歩い - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集
382件見つかりました。

1. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

かす あた うことを知っていた。いっ知ったかということも定かでな 能うかぎりの努力で、・ほくはお・ほろに霞む昔のことを引 きよせようとした。はじめて小学校へ行って簡単な身体検いほど、いっとなく、受動的に、しかも確実に。そういっ 査をうけたこと、青組をあらわす緑のリポンを胸につけてた種類のひそかな報知は、ゆっくりと皮膚から沁みこんで ぎしぎしとなる廊下を歩いていったこと、自分の教室がわくる温度にも似ている。しかしながら、すべての古い記憶 からなくなって泣きべそをかいたことなどを、かなりはつが失われていることに変りがなかった。・ほくの幼年期は消 ・ほくはなぜかひたすらに、はる え去ってしまっていたー きりと憶いだすことができた。ところが・ほくの記憶のフィ おもかげ かな過去の影を、殊に母の面影を求めたが、なんの映像も ルムは、そこいらから先で、ぶつりと断ち截られていた。 うすら明りのあやふやの道のむこうはまるきりの暗黒であよみがえってはこなかった。いくつかの観念にしても、ず とぎ ! なし った。誰にしても幼年の記憶はお・ほろげで、ところどころっと昔にきかされたお伽話、いっか知らぬが本屋の店頭で さしえ 断片的なかけらを所有しているにすぎないだろう。しかし見かけた書物の挿絵、それら以上にぼくにとって無関係の ぼくの場合には、伯父の家に移る以前の記憶が完全に空白ように思われた。 しんえん になっていた。次第にか・ほそくなる径がふいに深淵に突き今まで立っていた地盤がふっとかき消えたときのよう に、・ほくは急に不安をお・ほえだした。自分自身が影みたい あたって行きどまりになるのと同じように。もちろん・ほく は、父や母や姉のこと、昔の家や付近の風物についての観に曖味になる感じがこのとき強く襲って、ぼくは頭をふつ 念だけはかすかにもっていた。しかしそれらはまったくのた。耳の奥でなにかがじいんと鳴っているらしかった。し 観念であり、ひとかけらの具象性も有していなかった。姉かし・ほくには、耳の奥でそれが鳴っているのか、とおくの の死んだときのことはどうにかえていたが、父や母のこ山脈から聞えてくるのか判別することができなか 0 た。山 ととなると、どんな些細な映像すら残っていなかった。そ山だけは相変らずいかにも壮麗に連なっていたが、その無 れでも父のことは伯父たちから聞かされていたし、アル・ ( 縁感はそれだけにひとしお・ほくを悲しませた。ようやくぼ ムの写真を見せられたお・ほっかない記憶もあった。ただ母くは腰をあげ、三角形をなしたアルプスの前衛のむこうに やり せんちょう に関してはーーあの母がいなくなったことについては秘密雄大にせりあがって見える槍ガ岳の尖頂を眺めながら、は っふや があるらしく、大人たちはかたく口を閉ざしていた。・ほくなはだ愚かしいことを心に呟いた。 サンチ にしても無意識ながらそれを避けていたのではなかろう「もしあそこに四十糎の砲弾が命中したら、あの頂きは折 か。にもかかわらず、・ほくは母がもうこの世にいないといれてしまわないだろうか ? 』 おとな

2. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

244 霧の中の乾いた髪 わしてぎた。そのとき、渡は憶いだした。さきほどから自 分につきまとっている訳もないいらだちの正体を、その・ほ んやりした形態の中に見たように思った。彼は昨夜、生れ てはじめて女の乳房の夢を見たのである。 目の前で霧がゆらぎ、ふしぎになまなましく、夢像と現 実がまざりあった。 むこうから誰かがやってくる。渡は目をあげ、ちょうど 夢のなかの知覚のように、一人の女が霧の帳の中をこちら に近づいてくるのを認めた。ひとしきり霧が少年の胸へな かわ がれいり、漠とした渇きを撫でさすった。そして、いまは 次第に朝の光が空一面にみなぎりはじめた。しかしまだすぐ前に近づいたすらりとした女の印象を、一瞬のあいだ からまっ あたりはぶ厚い霧に閉ざされたままである。落葉松の林のに彼は吸いこんだ。年齢は三十近くか、それとももっと上 こうしじま かげには夜のなごりがあり、下草の葉はしっとりと濡れてなのか渡にはわからない。格子縞の半袖のスーツの上着 いる。ポロシャツの短い袖からむきだした腕が冷たい。どに、真黒のスラックスをはいている。 すれちがうとき、女はほとんど物珍しげな表情で少年を こかで小鳥が啼いているが、姿は見えない。 霧はごくゆっくりと動き、別荘の生垣にからまって流れ見やった。冷酷といってよいような視線である。ややこわ こ 0 い感じにうねった髪が、整った顔立ちを縁どっていた。首 わたる 渡は、霧につつまれて歩を運びながら、自分からなにかすじがいたくほそい のが が遁れていったような、その反面、なにか見知らぬものが渡は目を伏せ、足早に歩いた。せきたてられるように歩 生れてきたような気配を感じていた。これは何なのだろいた。路傍のカヤに露が光っている。前方の霧が朝の光に う ? 久方ぶりに味わう高原の朝の冷気がもたらしたもの追いのけられるにつれ、それぞれ濃淡の異なる樹々の緑、 なのか。それとも来年は高校を受験する彼の年齢がもたらヒュッテ風の別荘の沈んだ色彩が浮びあがってくる。 すものであろうか。 道を折れたところで渡は立止った。ぎごちなく周囲を見 星野温泉の裏山が霧の中に・ほんやりとまるい輪郭をあらまわし、自分の鼓動の音を意識した。それから、ひどくの そで のうたん そで

3. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

りと彼を襲った。それも、夜店や見世物小屋の情景というを耳もとに寄せて、振ってみた。 矢車草の袋からは、米粒の触れ合うのに似た音が聞えて よりも、その情景の一部分を形づくっているさまざまな小 きた。立田ナデシコの袋は、それよりもはるかに軽く、乾 道具が眼に浮んでくる。 しやくし いた砂粒の音である。 金魚すくいのための、薄紙を貼った杓子型の道具。キビ きんせんか きびがら 金盞花の袋は、巨大輪という文字が付け加えられてお ガラ鉄砲の弾丸になる、赤や青に着色された黍殻。あるい うすだいだいいろ はまた、少女を空中に浮び上らせる大魔術の場面で、少女り、薄橙色と薄黄色の花が二つ並んで大きく描いてあ しば る。 の足首を縛り合わせた赤いやわらかい布帛。 たばこ 八寸咲朝顔の濃い紫。 町角の店で煙草を買い、歩きながら箱から煙草を抜きだ くるめ てのひら し、立止まって火をつけようとした。俯いて、掌でマッ濃赤花の久留米けいとう。 チの火を囲ったとき、すぐ眼の下に彩色された小さな紙袋ポンポンダリア。 が並んでいるのが見えた。手帖ほどの大きさの四角い紙袋百日草。 白花カスミ草。そして、サルビアの赤。 で、表面に草花の絵が印刷されている。鮮明な色刷ではな ひな 玩具売場に立った子供の熱心さを取戻して、彼はつぎつ く、やや色褪せたような鄙びた色合で、袋の表面いつばい ぎとその袋を片手の掌の上に重ねていった。 に満開の花の絵がある。 三寸石竹。 一瞬、幻覚かとおもった。彼の幼少年時代、草花の種が そういう袋に入れて売られていた。たしかに、その袋の彩ペチ、ニア。 あき 花屋の娘は、ちょっと呆れた表情で、その沢山の薄い袋 色は、道路が自動車で詰まっている時代の色合ではない。 、 ( トロン紙の袋に容れて、彼に手渡した。それを受取 数十年以前の世の中に似合う色合である。しかし、彼の立を 止まっていたのは花屋の店先で、現実にその袋は売られてるときの彼の眼は、たしかに輝いていた。 しかし、街燈に照らされた夜の道を、袋をかかえて歩い てゆくとき、彼の心は物悲しさで一杯になった。理由はよ 「今でも、こんな袋で売られているのか」 ふさ防 彼の心の状態に、その草花の種の袋はきわめて相応しかく分らない、なにか自分の人生がすでに終ってしまったよ った。指先で拠むと、紙の袋は薄ペ 0 たく、中身が空のような心持が続いた。疲れているためだ、と自分に言い聞か うに軽い。乾いた軽い音をかすかに立てる袋もあ 0 た。袋せ、にな 0 て歩いた。 うつむ

4. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

をして言った。 てくれ」 教えられた小さな部屋に行くと、長身の若い米人の情報「高すぎる」 部員が、机の上にフラソス語の本をひろげて読んでいた。 「じゃ、十マルク。女って奴はさがすとなるとなかなか見 彼はあから顔をふりむけると、なんだか照れたみたいに本つからないものですぜ」 ふんいき を閉じ、非常に事務的な口調で言った。何の用か、ガール警察というところはどこの国でも似たような雰囲気をも フレンドを捜しているのか、お気の毒だが、アルム 1 ト・ っている。受付で、身分や用件をこまかく問いただされて長 い時間をとった。いらいらしながら間宮は待っていた。緑色 マイスナーはいま警察に留置されている。 「どうした訳です ? 」驚いて間宮は尋ねた。 の制服の警官が忙しく出入りしているが民間人は少ない。 証明書を持っていなかったのだ、今こちらで再発行するショールで頭をつつんだ老婦人が一人、おぼっかない足ど こぶ 手続きをしている、べつに心配はない、それが済み次第釈りで廊下を歩いてゆく。額にかなり突出した瘤があり、と かぎばな 放になるだろう、という話であった。 がった鉤鼻に義眼みたいな目をしている。魔法使いの婆さ ドイツ人であっても証明書を持たなければすぐ留置されんに似ているな、と間宮はちらと思った。 るという事実に、間宮はこのとぎ初めて気がついたのだっ ようやくのことで一室に通されると、これから肥満のき た。してみると彼女は証明書を持たぬまま職を求めて街へそうな年齢の、どこか精力的な感じの婦人警官がいて、ア 出ていったのだろう。間宮はさらに落着かなくなった。すルムート・マイナーは取調べが済んで次の建物に移ってい べてが自分の責のようで、警察へでもどこへでも行ぎ、彼る、そちらへ行って欲しいといって、頑丈そうな腕をあげ 女のために一言弁じてやらなければ、という気持が強くおて道順を教えた。 しんかん しの・ほってきた。それも非常に性急な欲求で、一刻も愚図 間宮は一人で森閑とした薄暗い廊下をたどり、階段をの 路 痾愚図してはいられない衝動であった。 ・ほった。あちこちの部屋から、タイプを打っ音が、まるでは な収容所を出ると、彼はすぐにタクシーを停めた。一見いげしい雨音のように聞えてくる。彼はいくらか心細くなっ てぎた。なぜ自分はこんなタイプの音のひびく薄暗い廊下 星かつい顔をした運転手だったが、話好きと見えて間宮にい どこ ろいろとロ 門いかけ、それは警察へ行ってみてもまた何処へを歩いているのか、アルムートについて一体何を言いにき あしおと 廻されているかわかったものじゃない、・ とうです、女が見たのか。間宮は固い廊下に伝わる自分の跫音にだけ耳をす つかるまで二十マルクでは ? などとメーターを倒すふりませながら歩いた。

5. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

よう、連れて行って」 を飲みはじめた。少女はすぐに酔い、椅子に坐ったまま陽 ぼう娶ん 7 「ダンスはできない。コ 1 ヒーでも飲みに行こう」 気に笑い、茫然とした時間が拠まり、また陽気に笑うこと 「コーヒーなんて嫌。お酒を飲みに行きましよう」 を繰返した。彼も酔い、眼の前の少女の顔が赤い唇だけに 彼は黙って、歩き出した。少女は、並んでついてくる。 なり、その唇と川村朝子の唇が重なり合い、時折川村朝子 広い通りに出て、街燈の連なっている道を歩いて行った。 のものと擦り替った。 「お酒を飲みましようよ」 その唇が、不可解なまま記憶の中に埋もれていたこと 少女がもう一度言い、彼はふたたび立止まって、少女のに、彼は屈辱に似た気持を喚び起された。 おとな 顔を眺めた。眼に濡れた光があり、大人の顔になってい 「教師をやめてからも、なぜ彼女の店に行かなかったのだ ろう」 「きれいな子なんだな」 眼の前に大きく拡がっている赤い唇にたいして、その不 きようぼう 可解さにたいして、兇暴な気持が起り、一瞬、襲いかかる と彼はおもい、改めて訊ねてみた。 姿勢になった。 「君、本当に高校生か」 「高校三年よ」 十三 「仕方がない、酒を飲みに行こう。その口紅を落したま 誘ったのは、むしろ少女の方である。そして、彼がその よいん 「お酒を飲みに行くなら、口紅は落さない方がいいわ。そ誘いに応じたのは、兇暴な襲いかかる気持の余韻が残って れから、仕方がないことはないでしよう。男は、し つばい いたためといえる。 あたしを追いかけてくるわ。おじさんだって、あたしと一 しかし、犯している気持は、少しも彼には起らなかっ 緒に行くこと嬉しいでしよう」 強・ようまん その口調には、驕慢なところはなくて、奇妙な素直さが旅館の一室で、少女は一瞬の間に裸体になった。古い制 あった。その奇妙さは何か、と考えた彼は、少女の口調に服を改造したとおもわれる紺色の外出着を脱ぎ捨てると、 悲しみに似たひびきを見付けたようにおもった。 もう少女は居なくなった。剥き出しになったのは、重たく カたく * からだ 少女は、頑なに口紅を落そうとしない。 熟した女の軅だった。 スタンド・・ 1 に少女を連れて行って、彼はウイスキー 大きく膨らんだ乳房に、濃い口紅がよく似合った。 こ 0

6. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

旅館の部屋で、京子は、 季節も四月になり桜が咲き、二日ほど雨の日がつづぎ、 2 「縛って」 桜の花びらの色が褪せて白茶けた。曇天には、空の色に桜 と言うことを、繰返した。 の色が紛れかかった。 そそ * ちょうばっ 度重なるうちに、自己懲罰の口調は消え、唆り、狩り立京子の眼が、白く濁り、そのくせその底に粘り付くよう てる蓙 ( 日に変っていった。 な強い光が現れてきた。その光と彼は対い合い、自分の眼 ひも からだから また、度重なるうちに、京子の驅に絡まる紐が、二重ににもその光が現れているかどうか、と気懸りになった。彼 のぞ なり三重になり、その数を増していった。高く上げた両腕は鏡に眼を映し、その眼の中を覗き込んでみる。濁った、 じようはく の上膊に絡まり付いているだけだった紐は、手首に巻きっ澱んだ眼だ。しかし、京子と同じ光は、そこには無いよう き、二つの乳房を締め上げ、胴に絡まり、さらには両方のだ。事実、そのような光は現れてはいないのだろう、と彼 足首に巻きついた。 はおもう。何故ならば、紐が一本ふえる毎に、京子は確実 伊木が京子と会い、その次にまた会うとぎには、京子のに快感を撫み取ってゆく。 驅に絡み付く紐の数は、確実に一本ふえることになる。京京子の顔は、歪んだまま光に満ちてゆき、一方、彼はし ひたい 子は額に汗を滲ませて、新しい紐を要求し、彼も額に汗をばしば取残されてしまう。 滲ませて京子の驅に襲いかかる。二人の額の汗は、以前の取残された彼は、むしろ京子に羨望を感じ、すぐにその ように快感のために滲み出たものではない。それをみ取羨望を打消し、この情況から何とか抜け出さなくてはなら いらだ むな ろうとして精一杯伸ばした指先が、空しく宙を掻き、苛立ぬ、と苛立ち焦りながら考える。 ひも ち隹 . るための汗である。そのために、紐がもう一本必要と なる。 このようにして、伊木は京子と絡み合ったまま、少しずそのような日々を、彼は送り、疲労が分厚い層を成して よど 皮膚の下に澱んでいるのを感じた。しかし、そのために却 っ斜面を落ちてゆく。 しげき 旅館に備え付けの一組の寝衣の紐では足りず、伊木と会って彼は一層強い刺戟、新しい刺戟を求めて、萎えた細胞 を奮い立たせようと試みる。 う日には京子は和服を着るようになった。 そして、一層、疲労を深くしてゆく。 和服姿のとき、女の躯を締め上げる幾本もの紐を、使う のである。 その夜、彼は「鉄の槌」のスタンドで、背の高い様子に しば たび ひも にじ ねまき よど ふる 三十六 せんぼう むか ごと わば

7. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

これまたどういう訳かわからぬが、正式の和名ではガガン慌てて手をうごかすと顔にべたついてくる。髪にくらいっ ・ホといわねばならぬことになっている。 く。モチ竿に満足にモチをぬりつけるまで、あちこちもう ちよくしもく ・ハッタはキリギリス、コオロギなどと共に直翅目に属すたいへんな騒ぎだ。 めす めいそう る。コオロギの雌は土の中ふかく卵をうむため長い産卵管 いざ用意が整って、モチ竿を斜めにかまえると、名槍を を持っているカ / ・、、・、ツタの産卵管はごく短い。それでも卵もったサムライの気分になる。ギンやチャンや赤トン・ホ をうむとぎは腹部がジャ・ハラのようにのびるから、やはり ( 夏にいるのはナツアカネ、少しおくれて出てくるのをア 土中ふかく産卵することができる。だが、こんなことは余キアカネという ) 目がけて、シャニムニおどりかかる。本 計なことで、すぐさまそんなことを観察する子供は早死を当は先端だけを・フルプルとふるわせるのが術なのだ。しか : うふん する。やはり・ハッタは糸でつないで遊ぶのがいし そうでしカッと昻奮しているから、ふりまわし、ふりおろし、横 なければ猫にやる。カマキリを猫にやると、カマキリは羽にはらう。それだけ空気をひっかきまわして、ただの一匹 をひらいておどろおどろしい威嚇をするが、猫は平気でくもトンポがくつつかないのは実際奇蹟だ。だが、ヤンマ相 わえてもっていってしまう。あれは残忍な生物である。し手では奇蹟がいともたやすく実現してしまう。翅のかけら かし面白がって猫に与えるのは、さらに残忍といわねばなひとっ獲れやしない。その代り草っ葉やら泥やら他人のポ らぬ。 ーシやらがくつついてくる。 タぐれになると、原つばの上空をギンヤンマが飛びかい 気がついてみると、もうお互いの姿もお・ほろになってい 記 虫だす。子供がギンとかチャンとか言っている奴だが、同じる。夜がタぐれを追いはらって、そこここの草むらから湧 しゅう こわ ウ種類の雌雄なのだ。こいつは素早くてとても小さな網できあがってくる。夜はやつばり怖い。人サライだの吸血鬼 ざお ポは手がとどかない。・ とうしてもモチ竿ということになる。 だのの匂いがする。おまけにおなかがペコペコだ。空腹に マ モチといえば、あの懐しい、かっ怖ろしい手ざわりはど なって血液中の糖分がヘると人は怒りつ・ほくなるという おもちゃ おとな とこへ行ってしまったのだろう。むかしは玩具屋へゆくとモが、それは大人の話で、子供は余計もの寂しくなる。 あき チを売っていた、小さな空カンをもって買いにゆく。その むかし、はこんなふうに歌ったものだ。 ・と 中に水を入れ、水の中にモチを入れる。こうすると手にひ 「カエロがなくからカーエロ」 かえる つついたりしないのだ。ところが、ひつつかないことにな近ごろでは蛙も郊外へゆかねば鳴いてくれない。 えきちゅう っているはずだのに、こいつはやつばりひつついてくる。 「トンポは益虫だからとってはいけません」 あわ にお

8. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

きばは けたよ」 だぞ。こんな大きなロして矛が生えてて、金いろの目をし 「フム、フム、どんな形をしてた ? じゃあ、それはべているんだ。藪のなかから急に人間にとびかかるのだ。狼 ニテングタケというのだ。おまえはきっと丘の森あたりにに会ったら、おまえなんそ一口に食われてしまうそ」 まで行ったんだな。あの茸はあそこまで行かないと見つか デヒタは黙りこみ、うつむいてスウブの残りにパンを食 らない」と父は言って、鼻をうごかして、エンドウ豆を食べました。そのあいだにデヒタの父はエンドウ豆を食べ終 って、母にむかって小声で言ったのです。 「だが、ペニテングタケには毒があるんだ。おまえ、さわ「おまえ、気をつけなければいけない。デヒタの奴、色気 りやしないだろうな」 づいたのかもしれんそ、裸かの女の子なんて言うし、赤い 「ウン、茸が・ほくにそう言ったもの。わたしは毒茸ですっ パンツなんそとぬかしおった」 しかしデヒタは、床にもぐってからも、どうしても納得 「おやおや、まあー」と、母はおどろいてたちまちスプ 1 がいかなかったのです。目をつぶると、裸かの茸の精が見 ンを落っことしました。 えてきます。・ほくは嘘をついたのではない。明日また行っ 「本当はそうじゃないの。茸の精が口をぎいたの。茸の精て、もっとしつかり見てこなくちゃ、そう思いながらデヒ は、・ほくにクルミをくれるって言ったよ」 タは眠りこんだのでした。次の日、デヒタは元気よく森に でたらめ 「出鱈目いうんじゃない ! 」と父がどなりました。「茸のやってきました。だんだんとほそい足も慣れてきて、もう じゅもん 精なんているものか」 そんなに呪文をとなえなくても歩けたのです。 うそ こけ こもれび 「嘘じゃないよ。茸の精はかわいい女の子で、ほとんど裸森はしずかで、木洩日がチカチカ苔のうえにふっていて、 きのう かだったけど、赤いパンツをはいてた」 なにもかも昨日のとおりでした。紅い茸のまえにきて、デ たた 狼 「・ハカぬかせ ! 」父はテープルをドシンと叩いて、とてもヒタは腰をおろしました。すこし心配でしたので、せきこ AJ とても大きな声をだしました。「茸の精なんか本当にいるんで話しかけました。 「キノコの精、キノコの精、こんにちは」 少ものか。そんなものはみんな作り話なんだ。大方、あのヒ いいかね、お父さん ュフテ婆さんにでも聞いたんだろう。 しかし、答える声はありません。デヒタはしばらく耳を : それに、ヒョコヒョコ森へすましてから、ますます心配になってきました。 にはちゃんとわかるのだ。 おおかみ 「キノコの精、キノコの精、なんとか言っておくれ」 なんか行くんじゃない。いいか、村の外には狼がでるの はな やぶ

9. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

物語の世界となると大物がいる。マーク・トウ = ーン語の岡からなっているその地所の片方ずっしか買いとること るところのイシュリエルとかいう叔父さんは、蒐集品が全ができなかった。どちらの男も半分だけコダマを所有する 部そろっていることに値打ちをかけた。まず牛の首につることに満足せず、口論し、争い、控訴しあい、これがたい す鈴を五つの広い座敷一杯あつめたが、ただ一つ、古風よ オへんな裁判となって、せつかくのコダマも以来反響させる たった一つ残っている見本をほかの蒐集家が手に入れてしわけにいかなくなってしまった。 もう、 まった。相手はどうしてもそれを売ってくれない。叔父さ んは悲観して、牛の鈴のことをあきらめ、他人が手をつけ かくのごとく各種さまざまの蒐集家がいる以上、虫をあ ひうちいしておの ていそうにないものをやりはじめた。彼は燧石の手斧とつめる人間がいたとてなんの不思議があろう。虫ケラ蒐集 くじらはくせし か、アズテック人の碑文とか、鯨の剥製、さてはレンガの家がゴマンといたとて、彼らがあつめる虫の種類に事欠か かんべき 破片などをあつめてみたが、いつもいよいよ蒐集が完璧だないのである。 と思えたとき、新しい品物があらわれ、新しい別の蒐集者 一体虫にはどのくらい種類があるのだろうか。 がそいつを手に入れてしまった。叔父さんの黒かった髪の ミシ = レの時代にはまだ十万種くらいしか知られていな 毛は、こうして雪のように白くなった。 かった。「だが、あらゆる種類の植物が少なくとも三種の そこで彼はしばし休んで考えた末、これなら絶対と思え虫を養っていることを考えると、三十六万種の昆虫が存在 るものを選びだした。それはコダマであった。何だって ? することがわかる」と彼は書いているが、現在ではおよそ 記 虫つまりヤマビコなのだ。まず最初に買いいれたのは、四度六十万種、いや少し多目に七十万と言っておいたほうがよ ウくりかえすジョージア州のコダマで、次のはメアリランド いだろう。な・せなら、まだまだ新しい種類がどんどん発見 ノ川の六回くりかえす奴であり、次にはメイン州の、というされているからだ。昆虫学者、昆虫研究者、昆虫採集家、 マ具合に買いすすんでゆき、値の安い小さな二連発のコダマ昆虫蒐集家、昆虫愛好家、虫ズキ、虫キチガイ、虫・ ( 力が とは山ほど買いこんだ。そうして予定どおりとほくそえんでそれだけいる証拠である。 といたところ、突然、大コーイヌア、すなわち反響の山とし その名称に応じて、彼らはいろんな虫の集め方をする。 て世界に知れわたった神々しい = ダマが発見されたのであカイコの芋虫にしか手をださぬ学名もいる。雄性生殖器を 四る。同時に、もう一人の 0 ダ蒐集家がいることが判明ししらべるためにだけシジミチ ' ウをとる研究者もいる。採 た。二人は争 0 てこの 0 ダマを買いこもうとしたが、二つ集家となると、初めは虫と名がつけばやたらと網にいれて こう・こう

10. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

んとし、私は思わず苦笑いをした。そのときプリッジに人しかった。その女の子というのは、リスポンの生れで、ま ぶかっこう 影がうごき、厚いオー ーに身をかためた不恰好な当直のだ十四歳とかいうことで、彼のアパートの近所に母親と二 甲板員が出てきて、プリッジの後方につるしてある鐘をせ人だけで住んでおり・、どういうものか彼のところにしげし わしく叩きはじめた。これもかなりやかましく響き、しかげと遊びにくるそうだが、近ごろ彼が交際している人間は ほかにほとんどいないようだった。彼女は自分のアパート し鳴り終ってしまうと、すぐに、こわいような困惑するほ の部屋にいろんな小さな動物を飼っていて、たとえば二十 どの静寂がきた。 ぶどうしゅ オー・ハーも着ていない私はようやく寒さを覚え、夢の中日ねずみを机の上に出してやるとコップから葡萄酒をのむ こうら の動作のようにタラップをおりて自分の船室に戻っていっ とか、亀の子を三階の窓から落してしまって甲羅にびびが なお た。このぶんでは船はいっ動きだせるのか見当もっかず、はいったがセロテープを賍ったら癒ったとか、そんなたわ 一体フランスの港に着くのはいつになるのか推測もでき いのない可愛らしい話をしては帰ってゆくらしかった。彼 ず、そしてそのフランスの都会には、私の古くからの友人の手紙は、その女の子の話のほかはたいてい陰気で、冬の が病気で寝こんでいるようであった。 欧州の気候そのままに暗く湿っていて、私はまだ見ぬ冬の ゅううつ 彼は高等学校以来の友人で、三年ほど前からフランスに パリの憂鬱さや、彼の住んでいる部屋の薄暗さまではっ 留学しているのだが、もうとうに奨学資金もきれている筈きりと想像することができた。手紙には書かれていないと だのに、一体どうして暮しているのか、おそらくひどく貧ころまで、私には実によく想像でき、それによると彼の部 乏していることだけは間違いなかった。お互いの無精から屋は古びたアパートの四階で、くらいすりへった木の階段 ずっと文通もとぎれていたのを、私が航海に出てからようを、ぐるぐるまわりながら実に長いこと登っていったどん やく連絡がとれるようになり、その後は港ごとに便りを交づまりにあり、ル多に外出もしない彼は小さな机にむかっ て しあい、私はなによりも彼と会うのを心待ちにしていたのて表紙のすりきれた本をひらいたり、隣りについているご に だった。ところが先日寄ったオランダの港で、私はいつもく狭い台所へ行って湯をわかしたり、べッドに腰かけたま ロ 河のようにこまかい字がぎっしりと書きこまれた手紙ではなま長つぼそいパンを割って噛ったりしている筈だった。し く、ごく簡単なそそくさとした絵 ( ガキを受けとり、それかし、いま彼は起きあがることもできず、やせこけた顔を 1 によると彼は病気になっていて、そのハガキも彼のところしてぎしぎしきしむべッドに横になっており、そのリス・ホ にちょいちょい遊びにくる女の子に出してもらったものらン生れの少女がまったく途方にくれた顔つきで、なんと話