232 んでしまったのですよ。訳がわからずにいる父はとうとうるほど」 こう - や 無理矢理に王位につかせられてしまいました。私も自然そ「だからわしはオリンポスにはほとんど行かない。 の跡を継いでフリギア王になっただけですよ。だから馬の って森のなかで暮らすのが一番似あっている。吹きたくな 骨なんです。たしかに、馬の骨なんです」 れば笛を吹くさ。アポロンにはとてもかなわないがね」 ミダス王は顔をうつむけて、ひと足ひと足惰性のように 「とんでもない」 ひとごと 歩きながら、独り言のようにしきりに馬の骨だとくりかえ ミダス王はおおきく手をふった。彼はまだ牧神のほうが じようす した。牧神はこの話に興味を催したのか、歩度をゆるめて上手だと信じきっていたし、どうしてもアポロンをよく言 相手の顔をあらためて眺めたが、 う気にはなれなかったのだろう。 「そんなことを言えばわしこそ悲観しなけりゃならんよ。 「アポロンは大したことはありませんな。さっきの判定は わしは誰の子なのかもはっきり知らないのだからね」 どうしたっていかさまですよ。どうして貴方までがそうア あなた 「貴方の父上はヘルメス神でしよう ? 」 ポロンなんかに参っちまう必要があるんですかね」 「皆はそう言っているがね。表面はそういうことになって「わしはどうもすこし好色すぎるからな」 いるのだ。まあヘルメスが父だとしても、母は誰だかわか と、牧神は苦笑して言った。一本気なミダス王の問いを らない。やはり皆はいろいろに言うが、どれも不確かなのうまくはぐらかしたつもりだったが、あいにく相手はその 言葉をそのまま受けとった。 だ。アルカディアの一水精が母だときいたことがあるが、 ・こじようだん あるいはそうかもしれない」 「御冗談を ! 」と、彼はむきになった。「アポロンのほう がよっぽど好色ですよ。いや、あの神こそとんでもない好 「でも貴方は立派な森の神様だし : : : 」 みにく 「立派なものか、自分でもっくづく醜いと思っているよ。色漢ですよ」と好色という語を聞くほうが・ハツがわるくな わしが生れたとき、あまり奇妙な赤子だったので、母も乳るほど力をこめて発音して、「むろん貴方のほうがよく御 母もおどろいて逃げてしまったというくらいだ。ヘルメス存知でしようが。そら、オルカモスの娘のレウコト工とは うさぎ が兎の皮につつんでオリンポスの神々に見せたら、いあわうつつをぬかす。片一方ではクリティといちゃっく。それ こし J ′こと せた神たちは悉く失笑してしまったそうだ。だからわしからニムペのダフネを追いまわした話なんそ有名じゃあり げつけいじゅ の名よ、。、 ませんか。そのためダフネは気の毒にも月桂樹に変ってし / ン ( 悉く ) とついたのだよ」 おくめん 「なるほど」とミダス王は思わず首をふった。「いや、なまったんですからね。それを臆面もなく、神聖な樹だとか なが だせい
266 晩にうかれあるくことがあるのだ。そうして彼等は、森で いなと思いました。はたして茸の精はこう答えたのです。 くるみ できる木の実だの花の蜜のシロップだのをドッサリ持って「胡桃の実は沢山あります。でもさしあげられません。あ ばあ いるのだ。そう腰曲りのヒ = フテ婆さんが話してくれたじなたは失礼だから」 あわ ゃあないか。デヒタはすこし茸からはなれて、トクトク胸 デヒタは慌ててペこんとお辞儀をして言いました。 をならしながら、おそるおそる言ってみました。 「ごめんよ。ぼくだって今すぐくれなんて言わないよ。こ 「キノコの精、でておいで。・ほくはちゃあんと知ってるれから・ほく、キノコを大切にするよ、けっして踏みつぶさ よ」そして、じっと息をしずめたのです。 ないようにするし、虫がたかったら、とってあげるよ。そ するとどうでしよう、本当に茸の精があらわれたではあうしたらクルミをくれるかい ? 」 りませんか、それは小指ほどの可愛らしい少女で、赤い 「ええ、ええ、沢山あげますとも」と、茸の精は答えて、 ンティをはいていました、上半身はすっかり裸かで、乳のほそい白い肢で紅茸の傘のうえに立ちあがりました。 ところだけ、やつばり赤い布でかくしているのです。彼女用がすんだから帰るのだな、茸のなかにもぐりこむのだ は茸の傘に腰かけて、糸みたいにほそい白い肢を・フラブラな、とデヒタは思いました。そのとおりだったのです。茸 させて、もの問いたげにデヒタを見つめました。 の精の姿はいつのまにかフッと消えてしまっていました。 あいさっ デヒタは一生けんめい気をしずめて、なにか早く挨拶し「じゃあ、約束したよ、きっとだよ」デヒタは圧い茸にむ なければ失礼だろうと思うのですが、なかなか言葉がでてかって念をおしてから、森をでました。日が暮れるまでに ぎません。やっとのことでこう言いました。 は家へかえらねばならなかったからです。 「茸の精さん、君、とても綺麗だよ」 夕食のテープルについて、デヒタはジャガタラ芋のスウ そういえば、茸の精が喜ぶだろうと考えたのです。はたプを一口すすって口をひらきました。 して茸の精は微笑したようでした。デヒタも嬉しくなっ 「・ほく、今日またお山へ行ってきたよ」 て、今度はこう言いました。 「まあ、そうかい、だんだんおまえの足も丈夫になるね」 「ねえ、僕、大きなクルミの実がほしいんだよ。持ってた と、デヒタの母はニコニコしてスウブをよそいました。 ら三つばかりくれない ? 」 「山になんか行けるものか」と、デヒタの父はエンドウ豆 言ってしまってから、デヒタは始めて会ったばかりで、 をほおばってモゴモゴと言いました。 すうすう もうクルミをくれなんて言うのま、 をいくらなんでも図々し「だって、・ほく、お山の森んなかで紅いきれいな茸を見つ みつ きのこ
けてむせかえった。 あんな人たち追いださないの ? 」 「なにがおかしいの ? 」 「追いだすたっておまえ、 いったんお貸ししたのを : : : 」 あき子は直感だけは鋭い。彼女は自分の知能が劣ってい 「お母さまには頼みません。あたしが追いだします」 ることを半ば無意識に自覚していて、そのため妙に四角ば姉の目が鈩りあが 0 てくるのを渡は眺め、いきりた 0 た った、ときには朗読でもするような口調を使うのである。 カマキリに似ているな、と思った。 「何もおかしくないよ」 「その前に部屋代をとらなくちゃいけません」 、え、たしかにあなたは笑いました」 「部屋代といってもねえ」と、のろのろと母が言った。 まるで外国語の直訳だな、と渡は思い、仕方なしに訊い 「道楽で部屋を貸してるのじゃありませんわ」 こ 0 あき子は彼女の一家がいまにも路頭に迷うという幻想に 「佐々木さんたちがどうかしたの ? 」 浸っていて、渡が母に小遣いをねだったりすると、すぐさ 「あのテンプラ学生の部屋の汚ないことったらーまるでまりつける。そのくせ自分では人一倍、ものにならぬさ ぶた けいこ 豚です。それにあの人たちときたら、まるでエントッみたまざまな稽古代を浪費しているのである。 いに鷦草をすってます」 「だってあき子、書生さんのことじゃないか」 「そりやおまえ、煙草くらいおすいだろうよ」 「お母さまのようになさいましたらね」 大儀そうに母親が口をはさんだ。 と、あき子はほとんど粛顔をして言 0 た。 はいざら 「すうだけじゃありません。吸いさしを天皿めがけて遠く「あたしは誓っていいますが、この家をのっとられます 髪から投げるのです。万に一つもはいりやしません。畳が焦わ。あの大学生たちはそういう手合いなのよ」 げだすと、あの人たち、どうすると思います ? 寝そべっ 「アプレとかいうのですかねえ」と、母親は自信なさそう 乾たまま、火事だ、火事だ、ってこうよ。一一人とも起上ろうに言った。「マンボとやらを踊るのかえ」 中ともしないで : ・ : こ 「踊りなんか踊れるものですか」 あき子は軽蔑しきったふうに、いらいらと肩をうごかし 霧「そりや危ないねえ」 こ 0 ちっとも危なくないような調子で母が言った。 「危ないどこじゃありません。そのうちあたしたちは焼け「あの人たちがどんな歌を唄っているかご存じ ? 杉野は 死にますわ。きっと黒焦げになりますわ。お母さま、な・せいずこ、スギノはいーずこ、ってこうです。あの二人は白 こ けいべっ こイか うた
すると、京子は、言葉を付け加えた。 「これは良い店だなあ、おれはこういう店が好ぎなんだ」 「あのあとで、煙草を一服喫うことがあるでしよう、その と、言うだろう。 ときの先生の顔 0 て、き 0 とそういうのだろうとおもうの伊木たちの年代の人間は、皆一様に戦後混乱期の悪酒時 よ」 代に酒を飲むことを覚えたのだから、繩のれんの店や焼酎 うそ 花田は京子を鋭く眺め、苦笑しながら立上った。 には郷愁に似たものがある。花田の言葉に嘘はないかもし 「これはいかん。そうまで、からかわれては閉ロだ。そろれないが、おそらくその言葉はいたわり深く耳に届いてく そろ退散しよう」 るだろう。 そう言うと、花田はもう一度、鋭い一瞥を京子に与え、 「どうしようか」 「伊木、今夜はやけ酒だ。もう一軒つき合ってくれない ともう一度、花田が言い、伊木は迷っていた。立止まっ か」 てからの僅かの時間がひどく長く感じられ、彼は右腕の先 どうけ その言葉は、道化た余裕のある口調で言われた。伊木はにぶら下っているトランクを地面に置いたものかどうか、 あんど 安堵すると同時に、花田のその余裕を憎んだ。 迷っていた。 「しばらく振りじゃよ、 オしか、つき合えよ」 「木暮の通夜の日に行ったクラブがあったな。あの店へで うなす 伊木は頷いて、藍色のトランクを提げ、花田のあとに従も行くとしようか」 と、花田は言い、直ぐにそのときの状況を思い出したと みえる。花田一人が女たちに取囲まれ、他の友人たちは置 二十七 き去りにされたのだ。 群「さて、どこへ行こう」 「いや、あの店はやめておこう : ・ 。そうだな、少し腹が 植花田は、路上に立止まって、伊木を顧みた。 空いてきたから、おでんやヘ案内しよう。安直で旨いおで の「君、ほかに行きつけの店はないか」 んやがある」 の花田の言葉に、伊木は時折訪れる一ばい飲屋の店構えを その心使いに、再び伊木は傷つきそうになる。花田がど こうしど しようちゅう すみ ちょう 思い浮べた。格子戸の入口に「焼酎」と墨書きした提のように振舞ったにしても、その都度、伊木は傷つきそう 灯。その雅趣を彼は好んでいた。しかし、もしその店に案になる。それが現在の花田光太郎と自分との関係なのだ、 内したとしたら、花田のことであるから、 と伊木はおもった。 っこ 0 かえり す なわ
こみち , や 4 1 ロ 唯も、ない暗い小径をどこまでもさ迷ってみたいとい 「あなたたちはどうなんです ? 」 う気持が強くおしの・ほってきた。 渡は言いかえした。彼は二人の大学生とここ十日ばかり だしぬけに、前のほうで万歳の声がわぎおこった。提灯一緒に暮しているうち、そういうロのきき方を覚えて が何回もさしあげられ、その一団がひきさがると、否も応た。 * そうもう おが もなく渡たちは一番前列におしだされた。ホテルの門の前 「俺は草莽の臣だよ」と、佐々木は言った。「陛下を拝め には繩がはられ、閉ざされた門の背後には数名の警官が立なくて寂しかったよ」 っているだけである。小太りした青年団の団長らしい男「ここら辺はしけてるな」と、山口。「明日あたり自転車 が、陛下は御旅行のお疲れで皆さんの歓迎におこたえできで旧軽へ行ってみようや」 とな ないので、ここから陛下の万歳を唱えようと思います、と「女の子のことなんか考えるな。俺は土下座をして拝みた いよ」 いう意味のことをのびあがって叫んだ。彼の声は気の毒な くらいかすれ、彼の頬は満悦のあまり今にもこ・ほれおちそ「もう一度行って、提灯でもふってくるさ」 うだった。まるで陛下が出てこられないのは彼の一存でき「しかし、こう人が多くっちゃ、土下座をすると踏みつぶ められたかと思われるほどである。それから団長はぐっとされるからな」 からまっ こすえ 胸をそらし、それまでどこかに隠しておいたらしい堂々と今夜は霧は湧かず、星たちが落葉松の梢ごしにふるえて した声で叫んだ。 いるのが見てとれた。帰途、二人の大学生は歌をうたいだ どうまごえ こと はす した。殊に佐々木は調子外れのおそろしい胴間声をだし 「天皇陛下、ばんざあい ! 」 こ 0 髪群衆がそれに和し、渡も人々と一緒に万歳を叫び、つい た でその場から押しだされた。渡はつまずきかけ、ようやく「まだー沈まーずやーティエンはーーー」 行きちがう人がふりかえるので、渡は恥ずかしかった。 乾人ごみから抜けだすことができた。 家について、自分の部屋へはいろうとしたとき、渡はあ 中事務所まえの広場まで戻ってきたとき、ふいにうしろか 霧ら声をかけられた。二人の大学生、佐々木と山口がにやにき子につかまった。 「渡さん、あんまりあの人たちとっきあわないでね。来年 やして立っている。 「渡君、君は感心だねえ。愛国者だな。それとも女の子ではあんたは高校生なのよ」 「偶然一緒になったんだよ」 も捜しにきたのかな」 なわ ほお
がうごき、それをおし隠すような嗄れ声がしぼりだされだが、それは彼自身の試験に際しての復習のためであり、 」 0 もうひとつはそうやって罪のない子供を驚かせ尊敬させる こんたん 「そうだとも。それに気がつくとはなかなかえらいぞ。そ魂胆でもあった。確かに・ほくにとって、そのため物語全体 うだなあーー王子さまはうつかり忘れていたんだよ。そにさも価値ありげな重々しい光沢が加わったことも事実で う、彼は死んでしまってから、ひょっくり魔法の玉のことあったのだが。 を想いだしたんだ。そこですぐにポケットの玉をさすりな「王子さまはそのまま火星に飛んできた。火星というのは がら願をかけた。するとどうだろう、なんともはや摩不しょ 0 ちゅう火が燃えている星で、寒い月世界からや 0 て きてみると・ : : こ 思議なことに : ぼくは訂正した。「王子様は今まで金星にいたんだよ」 「だって死んだ人が手を動かすことができる ? 」 魔術師の叔父は顔をしかめた。不機嫌げに目顔で黙って「そうだ、金星でもべつに差支えない。さて、火星にきて いろと合図をし、ひとしきり思案のあとで、さてこう言っみると、ここにはろくろ首がうようよしている。王子様は こ 0 そいつの長い首をつかまえて、そう、ここんところだよ」 ししカね、それは考えと、彼は自分の首すじを指した。「ここの筋肉は羅甸語で 「そこが魔法の玉の魔力なんだよ。、、、 あや しいかね、ムスクル もっかないような妖しい力なんだ。とても不可思議で、もやつばり長い名前がついている。 そういうことはこの世にちょっぴりあるだけなんだが、そス・ステルノクライドマストイデイウスというんだ」 れはそれは考えもおよばないような : : : 」彼はつまずきな話しおわると彼はほっとしたように驫草に火をつけ、な がら同じことを繰り返したが、聞手の子供の顔にわずかでにげないふうに、「どうだ。面白かったかい ? 」とか、「叔 もあきあきした色がながれるのを見ると、あわてて話をと父さんは色んなことを知ってるだろう ? 」とか訊くのであ ばした。「止っていた王子の心臓はまたゴトゴト音をたてった。・ほくが素直にーーー事実こんな偉い人はいないと思っ こうてい た。初めのうちは、とぎれがちで、たとえば絶対性不整ていたのでーーーうなずいて肯定的な返事をすると、彼は満 幽脈、いいかね、これは羅甸語でアリトミア・ベルベトラと足げに・ほくの頭をなでた。「大ぎくな 0 たら、お前はき 0 いうんだよーー・・そんなふうな音だったが、今はもう普通にと偉くなれるぞ。きっと立派な絵かきになるそ」それは・ほ くが図画がとびぬけてうまく、展覧会に出品されていくっ 鼓動しはじめた」 彼はそのようにむずかしい医学用語を話に挿入したものもの賞状を貰っていたことをさしていた。 さしつか
ついたらしい山口が言った。「すでに一緒にいるわけだか と女も言った。 らな」 「どうしてあなたがあたしのそまこ、 ー冫したがるのかもわから 「そうだ。それでは少し一緒に休もうじゃないか」 ないわ。なぜもっと若い子を捜さないの ? 」 たづな 佐々木は馬からとびおり、女の馬の手綱をとって鞍のう「あなたにしても」 えを見上げた。 と佐々木が言った。 「御婦人、手を貸してあげますよ」 「一度か二度結婚しただけで、そんな口をきかないほうが 「それも命令 ? 」 無難というものですよ」 「いいや、懇願ですよ」 女は再度、意外にあどけない、そのくせ何もかも承知し 女が少しためらった末、無言で鞍からおりかかるのを、 たような徴笑をうかべた。彼女は投げだしたなめらかな足 佐々木がささえた。必要以上に彼が女の体に手をまわすのを指でこすり、ひとりごとのように言った。 を渡は見た。どうして女がそのように言うなりになるのか「やつばし長いズボンをはかなくちやダメね。鐙の革です 渡には理解できない。山口がにやにやしながら渡にもおりれたわ。ほらね」 のそ るようにと合図をしたが、彼も内心いぶかしく思っている佐々木が無遠慮に覗きこみ、そして言った。 ようだ。 「ほんとだ、赤くなってる。胸がいたむくらいにね。やっ 木洩れ日がさしているブナの大木の下に四人は腰をおろばりあなたはそういうロのきき方のほうが似あいますよ。 した。女の、スラックスからのびたすらりとした足と、無そのほうがとてもいい」 髪恰好に大ぎなテ = スルとの対照が妙にあどけなか 0 た。か「じゃ、そういうロをきけるように、あなたたちもお話し ひも た てよ。そちらの方は山口さんね。あなたは ? 」 がみこんで靴の紐をなおしながら、女は言った。 「名前なんかどうだっていいです」と、佐々木は言った。 乾「あなた方はまだ学生さんね ? 」 中「そのとおり」 「こっちだって、あなたの名を知りたいとは思いませんか らね。お話はしてあげますよ。僕らはこの坊やの家にいる 霧横柄に佐々木がこたえた。 「あなたは学校なんかに行ったことないでしよう。難かしんです。この坊やの姉さんに追いたてられながらね」 渡は視線のやり場を失い、草を食んでいる馬の手綱をひ いことは何にもわからないでしよう ? 」 つまっこ。 「そのとおりよ」 おうへい あぶみ
間宮は、かたわらの女を見た。彼女は無表情にそこに立彼女は片腕を間宮の腕にあずけ、うつむいて歩きなが っていた。薄いレインコートにつつまれて、貧しく、うそら、その茶色の長い髪につつまれた小さな頭には、やはり なんの考えも浮んでこないらしかった。 寒げに。その柔かそうな茶色の髪のうねる小さな頭には、 いくらか経ってから、女は低く言った。 なんの考えも浮んでこないようだった。 「収容所に帰るわ」 「行こう」と間宮は言って、歩きだした。 女は無言で従った。うつむいたまま並んで歩いた。 それから不意に立止ると、大きく瞠いた青い目でまっす ぐに間宮の顔を見つめた。 さっきよりも空はどんよりと曇っていて、雨になるのか 「アキラ、 ・ハスの停留所まで送って」 な、と間宮は思ったりした。いつの間にか霧のように降っ 間宮はうなずいた。それ以外なんの方法があったろう。 ていてびっしよりと道路を濡らし、またいつの間にか気 この娘は明日からまたあてもなく街を歩きまわることだ づかぬうちに降りゃんでしまう、いつもそんな雨なのであ る。しかし空気は湿っ。ほく冷えきっているものの、このとろう。なんとか勤め口が見つかるといい。 「向こうまで送ろうか」 きはまだ降りだす気配はなかった。 ろうば やきぐり 「いいの、・ハスの停留所まで」 小路の入口に焼栗を売っている老婆がいた。丸い鉄製の 容器から栗をつかみだしている。子供たちがまわりに集っ停甯所には人影がなかった。 間宮はいくらかの紙幣を無理に彼女の粗末な・ハッグの中 ている。地味すぎてあまり似あわない黒い帽子をかぶった におしこんだ。もちろん些細な額で、彼女の心をも自分の 可愛らしい少女が、買物籠を脇にかかえて栗を買ってい る。ここら辺りには古びた建物が多い。明らかに爆撃の跡心をも傷つけないほどのものであったが。アルムートは少 を修理したものも目につく。やがて道は広い街路に出た。 し掴んでから、目を伏せて低く、「ダンケ」と言った。 たたす 「ひどい目に会ったね」しばらく無言で歩いたのち、間宮 二人はしばらく街角を眺めながら話もなく佇んでいた。 思いだしたように、若い女は少しこごんで自分の足を指 は一言った 0 すそ し、 それは裾の長いレインコートのため、平たいかな それでもアルムートは黙りこくっていた。 「アキ り傷んだ婀をはいた先のほうしか見えなかった 「申訳ないことをした」 ラ、あなたにもらったストッキングをはいている」と言っ 「あなたのせいじゃないわ」呟くように女は言った。 「これからどうするつもり ? 」 かごわき つぶや こ 0 みひら
140 くても、なりようがないな。そういう意味で、被害者とい ているぞ」 えないこともないな」 そのことには、伊木は先刻から気付いていた。井村の話 終りの方は、酒席の冗談の口調になり、伊木はもう一言のときから、すでに京子の眼のまわりには薄桃色の靄がか 付け加えた。 かっていたのである。花田の言葉が、つづいた。 「もっとも、なれなくて幸いだが。花田光太郎という痴漢「もう、そろそろ店の終る時刻だな。京子くん、今夜は一 が、社会面をにぎわしたら、これはやはり困る」 緒に帰ろうじゃないか。痴漢になるより、やはり合意の上 花田は、同じ口調で答えた。 の人間関係のほうがいい」 「行きは痴漢で、帰りは三人の善良なる小市民か」 自信のある口調ではない。京子が意のままにならぬこと てきだんへい の末路か」 「勇敢なる三人の擲弾兵・ についての愚痴を、伊木に洩らしたことのある花田であ くど と井村が言い、花田がすかさず、 る。そういう言い方で、京子を口説いているわけだ。しか 「末路、なんそと、しやらくさい。井村はね、この前警察し、京子と伊木との関係については、花田は考えてみる気 ・こうまん に泊められて以来、痴漢になるのは懲りごりしたんだそう持さえ持っていない。その傲慢さを、この夜もまた、伊木 だ。以来、井村誠一は善良にして小心な亭主 : ・ : 。そしては憎んだ。 伊木一郎は」 そのとき、京子が言った。 「伊木のことは、言うまでもない」 「先生は、こわいから厭。伊木さん、送ってくださるわ 井村の断定的な口調に、おもわず伊木は京子の顔を見ね」 た。京子と眼が合い、京子の眼に、二人だけの秘密を頒け「なるほど、伊木ならこわくない : そその けげん 合っている同士の光が浮び、その光が唆かすように強くな と言いかけて、花田はロを噤んだ。怪訝な表情がその顔 った。おもわず、彼の眼もそれに感応した。その自分の状に浮び、京子と伊木の顔を見比べた。その眼を意識した伊 態に気付いた彼は、いそいで絡み合った視線をはずし、津木は、反射的に京子にたいする姿勢が定まった。瞬間、彼 上京子にたいする自分の姿勢のいまだに定まっていないこ は京子が自分の腹違いの妹かもしれぬという疑念を忘れ、 はんばっ はす とを痛切に感じた。そのとき、花田の弾んだ声が聞えた。京子に寄添う心になった。花田光太郎にたいする反撥が、 こう 「おや、京子くん。厭だ、などといいながら、すっかり昻彼をそうさせたのだ。花田は烈しくまばたきし、改めて京 ふん 奮しているじゃないか。眼のまわりが、ぼおっと圧くなっ子と伊木を見比べた。 から もや
る。頭の上で折れ伏した草が起きなおり、少年の上をすっ と、ふしぎに弱々しい佐々木の声がした。 ぼりとおおった。そのまま渡は目を閉じ、かたい大地と雑「半日も会わないと業は駄目になる。君を見ないと何も手 草の中に、熱く乱した頭をゆだねた。 につかない。夜がくるのを待っていられない。明日はいっ そうやってずいぶん長いこと寝ていたようだった。 会える ? 」 ごうがん ふと、横手でほそい声をふるわせていた虫が鳴きゃんその声はとてもあの傲岸な佐々木のものとは思えず、息 だ。誰かがやってくる気配がする。かすかな人声もきこえをころしている渡には、いましやべっているのは自分では た。渡は頭をもちあげ、むこうの道のほうに二つの人影をないかという錯覚さえわきおこってぎた。 認めた。彼らはこの草原にはいってくるらしい。渡は起し「わからないわ。叫愛い坊やね。はじめはもっとしつかり かけた上体を元のように草の中に寝かせた。 していたのに。ほんとに生意気なくらいだったわ」 草が踏みしだかれる音がし、渡のいる場所からほど遠か「そのとおりだ。自分でもこんなにだらしなくなるとは思 らぬ地点で、彼らは草のなかへ倒れこんだようだった。音っていなかった。軽井沢まで君を追ってくるのだからね」 もなく二つの体がもつれあう気配がし、いくらかの間隔を「また前のようにしつかりしてよ。昼間は危ないわ。今日 おいて、ロをすいあう息づかいが聞きとれた。こちらにひみたいな真似をしてはダメ」 そんでいる少年の感覚は痛いまでに敏感に、しびれるよう「自分でどうすることもでぎないんだ」 とうす、 に伝わってくる未知の陶酔にまきこまれていった。 「でも、今日はとても生意気で、はじめ会ったときとそっ やがて、むこうで草のふれあう定かならぬ音と共に、どくりだったわ」 髪ちらかが起きなおった。低い男の声がした。公式化された「なぶらないでくれ。ああでもするより仕方ないじゃない 愛の言葉をささやくのが聞えた。 か。傷、まだ傷む ? 」 乾一瞬、渡の体はこわばった。すぐそこにいるのは、あき「もう大丈夫。それより山口さんて人、気づきやしないで 中らかに佐々木にちがいないと思われたからである。さらしようね」 に、少年を心底からふるわせたのは、あの忘れがたい曇っ 「あいつはこのうえなくお人好しだよ。まだ一緒にいた坊 霧 たような女の声が伝わってきたことだった。 やのほうが危ないくらいだ」 「そんなにあたしに夢中なの ? 」 「あなただって坊やじゃない。もうあんな真似をしてはダ 「メチャメチャに夢中なんだ」 メ。もう少し聞きわけをよくして」 だめ