「じやア、恋愛ごっこは ? 」 う。醒めてしまうと、それだけのもので、あなたも私もい あか 伴子は、顔を赧らめて首を振って見せた。すると、俊樹つもと違っていませんもの。意味ないですよ。そんなに本 は腕を伸ばして、伴子の手をつかんで、云い出した。 気になるなんて、お互いに、若いんじゃないでしようか ? 」 : : : 小母さまに内証で」 「キッスの真似しましよう。 「あたし、やはり、失礼します。」 向きなおると、伴子のすぐ目の前に、俊樹が目をつぶつ 「一緒に行きましよう。道がわからないでしよう。この辺 くちびる て色の白い顔を突き出していた。待ち設けている唇の形は、進駐軍の占領地帯なんですから、道徳だって新らしい が、目に入った。まったく覚えのない動作で、自由だったんです。」 たた 右手が、その顔を女のカ一杯に平手で叩いていた。 あまり平然としているので、伴子の方が拍子抜けしたく 俊樹は、驚いたように手を放したが、怒りもしないで笑らいであった。 った。打たれた規の皮膚は、赤くなっていた。 ただ俊樹は、左衛子に知れるのを怖れているらしく、念 を押した。 「野蛮だなあ。」、 しかし、彼は何にも平気でいた。ふてたように笑って、「小母さまに、黙っていて下さいますね。」 一向に動揺した様子はないのだった。 「ええ、そんなこと、私、云いませんわ。」 「まあ、いいですよ。なかったことにして置きましよう。 「およそ意味のないことですよ。笑われるだけのことです ーミング・アップだったんで ねえ、伴子さん、ただのウォ からね。」 伴子は、気を取り直して、自分よりも年下にさえ感じら 「失礼しますわ。」 れるこの若者を見た。興奮は冷めていた。あれだけのこと ずうずう と、立ち上ると、 をして、かしくもなくしている無神経さが、図々しいと 「およしなさい。そんな子供染みたこと。僕は平気ですいうのか、不思議に思われて来た。それもこちらから唇を 郷 近寄せて行くと思い込んだのか、目をつぶって待っていた かおっき ような顔附を思い出すと、胸がまったくむかついて来るの 帰 「一体何があったんでしよう ? ふたりの間に。下らない 「海岸通りへ出ましよう。きれいな通りですから。」 し無意味ですよ。そうなんです。今日の好いお天気が : ・ 如何にも春らしい気分が、少しばかり作用しただけでしょ 「やはり : : : 失礼ですけれど、私、ひとりで歩きたいので さめ おそ
167 帰郷 いるのかと思っていた。」 海の上に、タ焼雲を左衛子は見た。 「それが出来ればでしようが、出来ても、昔のあなたのよ「外の世の中がどう変っているか、せめて見に出るくらい うなお客さまは世間にいなくなっていますから。まあ随分にしないと、お老けになりますよ。」 気儘に楽しい思いをなさったのですから、今はその罰を受美男の夫が一番嫌う痛い言葉と知っていて、わざと云っ あきら けているとって、お諦めになることでしようよ。とにか たので、 くもとお客様でいた方が、自分で店をやろうと考え出すよ「日陰ばかりにいるようなもので。 ・ : お種さんが、第一、 とし・ころ ちかごろ かわいそう うな世の中ですもの。逆さまに、ひっくり返っているんで近頃急に老けたじゃありませんか。可哀想に、あの年頃の はだ ひとの肌の色じゃありません。」 やす しあわ 「廉いうちに、道楽をして置いて倖せだったというわけ「あいつは、もとがもとで、質屋を知っているから、こう か。」 いう時代には調法だ。」 と、男前の好い顔で苦笑いするのを左衛子は、動揺ない と、信輔は、ぶつつりと言い捨てた。 ひとみ 瞳の色で見まもっていた。 「青山が、君に話して、何とか相談に乗ってくれないかと、 「この世に遊びに生れて来たおつもりだから結構な御身分また、うるさく云って来るんだがねえ。」 だし、確かなものですよ。そういうひとが、世の中が変っ と、信輔が云い出した。 だめ 「また、穴をあけてしまったらしい。渋谷の店も、最初ほ たからって、急に慾を出しても駄目なものなのね。牡丹の ど客が来なくなって、月々の家賃が覚束ないって話だ。」 花を咲かして楽しんでいられれば先ず大したものですよ。 「慣れないことを、向う見ずに急いで、なさるからですよ。 随分、お困りになっているお宅は多いんですから。」 あの方たちに、何が出来るものですか。」 東京生れの信輔は軽薄に口をきいた。 「是非、君に会い度いって云うのだ。」 「因果応報と来た。」 おっしゃ 「少し外を見ていらっしやるといいんです。」 「散々、私を不良マダムのように仰有っていた方がです 「見なくとも百も承知だ。どうして、こう人間が、薄汚なね。」 く荒っぽくなったものかと思うのだ。まったく、行儀なん左衛子は冷たく笑った。 たかなわ て、ありやしない。」 「もう、高輪の方へもお見えになっています。親族会議を 「まあ、あなたはお行儀がいい。」 開いて私を離縁させろって仰有ったのもお忘れになったら にがわら ぽたん きら おぼっか
125 帰郷 ど、ここに、春の宵に静かな堂がある。しかし、都会の焼なろう。」 跡のどこかには強盗が出ているし、上野の地下道には戦災と、恭吾は強く云った。 で家を失くした浮浪人が群がっている。牛木、貴さまはそ「のびのびと生きられるものを、道を窮屈にしている。自 れを脳裏に置いていない。ただ、貴さまだけで住み、我が分では強いつもりでいるかも知れぬが、弱虫だ。実は小心 で卑屈なのだ。おっかなくて何も手がっかんのさ。」 事は終ったと信じ切っている。 「何を云う ! 」 「帰ろうか。」 「戦列を離れた軍人ぐらい、無力で弱いものはないのだ。 「うむ、帰ろう。」 杉の立っている元の暗い坂を、楼門に向って降りて来た。軍人の生活そのものがこわいものだらけなのを考えたこと 花の咲いている中に、入の話声がしていた。近づくと月明があるか。早く、やめたから、俺には、それがわかった。 おそ やめたのが、そもそも卑屈で、弱虫で怖れなければならぬ りに、影が黒く見え子供の声もしていた。 きたかまくら ものが経歴の中にあったからだ。敬礼ばかりしている世界 「やはり、北鎌倉から乗るな ? 」 しゃなしか ? それから離れて、まったく自分だけにすが と、確かめられた時、恭吾は、急に云い出した。 だ って生きることになって見たら、誰れをも怖れる必要がな 「いや、俺は決して、俺の問題で腹を立てているわけじゃ いのに俺はまったく、びつくりした。人間の自由とは、こ ないが、もう少し話さないか。」 ういうものかと、初めて知った。軍人をしていては、これ 牛木利貞は、老獪らしい感じを与えて笑って答えた。 わか は判らぬ。もともと不自由な世界に、身を屈め込んでいて、 「もう、いいだろう。」 人間が卑屈になるのは当然だ。君は強いつもりでいるか知 らぬが、大弱虫なんだぞ。」 と、かぶせるように強い声で云って、 「そう云ったら、また怒るだろうが、貴さまの憑きものを「いや、もう やっかい 「いや、云うだけは云って置く。もともと軍人に限らず、 落したいのだ。また出なおして来るのも厄介だ。」 日本人の生活が、常に何かを怖れたり何かに遠慮して来た 「堪忍せい。」 ものだったのだ。新らしい世の中になったといっても、そ 「逃げるか。」 あらたま の習性は革っていない。卑屈な事大主義だけだ。常に自 「逃げるわけじゃない。ほっといてくれ、俺は俺だ。」 「なるほど、それでは、死神とも親類づきあいすることに分を何かの前にジャスティファイ ( 正当化 ) することだけ かが
102 「そのお話だったら、この次伺うことにするわ、どっちへ 「こちらで御座います。」 ふすま いらっしやるの。銀座 ? 」 襖をあけて見せて、 「きめてないんです。小母さまと御一緒だと思ったから。」「あの、お見えで御座います。」 奥で左衛子の声がした。画家が次の間で外套を脱いでい 小野崎公平を乗せた自動車は、銀座通りを横切って築地ると、日本髪に結った若い芸者が迎えに出て来た。そして、 まぶ に出てから、速力を落してコンクリート の厚い塀に接近し左衛子が待っていた眩しいように明るい座敷にも、四人の て停った。 老若の芸者が居住いをなおして画家を迎えた。 「こちらなんです。門の前につけると、うるさいもんです「やあ ! これア、きれいだ。」 から。」 「小野崎さんに見せて上げるつもりで、召集したの。」 ろうぎ もったい 「有難う。」 老妓が手をついて、急に勿体らしく、 降りて見ると真っ暗だったが、大きなお茶屋か料理屋と「あの、裏口から伺いました。」 わき 知った。門は閉っていたが、脇にある木戸を押すと、簡単「好きなひとに、会いに来たようで、 しいじゃないの。」 ほかげ にあいた。石のたたきが、灯影の映っている玄関に通じて と、左衛子は空けてある上座に画家が坐るように勧めな 、た。歩いて入りながら画家は、梅の匂うのを感じた。石がら、 どうろう 燈籠の上に、花の白い枝が出ていた。しんしんと冷たい夜「でも、裏木戸とでもいわなけれア、裏口はちょっと、・ になっていた。 * まぶだんな 広い玄関のたたきに立って、尋ねると、お待ちになって「御当節なんですよ。間夫も旦那も、すべて、裏口からで ひのき いらっしゃいますと、答えた。きれいに拭き込んだ檜の縁御座います。」 くっした とこばしら ひばち * きようそく に上って、画家は沓下が破れているのを不面目に感じた。 画家は、床柱の前に火のよくおこった火鉢と脇息との間 みまわ 「寒い晩ですねえ。」 に坐り、目をばちばちゃって、女たちを見廻して、 「ほんとうに、急に冷えてまいりました。」 「違う。」 おおげさ 廊下を先に立って小腰を屈めていた女中は、階段を昇ら と、大袈裟に呼ばわった。 ふしん せた。大きな、そして木ロのいい立派な普請が、戦災にも「やはり、日本だ。日本に限る。」 おっしゃ 焼けずに無事に残ったことである。 「印度がいいって仰有った癖に。」 かが にお つきじ いし インド がいとう
る者もあった。頭部はなくなっている。片手と片足が原形「帽子を脱げ ! 帽子を脱げ、 さんたん を保っているだけで惨憺たる姿であった。 群衆は初めて自分たちのしていることに気がついた。 群衆は、街に沿って一人の貴婦人が小走りに来るのを見彼等は茫然と我れを忘れたあまり、高貴の人の骸の前 がいとう た。女は華麗な毛皮の外套を着ていた。顔色は血の気を失に立って、帽子を脱ぐことさえ忘れていたのを指摘された くして、紙のようであった。総督夫人が駆けつけて来たののである。 である。涙が期待された。強い悲しみが人々の胸に湧いた。侍者は、しながら、叫び続けた。その癖命令はよく 単純な傍観者にも耐え難い瞬間が来るのが、誰れにもわか徹しなかった。声はよく聞こえていながら群衆の中で帽子 を脱いだ者は稀れであった。多くは、追われるままに立退 いただけであった。 意外だったのは、夫人が立ったのは、無惨で不幸な夫の 死体の傍ではなく、群衆の一人の前であった。 すくなくとも、夫人の出現から最初に受けたものが、彼 かん しっせき 等が無意識に予期もし迎える準備もしていたものとは、ま 癇の高い絜しい声がその男を叱責した。 「無礼です ! 」 ったく逆の、何か無理と不自然さを感じさせるだけのもの 男は、意味がわからなかったので、ただまごっいた。 だったのは否めなかった。何か疑いたく成るような心持で しゅんげん あお ふる 夫人の気色は寧ろ非人間的と云ってもよい峻厳なものを振返って見ると、夫人は、蒼ざめて顫えながら依然として にら 帯びていた。何か冷たく、調子を高く、相手を圧倒するよ石像のように立って彼等を睨んでいるのだった。 ようまう うなものなのである。また容貎がその気位と権威にふさわ そこへ騎兵の一隊が馬を飛ばして来て、彼等を追払うと、 しいものだったことも事実であった。 円陣を作って、破壊の現場を外部から見えなくした。 「恥をお知りなさい、あちらへおいでなさい ! 」 にら 夫人は群衆の一人から、またその次の一人を睨んだ。ま ほとん たその次の男の前に立った。その叱責の意味は民衆には殆 かん ど不可解であった。ただ癇高い声が、氷の棒のように人々 カリヤアエフは、・フトウイルキ監獄のブガチェフスカヤ の顔を打ったのである。 塔に投ぜられていた。そこには、彼の愛した花も小鳥も人 そこへ、侍者が駆け着けて来て、まるで喰ってかかるよ門 日の子供もいなかった。が、彼は自らも期待していたとお うにして群衆に叫んだ。 り「楽な気持」になって、それを楽しんでいた。死と必然 むし ぼうぜん たちの
しても一番立派だったのじゃないかな。散々、迷惑の上塗「降ってくれると涼しくなるんだがね。」 りをしたエゴイストの勝手な言分だ。おっ母さんが立派だ と、云って、恭吾は雲の動いて行く方角を見た。 しま ったことは、ここにいる伴子というものが現に証明してく「これア間違うと、叡山の方へ通って了う。あれが比叡山 れている。世辞でなく、そう思う。」 と、指さして伴子に教えてから、自分も欄干に腕をもた のぞ 「大きくなった。よく育った。」 れて覗き込んで、 と、幅を太く云って、声はうるんでいた。 「だがね、お前なんか別にそうとは感じないかも知れない おれ 「俺のところへ来てはいけなかった。しかし、よく来てく が、あんな高い山の上に、それこそ驚くように大きな寺が れた。礼を云う。」 あるなんて、実に不思議なことだと、ここで・ほんやり考え ていて、いつも私は感心するのだ。」 と、その話の方が伴子には不思議と聞えるぐらいなのだ 風土 が、恭吾は、静かな顔立ちのまま熱心で、 平静に、恭吾は限界を守っている。別段に努めるつもり「あの高い山の上に寺を建てようと考えたのからして不思 はなくて、そう出来るのであった。自分の宿に連れて来て議だね。それが千年も昔の話なんだから驚くよ。無論、宗 も、 教の力には違いない。だが、今の日本人を見て御覧。そん な雄大な計画はとん・ほ返りしても出て来ない。それをまだ 「お客さまを連れて来た。」 とぎばなし と簡単に紹介しただけであった。娘だとは云わない。し世の中も開けない千年も昔に、今から考えたらお伽話めい て見えるくらいに鹿でかい人間の夢を、平気で実現して かし、慈愛は、強い目にこもっていた。 冷たい風が吹いて来たと思ったら、タ立雲が出て来た。見せたんだから驚くのだ。それこそトラックもケエ・フルも とういオ・ 親子で、河原を見おろして緑の籐椅子に掛けて向い合ってない時代に、あの山の上に平地にもなかなか見られない大 びつくり つる * ぎふちょうちん いると、吊してある岐阜提灯が揺れ、東山の空に黒い霧をぎな寺を建てて了った。いっか行って御覧、吃驚するくら 吹いたように天色の雲がみだれ、遠く稲光りが光った。雷い大きな寺だ。」 その山は灰色のガスに閉ざされていたが、輪郭はあたり 鳴はまだ遠く、雨脚らしく白い斜線はまだ山の向うの空に の山よりも強くひき緊って見えた。無論寺があるとは見え 在った。 あまあし えいざん
いと、どこかで、光り物がしたように感じられ、ダーンていた。自分の顔附が、きびしくなっているのが、自覚さ ・ : と響く鈍く重い爆音が追って来た。風が、ゴムの樹林れて来た。 の間を通り抜けて行った。何事が起ったのか恭吾には判ら森の中に、土に毛布を敷き、皆嚢にもたれて寝ている兵 なかった。黙り込んでいた兵士達の中から、 隊たちは、実際によく睡っているのか、動く気力を失くし 「やったか ? 」 ているものか、実に無関係に、黒々と横たわったままだっ と、云うのが聞えて、立ち上って、林の奥を見返ってい た。木の根にもたれて、顔に月明りが差している者も見え うずくま た。ほかの者は蹲った姿勢から身を起さず、地面に寝て た。大きな荷袋を抱いて背中を見せて寝ている者もあった。 いる者も別に起き上って来なかった。 病人だ 0 たらしいが仲間の一人が榴自決して行 0 た そろ 揃って唖のように沈黙していた者が、急に口をきき出しことなどに最早や誰れも一々起きて行く気力を失っている。 ししゅう た。しかし、それが不思議と、静かであった。 恭吾は、なま暖かい夜気の中に、屍臭を感じて来た。自殺 にお 「あれだろう。」 者の裂けたばかりの肉体から臭うのではなく、生きて地面 と、他の者が云った。 に寝ているものから一せいに臭い出していたような感じで 「うん。あいつだ。」 あった。 と、その隣りの者は、地面に手を伸ばして、草をむしる か、小石でも拾い上げたように身動きしたのが見えた。 商取引が復活したので、葉氏が自動車でクアラ・ルンプ かきようれん 1 」う 「大分、行かれていたから。」 1 ルの華僑聯合会に連絡に行くと聞くと、 話声は途切れた。恭吾は自分が立ち止って聞いているの 「一緒に乗せて行ってくれませんか。」 を振り返って見られたように感じて、歩き出した。林の陰と、恭吾は申し出た。 になっている暗い道であった。 「私は、ただ外を見たいのだ。」 郷兵隊の声で誰れか呼んで、 「イエス・オーライト。」 「田村が死んだそ。夜があけたら、小指を切って拾って行と、葉氏は承諾してくれた。 ほらあな 帰ってやれ。お前が一番、くしていたんだ。」 「・ハツウの洞穴を見ていらっしゃい。 私のビズネスは、一 恭吾は、足音を消すようにして森の中の道を遠ざかろう時間と少しで済むから、その間に運転手に案内させて行っ としていた。何とも云えず、暗いものが急に胸にれて来ていらっしゃい。治安も、あの辺なら、心配ない。」 だ あふ わか かおっき ねむ 4- いの′ )
調節してから、君がどこまでも軍人として正気でそう云っ 十 / しか」 「その話はやめて貰おうじゃよ、 ているのだと気がつくのだ。第一、君は早晩この戦争で死 おれ * 「そうだ、そうだ、俺は地方人だ。いや、もっと悪く、もぬつもりでいる。軍人の覚悟のことじゃないよ。物の見え う、日本人じゃない。」 ない男じゃないから、敗戦を予定して : : : 」 「よせ。」 「貴様、海軍に戻って : : : 死場所を得ようとは思わなかっ たか ? 方法もあるような気がして今日も来たのだが。」 と、鋭く大佐は叱咤して椅子から腰を上げた。 「友達の親切として「ムってくれたものと考えて置く。しか「日本の着物を着た美人を見せてやろう。こんな話をしに し、云わしてくれるなら云う。公金費消者、横領を働いて来たのじゃない。」 しっそう 外国で失踪した人間を、二度と使うほど、帝国海軍が、が たがたに成って来ているのかね。」 意外な言葉を聞いたというように、守屋恭吾は、牛木大 「そんなことは、貴様にも云わせぬ。」 佐の顔を見まもっていた。 牛木大佐は、顔に朱をそそいで、怒った。しかし、すぐ「君は僕を、どこかへ連れて行くというのかね ? 」 「いや、貴様に、日本美人を見せてやろうと思って、途中 自制したらしく、 はれんち 「俺は、事情は聞いていた。貴様が、そんな破廉恥の奴じで拾って来たのだ。」 ゃないと知っていた。気性から、ひとりで、罪をかぶって「そうか。連れというのが女か。しかしそれは後でよいこ とだ。牛木利貞が参謀になって来ていると聞いても別に会 しまったのも、薄々、感じていたのだ。」 はばか いたいとも考えなかった僕が、危険を憚らず、あんな手紙 「気の毒がってくれるつもりでおるのかね。」 を出したのには、少しわけがある。僕が世話になっている と、恭吾は静かな語調で云った。 「要らぬことだ。十何年も外国に暮していると、そんなセ この家の主人のシンガポールの住宅を海軍が何に使うのか ンチメンタルな気持も失くしてしまうものだ。僕はユダヤ徴発命令が出ているのだが、老夫人が病気で、動かしたら あぶな 人のようなものだよ。正直に云えば、君と話していて、ひ命が危い状態に在るので、何とかして貰えないものかと思 とまど どく戸迷いする。どこかが食い違っていて話がしにくい。 った。料理屋か何かを設営するのだったら、他の家を代り 辛くも昔を思い出して、そうだ、牛木はあの時分のまま真に提供するから病人を動かさないで済むようにして欲しい っ直ぐに育って来たんだな、と、こっちのレンズの焦点を必要が万已むを得ないものなら、病人を移すのに軍から自 しった
る。これが地形の起伏に従って、方数粁のひろがりを見せ と、間抜けた発音の誰何もせず、立って咎めに来る気配 ている。 も見えなかった。 月影は、枝を潜った大小の光の斑を落して樹林の間を明 月明りで見える距離まで行ってから、恭吾は、男たちが るくしている。 日本の兵隊なのを見た。それも、その横のゴム林の中にも、 よいの′ どこか遠くで、土人が歌っている声がした。悠長でいて三、四十人の者が分散して、毛布を敷き、嚢にもたれた 単調であった。聞いていると、その声が止み、木の葉の戦まま、黒々と死んだように倒れて地面に寝ているのを見た。 ごうもん うか ぐ音が、影でも差して来るように忍び寄って来た。道路の 恭吾は、自分を拷問にまで掛けた若い憲兵の顔を思い泛 さび 上に樹林に挾まれた細長い空が残り、月明りの中にも星をべた。他に連れもなく淋しい場所だし、暴力で襲われる場 銀砂のようにこまかくきらめかせていた。 合も、一応警戒する心になっていたが、近づいても動こう うずくま 自転車があれば、遠くまで走って見るのだと恭吾は考えとせず黙々と蹲ったまま、物も云わない彼らが変であっ ばうーく て見た。坂になっているところを頂きまで登ってから、な た。それも、五人いて、一人だけが薄ら笑いを泛べて茫 わき お先に一直線に走っている道路と別れ、脇にある道を町のと恭吾を見ていたが、他の者は近づくと目を逸らして足も 方へ戻るつもりでいる。 との地面を見たり、脇を向いて、知らぬ顔をする。 坂を昇り始めた時、また、どこか、あまり遠くないとこ林の中で、木の葉が暗く囁いていた。気がついて見ると ろで、人の話声がしたように思った。そして、坂を登り詰銃も剣も彼らは持っていなかった。丸腰で、苦力のように みちばた めようとしてふと行く手を見ると、道端に人間が五、六人荷物だけを側に置いていた。 かたま 塊って草の上に腰をおろしているのが見えた。樹の陰にな恭吾は、その前を通り抜けた。もとだったら、そんなこ っていて暗かったので、誰れとも判別つかなかったが、戦とは許されないことだと気がついたのは、兵士達の前に差 争中に出来た土人の自警団ではないか、と思った。日本語しかかってからのことである。 で号令をかけ、六尺棒を持って、カンポンの入口に夜警に彼らは、物の塊りを置いたように月明りの中に無言でい にら 出たものであった。 た。どなりつけて来ることも、睨むこともしなかった。目 ふぎげん その男たちは、妙に暗く、ひっそりした感じで、恭吾が が合うのを避けて、ひどく疲れて不機嫌でいるように見え 近づくのを見まもっていた。 「ダレカ ? 」 道の岐れ目は、そこから五米と離れていなかった。ふ はさ まだら ゅうちょう そよ わか ささや メートル とが
後三年の役の戦功でこれを与えられて清衡が住んだもので 豊田から水沢を経て、平泉へ出る間は、後三年役の古戦 しろあと ある。平泉へ行ったついでに、この城址を見に行ったが、場であった。低い丘と低地の谷とが、起伏して幾重か並ん 土地の人に尋ねても城址のあることなど知らない。それらでいる。清衡が敵の本拠を攻撃する為に白鳥の在家を焼き しい地形の丘をあれかこれか、と迷いながらさがして、往はらったと記録されている白鳥と言う村の名も、衣川と隣 還の・ハスの停留所の切岸の上が麦畑になる。古い松の木に合せて、今の街道筋に残っている。衣川は小さい川だが、 茅葺屋根の小さい堂があるのを見つけて登って見ると、草上流の山の雪消の水を集めて、深く水量ゆたかに草野の間 の中に江戸時代に建てた碑があって、そこが奥州藤原氏の、を流れて北上川にそそぐ。その合流点を見おろす森のある たかだち 切岸の丘が、高館で、やがて頼朝に追われた義経の最期の 平泉以前の居館の址なのを知った。 新道を作るので土を削り落したの鼻の上で背後にひろ場所とな 0 た居館のあとである。少年の義経はそんな運命 がる狭い麦畑が八百年前の館のあとらしい。隣が変電所でが自分の未来に在るとは今のところ知らない。 危険と掲示して金網の域をめぐらした中で、モーターが真そして衣川に沿って高く続く丘陵が中尊寺のある関山で、 この名も以前の衣川の関から出ている。北上の大河を壕に 昼のしじまに唸っている。 - 」うや 崖の下、前面は昔、北上川の河床だったらしい沃野のひして景勝の土地。ここに、「三代の栄華」と言われた曠野 ろがりで、畑に耕してある。今の北上川は、ずっと、そのの中の都が築かれたものである。 かげ 遠方に遠ざかって、林だの村の蔭になってここからは見え ない。桃の花が咲き、下の・ハスの停留所に村の娘さんが立 光堂 って待っている。清衡や、その父親の経清がいた城の址だ うら えいよう もはや ったとは、町から離れているし、土地の人も最早、関心な 「三代の栄躍一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有、 ひでひら でんやなり いのであろう。奥州藤原氏と言えば、平泉の方に深く結び秀衡が跡、田野に成て、金鶏山のみ形を残す」と、一種癖 ばしよう ついている。 のある名文で芭蕉の『奥の細道』は記した。この大門が毛 豊田から平泉へ移ったと言うのは、衣川の関と称せられ越寺の南大門のことだとすると、芭蕉はこれを中尊寺の門 げんろく て国司が支配し中央の軍隊の前線基地だったものへ、塞外と誤解したので、元禄の頃の毛越寺の境内がそれだけ草深 の在地勢力だった人間が部下をひきいて進み出て新らしい く荒廃していたことを知らせる。池の中の小島で二つの橋 力いろ′ノ 支配の拠点としたものである。 をつなぎ、正面の廻廊の奥に円隆寺の本堂があり、これと かやぶき やかた よくや さし力し きんけいざん ため あり