痴なのよ」 すぐ前に渡と同年配の少女がいて、彼はやむを得ずごく 渡はこの姉が、とにもかくにも卒業論文を書ぎにきた大自然に、彼女の背に胸をおしつけられた。横をむいた少女 学生にむかって、部屋代の請求をしているさまを想像したの顔を見ると、まだ育ちきらず、日焼けして小ぢんまりと かれん だけでぞっとした。おそらくあぎ子は立派に部屋代をまき可憐である。おしつけられる肩の骨はかたかった。つい先 あげ、自分の家の経済的危機を救ったつもりで得々となるごろまで、このくらいの少女が渡の夢想を育んでくれたも だろうし、大学生のほうでは東京へ帰ってから、自分らがのだった。しかし、このときはな・せか渡はただこう考え どんな家に滞在していたかを友人たちに話して笑いの種と た。この女の子は、きっと・ハタが嫌いなのか、サナダ虫が することだろう。 いるか、どちらかだな。 ここでも日盛りは暑かった。しかし夕方がきて、ものか人々のざわめきの中で、長い時間がすぎていったように げが青みをおびてくると、急速に夜と冷気がおしよせてく思われた。人波にもまれながら、渡は知らず知らずに自分 が、その日の朝、霧の中で行きあったずっと年上の女の姿 しわ すっかり暗くなってから、渡は外へでた。ちょうどそのを考えているのに気がついた。横にいる皺だらけのお婆さ ちょうちん 日天皇陛下がこの地を訪れ、沓掛の町から提灯行列がくるんが強く押されて苦しげに声を立てた。 というので、プリンスホテルの前まで見にいこうと思った渡も同じように人波に押されながら、ふいに自分が悲し のである。 くなってきた。あの女もどこかにきているだろうか。しし こころよ ホテルまでは十分とかからない。高原の夜気は快 く、や、けっしてこんなところに来はしまい。あのとき、霧の すなぼこり 日中は乾きぎって砂埃の村道も、夜の帳の下では魔術のよ なかで、一瞬自分を眺めた女の目つきを彼は憶いだした。 うにおもむきを変えていた。小さな螢火がひとつ、・ほんや吟味するような、冷笑するようなあの目。ふたたびその視 ゆかた とら りと白い浴衣姿の人影とすれちがった。 線に囚われたように、少年はわなないた。彼はあのとき見 しかし、事務所のある広場の付近から、急に人々で一杯たのだった。肩のあたりまでうねっているかたそうな髪、 になっていた。ホテルの前あたりは提灯をもった人波があふくらんだ胸、そして黒いサンダルをつつかけた裸のくる ふれ、ずっと坂の下までつづいているようだ。警官や青年ぶしまでを。なんと一瞬の間に彼はす・ヘてを見、それらの 団が声をからして整理している。渡はいっしか人波にまきすべてがなんと鮮明によみがえってくることだろう。 のが けんそう 渡は吐息をついた。すると、一刻も早くこの喧噪から遁 こまれ、押されながら進んでいた。 くつかけ とまり たるび
こみち , や 4 1 ロ 唯も、ない暗い小径をどこまでもさ迷ってみたいとい 「あなたたちはどうなんです ? 」 う気持が強くおしの・ほってきた。 渡は言いかえした。彼は二人の大学生とここ十日ばかり だしぬけに、前のほうで万歳の声がわぎおこった。提灯一緒に暮しているうち、そういうロのきき方を覚えて が何回もさしあげられ、その一団がひきさがると、否も応た。 * そうもう おが もなく渡たちは一番前列におしだされた。ホテルの門の前 「俺は草莽の臣だよ」と、佐々木は言った。「陛下を拝め には繩がはられ、閉ざされた門の背後には数名の警官が立なくて寂しかったよ」 っているだけである。小太りした青年団の団長らしい男「ここら辺はしけてるな」と、山口。「明日あたり自転車 が、陛下は御旅行のお疲れで皆さんの歓迎におこたえできで旧軽へ行ってみようや」 とな ないので、ここから陛下の万歳を唱えようと思います、と「女の子のことなんか考えるな。俺は土下座をして拝みた いよ」 いう意味のことをのびあがって叫んだ。彼の声は気の毒な くらいかすれ、彼の頬は満悦のあまり今にもこ・ほれおちそ「もう一度行って、提灯でもふってくるさ」 うだった。まるで陛下が出てこられないのは彼の一存でき「しかし、こう人が多くっちゃ、土下座をすると踏みつぶ められたかと思われるほどである。それから団長はぐっとされるからな」 からまっ こすえ 胸をそらし、それまでどこかに隠しておいたらしい堂々と今夜は霧は湧かず、星たちが落葉松の梢ごしにふるえて した声で叫んだ。 いるのが見てとれた。帰途、二人の大学生は歌をうたいだ どうまごえ こと はす した。殊に佐々木は調子外れのおそろしい胴間声をだし 「天皇陛下、ばんざあい ! 」 こ 0 髪群衆がそれに和し、渡も人々と一緒に万歳を叫び、つい た でその場から押しだされた。渡はつまずきかけ、ようやく「まだー沈まーずやーティエンはーーー」 行きちがう人がふりかえるので、渡は恥ずかしかった。 乾人ごみから抜けだすことができた。 家について、自分の部屋へはいろうとしたとき、渡はあ 中事務所まえの広場まで戻ってきたとき、ふいにうしろか 霧ら声をかけられた。二人の大学生、佐々木と山口がにやにき子につかまった。 「渡さん、あんまりあの人たちとっきあわないでね。来年 やして立っている。 「渡君、君は感心だねえ。愛国者だな。それとも女の子ではあんたは高校生なのよ」 「偶然一緒になったんだよ」 も捜しにきたのかな」 なわ ほお
佐々木のいうとおり、渡の母親はジ、ゴンそっくりに横も歳のちがう兄は、ひと夏に一回か二回、それもちょっと たわっていることが多かった。女がもって生れた虚栄心を顔を見せる程度にすぎなかった。 失ってしまうと、こうまでだらしなくなるものかと思われ炊事はほとんど姉のあき子がやる。彼女は料理をつくる ふと ことはつくるが、あとを片づけることができないため、近 るほどである。ここ一「三年来、彼女は手品のように肥っ てゆき、今では身動きをするにも息切れがするらしかっ所のおばさんが後始末にきている。渡にとってはこの姉も た。顎が二重になり、ほそい目が殊さらにほそくなり、手恥ずかしい存在であった。短大の英文科を途中でやめたの 足はくびれて、まるまるとした赤子のそれに似てきた。せは、とても授業についてゆけなかったためらしい。ぎすぎ めてきちんと和服でも着てくれたら、と渡は思う。しかしすと痩せていて、とがった鼻と軽い乱視のため、一見利ロ ざふとん 彼女は薄つべらなよれよれのワンピース姿で、座蒲団を枕そうにも見えるのだが、かなりの精神薄弱だと渡は信じて たたみ いる。彼女は料理を習い、茶と生花を稽古したが、なにひ に畳の上にころがり、動きもしないのに汗をたらしてし た。そのワンビースは、古い羽織の黒い紗で作ったものとつ人並みにでぎない。それから元宮様を会長にしたなん しろもの で、要するに「一種異様」としか形容しようのない代物でとかいうクラ・フに入会したが、新しい男女の交際を教える げれつ ときき、「お下劣ね」と言ってやめた。彼女は結婚という あった。 「暑いねえ」と、こんな避暑地にきても彼女は言う。そしものはけがらわしいものだと頭からきめこんでいる。その しん でんぷ てウチワで巨大な臀部を数回あおぐと、もう何もできぬくくせクラス会から戻ってくると、誰々さんが結婚したと芯 らい疲れてしまうらしいのである。彼女にとっては、日ざから喜ばしげに報告するのである。汗がでない季節には、 しくとき かりの幾刻かを、なんとか肥満した体を数回がえりをう自分の肥り具合と同じくらいに、この娘がうまく縁づいて くれるようにと母親が願っていることを渡は知っていた。 っことと、思いだしたように、「暑いねえ」と呟くことが 「お母さま」と、早目の夕食の席で、そのあき子がばかに 大仕事のようであった。 数年前父が死んでから、渡の家はこの別荘を維持してゆ勢いこんで言った。「なんていう人たちでしよう、あの大 娶いたく くのは贅沢にすぎるという状態であったが、この母のため学生たちはー」 に手放すことができかねた。母と渡とその姉のあぎ子だけ立腹すると彼女の顔はいっそうとがって見える。この姉 もったい で使うのも勿体ないというので、この夏から間貸しをするもいっかは結婚して子をうみ、そして母のように肥ってく ことにしたのである。今では一家の働き手である渡と十歳ることがあるのだろうか、と渡は考えた。彼は茶をのみか しゃ
ろのろと、自分の家のほうへ足をむけた。 「君はこのうちの子かい ? 」 門口を入ろうとして、思いがけず渡は佐々木に行ぎあっ 「そうです」 た。この夏、彼の家で部屋を借りている大学生の一人であ「そうか、そうか。君のおふくろさんは、まるで人魚みた る。ずんぐりして、太い眉と大きな口をした男である。自いな方だね」 分がひどく間の抜けた顔をしていたように思え、渡はロご渡は返事ができなかった。なぜって彼の母親は人魚どこ あわ もりながら慌てて言った。 ろか肥満の極に達していて、彼は親しい友達にもこの母親 を見られたくなかったからだ。 「早いですね」 「人魚を知らないのかね」 「やあ、早いな」 予期に反して佐々木はいつもの軽口をださなかった。そ相手は、渡の顔をのそきこむようにして言った。 ういえば、へんに気むずかしい顔をしているようだ。 「人魚ってのは、つまりジュゴンのことだ。ありゃあ無気 味なものだ」 「散歩ですか」 「まあそんなところだ」 佐々木は、山口という対照的にひょろ長い相棒と一緒に 「こんなに早く起きることもあるんですか」 部屋を借りている。卒業論文を書きにきたというのだが、 「そんなに早いかね」 渡からみてもまるきり子供じみた話に夢中になっていた ようやく佐々木は、常々見せる人を小馬鹿にしたような 、朝からウイスキーを飲んでいたりする。彼らの机の上 笑いを浮べた。 には、洋書が一応積んであって、そのわきにジョニーウォ 髪「どうやらは寝呆けたらしいな」 ーカーが一びん置いてある。毎日飲んでいるくせに一向中 た それきり彼は背をむけて先に玄関へはいっていってしま身が減る様子がない。訊いてみると、こういう返事であっ こ 0 乾った。渡は少しあっけにとられた。なにしろ佐々木くらい なれなれ 中無遠慮で話好きで慣々しい男にもあまり出会ったことはな「飲んだあとに安ウイスキーを足しているんだ。ウイスキ って奴は、、、 ししほうの香が移るものだからな。もう何回 霧いからである。 夏休みになって渡が中軽井沢のこの別荘にきたとぎ、佐割ったか覚えてないが、この中には、少なくとも、まだ本 はす 恥々木はすでに部屋を借りていて、いきなりこう言ったもの物が十滴くらいはまじってる筈だよ」 ・」 0 てき
自分のうちに見知らぬ新しいカのようなものが育ってゆく のを渡は感じとった。ちょうどずっと幼なかったころ、こ あや こらの森の中に隠れていた童話じみた妖しい影が年齢と共 さいな に薄れていったように、ついさっきまで自分を苛んでいた 心の波立ちを、渡はなにか他人事のように思いかえしてみ 霧は闇にとけ、しめやかに肌にふれたが、渡の心は今は たしかにいがらっぽく、そしてどこか乾いていた。 彼は、たちこめた霧の中でいささかも濡れていないよう に見えた女の髪のことを、いくらか疎遠な気持で憶いかえ してみた。あの髪がどうしたというのだ。あの髪が彼とな のぞ んの関係があろう。しかし、希むにしろ希まぬにしろ、 あいぶ つか、どこかで、彼は、あのような髪を愛撫するようにな るにちがいない 渡は体をおこし、冷えきった腕をこすった。それから一 息に立上ると、自分でも意外なほどしつかりした足どり 髪で、道のほうへ雑草をわけて戻っていった。 た 乾 の 中 の こ 0
は少年の涙などを受けつけはしまい。あの髪は彼女自身なままの女を見つめていた。 のだ。そういえば昨日の朝、あの霧の中で、あの髪はいさ渡は ( ンカチをひきさき、血のふきでてくる傷口をしば さかも濡れず、ひややかに乾ききっていたように見えはしった。それほどの修ではなく、ただ激しく地面にすれたた なかったか。 め、傷口にはこまかい砂がすりこまれたようになっている。 木立をぬけ、片側がにな 0 ている道に来かか 0 たとそうして、ぐ 0 たりとな 0 た女の体に触れていると、めま き、こういうことが起った。女がなにかを伝えるかのよう いに似たおののきが少年の内部を通りすぎた。その乱れた にうしろをふりむいたとぎ、彼女の馬が突然つまずいて前髪の毛を思いきって直してやる勇気が彼にはなかった。 足を折ったのである。普通に乗っていたのなら彼女はもち女が顔をあげ、虚脱したような目で渡を見やり、割にし ろん馬の頭をひきおこせたことだろう。しかし、このときっかりした声で言った。 渡には、すぐ前を駈けていた彼女が馬もろとも低く沈んで「大丈夫。もういいの」 ゆくように見えた。ついで馬はもんどりうって倒れ、横ざ彼女の馬はすぐ前方に、手綱をたらしたまま頭をたれて まに前足をあがぎ、よろめきながら立上った。 立っていた。額のところが少し切れている。渡がひいてく くび 前にほうりだされた女は、うつ伏せに倒れたまま動かなると、女は無言で手綱をうけとり、頸にかけ、ゆっくりと 渡が馬からとびおりて駈けよったとき、彼女はやっとまたがった。 」・ノつよノ 半身を起し、片腕をおさえた。疼痛をこらえている横顔が それからは皆はずっと並足で馬を歩ませた。ほとんど会 ひじ 異様なほど蒼白である。泥に汚れた肘から血が滴ってい 話も交わさず、貸馬屋に戻ってから、なんということもな ひざます 髪た。渡は傍らに跪ぎ、助けを求めるように顔をあげた。 く別れた。 りゅうとうだび た すぐ前に、馬をまわしてきた佐々木がいた。しかし、ど「竜頭蛇尾とはこのことだな」 乾うしてか彼は馬からおりようとしない。 こわいような表情遠ざかってゆく女のうしろ姿を見送りながら山口がやや 中で、鞍の上から、女を見おろしている。一秒か一一秒、渡に不満な声をだした。 「俺はおまえにまかせていたのだがな。このまま帰しちゃ 霧は理解できぬ時間がながれた。 ようやく佐々木が口をきった。 うのか ? 」 「言わないこっちゃない。注意しておいたのだったがな」 「俺は遊ぶのにあきてきたのさ」 彼はなお鞍からおりようとせず、じっと地面にかがんだ と、とばけた、そのくせどこか生真面目な表情で佐々木 、 0 ル、物ノは・、 したた ひたい きまじめ
る。頭の上で折れ伏した草が起きなおり、少年の上をすっ と、ふしぎに弱々しい佐々木の声がした。 ぼりとおおった。そのまま渡は目を閉じ、かたい大地と雑「半日も会わないと業は駄目になる。君を見ないと何も手 草の中に、熱く乱した頭をゆだねた。 につかない。夜がくるのを待っていられない。明日はいっ そうやってずいぶん長いこと寝ていたようだった。 会える ? 」 ごうがん ふと、横手でほそい声をふるわせていた虫が鳴きゃんその声はとてもあの傲岸な佐々木のものとは思えず、息 だ。誰かがやってくる気配がする。かすかな人声もきこえをころしている渡には、いましやべっているのは自分では た。渡は頭をもちあげ、むこうの道のほうに二つの人影をないかという錯覚さえわきおこってぎた。 認めた。彼らはこの草原にはいってくるらしい。渡は起し「わからないわ。叫愛い坊やね。はじめはもっとしつかり かけた上体を元のように草の中に寝かせた。 していたのに。ほんとに生意気なくらいだったわ」 草が踏みしだかれる音がし、渡のいる場所からほど遠か「そのとおりだ。自分でもこんなにだらしなくなるとは思 らぬ地点で、彼らは草のなかへ倒れこんだようだった。音っていなかった。軽井沢まで君を追ってくるのだからね」 もなく二つの体がもつれあう気配がし、いくらかの間隔を「また前のようにしつかりしてよ。昼間は危ないわ。今日 おいて、ロをすいあう息づかいが聞きとれた。こちらにひみたいな真似をしてはダメ」 そんでいる少年の感覚は痛いまでに敏感に、しびれるよう「自分でどうすることもでぎないんだ」 とうす、 に伝わってくる未知の陶酔にまきこまれていった。 「でも、今日はとても生意気で、はじめ会ったときとそっ やがて、むこうで草のふれあう定かならぬ音と共に、どくりだったわ」 髪ちらかが起きなおった。低い男の声がした。公式化された「なぶらないでくれ。ああでもするより仕方ないじゃない 愛の言葉をささやくのが聞えた。 か。傷、まだ傷む ? 」 乾一瞬、渡の体はこわばった。すぐそこにいるのは、あき「もう大丈夫。それより山口さんて人、気づきやしないで 中らかに佐々木にちがいないと思われたからである。さらしようね」 に、少年を心底からふるわせたのは、あの忘れがたい曇っ 「あいつはこのうえなくお人好しだよ。まだ一緒にいた坊 霧 たような女の声が伝わってきたことだった。 やのほうが危ないくらいだ」 「そんなにあたしに夢中なの ? 」 「あなただって坊やじゃない。もうあんな真似をしてはダ 「メチャメチャに夢中なんだ」 メ。もう少し聞きわけをよくして」 だめ
244 霧の中の乾いた髪 わしてぎた。そのとき、渡は憶いだした。さきほどから自 分につきまとっている訳もないいらだちの正体を、その・ほ んやりした形態の中に見たように思った。彼は昨夜、生れ てはじめて女の乳房の夢を見たのである。 目の前で霧がゆらぎ、ふしぎになまなましく、夢像と現 実がまざりあった。 むこうから誰かがやってくる。渡は目をあげ、ちょうど 夢のなかの知覚のように、一人の女が霧の帳の中をこちら に近づいてくるのを認めた。ひとしきり霧が少年の胸へな かわ がれいり、漠とした渇きを撫でさすった。そして、いまは 次第に朝の光が空一面にみなぎりはじめた。しかしまだすぐ前に近づいたすらりとした女の印象を、一瞬のあいだ からまっ あたりはぶ厚い霧に閉ざされたままである。落葉松の林のに彼は吸いこんだ。年齢は三十近くか、それとももっと上 こうしじま かげには夜のなごりがあり、下草の葉はしっとりと濡れてなのか渡にはわからない。格子縞の半袖のスーツの上着 いる。ポロシャツの短い袖からむきだした腕が冷たい。どに、真黒のスラックスをはいている。 すれちがうとき、女はほとんど物珍しげな表情で少年を こかで小鳥が啼いているが、姿は見えない。 霧はごくゆっくりと動き、別荘の生垣にからまって流れ見やった。冷酷といってよいような視線である。ややこわ こ 0 い感じにうねった髪が、整った顔立ちを縁どっていた。首 わたる 渡は、霧につつまれて歩を運びながら、自分からなにかすじがいたくほそい のが が遁れていったような、その反面、なにか見知らぬものが渡は目を伏せ、足早に歩いた。せきたてられるように歩 生れてきたような気配を感じていた。これは何なのだろいた。路傍のカヤに露が光っている。前方の霧が朝の光に う ? 久方ぶりに味わう高原の朝の冷気がもたらしたもの追いのけられるにつれ、それぞれ濃淡の異なる樹々の緑、 なのか。それとも来年は高校を受験する彼の年齢がもたらヒュッテ風の別荘の沈んだ色彩が浮びあがってくる。 すものであろうか。 道を折れたところで渡は立止った。ぎごちなく周囲を見 星野温泉の裏山が霧の中に・ほんやりとまるい輪郭をあらまわし、自分の鼓動の音を意識した。それから、ひどくの そで のうたん そで
256 がこたえた。 去年までの夏休みの楽園はどこかへ消えてしまったよう 「すこし遊んでいるとすぐに勉強をしたくなってくる。近だ。単純ながらも晴れがましい記憶、そうした日々はもう 永久に帰ってこないように思われた。 ごろの若い者にしてはもの悲しき性だ」 貸馬屋のわきをすぎるとぎ、粗末な小屋の中で、馬が地 「それじゃおれも今夜はあの本をよみきるかな」 と、まだ納得しかねた顔つきで山口が言った。 面を蹴る音がきこえた。 「どうも辞書をひいてるとまどろっこしいから、帰ったらすると、昼間見たいくつかの女の映像が、あまりにもま ひとっ辞書を燃してしまうか」 ざまざとよみがえってくるのだった。些細な身ぶり、ちょ っとした表情の変化、そして曇ったような声の抑揚まで ひとみ ・、。ためすようにふりむいたひややかな瞳、思いがけず稚 日中にひきかえ、高原の夜は快く冷えてくる。 きやしゃ しかし渡は寝つかれなかった。何度か寝返りを打ったのなげだったその微笑、躍動する馬上での、華奢な、しかも ち、彼は床から脱けだし、もう一度服を着た。とうに家の生命そのもののようなその姿態。彼の腕の中で息づいてい 者は寝しずまっている時刻だが、廊下にでてみると、突きた丸い肩、なめらかな皮膚の上にあふれでた鮮やかな血の あたりの大学生の部屋には明りがともっていた。渡はそっ色、ーー憶いだすものすべてが、少年に重くのしかかり、 と台所の戸口から外へ忍びでた。草ぶかい庭は虫の音にみ少年をかきみだし、ほとんど息苦しくさえさせた。 突然、渡は立止り、激しく頭をふった。なんと彼は愚か ち、あたり一面に濃い霧が沈んでいるのがわかった。 門をでると、一足ごとに霧はふかく、いささかも動かずにもみじめな恋をしていることか ? よど いっしか人家がとぎれ、道は坂にかかり、両側から黒し に地上に淀んでいる。湿った夜気は寒いくらいであった。 渡は足のむくままに歩いていった。やがてやや広い通りに木立がのしかかっていた。濃い闇と白く淀む霧の混合が少 でると、むこうの電柱にともった裸電球の光が・ほうっとに年を包みこみ、彼の心をいっそう孤りにした。なおも進む じみ、どんなにこの夜の霧が深いかを知らせてくれた。近と木立がひらけ、かなり広い草地がひろがっているのがわ づくと、そのか・ほそい光のまわりを、こまかい羽虫が狂おかった。冷たい露を足に感じながら、渡は雑草の中へわけ いっていった。草地のはずれまできて、丈の長い草の間に しく乱れとんでいた。 ぼうん 渡は夜気を吸いこみ、茫然と暗い世界を見まわした。彼体を倒した。 ちくちくと葉が彼の肌をさし、露がつめたくふりかか の心は理由も判然としない悩みにみちていた。たしかに、 こころよ さが やみ ひと
252 「どういうわけ ? 」 「なんならその辺で落っこって、寝ていてもいいそ」 「これをかぶりなさい」 熱くなった馬があえぐのがわかり、鞍革がきしり、風が しつく 耳元をすぎる。疾駆と、あの女を追っているという意識佐々木は体をのばし、それまで首のうしろにひっかけて むぎわら いた麦藁帽子を差しだした。 が、訳もなく渡を夢中にさせた。 道の上につきだした枝の下を首をちぢめて駈けすぎる「あたしに命令するの ? 」 と、今度はまっすぐなやや広い道がつづき、ずっとむこう「せつかくきれいな肌は焼かないほうがいいでしようよ」 のほうで、女が馬をとどめ、駈けてくる若者のほうをふり女はじっと佐々木を見た。それから麦藁帽をうけとり、 むいているのが見えた。佐々木の馬がもつれるようにそのちょこんと頭にのせ、曖味な徴笑をうか・ヘた。つば広の帽 おさ 横にとまった。相ついで、二頭の馬もそこにとまった。 子の下で、その冷たく整った顔が、意外に稚なげに変るの どうき 渡の心は緊張にこわばったが、予期に反して、誰も口をを渡は動悸と共に盗み見た。 あふ きかない。まつわってくる虻を避けて、馬がたてがみをふ「やつばしお返しするわ。髪が邪魔になるの」 あし 前よりも親しみのある声で女は言い、帽子をぬいだ。 り、肢をふみかえた。 女は完全に渡たちを無視している。路傍の草を食いちぎ「でも、わざわざありがとう。これで、用はおすみね ? 」 っていた馬の頭をひきあげ、ふたたび並足で歩ませはじめ「はじめから用なんぞありませんよ」と佐々木は言った。 た。あとの馬は黙っていてもそれにつづく。大学生たちの「あなたは日に焼けたほうがずっと素敵だ。もうひとこと、 背にさえぎられ、女の姿はちらちらとしか渡の目にははい御注意までに言っておきますが、あなたの乗っているその ーしし力、かなりョポョボですよ。よくつま らない。道の広まったところで女はまた馬をとめた。しか馬は見たとこよ、 ずくな、なあ山口」 し佐々木は先へ行こうとはしない。 「どうも御親切に」 とうとう女が言った。 女はまたふしぎに稚なげな微笑を見せた。 「どこまでついてくるつもり ? 」 曇ったような声である。 「でも大丈夫ですわ。あたしは、へんな青年に追いかけら 「これで用は足りましたよ」と、のんびりした声で佐々木れたりしないかぎり、走らせたりしませんもの」 「もう追いかける奴はいそうにないですよ、なあ山口」 が応じた。「あなたに、この帽子をとどけてあげようと思 「少なくともたちは追いかけんね」と、や 0 と人心地が ってね」 くらがわ