小学校時代左から , 兄茂太 , 母 , 姉 , 本人 , 妺 1 ノ」咩校入学以前 , 夏の避暑地で , 左 から本人 , 母 , 姉百子 , 兄茂太と ているのだが、ここで肝腎なのは、若きマンは決して 前者をよりけだかいものとしているわけではなく、や がて一個の確立された作家となったトニオは、世の凡 庸な人たちを、多少の軽蔑をましえながらもやつばり 憧憬の目で眺めている。 逆に、芸術家というものは、ジプシーのような存在、 世のまっとうな人からはなにか嫌悪をもたれる香具師 のような存在としても描かれている。事実、すでにす ぐれた作家となったトニオ・クレーゲルが、若いころ 去って二度と近寄らなかった故郷の町を十三年ぶりで 訪れると、詐欺紳士と間違えられて警官に尋問される のだ。〉 ( 傍点・磯田 ) ここで読者の興味をひくことは、北氏が「若きマン は決して前者 ( 芸術家 ) をよりけだかいものとしている わけではない」占を、ことさらに強調していることで ある。「市民」と「芸術家」という対立は、近代にお けるなかば宿命的なものであった。しかしこの場合、 「芸術家」を「市民」よりも優位に置くか、あるいは 「市民」にたいして何ら誇るにたりない存在と見るか によって、道はおのずから別れざるをえないであろう。 北杜夫氏のト ーマス・マンの読み方は、明らかに後者 の立場に立つものである。ここに北杜夫氏の文学の新 しさ、というより北氏が近代芸術家の孤独からいかに なカ
物語の世界となると大物がいる。マーク・トウ = ーン語の岡からなっているその地所の片方ずっしか買いとること るところのイシュリエルとかいう叔父さんは、蒐集品が全ができなかった。どちらの男も半分だけコダマを所有する 部そろっていることに値打ちをかけた。まず牛の首につることに満足せず、口論し、争い、控訴しあい、これがたい す鈴を五つの広い座敷一杯あつめたが、ただ一つ、古風よ オへんな裁判となって、せつかくのコダマも以来反響させる たった一つ残っている見本をほかの蒐集家が手に入れてしわけにいかなくなってしまった。 もう、 まった。相手はどうしてもそれを売ってくれない。叔父さ んは悲観して、牛の鈴のことをあきらめ、他人が手をつけ かくのごとく各種さまざまの蒐集家がいる以上、虫をあ ひうちいしておの ていそうにないものをやりはじめた。彼は燧石の手斧とつめる人間がいたとてなんの不思議があろう。虫ケラ蒐集 くじらはくせし か、アズテック人の碑文とか、鯨の剥製、さてはレンガの家がゴマンといたとて、彼らがあつめる虫の種類に事欠か かんべき 破片などをあつめてみたが、いつもいよいよ蒐集が完璧だないのである。 と思えたとき、新しい品物があらわれ、新しい別の蒐集者 一体虫にはどのくらい種類があるのだろうか。 がそいつを手に入れてしまった。叔父さんの黒かった髪の ミシ = レの時代にはまだ十万種くらいしか知られていな 毛は、こうして雪のように白くなった。 かった。「だが、あらゆる種類の植物が少なくとも三種の そこで彼はしばし休んで考えた末、これなら絶対と思え虫を養っていることを考えると、三十六万種の昆虫が存在 るものを選びだした。それはコダマであった。何だって ? することがわかる」と彼は書いているが、現在ではおよそ 記 虫つまりヤマビコなのだ。まず最初に買いいれたのは、四度六十万種、いや少し多目に七十万と言っておいたほうがよ ウくりかえすジョージア州のコダマで、次のはメアリランド いだろう。な・せなら、まだまだ新しい種類がどんどん発見 ノ川の六回くりかえす奴であり、次にはメイン州の、というされているからだ。昆虫学者、昆虫研究者、昆虫採集家、 マ具合に買いすすんでゆき、値の安い小さな二連発のコダマ昆虫蒐集家、昆虫愛好家、虫ズキ、虫キチガイ、虫・ ( 力が とは山ほど買いこんだ。そうして予定どおりとほくそえんでそれだけいる証拠である。 といたところ、突然、大コーイヌア、すなわち反響の山とし その名称に応じて、彼らはいろんな虫の集め方をする。 て世界に知れわたった神々しい = ダマが発見されたのであカイコの芋虫にしか手をださぬ学名もいる。雄性生殖器を 四る。同時に、もう一人の 0 ダ蒐集家がいることが判明ししらべるためにだけシジミチ ' ウをとる研究者もいる。採 た。二人は争 0 てこの 0 ダマを買いこもうとしたが、二つ集家となると、初めは虫と名がつけばやたらと網にいれて こう・こう
けいだい およそ千米離れた神社の境内に、避難しようとしているの僕の家の方角へ走り出すことをあきらめた若い女中は、 しす 貯だ。神域へは直撃弾を落すまいという考えも含まれている繰かえし繰かえし呟きながら歩いていた。怒りが鎮まる ほのお はす 筈だ。しかし、その神社は烙が進んで行く方角に在る。そと、腕にかかえている十二枚のエボナイトのレコードの重 さを、ずっしり感じはじめた。気がつくと、母は掛布団を れが僕をためらわせた。 そとぼり 左手の方角は、江戸城の外濠の名残りの水濠で、その向かかえて歩いている。レコードを持ち出したときの気持の うちの一種のダンディズムは、僕の心からすでに消えてい う側にひろがっている町並にはまだ火は燃え移っていな い。かなり幅の広い水濠は火が飛び越すのを掴むかもしれた。しかし、僕は依怙地になって、その荷物を捨てようと ぬ、と僕は考えた。僕は母を促して、人々の流れに逆らしなかった。この空襲で死なないにしたって、僕たちの生 にはすぐ向うまでしか路はついておらず、断ち切られてい 、水濠に架けられた橋を渡り、暗い街に歩み入った。 街路にはほとんど人影は見あたらず、家々はしずまりかるのだ、という考えを捨てないために僕はその重い荷物を えっていた。あまりに静かな町を歩ぎながら、僕は間違っ捨てなかったのだ。 のが た不吉な方向に逃れて行っているのではないかという不安僕たちは人の気配のない街を歩いて行った。焼け出され た人々は、この方角には逃れて来ず、この町の人々は自分 に襲われはじめた。 の家に潜んでいるのだ。僕たちは小高い土地を登っている あきち うちにかなり広い空地に行き当った。どういう場所かはっ 不意に悲鳴に似た声が耳もとでおこったので、僕はぎく ・こう きりしなかったが、あちこちに樹木が生えており、防空壕 りとして、あたりを見まわした。叫んだのは若い女中で、 走り出そうとしている彼女の腕を、母が片手で引きとどめらしい素掘りの穴もあった。僕たちは、そこの土の上に腰 をおろした。 ている。 「離してください。貯金帳を置き忘れて来ちまったんで僕たちの坐っている小高い土地は、水濠へ向って低くな っている斜面の途中にあり、街の展望が眼の前に拡がって 「君は焼鳥になりたいのか、もう燃えてしまっているにきいた。火は、すでに僕の家を通りすぎ、坂の下から水濠に 沿って、対岸の家々を一つまた一つと焼き崩しながら進ん まっている」 ちゅう でいた。黒いてんてんの鏤められた啗が天に沖し、その焔 僕は腹の底から怒りがこみ上げてきて、怒鳴った。 は突風に煽られて水濠を渡りこちら側の町に燃え移ろうと 「三百円も蓄っていたのに」 たま ひそ っぷや みち ちり【
昭和三十一年頃、慶応病院助手時代神宮外苑で 昭和三十五年七月、芥川賞受賞 芥川賞受賞当時、兄茂太の家に居候して いたころ 昭和三十九年、新潮社刊 北社夫 楡家の人びと 昭和三十六年頃、兄茂太宅の庭にて
416 一月、慶応病院助手を辞任。兄の斎藤神経科医院に居候し、診察を一月、「どくとるマンボウ途中下車』を中央公論社より刊行。一一月、 手伝う。四月、横山薫二の長女喜美子と結婚。短編集『遙かな国遠母を伴い、中近東、アフリカに旅行、三月、帰国。「もぐら」を い国』を新潮社より刊行。六月、「活動写真」を「小説新潮」に発「新潮」に発表。六月、『天井裏の子供たち』を新潮社より刊行。七 表。八月、「楡家の人びと」の執筆を開始。ェッセイ集『あくびノ月、「霧の中の乾いた髪」を「小説新潮」に、「私は躁病である」を ト』を新潮社より刊行。十月、兄の家から離れ、世田谷区松原町「新潮」に発表。十月、「奇病連盟」を「朝日新聞」に連載 ( 翌年四 に家を持つ。『どくとるマンボウ昆虫記』を中央公論社より刊行。月完結、六月刊行 ) 。十一月、書きおろし長編『白きたおやかな蜂』 十二月、南太平洋の島々へ旅行 ( 翌年一一月帰国 ) 。 を新潮社より刊行。「茂吉と光太郎」を「新潮」に発表。 四十歳 昭和三十七年 ( 一九六一 l) 三十五歳 昭和四十ニ年 ( 一九六七 ) 一月、「楡家の人びと」第一部を「新潮」に連載 ( 十一一月完結 ) 。四三月、前年三月から「オール読物」に分載した「産盗ジ・ハコ・』を文 月、長女由香誕生。三月、「どくとるマンボウ小辞典」を「朝日新春秋より刊行。五月、日本文芸家協会理事になる。六月、「どく 聞」に連載 ( 翌年十月まで ) 。六月、『南太平洋ひるね旅』を新潮社とるマンボウ青春記」を「婦人公論」に連載 ( 翌年三月完結後刊行 ) 。 より刊行。七月、『船乗りクプクプの冒険』を集英社より刊行。 八月、「無為徒食」を「風景」に発表。 三十六歳 四十一歳 昭和三十八年 ( 一九六 = l) 昭和四十三年 ( 一九六八 ) 二月、オホーック海流氷調査の「宗谷」に同乗。九月、「楡家の人一月、「こども」を「新潮」に発表。四月、「黄いろい船」を「新潮」 びと」の第一一部「残された人々」を「新潮」に連載 ( 翌年三月完結 ) 。に発表 ( 七月、刊行 ) 。アメリカに旅行 ( 六月帰国 ) 。五月、「少年」 同時に第三部の執筆を進行。兄の家での定期診察を中止する。 を「婦人公論」に発表。十月、「さびしい王様」を「小説新潮」に 昭和三十九年 ( 一九六四 ) 三十七歳連載 ( 翌年五月完結、九月、刊行 ) 。 四十二歳 三月、「死」を「世界」に発表。四月、『楡家の人びと』を新潮社よ昭和四十四年 ( 一九六九 ) り刊行。「高みの見物」を「河北新報」「信濃毎日」「愛媛新聞」「北六月、「柳の下」を「オール読物」に発表。七月から八月にかけて、 海タイムス」に百ニ十回連載。七月、香港、マカオ、台北を旅行。アメリカ、ヨーロッパ旅行。「アポロ基地で”貴族乞食れに失敗」 十一月、『楡家の人びと』により第十八回毎日出版文化賞を受賞。 を「週刊新潮」に発表。十月、ヤツ・フ島、グアム島を旅行。 昭和四十年 ( 一九六五 ) 三十八歳 四十三歳 昭和四十五年 ( 一九七〇 ) 一月、『どくとるマンボウ航海記』を角川文庫、三月、新潮文庫と一月より朝日新聞に「月と 2 セント」 ( マンボウ赤毛布旅行記 ) を して刊行。「天井裏の子供たち」を「新潮」に発表。五月、初期作連載。一一月、「お元気な頃の保高先生」を「文芸首都」終刊号に発 品集『牧神の午後』を冬樹社より刊行。京都山岳連カラコルム遠征表。七月、辻邦生との対談集『若き日と文学と」を中央公論社より 隊に医師として参加し、デイラン蜂に登り、七月、帰国。 刊行。 昭和四十一年 ( 一九六六 ) 三十九歳 ( 本年譜は編集部が作成し、著者の校閲を得た )
「なんだ、つまらない。一人じや仕方がないよ。それじ壁に、女優の水着写真がべたべた貼り付けてあった。古い や、この次の次の日曜にしよう」 映画雑誌のグラビアから、切り取ったものらしかった。 すもう 「そうか、済まないね。あ、それから、角力の・フロマイ「兄貴がやったのさ」 ド、まだ借りたままだけど : ・ : こ と、は言う。その兄という人が何をしているのか不明 大型の名刺ほどの大きさの印画紙に、化粧まわしをした だったし、その姿を見たこともなかった。 角力取の立姿が焼き付けられてある。子供たちは、それを は肥って体格が良い。むくむく肥っているといった感 からだ あいきよう メンコ遊びに使っていた。 じで、軅つぎに愛嬌があった。顔はまるく、頬は盛り上っ びりよう 「いいよ。あれは、いつでもいいよ」 て両側から鼻梁に迫り、小さな眼がいつも笑っていた。 と、は答えた。 はと別れて、坂の中途に在る自分の家へ向った。 もう一度は茶色の犬の耳を引張り、路地の中に姿を消 した。坂の上にあるその路地の奥に、の家はある。この次の週が来るのを待ち兼ねて、はにたずねた。 界隈は、混み入った町である。坂の下から坂の両側にかけ「今度の日曜は、大丈夫だね」 ては、住宅が立ち並んでいる。坂上の道の両側しばらく「うん、それがね・ : : こ そは は、商店が並んでいる。道に面したガラス戸のすぐ傍にミ は生返事をした。 たびや シンを置いた足袋屋では、若い職人がいつもミシンを動か「それが、といったって、この前ちゃんと約束したじゃな して、白い足袋を縫っていた。 し力」 商店の軒並はすぐに尽きて、長い石塀になる。大きな邸「うん。あと、一「三日たてば、はっきりするんだけど たく 宅の屋根が、その塀の内側にみえる。坂の上の一帯は、屋 けしき あいまい 敷町である。 が気色ばむと、は曖昧な調子で答えた。 商店街と屋敷町との境目に、路地がある。その路地の中家へ帰って、が祖母にの煮え切らぬ態度を訴えた。 は、貧民窟といってよい場所なのだ。 祖母は、しばらく考えていたが、 の家は、その路地の奥にある。 「それはおまえ、さんは電車賃が無いのじゃないかし そして、の家は、坂の中途にある。 ら」 むねわり の家は棟割長屋の一軒である。崩れ落ちそうになった「まさか」 いしぺい けしよう ほお
あた なせ、大島でなくて c 島でなければならないのか。熱 カわ = 品泉と書くかわりに < 盈泉と書くことに、どのよう な意味があるのか。それは、 / 一三ロ ト見家の内的世界の中に とくめ ある匿名性と関係のあることだ。そして、この匿名性 を求める作家の内的衝動は、決して一種類だけのもの ではない。 リアリズムの作家でも、実名の人物、実名 の土地を避けることもある。しかし、それは現実その ものに対する配慮からだ。だが、リアリズムを超えよ うと企図する作家の、匿名的世界への志向は、本質的 なものだ。吉行淳之介という作家は少年時代に、大島 " 丿、冫 / : イたたか、父親と少年と父親の愛人 / 二二ロ ト見の中で、 C 島と < 盈泉に行くのでなければな らない。その小説の中に、実名が割り込んで来ると、 その小説の世界の微妙にたもたれていた均衡は、くす れ去ってしまうからだ。 吉行淳之介は「砂の上の植物群」の中で、クレーの 次のような言葉を引用している 《芸術家は眼に見えるものを超えなければならない その超越作用を自己の内面でおこなってから、この作 用を自己の内に埋めなければならない 眼に見える世 界は、芸術家にとっては、見えるという性質の中だけ で汲みつくされはしない更に進んでイメージに達し
ひそ たの の頭に浮び上ってくるまで、それは影を潜めていたのであうことよりも、むしろその美しい妹の姿を見るのが愉しみ きようこ きやしやからだ る。 だったとしても。木暮の妹恭子は、木暮と違って華奢な驅 そば タ焼がはじまって、海がその色を映した。港の傍の公園つきで、性質も内気でむしろ陰気だった。木暮の家では、 かつばっ で、ペンチに坐ったまま、久しぶりに浮び上ってきた推理恭子は茶や菓子を連んでくるだけで活に会話を交したこ ひか 小説の序章を余裕のある気持でなぞってから、彼はその日ともなかったが、時折そのまま椅子に坐って控え目な笑顔 のことを思い出した。 を示していることがあった。そういうとき、椅子に坐った その日 まま首をまわして、井村が熱心に飾り戸棚を見詰めていた たど 早朝、不意に井村誠一から電話がかかってきた。学生時ことがある。彼が井村の視線を辿ると、飾り戸棚のガラス 代の友人だが、長い間逢っていなかった。 が鏡の役目をして、恭子の横顔が映し出されていた。その こぐれ 「木暮が死んだよ」 井村の思い詰めた表青に、彼はたじろいだ記憶がある。 きまじめ 井村の声が生真面目な調子でひびいた。木暮とも長い尸 卒業してからは、木暮と疎遠になった。やがて、恭子が うわさ 逢っていなかったので、判断に迷った。 結婚したという噂を聞いたが、いずれにせよ通夜で恭子の 「病気か」 姿を見ることができるわけだ、と彼はおもった。 よびりん 「事故だ、山で遭難した」 その日の夜、木暮の家の玄関に立って、彼は呼鈴に指を 木暮の頑丈な体格を、彼は思い出した。学生時代、木暮当てた。十五年前と同じように、一瞬ためらった後、指の は山岳部に入っていた。当時、しばしば井村と一緒に木暮腹で強くボタンを押した。十五年前には、その瞬間にかな かす の家に遊びに行った。井村も彼もスポーツには縁がなかつらず恭子の姿が脳裡を掠めて過ぎたものだ。 たが、木暮と交遊があったのはその陽気で人づきあいの良家の中には沢山の客がいた。見覚えのある顔も幾つかあ しゅこう い性質のためもあった。だが、それだけではない。 ったが、恭子の姿は見当らない。見知らぬ女が、酒肴の世 受話器のなかでは、井村の声がつづいていた。 話をして立働いているのが目立った。木暮の細君だろう、 ふく 「今夜が通夜だ。木暮の家で会おう」 と彼はおもった。異常なまでに肥った女で、膨れ上ったと その井村の声は、通夜に行くのを当然とおもっているロ いうのがふさわしい驅に似合わず、身軽に動きまわってい 調だった。それは、そうだ。行かずに済ますことはできなた。それが陽気にさえみえるので、一層目に付いた。 、。学生時代にしばしば木暮の家を訪れたのは、木暮に会彼が部屋の入口に立ったままでいると、その女が近付い のうり とだな かわ
を第第 0 、一、ん 上大学 3 年頃 , 箱根・強羅の山荘にて父茂吉と 右昭和 20 年 7 月 , 松本高校時代西穂高にて 3 は、同時に私小説系列の作家たちの、あの「芸術家」 意識と等価なものでもあったのである もとより斎藤茂吉の次男として生れた北杜夫氏は、 その素質の上では茂吉の抒情性を継承している。しか し三代目の人間である北氏の眼には、おのすから二代 目知識人の精神像は、その功罪がともに見えていたの である。大学の医学部に進んだ北氏にとって、科学的 な認識 ( つまり近代的な世界認識 ) は、なかば気質の しかし同時 次元にまで喰いこんでいたにちかいない。 に、科学的な認識を職業とせざるをえないという運命 ゆえに、氏の内部にひそむ「芸術家」の血はそれに反 逆する。素人が科学を手中に収めるとき、彼はしばし ばそれを万能と信しこむ。しかし医学を職業とするこ とを自覚したとき、北氏はそれと同時に、職業とは別 の領域が人間の心に存在することをも自覚したのであ る。しかも氏の内部にひそむ芸術家の孤独は、到底父 親のばあいのように、おのれを特権化することはでき ない。氏の暗い内面は、昼の世界を生きる市民にたい して、何ら誇るにたりるものではありえない う、いわばトニオ・クレーゲル的孤独をもって、北桂 夫氏は文学の世界に入っていったのである 437
試みていた。 し、疲労がおもたく覆ってぎて、やがて眠りに引込まれて かんけっ いった。 烙は間歇的に高く噴き上り、僕たちのいる町の方へ襲い かかった。僕たちは黙ってそれを見ていた。どの位の時間 眼を開くと、あたりは光のない白い朝だった。曇日であ が経ったのであろうか、火焔はついに水を渡って、こちらる。母と若い女中は、すでに目を覚して土の上に坐ってい 側の家並に燃え移った。焔が飛火した場所は、僕たちのい た。僕たちは、自分の家のあった方へ歩ぎはじめた。三百 る場所からは、かなり右手に外れてはいたが、その方の空米ほどは、歩いてゆく街路の両側に家が建ち並んでいた。 はたちまち赤く光りはじめた。 しかし、それが尽きたあとは前方に拡がっている風景は、 「困ったわ、困ったわ、燃えてきたわ、貯金帳が燃えちま黒一色だった。人家の影は一つも見ることができなかっ った。四百円も蓄っていたのに」 た。ところどころ、焼け残った土蔵が立っているだけであ 若い女中が呟きはじめた。その金額が先刻よりも百円増った。水濠の橋を渡り、坂の下に立って僕はうしろを振返 えていることに気がつくだけの余裕は、僕の心に残ってい ってみた。おどろいたことに、水濠の向う側の斜面の街 た。僕たちのいる空地に逃けてくる人影が、三々五々見えは、僕たちが夜を過した場所とお・ほしきあたりを中心に狭 くさびがた はじめた。風がしだいに強くなり、またその吹いてくる方い地域が楔形に焼け残っているだけであった。 向が目まぐるしく変るようになりはじめた。火烙の上の空神社の方角から、避難した人々がそろぞろと戻ってきて ぼうちょう 気が膨脹して、対流による風をまき起すのである。樹木の いた。それそれ大きな風呂敷包や布団をかかえている姿だ 枝があちこちの方角に音をたてて揺れた。 った。あたりが明るくなってしまったので、僕のかかえて そうてい るレコード 他の場所へ移動することを考えはじめたとき、だんだん の四角いアル・ハムのオレンジ色の装幀が異様 風の勢が鎮まってきた。水濠の対岸の火は、家々を嘗めつ に目立つのである。僕の腕に抱かれているその無用の品物 おびや 中くして、すでにずっと左手の街に移動していた。 は、異端の旗印のように僕を脅かしはじめた。しかし、僕 の「もうここまでは燃えてこない様子だ、少し眠ることにしはなるべくさりげない顔つきで、じっとその重さを我慢し よう」 ていた。それは、疲れた腕には、異常に重たくこたえてき 陷 と僕が提案した。素掘りの防空壕に入ってみると、粗末た。 な木のペンチが取付けられてあ 0 た。僕はその上に、レイ僕たちは、自分の家の焼跡の上に立った。防空壕の蓋の ンコ 1 トのまま転がった。僕の神経は昻ぶっていた。しか上には、土がかけてあった。若い女中は、その場所に走り っぷや かえん