声 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集
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1. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

めに腕や棒切れをふりまわしながら叫んだ。僕らの声は谷「閉じこめとくためさ」と南がどなった。「めそめそする ちんうつ 間にいくたびも重なりあって反響し、沈鬱な合唱のようだ な。俺たちを閉じこめたがっているんだ、わかったか」 「なぜ閉じこめるの ? 」と弟が南の声の乱暴さにけおされ て弱よわしくいった。 「おうい、おうい、俺たちが残っているそ、おうい」 対岸の小さく褐色の顔があきらかに僕らを認めた。そし「お前も俺も、疫病にかかっているからさ」と南がいっ こわ て彼は猟銃を肩から胸へおろし、小屋の左の高みへすばやた。「俺たちが黴菌をまきちらすのを、あいつらは恐がっ く移動した。僕らはぐったり腕をたれ、痛みはじめた喉かてるんだ。それで俺たちを閉じこめて、俺たちが犬や地鼠 ら声をあげることを止めた。らは理解したのだ。その男みたいに死ぬのを見張っているのさ」 が軌道をつたって対岸へ向う絶望的な冒険心にとんだ者を「俺たちは疫病にかかっていないそ」と僕は南を睨みつ 見はるために都合の良い位置へうつったことを。僕らを据け、むしろ他の仲間たちに聞かせるためにいった。 むために・ハリケードがきずかれ、なおも番人さえおかれて「あいつらが、そう思いこんでいるだけなんだ。今朝から いることを。僕らが閉じこめられてしまっていることを。誰か嘔いた奴がいるか ? 躰中に赤いぶつぶつがふき出し 急激な怒りが僕らすべての者の躰を熱くした。僕らは怒たり、びっしり虱が取りついている奴がいるか ? 」 みんな黙っていた。僕もまた自分の声の短い反響のなか りくるって谷の向うへ財声をあびせた。しかしそれは葉を かしわこだち 落した柏の樹立の斜面におりしいて銃を軌道にむけているで硬く脣を噛みしめた。 男へ伝わって行く前に、谷へ落ちて行き谷底の川の水音に「帰ろう」と南が暫くしていった。「俺は撃たれるより、 疫病にやられるほうがいいや」 かきけされた。僕らは怒りにみちて孤独だった。 ち きた そして南は奇声をあげて彼の前の少年の厖をりあげそ 撃「あいつら汚ねえことをしやがるなあ」と怒りにうわずつ ねら た声で南がいった。「猟銃で狙い撃ちするつもりだ・せ、橋のまま駈け出した。僕は彼を追って森を横切る道を駈けお りた。僕は全速力を出して走る南を追って息を切らせなが しをわたって行く奴を、汚ねえなあ」 芽「なぜ ? な・せ撃つの ? 」と弟が眼に涙をいつばいためてらやみくもに駈け、森の出口で疲れきって走るのを止めた いった。弟の声は幼く震えているのだ。「狙い撃ち : : : 」南に追いついた。暫くは僕も南も喉をならすだけで声をあ 3 「敵でもないのに」と他の仲間も弟の震えに誘われて、やげることもできない。年少の仲間たちは僕らからずっと遅 あらし れ、嵐の前ぶれの不意の突風のように森を騒がせ駈けて来 はり涙ぐんでいった。「俺たちは敵でないのに」 かっしよく かた ばいきん しらみ しばら にら

2. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

ちょう はじめ、ガリガリと引掻くような音、つづいてはつぎり、 正面に、黒い礼服をつけ、ネクタイをしめた紳士と、 静かにではあるがカのこもったノックの音がしました。そその婦人らしいひらひらした衣裳の淑女とが、 にこやかに れに答えるように、ゴップゴップと・ほくの心臓が、同じく笑って立っていました。すぐそのわきに、杖にすがって、 ちょっと ろう ! らいの大きさで鳴りました。低い話し声、それから一寸間何百歳ともしれぬ、くしやくしゃの老婆が、よろめきなが をおいて、前よりもやや高めのノック。「誰 ? 」と胃袋とらも歯ぐきをむいて笑っていました。その後ろに、これは 肝臓のあたりで言い、しかし声にはならず、ねばっこい唾またとっさには数えられぬほど沢山の子供たちが、たくま えき つけね 液が舌の付根にふき出しました。ノックの音は更に高ましい二十前後を先頭に、産れたての赤ン坊をだいた少女ま り、なにやら騒然とした気配。「誰 ? 」と今度は声にしたで、廊下いつばいに立ちならび、申し合わせたように首を つもり。しかしその声は、ロからではなく、耳から出たよ左右に傾げて微笑んでいるのでした。 じゃま うにわれました。 「お邪魔しましよう。」振向いて紳士が言い、・ほくはまだ 「さん、」いんぎんな、中年の男の声が、間違いなく・ほ何も言わないのに、一同うなずいて、どやどや入りこんで くの名をよび、「夜分おそくなって申訳ありませんが : ・。」来ました。全部で合計九人でした。・ほくの部屋はたちまち と耳から出たはずの・ほくの声に答えました。つづけて、い つばいになってしまいました。 かにも若々しい婦人の声で、「夜分おそくなって : ・ : ・。」そ「せまいね。」と紳士が言い、「せまいわね。」と婦人が言 れらの家庭的とも言うべき声の調子は、たちまちぼくを現いました。 ふとん 実に引戻し、あらぬ不安を太陽にあった霧のようにあっけ「片づけましよう。」と布団に手をかけ、あわてて・ほくは 言いました。 なく消しさ 0 てしまいました。それから、ルの裏で床をこ きようしゆく 「いいよ、 すって、いかにも恐縮したらし、 し、いくつもの足音。 いいよ、」と老婆が杖で・ほくの手をおさえて言 者心理的な時刻の効果に苦笑しながら、ズボンをはいて電いました。「私は疲れているから、すぐそこで寝かしても 入燈をつけました。どういうわけか・ハンドが見つからないのらうよ。」 で、ズボンを両手で引上げるようにしながら、ためらわずなんてあっかましい奴だ、と・ほくは呆れ、紳士のほうを びぎだし に、というよりはほとんど積極的にドアを開けて未知の訪振向くと、紳士は・ほくの机の抽斗を開け、何やら物色の最 問客を迎えました。電燈の光がばくを勇気づけ、好奇心が中でした。驚いて、その手をおさえ、「何をするんです、」 きつもん ・ほくをすっかり善人にしていました。 激しく詰問するのに、「タ・ハコを探しているんだが、」とま ひっか っえ しんし

3. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

りするものか ? ・ : 十日も二十日も燃えつづける、興安物音に満ちた夜だった。その中には実在する音と、実在 嶺の山火事の話を聞いたことがある。こんな小さな野火なしない音とがあった。実在するのは、風のはためぎと、け んか : : : しかし、その小っ・ほけな火が、いま自分にはこんだものの吠え声と、鳥の叫びである。けものたちは、うな なにも大きく恐ろしげに見えているのだ。 されたような、そんな声をだしては自分で恐くなるのでは 久三は泣きだしてしまった。殺してやりたいほど、高がないかと案じられるような声で、飽きずにいつまでも吠え 憎くなった。だが、殺さなくてもその男は死にかけてい つづけた。しかし、それよりも敵意にあふれていたのは、 っ ! さ る。すると今度は自分自身にたいしてむしように腹がたち実在しない声どもである。をもった無数の幻影のはばた かゆ はじめた。涙が凍り、痒くなってきたので、泣きやめる。 ぎである。のがれようとする心がうみだした幻から、どう もっとも、なんのために泣きだしたのか、もう忘れてしまやってのがれることができるだろう。シャツの下のナイフ っていたが。 の柄をにぎりしめればしめるほど、それらの命は勢いをま 久三の考えでは、高はその日の夜のうちに死ぬはずだっす。近づいてくる足音 : : : 久 = 一を呼ぶ声 : : : 近づいてくる た。夕刻、鴉の大群が沼のむこう岸にまいおりたのは、高足音・ : ・ : 恐怖の叫び : : : 近づいてくる足音・ : ・ : すすり泣き を食うためにちがいない。月の出と同時に、息を引きとる ・ : 近づいてくる足音 : : : 荷車のきしり : ・ ・ : ながいあい のだろうと思い、火をたやさぬように注意していた。こっ だ、ためらってから、そっと高のビストルをぬきとった。 びん すそりウォトカの瓶をとりもどした : こういう場合には、当然の行為だったろう。かろうじて、 め 一とねむりしたあいだに、月がの・ほっていた。けれど高彼を置き去りにしていった者たちへの憎しみと、たえがた 郷はまだ生きていた。火をかきたてて、食事にする。もっ いほどの睡む気とが、耐える勇気を支えていてくれた。お 故てきたものだけにたよらず、明日はなにか食糧になるものそろしい夜だった。 ちを探してまわろう、そう思ったのでつい余分に食・ヘてしま 明けがたちかく、つい消してしまった火を、つけなおし 0 た。湯の中に乾パンを溶いて、高にのませてや 0 た。高ていると、高が鼻にかか 0 た気味のわるい声で歌いだし っぷや もはわけの分らないことを呟きながら、飲んだだけすぐに吐た。「お嬢さん : ・ : ・」とその部分だけに歌詞がっき、あと どな きだしてしまう。「馬鹿やろうー」と怒鳴って、かかえてはしやくにさわるほど陽気な節まわしの鼻歌になる。それ いた頭を地面にほうり出した。もう一度なぐって、毛布をも最後まではつづかず、あるところまでいくと、傷のつい かけてやった。 たレコ 1 ドのようにまたはじめの「お嬢さん : : : 」に戻っ こ

4. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

・ : 説明してやるよ。」 かきたてるそのにぶい輝ぎに、かえって身を引き裂かれる「そう : : : 説明してもいし そんな口約束を信じる気はなかった。ためらいは残って ような絶望を感じるのだ。 がけ いたが、結局、竿をといてばらばらにし、ひもと旗をたた 彼は駆けだした。崖をよじの・ほり、いっか歩いた野火の あとを、駆けまわった。ふくれあがった白い腹をむきだんでポケットにしまい、枝の中の丈夫そうなのを二本えら ねずみ し、仰向いてころがっていた、あの焼けた鼠をさがすのんで、そのうちの一本を高に投げおろしてやった。 だ。あったはずの場所からは消えていた。灰になった枯草「杖にいいですよ。」 「なるほど、杖こ、 冫ししな・ : : こ に手を入れてかきまわし、無駄だとは知りながらも、どう しても探しやめることがでぎなかった。 せき わな ふと、しわがれた、大が咳こむような声を聞いた。声は 第三章罠 崖の下からしていた。高が呼んでいた。 「おうい、旗を、おろせようー」 下をのぞくと、高は崖によりかかり、あぶなっかしい腰 つきで、しかしなんとか立ち、ためすように首を左右にふ ぎようじん っている。久三は相手のおどろくべき強靱さに圧倒され丘の傾斜をの・ほって行く途中、後ろからついてきていた ざた。久三に気づくと、高は、ほとんど陽気ともとれるきつ高の足音がとだえた。沼を発ってから四日目のことであ かたまり めばりした調子で言った。 る。五、六歩うしろで、高は黒い塊になり、地面にはい 郷「旗をおろせ ! 出発するんだ : : : 」 つくばっていた。かまわずに歩きかけたが、次第にその足 ま下唇をつきだし、息をつめて、崖から身をはなし、一歩どりがにぶくなり、やがてあきらめたように立ち止まって ちあるいてみせて、鼻のうえに皺をよせた。だがすぐにましまう。呼んでみたが、声にならない。無理に声をだすよ り、歩くほうが、まだ楽だった。のろのろと後戻ってき のた、坐りこんでしまう。 こ 0 け「 : : : まあ、出発は明日にしようか。しかし、とにかく、 : : : ? 」こごえた声で、肩に手をかけ、ひぎ起こそ 旗はおろすんだな。おれは、弱味につけこまれるような真「どう うとすると、相手はかえって力をぬぎ、べったり腹ばいに 似はしたくないからな : : : 」 なってしまう。顔の右半分が、斜めにさす月の光に照らし 「理由を説明するっていう、約東じゃないですか。」 しわ さお

5. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

声が聞えたように思ったが、あるいは空かもしれない て、相手をつぎ倒してしまった。二人はしばらく、つかみ 風は耳鳴りのように、あらゆるうめき声をのせてふく。し合ったまま、凍りついた地面の上をころげまわる。息がは かし列車の中の泣声は、たしかに赤ん坊だ。 ずみ、吐き気がしてきたが、動作はずっと楽になった。起 なか 「おかしい : : こと汪は半ば腰をうかせて振向ぎ、またあ上り、ならんで、足踏みをはじめる。 きらめたように腰をおろした。 「ウォトカをもっているんですけど : : : 」と久三が言っ 「そうだな : : もうビストルを返してもらってもいい力もた。 しれんな : : : 」 「一口、やろうじゃないか。恩にきるよ。」と汪がうわず 久三は、のろのろした動作で、しかし結局いわれたとおった声で言った。 りにした。べつに魂胆があったわけではない。ただ、手足毛布の端を開けて、手さぐりで瓶をとりだすあいだ、汪 を動かすのがおっくうなほど、全身がこごえてしまってい はたえまなく奇声を発しつづけていた。栓をぬこうとし たのである。 て、瓶にかみつき、ガチッと歯の折れるような音をたて 堤防のすぐ向う側で、一度みじかく、誰かが叫んだ。銃る。むせながらも、息をつかずに、たつぶり三ロ分は飲ん 声はやんでいた。 だようである。久三は一口飲んだだけで坐りこんでしまっ た。まるで、火の棒を飲んだみたいだと思う。 十 「まったく、寒いときには、こいつに限る : : : まあ大事に わきばら 「眠むるなよ : : : 」と汪が久三の脇腹をこづきあげはじめとっておくんだな。」 てから、もうたぶん二時間はたっていた。 火の棒がとけ、五分もすると、全身にひろがった。汪が ひざ 「ちくしようー」と叫んで立上り、よろめいて膝をつき、 うめいた。左手首に痛みがまた戻ってきたのだ。久三はふ 匐いずりながら久三の前ににじりよって、息で薄められたと、昼間から聞きたいと思っていた質問を思いだしてい こ 0 声であえぐように顔をつきだす。 「なぐってくれ : : : なぐれ : : : おい、なぐるんだってば「汪さんは、どこまで行くんですか ? 」 「どこっていうこともないさ、うん : : : 行った先々で、新 言われるままに、手をあげてみたが、関節が痛んでほとしい任務をもらうからね : : : 新聞記者なんて、割のいい商 んど力が入らないのだ。なぐるかわりに、よろけかかっ売じゃない。」 こんたん びん せん

6. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

のを火のように胸を焼く懊悩にすっかり当惑しながら感じかすかな明るみの中で高まった。僕は羊歯に足を傷つけな いっか′、 ていた。 がらそこへ進んで行った。杉を切りとった一郭に雪が降り 「あんたが見たかったら」と少女が喉にからむ、うわずつつもって明るく、そこに犬と弟とが倒れてもがいているの ひときわ て幼い声でいった。「私のおなかを見てもいい」 を僕は見た。そして一際高い羽ばたきと弟の躰の反転。 ふとん 僕は手荒く少女の足を布団の中にくるみこみ立上った。 駈けよって僕は弟がすばらしく華麗な雉を抱えこんでい 僕は混乱しきっていた。 るのを見た。 「俺は帰る」と僕は自分自身と少女に腹を立てながら叫「おい、やつつけろ」と僕は叫んだ。 くだ び、土蔵からけ出した。 犬が吠え、鳥の喉の骨の砕ける音がきわめて優しく響 かんく しかし弟が薔薇科の落葉灌木の間から見はっている森のき、あおむいた弟の胸に鳥はぐったりとくずれ落ちた。 中へ駈けながら、僕はむくむくとこみあげてくる喜びと誇「おい」と僕は驚きに声をほてらせて叫んだ。「おい、お りに気も狂いそうだったのだ。僕は誰にも知られないで、前がこいつを」 自分だけの立派で可愛い恋人を持っているのだった。僕は弟は跳ね起き、雉をしつかり胸に抱いたまま青ざめて震 くちびる ほっさ 息を切らし、いくたびも雪に転びながら斜面を登り、雪をえる脣をすっかり剥き、眼を発作に揺り動かされるよう いただいた樹木の間を、自分のすぐ後にどさどさ落ちる雪に激しい強さで見はり、僕に躰を押しつけて来た。僕は弟 りよう たた の音を聞きながら自分の男らしい猟へと走って行った。 の肩を抱き、背を叩きつけた。弟は躰中震え、言葉になら のぞ あえ 濡れた樹枝の間から僕は頭を覗かせて、喘ぐ息を白く吐ない唸り声をあげていた。 わな しゅろ あみめ とんおえっ きながら雪の上の罠を見つめた。しかし棕櫚の網目には鳥「おい、お前やったな」と僕は喜びに殆ど嗚咽の衝動にお の羽毛さえからま 0 ていず、は僕らの撒いたままの場そわれて叫んだ。 所にぎちんと残っていた。僕は舌うちし、灌木の茂みを横「ああ、ああ」と弟は低くかすれた声でいし 、僕の胸へ顔 わな 切って弟の罠の所へ行こうとした。そして僕はあわただしをおしつけた。 はる く力強い羽ばたきと大の吠え声を遙か右上の杉の林の中に僕らはそのまま短い時間抱き合っていた。レオは僕らの 聞いたのだ。僕はあわてふためいて駈け登って行った。 周りを吠えながら駈けずり、ふいにおどり上った。弟が僕 杉の林は暗く湿ってあっ・ほったい空気がそこへもぐりこから離れ雉を投げ出し、レオに組みついていった。弟とレ こだち んで行く僕を掴んだ。大の声と羽ばたきは杉木立の向うのオは雪の上を転げまわった。そしてその格闘に僕が加わっ おれ おうりう のど まわ からだ

7. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

った躰に寒さが静かにおしよせ広がって行く。南が僕をふた。 うトぎ りかえった。僕は南の繊細で病的な荒つばさと子供らしさ「上衣が臭う」と弟は僕の脇腹へ額をおしつけ躰をまるめ けいれん の不思議に混淆した獣の仔のような顔がいちめんに痙攣してよりかかりながらいった。「僕はこの上衣、着たくない」 開いた脣から声が出ようとしないのを見た。南の眼にみる「陽が昇ったら川で洗おう」と僕は弟をカづけるためにい ったが、あの狭くちっ・ほけな川で何かを洗うことができる みる涙がにじんでぎた。 「俺は」彼はやっと喉からもれる熱っ・ほい声でいった。「みだろうか。 んなに知らせてやる。俺たちが置きつばなしになったこと「ああ」と弟は身動きして鉢をおしつけながらいった。「洗 おう」 を知らせてやる」 それから彼は卑猥なおどけた身ふりをし、茂みから跳び「風が吹きはじめたらすぐに轣く」と僕はいし 出して行った。僕は弟の肩を抱いてゆっくり立上り、そこ手をおいて揺さぶってやった。 から出た。僕らは月の光に全身をあらわにしていたが、森「南からの風がいい」 へ入りこむ敷石道にはすでに村の人間たちは見えず、ただ「朝だったら、すぐ乾く」と弟は睡りに融かされてくる声 しい、小さな欠伸をすると、既に不自然な姿 森の向うで時どき犬の吠え声が聞えて来るだけだった。そで弱よわしく、 れから南がいっさんに敷石道を駈けて行くひたひたいう勢での睡りへ入りこんでしまっていた。 音。 そして僕は疲れぎり、おしひしがれてすっかりひとりだ びざ つつみ った。僕は弟から手を離し、膝をかかえこんで額をふせ 僕らは森への入口まで意味もなく歩ぎ、そこで低い堤に た。弟の躰をおおった上衣は、やはり死者の臭いをとらえ 腰をおろした。月は殆ど森の樹々にかくされ天色の厚・ほっ 撃たい空には、むしろ夜明けが内側から真珠色の光沢をあたどころのない、ふわふわした感じに保っていた。朝になっ えているのだった。そして激しく寒かった。濃くなり始めたら上衣を洗って南からの風に乾かそう、と僕は力をこめ 、力をこめて考える必要があっ した霧が視界を限った。僕も弟も何をしていいかわからなかて考えた。なにをでもいし たのだ。見棄てられたことについては考えたくなかった。 芽った。駈け戻って仲間たちと騒ぎたてたところで、それは 意味を持たない。それに僕には疲れのあまりに、もう一歩 あるくことさえひどくおっくうに感じられるのだ。 しばら 「暫く寝ろよ」と僕は涙のためにうるおってくる声でいっ - 1 んこう こ しんじゅ にお わきばらひたい あくび わむ 、弟の背に

8. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

170 ろし、しかし迷惑そうな腹立ちのいろをありありと浮・ヘ 「肥哈林 ? 」 : : : 久三をはらいのけようとして、あげかけ て、そしらぬ顔で行きすぎようとする。久三も負けてはい ていた腕を途中でやめ、男は疑わしそうに問い返した。 なかった。びったりと横に並んで、とびはねながら、のそ「おまえ、そこから、いつやって来たんだ ? 」 きこむようにして、言いつづけた。 「二週間くらいまえだよ。」 「助けてくれよ。腹がへって死にそうなんだよ。小父さ「へえ : : : すると君 : : : 久木っていう男を知らんかね ? 」 ん、日本人なんだろ。分ってるさ、おれの言っているこ 「・ほくですよー」久三はおどろいて、急にの落ちたレ コードのような声をだした。 と、分っているんだろ : : : 」 ろうば しかし、それよりも、男のほうがもっとひどく驚いたよ あたりの視線が二人に集中した。それが男を狼狽させた らしかった。 「なんだってー」 「よせ ! 」顔を正面にむけたまま、おさえた声で、「分っ てたら、どうしたって言うんだい、おめえなんそに、用は「ほくが久木ですーでも、どうして知っているんだ ? 」 ねえよ。」 とっぜん開らけはじめた、希望の予感に、思わず声が波立 「不人情だよ、小父さん : : : 」 って、「ずっと肥哈林で育ったんだよ。久木久三つていう いそが 「おれは忙しいんだ ! 」 んだけどね。おふくろはパルプエ場の寮母だったんだ。で も : ・・ : そうか、北さんに聞いたんだね : ・・ : 」 「ねえ、言われたことは、なんでもしますから。」 「馬鹿ったれ、よせって言ってるじゃねえか ! 「いや : : : まあ、待て : : : 」男はあいまいに笑って、唇を 日本人だ と分ったら、殺されちゃうんだぞ。でつかい声して、しやひきつらせた。笑うと薄い小鼻のわきに、一「三本、深く べくりやがってさ・ : : こ 短い皺がよる。「しかしそいつは、ちょっとばかり妙な、 落花生屋のまえだった。しかしもう、それどころではな面白そうな話だな。」 い。ただ必死になって追いすがるのだ。 「そうですよ、本当におねがいします。もう腹ペこなん 「なあ、小父さん、たのむったら : : : 」 だ。なにか、ここでかつばらって、公園の噴水の中で寝よ 「行っちまえってー」 うと思っていたんだよ。」 だめ 「駄目たよ。これで見捨てられたら、死んじまうんだ。肥分った分った、というふうに、顔のまえで手をふりなが ( リン 哈林からずっと歩いてきたんだよ。」 ら、男はなにかすっかり考えこんでしまった様子である。 しわ ようす くちびる

9. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

僕は絶句した李の肩を掴まえて揺すぶった。僕の頭に暗から筋肉の緊張と怒りとが融け、哀しみがそのあとへひろ かんぼっ く大きい陥没が起り、そこへ僕のすべてがのめりこんで行がっていった。僕は頭を振り、そのまま腕にかかえこんだ うめ くような感じなのだ。そして僕は声をあげることができな膝に額を埋めて呻いた。 「俺は」と李は僕の震える腕にしめつけられて苦しがり哀長い時がたち、夜が更けてから、突然遠くで泣ぎ叫び苦 願する眼になっていた。「棒切れでそれを拾ってから、お痛を訴える声が起り、たちまちそれは押しつぶされたが谷 前に届けようと思って森の中を戻って来たんだ」 のあたりで短い反響が戻って来た。僕の仲間たちは、それ おえっ からだ ぼうたい きゅうくっ 僕は急激な嗚咽、僕の躰のなかを荒れてくる厖大にふくそれの窮屈な眠りの姿勢から躰を起し不安にさいなまれる れあがり喉と胸の奥を灼く嗚咽の発作につき動かされ、李眼をたがいにさぐりあった。 の肩を離すと羽目板に額をおしつけ声をあげて泣いた。 「谷の向うに憲兵隊の自動車が来ていた」と李がいった。 ゅうしゆっさまた 「その袋をお前どうした」と南が僕の哀しみの湧出を妨げ「あの兵隊が死なないうちに連れて行きたがっている。き たす ないように声を低め、あらたまって訊ねていた。 っとトロッコに縛りつけて向うへ渡しているんだろ」 ぞうもっ 「え ? 持って来たのか。な・せあいつのところまで運ばな「臓物を腹から出したまま」と南がいった。「そんなこと かったんだ」 したら、殺すと同じだ」 「森のなかで村の連中に見つけられて追われたから」と李「あいつらは殺しあう」李がにくしみにみちていった。「俺 は困惑しきっていった。「俺は盗んたと思われるのが嫌だ たちはかくまっておいたのにおなじ日本人同士で殺しあ かんぼく う から灌木のなかへ抛りこんどいた。そのあとで急に眼の前う。山へ逃げこむ奴を、憲兵や巡査や、竹槍をもった百姓 へ他の連中が竹槍を持って立ちふさがるのさ、逃け道がなや、大勢の人間が追いつめて突き殺す。あいつらのやる事 い」 はわけがわからない」 「荷物を棄てたところへ俺たちを案内するだろうな」と南再び悶絶するまぎわの喉からのような、死ものぐるいの がおしかぶせていった。「なくなっていたらただではおか悲鳴が起り、それは明らかに谷を渡って行く響きを短い間 ないぞ。あいつの弟の形見を」 ったえ、すぐに押しつぶされて断絶した。そしてそれは僕 僕は激しく振りかえって南に掴みかかろうとし、南の鳥らのあつぼったい期待をはねかえし、それ以上僕らの耳へ のそれのように鋭い限が涙でいつばいなのを見た。僕の躰けたたましい声をつたえなかった。僕は黙りこんで耳をす たけやり ひたい はっさ ひざ もん懸っ

10. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

実みをおびて喉から吐き出されたのだ。それが火のまわり病が大からうつったんだ」 きよう がくん 引に坐っている仲間に動揺をひきおこし、一つの突発的な恐僕は愕然として弟とレオを見た。弟はその叫びを無視す こう 慌を引きおこすのを僕は感じた。 るためにますます僕らから背をそむけ、レオの首に胸をお うそ しつけているのだ。 「嘘をつけ」と僕はどなった。「嘘だ」 「俺はお前たちが帰ってくるまで黙っていたんだ」と南は「俺も知ってるぞ」と他の少年たちはロぐちにいった。 「あんたの弟の大のせいだから、あんたは隠してる」 叫んだ。「兵隊が俺にはっきりいったのを俺は誓ってもい くそしり よご 。あの子は血のようなどろどろの糞で尻を汚しているん僕は始めて僕に反抗する仲間たちを前にして途方にくれ えきびよう こ 0 だ。俺は見たぞ。あの子は疫病だ」 はっさ 年少の仲間が不意の恐慌の発作におそわれるのを僕は「犬がどうかしたのか ? 」と李がきびしく引きしまる声で たきび とうしたんだ」 見、南のよく動く喉を激しく殴りつけた。南は焚火のほていった。「おい、・ うめ りで融けた雪の上へあおむけに倒れ、両手で喉を掴んで呻「あの犬が」と涙ぐんだ声が弱よわしくいった。「死体を みぞおちけ いた。短い呼吸困難におちいった彼の鳩尾を蹴りつけよう掘り出したんだ。それをあんたの弟が土をかけて埋めなお たくま した。僕たちは、あんたの弟が自分の手と犬の体を洗って とする僕を李がおしとどめた。李の腕は逞しく熱かった。 、るのを見たそ。犬はあの時から病気なんだ。そして今 僕は火のまわりに立ちあがり不意の恐慌におののいているし 朝、あの子の腕を咬んで病気をうっした。それで疫病が俺 仲間たちを見つめた。 「疫病じゃない」と僕はいった。しかし仲間たちの中へ恐たちの中ではやり始めたんだ」 こんわく 少年はすすり泣きに語尾を溶けこませた。僕は困惑しき 慌は深くにじみこみ、仲間たちは僕を受けつけないのだ。 頑強に背をむけている弟に呼びかけるほか何を考える 「逃げよう、俺たちも死んでしまう」とおびえた声がいつり、 こともできない。 た。「ねえ俺たちを連れて逃けてくれ」 「疫病じゃない、 といってるんだ。殴りたおされたい奴は「おい、犬のことほんとうか。なあ、嘘だろ」 くちびる 仲間たちのいっせいの視線の中へ振りむき、弟は脣を 泣言をいえ」と僕は自分自身にも感染しはじめた恐慌をお うめ おいかくすために声を荒くして叫んだ。「疫病は俺たちの動かそうとし、黙ったままうなだれた。僕は呻いた。仲間 あとあし 中ではやっていない」 たちが弟と犬をかこんだ。大は尾を後肢のあいだに巻きこ ひざ 「知ってるぞ」とかんだかい別の声が必死でいった。「疫み弟の膝に肩をすりつけて僕らを見上げていた。