文化の上では自分たちの方が避かに上だと、抜くことの げじげじ 筆にかかると、梶原親子を炫虫と言い、「鉉虫を梶原」とできない自信をいつまでも抱いていた。都の外に在るもの 呼ぶようになったと言う。そこで文楽の人形の梶原景時、は、すべて粗野で田舎だからである。 まゆ げじげじ眉で眼玉をむいて如何にもにくにくしい。考える木曽はたくましい野育ちの力を揮って気随気ままに振舞 と、義経をよく見せる為に気の毒な役を課せられたものでったが、都の行儀を知らない故に、人気がなく失脚も当然 ある。 とされた。新らしく義経が入って来ても同じことで、利用 けびいし されるが歓迎されるわけがない。義仲を追払って検非違使 じよう だいじようえさぎがけ 後白河法皇 五位尉に任命された義経がその年の大嘗会に先駆となって ぐぶ 供奉したのを、『平家物語』では都人が見た印象として「木 まわ なれ 梶原のような性格鮮明の人間が相手ならば敵に廻しても曽などには似ず、京慣てはありしか共、平家の中のえりく よしつね 扱う方法がある。頼朝と不和になって義経が行く先もなく づよりも、猶劣れり」と意地悪く述べてある。木曽のよう ひきまゆ やまざる 残った場所が京都であった。色が白く引眉して作り声してな礼を知らぬ山猿ではないが、平家の人々にくらべれば、 言葉のやわらかい人たちの中に置かれたわけだが、下り坂ずっと品が落ちて悪いと言う。自分たちの標準に合うかど になった義経のような人間に対して、親切にしてくれる土うかを物尺に観察するだけだから、田舎臭い武士たちが新 地柄でなかった。 らしく発生した行動的で創造力のある人間群だとは理解出 平家が都で栄えたのは、武力を持っている上に旧体制の来よ、 オ。いくさに強い武将だから、大切にしただけである。 きんだちくぎよう 朝廷の秩序や風習に進んで参加して、公達が公卿となり生つまり破壊力しか認めてないのだ。義仲が入って来た時も、 活も習慣も公卿化したせいである。それにしても、根が武塞外の蛮族の侵入を受けたように、法皇が比叡山に逃れる 士、本来の朝臣でないから、都から追われて西海へ落ちてと、大宮人のほとんど全部、「すべて世に人とかぞへられ、 行ったとなると、すぐに見捨てられ、代って都に入って来官位階に望をかけ、所帯所職を帯するほどの人の、一人も きそよしなか た木曽義仲を歓迎することもじずにする。自分たちの古漏るはなかりけり」で、朝廷が挙げて引越して避難したよ けいがい い文化の形骸を守っている内裏の人々は武士と限らず地方うなもの。武士をくるめ地方の人を、世に人とかぞえてい かじわら よりとも ため だいり さい力し なお まる ふる けいべっ をら

10. 現代日本の文学 Ⅱ-5 大佛次郎集

268 た人間があったとしても特に珍しいことでなかった。 のだから当然の終り方で、義仲が退き、勝った義経も姿を 天下をくつがえした大きな内乱の経験である。人が寄れ消して、大原御幸で、過ぎたもの全部の影を諸行無常の山 かげ ば戦乱当時の思い出や、無関係の者でも家を焼かれ生別死蔭のタあかりの中に沈めて結び、武家でありながら王朝の うきめ 別の憂目を見た話が出る。現に官吏崩れの行長入道が義経みやびの心を継いだ平家の物語として美しく歌いおさめる。 のことをよく知っていたと、兼好は書いている。どう言う義経のその後、流離の苦心と悲壮な最期までを語り伝える もはや 関係で知っていたのか不明だが、事件に興味を抱いたもののには、叡山にこもる行長入道では、最早、知り得ない遠 なら、まわりのいろいろの人間の話をよく聞いたろうし、 い地方の出来事なのだ。『平家物語』以外の新らしいもの ひえいざん 行長が入道して後に住まった比叡山がまた、いろいろの意の出現を待たねばならなかった。 ぎけいき 味の世間の失敗者、殊に、敗けた平家方の者が行くあても それが戦記物語として新らしく現れる『義経記』なのだ なく逃込んで身を寄せる者もいたろうから、自分が知らな が、時代がずっと遅れて『平家物語』との間にざっと二百 むろまち い話も加えられて、一段毎にふえてまとまって行ったこと年に近い長い年月が置かれる。最早、室町時代に入って、 も想像せられる。その上に、生仏法師が語るだけでなく、 人も時代も変っていた。源平の合戦よりももっと、いし 弟子たちゃ真似て語る者がひろく世間に出る。原本を写しろの事件が人々の身に近くなまなましく起っていた。すく たり、読み易く語句を変えることも起ったろう。とにかく、 なくとも南北朝の内乱があり、応仁の乱が間に拠まってい ぎんだち 平家の公達の生立ちから源平の戦争を知っている人たちがる。義経のことなどは、もう世間が忘れる方が当然なのだ。 まだ残っていたのだから、行長入道の書いたとおりが伝わその時に、義経の物語が都のどこかでまとめられて、『義 っただけでなく、異本も多く出たわけである。文章も、目経記』が初めて書きものとして成立する。 で読む王朝時代のものでなく、耳に、しかも琵琶などの撥室町時代前後の日本は焼土の下から実に不思議な世界を を入れて伴奏が付く。前代にはなかった漢語まじりの、息現出した。都が十年も続く戦乱の舞台となり、地方も同様 っちいつぎ の短いリズムある文体が自然と似合うので、文学としてので、盗賊の横行に悩み、都の内外にも土一揆がさかんに起 新鮮な感覚を持って誕生した。 る。そのくせ、将軍や富裕の人々は、大陸の美術に執着す この『平家物語』は義経の輝かしい絶頂の時代を一番近る眼識を養い、流血のかたわらに数寄の趣味の生活に一身 よしの くから見て書いたが、その没落のあとを吉野山のあたりでを没して悔いない。天下がみだれたので民衆の = ナージー しっそう 筆をおさめて失踪のあとを追わない。平家を歌った物語なが釈き放され創造に参加した。可能なものの芽が一時に土 ごと ばち よしなか やま