行く - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集
392件見つかりました。

1. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

252 「どういうわけ ? 」 「なんならその辺で落っこって、寝ていてもいいそ」 「これをかぶりなさい」 熱くなった馬があえぐのがわかり、鞍革がきしり、風が しつく 耳元をすぎる。疾駆と、あの女を追っているという意識佐々木は体をのばし、それまで首のうしろにひっかけて むぎわら いた麦藁帽子を差しだした。 が、訳もなく渡を夢中にさせた。 道の上につきだした枝の下を首をちぢめて駈けすぎる「あたしに命令するの ? 」 と、今度はまっすぐなやや広い道がつづき、ずっとむこう「せつかくきれいな肌は焼かないほうがいいでしようよ」 のほうで、女が馬をとどめ、駈けてくる若者のほうをふり女はじっと佐々木を見た。それから麦藁帽をうけとり、 むいているのが見えた。佐々木の馬がもつれるようにそのちょこんと頭にのせ、曖味な徴笑をうか・ヘた。つば広の帽 おさ 横にとまった。相ついで、二頭の馬もそこにとまった。 子の下で、その冷たく整った顔が、意外に稚なげに変るの どうき 渡の心は緊張にこわばったが、予期に反して、誰も口をを渡は動悸と共に盗み見た。 あふ きかない。まつわってくる虻を避けて、馬がたてがみをふ「やつばしお返しするわ。髪が邪魔になるの」 あし 前よりも親しみのある声で女は言い、帽子をぬいだ。 り、肢をふみかえた。 女は完全に渡たちを無視している。路傍の草を食いちぎ「でも、わざわざありがとう。これで、用はおすみね ? 」 っていた馬の頭をひきあげ、ふたたび並足で歩ませはじめ「はじめから用なんぞありませんよ」と佐々木は言った。 た。あとの馬は黙っていてもそれにつづく。大学生たちの「あなたは日に焼けたほうがずっと素敵だ。もうひとこと、 背にさえぎられ、女の姿はちらちらとしか渡の目にははい御注意までに言っておきますが、あなたの乗っているその ーしし力、かなりョポョボですよ。よくつま らない。道の広まったところで女はまた馬をとめた。しか馬は見たとこよ、 ずくな、なあ山口」 し佐々木は先へ行こうとはしない。 「どうも御親切に」 とうとう女が言った。 女はまたふしぎに稚なげな微笑を見せた。 「どこまでついてくるつもり ? 」 曇ったような声である。 「でも大丈夫ですわ。あたしは、へんな青年に追いかけら 「これで用は足りましたよ」と、のんびりした声で佐々木れたりしないかぎり、走らせたりしませんもの」 「もう追いかける奴はいそうにないですよ、なあ山口」 が応じた。「あなたに、この帽子をとどけてあげようと思 「少なくともたちは追いかけんね」と、や 0 と人心地が ってね」 くらがわ

2. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

足でゆく女の姿が目にはいった。佐々木が馬をひきとめ こ 0 佐々木は先に立って足早に歩きだした。 「坊や、君も乗れるな ? 」 「もう少し行くと一本道だ。少しずつ距離をつめよう」 「ついてくくらいなら」 「おまえにまかしたよ」 「君もそろそろ年頃だから覚えておくがいい。今のような と、めつきり元気がなくなった山口が鞍頭につかまるよ 女は小娘あっかいにするんだ。本当の小娘に呼びかけるとうにして言った。 きは、奥さん、と言ってやる。要するに、歯のうくような「俺はクジラでも釣りにゆくような心地がするよ」 ことを言えばいいんだ」 逡巡する馬をはげまして木橋をわたると、山腹をきり 貸馬の小屋にはちょうど三頭の馬が残っていた。 ひらいた道がつづく。すでに強烈な日ざしが草いきれを立 あふ 「おじさん、大急ぎー」 ちのぼらせ、虻がうるさくまつわってくる。渡は片手をの くらおび びんしよう たた 佐々木は自分で鞍帯をしめあげ、意外に敏捷に鞍にとびばして馬の平頸にとまった虻を叩きおとした。馬の汗ばん あふみ てのひら のって鐙の長さをあわせた。 だ肌の暖かさが掌にのこった。 むぎわらまう 「暑くなりそうだな。その麦藁帽を借りていこうか」 だんだんと距離が狭まってきた。女が後ろからくる人馬 ひらくび そして、乱暴に馬の平頸を手綱でなぐって走りだした。 に気づき、上体をふりむけてこちらを眺めるのが見えた。 だくあし 山口と渡がそれにつづいた。 と思ううちに、軽い鉋足で遠ざかりはじめた。そして道を 今年ははじめて馬に乗るので、うまく反動がぬけない。 折れるときギャロップにはいったようだった。佐々木が合 髪やや広い道にでると、渡の背の低い年老いた白馬は、前の図をし、こちらの三頭の馬も走りだした。 馬に追いっこうとして自分からギャ。ップにはい 0 た。そ道は林道となり、はるかむこうに疾駆してゆく女が見 乾のほうがよほど乗りよかった。 え、すぐに曲って消えた。佐々木が馬をはげます声がきこ 中「あんまり早く走るなよ。どっちに行ったかわかるのか」 え、渡の背の低い馬は次第に遅れがちになる。少し前方を かっこう の これも危なげな恰好で前を駈けている山口がどなる。 背を丸めて鞍にしがみついている恰好の山口がわめきたて 霧 「星野温泉のむこうの道だ」先頭の佐々木がふりむいてどた。 しり 引なりかえした。「俺のもの悲しき直感を信じろ」 「糸が切れたほうがマシだ。俺はもう尻が痛いよ」 なるほど温泉の入口までくると、テニスコ 1 トの横を並風にちぎられた佐々木の声が返ってきた。 しゅんじゅん

3. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

298 にほとばしって、それがちっとも赤くないのを私はまたい ぶかしく思った。鉗子ではさんでも、じわじわした出血は なかなかとまらず、それでいて私はやはりのろのろと手を 動かし、筋肉の層を切りひらいていって、ようやく白っぽ ふくまく い腹膜があらわれ、ごくそっとメスの刃先でなでると、・ほ ふくこう つかりとうすぐらい腹腔があき、中にはうねうねした腸な ど少しもなく、手を入れて探ってみると、奥のほうになま 暖かい肉塊が指先に触れた。そのぬるぬるした奴をひきだ たいじ してみると、それは小さく丸まった胎児で、どすぐろい血 塊があちこちにつき、それでも、顔のへんを見れば、ちゃ 遠くから幻聴のようにかすかな鐘の音がきこえ、それはんと一通り目や鼻がついているのだった。その塊りは初め 断続的にずっと以前からきこえていたようで、あれは何かびくびくしていたが、やがて私の手の中で動かなくなり、 すみ なと意識の片隅で私はいぶかった。その間にも私はせかせ生暖かかった体温が見るまに冷えてゆくのが感じられてぎ ちみつ かんし かと緻密に銀白色にひかるメスや鉗子を並べ終り、そしてた。私はその死んだ肉塊を抱いたまま、蠍のような少女の ふりむくと、手術台と思っていたのが非常に古風な黒ずん顔をのそきこんだが、これも目をつぶったまま呼吸を停止 あま がくん だ木製の寝台で、そこに亜麻色の髪をした少女が毛布にくしているようで、このときになって私ははじめて愕然とし るまってじっと仰向けになっていた。ほそおもての顔がなて目を覚ました。 ろう みひら んとも蠍のようで、少女はそのまま瞠いていた目を閉じ、 「ドクター」 ひとみ うすやみ 閉じてしまうと、その瞳が何色をしていたのか私にはもそう呼ぶ声は薄闇の中からひびいてきて、気がつくと私 あわ う思いだせなかった。手をのばして毛布をめくると、すぐは船室の狭苦しい・ヘッドの上に横たわっており、慌ててカ に真白な腹部が見え、手術野がすでにガーゼで四角く区切ーテンをひくと、つい今しがたの夢の中の顔のように、色 ひげ られていて、その薄い皮膚の上にごくわずかメスを触れたのない、しかし髭だらけの男の顔がのそいていて、その男 だけで、柔かい刺でも切るみたいによく切れ、そのうちはもう一度ためらいがちな声で私を呼んだ。 おもちゃ に少し太い血管にあたったらしく、血が玩具の噴水のよう「ドクター」 河口にて

4. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

にあやふやであった。身体じゅうがとても疲れているよう判断することがむずかしいことに出会うと、すぐに疲れて だったし、夢だか何だかわからなかった。しかし・ほくたちしまうのだ。それから、母が二人からはなれて階段をの・ほ もつけい は、いつの間にかちいさな手をつなぎあっていた。二人とっていったとき、・ほくたちはなにか黙契でもあるかのよう きちょうめん も寒くてがたがたしているようだった。明りの洩れているに、几帳面にならんで立ってそのあとを見送った。いっし か、・ほくたちはまた手をつなぎあっていた。 玄関へゆくと、はたして母が立っていた。 母が自分の部屋にはいってしまったから、・ほくたちも寝 「ママだわ」と姉がいった。 こわ 「ママだ」と・ほくもいった。そして声のでたことをふしぎることにした。しかし、怖いような嬉しいような気分がこ に思った。 ころを擽って、どうしても眠られないばかりか、しまいに ばあ 母は婆やになにか言った。婆やは母のコートをうけとろ・ほくはくすくす笑いだしたのだ。すると隣りの床のなかか うとしたが、母はそれをさえぎってまたなにか言った。婆らも忍びわらいがきこえてきた。それだから・ほくはますま やはむこうへ行ってしまった。・ほくは母のいうことがちっす笑ってしまった。隣りの床から半身をのりだす気配がし とも聞きとれないので、いらいらした。母ははじめて・ほくて、無理に笑いをおしころしたような姉の声が、わらった たちのほうに向きなおり、非常にしずかに、非常にやさしりしてはいけない、とこましやくれた調子で・ほくをとがめ - まくは、なにをいってるんだいというようなことを言 く、二人の頭に手をおいて、「風邪をひくから、もうお休た。に こぶし 、腕をのばして姉の蒲団を打とうとした。だが拳は蒲団 みなさい」と言ったようであった。しかし・ほくはなんだか わくわくしてしまって、両手で母の手にすがりついたのだにとどかずに、つめたい畳にさわっただけであった。それ が、その手が氷るように冷たかったので、弱りきってしまなのに姉は悲鳴にちかい声をあげて、ママにいいつけてや った。・ほくはその冷たい手をはなしたものか、それとも自ると言いだした。・ほくも負けずに、・ほくこそいいつけてや 分の手であたためたものか、判断することができなかつると言い、とうとう二人ともまた蒲団から一緒にぬけだし た。急に眠気がおそってきて、あたり一面がものうくなってしまった。 た。そのとき、ふいに・ほくたちは抱きしめられたらしい。 階段の下の部屋にはまだ電燈がついていた。一一人は階段 あまりそれが強かったので、息をつくことができなかったの下にならび、しかめ面をしてじろじろ相手の顔を窺いあ ほどだ。・ほくはいくらか・ほうっとなり、またしてもこころった。ようやく姉はうえにむかって低い声でよんだ。 から疲れてしまった。今でもそうなのだが、・ほくは自分で「ママ」 ふとん ろ・ 1 カ

5. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

そして何色ともっかぬ花の香にむせり、くろずむまでに真いになれ」 紅の花粉のなかをころげまわるにちがいなかった : ・ほくは思いだしたようにロ笛をふこうとして口をとがら とき どのくらいの刻がながれたかはわからない。ふと放心かせた。すうすうと息の音ばかりがした。 ら覚めてみると、教室のなかはすっかり暗くなっていた。 身体じゅうがふぬけたようにくたくたとなり、つみ重なっ 子供がもっ豊かな可能性が、やがて次第にぼくをひとり ふしぶし た疲労が節々を痛ませた。・ほくは重たい頭をふり、すこしの少年の類型に変えていった。そのために払った努力も並 ばかり伸びをして、ほとんど無関心に自分の絵を眺めやっ並ならぬものがあったが、他の元気のよい少年たちから・ほ た。ただうすぐろい色の混合が雑然と見えるばかりで、さくを区別するものは、すくなくとも外見的には見つからな きほどの興奮はどこかへ行ってしまった。それでも仔細にかったろう。・ほくはすでに従兄のもっ各種の能力を模倣す でたらめ ながめると、この出鱈目な絵にはなにか・ほくを満足させるることができたし、子供チームの投手もつつがなく勤めて いた。ほんのときたま、一種の覚醒のような瞬間が訪れる ものを含んでいた。・ほくは絵を二つに折り、・ハステルとと もにランドセルにしまいこんだ。 ことがあったとしても。 ・ : そのときぼくが転んで怪我をしたのは、むしろ・ほく また、なんという心身の疲れようだったろう。廊下にで びんしよう るとそのまま坐りこんでしまいたかったし、空虚な後味がが勇敢で敏捷な少年であったからだ。みんなは付近の丘で ぬけがけ しきりにした。窓辺に立って・ほくは外を見た。空はまだ明『陣地とり』をやっていて、・ほくだけ一人で抜駈の功をた ささやぶ みち るかったが、校庭はすっかり昏れてしまっていた。人っ子てようと、径もない笹藪のなかを大廻りして敵方を急襲し ちょうめい ひとり見えなかった。昏れのこった空の澄明さが、それをようとしたためであった。つまらない目的に夢中になって つる くぼち っ ちょっとした窪地をとびこえたとき、草の蔓が足をすく 一層寂しげに見せた。・ほくは自分が絵に憑かれていたあい とが 、・ほくをその場にうち倒した。おそらく尖った石かなん だ、ほかの子供たちが、おそらくはどんなににたのしい ひざがしら かに当ったのだろう、膝頭がじいんと痺れたまま、・ほくは く遊んでいただろうかを考えた。ぎくしやくとランドセル を背負いなおして、ぎしぎしときしむ階段をおりてゆきなしばらく起ぎ直ることもできなかった。辛うじて半身を起 がらも、ふしぎな悔いが身をせめたてた。それはこうぼくし、感覚のなくなった部分に目をやると、泥によごれた傷 に告げた。 口から新鮮な血がふきでていた。血は泥とまざりあい、そ 「つまらないことだ。益のないことだ。絵なんか、もう嫌れからゆっくりと臑のうえに模様をつくった。ハンカチを すね しび

6. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

つもよう す。シュミーズを着たまま寝たのがいけないんだ。あたしをひとつの言葉から飛翔させるのではないでしようか。工 もてあそ は起上ってシュ、、 ーズ脱いで、寝汗をかいた腕にタオルのロスがあたしたちを弄ぶなら、その残忍な手に愚かに減 そで 寝巻の袖を通したら、索莫となるほどひんやりしました。 ・ほされることが尊くはないでしようかしし 、え、なんだか 分らないのです。ただ、あたしは冷え冷えとあおざめて、 砂に埋れたマノンの浄らかなマスクを見つめていました。 ななめ 手鏡を二つ反射させて、自分の胸を横からも斜からもよ どろぬま くよく見ました。日本の女は胸がちいさく。へしゃんこでみ夏がきていました。次郎との関係は、もう泥沼。人体へ っともないと聞きますが、あたしのは立派なスロープ。このゆえしらぬ郷愁って、悔しくなるほどおおきなものだ。 れで赤ちゃん産むようになれば、、 / リウッドでもひけをと二人とも夏休にはとうとう帰省しませんでした。次郎の家 るまい。わくわくしながら眺めました。なんだかへんに大には実習があるからという嘘の手紙を口授して書かせてや ただよ きくなったような気もします。そこはかとない不安が漂っり、あたしもイト子にお金送ったりして貧乏になっちゃっ てきて、今までこのうえなくうつくしく思われた胸の隆起たので、嘘八百の手紙を何通も家へ出しました。あたしは も、かえっていやらしく見えてくるようでした。ぞくっと不安定の極に達し、もう・ハランスもへったくれもなく、二 っぷや して急いで隠して、おんな、と口に出して呟いてみまし人して東京近郊のあやしげな温泉へ行き、あげくの果自分 の下宿へ次郎を連れこんだのです。戦後やむを得ず下宿人 わからなくなったのです。「情婦マ / ン」という映画ををおくようになったその家では、あからさまに嫌な顔をし あや 見て、あたしは妖しく傷つけられたくな 0 た。傷つけてやました。ここでも真な嘘をつかねばならなか 0 た。あた りたくなった。終りの砂測の場面の描写はすばらしい迫力しは、嘘の名人。次郎と結婚しようかな。 ので、あたしは知らず知らず涙がにじんでくるほどでした。 もうじき休みが終るという頃のこと、次郎のあの部分が ししむら すべ うず かのう ドくずおれた肉のうえにさらさらと辷って行った砂の渦痛むと言うのです。なんだか化膿しているようだと、次郎 こわ の、言おうようないあのうつくしさ。真実怖いほどでしめ、とてもずかしそうな顔をしてました。樊迦らしい。 た。愛とよばれるものは、とびぬけた妄物のなかで、も 0 それでもほ 0 ておけませんから、しぶる次郎をりとばし ともかがやかしい光彩を放つのではないでしようか。愛がて医者へやり、そのあとひとりでけだるく坐っています おぼ 元来まやかしものである以上、それに溺れつくすことが愛と、ふっと嫌な猜疑が首をもたげました。あれはひょっと こ 0 さくばく なが くや うそ

7. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

382 そんなことを言ったって、大体トン・ホがいなくなった。 「アヒルを飼ったらどうかしら。町じゃよく売れるわ。ア 悪童たちのせいではなく、ビルだの高級アパートだの高速ンリに番をさせて、川につれていかせたらいいじゃありま 度道路だののせいである。 せんか」 トンポがいたら、子供たちょ、追いかけろ。それが子供「いかさま、さよう」 であり、残された最後の本能というものだ。 なんという素晴らしい話 ! その案は実現して、幼いフ アー・フルはよちょち歩くアヒルの群を、ごっごっした道に さよう、子供たちは本能的に虫をとらえる。それらが美かかとにマメをこしらえながらビッコをひいて追ってゆく たなすみ しく、奇妙で、動いたり飛んだり跳ねたりするからだ。い ことになった。棚の隅にしまってある婀は、お祭りの日や かめしい角があったり、まばゆく輝いたり、優雅にまたや日曜日にしかはくことを許されぬのだ。 かましく鳴きたてもするからだ。 しかしとうとう沼について、アヒルの子が口をばくばく 捕えた虫は、羽をむしってもいいし、油でいためてもい させて泥をすくいだし、何もかもうまくいっているとなる いし、籠にいれてじっと眺めてもいい。 それは子供たちのと、今度はアンリの目が輝きだす。彼は水底の泥のなか 自由で、虫をふんづぶしたからといって、あるいは虫にキに、天色のぬるぬるしたヒモみたいなものを見つけだし うんぬん スしてやったからといって、それだけで彼らの性格を云々 た。指の間をつるつるすべって掴まえにくい。節がやぶれ してはいけない。好奇心、これが人類をあやつってきた最ると、ビンの頭ほどのくろい玉に平べったい尾がついたば 初のカである。 かに小さいオタマジャクシがでてくる。このによろによ 幼いジャン・アンリ・ファープルの憶い出をきいてみよろした紐の正体はこれでわかった。つぎには沼の横の ( シ きれい ・ハミの林の中で、たとえようないほど綺麗な青色をしたコ きびしい気候にいためられ、畑にもろくな作物のできなガネムシを見つける。天国にいる天使はきっとこんな着物 いその村では、めぐまれた地主はヒッジを飼っていた。そをきているにちがいない。 こいつはカタッムリの殻に入れ の糞をこやしにしてジャガイモを作る。ジャガイモが家でて葉っぱでふたをする。まだまだ珍しいものはたんとあ 食べる以上できたなら、その余分で・フタを飼う。ところがる。石をこわしてみると、そのくぼみの底に、教会堂のシ ファー・フルの家では家畜一ついないのだった。 ャンデリアの垂れ飾りのようなキラキラ光る結晶が見つか 父と母とはある晩相談をする。 った。すぐさまポケットに入れる。まだまだいろんなもの ふん つの ひも

8. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

318 り読んでみた。この方が感銘は更に強かった。つまり私のされて、早く地方都市へ帰りたいという気が起ってくるの 家の横手から連る青山墓地が、私がそこに生れて厭だと思をどうする訳にもいかなかった。 ふんいき った狂院が、幼いころからのなじみ深い雰囲気が歌によま たとえば私は大学にはいってからのちも煙を禁じられ い・、ばく れていたからである。ほとんど幾何もなく、私は一人の茂ていた。父は若い頃「尻から煙が出るほど」煙草を喫って 吉愛好者、或いは崇拝者ともなっていた。 いたが、健康上の理由から禁煙し、その体験をかたくなに 終戦の前の七月、一時寮が閉鎖となり、私は父の疎開先息子にも押しつけた。あるとき、もう夜更けて父も寝てい の山形へ行くことができた。一種異様な心境である。私はるから気づかれないだろうと思い、うつかり隣室で煙草に つつましい気持にさえなっていた。ところが、当時の困火をつけたことがある。一服か二服しないうちに、「こら たど 難な旅をして辿りついたその疎開先で、父は相変らずやり宗吉、煙草を契ったかー」という怒声が唐紙ごしにとんで きれない口調で母に小言を言ったり 母は家が焼けてかきた。そういうところは動物的に敏感であった。 らそこに同居していたのであるーーーっまらないことにあれ夏の休暇を、私は父と二人きりで箱根の山荘の離れで過 これと気をまわしていらだったりばかりしていた。なかんした。私が炊事をやり、二間きりの家で一夏を過すのだか ずく蚤に対して憤激していた。要するに、茂吉という人間ら、一方ならず肩が凝った。父は私に庭の草刈をさせた は書物で見ているのが一番いいので、実物のそばに長くい り、樋につまった落葉をかきださせたり、或いは室内を掃 ると息がつまりかなわなくなる存在のようであった。それ除させる間、そばに立って監視し、指示し、舌打をした。 しやくこう でも私は父が散歩に出た留守に、ひそかに『赤光』『あら自分の思った通りにならないと気に入らぬので、他人にま たま』というような歌集をとりだして小さな手帳に筆写し かせ放しにはできぬ性分であった。夏休みの前半は私はま こ 0 だ父のそばに暮すのを嬉しく光栄なこととも思ったが、あ 私の父へのひそかな崇拝はその後もずっと長く続いた。 との後半は正直のところうんざりした。医学書以外の本 地方の学校にいて離れていればいるほど、その念は強まつも、大抵は父に隠れて読まねばならなかった。相変らず煙 た。私は大学も仙台だったから、この状態は長くつづい 草を禁じられているので、日に二、三度付近の林に行って た。そして、父ももう歳老いているのだから今のうちに孝煙草を喫った。雨の日は傘をさして煙草を喫いに行った。 行しようと考えて、休暇に戻ってゆくのだったが、父のそそれでも私は父の部屋を掃除しながら、坐り机の上にあ たの ばに戻って日が経つにつれ、その我の強すぎる体臭に圧迫る父の手帳を盗み見るのが愉しみであった。父も年と共に のみ しり ある

9. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

いほど浅黒い色をもち、途方もない瘋癲病みみたいな声を 従兄が舌をだし、片目をつぶってウインクみたいな真 だしたもので、万能の術をさずかった魔術師であることは似をして逃げていってしまうと、彼はがっかりしたように 疑いようがなかった。なにか幻妙な影が彼の背後にはっき腰をおろし、大事なパイプを撫でながらひとりごとをいっ まとうようにさえ思われた。彼の耳には随意筋が発達してた。「あいつはきっとろくなものにならん」こんなとぎ、 ふかっこう いて、自由自在にそれを動かすこともできた。「ほうれ、横のほうに不恰好に突きでた彼の耳は、いつまでもひくひ しわが 見ろ」と彼が嗄れ声でいうと、その並外れて突き出した耳く動いてとまらなかった。 はびくびくと動いた。また自然にその耳はひくつくことも魔術師の叔父がなぜか・ほくを特に贔屓にしてくれたの あった。たとえば彼がひどく立腹したときとか、ひどく上は、この腺病質の甥がほかの子供のように自分をばかにせ 機嫌のときなどに。 ず、うまくたぶらかされて心服しているのを見極めたから 「ほうれ、見ろ」と彼は言い、ものものしい身ぶりと共にさにちがいなかった。彼はぼくひとりを部屋によび、なおも とりこ っと腰をひねると、もう彼は何色もの色つきハンカチを手・ほくをしつかりと虜にしてしまうつもりか、いろんな話を でたらめ にして得意げにうちふってみせるのだった。それから瘤だしてきかせてくれた。その出鱈目な童話ともなんとも言い らけのパイプを口にくわえ、おもむろに一服したが、吐き ・、たい彼の物語に、ぼくはそれでも半ば身をよじって真剣 くさり はす だされた煙のなかから金色の鎖がとびでてきた。しかもそに聞き惚れたものだ。彼に物語の才能なそあろう筈がな れは煙と一緒にふわふわと宙を漂っているーだが見物のく、もっと困ったことには語り手が前の筋を忘れてしまう なかにはむかし・ほくの家によくきたおませの従兄がまじつので、一人息子にいつの間にか兄弟ができていたり、魔法 ていて、目ざとく手品の種を見破ってしまい、さも樊迦にの玉のおかげで不死身の筈の英雄が、ごく簡単にライオン ひも したように「なんだ、紐がついてらあ」と言うのだった。 に喰い殺されてしまうなどは朝飯前のことなのだ。おまけ すると魔術師は年甲斐もなく地団駄ふんで、もの凄い嗄れに彼は殺伐なことが好きで、筋がゆきづまると誰でもかま 声をふりし・ほった。「紐があるって ? どこにあるのだ、わず打殺してしまったものである。 この罰当りめ。そんなこという奴は悪霊に目玉をつぶされ「魔法の玉はどうしたの。死なない魔法があるんでしよう てしまうそ。紐があるって ? 一体どこにそんなものがあ ? 」と、・ほくは息をころしながら、それでも不満のあまり るのだ。罰当りの、法螺吹きの、悪魔野郎め ! 紐がどこそう訊いた。すると真面目くさった彼の浅黒い顔に、おろ にあるか言 0 てみろ。にだ 0 てち 0 とも見えやせんそ」おろしたような、手品の種を見ぬかれたような困惑のかげ ふうてんや こふ

10. 現代日本の文学46:吉行淳之介 北杜夫 集

きばは けたよ」 だぞ。こんな大きなロして矛が生えてて、金いろの目をし 「フム、フム、どんな形をしてた ? じゃあ、それはべているんだ。藪のなかから急に人間にとびかかるのだ。狼 ニテングタケというのだ。おまえはきっと丘の森あたりにに会ったら、おまえなんそ一口に食われてしまうそ」 まで行ったんだな。あの茸はあそこまで行かないと見つか デヒタは黙りこみ、うつむいてスウブの残りにパンを食 らない」と父は言って、鼻をうごかして、エンドウ豆を食べました。そのあいだにデヒタの父はエンドウ豆を食べ終 って、母にむかって小声で言ったのです。 「だが、ペニテングタケには毒があるんだ。おまえ、さわ「おまえ、気をつけなければいけない。デヒタの奴、色気 りやしないだろうな」 づいたのかもしれんそ、裸かの女の子なんて言うし、赤い 「ウン、茸が・ほくにそう言ったもの。わたしは毒茸ですっ パンツなんそとぬかしおった」 しかしデヒタは、床にもぐってからも、どうしても納得 「おやおや、まあー」と、母はおどろいてたちまちスプ 1 がいかなかったのです。目をつぶると、裸かの茸の精が見 ンを落っことしました。 えてきます。・ほくは嘘をついたのではない。明日また行っ 「本当はそうじゃないの。茸の精が口をぎいたの。茸の精て、もっとしつかり見てこなくちゃ、そう思いながらデヒ は、・ほくにクルミをくれるって言ったよ」 タは眠りこんだのでした。次の日、デヒタは元気よく森に でたらめ 「出鱈目いうんじゃない ! 」と父がどなりました。「茸のやってきました。だんだんとほそい足も慣れてきて、もう じゅもん 精なんているものか」 そんなに呪文をとなえなくても歩けたのです。 うそ こけ こもれび 「嘘じゃないよ。茸の精はかわいい女の子で、ほとんど裸森はしずかで、木洩日がチカチカ苔のうえにふっていて、 きのう かだったけど、赤いパンツをはいてた」 なにもかも昨日のとおりでした。紅い茸のまえにきて、デ たた 狼 「・ハカぬかせ ! 」父はテープルをドシンと叩いて、とてもヒタは腰をおろしました。すこし心配でしたので、せきこ AJ とても大きな声をだしました。「茸の精なんか本当にいるんで話しかけました。 「キノコの精、キノコの精、こんにちは」 少ものか。そんなものはみんな作り話なんだ。大方、あのヒ いいかね、お父さん ュフテ婆さんにでも聞いたんだろう。 しかし、答える声はありません。デヒタはしばらく耳を : それに、ヒョコヒョコ森へすましてから、ますます心配になってきました。 にはちゃんとわかるのだ。 おおかみ 「キノコの精、キノコの精、なんとか言っておくれ」 なんか行くんじゃない。いいか、村の外には狼がでるの はな やぶ