けいだい およそ千米離れた神社の境内に、避難しようとしているの僕の家の方角へ走り出すことをあきらめた若い女中は、 しす 貯だ。神域へは直撃弾を落すまいという考えも含まれている繰かえし繰かえし呟きながら歩いていた。怒りが鎮まる ほのお はす 筈だ。しかし、その神社は烙が進んで行く方角に在る。そと、腕にかかえている十二枚のエボナイトのレコードの重 さを、ずっしり感じはじめた。気がつくと、母は掛布団を れが僕をためらわせた。 そとぼり 左手の方角は、江戸城の外濠の名残りの水濠で、その向かかえて歩いている。レコードを持ち出したときの気持の うちの一種のダンディズムは、僕の心からすでに消えてい う側にひろがっている町並にはまだ火は燃え移っていな い。かなり幅の広い水濠は火が飛び越すのを掴むかもしれた。しかし、僕は依怙地になって、その荷物を捨てようと ぬ、と僕は考えた。僕は母を促して、人々の流れに逆らしなかった。この空襲で死なないにしたって、僕たちの生 にはすぐ向うまでしか路はついておらず、断ち切られてい 、水濠に架けられた橋を渡り、暗い街に歩み入った。 街路にはほとんど人影は見あたらず、家々はしずまりかるのだ、という考えを捨てないために僕はその重い荷物を えっていた。あまりに静かな町を歩ぎながら、僕は間違っ捨てなかったのだ。 のが た不吉な方向に逃れて行っているのではないかという不安僕たちは人の気配のない街を歩いて行った。焼け出され た人々は、この方角には逃れて来ず、この町の人々は自分 に襲われはじめた。 の家に潜んでいるのだ。僕たちは小高い土地を登っている あきち うちにかなり広い空地に行き当った。どういう場所かはっ 不意に悲鳴に似た声が耳もとでおこったので、僕はぎく ・こう きりしなかったが、あちこちに樹木が生えており、防空壕 りとして、あたりを見まわした。叫んだのは若い女中で、 走り出そうとしている彼女の腕を、母が片手で引きとどめらしい素掘りの穴もあった。僕たちは、そこの土の上に腰 をおろした。 ている。 「離してください。貯金帳を置き忘れて来ちまったんで僕たちの坐っている小高い土地は、水濠へ向って低くな っている斜面の途中にあり、街の展望が眼の前に拡がって 「君は焼鳥になりたいのか、もう燃えてしまっているにきいた。火は、すでに僕の家を通りすぎ、坂の下から水濠に 沿って、対岸の家々を一つまた一つと焼き崩しながら進ん まっている」 ちゅう でいた。黒いてんてんの鏤められた啗が天に沖し、その焔 僕は腹の底から怒りがこみ上げてきて、怒鳴った。 は突風に煽られて水濠を渡りこちら側の町に燃え移ろうと 「三百円も蓄っていたのに」 たま ひそ っぷや みち ちり【
338 てのひら うっとりとしてしまったのにちがいない。思わず掌がゆが : : : 蜘蛛 : : : なんて蜘蛛だっけ」 れて、それとも川風が吹きつけたのだろうか、蝶の身体は「女郎蜘蛛よ」 くるくると舞いながら、針金の柵をこえてわさびを栽培し「その蜘蛛が、滝の下に住んでいたの : ・ : こ てある谷へ落ちてい 0 た。ててのそきこんでも無駄であ姉は助けられつつ、目を上方にり、手だけぶらぶらさ りんぶん った。一面の緑の葉が、きららかな鱗粉の輝きを一瞬のうせながら、抑揚のない口調でつづけていった。それがぼく ちに呑みこんでしまった。・ほくは呆けたようにしばらく下に、昼間きいた案内者の声をひょっこり思いださせたの をのそいていた。それからあらためて指を眺めた。なごり だ。あの奇妙な声は・ほくの身体の奥ふかく沁みこんでい の銀白の粉は、あまり光りすぎたので、じきに・ほくは不安て、それが姉の話とともに、すこしずつ表面にうかびだし になった。足下に生えていた雑草の葉でそれをぬぐいおとてくるらしかった。それでなければ、姉よりもさらに幼い わ・・ルか・、 はす した。しきりと惜しいような気がしたにもかかわらず。 ・ほくが、お・ほろげにしろその伝説の輪郭をつかめた筈がな けいはう ・ほくたちの泊っていた宿は渓流のふちにあった。夕食が : 木樵は息子に、けっして滝壺に近よってはならな ゆいごん おわって、外が暗くなってしまうと、ひときわ谷川の水音いと遺言をするのだった。しかしその息子は大きくなって が高まった。・ほくは部屋についている小廊の手すりにつかある日のこと、うつかり滝壺に斧をおとしてしまう。禁を とも こだち まって、木立をとおして点っているよその灯が、谷川のひして滝壺へ くぐった息子は、水底の洞穴のまえに機を織 しか ! ね びきとなにか関係あるかのようにまたたくのに気をとられっている女精ーー・その滝壺の主をみるが、やがて彼の見 ていた。うしろで母の声がした。 は斧とともに川下にうちあげられる : 「まだ新えている ? じゃあ、ママに話してちょうだい」 「その蜘蛛の精はきれいだったの ? 」と姉がいった。 たきつぼ 母は姉に、昼間きいた滝壺の伝説を話させようとしてい 「とっても綺麗だったのよ」と母がこたえた。 るのであった。 ぼくはその女郎蜘蛛の精のすがたを、自分なりにさまざ 「あのねえ、はじめ : : : 」 まに想像した。 姉はずかしそうに、籐椅子にかけている母のわきに立やがて床がのべられ、まっ白なおおきな蚊帳がつられ って、もじもじと身体ばかりうごかした。 た。いつも家でつる青蚊帳とは感じがちがったので、ぼく きこり 「木樵が」と母が手助けをした。 と姉はすこしはしゃいだ。しかし姉はやがて枕を抱くよう 「木樵がいたの。すると、蜘蛛の糸が足にからむの。それにして、横ざまになってもうかるやかな寝息をたててい おの
168 「おうい、蒸し焼きになっても、知らないぞ」 ま、母が言った。 ビックリ箱の蓋を開けたように、その黒い四角い穴か「あと五分ほど、様子を見てみましよう」 ら、彩色された若い女中の顔がとび出した。僕ら三人は、 その五分のあいだに、隣家の火は屋根から噴き出しはじ 縁側に腰掛けて、燃えている火の成行を見守ることにしめた。母に手頸を撫まれたまま、若い女中はばたばた足を た。さっきから起りはじめた強い風は、つむじ風のような踏みならしていた。 だめ 気紛れな吹き方をしているので、風むきによっては火はこ 「これでは、もう駄目です。逃げましよう」 こまで燃えてこないで消えることも考えられた。 と、母が言った。 てのびら その瞬間、見えない大きな掌が、僕を頭上からぐっと「もう五分だけ、僕はここにいます。どうせ燃えるにして 圧しつけた感じがした。腰が縁側から離れて、ストンと両も、ちょっとそのときの様子を見ておきたいんだ」 膝が地面の上に落ちた。あたりを見まわすと、母も僕と同「それなら、そうなさい。五分だけですよ、わたしたち かっこう じような恰好で膝をついていた。若い女中は、地面に腹ばは、坂の下のところで待っています」 いになって、ワアワア大きな声で叫んでいた。 家の前に広い坂がある。火はその坂の上の方から燃えて 家の軒や雨戸など数カ所が燃えはじめた。近くに落下しきていた。母は女中の手をひつばって、去っていった。 しよういだん た焼夷弾に詰められた油脂が飛び散って、付着した模様僕は自分の部屋へ戻った。隣家の燃える火で室内は明る くき だ。僕と母が火たたきを振りまわして、その火を消しとめかった。煙は少しも無かった。柱の釘にレインコートがふ ら下っているのが見えた。僕はそれを着て、押入の戸を開 た。僕はのまま家の中を歩きまわ 0 て、ほかに燃えてい しよか る場所がないか調べた。のそばに積まれた材木の一「三けた。押入の中に書架が入れてあり、書物が並んでいる。 本が燃えはじめていた。僕はその材木を抜き出して、地面その書物の背文字が、隣家の燃えている火ではっきり読め た。僕は小型の本のなかから三冊抜き出した。無人島へ行 に投げ捨てた。 庭に戻ってみると、母が衣類を入れた金属製の箱を防空くときに三冊だけ本を持ってゆくとしたらどんな本を選び ごう 壕の中へ入れていた。そのとき、隣家の二階の窓から、真・ますか ? そんなアンケートの答が、雑誌に並んでいたの を思い出して、慎重に選択をした。僕は、自分の心が落着 赤な焔が噴き出した。 しら たの いていることを検べ、それを愉しんでいた。ところが、選 「もうあきらめて、逃げた方がよさそうね」 とら おろおろしている若い女中の手頸をしつかり捉えたまび出した本をレインコ 1 トのポケットへ突っこんだとき、 ひざ ふた てくび
や、黒土の道が迷路をなして交錯していた。 みせた。・ほくは死というものがわからなかったし、自分が 原つばに近い墓地のはずれは手入れがゆきとどかず、朽死んでこんな石になってしまうなどとはなおさら想像もっ ちた垣根が土のうえに倒れていたりした。やわらかいア駄かなか 0 たので、一層つまらなそうな顔をした。 みち 跡のつく黒土のほそ径には、ときどきもぐらの盛土が見う ところがあるとき、・ほくは死というものの形を見たよう はな けられ、墓も概してみす・ほらしかった。妙に明るく華やかに思った。・ほくは垣のそばに立っていて、婆やは墓の横手 な墓もあったが、おもおもしく沈鬱な墓もあった。そのどにかがんで草をとっていた。夕暮であったのか、うすれか ちらともっかぬ、すこしも人目をひくところのない小ぢんかったお・ほっかない光があたりに漂っていた。・ほくは所在 や まりした墓のなかに、・ほくの見知らぬ兄と姉が眠っていた。なさにかたわらの樹木をながめた。すると靄に似たものが 「これがお兄さまですよ」 するすると幹をつたわって梢のほうにかくれるような気が 婆やは・ほくたちをつれてゆくと、ひとつの墓石をさしした。それは本当の靄か目の錯覚だったかも知れない。そ て、きまって同じことを言った。 れでも・ほくに、漠とした死というものへの感覚を与えたの 「こっちがタヅコ姉さん」 ・こ。・ほくは目をしばたたき、婆やにそのことを告げようと つぶや と、・ほくももうひとつの墓石を指さして、同じ文句を呟思った。婆やはこちらに背をむけてかがんでいたが、・ほ くように言うのだった。なんだかそれが自分の義務のようの目にはそれがまたひどくお・ほろに、ゆらゆらと揺れるよ な気がして。 うに見えた。・ほくはそれらをすべて〈死〉のせいにしてし ・ほくは自分がいま一緒にいる姉のほかに、まったく意識まった。なぜかひどく疲れてしまったので、結局・ほくはな にない兄と姉がいたことがほとんど理解できなかった。そんにも口をきかなかった。いくらかの恐怖といくらかの好 れで・ほくは、湿った地面に生えた・せにごけの地図模様をな奇心をのこして、〈死〉はどこかへ行ってしまった。・ がめたり、墓石の横にあるすべすべした樹の幹をなでたりずっと後になってのある日、・ほくは先にのべた従兄と一 緒に、墓地のなかを方向もかまわずに歩きまわったことが しながら、つまらなそうな顔をしていた。 ばあ 幽「みんなお弱いから : : : 」と婆やはひとりごとのように言ある。従兄はいつも・ほくに対して年上らしくふるまい、姉 とばかり遊んでいるため・ほくがとぎどき男の子らしくない った。「坊ちゃまは立派にならなくちゃいけませんよ」 あざわら そういうときの婆やの眼に見られると気恥ずかしかっ言葉使いをするのを嘲笑ったりする大柄なませた子であっ ゅうえっ た。一緒に姉がいる場合は、彼女は素直にこっくりをしてた。せめてなじみの墓地のなかでは少々の優越を示したか ちんうつ
318 り読んでみた。この方が感銘は更に強かった。つまり私のされて、早く地方都市へ帰りたいという気が起ってくるの 家の横手から連る青山墓地が、私がそこに生れて厭だと思をどうする訳にもいかなかった。 ふんいき った狂院が、幼いころからのなじみ深い雰囲気が歌によま たとえば私は大学にはいってからのちも煙を禁じられ い・、ばく れていたからである。ほとんど幾何もなく、私は一人の茂ていた。父は若い頃「尻から煙が出るほど」煙草を喫って 吉愛好者、或いは崇拝者ともなっていた。 いたが、健康上の理由から禁煙し、その体験をかたくなに 終戦の前の七月、一時寮が閉鎖となり、私は父の疎開先息子にも押しつけた。あるとき、もう夜更けて父も寝てい の山形へ行くことができた。一種異様な心境である。私はるから気づかれないだろうと思い、うつかり隣室で煙草に つつましい気持にさえなっていた。ところが、当時の困火をつけたことがある。一服か二服しないうちに、「こら たど 難な旅をして辿りついたその疎開先で、父は相変らずやり宗吉、煙草を契ったかー」という怒声が唐紙ごしにとんで きれない口調で母に小言を言ったり 母は家が焼けてかきた。そういうところは動物的に敏感であった。 らそこに同居していたのであるーーーっまらないことにあれ夏の休暇を、私は父と二人きりで箱根の山荘の離れで過 これと気をまわしていらだったりばかりしていた。なかんした。私が炊事をやり、二間きりの家で一夏を過すのだか ずく蚤に対して憤激していた。要するに、茂吉という人間ら、一方ならず肩が凝った。父は私に庭の草刈をさせた は書物で見ているのが一番いいので、実物のそばに長くい り、樋につまった落葉をかきださせたり、或いは室内を掃 ると息がつまりかなわなくなる存在のようであった。それ除させる間、そばに立って監視し、指示し、舌打をした。 しやくこう でも私は父が散歩に出た留守に、ひそかに『赤光』『あら自分の思った通りにならないと気に入らぬので、他人にま たま』というような歌集をとりだして小さな手帳に筆写し かせ放しにはできぬ性分であった。夏休みの前半は私はま こ 0 だ父のそばに暮すのを嬉しく光栄なこととも思ったが、あ 私の父へのひそかな崇拝はその後もずっと長く続いた。 との後半は正直のところうんざりした。医学書以外の本 地方の学校にいて離れていればいるほど、その念は強まつも、大抵は父に隠れて読まねばならなかった。相変らず煙 た。私は大学も仙台だったから、この状態は長くつづい 草を禁じられているので、日に二、三度付近の林に行って た。そして、父ももう歳老いているのだから今のうちに孝煙草を喫った。雨の日は傘をさして煙草を喫いに行った。 行しようと考えて、休暇に戻ってゆくのだったが、父のそそれでも私は父の部屋を掃除しながら、坐り机の上にあ たの ばに戻って日が経つにつれ、その我の強すぎる体臭に圧迫る父の手帳を盗み見るのが愉しみであった。父も年と共に のみ しり ある
荒れくるっている海を泳ぐことだけで青年たちには手い 「俺は海水浴に行ってくるよ。今日は、もうかまわないだ つばいで、死体を探す余裕はなさそうだった。むなしく岸ろう」 〈戻ってくる青年たちは、真夏というのに寒さのために青と、父親が言い出した。 たきび ざめていて、焚火に獅噛みつくのだった。そして、冒険が「おやめになった方がいいわ、危いものがい こわだか 青年たちを昻奮させて、彼らは声高に話し合っていた。かきていますもの」 増のお がり火と焚火はますます勢のよい烙を上げ、もうもうと黒泣き出しそうな声で、さわ子さんが言った。 いけむりと火の粉を空に噴き上げていた。 一郎は、黙って海を眺めていた。 この光景に、父親はしだいに昮奮しはじめて、 やがて、パンツ一枚の父の姿が、広い背中を見せて海に ひまつけ 「俺も探しに行ってくる」 歩いて行った。白い飛沫を蹴立てて水に飛びこむと、鮮や し J 、 いまにも着物を脱ぎ捨てて、海に走りこむ気配を示かな抜手を切って泳ぎはじめた。大きな波を、巧みに乗越 した。 えながら、どこまでも沖に向って進んでいった。 「やめて」 父はまるで二度と引返すことがないかのように、どこま と、一郎は叫んだが、もう父親を引止めることは半ばあでも沖に進んでゆくのだ。 きらめていた。しかし、結局、父は思いとどまった。さわ「一郎さん、だいじようぶかしら、どうしましよう」 ひざ 子さんが、カが脱けたように両膝を砂の上に落すと同時手首が痛いので、一郎が気がつくと、さわ子さんが堅く に、父の軅をうしろからしつかり抱きとめて、細い声をあ一郎の手首を握りしめて、海に向って眼を見はっていた。 げて繰返し制止したためなのだ。 海では父親の頭が、黒い小さな点となって見えていた その夜は死体は見つからず、やがて村の青年団は引上げが、やがて海のひろがり一面に三角形に騒ぎ立っている波 て行った。 のあいだに紛れて、見えなくなってしまった。 休 翌朝、空はまったく晴れて強い輝きを含んだ青色だった あと何十分か経てば、あのがむしやらな父親の姿は、こ の 力い、′ 夏が、海は相変らず荒れていた。浜には、海藻や材木のきれの海のどこかから現われてくるにきまっているのだと考え 力いが・り くっ はしゃ貝殻やズックの靴の片方や、さまざまなものが打上ながらも、一郎ははげしい怯えがからだを突ぎ抜けてゆく げられていた。死体捜索は海が凪いでからあらためて行わのを覚えた。それと同時に、なにかしら解放感のようなも とん れることになって、浜には人影が殆ど見えなかった。 のが、甘くひろがってゆくことにも気づいていた。 おび つばい流れて
と、馬子が一郎に説明してくれた。 いで、中年の写真師のだみ声だけがあたりにひびいた。 血の色が、くすぐったいような泣きたいような妙な気持「ねえ、 しい記念になります・せ。奥さんどうですか、ひと だんな を一郎に起させた。父親は一郎の方を向かずに、 ( ンカチっ旦那さんにすすめてくださいな」 けっこん の上で拡がってゆく血を眺めていたが、やがてその血災が ラクダがゆっくり歩ぎはじめてからも、写真師は小走り 拡がるのを止めたのを見ると、一人だけ馬に飛乗って並足についてきて、言葉を投げ上げてきた。女は、とうとう硬 い声で叫んだ。 で先へ行ってしまった。 若い女はゆっくり立上ると、びつこを曳きながら一郎に 「やめてちょうだい。写してもらったって、何にもなりは しないんだから」 近寄ってきて、耳もとでささやいた。 けが ト - ら - お・ル せんたん 「一郎さんのママにね、あたしが怪我したってこと内緒砂漠には、あちこち熔岩が黒い尖端をのぞかせていた。 砂漠を横切って、向う側でラクダを下りる。歩いてゆく え、あたしに会ったってことが内緒なのよ。言っ てはいけないのよ、わかったわね」 と斜面が急に勾配を烈しくして、その尽きるところが火口 一郎は素直にうなずいた。なんだか、その若い女が可哀である。火口のまわりには、粗末な木の柵がめぐらしてあ そうにおもえたからだ。そして、その女のことを母親に話って、一定の線より向う側は立入禁止になっている。 一郎の眼には、火口が映っている。白い薄い煙を透し すと、母親にとっても可哀そうなことになるような気持 ばく娶ん て、火口壁の内側の向いの壁の色が・ほんやり浮かび上って が、漠然としたからだ。 いおう 山には、火口の近くに小さな砂漠がある。砂漠の周辺いる。硫黄の蒸気の臭いが、ただよっている。 みやげもの 一瞬、一郎はかるい眩暈を覚えた。気がついてみると、 には土産物店が並んでいて、登山客はその場所で馬を下 り、馬子に馬をあずけてラクダに乗ってこの砂漠を横切一郎は、ズボンのポケットに入れた手の指で、太腿の肉を り、あとは徒歩で火口に近づくのである。 ぎゅっと摘んでいた。自分でははっきり気づいていなかっ ラクダの背には四人の人間が坐れる形の籠がくくりつけた州、脚だけ勝手に走り出すかもしれぬような不安に襲わ られてあって、一郎親子と若い女とははじめて一緒になつれていたものとみえる。 て一匹のラクダの背に乗った。記念写真師が走り寄ってき ふと、一郎は父親の方を見た。一郎は一瞬、瞳を凝らし て、執拗に記念撮影をすすめるのだ。 て、次の瞬間あわてて目をそらした。若い女の白い手頸を たくま 父親は横を向いたきり返事をしない。誰も言葉を発さな上からがっしりんでいる父親の大きな逞しい手が、クロ しつよう ないしょ かわ にお ふともも てくび
だして押えたが、離すとまた、見る間に新しい血が盛りあ子を食・ヘ、どすぐろく血のかたまったさきほどの傷を勲章 がってきた。しかしその血の色は、いままでの気分とはまのように自慢したりした。ーーー現在でもぼくはとぎどき真 ったく違った気持を・ほくの内部に醸しだした。病院の薬局面目に考えるのだが、もしもこのまま月日がながれていっ ふどうしゅ に遊びにゆくと、よく赤葡萄酒と無色のシロップを割った たなら、・ほくだって職業選手かせめては曲馬団の花形くら ものをふるまわれ、・ほくはその甘い飲物が血液に似ているし冫を 、こよなれたのではなかろうか。・ほくはもう以前のよう こずえ と思ったものだが、そのとき・ほくの膝頭からながれでてゆに、・ほんやりと梢の葉ずれに耳をかたむけることもなかっ かふとむししもん くものはそんなものでなく、外界にないもの、絵具をまぜたし、何事かを暗示するような甲虫の翅紋に眺めいること をも忘れてしまっていた。 あわせただけでは決してできないもののように思われた。 すると、倒れている自分、目の前にある手足、そうしたも しかし、ひとつの病気がすぐに・ほくのまえに待ちかまえ のまで特殊な個別的なものとして実感されてきた。この身ていた。それはあたかも運命そのもののように思われた。 なじみ 体は、あたりにある草や石ころとは異なっているばかりそれはしめやかな手で・ほくの手をとり、その馴染ぶかさゆ かなた か、彼方で叫び声をあげている多くの子供たちとも判然とえに・ほくが遁れたがったもうひとつの世界にひきもどし 区別されるもの、つまり自分自身なのだということを、漠た。運命というものは、むしろはじめから人々の体内をめ 無と・ほくはさとったらしか 0 た。ここから起き上っていつぐる血液のなかに含まれているのかも知れない。 て、彼らのなかにまじったとしても、どこか疎遠な溶けこ わけもなく葉に穴をあけている蚕が、ときおり不安げに めないものが残りはしまいか。・ほくはようやく激しくなっ とうつう てきた疼痛をこらえ、ハンカチを押しあてたまま、ながい首をもたげてみる。それは人間の言葉で彼らの意味とはち ことそうやってうずくまっていた。丘にゆうぐれの気配ががうにしても、人は生涯に何度か、それに似た時間をもっ しのびより、見あげると、それと気づかないほどに空が色もののようだ。ある季節、高原の大気が異常に澄みわた ってくるように、そんなときわれわれの感覚は非常に敏感 を変え雲が色を変えていった。 さぐ ゅうばえ っときのもので、血に、過去と現在のかげのなかから、自らの存在の意味を探 幽だが、それはタ映よりもはかないい がとまり仲間の遊びに加わったとぎ、・ほくはもうそんなふりだすまでに高められるだろう。今までさりげなく見すご しぎな心情のことなどあらかた忘れてしまっていた。威勢してきた物のすがたが変様し、実はこのうえなく貴重な、 のよい格闘をやり、勝負のきまったあとで隠しておいた菓かりそめに過ぎ去ってゆくものでないことが感じとれる。 じめ のが
自分のものでないような手足を無理に動かして上段のべと一本のアンプルを見つけだして、それを男の腕にぎくし ーもうろ′ すべ ッドから辷りおりると、室内はヘんに暗く、白っ。ほい朦隴やくと注射をした。男は冷汗をうか・ヘていて、とてもこの とした明るさのみが丸窓に見えるばかりだった。 程度の注射では収まりそうもなく、さてこのあとはどうし はきけ 「ドクター、吐気がするんで」 たものかと私は朦朧とした頭で懸命に思いめぐらした。と その男は、そうした薄明りの中で、なんだか現実のものころが、まだ注射した部分をもんでやっているうちに、男 あえ たたす だいぶよくなりました、と、さっきか とも思えず佇み、どこか喘ぐような声でそう言った。昨は急に、ドクター ひたい 夜、私は机の上のスタンドも消して寝たらしく、室内にはら比べると別人のような声で言い、額の汗をぬぐった。い はす くらなんでもそんなに早く薬が効く筈もないので、私はも わずかに船窓からの心細い光がながれこんでいるばかり うしばらく横になっているようにすすめたが、男はもう大 で、その男の顔も辛うじてうすぼんやりと見わけられるだ けであった。ようやっと灯りをつけると、顔だけはよく知丈夫のようだと不器用に頭をさげ、そのまま船室から出て いってしまった。 っている若い機関部員が片手で胸をおさえるようにして立 ぶしよう 男が行ってしまうと、やっと私は本当に目が覚め、寝巻 っていて、無精髭の生えた顔がおどろくほど血の気がな 、冷汗さえ浮べている様子で、私は頭をふって無理にも一つで動きまわっていたのでしきりに寒く、思いついて下 のペッドをのぞいてみると、同室のサード・オフィサ 1 は 眠けをはらいのけようとした。 このわずか六百噸のマグロ調査船が日本を出てからもう当直で・フリッジに行っているらしく寝床はからで、私は一 三カ月にもなるが、欧州の港に寄りだしてから積みこむ水人で寝巻一枚のままほとんど身震いしているのだった。暖 がわるく、吐気を訴える者が幾人もいて、船医である私は房はあったが暖かいとはいえず、私はヒーターのコードを 余分に薬を調合してすぐ渡せるように用意しておいたりし急いでさしこんだ。壁の時計を見るとまだ六時で、もちろ て たが、この男のは一目見ただけで程度がひどそうで、ロをん夜はまだ明けきっておらず、しかも丸窓から見れば霧一 に きくのも苦しいらしく、とても内服薬ではおさまりそうに色で、船が昨夜から少しも動いていないことは明らかであ ロ なかった。私はとりあえず男を形だけのソファーに横にしった。私はしばらく寝巻一枚のまま、ニクロム線がまっか ておいて、隣りの治療室にはいって行き、あれこれと注射になってきたヒーターの上にかがみこんでいた。船に寝巻 。いかにも似つかわしくなかったが、この船は水産庁の漁 薬の箱を捜してみた。まだ私は頭がはっきりしてこず、どよ の薬にしたものか容易に考えがまとまらず、それでもやっ業調査船で身だしなみなどかまわずに済んだので、私はず あか ワッチ
を・ほくにやらせるなどということがあったにしても、こう そしてポケットから鉄砲玉とよばれる飴をつかみだし、 した生身に密着した願望の前には、どんな自らの優越さえひとつずつぼくたちにくばるのだった。ついに彼は子供た もがみじめに色あせて見えるものだ。だから・ほくは皮膚をちをなだめすかして試合を中止させ、肥満した身体に子供 黒くするため能うかぎり日ざしをえらんで歩いたり、学校用の細っこ い・ハットをひっさげて、・ハッター・ポックスに では強いて乱暴そうな遊戯に加わって、あっちこっちを精たち、威勢よく「さあ、ゆくそー」と叫んで腰をぶるぶる をだしてすりむいたり怪我をしたりした。また家のそばのとふるわせた。だが、しくじってビッチャー ・ゴロなどを あきら 空地で行われていた子供野球にもお情けで入れてもらった打ってしまうと、またこのうえなく卑屈な態度にもどり、 ものの、大抵は補欠で、ポールが草に隠れて見えなくなつ「な、むから、もう一本」と、つづけざまにお辞儀をし たとぎにだけ狩り出される役目に甘んじなければならなか っこ 0 ところがこの人物は、日がたつにつれいっということも ところが、ほんの偶然のことからこの経過が変った。そなく、空地にあつまる子供たちをすべて手なずけてしま の偶然というのはひとりの人物の姿を借りてやってきたの い、自ら子供チームの総監督におさまったものだ。そうな だが、はじめのうちは人物どころかまことに影の薄い存在るともう減多にお辞儀もせず鉄砲玉もくれず、ちいさい選 ありてい じやけん にすぎなかった。有体にいえば二十をいくつか越したくら手たちを頤でこきっかい、失策なぞしようものなら邪慳に かっこう いの恰好だけ大きな新聞配達夫で、彼は空地の前を通りかどなりつけた。どういう訳でそんな具合になってしまった かるたびに、かならず脂肪ぶとりの顔にせい一杯の愛想笑のかわからぬが、やはりそこが、人物であったのだろう。 いをうかべて近づいてきたものだ。 ある日総監督は一同をあつめ、これから他流試合もしな 「な、頼むから一本だけ打たしてくれ、な」 くてはならないし、それには投手がもっと必要であるか こちらはまたかというように、突っけんどんに答える。 ら、その選出をすると申しわたした。 「駄目だい。いま、大事なところなんだから」 「さあ、が受けてやるから、みんな十球ずつ投げてみ 幽するとむこうはますます表情筋をやわらげ、この世の虐ろ」と彼は子供たちを威厳にみちて眺めわたした。その試 待を一身に負ったような情けない声をだす。 験はおそろしいもので、一球ごとにこんな財声がとんでく 「いいじゃないか。ほんの一本だけだよ。たった一回・ハッるのだった。「なんだ、・ とこに投げているのだ ! そんな トを振ればいいんだよ。な、これをやるからな」 ことで投手がっとまると思うかー」 けが こ 0