な ? 」次男がふざけた調子であたりを見廻し、一同大声でためらうことなく挙げたことでした。 笑いはじめると、赤ン坊までがヘラへラと笑い出すのに、 「さあ、これで決った。圧倒的多数だね。昔なら少数が多 ろら .13 い しげき ぼくはじんと涙腺に強い刺戟を感じたほど、奇怪な狼狽に数を暴力で支配し、それに対抗するにも個人的暴力以外に 慄え、「この人、まだ私たちのような近代的生活感情に馴無かったものだが、人間の智恵も進んだものさ。まったく さんこく れていないのよ。そんなに笑うのは残酷だわ。」とむすめ合理的に多数の意志がとおる、しかもその方法が理論的か っさ っ理性的だときている。実に人間的なありかたというべき が一同をなだめなかったら、 ' ほくはきっと発作をおこした とくいげ ヒステリー患者のようにれはじめていたに相違ないと思だね。」もみ手して得意気に・ほくを見る紳士に横から、「お くぎ います。むすめの言葉は、ばくの心情をびたりと釘づけに父さん、タ・ハコをくれよ。」と次男坊。「タ・ハコだって ? してしまいました。 お父さんがタ・ハコ屋じゃないくらい、おまえだって知って 「なるほど、」と紳士が言いました。「事は民主的に搬んだるはずだ。むやみな要求はされたくないもんだね。」 ほうがよさそうだね。君はまだ民主的な生活態度に訓練「ふざけないでくれよ、お父さん。最後のやつを吸ってか かんしやく されていない。面倒でも、一々会議を開いて、デモクラシら、もう三時間になるんだ・せ。タ・ハコが切れておれが癇 ーの雰囲気になじんでもらわなければ困る。では例によっをおこしたらどんなことになるか、みんなよく知っている て議長をぎめ、君に食器を片づけ、お茶を入れる義務がはずじゃないかー」 あるかどうか、決をとることにしよう。議長は ? 」子供た「分ってるよ、ジロちゃん、」と長男が、「お互いさまのお ちがいっせいに、「司会一任ー」「では、」と紳士、「私が議どし文句はよして、出来ることを考えようじゃないか。お 長をつとめさせてもらいます。さて、諸君におはかりいた父さんのタ・ハコを分けてもらうにしたところで、それは単 しますが、君にその義務ありや無しや、あると考えられなる一時的な解決にしかすぎない。お父さんも、性格とは きよしゅ いえ、今の発言は少し感情的すぎると思うな。それより、 者る方は、御面倒でも、挙手によって意志表示をしていただ この機会を利用して、財政上の根本的解決を討論すること 入きたい。」 闖言い終ると同時に一同、こんな分りきったことに疑いをにしようじゃないか。さっき、お父さんも暗示したことだ もつなんて、なんて奴だと言わんばかりに・ほくをにらみつが、今日は幸いにも君の月給日だった。それをすぐ出し : ・君、月 け、風を切る勢いでいっせいに挙手。驚いたことは、ろくてもらって、予算をたてることにしようよ。 に物も言えない赤ン坊までが、ぶくぶくと短いその腕を、給袋を出したまえ。」 ふる るいせん
に纏綿する特有の情緒をきびしく遮断したところで、 0 り、その兵学は文体だ。しかも「故郷」とたたかうこ 思わぬ高度な抒情性を発揮する場面に立ちあうのであ とはその観念の感情的内包との対決をも含んでいたか る。たとえば、『けものたちは故郷をめざす』で荒野 ら、当然のこととして、安部氏の文体獲得の過程には ずいはん に道を失った主人公と高石塔とが飢餓にさいなまれな 一種いわば抒情の扼殺とでも表現すべきものが随伴し はんごう ていたことを付言しておくべきだろう。今日、安部氏がら春の訪れを感じる場面。「気がつくと、飯盒の水 の文体を形容する語句はほば出つくした感がある。日面にも、薄く乳色の膜がは「ていて、風にあた「て細 かく波立ちながらつぎつぎと片側にふきよせられてい く、即物的・無機的・自然科学的・鉱物的 : : : 等々。 た。」もちろん、この文章はあの『無名詩集』の感受性 しかし、われわれは時として安部氏の文章が、「故郷」 のそのままの復活ではない。 これはいわば飢餓という 人間の極限状況を濾した果てに獲得される「生命」 への抒情、かって北欧の作家クヌート・ハムスンがと らえた「飢え」の情感にもつながる感覚である。われ われはこれと同質の抒情のさらに抽象的な、かつまた 感覚的な表現を、のちに『 魔法のチョーク』の中に見 出すことだろう。 その反面、「故郷」につらなる一切の属性は、すべ てきびしく抒情を禁断され、拒絶されることになる。 たとえば、代表作『砂の女』 ( 昭和三十七年 ) に出て 来る村人たちの結合、その共同体的冊のえもいわれ きひ ぬ素朴な陰湿さがそうである。この「故郷」忌避のテ ちんにっしゃ ーマは、『聞入者』 ( 昭和二十六年 ) に描かれる家族 エゴイズムの戯画にも早くも姿を見せている。ある晩、 狭いながらもあたたかな憩いを与えるア。ハ トの一室 で 自 ろ 和 昭 やくさっ てんめん れいや
部公房文学アルバム 昭和 44 年 10 月、「棒になった男」の檮古場で 評伝的解説〈安部公房〉 野口武彦 あんごうぶん 複雑な暗号文を解読するためには、ますそ ノ市ーード の鍵語を見つけ出すことが必要である。作者 が意識的に言葉を駆使して構築するばかりで なく、 つねにみすからの無意識の領域からも 操作されて組み立てられる文学作品の場合に は、その成り立ちの秘密を解くことはおおむ はんさ ね暗号文よりも煩瑣な作業であるけれども、 それでも時として特定の言葉によってあらわ される観念やイメージの発見が、暗号解読に キイワード おける鍵語のそれに似た役割を果すことがあ る。安部公房氏は、現代の日本で、自己の文 学の主題と方法とにもっとも意識的な作家の ひとりであるが、その文学世界のなかに、そ の豊富な題材および多様な方法にもかかわら いくつかのい ず、それら全体をつらぬいて、 わば固定観念のごときものがくりかえし立ち 現われていることは非常に興味深い事実であ芻 る。安部氏の文学にこうした特徴的な表情を
1 よ気 = そー - 0 英訳本「個人的 な体験」の表紙 上各国語に翻訳された著作 昭和四十五年三月、ジョン・ ネーサンと自宅応接室で ッ 病で死ぬとその生命保険金を受け取るという人物の苦 4 悩が、その「頭のなかの地獄のイメージ」に由来する いカん のか、胃癌のためなのか真相がわからないという或る 根本的な不可解さの上に成り立っている作品である。 ことの真相は不明であるにもかかわらす、主人公の「中 おうと 年男」を苦しめている執拗な嘔吐感は、われわれにき わめて衝撃的なイメージを提供する。「中年男」の慈 善事業を動機づけている偽善とも強烈な原罪意識とも 見えるものは、その正体をつきとめようとすれば、ち ようど作中の「よ 。く」カおちいったように、われわれ に複雑な困惑をしかもたらさないだろう。原爆孤児を 喰いものにしているという義置から「中年男」に向け られる「正義派ぶった詰問」は、たちまち相手の一種 エンシュージアスティックな偽善の中にある「なにや ら真実なもの」に撃退されざるをえないのである。す べての合理的きめつけをはねかえす根本的不可解さの 中で、ただ嘔吐感だけが真実である。「アトミック・ ェイジの守護神 』はそうした人間と時代とのかかわり を凝縮されたイメージのうちに提出しているといえる たろ、フ ノ信優座、毎日新聞社、新潮 写真協力ⅱ紀伊国屋ホーレ、ト 社、文藝春秋、岩波書店、河出書房新社、永山義高。写 真の著作権は極力調査しました。
0 昭和 44 年 9 月、芥川比呂 志 ( 左 ) らと紀伊国屋で 昭和 44 年 10 月、「棒になった 男」の稽古場で 一度洗われた眼は、その後あらゆる社会的な人間関係 じゅばく のうちにひそむ幻想的呪縛の本性をあやまたず見抜く だろう。氏自身の言葉を借りれば、「定着を価値づけ るあらゆるもの」からの脱出行が開始されるゆえんで ある。 ひとたび居心地のよい虚構の日常生活への帰属を拒 み、「故郷」を背後にして旅立ったものが彷徨しなけ ればならないのは、いわば精神が法の庇護を失い、人 間自体に還元された人間が直接の加害と被害、襲撃・ 略奪と自己防衛とによって関係しあっているような世 界である。秩序の皮膜を透視できない眼には決して映 することのないこの世界を視覚化するために、安部氏 が採用したのは一種いわば「意識的なシュルレアリス ム」とでも称すべき方法であった。氏の作品にいわゆ る超現実的な手法が多く採り入れられていることは周 知のとおりであるが、それは決して無意識の領域の湧 出に自動的に身をゆだねるといった性質のものではな い。たとえていえば、氏の方法は幾何学の証明に用い られる補助線のごときものである。それを一本引くこ とによってたちまち以前とは異なったかたちで世界が 見えるーーその独特な視覚を構成するための突飛なイ メージの導入が安部氏の作風を特徴づけることになる。 5 芥川賞受賞作の『壁ーー・カルマ氏の犯罪』 ( 昭和
増とん あったりすることはなかった。・ほくは、貧しい英語力で面りを殆どこの現実世界のあらゆるものに求めていた。それ 白くもない話し合いをアメリカ人相手にしている自分に苛に若い青年にとって性的関係とはそれが正常なものであれ だたしくなったり、なぜおれはここでこんなことをしてし 倒錯したものであれ、奇怪な無秩序を感じさせる他存在に ちつじよ るのだろう、という深い嘆きにとらえられたりした。そし盲目的な没入をおこなうことで、それに意味づけをし秩序 からた て、・ほくはたいていアメリカ人と一緒に仕事をしている日をあたえ、自分の躰の一部のように親しいものにかえる行 おおぎよう たいくっ 本人、それも三十前後の女たちが極度に大仰な身ぶりと表為なのだ。もしミスタ 1 ・ゴルソンと・ほくとの退屈しのぎ しろくじちゅう 情で四六時中叫びたてていることの秘密をさぐりあてた気の話し合いが毎日、毎日、永いあいだ続いたなら、・ほくは 持だ 0 た。あの、派手な眼と赤く大きい脣とで顔に痙攣発作的にミスター・ゴルソンと同性愛の交渉をむすぶか、 的なアクセントをつけた女子大卒の女たちは、決してそのあるいは、これも発作的にミスタ 1 ・ゴルソンと争って 心情にふれることのできないアメリカ人のまえで自分が埋— 0 を辞めることになったかもしれない。 むな ところが、ある月始めのこと、その前の月にアメリカ本 没して行きそうな虚しく無味乾燥な放心から自分をひきと めようとしているのだ。彼女たちは古い女たちと同様に仕国へ送った調査データがあまりにも貧弱だったために、お たいまん どれい りかえしミスター・ゴルソンあてにその怠慢ぶりを非難す 事への奴隷的な忍従を自己に課しているのだ。 る手紙が届いた。それはかなり手きびしい内容をはらんだ ・ほく自身にしてからが、現に面とむかって話しあってい る相手の、ガラスほど無神経な感じに澄んでいる眼ゃぶよ手紙であったらしい。かれは朝、オフィスに出てきてそれ いら ぶよしたゼリーに粉をふりかけたような顔と手の甲の皮を読むと昼まで部屋を苛だたしそうな早い足どりで歩きま 膚、高く細い鼻、それに突然まったく予想に反した音をたわって考えこんでいた。かれは歩きまわるあいだも煙草を あわ てる脣などを見つめていると、その相手の人間の心情に深のんでいるので、灰がかれの通路に点々とおちて淡くあい く入りこんでゆき、その相手の顔に人間的な統一感をとりまいな灰色の輪をつくった。ミスター・ゴルソンは午後に もどさせるためになら、簡単にいえば・ほくとその相手とに なってやっと決心して、かれのオフィスの従業員スんな そうじふ 人間的つながりを発見するためになら、同性愛の関係に入に、といっても掃除婦をのそいて、・ほくと女子大生とかれ はっさてき きゅうきよう りこんでもいいとさえ、発作的に考えることがあったもの自身とに窮境を演説した。 ミスター・ゴルソンの論旨はぎわめて明快であって、か ・ほくは二十歳になったばかりだったし、人間的なつながれは o—o の調査データを先月の三倍の分量毎月おくるこ わ
あお 生理的発生を研究した。 ( ヴロフの仕事を基礎にして、大のなの。」額に落ちた髪を肩にはらって、少女の顔は蒼ざめ げんごちゅうすう 大脳に催眠術による特殊な影響を与え、言語中枢を後天的て悲しげでした。「考えないことだ、疑わないことだ。」紳 に獲得させようというわけだ。どうだい、分らんだろう。 士はむつつりと言い、寝入っている家族たちを見廻すと、 私ばかりでない、私たち一家は皆それぞれ自分の仕事をも「寝よう、」そして・ほくのほうを向きなおり、「君、私は っている。どれも社会に役立っ立派な学問的な仕事だ。長民主的な原則に従って、決して君に強制しようとしてるの こうねんき 男は実験的犯罪心理学を専攻している。次男は更年期におではないが、ただ一つの暗示として、聞いてもらいたいと ける女性の性愛心理という特殊な研究をしているし、私の思うのだ。この部屋は狭い。十人の人間が一夜をすごすの ひけんぶつ 妻はそのよき被験物になっている。私の母は、今でこそ第には面積も酸素も共に少なすぎるのではないかと思われ しりぞ 一線から退いているものの、昔は男性心理の研究家であるる。しかるに、昼間私の調・ヘたところでは、この屋根裏に けんじよう と同時に、デ・ハートにおける売子の心理的盲点に関する研誰も住んでいない物置がある。もしここに謙譲な精神がい 究の権威だった。その仕事の後を、今では幼いながら下のてそれを知ったとしたら、彼一体どうするだろうね ? 」 ちょっと 二人の弟妹が受け継いでいる。妹のほうは、一寸毛色が変 っていて、詩を書いている。近く、《人類愛》という詩集一晩・ほくは蜘蛛の巣だらけの物置で、鼠と闘いながら、 ~ 、つじよ ~ 、 をだすはずだ。一番下の子は、まだろくにロもきけないとまんじりともせず、恐怖に満ちた屈辱の不眠に、全身ささ ふくしゅう いうのに、訓練によって異議なしの挙手をするし、そのうくれだっ想いでした。・ほくは胸に復讐を誓い、翌日からの え犬に言葉を教えるための研究のよき実験材料になってく行動の計画を次のように立ててみました。 れている。近代的な文化家族の生活というものは、まあざ 一、長男が出掛ける前に子に会いに行くこと。 ( 彼女 っとこんなものだよ。どうだね、驚いただろう。これに加 は危険にさらされている。・ほくの立場を充分に説明 者えて君が私たちに協力するとなれば、単にわれわれの研究 し、・ほくの味方になって一緒に闘う決心をしてもらわ 入がはかどるばかりでなく、君も立派な文化人としての資格 なければならない。 ) 一、誰か良心的な弁護士を探すこと。 闖を獲得するわけだ。」 ふと気づくと、静かにすすり泣いているむすめを除い トの人々に対して訴えのビラを貼ること。 四て、全部がぐっすり寝込んでしまっているのでした。「お ( 以前、 2 号室の船員が、部屋代値上に反対するビラ ゅううつ けっそく お、どうした。」驚いてのそきこむ父親に、「何かしら憂欝 を貼ったとき、アパート中がそれに応えて結束した。 ) ひたい ねすみ
そこを暗黒の深淵とよぶにしても、その現実世界の一つ の地獄は、大学のそばの不動産会社のビルの三階にあっ て、つねに明るく、 ( ああ、人間はなぜこうも熱心に自分 の周りを明るく照明することに昔から努力をかたむけてき くらやみ けもの かくだん たのだろう、人間が暗闇を、他の獣たちにくらべて格段の 差をつけて激しく嫌っているのはなぜだろう。・ほくは日本 しゅうし 人の一青年であってキリスト教徒でなく、その宗旨に関心 も持たないが、この人間の暗闇への恐怖に考えいたるたび 務んざい に、原罪という言葉をおもいだす ) リ / リューム張りの床 は油の艶をうか・〈てみがきたてられており、ステンレスの 暗黒の深淵がこの現実世界のそこかしこにひらいて沈黙事務用家具は軽快に、またいかにも能率的に、働く人間を をたたえており、現実世界は、そのところどころの深淵にそれ自体まちのぞんでいるようであった。 * ろうとじよう とびら ろうか むかって漏斗状に傾斜しているので、この傾斜に敏感なも しかし・ほくは、廊下からの扉をおして入ってくる挫折し のたちは、知らず知らずのうちにか、あるいは意識してこ た青年が、・ほくのカードに必要事項を記入しにぼくの質 しつぎおうとう の傾斜をすべりおち、深淵の暗黒の沈黙のなかへ入りこん 、それはカードの不備な部分に関する、簡単な質疑応答 じ′」く でゆく、そして現実世界における地獄を体験するわけであにすぎないが、とにかく・ほくの質問にこたえ、隣の部屋に る。 入って行くのを見送る時、やはりその明るくビジネスライ 所ぼくはこの暗黒の深淵のひとつのそばに、いわば地獄のクな部屋は地獄の入口のひとつであると感じたものであ 研関守のような形で立ちあっていたことがある。そして、・ほる。 かか 青くがそれに関わっていた深淵への漏斗状の傾斜に敏感なも隣の部屋には鬼がいたか ? アメリカ東部の大学で極め 退 のとは、政治的に、あるいは思想的に挫折を体験した青年て高度な教育をうけた新進気鋭の社会心理学者であるミス 後 たち、精神に傷をおっている青年たちであった。もっとター・ゴルソンと通訳担当の東京女子大学の学生一人が待 きずあと も、かれらの多くは、肉体的にも傷痕をもっている者たちちうけていた。そこへ、思想的に、あるいは政治的に挫折 ゅううつ であったけれど。 した青年が、告白で頭をいつばいにして憂鬱な一歩を踏み 後退青年研究所 しんえん ざせつ まわ
- 1 ・りトっ るといったのもその意味においてである。ところで、 まで拒絶する荒涼とした満州の原野のイメージなので ここで一つ奇妙な事実は、この小説に登場する主人公ある。 の「故郷」が、題名から予想されるところとはだいぶ 安部公房氏は、ある年譜に付した文章のなかで自己 ちがって、いとも抽象的であり、通常われわれがこの の文学における「故郷」の観念について興味深いこと 言葉から受ける伝統的な連想には縁が遠いことである。 を語っている。出生地は東京、出身地は旧満州、原籍 なるほど主人公は日本の領土にはしめて足を踏み下ろ地は北海道という複雑な経歴を持っ氏は、「本質的に、 げんしゆく すときに「じゅうぶんに厳粛な気持にさせられ」はし故郷を持たない人間」であり、かつまた「ばくの感情 ている。しかし、それは難辛苦の末にようやくそこ の底に流れている、一種の故郷憎悪も、あんがいこう に帰りついた主人公の感想としてはあまりにも無機的 した背景によっているのかもしれない」というのであ である。少くとも、それは望郷的感情とか故郷思慕の る。注意深く読めばすぐにそれと知られることだが、 心的動機とかいったものからは完全に絶縁されている。 このたぶん何気なく書かれた二つのセンテンスの間に はちょっとした和盾がある。つまり本質的に「故郷」 主人公の「故郷」についての知識にしてからが、「富 士山」とか「日本三景」、さらに桜の花に及ぶまで、 を持たない人間がいったいどうしてその「故郷」を憎 ことごとく学校の教科書から得られたものであり、徹悪できるのかという問題である。おそらく、安部氏の 頭徹尾ブッキッシュなものなのだ。い ってみれば、こ文章は、もしこれを正確に読みとるとすれば、日本語 の小説の主人公は、「故郷」にひかれて旅立ちをした の「故郷」がそのあらゆるコンノーテーションをもっ ・一うそくりよく てっち て人間に迫って来る陰湿で粘性の拘束力を拒否すると というよりも、ソ連将校への丁稚奉公同然の境遇から い、つところに力点があるのであり、「故郷憎悪」とは、 の脱出を図るために「故郷」の観念を導入したという ことになるだろう。読者はやがて結末に主人公がたど精神の自由を求める運動の極として「故郷」の観念を 一つの強 まさにそれを否定するために設営することだといって りつくだろうと予想する「故郷」の代りに、 よいにち力いない 。また逆に、現実の生れ故郷を持た 固な「壁」の前にみちびかれたことに気づく。そして、 ない人間でも、みすから回帰すべき「故郷」の観念を 「故郷」のなごやかな情景の代りに作者がくりかえし て描写して見せるのは、人間を受容しないでとことん所有することはできるのだから、安部氏はそうしたも 436
かしい夏の午後の水に濡れて重い皮膚の上にきらめ らそれ自体のうちに完結し、充足しきっている。「芽 く陽、敷石の濃い影、子供たちゃ黒人兵の臭い、喜 むしり仔撃ち』では大人たちに裏切られ、見殺しに びに嗄れた声、それらすべての充満と律動を、僕は されかけた感化院の少年たちは、たちまちのうちに団 ど、つ一ムえればい、 結し、共同の労働を組織し、仲間うちに友情と愛の秩 げきつい この「古代めいた水浴」の光景の中の夏の輝きにみ 序を芽生えさせる。「飼育』の世界では、撃墜された し力に蚕の臭いや家畜小屋の臭いがし ちた「村」は、、、 飛行機からパラシュートで降下し、山村の捕虜となっ てはいても、現実の日本の農村には似ていない。それ た黒人兵さえ子供たちの仲間になり、「村」の一員に はたとえばポードレールの《 Moesta et Errabunda 》 加わるのである。大江氏の作品世界にくりかえしくり に歌われた le vert paradis, 一・ innocent paradis ( か かえし立ち現われる「村」のイメージは、初期短篇の 時代から『万延元年のフットボール』 ( 昭和四十一一年 ) の緑の楽園・かの無垢の楽園 ) のイメージ、あるいは マラルメの『牧羊神の午後』の古代の感覚を通過し、 を経て現在にいたるまで、つねに共通の地形的特色に 濾過したところに再生された「村」なのであり、その ふちどられた同一の相貎を保っている。濃くつめたい ぶどう ハのでもない 「古代」は日本のでもなければヨーロン 霧を吐き出す谷川、山腹の敷石道、葡萄色の光がなだ れる広場、そしてそれらすべてを弭繞して重畳する山一つの原初的で普遍的な「古代」なのである。われわ 山と広大な原始林。しかし、ここで注意しなければなれはこの「村」では死者を火葬する臭いや動物たちの ちゅうみつ らないのは、ここに稠密な描写を与えられている四国屍臭、黒人兵の体臭やさらにはその屎尿の臭いまでが、 の山奥の「村」は、少なくとも初期短篇の世界に関す一種いわば嗅覚的イメージとして、蚕や牛小屋や墹肥 など日本の農村の伝統的な臭いを圧倒してただよって るかぎり、ほとんど日本の農村ではないという事実で いることに気づくだろう。この「村」で少年時を送る ある。たとえば『飼育 』のこれもあまりに有名な、夏 みずくみー し力にもそれが一 e vert paradi のてあ 主人公たちは、 ) 、 の午後の「村」の水汲場で、裸の少年少女がたわむれ、 「硬い表皮と厚い果肉にしつか 黒人兵が牝山羊に挑みかかるあの神話的な人獣交歓のることにふさわしく、 飼育』 ) 、「躰じゅうの り包みこまれた小さな種子」 ( 『 場面 僕らがいかに黒人兵を愛していたか、あの遠く輝皮膚がなめらかで栗色に光る生毛しかもっていない者