156 だ : : : それから : : : それから、彼がしなければならないこ 分もあるという品物をあずけさせたりするのだろう ? : 彼は追跡されている男である。もっとも単純に考えて、とをするだけだ : : : 眠りこんでしまったところに、こっそ まず出てくる解答は、久三が品物の隠し場所に利用されたりしのびこんで、チョッキをはがして持っていってしまう : そこで久三は、こんな間抜けがいたもんだよと、笑い という場合だ : : : むろん、それはそれでもかまわない。当 然そうであるにちがいない : : だが問題はそのあと、高が話の種になる。 とんでもない、そこまで分っていて、まんまとその もう品物を持っていないことを追跡者たちが確認し、久三 の役目が終りをつげたときにある : : : 高にとって、久三が手にのる馬鹿がどこにいるものか : : : やってくる盗人が、 もう何んの役にもたたなくなった、そのとき、それでも彼あずけ主であることが分っていて、おめおめ見張りをつづ がなお、いい情報や分け前を久三に提供する必要を認めるけている番人がどこにいるものか : : : 裏切られることがき かどうかということなのだ・ まっているのなら、こちらから先に裏切るのが当然だ。こ のまま、チョッキごと逃げだして、姿をくらましてやろう ありえないことだ、と久三は思う。高にとって久三は、 か : : : ちょっと悪くない考えじゃないかな。舶来の自動車 隠し場以外のなにかでありえたなどと考えるほうがよほど いずれあ 五十台分といったら、きっと相当なものだよ : どうかしている。久三を利用することは、手段ではなく、 それ自身が目的だったにちがいないのだ。彼の態度はそのいつだって、どこかから盗みだしてきたものにちがいない なぞ あいまい 方向で一貫しつらぬかれていた。あの謎めかした曖昧さんだ、気がとがめる必要なんかないさ : : : 大体おれがいな も、実はすこしも曖味なことなどなく、すべて利用されるければ、あんなやっ、生きていたかどうかさえ疑わしいん いや、死んじゃっていたに、きまっている ものの心理の弱点をうまくつかんだうえでの計算だったのだからな : よ : ではあるまいか : もしかすると、今夜、おれがこんな疑惑にとつつかれだが久三には、決して自分が逃げだせないことも、よく分 て、くよくよ思いなやむだろうことまで、ちゃんと予測っている。海岸までの道のりはまだ遠いし、海岸から先は もっと遠いのだ。どうしても人の手助けが必要だった。そ し、計算に入れていたのかもしれない。このヘロインも、 その計算の結果かもしれないのだ。思い悩み、不安におちれに、十グラムのモルヒネを持っていただけで、目玉を指 うわさ くすり いり、ねむれなくなって、どうしてもこの薬が必要になるでえぐりぬかれて死んだ看護婦の噂を聞いたこともある。 しろうとまやく にちがいないと見ぬいたうえでのたくらみかもしれないの素人が麻薬をもっことは、ほとんど死を意味するも同然だ
「とんでもない、腹ごしらえするだけさ。寝るのは昼間久三の帽子の中をのぞき込んでいたのである。「しかし君 は用意がいいんだな、ごちそうじゃよ、 十 / し力、え ? ・ : おれ かばん は、まさか、こんなことになるとは思わんかったし : : ・こ 男は無愛想にこたえて、鞄からなにか袋の中身をとりだ とっさに、あまり考えもせずに、久三は言ってしまっ し、噛みはじめる。豆だった。 久三も毛布をほどいて、 ( ほかのもの、たとえば匙のダた。 ーニヤなどを見られないように、気をくばりながら。 ) 食「よかったら、食べてください。」 ひざ 「そうか、すまんねえ。」男はいきなり、順序を一つとび い物を出して、膝のうえの帽子の底になら・ヘた。今夜は、 乾・ ( ンとチーズと、それにペーコンを一切ふんばっしてやこしたかたちで、にじりよってきた。 久三はいそいで男の分を追加した。 るとしよう : 「悪いなあ : : : 」そう言いながら、男は手をのばし、久三 けれども男は、いぜんとして豆を噛みつづけるだけだっ た。湯が沸いてから食事にするつもりかと思い、久三もひの帽子をとって、自分でそれを正確に二等分した。 まわりの種を噛んで待っことにする。男はじっと火の中を「大丈夫かな、うまく持つかな : 「七日分はあると思います。」 みつめている。だが、本当に火を見ているのだろうか ? 「二人でかい ? 」 疑いはじめると、ひどく気がかりな視線である。そう思う おくびよう 久三はひやりとした。「いや、一一人なら : : : 」と臆病そう すと、こちらを見ているような気もしてくるのだ。動かない め義眼のほうが視線がたしかで、それにかくれて、見えるほに、語尾をにごしてしまう。だがむの中では、仕方がない と、もう半分はあきらめていた。この暗い荒野を、一人で をうの眼はどこをみているのかわからない。 まこんなふうにして火にあ 故湯がわきはじめた。交代に二人で飲んだ。すこし土くさなんかとても歩けやしない。い ぢか 0 たが、甘いすばらしい味がした。ところが男は、それたっていることだ 0 て、一人では出来なかったにちがいな いのだ。 たでも相変らず豆を噛むばかりで、食事にかかる気配もみせ 食事は、まるで飲込むように、簡単にすんでしまった。 もないのだ。久三はすこし心配になってきた。 「さて、もう一度湯を沸かして、そいつで腹の中をふくら 「食べないんですか ? 」 「くってるじゃないか : : : 」男は顔をあげ唇をまげて笑っませてやるんだな。」 新しく枝をかき集めて、火にく・ヘる。折れ目から脂がに た。その視線は、すると、やはりこちらを見ていたのだ。
がおろされた。 「高さんー」久三は高の胸をつかんでゆすぶった。「つい 久三はわめきながら、くぐり穴のほうへ這いよっていっ た。高が腹立たしげに久三をおしのけようとする。せまい たんだよー日本についたんだよー」 室内で、二人の足がもつれあい、するとそのたびに手錠の もう一度、さらに大きな音がずっしりとひびぎわたる。 輪がさらにつよくしめつけられていくのだ。ついに久三も高が手錠を鳴らしてふいに立上った。まるで透けて見えで あきらめて、おとなしくなった。 もするように、じっと壁の中をのそぎこみながら、「なん 高はい・せんとしてなんの感動も示さなかった。久三も何だい : : : 大砲の音かな ? ・ : 」「日本についたんだって も感じまい、何も考えまいとして、歯をくいしばり固く目 ばー」「いや、大砲だ、 : 戦争がはじまったんだな : をとじてみた。しかし、そうすればするほど、かえって口みろ、やつばりアメリカとソ連がやりだしたんだ : ・ : へへ うそ ・ : 私はね、久木久三というものだがね : : : 実をいうと、 がゆがみ、目が開いてしまうのだ。嘘だ、こんなこと : きっとみんなふざけているんだ。面白がって、冗談冫 こやつあんた : : : 実は、私は主席大統領なんでね : : : 分るかね ? てみているんだよ : ・ : 亡命政府の大統領なのさ : : : 」 。自分でも気づかずに泣きだしてし まっている。 つづいて、樹を切り倒すような鈍いひびきが、いくどか はす エンジンの音の変化に、目をさました。いつの間にか眠繰返される。きっと 、ハッチを外している音なのだろう。 ざっていたらしい。すっかり、静かになっていた。デッキの「戦争だー」と壁にしがみついて、高がわめきたてる。久 めほうから、ウインチの音がひびいてくる。するともう港に三も、足首がねじれるのにもかまわず、側の壁を両腕に 郷ついたのだろうか ? : : : 思わず、そうだとも、こんな馬抱き、頬をすりよせ、胸をおしつけた。ちくしよう、この 鹿なこと、きまっているじゃないか それからまた、何センチか向うに、日本があるだなんてー ち思いだしたようにわめきはじめるのだった。わめきながら、 「久木久三といえば、かなり名前も知られておるがね : ・ ひたい のやがて、起き上ろうとして、乱暴に高に引戻された。「あ : こ力いつばい額を鉄板に打ちつけて、とっ・せん歌いだし けあ、私は久木ですがね : : : じっさい、久木なんだよ : : : 久た。「お嬢さん : : : 」「ばか」と思わずなぐりつけ、ぐった 木久三なんですよ : : : 」不意にひっそりして、鈍い、大きり船底に坐りこんでしまう。「うん、よろしい な、しみわたるような音がひびきわたった。 : : : 岸壁だー戦争というものはな、雑草のごとく、土地さえ適しておれ ーいくらでも育っ : : : 戦争に向く土地があるんだな : ・「私は久木だよ : : : 久木久三 : ・・ : まちがえありませんま、 ほお ・つまり、
じめ、向いの屋根がすぐ足もとまで這いよってぎている。塀をすべり降りたのと同時に、兵隊が角をまがって駆けよ この屋根の下に、日本人が住んでいるのだ : : : 久三は足をつてきた。こんどは本気で腹をたてているらしかった。久 のばして思い 0 きりりつけてや 0 た。ポケットこよこ 冫オ冫か三は片足ではねあがり、すばやく逃げだした。罵声と小石 固いものがふれ、は 0 とした。ルのだ 0 たことを思いだ が、うしろから耳もとをかすめた。 日暮れがちかい : して、がっかりしてしまう。塀の向うで、戸が開く音がし : とこに行けばいいのだろう ? : ・ : ・ た。それから、小さな子供たちがはしゃぎあう、かん高い完全に捨て去られてしまった : : : ちょうど、遅刻して教室 声が聞えた。 そうじゃないんだよ、あいつがあんなこに入れない中学生のような、心細い気持だった。しかも、 としよったから、そら、そら、これがいいや : : : 。久三は家はどこにでもあった。家があればかならずドアがあり、 じよう 思わず腰をあげ、吸いよせられるように塀に近づいた。で ドアがあればかならずしつかりと錠がかかっている。ドア つばりに足をかけ、両手で支えてのそきこむ。十歳くらい はすぐそこにあったが、その内部は無限に遠いのだ。けっ の少年が二人、泥をこねあげて遊んでいた。久三はすすりきよく、あの人っ子ひとりいない荒野と、すこしも変りは あげながらも、いつまでも見飽きなかった。ただ少年たちしないじゃないか : : いや、もっと悪いかもしれない。荒 が家に戻ってしまうのが心配だった。手が痛くなってきた野はのがれることをこばんだのだが、町は近づくことをは はいおく が、しがみついたまま離れることができなかった。 ばむのだ : : : あの屋根のない廃屋のミイラたちも、町のす す少年の一人が急に顔をあげて叫んだ。 ぐ手前で倒れてしまったのだった。でも、金さえありゃな め「よう、乞食がのそいとるそうー」 : ちくしよう、高のやっ : : : そうだ、なにからなにま 郷そう言うなり、まるめた泥を投げつけてくる。肘で顔をで、すっかりあいつのせいなんだ : : : なんとかして、あい 故 おおって、久三も叫び返した。 つを探し出す方法はないものだろうか ? : : : しかし、学 ほうてん ち「日本人だそ、ばか、日本人だそー 校で地理の時間に習った記憶がある。『奉天市の面積はロ 「乞食だようー」とべつの子供が家にむかって大声をあげンドンよりも広い』・ : ロンドンがどれだけの広さか知ら ないが、とにかく広いことだけはたしかだった。それにあ けた。「日本人があんなに黒い顔をしているもんか。」 窓から子供の母親らしい顔がのそいて消えた。久三は叫いつはチョッキをとり戻したのだ。きっともう町にはいま びつづける。戸が開いて、二人の子供を呼びもどし、音た ・ : 久三はふと、ソヴェトの敵はみんなファシストで、 てて閉まった。路地を駆けてくる重い靴音がした。久三がファシストはみんな悪いやつなんたという、アレクサンド こ ひじ
しわがれた、痰がからんだような声が、中からこたえが両手をすりあわせた。 た。その瞬間、久三は、ずっと以前にもこれとそっくりな 「ちょっと、久木君と、二人だけで話したいんだが : : : 」 とっ 瞬間を経験したことがあるような、妙な気分になった。把「久木君は、あんたじゃなかったのかい ? 」と大兼が笑っ こ 0 手をまわしながら、大兼が、ちらと目だけをふり向けて、 誰にともなくうなずいてみせる。天井の低い、用材がむき「運が、わるいんだな : : : 」とうめくように医者が言っ こ 0 だしのままの、細長い一坪半ばかりの小部屋 : : : よごれた そまっ 高の手の中で、新聞紙がふるえている。見開かれた義眼 丸窓が一つ : : : その下に、幅のせまい粗末な木の寝台 : ・ が、じっと天井をにらみつけている。しかし薄目にあけた 寝台のうえに、髪の薄くなったカーキー色の服の男が、か 見えるほうの目は、注意深くドアのあたりをうかがってし がみこむようにして新聞を読んでいた。 まゆ 男がゆっくりと顔をめげた。眉をひそめ、首をかしげることに、久三だけは気づいていた。 「一一人だけで : : : 話が : : : 」 ーーー高石塔だったー 口をきくものは一人もない。単調なエンジンのひびき顔をこすると、凍傷のあとの薄皮が、・ほろぼろとむけお に、時間の流れがせきとめられてしまったようだ。手のひちる。顔全体が地図のようにまだらになっている。きっと らほどもある油虫が、音をたてて天井から落ちてきた。誰おれもあんな顔をしているんだろうな、と久三は思った。 まじめ 「話が、したいんだとさ。」と大兼が真面目くさって久三 ざ力が、重い溜息をついた。 くちびる を見た。久三はかすかに唇をうごかしたが、やはりなに め「どっちが、本物の、久木久三さんですね : : : 」 も言えなかった。「手おくれだな・ : ・ : 」と医者が・ほそっと 郷大兼がそう言うのと同時に、高が立上っていた。 故「よう、君 : : : 無事だったのかいー」 した声で言った。「さあ、話は、向うでつけようじゃねえ えがお あご ち久三は目を閉じた。全身を笑顔でいつばいにしたい気持か。」と顎をしやくって、船長が一歩ふみだした。 と、全身を握りこぶしにして打ちかかっていきたい気持新聞紙が高の手をはなれて、床のうえをすべった。同時 、も と、その相反する激しい二つの感情のあいだにはさまつに高が船長をつきとばし、ドアにむかって駆出していた。 け て、ただたまらないような疲労を感じるだけだった。気分大兼につき当り、重なりあって倒れる。顔を覆った船長の ふなよ 四がわるし : 船酔いのせいかもしれない : 指のあいだから血が流れだす。高が大兼の顔をつかんでわ 「悪いことは、できねえもんだな : : : 」とせわしげに船長めくと、大兼も高の首に指をかけてわめいた。お医者さん こ こ 0 ためいき たん おお
「高さんは ? 」 「え ? : ああ、あいっかい : : : 気にするなって。そん : この船に 。いなかったと思えばいいんだよ : なやつま、 は、お客は、久木久三しかいねえはずなんだからな : : : ふ 「・ほくは、話したいことがあるんですよ。」 「いねえやっと話しはできんだろう : : : 気にするなって、 ・ - 悪しこたあ言わねえから : な、忘れてしまうんた、 : 、 さっきここでおこったことを知っているのは、この 、刀し 世で四人きりしかいねえんだぜ : : : それに、やつは、本物 の日本人じゃねえんだから : : : 」 久三は目を閉じた。まだ日本についてはいないのだと思 まくら った。大兼がポケットからなにか取出して久三の枕もとに おき、なぐさめるように言った。 す「退屈したら、吹いてみな・ : : こ め錆びた、はげちょろけのハーモニカだった。 郷 三十四 故 ち 《東光丸》航海日誌 た の 、も ( 23 翁 2 22 ß) け 正午 時刻 航程海里 384 ・ 6 8 S75E 針路 自差 6 ー 22W S 20 E 風位 風力 5 天候 b ( 快晴 ) 1015 m. d. 気圧 記事、ーー船員法第一一十七条により、船客「久木久三」 こと高石塔を、暴行者として適当に処置す。ーー本物 力い・・、 の久木久三は、昨夕一応の健康を恢復。充分に aae * しちゅういん を散布し、今朝より司厨員としてコック補佐を命ず。 にせもの 贋物久木の不法所持品に対し、とかくの異議を申し立 てて、うるさい。説得の要あり。 三時、沿海区域 に達し島ふきんにて停泊し、日没をまって右舷前方 しんろ に 0 灯台をみながら、針路を SIOE に変針、約二時間 後にに入港の予定。ーー・その他とくに記載す・ヘき事 項なし。 三十五 久三は高の律方をつきとめようとしてやつぎになってい た。単なる同情心でも、欲でもなく、むしろけだものじみ ふくしゅうしん た、復讐心にちかい感情だった。 炊事をてつだうことになり、大兼たち三人のために、海 図室の下にはじめて食事をはこんだときのことである。船 もうことう 長が得意気に久三の蒙古刀と匙のダーニヤをいじりまわし ているのをみて、返してくれとたのむと、逆にそのナイフ
びやくや はじまった。誰かがアコ 1 デオンをひきはじめた。べつの明るい白夜の中を、二人で河岸の砂丘まではこんでいっ かんばく 言かがそれに合わせて歌いだした。 た。灌木の根もとを掘っていると、恐ろしい犬のうなり声 アレクサンドロフが一人の兵隊に、黒パンとスープの大がした。つづいて銃をかまえた二人の巡視兵が近づいてき きなアルミ皿をはこばせながら戻ってきた。その兵隊は。フナ こ。プンシャが事情を説明すると、二人はタ・ハコに火をつ ンシャというモンゴル兵で、日本人とそっくりな顔つきをけながら、しばらく久三の仕事ぶりを眺めていた。これで しているのだ。珍らしそうに久三をみて、満足そうに笑い いいだろうか、というふうに久三が振向くと、プンシャは だした。アレクサンドロフは久三が食べおえるまで、じっ舌打ちして久三のシャベルをとりあげ、どんどん自分で掘 と見つめていた。 りはじめた。巡視兵は笑いながら立去った。 母を担架からおろして、ふとんと一緒に穴の底に入れ アレクサンドロフが出ていくと、入れちがいにまたプン シャがやってきた。久三の腕時計を指さし、手まねをしな た。プンシャがポケットから瓶をとりだし、中の液体を数 ダワイダワイ がら、よこせ、よこせ、とくりかんす。久三が首を横にふ滴たらした。アルコールのにおいがした。土をかけはじめ ると、いきなり肩の自動小銃をはずしてつきつけてきた。 る。自分が埋められているようで、気味が悪かった。涙が かわりにシャープ・ペンシルを差出すと、ひょいと二本のでてきたが、それほど悲しくはなかった。 しおっ 指ではさんで自分のポケットにおとしこみ、照れくさそう 埋めおわるとモンゴル兵は塩壺をとりだし、墓の頭のと すに笑いながら空き皿を受取って、もう一度うらやましげにころに、指の高さほどの塩の塔を立てた。帰る道々、久三 は次第に高く声をあげて泣きながら、な・せこんなに声がで め久三の手首をにらんで帰っていった。 を久三は急いで時計をはずし、ポケットにかくした。 るのか、自分でも分らなかった。しかし、ポケットのうえ くちびる から、しつかり時計をおさえておくことだけは忘れなかっ 故母が唇をとがらせて、喉の奥で笛のような音をたてた。 久三ははじめ彼女がふざけたのかと思ったが、そうではな かった。母は意識を失い呼吸困難におちいっているのだっ戻ってくると、二列に並んだ窓々に、ランプの灯がとも せんたくもの もた。それから二時間ほどして息をひきとった。 り、洗濯物が干してあった。部屋の配分もおわり、落着い 暑いさかりなので、ながくはそのままにしておけない た模様である。歌声はまだつづいていた。 アレクサンドロフがプンシャを手伝いによこしてくれた。 翌朝、プンシャがさそいにきた。河のほうを指さし、墓 たんか ふとんごと即製の担架にのせて、地平線だけがいつまでもにいってみようといっているらしい。昼の光でみると、な こ ざら こ 0 びん
久三はさからうのをやめた。あれのことなんか、もうど 「返せってば ! 高と約東してあんだー」 うでもしい。とにかく、なんとかして、逃げだすことを考 「ばかー」と船長が久三ののびかけた髪をつかんで、顔をえなけりや : : : 体をさすりながら、そっと起上る。 床にこすりつける。 「そうそう、プリッジに立っ時間だぜ。」と船長が言った。 「あんなもの、子供が持ったって、しようがないじゃない 「この小僧、どっかで寝かしつけてやらんといかんな : か : : : 」と医者がぼんやりした声で言った。 あの部屋には、外から錠は下りんのか ? 」 「だって、半分は、おれのものなんだ : : : 一文なしで、日「つけりや、つくね。」と大兼が顔をさすった。 本についたって、困るんだよう : ・ : こ 船がまた大きく傾いた。そのはずみに、ドアが自然に開 「何を言ってやがる、もうついているじゃないか、ここは いた。とっさに久三は駆け出してしまっている。が、次の 立派な日本だ」と大兼が笑った。 瞬間、ふわりと体が浮き上った。医者に、手首をつかま 「ちがう、陸のことだよ ! 」 れ、ひねりあげられたのだった。医者は久三をひねりあげ かなきりごえ 「心配するなって : : : 」船長も金切声をたてて笑った。 たまま、船長に手渡す。船長はまたそれを、大兼に手渡し 「どうせ、おろしてもらえる気づかいはねえんだからな。」た。「どうも、分りのわるい小僧だな、これは返してもら 「まったく、陸に上って浮浪児になるよりは、ここのほうっとくぜ。」と大兼が情けなさそうに言って、久三のポケ が、そりや楽かもしれんな : : : 」と医者が思いだしたよう ットからハーモニカをぬきとった。 つぶや に呟いた。 ひねりあげられたまま、久三は、いま来た道を、つれ戻 「だから、返してくれって言ってるんだよー」 される。階段から通路へ、通路から機関室へ : : : 。機関長 「陸に上らんのなら、いらねえじゃねえか。」と船長が歯が皮肉な笑いを浮べ、若い船員が手伝いながら、くすぐっ をむいた。 たそうな叫び声をあげた。「無事に出てきたら、可愛がっ あな てやる・せー」機関室から、くぐり、、 「だって、それじゃ、約東とちがうー」 宀 / へくぐり穴から、さ すきま 「約東 ? : 」と大兼がと・ほけた顔で、「そんな約束はらにあのペンガラ色の壁の隙間へ : てじよう はす したお・ほえがねえけどな : ・ : ともかく、ここだって、立派手錠の片側を鉄板から外して、久三の足首にかける。高 な日本なんだからな : : : 」 と久三は、一つの手錠で結び合わされてしまった。機関長 「ああ、この下の海だって、もう日本さ : ・ : こ がなにやら怒鳴っている。くぐり穴の戸が閉り、外から錠
だえき 歯をかみしめて、がたがたふるえだす。唾液があふれ、顎要はあった。もし残っていれば、それがいまや彼に残され をつたって流れおちた。大になったみたいだと思った。 た唯一の財産なのである。いくら浮浪児が靴をほしがった 「日本人のところに、つれていってやらあ。」と少年が言ところで、これを売るわけこよ、 冫冫しかないのだ。靴は張子の って、顎をしやくった。 ように弾力をうしない、膨れあがった足になかなかなじん でくれなかった。 久三は耳をうたぐった。あまり突然すぎた。 「日本人のところだよ。」と少年がいまいましげに鼻のう「そのかわり、これは、もらっておくからな : : : 」と少年 もめん が言って、厚い木綿の綿入れの腹をまくってみせた。帯の えに皺をよせて繰返した。 しかし久三にはやはり信じられなかった。日本が、いきあいだに、その。ヒストルが差しこまれているのだった。 なりそんなに身近に現れるなんて : : : いや、そんなことは顔の表面が糊をぬったようにこわばった。鼓膜のうえを ありえない : : おれはいま夢をみているのだ : : : さもなけ流れる血の音が聞えた。どうせあのなかには弾は入ってい れば、これまでの苦しみや恐怖のすべてが夢だったのだ ない。それに、こいつは、おれよりずっと柄も小さく貧弱 ナしさとなっても、負けはしまい 久三は息をこらして、少年の次の言葉をじっと待っ・こ。、・ AJ' た。冗談だよ、ざまみやがれ、うれしかったかい、 しかし久三は、黙って小さくうなずいただけだった。そ せん まにも意地悪く笑いだしそうな気がして : : 。だが少年はのかわりという少年の言葉が、ふくれあがった興奮の栓を す笑わなかった。そのかわり、奥の木箱のかげから、噴水のぬいて緊張をゆるめてしまったのである。たしかにこの大 めそばに脱ぎ忘れてきた右足のをとりあげ、うらやましそ殺しの少年が与えてくれたものは、かけがえのないものば がいとう 郷うに二、三度ふってみてから、黙って久三の足もとに投げかりだった。生命と、外套と、靴と、おまけに今度は日本 故 てよこした。それでも久三はまだ半信半疑だった。なにか人のいるところだという。しかも、かくしておけば分らず ち残酷ないたずらを仕掛けられているような気がしてならなにすませたものを、わざわざ取り出してみせたものだ。 わな のいのだ。どこか、たとえばあの罠のある斜面にでもつれだ立上りながら久三は、もう一度深くゆっくりうなずい けして、大のように殺すつもりではないかとさえ思った。ふた。 と噴水の中に置いたままになっているはずの、ビストルの 二十九 ことが頭にうかぶ。高が持っていってしまっただろうか ? 持っていった可能性は大きい : ・ : が、一度しらべてみる必歩きだすと全身がびしびし、乾燥しはじめた材木のよう のり たま
118 「ちくしよう、手がしびれていやがる : : : ちょっと、持つものじみた内臓の衝動だけであった。その衝動によって相 手が支えられており、いぜんとして屈せず努力をつづけて てくれんかな。」 たきび しげき おびえた声だった。久三は焚火のあとをふみ消しなが いるという事実の刺戟だけが、いまにも消えさろうとする しゅうちゃく むち ら、返事をしたくなかった。 生への執着を、なおも鞭うつ最後の力だったのだ。 「な、持ってくれよ : : : するだけのことはするぜ : : : 一時とりわけ坂道が苦しかった。ほんのわずかの傾斜でも身 間、百円はらおうか : : : 」 にこたえた。同じ距離が何倍にも感じられ、どういう理由 はたざお 久三は沼で旗竿をつなぐために、風呂敷を裂いてつくつでもいいから口実をみつけて、ほんの一と息でもいいから きようじん しいぜんとして歩きつづける高の強靱さに た例の紐を、ポケットからとりだして、ほうり投げてやっ休みたいと思、 こ 0 ほとんど神秘的な畏敬の念をさえ感じるのである。そして 「これで、下げたらいいよ : : ・こ たぶん、高のほうでも、久三に対して同じような気持だっ 足もとに落ちてきた紐の端をつかもうとして、高はそのたにちがいない。 わき そうやって二人は支えあっていたのである。だからも まま前のめりに倒れ、右脇を下に、まげた腕の中に鼻をつ し、相手からの刺戟がなくなり、その支えがぐらついた場 っこんで、ひびきのない声で言った。 合、それでもなお歩きつづけていることと、立ちどまって 「じゃあ、火をおこせよ : : : 二時間交代だ ! 」 しまったことを、はたして感覚のうえで区別できたかどう その耳もとにしやがみこんで、久三がうながす。 かは、きわめてあやしいものである。傾斜がすこし急にな 「ねえ、やはり道に迷ったんですね ? 」 いわはだ だが高はかすかに身ぶるいをしただけで、なにも言わずったり、あるいは大ぎな岩肌がむきだしていたりすると、 歩いているつもりで、よっん這いになっていることがよく に目をとじ、もう低くいびきをかきはじめている。 あった。あるいは、背をこごめ、まげた膝のうえに両手を しかしいま、久三は、高にその紐を投げあたえてしまっささえて、体を左右にふりながら、それで前に進んでいる から たことを、心から後悔しているのだ。ほとんど空になってような気持になっていたりするのだ。 目をとじたまま歩く実験をしてみようとか、自動車の連 しまった毛布の包みが、まるで鉄の包みででもあるよう に、肩先に鋭い歯をたててくる。あれから二人を支えてい転手になったつもりになってみようとか、そんな思いっき たのはもはや理性的な意志などではなく、恐怖と幻とけだをしたときが一番いけなかった。空想と現実の差はほとん ひも ひざ