) 冽な雌の流れも、今のように手のとどくかぎり樹 皮のはがされていない白樺の幹も、この上なく鮮かに 私の目に沁みた。そのときには、バス道路を島々から を上高地まで歩いた。むろんバスはなかったし、徳本峠 をつ一 が通れるかどうかわからないということだったからで ある。あのバス道路を全部歩くようなバカげたことを した人はそうはいまい。あの道は九里ある》 しかし、私もそのバカげたことをしたことがある一 人である。昭和二十七年ごろだったろう。五月はしめの 連休の間に、上高地にはいろうと田 5 った。しかも、山 とくごうとっげ 歩きをあまりしたこともない女性を連れて。徳本峠の 道を聞いたら、台風で道はなくなっているし、自殺を 右上高地・梓川のほとりを行く ( イカー ( 「幽霊」 ) するつもりかと、警察に連絡されそうになった。オ こ、心中と思われてもしかたがなかった。 左上高地・梓川と穂高連山 ( 「幽霊」 ) かー さわんど 沢渡から先の道は、いたるところで、なだれによっ て、とざされていた 朝、島々をたって、私たちが釜 トンネルを通りぬけた時は、上高地は夕暮れであった。 トンネルも板がうちつけられ、その割れ目をぬけて雪 びさしの上にのばると、数十メートル下に、雪どけ水 にふくらんだ橇雌が、岩をかんでいた。上高地の中に は、三十センチほどの雪が残っていた。宿はまだ開い ていないというので、営林署の職員の家にとめてもら
彼は、そこに二十回以上のばったことがあると豪語し しく書いている。私は、今までも幾度となく上高地に とくごうとうげ ている。はんとなのかも知れない しかし、信じられはいったが、徳本峠を越えたことは、一度もない。「徳 ない気もする。今では、頂上まで自動車が行き、定期バ 本峠を越えるのが上高地に入る本道であるが、近ごろ スも通っている。しかし、その道も昭和三十八、九年ご はみんなバスで行ってしまう」と、彼は書いているカ ろに開通したので、歩いてのばるとなると、かなりふ私は、そのバスにすら乗らすにタクシーに乗った。そ ところの深い山なのだ。 して、少々、気がひけるのを感じた。 ながわど 四月末、ゴールデンウィークがはしまる直前、定期 上高地までの道は、奈川渡ダムの完成でまったく変 ハスが動きはしめたという日に、私は無線中継塔の下貌している。タクシーだと、二時間もかからすに、上 さわんど までのばったが、頂上には残雪が多く、頂上近くの落高地にはいれる。沢渡まで、沢の底をまがりくねって らまっ 葉松は立枯れそのままの姿であった。 一カ月後に、花走っていた旧道は、水の下にかくれてしまって、 の咲きみだれる高原になっていようとは、信しように ネルの方か多い鋪装道路が続いている。奈川渡ダムは、 も信じられない荒れはてた冬の高原だった。降りはじ 私には黒四以上に馬鹿でかいものに思われた。そこに みすずこ めた雨に追われて、山を降りる。美鈴湖のかたわらを は、信しられぬほどに巨大な人造湖が出現していて、 通 0 て、浅間温泉にぬける道だ。途中、松本の市街を文字通り記憶の底に、櫢雌の谿谷は埋もれてしま 0 て 一望に見おろせる場所があるが、雨にけぶって、市街 は判然としなかった。 終戦直前の夏、彼は島々からバス道路を歩いて上高 浅間温泉で一泊する。松高生たちは、この温泉町で、 地にはいった。盛夏だというのに、ほとんど人っ子一人 芸者をあげてコンパをひらいたのだそうだが、今の高 いなかったと回想している。 校生には信じられないことだろ、つ。ここまでおりると、 美ヶ原頂上の冬が信しられないほど、春は今、さかり 《私は感傷的な年齢でもあり、また本土決戦で必らす であった。 死ぬにちがいなく、大げさに言うなら、死ぬ前にあこ かみこうち 翌朝、上高地に向う。「どくとるマンボウ途中下車」 がれの山をこの目で見たいという心境であった。それ の中で、北杜夫は、彼と上高地のことを、かなりくわゆえ、落葉松の梢ごしに光る穂高の雪溪も、あくまで
彼の作りだした世界には、つねに、それらの小さな 8 だけで、そこに彼の青春とともに埋められた上高地が 感しられるのである。その上高地の下には、彼が幼少虫たちがはばたいている。そして、それが彼の世界に、 つねに不思議な生命感をあたえているのだ。それが、 年時代を過した箱根の山々が埋もれている。そして、 その下には昆虫にむけて傾けられた情熱がある。彼が彼の幻視的な世界をリアルなものとして浮かびあがら 自然の中に入りこんだのは、 小さな虫の生命にひかれせる。その情熱を欠いて、彼の歩いた足跡を追ってみ てなのであった。 ても、決して彼と同し世界を見出すことはできないだ ろ、つ 私は、自分の前から姿を消した うぐいすを探したが、ふたたび見 出せなかった。 ただ、その声だ けは、近ついたり遠ざかったりし た。私は、文学作品というものカ その姿を消した、鳥の声のような ものではないかという気がした。 吉 たとえ、ふたたび姿を見ても、そ 斎れが同し鳥でないかもしれない 私が目の前に見ている上高地の山 に山も、北杜夫の見ていたものと同 しであるとは、思えなかった
3 右北陸地方の農村 ( 「幽霊」 ) 上渚にあそぶ蟹 左北陸海岸の網干 ( 「幽霊」 ) いつの間にやら、のばるひまもなく、体力も失いかけ る年齢になってしまった。私は、その狂気の中にはい る勇気を持てなかったのかも知れない。そして、それ は、岩尾根の世界ばかりのことではないのかもしれぬ と、ふと思った。 私は、北杜夫のことと、自分自身の青春のことと、 過ぎし日の上高地のこととをごちゃまぜにして思いな がら、梓川べりを、たった一人で、歩い 川は、雨 のような音をたてていたが、前日の雨とはうって変っ た晴天だった。大雨が降っても、雪どけになっても、 ながわど 梓川の水の色は変らない。奈川渡ダムあたりの、ミル クをとかしこんだような水の緑が、信しられないよう な清洌さだった。熊ざさの下には、ぶあつい雪が残さ れていて、靴の中に水がしみこんで来た。そして、私の 目の前の月本。 、支こ、うぐいすか飛んで来て、鳴いた。ムは、 うぐいすが、飛び去るまで、立ちどまったままでいた。 北杜夫にとっては、上高地は青春の中で大きな重み を持っている。だが、ト説作品としては、山をえかい たものが少ない。それは奇妙なことに思われるかもし れない。 しかし、他の作品の中にも、姿を現わさない せいれつ
じしやく 枚くらいはかないとすっかり足をおおうことができなかつイルは切れ、地図も磁石もまったくあてにならず、いった ん道に迷えば餓死あるいは凍死の運命をたどることは火を それでも年一年とこの状態は改善されていった。私が卒見るよりも明らかなのであった。そこで彼は上高地のテン ざん 業したあと、夏にアル。フスにきてみると、すでに上高地まト の中でじっと坐禅をくみ、危うい場所には近よらなかっ ひがさ で・ハスが通っているため、ハイヒールをはき日傘をさした こなしだいら ちょうしよう 女性までうろついている始末であった。小梨平にはずらり しかし、ほかの連中が彼を嘲笑したのはもちろんであ とテントが並び、レコードの音なんそがひびいていた。しる。 きたかま かし、その中には松高の、いや信州大学のテントがあっ 「なにもいきなり北鎌尾根をやれとはいわん」と、みんな やり て、うす汚ない「ふうてんもどき」が生存していた。彼らは言った。「しかし槍くらいなら女子供にだって行ける。 やけだけ は私たちの時代とちがい、 ようやく四、五日を山で過すのせめて焼岳にでも登ってみたらどうだ ? 」 ではなく、一夏をこのテントで暮しているのだった。ひと女子供という言葉は耳に痛かった。そこで彼は決心をし 夏もいるくせに、テントに寝ているだけでどこの山へも登 た。上高地のすぐ横にそびえている焼岳ならばナダレも起 らないという変った男も棲んでいた。彼はたくさんのウド らぬし、墜死するほどの岩場とてあるまい。それでも彼は ン粉をも 0 ていて、それでパンを焼き、そこらのテントのなおじ 0 と機会をうかがい、雲ひとつない類い稀な好天の 住人に売りつけていた。 朝がくるまで待った。暑くなりそうだったけれど、凍死を 記 虫やはりずっと上高地にいるくせに一度も山に登らなか 0 防ぐためリ、ツクサックには厚いセ 1 タ 1 や股引きを一杯 ウた男を私はもう一人知っている。彼はあまりにいろんな山つめた。餓死を防ぐため、。 ( ンと二個のカボチャもつめ そうなんしゃ めの話を聞きすぎた。かつがれてくる遭難者を何遍も見た。 た。厳重にゲートルをまき、一歩一歩足をふみしめながら そこで彼の頭の中には、山の天候がどれほど変りやすい彼は登りだした。同行者はいなかった。誰も焼岳なんそに とか、たとえつんつるてんに晴れあがった日であっても、ぼ一緒にゆこうとする者はいなかったからである。 片一 つんと一片の雲が見えたが最後、見るまに濃霧はたちこ しかし、はじめは何もかもうまく行くように思われた。 め、あるいは大雷雨が襲来することは確実であるという観道標も倒れておらず、道すじは判然とし、あまっさえ彼の 念が植えつけられた。また雪渓の下をとおればかならず大前後には登山者の姿がちらほらした。これでは遭難しそう なだれ 雪崩がおこり、岩をふめば岩は落下し、ザイルを結べばザにもなかった。標高がますにつれて視界がひろまりだし 403 こ 0 こ 0
1 3 を第を気いつ朝 ったことを、おばえている。靴はズックの運動靴たっ たし、食料もほとんど持っていなかった。まったく 無 謀だっこ。 今年も例年になく雪が多いという話だったが、それ でも、その時ほどの雪はなかったような気がする。し かし、現在では、なだれのあとをプルドーザーで掘っ て、雪の壁の中をバスを通して、上高地まで連んでく れる。 かつばばし 河童橋のあたりは、開山式に参加する人々が群れて 色とりどりの服装が、光った灰色の河原の上に あふれて、そこだけ夏がやって来たようだった。私に は、上高地の冬までが、レジャーの人波に追われてし まうかのように田 5 われた。 そこから眺められる前穂の雪をかぶった姿は、カメ ラをかまえると目の ~ 則にある。しかし、私は、それ以 いたことかない。、 しつも、そこ 上に、その岩山に近づ から引きかえして来た。 北杜夫は、それから先の岩尾根の世界を「岩尾根に て」という小説の中にえがいているが、岩のばりの瞬 間におとずれる狂気を主題とした初期の名作のひとっ 私も、岩にあこがれながら、そこまでは来たのだっ た。だが、そこで引き返してのほろうとしないうちに、
北杜夫は、終戦の年の八月少し前から、旧制の松本 高校で過した。その前後のことは「どくとるマンボウ 青春記」の中に、書かれている。そして、すくなくと も、この松本時代とは無関係とは田 5 われない月言イロロ 「岩尾根にて」や「盜間にて」などかある。私は、そ 「星野温泉の裏山が霧の中にほんやりとまるい輪れらの作品を頭におきながら、新宿発の特急「あすさ」 かみ・ ) うち ( 「霧の中の乾いた髪」 ) 郭をあらわしてきた。」 に乗って、松本から上高地への旅に出た。雨あがりの、 軽井沢・星野温泉 どんよりとした空模様の朝だ 0 た。四月下旬、上高地 だが、彼の筆が外見的にリアリズム作家のそれと似 通っていても、間違ってはならないのだ。彼が書いた ものを通して、彼が見たものを知ろうとしても無駄だ それは、決して彼のアリバイにはならない。彼は幻視 者なのである。彼は吉行淳之介のように、現実を出発 点にして、それをイメージに高めようとするのでなく、 イメージから出発して、現実をありありと見てしまう・ のだ。 彼の作品の中で、アリバイとして役立ちそうなのは、 一連のマンボウものと呼ばれるエッセイ集ぐらいであ ろう。しかし、それらとても、どこまで彼の幻視的な 世界が含まれているのかわからないのである
牧場の芝が明え、つつしの蕾がふくら みだすと、すでにさわやかな初夏の風 ( 「幽霊」 ) が梢をわたるようになる。 さんしろ 長野県・三城牧場と王ガ鼻付近 つはみ 工 1. 上高地より穂高を望む ( 「どくとるマンボウ昆虫記」 )
北杜夫集目次 北杜夫文学紀行 青春と上高地 ンドラの匣 : : : 一一 0 九 牧神の午後 : : : 一三 0 不 ・一一三六 霧の中の乾いた髪 : ・二噐 少年と狼 : : : 一一六 0 岩尾根にて : ・一一七三 注解 北社夫文学アル・ハム 評伝的解説 なだいなだ三三 星のない街路 : : : 一穴三 河口にて : ・三 0 九 幽 ・三一一五 どくとるマンポ ウ昆虫記 ( 抄 ) : ・三七七 紅野敏郎 / 栗坪良樹四 0 九 四一四 四三三 磯田光一四三三 装幀大川泰央 写真撮影成田牧雄 編集責任桜田満 製作担当大和浩
青春と上高地 北杜夫文学紀行 なだいなだ い、ド 4 箱根・強羅の山荘 ( 斎藤茂吉の勉強部屋 ) ( 「死」 ) 私が、北杜夫を知ったのは、慶 応の神経科に入局した時からであ る。私が二十五歳、彼は二十七歳 であった。それからの彼のえがい 軌蹣をあとづけるのは、私には、 それほど困難なことではない。 だが、それはもう、北杜夫とい う作家の精神のできあがったあと だった。私は、彼が作品のアイデ . アを頭の中に浮かべ、そして、そ れが形になるまでの、数カ月、あ るいは数年の間、たちあわされた。 そして、その時、私たちが目の前 にしている世界から、彼がつねに 少年時代へ、幼年期へと、過ぎ去 たどりつこ、つとして った世界に、 いるのを見た。 彼が「橇家の人びと」を、書く前 だった。実際に書きはしめる二年 則ぐらいではなかったかと思う