104 「そんなことじゃないんだ、きみは教えてほしいと言った 三十七 じゃないか」 強く言い捨てて、彼は門を潜った。背中に躊躇いや曖昧 伊木が指定した喫茶店に、午後五時に津上明子は現れ、 すみ 隅のテー・フルに坐った。五時十五分過ぎに、伊木が姿を見さを現さないようにするのが、彼の技巧だった。明子はそ のまま、彼の背に付いて門を潜った。旅館の帳場の女は、 せた。 なじみ 彼はわざと約束の時刻を十五分だけ遅らせた。明子を焦訝しげな眼を上げたが、顔馴染になっている伊木を認める らすためではなく、彼の方が待たずに済むことが必要だっと、そのまま黙って二人を見送った。 その五分前 たのだ。 彼は、ネクタイを着けないワイシャツ姿で、明子の椅子彼は京子の驅を、幾本もの紐で縛り上げた。身悶えし、 そば 抵抗し避ける素振りをしながら、京子のの部分部分は、 の傍に立った。 うわぎ 紐を持っ彼の手の動きにひそかに協力した。京子の二つの 「あら伊木さん、上衣は」 手首は、むしろ自分から紐の輪の中に潜り込み、堅・く持り 「うむ、今日は暑い」 合わされた。 「暑くなんかないわ、暖かくもなくってよ」 胸は左右斜め十文字に締め上げられ、二つの乳房は異常 「外へ出よう」 ひざ 椅子に坐ろうとせず、せき立てる口調で彼は言い、明子に高く盛り上った。彼は左右の足首と、左右の膝とをそれ ぞれ縛り合わせた。 も釣られて立上った。 二人は、戸外へ出た。 そして、不意に立上ると、ワイシャツを着けズボンを穿 「教えてあげる。・ほくと一緒に行こう」 「どうしたの」 彼は大股で歩き出した。 黙って、彼は足の先で京子の腰を押し、ゆっくりと押し 「どこへ ? 」 明子は急ぎ足で彼にしたがった。一分間も歩かぬうちつづけ、やがてその軅は半回転して俯伏せになった。紐の に、旅館の前に出た。彼がその入口に歩み入ろうとしたと結び目の堅さを確かめる眼で、京子の全身を眺め、部屋の とびら 出口の扉を開いた。 き、明子は立止まって烈しい口調で言った。 「どこへ行くの」 「伊木さん、厭よ。もう厭」 っ おおまた いふカ からだ くぐ ひも うつふ ためら
「食べることと、女の方だけは、人の二倍はやっていたそ それは、単純な自慢の口調である。 うだが」 「ところで一郎さん、今なにをしているね」 「そうそう。亡くなる前の頃は、どういうものか俺ばかり「・ほくか、・ほくは夜学の先生だ」 誘われて、あちらこちらへ引張って行かれたもんだよ。あ「ふうん」 つぐ の頃のお父さんのことは俺が一番よく知っているな。とに 山田は、不満気にしばらく口を噤んだ。 かくハデな生き方をした人だった」 「一郎さん、いま幾つかね」 し ! しま 伊木一郎は時折、いやむしろ彼の父親を知っ 「三十三になった」 ていたという人と出遭った。それらの人々は、それぞれ彼「ひとり身かね」 の父の像を心の中に持っていた。父親と面識のないまま「いや」 に、彼の父の像を作り上げている人も、その中には含まれ「ふうん、子供はあるかね」 ていた。 「男の子が一人。小学一一年生だ」 「ふうん。お父さんがその年には、一郎さんはもう中学校 そして、その像の中には、伊木一郎にとって必ず何かの とげ に入ってたろう。まあ、ともかく頭の形は、瓜二つだな。 形で棘が隠れていた。その棘は、彼を刺すのである。 おまえの父親は、何をしていたか ? という問にたいし俺がうまく刈ってあげるよ。しかし、考えてみれば早いも んだなあ。俺は一郎さんの頭は、あんたが小学生の時から て、彼はいつも戸惑う。 画家。 刈っているわけだからな。そうだ、あんたの子供も今度連 れてきなさい」 株屋。 群香水を作っていたことがあるんだって ? 情熱をこめて、山田は伊木一郎の頭を亡父そっくりに刈 とうじ り上げた。その結果、その頭は、見馴れぬ、少年染みた形 植蕩児。 しゃれ のそしていま、山田理髪師は、「 ( デな生き方をした人」 に変ってしまった。それは、父親にとっては洒落た髪型で ろうま のと言った。その言葉には、皮肉な意味は隠されていないよあったのだ。理髪店の鏡に映った頭をみて、伊木は狼猊し かわと かみそりたた うだ、と彼は慎重に相手の言葉を噛み分けてゆく。 た。革砥に剃刀を叩きつけるようにして研いでた山田は、 そば 「あれだけ、つき合いの広かった人が、どういうものか伊木の傍へ戻ってくると、 ね。終りの頃には俺としか遊ばなかったからなあ」 「これは、まるで瓜二つになってしまった。一郎さん、あ
わいざっ 猥雑な、歪んだ、変態的な心持になっている自分に、彼「幾回、寝たんだ」 「一度も」 は気付いていた。 あざ 乳房の痣は、色が褪せていた。京子の言葉に嘘は無いの 三十一一 かもしれぬ、とおもいながら、彼はその痣の上に指先を当 てがった。しかし、最初の日に感じた全身の細胞の一つ一 伊木一郎は、斜面を摩落ちてゆく。 斜面の下に在るものは、いわゆる性の荒廃とか性的頽廃つが燃え上るような攻撃的な気持は、湧き上ってこない。 とかいったものである。 あるいはまた、彼自身の絞章を京子の嫗に彫り付けようと いったい何であろうか。 : とする、あの執念深い気持も起らない。セーラー服を京子に しかし、性の荒廃とは、 は、私 ( 作者 ) の発した疑問であって、伊木は、感じても着せ、それを新ぎ取り、その全身をいちめんの痣で埋めた い、とおもったときの情熱的ともいえる気持は、遠いもの 考えることのない日々を送っていた。当然、セールスの仕 事はおろそかになり、伊木家は窮乏してきた。 になっていた。京子に着せたセーラー服は、間もなく、刺 その日の夕方も、伊木と京子とはホテルの部屋の中にい戟剤に過ぎなくなった。萎えた彼の細胞を、人工的に奮い た。伊木は京子にたいして、二カ月半以前の最初の日と同立たせようとする小道具になってしまい、すでにそれは捨 じ姿勢を取っていた。彼は京子の乳房に掌を押し当て、指てて顧みられなくなっていた。 先を内側に曲げて、乳房をみ取ろうとするかのようにカ彼にとっては、乳房の痣は、セーラー服と同じく効果の を籠めていたのである。 薄い小道具に変ってしまっている。 一週間、彼は京子を抱いていなかった。名前も知らぬ誰彼は、萎えた細胞に鞭を当てる心持で、京子の乳房の痣 群かと、京子を共有していることは承知のことだったし、まに指先を当て、力を籠めて掴み上げたのだ。 一方、京子の顔には歪んだ表情があった。それは二カ月 植たその一週間は京子の Z の時期にも当ってい のこ 0 半以前に見られた、彼の充実感に照応した表情ではない。 上ナ しかし、京子はその歪んだ快感をまさぐり、歪んだ形のま の「久し振りだね」 おぼ ま確実にその中に溺れ込んでゆく。 戸惑ったような眼を、京子は宙に泳がせた。 せんう あせ むな 彼は自分の虚しさに焦りを感じ、むしろ京子を羨望し、 「誰と寝た ? 」 しさ 「誰とも」 一層力を籠めて乳房を搾り上げていった。 こ ずり むち
坐り、一杯のウイスキーを時間をかけて飲んでいた。スタ声が消えている。 ンドの隅に置かれた電話器のベルが鳴り、受話器を耳に当「もしもし : ・ : こ てた・ハーテンダーが伊木の名を呼んだ。 「分った、教えよう。全部、教えてあげる、明日の午後五 酒場にいる自分に電話がかかってくることは予想もしな時に : : : 」 かったことだし、相手が誰か全く見当が付かなかった。 と、彼は京子と会う旅館の傍にある喫茶店の場所を、明 「もしもし、伊木さん、あたし」 子に伝えた。 「え ? 」 「それから、学校の . 帰りにそこへ寄るつりで : ・・・こ 「あたしよ、明子です」 と、彼は言いかけて、 その名前を聞いても、直ぐには分らなかった。やがて、 「ぎみはもう卒業したんだ・つたね」 さけめ 長い重い夢の間に不意に裂目ができたように、その裂目か「、 しいえ」 ら明子の顔が浮んできた。 「落第したのか」 「そうだ、津上明子という少女がいたのだ」 受話器のなかの声が、低く笑った。 はず 遠い昔のことを考えるように、彼はそうおもい、一瞬の「高校三年生が四月になれば、卒業している筈じゃない 後、現実に戻った。明子のことをなまなましく思い浮べ、 にわかに緊張した。 「本当は、今度三年になったの。なる・ヘく齢が上に見られ 「もしもし、伊木さんでしよ、どうしたの」 たかったもので、一年余計に言っていたのよ」 「分った、きみだね。それで、どうした ? 」 「そうか。それじゃ、制服のままで、気軽な気持できてく 群「京子のことを聞きたいの。京子のこと、ご存知 ? 」 ださい」 「分ったわ、伊木さん、あたしが口紅を付けているのが響 上「この頃、京子の様子が変だとおもうの。ご存知なら、教なのね。制服ならば、口紅を塗らないとおもうのね」 の えてほしいの」 「そういうわけだ」 砂 不意に、彼の中でえ 0 てくるものがあ 0 た。その甦っ 一層緊張しながら、彼はさりげなく答えた。 とっさ てくるものが何か、咄嗟に撼むことができなかったが、彼 ふさ は活気を取戻して答えようとした。一瞬、咽喉が塞がり、 すみ か」
て、烈しく拒む。そういう明子を、ひどい目に遭わせるこ 「さあ : : : 、高校生だから。でも、どうして」 とは容易であろうが 「高校生なら丁度いい。セーラー服を持っているね。着替 紐を腕にませた明子の姿態を、彼は思い描いた。ロのえの服があるかな」 中が乾いた。襲いかかる眼になった。 「あったとおもうけど、でも、な・せそんなことを訊くのか ふんぬ 二カ月の間に、彼の中に湧上る憤怒に似た感情、兇暴なしら」 感情は、そのような形を取るようになってしまった。津上「きみに、着せてみようとおもってね」 京子との接触の間に、その形が彼の驅に浸み込んだのであ「あたしが : ・ : こ 京子は笑い出しそうになり、不意にその笑いが消え去る 「ホテルへ行こう。ひどい目に遭わせてあげる」 と、眼が潤んできた。彼に向けられてはいるが、焦点の定 おび と、伊木が言い、明子は一瞬怯えた眼になり、援ね返すまらない眼になった。 ように一一 = ロった。 「厭だわ、厭なひと」 それが拒否の言葉でないことは、 「厭な眼。あたしの言っているのは、京子のことよ」 ぐに分 0 た。 「ホテルへ行こう」 「その妹さんと身体の大きさは、同じくらいかな」 「そうね、似ているとおもうわ」 「どうしたの、伊木さん。京子を誘惑できなかったの」 「行こう」 「顔は、似ているか」 そそ セーラー匱・、、リ、 月カしく彼を唆った。 「さあ、似ているという人もあるけど」 はす つぶや 「厭、伊木さん、不潔だわ」 似ていない筈だが、と彼は心の中で呟く。しかし、驅の すきま 群鋭く言って明子は、立上った。 形は、よく似ている。明子の制服の中に、京子の体は隙間 なく這入り込むことだろう。 とびら の 京子と会う日を定め、京子に送られて酒場の扉を押し 上 こ 0 の酒場で、伊木は京子に小声で言った。 「ぎみ、妹がいる ? 」 「ええ、一人いるわ」 「まだ子供なのか」 ひも 三十 小さなズックの鞄から、津上京子は明子の制服を取り出 うる かばん
と、明子が言う。伊木は曖昧な表情になって、 「しかし、姉さんがきみの知らない男とホテルの入口をく 津上明子という少女が、伊木に告げた事柄を、要約してぐるところをみたというが、見たのは一度だけなんだろ みよう。 明子の両親は、五年前に相次いで病死した。以来、姉の 「そうよ」 京子が親替りである。京子は酒場勤めをして生計を立て、 「それじゃ、恋人かもしれないじゃないか。恋人とホテル 明子を高校に通わせてきた。京子は口癖のように、明子に へ行ったって構わないとおもうね」 言う。「女は身持が大切よ」、あるいは「純潔が大切よ」と「 : ・ まっすぐ も言う。そして、京子自身、酒場が閉店になると、真直に 「もし恋人だったとしたら、・ほくの立入る余地はないだろ 帰宅してきた。 そういう姉を、明子は母親のように慕ってきた。姉の言 明子は返事をしない。 この少女は、女親替りの姉を他の らだ 葉をいつも心に留め、真面目な生徒だった。男女生徒との男に取られたことに苛立っているのだろうか、とも彼は考 交際については、臆病過ぎるくらい、控え目だった。 えた。 京子の結婚についての話題が、姉妹のあいだに出ること「きみの言うように、いろんな男とホテルへ行っていたと がある。そのときには、「明子が卒業して一人前になるましたら、今更・ほくが誘惑したって仕方がないじゃないか」 では、そのことは考えない」というのが、京子の印で捺し「ひどい目に遭わせてほしいの。あたしの知っている人 たような言葉であった。 に、ひどい目に遭わせてもらいたいの。そして、そのこと 群その京子の隠された生活を、ある機会に明子は知ってしをあたしに教えて」 たた 少女のこの言葉は、自分自身への悪意で一杯になり、唇 植まった。昼間の短い時間に、京子の秘密が畳み込まれてい のたのである。そして、明子はその姉への反逆の姿勢を取りを真赤に塗って塔へ昇ってゆく行為と同じ次元のものだ、 のはじめた : と伊木一郎は感じた。 「そのくせ、あたしが知らないとおもって、純潔が大切「ともかく、きみの姉さんのいる場所を聞いておこう」 よ、と言うのよ。厄介な荷物みたいに捨ててやりたいとお津上京子の働いている酒場の所在を、伊木は手帳に書き もうのも、無理はないでしよう」 記した。 まじめ
くつろ ともかくも、寛いだ空気になった。 いとしたら、幾人かのうちの一人であるとしたら、この言 わす 昔の伊木は、初対面の女性と、こういう具合に会話に入い方で反応が起るかもしれぬ。少しも自信はなかった。僅 ってゆくことはでぎなかった。セールスマンという仕事かの可能性に、縋ったのだ。 が、こういう呼吸を覚えさせたといってよい、と彼はおも っこ 0 誘惑してほしい、ひどい目に遭わせてほしい、と明子に津上京子の乳房の横に、そのふくらみを取囲むように青 あざ 頼まれたが、その言葉どおりに振舞うつもりでいたわけでい痣が三つ並んでいるのを、伊木は見た。生れつきの痣で はなかった。唯、津上京子の淑かのようで、したたかな身はなく、乳房を掴んだ男が折り曲げた指先を肉の中にめり しげき のこなし、薄い灰色の白眼をみていると、官能が鋭く刺戟込ませた痣のようにみえた。 され、憤りに似た感情が衝き上げてくる。 被虐の趣味があるのか、と訊ねてみた。 「ひどい目に遭わせてやりたい」 「無いわ。気違いみたいになって、噛む男がいるのよ」 と、伊木ははじめてそうおもった。 眼を伏せて、京子は答える。控え目な口調と裏腹の、露 三日間、彼はその酒場に通った。三日目に、京子の耳も骨な言葉である。 とでささやいてみた。 「どんな男だ」 「明日の夕方、会いませんか」 「それは、言えないわ」 京子は黙 0 て彼の顔を見ている。ルねるような、その先伊木の四肢のなかに、京子の嫗が嵌め込まれた。乳房の を促しているような、迷っているような曖昧な眼である。痣は、彼の裸の胸の下に隠れた。そのままの姿勢で、会話 群「競輪で、すこし金を儲けた。だから、その金を使ってしがつづく。 「若い男か」 植まいたいのです」 の それは嘘と分る言い方を、彼はした。嘘と分ることによ「若くない」 上 のって、その言葉の裏を判じてくれ、一緒にホテルへ行って「じじいか」 くれれば若干の金を手渡そうという意味を悟ってくれ、と「あなたくらいの齢よ」 いう言い方である。 「噛むのは、その男だけか」 もしも明子の見た相手の男というのが、京子の恋人でな「そうよ」 うそ すが
かがみ 「へんな人ね、なにが面白いのか、分らないじゃないの」 山田の店には鏡の前に椅子が三台並んでおり、山田のほ 彼の陽気さは、続いていて、朗読をつづけた。 かに職人が一人いる。伊木は店の中を、確かめるように見 ひがん 「蒔き時、春は彼岸より五月頃までに苗床に蒔付け・ : 渡して、言った。 花言葉、あなたと一緒なら自然と心が和いでくる。ずいぶ「ともかく、山田さん。自分の店が持てたというのは、良 ん長い花言葉だな。この袋はどうなっているだろう : いことだったね」 サルビア、花言葉、私の心は燃えている、か」 「今になって、きゅうに思い出したように : どうした 彼の表情が、その二つの花言葉を読み上げると、曖昧にんだね、一郎さん」 よっこ 0 「どうしたと言われても、困るが、一「三日寝込んでいた やみあが きげん 「でも、機嫌がよくなってよかったわ」 せいか、病上りみたいな気分なんだ。それで昔を振返って みる心持になるのかな」 「機嫌のいいうちに、床屋さんにいらしたら。髪が伸び「そういえば、戦争が終って長い間経って、久しぶりに一 て、病人みたいだわ」 郎さんと会ったときは、まだ自分の店を持っていなかった おっくう 「床屋か。そうだな、今夜はやはり億劫になった。明日に つけ」 しよう」 「そうだよ、隣町のハンサム軒に、傭われて通っていたじ よ、、。ハンサム軒の主人のことを、昔は宮様の頭を刈 四十九 ったことがある人物だといって自慢していたね」 その翌日は、日曜日に当っていた。 「そんなことでも自慢するより、仕方がなかったわけさ」 月曜日から仕事に戻ることにしよう、と伊木一郎は心を と、床屋の山田は、回顧的な表情になった。もっとも、 定めた。そして、その午後、山田理髪店に出かけていっ山田は一郎に会うと、いつでも回顧的になる。戦後、一郎 た。店の中は閑散としている。山田理髪師は、待ち構えてに会ったのが四年前、空襲で焼けた元の場所に自分の店が いたように伊木一郎を椅子に坐らせた。 持てたのが二年前。そのような近い過去ではない、遠い過 「日曜だというのに、ずいぶん暇だね」 去、一郎の父親について回顧するのであったが : : 。以前 「さっきまで、混んでいたんだ。こういう時間も、ときどは、回顧的になる山田を、伊木一郎は警戒し、身構えた。 たちふさ きあるものだよ」 山田を媒体にして彼の亡父が立現れ、彼の人生に立塞が やわら やと
てきた。 はないが、頭髪が薄くなり、三十七年間空気にさらされて 「伊木さん : : : 」 きた顔の皮膚はしぶとく厚くなっていて、まぎれもない中 彼の名を呼んだ女の眼に、悲しみの色があった。 年男の顔であった。 「突然のことで : ・・・こ 「井村か。ぎみ、こちらは恭子さんだよ」 ていちょう 鄭重に頭を下げたが、その女が彼の名を知っていること「知ってるとも。・ほくはもう大分前に来たんだ。恭子さん けげん を怪訝におもう表情になった。 も、すっかり豊満になった」 「わたし、恭子ですわ」 井村は生真面目な口調で、言葉をつづけた。 「恭子さんが結婚したときには、・ほくはずいぶんとがっか 「恭子さん ? 見違えた」 あっけ なが 一瞬呆気に取られて、彼は眼の前の女を眺めた。記憶に りしたものですよ。ご主人はレスラーみたいな大きな人だ かげ ったそうですね」 ある恭子の二倍の容積はあったし、陰気な翳は少しも無く なっていた。 「まさかそれほどでもありませんけど、癇もちで横暴 「見違えるのも無理ないわ。わたし肥ったでしよう」 と、恭子もこだわらぬ調子で言った。 「亡くなられたのは残念でしたね。でも、それで安心して 肥り出したのでしようね」 「ずいぶん前に、結婚なさったという噂は聞いていました 井村の口調には、揶揄する調子は無かったが、やはり中 「それが、主人は亡くなりましたの。一昨年ですわ。そし年男のしぶとさが感じられた。 たら、急に肥り出してしまって : 。それにしても、ほん そのとき、にわかに伊木一郎は軅に異変を覚えた。立暗 群とにお久しぶりね、十五年ぶりくらいかしら。伊木さんみに似た気分だが、ふしぎに病的な感じではない。 すみ 物 も、そろそろ中年紳士のお仲間入りね」 彼は部屋の隅の椅子に腰をおろした。異変はつづいてお 植 かす り、驅の奥底で徴かな海鳴りに似た音がひびき、それがし の彼はおもわず掌を腹に当てがった。洋服地の下の腹 ′一う・こう のは、 いくぶん盛り上りかかっているようにおもえた。 だいに大きくなり、広い幅をもった濃密な気体が轟々と音 ふくら 砂 「やあ、伊木。ずいぶん久しぶりだな」 を発して彼の軅の中を縦に通り過ぎた。膨み切ったたくさ 聞き覚えのある井村の声が耳もとでした。首をまわすんの細胞が、一斉に彅じけ散ったような音がそれに伴っ と、眼の前に井村の顔があった。眼鼻やロにはさして変化 が」 てのひら こ 0 かんしやく
「そうよ」 花田光太郎の名前を口にして詰問しようとして、彼は躊 「そのとき、その痣をつけた男のことを考えているのか」躇った。花田と京子とが抱き合っていることを想像する 「考えているというのではないけど、燃えている感じのな と、耐えられない気持になる。しかし、ロに出して確かめ かに、なんとなくその人の感じが含まれているわ」 ることに、彼は屈辱を感じた。 彼自身のつけたその痣を消してはいけない 、とおもっ京子は、依然として、ゆっくりと首を左右に動かしてい た。京子が他の男と驅を重ね合わせているときにも、彼はた。 青紫色の輪となって京子の軅に纏わり付いていよう、とお きようぼう もった。女体にたいして兇暴に燃え上った彼の細胞は、今 ではその対象を限定しはじめた。数日間の苛立ちによっ数日経って、伊木一郎が「鉄の槌」の扉を開いたとき、 て、女体に「津上京子」という特定の名札が付くことにな店の奥に花田光太郎の姿が見え、寄添う京子が並んでい っこ 0 ねまきひも から 彼はその日もまた、寝衣の紐を京子の腕に絡ませた。薄彼は反射的に、半開の扉の陰に身を隠そうとし、その自 紫色に色褪せ消えかかっている痣の上に巻き付け、左右に分の態度に腹を立てた。そのため却って、彼は大きく扉を しぼ あいいろ 烈しく引き絞った。 開き、藍色のトランクを提げたまま一直線に花田の席に歩 まゆ 歓びの言葉が、京子の口から出た。彼は力を加え、眉のみ寄って行った。 間に縦皺の寄っている京子の顔に、荒い声を浴びせかけ「伊木じゃないか。君もこの店にきていたのか。ここで一 こ 0 緒に飲もうや」 らいらく 群「おい、梅村晃と寝たか」 と花田は声をかけ、その磊落さに伊木はかえって傷つき 植蒲団の上の首を、京子はゆっくりと左右に回した。片頬かかったが、黙ってその席に坐った。花田の視線は確かに とら の が敷布に触れ、首が反対側に回って別の頬が敷布に触れこの場に不似合な藍色のトランクを捉えていたとおもえた 上 のる。そのことをゆっくりと繰返す。否定の形だが、肯定しが、花田は何も言わなかった。 ているようにもみえる。 「あら、花田さん、伊木さんとお知合いなの」 「どうなんだ」 「旧い友だちだ」 京子はその動作を、繰返しつづける。 花田が答え、 よろこ たてじわ まっ こ 0 ふる かえ とびら ため