だされてはれ・ほったく、むくんでみえた。息をするたびに た。腰に紐がまきつけてあり、紐の端が長くうしろにのび かばん くちびる 唇の端がこまかくふるえ、つぶれた小鼻が横にふくらんてその先に鞄がむすびつけられている。一と足ごとに、左 だえき ちぢ だり縮んだりする。流れだした唾液が、白いつららになっ右にはねながら、地面をすべって、ついていく。 ぶしよう その鞄の音が、疲れきった二人の暗い心には、なにか虫 て、無精ひげの先に下っていた。かすかに、いびきさえか きはじめたようである。 の匐いずった跡のような、一本の線になって刻みこまれる 「起きなさいよー」っづけさまに、手の甲で、耳のうしろのだ。じっさい久三は繰返して、広い白布のうえを、端か のど を打ちすえる。声が干あがった喉の裏にはりついて、ひりら端にのろのろと匐っていく虫の姿を思いうかべ、それを ひりした。 自分になそらえてみたりしたものだ。すると不確かだった つぶや 高はわけの分らぬことを呟きながら、久三の手からのが自分の運命に、確かな裏づけがあたえられたような気がし れようとして、体をよじった。そのはずみに、傷ついた左てくる。あるいは、一歩の幅を五十センチと計算して、一 手を体の下にはさみこんで、しわがれた叫びをあげ、正気足ごとに百、百五十、二百、三百 : : : と加えていってみ オた をとりもどした。久三の腕につかまり、ぎくしやくと体をる。やがて、万の桁にちかづき、混乱しはじめでもする りようひざ 起こす。両膝で立って、首を左右にふらっかせながら、うと、それだけ希望に近づいたような安心が得られるのだっ ) 0 わずった声でわめいた。 「なぐってくれ、もっと : ・ : こ 高が鞄を手に持てなくなったのは、つい今朝がたのこと 小んく である。夜が明けると間もなく、丘のくぼみに細長い灌木 久三は両手で交互に打ちつづけた。感覚がにぶってい て、まるで綿を打っているようだ。しかし指先が折れるよの林があった。そこで火をおこした。しかし高は体をすく うに痛み、それが肩から耳までひびぎあがって、ただそのめ、血走った目だけを動かして、不安そうにあたりを見ま わし、休もうとはしないのだ。 痛みだけが自分の動作をたしかめさせてくれるのである。 「、もういし 行こう・ : : ・」 「地図をみせてくれ。」 高は喉をならし、不確かな手つきでさえぎって、白く背しばらく地図をのぞぎこんでいてから、前の小高い丘の をみせて光る荒野のうねりを恐怖にみちたまなざしで見ま頂上に登っていぎ、振向いて久三をまねく。南の方を指さ わした。「くそ、行くそ : : : 」杖をにぎりなおし、まだじして、疑わしげな口調でたずねた。 ゅうぶんに立上らない中腰のまま、ふらふらと歩きだし「なにか、見えるかね ? 」
手袋をぬがせるのに、まずひどく骨がおれた。そのあい やがて、指全体が黒く、冷たくなる。ナイフは、鉛筆け だ高は、歯をむきだし、足で地面をひっかいて、わめきつずりをすこし大きくしたくらいなもので、とても人間の体 づける。小指の先が赤黒く、二倍もの太さに腫れあがっての細工につかえるような代物ではなかった。思いきって、 力いカ・つ しばり目のすぐ上のあたりにつきたててみる。皮がやぶ いた。中に、爪が、貝殻のように白くくいこんでいる。 れ、黒い血がゆっくりあふれだしてきた。しかしそれ以上 高は一目みるなり言った。 どうにもならない。横に引いても切れないのなら、ついて 「切ってくれー」 久三が黙っていると、せかすように、「早く、暗くならひきはがす以外、方法がないわけだ。しかたなしに、また んうちにな : : : おれの、左のポケットに、ナイフが入って・ヘつのところに突ぎとおす。可度かそんなことをしている ぞうもっ る。つけ根のところを、ぎゅっとしばって、二番目の関節うち、血管や神経や筋などが臓物のようにはみだしてぎ て、噛みきれずに吐きだしたすじ肉のようになってしまっ のところから外ずすんだ。さ、急いでたのむよ : : : 」 こん そう言うと左腕を体から遠く、地面にころがし、根っきた。それに、手がぬるぬるで、うまく力がはいらないの だ。そうかといって、いまさらやめるわけにもいかぬ。薪 た様子で顔をそらして、目をとじる。しかし久三は、なが いこと決心がっかなかった。そのあいだ高は、身じろぎもの中から一本、ふと目の枝をみつけてきて、地面におき、 せず、また意識をうしなったみたいだ。意識をなくしたのそのうえに指をのせて、ナイフの刃で押しころがす。それ 冫をし力ない。・こ、、 すだとすると、切るわけこよ、 ナししち、意識がなでもまだうまくいかなかった。弾力のある固い部分が、骨 めくなる寸前の言葉に、どこまで信用がおけるものか。次にのうしろに逃げてしまうのだ。高のナイフをよして、自分 郷気がついたときには、忘れていて、勝手に人の指を切 0 たの蒙古刀にかえ、同じ要領でこんどはルの新でふみつけて みる。骨のくだける音がした。もう一度強くふむと、刃ロ まなどとわめかれたりしたのでは、たまったものではない ちだが高は、気を失ってはいなかった。急に目をむき、おそは指を切りはなし、ついでにその下の枝も一一つに切って、 どな 地面にくいこんだ。胸がむかむかした。 のろしい声で怒鳴った。 しいつのま しかし高は、身じろぎもせず、声もたてな、 け「早くしろ ! 」 久三はあわてて、言われたとおりに、手ぬぐいの切れ端にかまた、意識をなくしてしまっていた。あまり静かなの をその小指にまきつけた。 で、心配になり、時計のガラスを鼻の下にあてがってみた 「もっと、もっと強くだー」 が、まだ息はしていた。五時一一分、ついでにねじをまいて ようす しろもの
「あそこで飯にしよう。」 い火を燃しても、目立たないくらいには入りこんだつもり 久三はためらった。 である。二本くつつき合った大木のあいだに、アーチ型の 「狼がいませんか。」 洞穴があり、その下には乾いた地面があるらしかった。マ 「火をたくさ。それに向うにいけば、死体がごろごろして ッチをすってたしかめようとすると、顔のまえから、人間 るじゃないか」 の子供ほどもある丸い鳥が、いきなり馬のひづめのような 「凍っているから、臭いなんかしませんよ。」 大ぎな音をたてて飛び立った。 っ・こう 「馬鹿、おれの言ってるのはな、狼どもはそっちに御出張 だが、いかにも都合のいい場所である。氷を砕いて、枯 だっていうことさ」 葉と枝を集め、火をつけるとたちまち燃えあがった。すこ 足もとで氷がくだけ、ものすごい音をたてる。氷というし火勢がつよすぎたかもしれなかった。しかし、火の誘惑 こが より、薄い瀬戸物を踏み割るようだ。氷、雪、氷、雪と、 には勝てない。火の粉が、服やまっげを焦すのにもかまわ 幾重にもかさなりあつだのが、かたく枯草の根にしがみつず、外套の前をはだけて、烙を抱ぎこんだ。前が熱くなる いている。その草がしだいに深くなり、まるでざらざらしと、こんどはうしろが冷くなる。うしろを暖めてから、ま た固型の沼を渡っているようだ。草がはねかえると、針の た前をあぶる。ぐるぐる廻りながら、幾度もくりかえし、 ように痛か 0 た。ときには、顔より高い草むらがあ 0 た。最後にをぬいで、足をあぶ 0 た。体の隅々がむず痒くな からまっ 林の中は、もっとひどかった。落葉松の落ち葉の上は、 り、それが痛みにかわり、やがて全身がほぐれ、融け、充 やはり固い氷で覆われていたが、もろいところにはまりこ血した。うなりながら、体中をこすりまわした。 また むと、その深さはほとんど股のつけ根まであり、一人では 男が叫び声をあげて、左手をおさえ、かがみこむ。手首 とても抜けだせない。運がわるいと、折ったり挫いたりすの外側に、指でえぐったほどの穴があいていた。手袋の中 る恐れもあった。しかもほとんど手さぐりで進まなければは血でいつばいになり、手にはりつき、さらにそれが肘の ならないのだ。男が二度、久三が三度そういう目にあうあたりまで流れこんでいる。灰をかぶせて、手拭の切れ端 と、二人はもうそこから先に行く気力をなくしてしまつで固くしばった。 た。それに、なにか生き物の気配がする。 男がもっていた飯盒に、雪を入れて、火にかけた。 それでも、かなり奥まできていた。むろん林の全体から「ここで、寝るんですか ? 」と久三がたずねた。なんとな すれば、ほんの入口にすぎなかっただろうが、すこしぐらく陽気な調子である。 いくえ おおかみ おお にお はん′」う
ックを押し上げることに専念する。ふと車台の腹が、堤防た。急にひっそりと静まりかえる。そのあとに、空転する の角にかかって、後車輪が浮き、動かなくなる。四、五人車輪の音が、いつまでもカラカラと鳴りひびいた。 幾つものうめき声が聞えはじめる。客車の中からも、弱 が下にもぐって凍りついた堤防の土を砕きはじめた。 弱しく救いをもとめる声がした。 機関車が火の粉をふいた。さらに速力をあげた。 指揮官は急いで懐中電燈をしまい、号令とも悲ともっ久三は衝撃で気を失っていた。しかし最後尾だったの かぬ叫び声をあげると、ぎっしり肩をならべた兵隊たちのと、あらかじめ身構えしていたこととでほとんどけがはな かった。ガラスの破片で手の指に小さな傷をつくっただけ あいだに割込んで、自分もその咬みつくような掛声の仲間 だ。手袋の先に黒いしみができていた。汪は顔をしかめて 入りをした。ポケットの布地をすかして、消し忘れた明り 起上り、落ちたビストルをつかもうとして、あわてて手を が・ほんやり光っている。 トラックが急に動いた。斜めにす・ヘって、左前車輪がレひっこめた。左手首に焼けるような痛みを感じたのであ る。足で引きよせてから、右手でひろった。体がすこしふ ールを越した。 らついた。 「逃げろー」と指揮官が叫ぶ。 りト - ′ ふいに明るくなる。四輛目の貨車が燃えはじめたのだ。 と同時に、その上にかぶさるように、機関車の頭がすさ のお まじい音をたてて乗り上げてきていた。トラックの中にく最初はあざやかなオレンジ色の烙だったのが、緑色にかわ り、それから空気を引裂くような音をたてて車輛全体が啗 すいこんで、二つにヘしまげた。逃げおくれた二人の兵士 うず たた の渦にまきこまれる。 めが、地面に叩きつけられた。 ぼうす を機関車はゆっくりと尻をもたげながら、トラックを引き「おい、坊主、逃げるんだー」と汪が言った。しかし久三 : 」とのしかか 故ずったまま金切声をあげて二十メートルほど走り、右にねは動かなかった。「しつかりしろ、おい : ぢじれ、立ちどまると、急に左側にころげ落ちて凍った地面るように繰返したが、久三はやはり動かない。汪は。ヒスト ルを痛む左手に持ちかえて、久三のを平手で交互にカま たをかきむしり、ものすごい音をたてて蒸気を吹きあげた。 かせに打ちはじめた。 もふりちぎられた次の貨車が、頭を右によじって、レール け 兵士たちの体勢は完全にくずれ去っている。持ち場を見 の上に直角に横倒しになる。さらに次のが、その上に、こ んどは左にふれて乗り上げる。列車は吠えながら、次々に失ったまま、思い思いの姿勢で、燃えさかる火に気をうば ジグザグに線路からはみだして、停つわれていた。すこしはなれたところに、荷物を中心にして ぶつつかり合
銃声がいっそう激しくなった。乗客たちはふるえながら地 「風邪をひきそうだ。」と呟いた。 とっ・せんあたりが白昼のように明るく照らし出された。面にはいつくばった。氷に顔をおしつけた。 むろんこちらの兵士たちもよく反撃した。しかし事態が 照明弾が上ったのだ。同時に四方から激しい銃声がおこっ * てきだんとうさくれつ つかめていないだけに不利だった。向うの射撃があまり正 た。擲弾筒が炸裂した。 機関車が蒸気をはいた。合図もなしに、急に車輪が逆転確でないことだけが、幸連といえば幸運だったろう。それ でも擲弾筒には、 かなりの被害をうけたようだった。 しはじめた。 久三が汪の手をふりき 0 て駆出そうとする、汪は身軽に久三はあきらめ、言われるままにな 0 ていた。汪は笑 0 久三のまえにとびおりて、いつの間にか右手に握った拳銃た。「心配するな、悪いようにはならんのだから : : : 」し を腹のあたりにつきつけながら、しかしいままでどおりのかしその笑いは緊張に固くこわげつている。たえず生唾を のみこみ、ほとんど空になった車輛の中を、むやみに歩き 穏やかな声で言った。 「悪いようにはせんて : : : このままじっとしてりやいいんまわっていた。ずいぶん長い時間のようでもあったし、ほ んのついさつぎのことだったようにも思われた。だが正確 には十二分と三十秒たっていたのだ。 ほとんど下りかけていたトラックが、ゆっくり、しかし 三発目の照明弾があがった。銃声はいっそうの激しさを 抗しがたいカで右に廻転し、人々の肩をねじまげながら、 加えた。しかしな・せかますます盲ら撃ちになるようであ す転倒した。叫び声がおこり、何人かがその下敷になった。 め二台目のトラックは、一人の兵士と三人の旅客をはねとばる。指揮官がそのことに疑問をもち、事態をたしかめよう をし、百メートルほどいったところで頭から裏返しに落ちと、思いきって立上ったとき、彼は信じがたい音を耳にし てどきりとした。風にのって、列車の音が近づいてくるの 故た。 : また戻ってきたのか、しかし、何しに 一人の兵士が振向いて機関車をねらった。輸送指揮官はだ : ち あき 列車が急停車し、ふたたび南下しはじめたとき久三は呆 疑わしげな固い表情でそれをおしとどめた。 の , も 列車は久三と、汪と、それに女や老人や体の弱いものだれてしばらくはロもきけなかった。ところが汪は反対に興 け けをのせて、次第にスビードをあげながら後退していっ奮しきって、ビストルを振廻しながら、ほとんど休みなく た。しかし誰もそのことにながくは気をつかっていられな喋りつづける。ざまみろ : : : やれよ、やれよ : : : ええい かった。ふたたび照明弾があがり、闇から撃ちこんでくるくそ : : : でつかい勝負だ : : : やっちまえ : : : おい小僧、う つぶや しゃべ
「どこもかしこも、鼠だらけだよ。」久三の声もぶよぶよて、玄関の上のむき出しの赤レンガの上に、大きな赤い星 をうちつけた。 として水っぽい。 「情けないことになったねえ、情けないことになったねえ久三たちのことは、案じたよりも簡単だった。若い軍医 が呼びよせられた。軍医は簡単に傷口をしらべ、脈にふ ・ : 」と母親が繰返した。 どうこう ドアを開けはなった。風がやんで、ひどくむし暑くなれ、瞳孔をのぞいてみたあと、なにか久三に質問してき こ 0 り、いやなにおいが部屋中にこもっていた。傷口がくさり はじめたのかもしれない。 「ロシャ語は分らない。」と久三は下手な英語で答えた。 長いタ暮がはじまった。どこかで自動小銃がエンジンの しかしそれでも英語だということは通じたらしく、アレ ようにうなっている。 クサンドロフが通訳を買ってでた。さいわい、久三と同じ やがて、悲しげな調子の軍歌が近づいてきた。高いすみ程度の出来だった。そしてこのことは、あとで久三の立場 きった声で一人が歌うと、あとを合唱がつづける。まるでを幾分有利にするのに役立ったようである。 音楽会のようだと思う。しかし、占領しにきたロシャ兵な「小便はでるか ? ろうば、 のだと気づいて狼狽した。心だけが穴をさがす鼠のように そういえば、昨夜から一度もしていない。 こころみに母 走りまわり、体はすくんで動けなくなった。 にたずねてみた。「小便、したくないかってさ。」 母は・ほんやり薄目をあけて、ゆっくり首を左右にふつ 最初に一台の蟹のような感じの軍用自動車が到着した。 アレクサンドロフと三人の下士官がおり立った。つづいてた。そのとき久三は、母の顔が変りはててしまっているこ 小型の貨車ほどもある鋼鉄の水陸両用車が通信機具を満載とに気づいた。なにか言おうとするらしいが、喉をごろご して、やってきた。それから裸馬に乗った黒い眼のモンゴろいわせるだけで、声にはならない。軍医が懐中電燈でて きよくのりし ルの兵士たちが、曲乗師のようにしなやかな動作で乗りつらしながら、彼女の顔に指を圧しつけた。指をはなすと、 くぼ あとに・ほっかり窪みが残った。 けた。兵士の数は四人だが、馬はぜんぶで十一頭である。 日本軍から徴用した馬にちがいない。しかし馬たちはもう ロシャ人たちは二言三一一 = ロ、なにか相談してから、二人を おと 彼らの影のように馴れ従っている。最後に、重々しく判音そのままにして出ていった。 あらし やがて、建物全体をゆるがせていた嵐のような靴音も静 をひびかせて、ロシャ兵士の群が到着した。着くとすぐ門 たきび 柱に大きな赤旗をなびかせ、庭にアンテナの鉄塔をうちたまり、窓からほうりだしたがらくたを集めて、庭で焚火が かに 〈た のど
つかんだようにひやりとした。 と久三は肝臓のペーストを一と切れ、いそいで飲みこん 「何本になったの ? 」と正面の壁につみあげたウォトカのだ。それから、申し合せたようにそろってコップをつか あきびん み、最初のいつばいを一と息で飲みほした。コツ。フをおき 空瓶の山を見てダーニヤがきいた。 ながらダーニヤが言った。「でももう、これつきりよ : : : 」 「あれから、二十八本ふえたね。」とアレクサンドロフが いたずらつ。ほく答えた。 もっとも久三だけは、ほんの一とロしか飲まなかった。 その空瓶の山は彼のビラミッドなのである。全部で幾本そのままスープの罐をおろしに立とうとすると、両側にか あるか、彼はいつでも即座にこたえることができた。そのけていたダーニヤとアレクサンドロフに、同時に腕をつか 。んで引戻された。今日は特別の日なのだから、当然みなと ときはたぶん、千二百八十三本になっていたはずである するといつもならダーニヤが、真顔になってアルコ 1 ル同じように乾杯をする義務があるというわけだ。自分だっ の害についての一とくさりの説教をはじめるところだが、 てあえてこの毒を飲みほしもしたのではないかと、ダーニ あき 今日はちょっと首をかしげ、呆れたというふうに小さく笑ャまでが強硬だった。まだ未成年だし、そんな飲み方はし っただけだった。 たことがないからと、一応は辞退してみたものの、それが しげき テー・フルの用意ができた。五つのコップと五枚の皿、塩かえって連中を刺戟してしまったらしい。「はじめがなけ の壺とパン、それに切れ目をいれた玉ねぎとチーズと腸詰れば、おわりもない。」と戦慄が大声で言い、どういう意 のどぼとけ : しかし量は充分にあった。チーズは子供の頭ほどのが味かまた、しきりに人差指で喉仏の上をはじいてみせる。 す め三つもあり、腸詰にしても脂肉から、肝臓のペーストまで、「友情の中に法律をもちこむのは、馬鹿か裏切り者だ。」と こ を数種類あったし、ストー・フには濃いスープが煮えたぎって言ったアレクサンドロフの顔は変に真面目だった。雰囲気 故いる。そして事実、これからの数年間のあいだ、久三はこが固くなり、座が白けそうになったので、久三もあきらめ の食事のことをいつも絶望的な気持で思い出さなければなてコップをつかんだ。玉ねぎを噛んで : : : 塩をなめて : たらなかったのである。人間らしい、満ち足りた、最後の食鼻をつまんで : : : と各人が思い思いの命令を下す。まるで も事として : 儀式のようだと思いながら、息をつめて、一気に飲みほし こしよう け めいめいのコップに、ウォトカがなみなみと注がれた。 た。胸の中がかっと火を吹いた。胡椒をまぜた天汁をなめ アレクサンドロフと熊は、その中に塩を一つまみほうりこたようにロの中がざらざらした。 んた。戦慄は玉ねぎの一片に塩をつけて噛んだ。ダーニヤ連中はそれをみて、愉快そうに笑った。戦慄が一一杯目を かん
た。凍った風が濡れ雑巾のように頬をうったが、それでも 笑いはやみそうになかった。 皿を洗ってしまうと、もうすることは何もない。あらた 二時間ほどして、四時ごろ、アレクサンドロフが熊のほ めて部屋の中を見まわし、つくづく無愛想な部屋だったとかに二人の客をつれて戻ってきた。女軍医のダーニヤと戦 思う。簟笥だとか額縁だとか、昔あったものの跡が白々と慄少尉である。 うつ 熊も戦慄もアレクサンドロフの飲み仲間なので、久三も 壁にのこっているのがよけい虚ろさを増してみえるのだ。 つくりつけのペチカまでひびが入って使いものにならず通よく見知っている。しかしその綽名の割りふりはやはりど 風ロの上をスターリンの写真でふさいで、べつにストー・フうも納得しにくかった。話しながら首をふりまわすのが動 を用意しなければならなかった。しかしいよいよ脱出とき物園の熊に似ているというので熊であり、しじゅう体がふ まり、この部屋とももう二度とめぐり合えないのだと思うるえているというので戦慄らしいのだが、そのむくんだよ しラしし、水につかったような小さな丸い眼と と、ついに和解できなかったことが、なんとなくくやまれうな毛深、顔と、 もする。この部屋はとにかく平和だった。こういう時代に 見かけはどうみても戦慄のほうがずっと熊らしく、 は、厚い堅固な壁は、それだけでもすでに得がたい財宝なそれとくらべれば熊中尉などは、まるで俳優かなんそのよ のである。 うにすんなりとして見えるのだ。柄の大きさから言って 久三はしんとした気持で、こういう場合にそなえて用意も、小さいほうから熊、アレクサンドロフ、戦慄の順で、 してあった防水毛布をベッ トの下から引出し、わずかな衣もしこういう熊があるとすれば、なにか特別な種類の熊な 類と、機会あるごとに集めておいた食糧ーーー塩と、チーズのだろう。久三はながいあいだメドヴェイジ ( 熊 ) という ちょうづめくんせ の玉二つと、乾。ハンの袋一ダースと、腸詰の燻製一本と、 言葉を、リスかなんかの意味にとりちがえていた。ところ あさなわ それにウォトカ一 などをくるんで麻縄でしばった。 で、ダーニヤ軍医はといえばいそのうえさらに大柄なので ほかには持っていくものもない。しばらく考えてから、マある。子供つ。ほい顔立ちをしているのだが、まったく堂々 おうりん ッチを持っていくことを思いついた。黄燐マッチの大箱に としていた。力もぎっと一番にちがいない。男たちがつね に一目おいているというのも、ただ単に遠慮だけではない まだ半分ぐらい残っていた。二十本ずつの束を三つつく のだろう。 り、三カ所にべつべつに分けてしまった。 ダーニヤが投げてよこした外套を受取ると、凍った風を たんす ぬぞうぎん たば がいとう あたな がら
「まあ、宿までつれていってやる。ここではもう喋るなのやつなんだろう、と久三はたのもしく田 5 った。 たたみ 四坪ばかりの一と間だった。しかし日本式に畳がしいて 「留用者住宅ですか ? ・ほくはあそこで追っぱらわれたんあった。敷きつばなしのふとんと、リュックが一つあるき りで、ほかに荷物らしいものはなにもない。「しらみがた 「ちがう、黙ってろって・ : : こ かっているんだろう」と言って、なにか白い粉を首筋から ふりかけてくれた。アセチレン・ランプをつけ、それから 盛り場の南はずれに近かった。なんというのか知らない が、白と黄色の二色の厚い餅のあいだに、黒いジャムをは肉饅頭をとりよせて、腹いつばい食べさせてくれた。八つ さんだものを買ってくれた。白湯をもらって、食いながらめに、息がつまりかけた。それでもやめることがでぎず、 小さくちぎって、際限なく口に入れていないと気がすまな 歩く。久三はもう、見せびらかしたいほど、倖せな気持だ っこ 0 いのだ。最後の一つをにぎりしめたまま、自然に寝込んで せんぶで十一「 電車道を、留用者住宅とは逆に、東のほうに折れた。、 公しまうまで、食べつづけた。けつきよく、・ 園のほうに近づいていくわけだ。ふと屋根の線が切れた左三は食べたらしい。 斜めに、例の給水タンクがそびえている。大殺しのやつに そのあいだじゅう、喋りつづけていた。まず男の名前と おおかねやすお 出遇わないかな : いたらこの男にたのんで、なにか礼職業を、たずねてみた。名前は大兼保雄だと教えてくれた すをしてもらうといいんだがな : 。夕暮がせまっている。 が、職業のほうはあいまいに・ほかして答えなかった。つぎ めずっと遠く、北のほうから、つづけさまに数発、銃声が聞に、日本に帰る方法を知っているかどうかを、聞いてみ 郷えてきた。つづいてもう一発、こんどはすぐそばで鳴っる。むろんあなたは命の恩人で、いましてくれていること た。厳の合図にちがいない。 だけでも充分うれしいことなのだがと、不器用に感謝の言 めしゃ ち赤い筒の看板を下げた、飯屋の店のなかを、まるで自分葉もまじえながら。しかしそれにも答えてくれなかった。 のの家のように黙って通りぬけ、四方を城壁のように長い建それで今度は自分のことを喋りはじめる。口をつぐむと、 かなすべてが幻になって消えてしまいそうで、不安だったの け物でかこまれた、広い中庭に出た。ここにくるには、 らずどこかの店を通って来なければならないらしい。中央だ。それにその大兼という男が熱心に聞いてくれたせいも に二階建のアパートのような建物があり、その一室が男のあった。大兼はとくに、高のチョッキのことに興味をもっ 宿だった。こんなところに住んでいるなんて、きっと相当たようだった。しかし、疲れすぎていた久三は、そのこと もち さゆ しあわ しやペ にくまんじゅう しやペ
かんそうなし た乾燥梨を一つ、あざやかにすくいあげた。あの落ちつき教えられた道を足をひきずって歩きだす。しかしすぐに、 のない歩きぶりは、万引のための準備行動だったのかもし日本人のところに行きつけるのだという希望と、本当にそ あめいろ れない。歩きながら少年は、盗んだ梨にかぶりつき、飴色んなところがあるのだろうかという不安とが、その苦い気 とうえぎ の糖液でロのまわりをぬらした。久三も胃が顎の下まで押持にうちかっていた。 日本人のいるところは、すぐに分った。塀のうえにさら し上げられてぎたような痛みにせかされて、せわしくあた ゅうし りに目をくばりはじめる。しかし本当に手をだすには、まに高く有刺鉄線をはりめぐらした、社宅風の一劃だった。 同じような建物が十軒ばかり並んでいる。表道路に面した だかなりの間がいりそうだった。 まくらぎ くかく せんぶつみあげた枕木で固く閉ざされ、路地の奥に 二区劃ほどいくと、また広い電車道に出た。そこから先門は、・ はひっそりとした住宅街だった。少年は立ちどまり、はじ共同の門が一つだけ開いていた。路地の入口に〈日僑留用 者住宅》と小さな木の札がうちつけてある。久三はロをあ めて口をきいた。 つば 「もうすぐだよ、ここから先は、一人で行きな : : : 行ったけたまま、荒々しく息づいた。唾を飲込むのに口をとじる っこうに現実感がともなわな ら、あそこには、もう二度と来るんじゃないぜ。今度、あのさえ苦しいほどだった。い い。よろこんでいるのか、悲しんでいるのかさえ、区別で の辺をうろうろしているのを見つけたら、ただじやすまな いからな : ・・ : 大っころと、おんなじさ : : : 」そう言って、 きないほどだった。ただ、やってきたながい道のりが、他 す大げさな身ぶりで、首を切りおとす手つきをしてみせる。人の物語りのように頭の中を走りすぎる。アレクサンド フの部屋を逃げ出したときのことが、もう思い出せないほ めちがうんだ、ちがうんだ、と久三は心の中で繰返した。 ど昔の出来事のように感じられるのだった。 郷少年がつづけて言った。 門の内側に、剣つぎ銃をもった国府軍の兵隊と、腕章を 故「ここを西に、二本目をまた南に入れば、すぐ日本人のい ちるところがあるよ : : いいか、一一度とくるんじゃないぜー」まいた日本人の青年が、大きなコンロをはさんで退屈そう になにか笑いあっていた。兵隊は久三に気づくと、犬を追 の少年は片足でくるりと振向くと、さっさと人ごみの中に 、も 、まらうように舌をならして手をふりあげた。じっさい久 もぐりこんで行ってしまった。久三はひどく心細い、泣きしー け たいような気持になる。ちくしよう、チャンコロめーそ三は犬のようにあえいでいたのである。 せんぜんいまの感情にはそぐ「にほん、じん、です : : : 」 うロのなかで言ってみたが、・ 青年が狼狽した表情で、兵隊を見た。 わなかった。ちがうんだ、ちがうんだ、と繰返しながら、 ろうば、 につきよう