伊木 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集
73件見つかりました。

1. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

140 くても、なりようがないな。そういう意味で、被害者とい ているぞ」 えないこともないな」 そのことには、伊木は先刻から気付いていた。井村の話 終りの方は、酒席の冗談の口調になり、伊木はもう一言のときから、すでに京子の眼のまわりには薄桃色の靄がか 付け加えた。 かっていたのである。花田の言葉が、つづいた。 「もっとも、なれなくて幸いだが。花田光太郎という痴漢「もう、そろそろ店の終る時刻だな。京子くん、今夜は一 が、社会面をにぎわしたら、これはやはり困る」 緒に帰ろうじゃないか。痴漢になるより、やはり合意の上 花田は、同じ口調で答えた。 の人間関係のほうがいい」 「行きは痴漢で、帰りは三人の善良なる小市民か」 自信のある口調ではない。京子が意のままにならぬこと てきだんへい の末路か」 「勇敢なる三人の擲弾兵・ についての愚痴を、伊木に洩らしたことのある花田であ くど と井村が言い、花田がすかさず、 る。そういう言い方で、京子を口説いているわけだ。しか 「末路、なんそと、しやらくさい。井村はね、この前警察し、京子と伊木との関係については、花田は考えてみる気 ・こうまん に泊められて以来、痴漢になるのは懲りごりしたんだそう持さえ持っていない。その傲慢さを、この夜もまた、伊木 だ。以来、井村誠一は善良にして小心な亭主 : ・ : 。そしては憎んだ。 伊木一郎は」 そのとき、京子が言った。 「伊木のことは、言うまでもない」 「先生は、こわいから厭。伊木さん、送ってくださるわ 井村の断定的な口調に、おもわず伊木は京子の顔を見ね」 た。京子と眼が合い、京子の眼に、二人だけの秘密を頒け「なるほど、伊木ならこわくない : そその けげん 合っている同士の光が浮び、その光が唆かすように強くな と言いかけて、花田はロを噤んだ。怪訝な表情がその顔 った。おもわず、彼の眼もそれに感応した。その自分の状に浮び、京子と伊木の顔を見比べた。その眼を意識した伊 態に気付いた彼は、いそいで絡み合った視線をはずし、津木は、反射的に京子にたいする姿勢が定まった。瞬間、彼 上京子にたいする自分の姿勢のいまだに定まっていないこ は京子が自分の腹違いの妹かもしれぬという疑念を忘れ、 はんばっ はす とを痛切に感じた。そのとき、花田の弾んだ声が聞えた。京子に寄添う心になった。花田光太郎にたいする反撥が、 こう 「おや、京子くん。厭だ、などといいながら、すっかり昻彼をそうさせたのだ。花田は烈しくまばたきし、改めて京 ふん 奮しているじゃないか。眼のまわりが、ぼおっと圧くなっ子と伊木を見比べた。 から もや

2. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

すると、京子は、言葉を付け加えた。 「これは良い店だなあ、おれはこういう店が好ぎなんだ」 「あのあとで、煙草を一服喫うことがあるでしよう、その と、言うだろう。 ときの先生の顔 0 て、き 0 とそういうのだろうとおもうの伊木たちの年代の人間は、皆一様に戦後混乱期の悪酒時 よ」 代に酒を飲むことを覚えたのだから、繩のれんの店や焼酎 うそ 花田は京子を鋭く眺め、苦笑しながら立上った。 には郷愁に似たものがある。花田の言葉に嘘はないかもし 「これはいかん。そうまで、からかわれては閉ロだ。そろれないが、おそらくその言葉はいたわり深く耳に届いてく そろ退散しよう」 るだろう。 そう言うと、花田はもう一度、鋭い一瞥を京子に与え、 「どうしようか」 「伊木、今夜はやけ酒だ。もう一軒つき合ってくれない ともう一度、花田が言い、伊木は迷っていた。立止まっ か」 てからの僅かの時間がひどく長く感じられ、彼は右腕の先 どうけ その言葉は、道化た余裕のある口調で言われた。伊木はにぶら下っているトランクを地面に置いたものかどうか、 あんど 安堵すると同時に、花田のその余裕を憎んだ。 迷っていた。 「しばらく振りじゃよ、 オしか、つき合えよ」 「木暮の通夜の日に行ったクラブがあったな。あの店へで うなす 伊木は頷いて、藍色のトランクを提げ、花田のあとに従も行くとしようか」 と、花田は言い、直ぐにそのときの状況を思い出したと みえる。花田一人が女たちに取囲まれ、他の友人たちは置 二十七 き去りにされたのだ。 群「さて、どこへ行こう」 「いや、あの店はやめておこう : ・ 。そうだな、少し腹が 植花田は、路上に立止まって、伊木を顧みた。 空いてきたから、おでんやヘ案内しよう。安直で旨いおで の「君、ほかに行きつけの店はないか」 んやがある」 の花田の言葉に、伊木は時折訪れる一ばい飲屋の店構えを その心使いに、再び伊木は傷つきそうになる。花田がど こうしど しようちゅう すみ ちょう 思い浮べた。格子戸の入口に「焼酎」と墨書きした提のように振舞ったにしても、その都度、伊木は傷つきそう 灯。その雅趣を彼は好んでいた。しかし、もしその店に案になる。それが現在の花田光太郎と自分との関係なのだ、 内したとしたら、花田のことであるから、 と伊木はおもった。 っこ 0 かえり す なわ

3. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

おでんを売る店で、花田はちょっと改まって、 「そういえば、驅の動かし方が、どことなく官能的にみえ 「久しぶりだったな。木暮の通夜のとき以来だから、一年るな」 以上になるか」 「陰気な色気がある。身もちもそんなに良さそうには思え と一 = ロい、 ないんだが」 「井村はどうしている。その後、会った ? 」 「そうかな、証拠を握ったのか」 あわ 違った生活環境にいる学生時代の友人が久しぶりに会う真剣な口調になるのを、伊木は慌てて笑いで誤魔化し と、必ず出る話題である。他に無難な共通の話題が見付けた。花田は愚痴を言うロ調だが、相変らずそこには余裕が たの にくいためなのだが、その瞬間、うすら寒さが二人の間にある。むしろ、焦らされているのを愉しんでいる趣さえあ 通り抜けてゆくのは防ぎ難い。その感じを嫌ったこともあった。 ほかに魂胆もあって、伊木は答えた。 「証拠、というほど大掛りなものはないが : : : 」 「井村はね、この前、痴漢と間違えられて、いや痴漢にな花田は笑いを含んで、伊木をみた。伊木はいそいで弁解 りかかって警官にま 0 たよ」 する。 花田はその話題に興味を示した。 「いままで井村が警官にまった話をしていたものでね」 確かに、かなり広い範囲にわたって、性についての事柄「俳優の梅村晃があの店にくるのを知っているか」 くわ は共通の話題になり得る。伊木は精しく、そのときの状況「一度見かけたことがあるが : ・ : こ を説明した。花田はわざと歎息してみせ、 「どうも、あの男と何かあるのじゃないか、と睨んでいる 「しかし、井村の気持は分るなあ。さっきは、京子にすつのだがね」 かりからかわれてしまった。おれも一つ、痴漢になってや「本当か」 「勘だけだがね」 るか」 のぞ 「口説けないのか。君にしては珍しいこともあるものだ と言うと、花田は急に不快な表情を覗かせ、その話題を 打切った。伊木は、花田と京子とが関係の無いことを確認 と、伊木は何気ない口調で言ったが、確かめる気持は十し、いくぶん心が和んだ。しかし、京子と伊木との関係に 分に含まれている。 や、関係を ついて、花田は少しも疑いを持っていない。い そそ 「そのくせ、唆るようなことを言うのだから、困る」 考えてみる気持さえ、花田には起っていないとみえた。 からだ な・こ ごまか

4. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

消えて行かなかった。 あっても不思議のない存在にみえる。明子は、伊木に男を 「どうしたのだろう」 感じなかった。いや、男を感じないというよりも、自分が っぷや と彼は呟いたが、 はっきり形を成さないながらもその答恋愛したり結婚を考えたりする対象の男たちとは、異なっ ばくん が分りそうな気持がした。あるいは、漠然とした予感があた範囲にいる男と言った方がいい。 からだ 明子にとって、伊木はかけ離れた存在であり、なまなま ったために、少女の驅がそのように彼の眼に映ったのかも こわば しれない。少女は驅を強張らせ、苦痛を訴えつづけ、すこしく男を感じさせるものではなかった。彼の前では、比較 まゆ たてじわ やっかい しずつ擦上っていった。眉と眉の間に深い縦皺が刻まれ、的容易に裸体になれる気持がした。厄介な荷物を取払って ゆが それが少女の顔を歪め醜くした。そして、その皺は最後まくれる道具として彼を利用しようと試みた。しかし、やは で消えなかった。 り道具と見做してしまうことは十分にはできず、明子は自 少女はしばらく凝っと動かなかったが、驅を伊木の方へ分が処女であることを隠そうとした。男をよく知っている 向けると、言った。 女のように振舞おうとさえした。 うそ 「名前を教えてください。あたしは、津上明子です」 用事があって彼に会おうとしたというのは、嘘ではな 「伊木、伊木一郎」 。しかし、会った瞬間、今日の明子は彼に男を感じはじ と、彼はいくぶん慌て気味に答えた。 めた。すでに、かけ離れた存在とは感じられなくなってい 「伊木さん。伊木さんには分ったでしよう、あたしが男をた。そして今は、明子にとって彼は伊木一郎という名を持 った男となって、驅を合わせて横たわっているのだ。 知らなかったこと。それが重荷になっていたの、重荷にな 彼は黙って、聞いていた。津上明子の言葉についての感 る理由があるのよ。はやく無くしてしまいたかった」 とっさ 津上明子は、入り組んだ気持を、自分でもときどき迷い想を、咄嗟には纏めかねた。 ながら説明した。はやく無くしてしまいたかったが、その 「それじゃ、用事というのは」 相手を見付けることができない。男というものは、危険で「あたしの姉を、誘惑してしまって。そうしてほしいの」 不安な存在だった。また、その前で裸体になることを考え彼はとして、少女の顔を眺めた。津上明子は、自分 くちびる ると、恥ずかしさで耐え難くなりそうだった。 が真紅に唇を塗って塔に昇ったのも、自分の処女が重荷 偶然、伊木と口をきくことになった。ずいぶん年上におになったのも、すべてその姉のせいだ、という意味のこと もえた。十八歳の娘からみれば、四十に近い男は、父親でを彼に告げた。 すり あわ

5. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

「いや、伊木は痴漢ではないよ。痴漢の貰いさげ役だ。そ「どんなところですの。ちっとも説明してくれないんだも の節は、お世話になった。迷惑をかけて済まなかった」 の。あたし、やつばり一緒についてゆくわ」 「そうか、伊木は痴漢の保護者だったな。お守り役だ」 「駄目駄目。帰りにまた寄るから、それまできみは留守番 その席で、伊木と京子との関係、さらには伊木と京子とだ」 明子との関係が話題になっていたような錯覚が、伊木に起「いいわよ。だいたいの見当は付いているもの」 もうそう っていたのだ。被害妄想といってよい。その妄想が、井村「だいたいの見当までは付くのだが、正確に予測すること と花田の言葉で消えた。 はとうてい無理だね。井村にも伊木にも、無理だとおもう ね」 「君たち、めずらしい取り合わせだね」 「さっきから、さんざん焦らされているんだ。ともかく出 「珍しくもないさ。このところ、井村から材料を貰ってい 掛けようよ」 るんだ。そのついでに、大いに旧交をあたためている。い 井村が伊木を見てそう言うと、花田は勢よく立上った。 ま証券会社のことを書いているものでね」 と、花田が言った。井村誠一は、某証券会社の課長であ 五十九 る 0 「しかし、なんで僕を待っていたんだ。セールスマンの内三人の男は、花田光太郎の自家用車に乗り込んだ。運転 こうふん 手の隣の席に坐った花田は、自分の発見に昻奮している様 幕も書くつもりなのか」 「そんなに商売気ばかり出しているわけじゃない。君を待子である。 っていたのは、友情のためだ。井村が冬に君と会ったとき「ぜひ君たちにも見せたいんだ。独占しておくには惜し のことを、さかんに話すしね。じつは、面白いところを見い」 物 植付けてね、井村を案内しようとおもっているのだが、・ とう「花田ほどの悪者が、そんなに感心するのは、一体なんな たぐい 上せ出掛けるなら一一人より三人の方がいい。いま、君を迎えのだろう。秘密映画か実演の類だとおもうが : ・ : こ 「その種のものだが、ちょっと違う。ちょっとの違いが大 砂に行こうかと話していたところさ」 「あたしも、お伴しようかしら」 きな違い」 京子が言うと、花田は大きく手を左右に振って、 花田は最後の一節を歌うように言った。酔もだいぶ深く 「駄目だ。女の行くところじゃない」 なっているらしい。 だめ

6. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

「気の置けない友だちだよ」 ならぬ、と呟きながら、彼は花田に抱きすくめられている からだ と言って、離れた京子の嫗をふたたび抱き寄せた。京子京子を見詰めていた。 もた はそのまま、驅を花田に靠れかからせている。観察する眼「どうしたんだ」 を伊木は向けたが、二人の関係については判断が付かな花田の声が聞える。 レト・うは・、 。京子を抱えている花田の掌が、丁度、京子の上膊を着「そこは、駄目なの」 京子が答えている。 物の上からおさえている。 あざ 「どういう具合に、駄目なんだ」 花田の掌の下に、輪の形をした青紫色の痣がある。その ことを花田は知っているのだろうか。その痣は自分が付け「とにかく、駄目なの」 「性感帯かな、へんなところに在るものだなあ」 たものだ、という事実を、伊木は心の支えとした。 そのとき、花田が京子の耳もとに冗談ごとをささやき、 その酔った声を聞いて、京子と花田とは今のところは関 大きく笑いながら掌を内側に曲げ、京子の腕を堅くん係が無い、と伊木は判断を下した。 ふん たばこす 京子の驅を離した花田は、やや憮然として煙草を喫いは ばくぜん じめた。半ば放心し、半ば漠然と何ごとかを思い描いてい 「あ」 京子は小さく叫んで、驅を深く折り曲げた。ゆっくりとる表情で、ゆっくりと煙を吐き出している。 顔を上げながら、驅を捩った。眼が伊木に向けられてい 京子は、花田の顔を窺い、一瞬困惑の表情になって、言 る。眼の白い部分が、薄い灰色にみえる。そして、その眼った。 「煙草を契っている先生って、とっても素敵。あたし、い に潤んだ光がれた。 その眼は伊木に向けられていたが、はっきり焦点を結んつもそうおもって見ているの」 きん でいないことに、彼は気付いていた。 金払いの良い客の機嫌を取っている口調だ、と伊木は思 かす 「痣が燃えている」 おうとした。しかし、そのとき花田の顔を掠めた甘い表情 と、彼はおもった。 によって、その言葉はこれまでにも幾度か京子の口から出 京子の眼は、頭の中に浮び上った影像に焦息が合ってい たのかもしれぬ、とおもった。もっと多くの言葉、花田の くすぐ る。その眼は、いま、左右の腕に輪の痣がついたときの自心を擽る言葉と一緒に言われていたのではないか。 分たちの姿態を見ていることは確かだ。あの痣を消しては伊木は、咎める眼を向け、その眼と京子の眼と合った。 だめ 一′か っぷや

7. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

花田の顔に、一瞬、唖然とした表情が浮び、つづいてそ「かまやしないわ。伊木さんとは、唯の関係ではないも の顔は複雑な歪み方をみせた。 「そうなのか」 「唯の関係ではない : : : 」 つぶや かす おびや 花田はそう呟き、その声に徴かな怒りが籠った。 その言葉は伊木を脅かしたが、同時に、京子に問い糺す 「そうなんだ」 機会は今だ、とおもった。しかし、その言葉は彼の口から そば と、切返すように言い、伊木は立上った。肩を聳かす姿出てこない。一方、京子はペッドの傍に立って、両腕をう 勢になっていた。花田の前で、おもわずそういう姿勢になしろにまわし、上衣の背のホックをはずしはじめていた。 ってしまう自分を、彼はふと悲しくおもった。しかし、もその指先の動きが途中でとまり、京子は首を彼の方にまわ たか う後へは退けなくなっていた。彼は昻ぶった口調で言っすと、話しかけてきた。 こ 0 「伊木さん、意地悪ね。どうして、長い間わたしを放って 「京子、もう帰ってもかまわない時間だろう。さあ、一緒おいたの」 に帰ろう」 「長い間というが : ・ : こ 京子は彼の言葉を押し除けるように言った。 「長い間だわ。だって、わたし、また洋服を着るようにな 伊木は、京子とホテルの部屋にいた。花田の前で、気負ってしまったもの。伊木さんを待っている間は、いつも着 った態度を示してしまったため、京子と二人で酒場を出て物を着ていたのに」 から、にわかに態度を変えることができなくなった。 京子の姿勢は、先刻の見世物の女にそっくりだった。違 そそ 物曖昧な気持のまま、ずるずるとホテルの部屋に入ってしうのは、誘い唆る眼であることだ。視線が合ったとき、京 植まった。 子の白眼の薄い灰色が内側に吸い取られてゆくように消え 上「花田にあんな態度をみせたら、もう店に来なくなりはしてゆき、水色に澄んだ。その眼の中に吸い寄せられ、引き 込まれる心持になった彼は、烈しくまばたきして、 砂ないか。大切な客だろう」 部屋のドアが閉まり、京子と二人きりになったとき、彼「いや、長い間というが、きみとはもう会わないつもりだ は沈黙を恐れた。そして、思い付いた言葉を、とりあえずったのだ」 口にしたのだ。 しかし、その言葉には、拒否する勢はない。まるで弁解 ゆが 六十一一 あ そびや

8. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

その傲慢さを、伊木は憎んだ。 伊木にとっては、花田の話のすべてが、空想の中だけの 二十八 ものだ。 「烏賊は、いっ子を持つかな」 突然、花田が怒りをたたきつけるのに似た口調で言っ たず こ 0 花田が訊ね、おでんやの主人は、 「へ、ほたる烏賊のことですか」 「双生児の姉妹と、寝たい」 「もっと大ぎいやつ。胴の中に、白いかたまりがぎっしり「え ? 」 詰まるのは、いっ頃だったろう」 「右側も左側も、同じ顔、同じ驅だ。重ね合わせれば、上 「あれは、三月の半ばから四月一杯というところですね」も下も同じ軅だ」 「酒は、コップ酒の方がいい。コップを一つください」 と、花田は言い、もう一度、繰返した。 花田は、コップに満たした冷酒を一息に飲み干した。 「おれは痴漢になるそ」 「大根とコンニヤク」 さら 二十九 と、伊木が主人に皿を差出した。そのとき、花田が酔っ た声で言った。 伊木一郎は、「鉄の槌」に足を向けることが多くなった。 「そうだ、おれは痴漢になるそ」 京子との約束ができている場合も、その日がくるまでの間 そして、再び性に関する会話がはじまった。しかし、無に、一度はその店を訪れた。勘定は現金で払わず、ツケに 難な、社交的な話題として取交されているものとは、 カオ なった。その金は京子の責任になるわけだが、 , 彼女はまだ 群り趣が違ってきた。 伊木に催促したことがなかった。 そで 植女だとおもっていたら、男だったことがある。男だとお 京子の傍に坐り、その着物の袖をそっと持ち上げて、ひ あさ の もっていたら、女だったこともある。 そかに輪の形の痣を確かめる。すると、彼の苛立ちが、よ 上 の男か女か、定め難いこともあった。 うやく落着く 男でもあり、女でもある人間には、まだ出会わない。 ある夜、彼が酒場を出て歩きはじめたとき、路地から一 「君、会ったことがあるか」 人の女が現れて立塞がった。 花田が訊ねた。 津上明子である。 ふさ

9. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

慮する ( 複数の線の束 ) 。 クレー「線について」片山あるタ方、定時制高校の英語教師をしていた伊木一郎 敏彦訳』 は、街で彼を呼ぶ声を聞いた。 それと同じに、私も最初の一、二行を書き記し、ふたた 「一郎さん。一郎さんじゃないか、十年ぶりかな」 び茫然とした時間に見舞われる。その後の作業は、何とこ声の主は、彼のすぐ眼の前にいた。顔を突きつけるよう のぞ の「線の旅」に似ていることだろう。クレーは、つづけてにして、伊木の顔を覗いていた。五十年配の男である。白 次のように言っている。 い上っ張りを着て、サンダルを履いている。伊木は一瞬戸 「一つの大きな河が行くてをさえぎる。われらは一つの小惑った。しかし、皺の多い窶れた感じの顔の奥からその男 舟を使う ( 波状形 ) 。高いところに一つの橋 ( 複数のアー の昔の顔が、すぐに浮び上ってきた。 チ形 ) : : : 耕作された畠を通る ( 縞のある平面 ) 。厚い 「やあ、山田さんか。すこしけたな」 さるや 森 : : ・、笊屋が車に乗って帰宅する ( 車輪 ) 。彼らといつ「苦労したからね」 まゆ しょに車に乗っている一人の子供の渦巻いている髪がなか 男の眉のあたりがふっと曇り、彼はポケットを探ると煙 くわ なかおもしろい ( 螺旋状のうごき ) 。それから空が曇 0 て草を一本つまみ出して咥えた。点火したマッチ棒を両手で くちもと あたりが暗くなる ( 広がりの要素 ) 。地平に一つの稲妻かこ 0 て口許〈近寄せるその手がぶるぶる烈しく震えた。 ・ ( 以下省略 ) 』 その手に、伊木は視線を当てていた。煙草から煙が立昇 私のこの小説の場合、一章から六章までは「広がりの要 0 た瞬間、男は、マッチ棒を放り出すように捨てると、両 素」と呼べる。そして、一つの稲妻が閃めく前に、螺旋状手をぐ 0 と上衣のポケットに押し込んだ。まるで、震えた の階段をつたわ 0 て、私は過去〈下降して行く必要があ手をてて隠したように見えた。そして、煙草を咥えたロ の片隅から、言葉を押し出した。 物 「悪い酒の呑み過ぎでね、なあに、仕事に気えはありや 十 の しない」 上 の四年前、死んだ父親の幻の手が、伊木一郎の背をじわじそう言いながら、伊木の無帽の頭をジロジロ眺めていた わ押して、川村朝子の前に押し出した。その幻の手は彼の男は、 背をとんと突ぎ、彼はそのまま川村朝子の胸もとに倒れか「死んだお父さんにそっくりにな 0 てきたね。頭の好も かった。それは、次のような具合にして、起った。 そっくりだ。そのあたまはムッカシイんだ。お父さんの頭 らせんじよう しわ た

10. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

136 だけが、明るく照らし出されている。不意に、伊木たちの 「分った」 と、井村が言った。 部屋の電灯が消えた。そのために、隣室の照明が一段と明 るく眼に映ってくる。 「人間の女と動物との実演だろう」 たたみ 「黒白、白白、大白か。人間の男と動物とはちょっとの違その光の中に、一人の女が現れて、畳の上に立った。剥 はじ き出しの両腕と顔とが異様に青白くみえた。その皮膚の弾 いが大きな違い、という解釈だな。しかし、違う」 くちびる 車は電車通から左へ折れ曲った。角にある消防署の車庫き返した光が、伊木の眼に眩しく、青白い顔に唇だけが のなかの薄暗い空間に、 二台の消防自動車が真赤な車体を真赤に塗られてあった。しかし、女将の言葉のとおり、 滑らかに光らせて並んでいるのが、伊木の眼に映った。 かがわしい実演の演技者の発散させる雰囲気からは遠く、 車がようやく擦れ違うほどの幅の道を、花田の車は進ん上品にさえみえる。 でゆく。人通りのすくない、淋しい道である。やがて、車「何がはじまるのか」 しなや しようしゃ と、伊木がおもったとき、女は両腕を撓かに背後にまわ は瀟洒な日本家屋の前で停った。目立たぬ小さな看板によ って、その家屋は旅館と知れた。 し、洋服の背のホックに指がかかった。指先の動きが一 しゅこう 女中が三人の男を座敷に案内し、酒肴が連ばれてきた。瞬、停止し、そのままの姿勢で女は伊木たちのいる部屋に きようまん ふすま 長い時間待たされ、ようやく隣座敷との仕切りの襖が開い視線を向けた。暗い、しかし驕慢ともみえる燃えるような 眼で、その眼の中に軽侮する光が走り抜けたのを、伊木は た。薄化粧をした上品な老女が、端坐している。 確かに見たとおもった。 「この家の女将だ」 ていちょう 花田が小声で説明した。女将は三人の客に鄭重に頭を下次の瞬間、女の指先は素早い動きをみせ、つぎつぎとホ ックが脱されてゆき、たちまちのうちに衣服の中から女の げ、口上めいた言葉を述べた。 からだおお ぬのきれ 「これからこの部屋に、女のかたがみえることになります裸身が現れ出た。女の驅を覆っていたものは、小さな布片 すみ しろうと が、そのかたは素人のお嬢さまです。明日から、街でもしにいたるまで部屋の隅に投げ捨てられ、畳の上にじかに女 は裸体を横たえた。そのときはじめて、畳の新しさに、伊 も姿を見かけることがありましても、けっして声をおかけ にならぬように : 。くれぐれもお願いいたしておきま木は気付いた。女の皮膚に密着し、女の肉の重さを支えて ぐさにお いる畳は、真新しい青いひろがりである。藺草の匂いは冷 から 女将の姿が消え、誰もいなくなった隣室の畳のひろがり たく、女の腮の匂いは暖かく、その二つの匂いが絡まり合 なめ おかみ さび はす