歩い - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集
382件見つかりました。

1. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

382 そんなことを言ったって、大体トン・ホがいなくなった。 「アヒルを飼ったらどうかしら。町じゃよく売れるわ。ア 悪童たちのせいではなく、ビルだの高級アパートだの高速ンリに番をさせて、川につれていかせたらいいじゃありま 度道路だののせいである。 せんか」 トンポがいたら、子供たちょ、追いかけろ。それが子供「いかさま、さよう」 であり、残された最後の本能というものだ。 なんという素晴らしい話 ! その案は実現して、幼いフ アー・フルはよちょち歩くアヒルの群を、ごっごっした道に さよう、子供たちは本能的に虫をとらえる。それらが美かかとにマメをこしらえながらビッコをひいて追ってゆく たなすみ しく、奇妙で、動いたり飛んだり跳ねたりするからだ。い ことになった。棚の隅にしまってある婀は、お祭りの日や かめしい角があったり、まばゆく輝いたり、優雅にまたや日曜日にしかはくことを許されぬのだ。 かましく鳴きたてもするからだ。 しかしとうとう沼について、アヒルの子が口をばくばく 捕えた虫は、羽をむしってもいいし、油でいためてもい させて泥をすくいだし、何もかもうまくいっているとなる いし、籠にいれてじっと眺めてもいい。 それは子供たちのと、今度はアンリの目が輝きだす。彼は水底の泥のなか 自由で、虫をふんづぶしたからといって、あるいは虫にキに、天色のぬるぬるしたヒモみたいなものを見つけだし うんぬん スしてやったからといって、それだけで彼らの性格を云々 た。指の間をつるつるすべって掴まえにくい。節がやぶれ してはいけない。好奇心、これが人類をあやつってきた最ると、ビンの頭ほどのくろい玉に平べったい尾がついたば 初のカである。 かに小さいオタマジャクシがでてくる。このによろによ 幼いジャン・アンリ・ファープルの憶い出をきいてみよろした紐の正体はこれでわかった。つぎには沼の横の ( シ きれい ・ハミの林の中で、たとえようないほど綺麗な青色をしたコ きびしい気候にいためられ、畑にもろくな作物のできなガネムシを見つける。天国にいる天使はきっとこんな着物 いその村では、めぐまれた地主はヒッジを飼っていた。そをきているにちがいない。 こいつはカタッムリの殻に入れ の糞をこやしにしてジャガイモを作る。ジャガイモが家でて葉っぱでふたをする。まだまだ珍しいものはたんとあ 食べる以上できたなら、その余分で・フタを飼う。ところがる。石をこわしてみると、そのくぼみの底に、教会堂のシ ファー・フルの家では家畜一ついないのだった。 ャンデリアの垂れ飾りのようなキラキラ光る結晶が見つか 父と母とはある晩相談をする。 った。すぐさまポケットに入れる。まだまだいろんなもの ふん つの ひも

2. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

298 にほとばしって、それがちっとも赤くないのを私はまたい ぶかしく思った。鉗子ではさんでも、じわじわした出血は なかなかとまらず、それでいて私はやはりのろのろと手を 動かし、筋肉の層を切りひらいていって、ようやく白っぽ ふくまく い腹膜があらわれ、ごくそっとメスの刃先でなでると、・ほ ふくこう つかりとうすぐらい腹腔があき、中にはうねうねした腸な ど少しもなく、手を入れて探ってみると、奥のほうになま 暖かい肉塊が指先に触れた。そのぬるぬるした奴をひきだ たいじ してみると、それは小さく丸まった胎児で、どすぐろい血 塊があちこちにつき、それでも、顔のへんを見れば、ちゃ 遠くから幻聴のようにかすかな鐘の音がきこえ、それはんと一通り目や鼻がついているのだった。その塊りは初め 断続的にずっと以前からきこえていたようで、あれは何かびくびくしていたが、やがて私の手の中で動かなくなり、 すみ なと意識の片隅で私はいぶかった。その間にも私はせかせ生暖かかった体温が見るまに冷えてゆくのが感じられてぎ ちみつ かんし かと緻密に銀白色にひかるメスや鉗子を並べ終り、そしてた。私はその死んだ肉塊を抱いたまま、蠍のような少女の ふりむくと、手術台と思っていたのが非常に古風な黒ずん顔をのそきこんだが、これも目をつぶったまま呼吸を停止 あま がくん だ木製の寝台で、そこに亜麻色の髪をした少女が毛布にくしているようで、このときになって私ははじめて愕然とし るまってじっと仰向けになっていた。ほそおもての顔がなて目を覚ました。 ろう みひら んとも蠍のようで、少女はそのまま瞠いていた目を閉じ、 「ドクター」 ひとみ うすやみ 閉じてしまうと、その瞳が何色をしていたのか私にはもそう呼ぶ声は薄闇の中からひびいてきて、気がつくと私 あわ う思いだせなかった。手をのばして毛布をめくると、すぐは船室の狭苦しい・ヘッドの上に横たわっており、慌ててカ に真白な腹部が見え、手術野がすでにガーゼで四角く区切ーテンをひくと、つい今しがたの夢の中の顔のように、色 ひげ られていて、その薄い皮膚の上にごくわずかメスを触れたのない、しかし髭だらけの男の顔がのそいていて、その男 だけで、柔かい刺でも切るみたいによく切れ、そのうちはもう一度ためらいがちな声で私を呼んだ。 おもちゃ に少し太い血管にあたったらしく、血が玩具の噴水のよう「ドクター」 河口にて

3. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

足でゆく女の姿が目にはいった。佐々木が馬をひきとめ こ 0 佐々木は先に立って足早に歩きだした。 「坊や、君も乗れるな ? 」 「もう少し行くと一本道だ。少しずつ距離をつめよう」 「ついてくくらいなら」 「おまえにまかしたよ」 「君もそろそろ年頃だから覚えておくがいい。今のような と、めつきり元気がなくなった山口が鞍頭につかまるよ 女は小娘あっかいにするんだ。本当の小娘に呼びかけるとうにして言った。 きは、奥さん、と言ってやる。要するに、歯のうくような「俺はクジラでも釣りにゆくような心地がするよ」 ことを言えばいいんだ」 逡巡する馬をはげまして木橋をわたると、山腹をきり 貸馬の小屋にはちょうど三頭の馬が残っていた。 ひらいた道がつづく。すでに強烈な日ざしが草いきれを立 あふ 「おじさん、大急ぎー」 ちのぼらせ、虻がうるさくまつわってくる。渡は片手をの くらおび びんしよう たた 佐々木は自分で鞍帯をしめあげ、意外に敏捷に鞍にとびばして馬の平頸にとまった虻を叩きおとした。馬の汗ばん あふみ てのひら のって鐙の長さをあわせた。 だ肌の暖かさが掌にのこった。 むぎわらまう 「暑くなりそうだな。その麦藁帽を借りていこうか」 だんだんと距離が狭まってきた。女が後ろからくる人馬 ひらくび そして、乱暴に馬の平頸を手綱でなぐって走りだした。 に気づき、上体をふりむけてこちらを眺めるのが見えた。 だくあし 山口と渡がそれにつづいた。 と思ううちに、軽い鉋足で遠ざかりはじめた。そして道を 今年ははじめて馬に乗るので、うまく反動がぬけない。 折れるときギャロップにはいったようだった。佐々木が合 髪やや広い道にでると、渡の背の低い年老いた白馬は、前の図をし、こちらの三頭の馬も走りだした。 馬に追いっこうとして自分からギャ。ップにはい 0 た。そ道は林道となり、はるかむこうに疾駆してゆく女が見 乾のほうがよほど乗りよかった。 え、すぐに曲って消えた。佐々木が馬をはげます声がきこ 中「あんまり早く走るなよ。どっちに行ったかわかるのか」 え、渡の背の低い馬は次第に遅れがちになる。少し前方を かっこう の これも危なげな恰好で前を駈けている山口がどなる。 背を丸めて鞍にしがみついている恰好の山口がわめきたて 霧 「星野温泉のむこうの道だ」先頭の佐々木がふりむいてどた。 しり 引なりかえした。「俺のもの悲しき直感を信じろ」 「糸が切れたほうがマシだ。俺はもう尻が痛いよ」 なるほど温泉の入口までくると、テニスコ 1 トの横を並風にちぎられた佐々木の声が返ってきた。 しゅんじゅん

4. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

執すれば賢者となることを得ん」というウィリアム・プレ た。コムラサキの紫は陽光の加減で虹いろに光る。こうし りんし イクの教えを体得できなかったのである。 た鱗翅の光輝に、私はいまは幼児のごとぎおどろきの目を 食糧難や私たちの愚行にかかわりなく、アルプスの峰々むけることができた。ついでにこのコムラサキという蝶 まだ は、あるいは白銀にかがやき、あるいは残雪に斑らに化粧は、往々へッセの訳書などにニムラサキとして登場してく 」しよく され、あるいはあらわに岩肌をむきだしにして連なって いる。よく同じ誤植をやるものだと思っていたが、串田孫一 からまっ こずえ た。なにもかも凍てつく冬がすぎると、落葉松林の梢がぼ氏の『博物誌』によってその疑問が氷解した。つまり独和 っとうす緑にけむりだし、ひと雨ごとにその柔かな玉芽が辞典のなかでもっとも信用されているものに、 Schi11er- ふくらんでゆく。越冬したヤマキチョウがとびだし、さら falter がニムラサキとなっているためなのだ。 に春を告げるヒメギフチ ' ウが姿をあらわしてくる。それ私はときどき見なれぬ蝶の幼虫も見つけた。当時まだ生 から郭公が渡 0 てぎて、谷から谷へとそのさびた声を反復活史が明らかでなか 0 たヒョウモンチ ' ウの幼虫らしかっ させる。 た。その幼虫を寮に持ち帰ったけれど、人間も餓えている ふうてんりよう こうした自然を前にして、私はある条件がみたされれ瘋癲寮では幼虫を育てることはむずかしかった。 ば、すなわちいくらかの米が手にはいれば、愚行を中止し なかでも惜しいのは、テントウムシの成虫に寄生すると てリュックサックを背おい、そのふところへわけいった。 思われるコマュ・ハチのことである。寄生蜂は他の昆虫の卵 すでにすべての標本を失い、満足な採集道具も持たぬ私や幼虫に産卵するが、成虫に寄生するのはごく少ない。あ 記 虫は、以前のようにひたすら珍貴な昆虫を集めようとする気るときテントウムシのお尻に小さな黄色い繭がついている ウを抱かなかった。それは本当に幸いなことだったといえのを発見した。びんに入れておくと徴細なコマ = ・ ( チが羽 る。採集家のわるい癖は、 ( ドソンのような人でさえ告白化してきた。生きた新しいテントウムシを与えると、彼女 「しているとおり、平凡な種類であればそこらのゴミと変りは尻を下方に彎曲させながら追跡し、たしかにテントウム かんぼく とないようにしか目に映らなくなることだ。いまは私は灌木シに産卵した。寄生蜂の類は処女生殖をやるから、交尾せ hJ の葉をまいている宝石のようなオトシプミの姿を無心になずとも卵はうむのである。そしてーーーそれきりのことだっ しましまだに がめることができた。島々谷の谷間を歩いていると、水たた。私はそのテントウムシを生かしておいてまた蜂が生ま まりに集まった数えきれぬコムラサキが一時にパッととびれるかどうかを確かめるよりも、人間の食料のことを考え たち、紫色の渦巻で私をつつみこんでしまうこともあつねばならなかったのだ。 401

5. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

252 「どういうわけ ? 」 「なんならその辺で落っこって、寝ていてもいいそ」 「これをかぶりなさい」 熱くなった馬があえぐのがわかり、鞍革がきしり、風が しつく 耳元をすぎる。疾駆と、あの女を追っているという意識佐々木は体をのばし、それまで首のうしろにひっかけて むぎわら いた麦藁帽子を差しだした。 が、訳もなく渡を夢中にさせた。 道の上につきだした枝の下を首をちぢめて駈けすぎる「あたしに命令するの ? 」 と、今度はまっすぐなやや広い道がつづき、ずっとむこう「せつかくきれいな肌は焼かないほうがいいでしようよ」 のほうで、女が馬をとどめ、駈けてくる若者のほうをふり女はじっと佐々木を見た。それから麦藁帽をうけとり、 むいているのが見えた。佐々木の馬がもつれるようにそのちょこんと頭にのせ、曖味な徴笑をうか・ヘた。つば広の帽 おさ 横にとまった。相ついで、二頭の馬もそこにとまった。 子の下で、その冷たく整った顔が、意外に稚なげに変るの どうき 渡の心は緊張にこわばったが、予期に反して、誰も口をを渡は動悸と共に盗み見た。 あふ きかない。まつわってくる虻を避けて、馬がたてがみをふ「やつばしお返しするわ。髪が邪魔になるの」 あし 前よりも親しみのある声で女は言い、帽子をぬいだ。 り、肢をふみかえた。 女は完全に渡たちを無視している。路傍の草を食いちぎ「でも、わざわざありがとう。これで、用はおすみね ? 」 っていた馬の頭をひきあげ、ふたたび並足で歩ませはじめ「はじめから用なんぞありませんよ」と佐々木は言った。 た。あとの馬は黙っていてもそれにつづく。大学生たちの「あなたは日に焼けたほうがずっと素敵だ。もうひとこと、 背にさえぎられ、女の姿はちらちらとしか渡の目にははい御注意までに言っておきますが、あなたの乗っているその ーしし力、かなりョポョボですよ。よくつま らない。道の広まったところで女はまた馬をとめた。しか馬は見たとこよ、 ずくな、なあ山口」 し佐々木は先へ行こうとはしない。 「どうも御親切に」 とうとう女が言った。 女はまたふしぎに稚なげな微笑を見せた。 「どこまでついてくるつもり ? 」 曇ったような声である。 「でも大丈夫ですわ。あたしは、へんな青年に追いかけら 「これで用は足りましたよ」と、のんびりした声で佐々木れたりしないかぎり、走らせたりしませんもの」 「もう追いかける奴はいそうにないですよ、なあ山口」 が応じた。「あなたに、この帽子をとどけてあげようと思 「少なくともたちは追いかけんね」と、や 0 と人心地が ってね」 くらがわ

6. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

の火薬の匂いや、さまざまの幼年時代のにおいの幻覚が、部屋の中の病人は、彼には見覚えがなかった。 「あれは、誰だったのか」 一斉に彼の鼻腔に押しよせてきた。 ふくじんづけ かゆた 粥を口に運び、狭い庭を眺めながら、彼はあらためて考 粥を炊いてもらい、海苔のつくだにと福神漬でたべる。 彼の傍では、中学一年生の息子がコロッケにソースをだぶえてみた。その病人は、間もなく死んだと記憶している。 だぶかけて、飯を食べている。彼の正面に、狭い庭が見え天才的なところのあった男だと聞かされた記憶も甦って すみ ている。庭の隅のアオキが、黒ずんだ紅色の小さい実を、きた。しかし、それが誰だったかは、思い出せない。帰る ちゅうもん たくさん付けている。その葉は、いつも埃つぼく汚れてい途中、街の食堂で父親がチキンライスを註文してくれた。 めいりよう そのことは、明瞭に覚えている。食堂を出ると、広い坂が るようにみえる。 あり、坂の上に陸橋があり、陸橋の向うに日が落ちてゆく 「おい」 ところだったのも記憶している。 と、彼は息子に呼びかけて、 「あれは、誰を見舞いに行ったのだったかな。お前を一緒そのような少年時代の記憶の断片が、一斉に彼に押し寄 くびほうたい せてきた。彼の箸がしばらく宙で止まった。 に連れて行っただろう。頸に繃帯を巻いていた : : : 」 「ぼく、知らないよ。なんのことかさつばり分らん」 四十八 息子は、自由な口のきき方をした。彼はなるべく、息子 を濶に育てようとおも 0 ている。その返事がくるより先粥を食べ終ると、彼はア駄をいて散歩に出かけた。 けんたい メートルも歩くと、彼は全身に倦怠を覚え、歩くの に、彼は気付いていた。それは彼の錯覚だった。中学一年五十 おっくう 生の頃の彼自身が、父親に連れられて、見舞いにいったとが億劫になった。「どこか本当に病気の部分ができたので はなかろうか」と、彼は心細くおもった。歩くのが億劫で 群きの記憶が、不意に浮んできていたのだった。 たたす 植 門から庭にまわって、父親と一郎とは佇んだ。縁側の奥は、セールスマンという彼の職業は成立たない。 上の障子が左右に開かれ、薄暗い部屋の中で、上半身を起し彼は立止まった。目的のない散歩だったが、煙草が無く 砂ている男の姿が見えた。寝床の上に起き上 0 たその男の頸な 0 ているのを思い出して、また歩き出した。近所の商店 の繃帯が、薄暗い中で白く浮び上っていた。父親は縁側に街に、夜店が立並んでいるようにおもえたが、それは錯覚 だった。アセチレン燈をともした夜店とか、祭りの日の神 一郎は 腰かけ、短い時間会話が取交されていた。その間、 庭を眺めていた。アオキの実の黒ずんだ紅を覚えている。社のに並んだ見世物小屋とか、そのような幻覚がしき そば はこり かゆ よみがえ

7. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

とがいくらかわかってくるまで・ほくはただそう信じてい いを頬に刻み、なかでも婆やは、無理に笑いを歯のかけた 」 0 ロのなかにおしこめようとして苦しげにむせかえった。 いま考えてみれば、父はひとりの秀でたディレッタント 父はほとんど口をきかない人であった。ときたま父の声 ろうれつ であったようだ。生れつき創造ということの尊厳と陋劣とをきくと、なんだか初めてきく人の声のようにひびいた。 んよう せき を知りつくしていて、もうひとつの凡庸な平明な世界へのよく咳をこらえる仕草で片手を口にもっていったが、その どうけい かっこう 憧憬が、どの方面へも彼を深入りさせなかったのかも知れくせ咳はなかなか出てこなかった。その動作なり恰好なり ない。とにかく彼がつめたく酔いながらあとに遺したものは漠とした印象を憶いうかべることができるのだが、どう は、紀行と随筆の本が数冊と、ちいさな青表紙の詩集が一しても父の顔はうかんでこない。、 しま・ほくのもっている写 冊だけである。美術評論家とか随筆家とか記されるのはま真の、もっと若い頃の顔立ちを、記憶に残っているお・ほろ だしも、旅行家などと註されたことまであった。 な姿恰好の映像にかさねてみても、どうもしつくりしない ・ほくがほんの幼いころから頭髪は白くなりかけていて、 のだ。ただはっきり憶えているのは、その身辺にただよう しず 書きものをするときにだけ、角ばった縁なしの眼鏡をかけ一種の謐かさであった。それはむしろものうい感じ、だら ていた。父はよくその眼鏡をどこかに置きわすれ、そのたしのない感じに近いもので、隠者とか科学者からうける謐 びに家じゅうが大騒ぎをした。母はもちろん、女中や婆や かさとは丸ぎり性質を異にしたものである。苦痛もなく死 までが呼びあつめられて、部屋から部屋をせかせかと歩きんでゆこうとする病人が、ひょっとするとそんな雰気を まわるのだった。そのさまは捜しものをするためでなく、 かもしだすかも知れない。 せかせか歩きまわるためにのみ動いているように見えた。 そのくせ父は、調べものをするときとか書きものをする ・ほくはそんな人たちのあとを追って一緒に歩きまわりなが ときには、子供心にも圧迫を感じさせる執念ぶかさを示し しみ ら、じきに壁にできた汚染とか廊下にさしている庭樹の影た。居間に閉じこもって食事もとらなかったし、書庫のな とかに気をとられ、当の捜しものを忘れてしまうことが多かで幾十冊もの本をとっては開け、とっては開けしたりし ちゃだんす さぶとん 幽 かった。そのうちに眼鏡は茶簟笥のうえだの、座蒲団のかた。その姿は勤勉というより、なにか呪いをうけて自然に げだの、ときには後架のなかから見いだされるのだったうごいている人のようにも窺われた。ぼくは未だに、父は ふきげん が、父はそのたびに「ほう」と嘆声を発し、ひどく不機嫌好きこのんでああやっていたのではないと信じている。 になってそれを受けとったものだ。みんなは思い思いの笑父の部屋はちいさな日本間で、窓際に坐り机がおいてあ

8. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

いほど浅黒い色をもち、途方もない瘋癲病みみたいな声を 従兄が舌をだし、片目をつぶってウインクみたいな真 だしたもので、万能の術をさずかった魔術師であることは似をして逃げていってしまうと、彼はがっかりしたように 疑いようがなかった。なにか幻妙な影が彼の背後にはっき腰をおろし、大事なパイプを撫でながらひとりごとをいっ まとうようにさえ思われた。彼の耳には随意筋が発達してた。「あいつはきっとろくなものにならん」こんなとぎ、 ふかっこう いて、自由自在にそれを動かすこともできた。「ほうれ、横のほうに不恰好に突きでた彼の耳は、いつまでもひくひ しわが 見ろ」と彼が嗄れ声でいうと、その並外れて突き出した耳く動いてとまらなかった。 はびくびくと動いた。また自然にその耳はひくつくことも魔術師の叔父がなぜか・ほくを特に贔屓にしてくれたの あった。たとえば彼がひどく立腹したときとか、ひどく上は、この腺病質の甥がほかの子供のように自分をばかにせ 機嫌のときなどに。 ず、うまくたぶらかされて心服しているのを見極めたから 「ほうれ、見ろ」と彼は言い、ものものしい身ぶりと共にさにちがいなかった。彼はぼくひとりを部屋によび、なおも とりこ っと腰をひねると、もう彼は何色もの色つきハンカチを手・ほくをしつかりと虜にしてしまうつもりか、いろんな話を でたらめ にして得意げにうちふってみせるのだった。それから瘤だしてきかせてくれた。その出鱈目な童話ともなんとも言い らけのパイプを口にくわえ、おもむろに一服したが、吐き ・、たい彼の物語に、ぼくはそれでも半ば身をよじって真剣 くさり はす だされた煙のなかから金色の鎖がとびでてきた。しかもそに聞き惚れたものだ。彼に物語の才能なそあろう筈がな れは煙と一緒にふわふわと宙を漂っているーだが見物のく、もっと困ったことには語り手が前の筋を忘れてしまう なかにはむかし・ほくの家によくきたおませの従兄がまじつので、一人息子にいつの間にか兄弟ができていたり、魔法 ていて、目ざとく手品の種を見破ってしまい、さも樊迦にの玉のおかげで不死身の筈の英雄が、ごく簡単にライオン ひも したように「なんだ、紐がついてらあ」と言うのだった。 に喰い殺されてしまうなどは朝飯前のことなのだ。おまけ すると魔術師は年甲斐もなく地団駄ふんで、もの凄い嗄れに彼は殺伐なことが好きで、筋がゆきづまると誰でもかま 声をふりし・ほった。「紐があるって ? どこにあるのだ、わず打殺してしまったものである。 この罰当りめ。そんなこという奴は悪霊に目玉をつぶされ「魔法の玉はどうしたの。死なない魔法があるんでしよう てしまうそ。紐があるって ? 一体どこにそんなものがあ ? 」と、・ほくは息をころしながら、それでも不満のあまり るのだ。罰当りの、法螺吹きの、悪魔野郎め ! 紐がどこそう訊いた。すると真面目くさった彼の浅黒い顔に、おろ にあるか言 0 てみろ。にだ 0 てち 0 とも見えやせんそ」おろしたような、手品の種を見ぬかれたような困惑のかげ ふうてんや こふ

9. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

っぽいけだるさや、しくしく痛む身体もそれほど嫌なこと分の足であるのかどうかあやふやになってくる。それはぼ ではなかったし、稲妻形に上下する体温表の赤線とか、白くの意志からはなれて、ひとりでゆらめいたり静止したり い粥のうえに鮮紅色を滲ませていく梅干の色とか、沁みるするように思われた。ときには、手足ばかりか胴体までが ような氷嚢の感触とかに・ほくの心は惹きつけられるのだつ自分と別種の生物に思えることもあった。この試みは特に た。なによりもぼくは〈死〉にあこがれていたのではなか気のめいっているとき、なんべんか首をこくこくやったあ ったろうか。その見えない手が連れていってくれる場所とでは一層成功するようだった。目をつぶって頭を上下に よど じこさいみん は、なんの心配も危惧もない、平安に淀んだ肌ざわりのよゆらすことは、ぼくにとって一種の自己催眠に似た作用を い水底のように想像された。またそのころ・ほくはしよっち示したらしい。うまくゆくと、 いくら足をうごかそうとし むだ ゅう悪夢におびやかされていたようで、夜中にふいに目をても無駄であった。と思うと、びくんと関節がうごいたり 覚ましては、寝床のうえに起きなおってどもどもと訳のわした。同時にそのころ、・ほくは目をつぶるだけでさまざま えが からぬ声をだした。そのたびに婆やはやさしく・ほくを抱きの幻影を画きだす能力をもっていた。自己分離の遊びにも よせ、あやすように身体をさすってくれた。「なんでもああきると、・ほくは思いつくままの動物や植物の像をちらっ りません、なんでもないんですよ」と、彼女は・ほくの頭をかして時間を過したものだ。 とき ようしゃ 撫でながらくりかえした。それからぼくが次第に落ち着く だがそのうちにも、刻はぼくのうえを容赦なく、意味ぶ と、大抵こんなふうに言った。「坊ちゃまのはむしですよ。 かく過ぎてゆき、ぼくをひとりの可逆性ある少年に成長さ またマクニンを飲まなくっちゃ : ・ : こ せた。いっということなしに、だだ 0 広い家も大勢の維人 外にでるとよくぼくは、家の裏手にある池の水に両足をも、ちょうどあの謎めいて見えた原つばから見知らぬ翳が ひたしてじっとしていた。生ぬるい水はいつもうすぐろく薄れていったのと同じように、ぼくの目になじみぶかい確 淀んで、あちこちに浮いた睡蓮の葉のあいだに、ときどきかなものとして映るようになった。・ほくは次第に昔のこと なにかのガスがぶっぷっと泥ぶかい底のほうから湧きあがを忘れ、・ほくの幼年期はこうしてしずかに音もなく溶け去 幽ってぎた。ぼくが足の指先をひらひらとうごかすと、うすっていったのにちがいない。すくなくとも表面上の記憶の 汚れた水をとおして、その指はふしぎな生物みたいに絡みうえでは。 のぞ あったり戯れたりした。真剣にそれを覗きこんでいると、 そこにうごいている白い・ほんやりしたものが、はたして自 いつの頃だったろうか。 すいれん

10. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

363 幽霊 った。コガネムシの多くは、雨にぬれしょぼれた翅鞘をた は : : : 」と言いかけたが、「お前なんかにわかりやしない たんだまま、身じろぎもせずうずくまっていた。ただそのよ」と言われて手をはなしてしまった。 目が不気味にかがやいた。いったん目に気づくと、蛾たち 自分でもなんのことやらわからぬまま寝床につれてゆか あや の目はいっそう妖しい光をはなつのだった。小刻みに翅をれたとき、・ほくは隣りの寝床に従兄がいかにも一生懸命眠 ふるわせながら、紅玉のような、緑玉のような、妖しく燃っているのを見て、すこしわらった。彼は枕元にだパ えたっ複眼がこちらをじっと睨んでいた。半ばおびえて、 チンコを飾り、片腕を思いきり横ざまにのばして、半分あ いびき ・ほくはひと足さがろうとした。足がいうことをきかなかつけたロからゆたかな鼾をもらしていた。 た。ふいに、こまかい火花のように、無数のかがやく目が くら ・ほくの目のなかにとびこんできた。昏くなった視野のなか家の周囲の垣根のそば、裏の草むらのなかなどに、春か で、光と色彩とがちかちかとくだけちった。同時に、うつら夏へかけてかなり大きな野生の植物が目についた。大き ひざ たけ すらと気がとおくなり、限りなくのろのろと自分が膝を折 いのは大人の丈くらいあって、切れこみのある心臓形の葉 ってゆくのが感じられた。 がついていた。変っているのは、白い粉をふいているその ささや 非常にとおいところから、囁くような声がきこえてき茎を折りとると中空になっていて、柔かな髄から薬品めい た。なんだろう、なにを言っているのだろう、と覚めかけた黄褐色の汁が滲みでてくることだった。 たぼくの頭のひとすみが考えた。囁きは次等に近づいてく「これはヨジウムの原料だぞ」と従兄は教えて、すりむい るようだった。急に・ほくは自分の名が呼ばれているのに気て血のでた・ほくの傷口に汁をすりつけてくれた。そうやる づき、思いきってあたりを見まわそうとした。水底のようと本当に痛みがうすれてゆくような気がした。本物のヨジ なうすら明りのなかに、・ほんやりした形態がいくつもいくウムのように沁みることもなかったし、この方がよほど上 つも重なって見えた。段々とそれがはっきりしてきて、ひ等のように思われた。しかし従兄は、傷の手当をすまして とつの顔にーー伯父や伯母の顔になった。・ほくは帰ってきしまうと、むりにおし殺した、おびやかすような声で囁い た大人たちの手で抱きおこされていたのだった。 たものだ。 「なんでもない、なんでもない」と誰かが言った。寝巻が「黙ってろよ。こんなこと見つかると牢屋に入れられるか 着せられるあいだ、魔術師の叔父はぼくの手首に指をあてら」 ながら、眉をひそめて首をかしげていた。そして「プルス そして、これは禁じられた行為であり、なんとなればこ まゆ にら にじ ろうや