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検索対象: 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集
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1. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

からだ いんぎん 「うむ、うむ」と満足気に男は唸り声をあげて・ほくの躰全「じゃ、明日うかがいます」とぼくは慇懃にいった。 それがアラ・フの健康法の呼吸術でもあるのか、中年男は 体を見まわした。 「話はかわりますが、・ほくは、以前あなたをお見かけしたもういちど荒あらしく息を吸いこんで呼吸をとめ、・ほくを しなさだ ことがあるんです、広島で」と・ほくはいった。「あなたは品定めするように見つめ、それから不意にくるりと躰のむ e< 0 0 の廊下に立っていられたし、次には市庁前の広場きをかえると、ジャーナリストたちの別のグループにむか れいきゅうしやわき って歩いて行った。・ほくはかれの急に重くなった足どりを で霊柩車の脇に立っていられました。あなたが広島からっ こうふん れてこられた原爆孤児は、いま何人生き残っています ? 」見おくりながら、自分がしだいに昻奮しているのを感じ あしか 中年男の海驢に似た頭は、一瞬、いわばその海驢が骨をた。同時に、この上機嫌だった、アラ・フの健康法の指導者 とがらせてつくったエスキモーの銛でつき刺されでもしたに、アトミック・エイジの守護神としてのかれ自身を思い じようきげん そくぶってき ばくん というような表情をうかべた。かれはもう上機嫌なホスト ださせ、かくも即物的なショックをあたえたことに漠然と ではなく、憂わしげで警戒的で、白じらしい憤畆さえしめした後悔を感じてもいたのだが、ともかく賽は投げられた わけだった。 している中年男だった。かれは荒あらしく息を吸いこみ、 そのまま呼吸をとめてじっと疑わしげに・ほくを見つめ、十「本当に明日、かれに会いに行くのかい ? 」と友人の編集 神秒ほどもたってやっと、アラ・フ人に命令していたときの声者が黙りこんでいる・ほくをいくらか疑わしそうに横眼でう しわが けんあく 護 よりももっと険悪な、しかしずっと低い嗄れ声で、・ほくに かがってねた。 守 ささや のこう囁きかけた。 「ああ、行くよ」と・ほくはカんでいった。 イ「あんた、ねえ、どういう意図かわからんが、その話は別 ・ほくと編集者とが報道陣よりもひと足さきに小宴会場を とぐちがいとうかけ の機会にしてくれんかねえ。あんたがその話を聞きたいな出て帰ろうとしたとき、・ほくらはその広間の扉ロの外套掛 クら、いつでもうちの方へ来てくれれば、わたしは話すよ」 の陰で青いジーン・・ハンツをはき、肩から無地のタオルを かゆ 「いつお宅〈うかがえばいいでしよう ? 」と・ほくもまた挑お 0 たアラブ人が、粥のようなものをひとりで食べてい のぞ るのを見た。かれは一心不乱に碗のなかを覗きこんで左手 ア戦的な気分になっていった。 「早い方がいし そういうことは早くすませたいからねにもったスプーンをうごかしていて・ほくらにはまったく注 え。明日の午後二時はどうだね」と手負いの海驢はいつ意をはらわなかった。 た。「場所はこの健康法のパンフレットに印刷してあるわ」 「アラ・フの健康法は、おそらく、ヨガ・プームに便乗でき わん びんじよう

2. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

る。「いままでだって、けっこう危険でしたよ。なにもい 「いやだ、・ほくはここで休む。」 「二里か三里のしん・ほうじゃないか、ここまできて、つままさら : : : 」 「だから、説明するって言ってるじゃないかー」 らん : : : 」 「言うだけはね : : : でも一度もしてやしない。」 「そんならよけい、無理することはないさ。」 くちびる 「おれは : : : 」黒い短い舌の先で、すばやく下唇をなめ、 久三は、土手の下に荷物をおろし、道端の枝をあつめに っこ 0 さらにそれを手の甲で拭きとって、「おれは、追われてい 力、刀ー りんかく 「おい : こ息をつめたために輪廓の・ほやけた声で高が呼るんだ。」 「分かってますよ。それくらいのことは、・ほくだって : びとめる。「悪いことは言わんから、一緒にこい : こ枯草をまるめて枝の中におしこみ、マッチをする。一 「手つだってくださいよ。」 じくぎ 本目は軸木にもえうつらないうちに、消えてしまった。風 「悪いことは言わん。おれには、考えがあるんだ。」 りくっ 「どうせ休むんなら、ここで休むのが、いちばん理屈にがでているのだ。胴ぶるいをして、二本目をつける。 ・貴様がビストルの弾をおもちゃにしてしま 合っていますよ。うまく馬車でも通りかかってくれれば「畜生 ! っていなけりゃなあ・ : : こ 「分ってますよ。」 「つまらんことを言うのはよせー」 す「・ほくは腹がすいているんだー」 火がついて、白い煙がふきあがる。道にそって西になが め「だから、おれの言うとおりにしろといっているんだ。君れ、土手のちょうど高が足をかけているあたりでばっと散 うす って、ぶるぶる波立ちながら荒野のうえを、渦まきながら 郷は日本に帰りたいんじゃないのか。そうだったらおれのい せき 故 うとおりにしろ。危険なんだぞ、ここは : : だからあんな北のほうへ飛んでいった。高は咳こみ、のろのろと煙をよ ちに、旗のことだって、やかましく言ったんじゃないか。 けて、久三のいる側にやってきた。しかし火のそばまでは チュンチよ , す のさ、行こうや、明るいうちに向うに出て、中旗の様子をさ近づかない。誘惑にうちかとうとする強い決意が、義眼を どうこう ぐっておかにやいかん : : : さ : : : 」 までも上につりあげてしまい、まぶたのかげで瞳孔が小さ け 「でも、・ほくにはなにもそんなに、びくびくする必要はなく、穴のように黒くみえた。 いんだからな : : : 」久三は道のうえに一とかかえの枝をつ 「こいっ馬の糞じゃないか。」わだちで出来たうねとうね みあげ、せわしげな手つきでこんどは枯草を集めはじめのあいだのくばみにころがっていた、小石ほどの灰色の塊 かたま

3. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

ばくは初めから行く気がなかったので断ると、 「往復千円はかからないんだがわ」 と、不機嫌な声でいったかと思うと、あとは黙りこ くってしまった。 だが、そんな態度にもかかわらす、彼に対するばく の奇妙な親密感は消えなかった。 そして、目の前にある彼のぶ厚い肩を見ていると、 一 ~ な叮、、或る日突然、カラ「ト生れ 0 友達と連れだ「を根釧 原野に入っていく彼の姿を空想してしまうのだった えのもと・、 ' あき 「榎本揚」で語られる三百人の囚人たちは、大砲一一 門をひいて荒凉たる雪原に消えていったが、この二人 の運転手はスノータイヤをつけた車を一一台走らせ、時 ソドライトをけものの眼のように光らせ、時に はピクニックのような笑い声をあげて、広い空の下に 、、を・踏み入「ていくだろう。おそらく共和国のような高み はのぞまず、かといって幻の故郷をそこに求めるわけ でもなく、むしろ故郷を喪失したあとの奇怪な魂の火 かて 照りを糧にして、自由で、ささやかな生活を営むのだ ろ、つか しかし、函館駅へ着くと、彼は黙って金を受けとり、 受けとるやいなや車を乗り捨てて吹雪の中を走り出し た。どこへ行くのかと見ていると、寒そうに背中を丸 右柵の外を頬かぶりして行く人 ( 「砂の女」 ) 左凹地にへばりつくように並んだ人家 ( 「砂の女」 ) めたその後姿は、近くのラーメン屋の中へ消えた。

4. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

僕は絶句した李の肩を掴まえて揺すぶった。僕の頭に暗から筋肉の緊張と怒りとが融け、哀しみがそのあとへひろ かんぼっ く大きい陥没が起り、そこへ僕のすべてがのめりこんで行がっていった。僕は頭を振り、そのまま腕にかかえこんだ うめ くような感じなのだ。そして僕は声をあげることができな膝に額を埋めて呻いた。 「俺は」と李は僕の震える腕にしめつけられて苦しがり哀長い時がたち、夜が更けてから、突然遠くで泣ぎ叫び苦 願する眼になっていた。「棒切れでそれを拾ってから、お痛を訴える声が起り、たちまちそれは押しつぶされたが谷 前に届けようと思って森の中を戻って来たんだ」 のあたりで短い反響が戻って来た。僕の仲間たちは、それ おえっ からだ ぼうたい きゅうくっ 僕は急激な嗚咽、僕の躰のなかを荒れてくる厖大にふくそれの窮屈な眠りの姿勢から躰を起し不安にさいなまれる れあがり喉と胸の奥を灼く嗚咽の発作につき動かされ、李眼をたがいにさぐりあった。 の肩を離すと羽目板に額をおしつけ声をあげて泣いた。 「谷の向うに憲兵隊の自動車が来ていた」と李がいった。 ゅうしゆっさまた 「その袋をお前どうした」と南が僕の哀しみの湧出を妨げ「あの兵隊が死なないうちに連れて行きたがっている。き たす ないように声を低め、あらたまって訊ねていた。 っとトロッコに縛りつけて向うへ渡しているんだろ」 ぞうもっ 「え ? 持って来たのか。な・せあいつのところまで運ばな「臓物を腹から出したまま」と南がいった。「そんなこと かったんだ」 したら、殺すと同じだ」 「森のなかで村の連中に見つけられて追われたから」と李「あいつらは殺しあう」李がにくしみにみちていった。「俺 は困惑しきっていった。「俺は盗んたと思われるのが嫌だ たちはかくまっておいたのにおなじ日本人同士で殺しあ かんぼく う から灌木のなかへ抛りこんどいた。そのあとで急に眼の前う。山へ逃げこむ奴を、憲兵や巡査や、竹槍をもった百姓 へ他の連中が竹槍を持って立ちふさがるのさ、逃け道がなや、大勢の人間が追いつめて突き殺す。あいつらのやる事 い」 はわけがわからない」 「荷物を棄てたところへ俺たちを案内するだろうな」と南再び悶絶するまぎわの喉からのような、死ものぐるいの がおしかぶせていった。「なくなっていたらただではおか悲鳴が起り、それは明らかに谷を渡って行く響きを短い間 ないぞ。あいつの弟の形見を」 ったえ、すぐに押しつぶされて断絶した。そしてそれは僕 僕は激しく振りかえって南に掴みかかろうとし、南の鳥らのあつぼったい期待をはねかえし、それ以上僕らの耳へ のそれのように鋭い限が涙でいつばいなのを見た。僕の躰けたたましい声をつたえなかった。僕は黙りこんで耳をす たけやり ひたい はっさ ひざ もん懸っ

5. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

まだ通信員とかいう職業を言いはるつもりなのだろう り、体の重みが三倍になったみたいだ。汪がわめいて倒れ たた か。 ( 甘くみてやがる。 ) むろんもう信用する気などはな た。溝があった。「あぶないぞ。」と汪が言い、厚い壁を叩 はす く音がした。レールを外れて転倒した家畜用の貨車の屋根 だった。こげくさい臭いがした。 「静かになりましたね。みんな死んじゃったのかな。」 「機関士のやつもおだぶつだろうな。」 汪の目的は、三輛目の貨車だった。久三が最初にかくれ ゅうがいしゃ 「あの赤ん坊も、死んじゃったかもしれませんね。」 ようとしたやつの、一つ前の有蓋車である。右にいで、 「なにもあんなに、後戻る必要はなかったんだ、・ ひくびく土手の下に頭をつつこみ、傾斜にそって後ろ半分を、まる しやがって : : : 」それから汪は久三の知らない言葉で、ぶで影の塔のように黒い空の中につき出していた。 つぶつ悪態をつきはじめた。 「完全にやられたな。」 とびら 「どうしたんだろうな、誰も来ない : : : 」 扉を開けようとしたが、ひずみがかかっていて、動かな 「わけが分らんよー」 胸がわるくなるような臭いがしてきた。下をくぐって 「本当のところ、汪さんは、どっちの味方なんです ? 」 反対側にでた。扉は砕け落ちていたが、異様な臭気で、と 「どっちの ? : ああ、なるほど : : : しかし問題は単純ても中をのぞくどころのさわぎではなかった。 じゃない、 一口で説明するわけにはいかんよ : : : ちくしょ 「なんのにおいです ? 」 しやペ すう、空気が歯にしみやがるな、あんまりお喋りしてるとロ 「まあ、こんなことだろうとは思っていたがな : ・ : こしか ようす めが凍傷にかかるぞ。とにかく君は、そんなことまで気にすし汪はかなりの打撃をうけた様子だった。「うまくいけば、 をることはいらんね : : : くそ、やつらのところに行きや、火ざっと五十万からの大仕事だったんだ。」 故もあるし、熱いス 1 プもあるんだ : : : 」 「なにが入っていたんです ? 」 「ポリタールさ。特別な銅線の被覆塗料だよ。」 ぢ「来なかったら、どうするんです ! 」 た「来るさ。」 そうだ、アレクサンドロフたちが、そんなものの話をし も「でも・ : ・ : 」 ていたつけ。しかし久三は黙っていた。もう自分には関係 「来るよ。でつかい取引なんだ。」 のないことだ。足踏みをしながら、耳たぶを叩いた。 汪はなにを思ったか、いきなり機関車のほうへむかって「こうしているわけにもいかんな。」そう言って汪は手鼻 ひざ 歩きだした。久三もすぐ後につづいた。膝の関節がつつばをかんだ。 みそ にお りト - 第ノ ひふく

6. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

かんづめ て細かく波立ちながらつぎつぎと片側にふきよせられてい底にごろごろ罐詰がころがっておって、つかんでみると実 から 8 こ 0 1 十ー 際は罐じゃなくて虫というわけだ。かぶと虫みたいに殻の 「春だな : : : 」と高がひしやげた声で言って、手袋の甲で厚い虫でね、その皮をはぐと、中身はやはり罐詰で、なん の罐詰かというと、それがおどろくじゃないか、できたて 顎をなでまわした。 それを聞くと久三は、唇がしびれ、顔の中でなにかがほの」 つば どけたように感じ、いそいで唾を飲みこんだ。すべてがお「よして下さいよ、馬鹿馬鹿しいー」 そろしく不当なことに思われ、涙がこみあげてくる。「く「ああ、ヘロがきいてくると、どうも舌のまわりがよくな そ ! 」カいつばい自分の膝にとびつき、きつくしめあげりすぎる : : : 」 こ 0 「寝てください、時間がおしいんだ。」 まき 腰をあけて、薪をあつめに行く。戻ってくると高はもう 高がぐらっと倒れかかって、声をあげて体をおこした。 寝入っていた。 瞬間的に眠っていたらしい。 ありったけの薪をくべてしまうと、久三もそのそばに横 「いま、妙な夢をみたそ。ありゃあ、どこかな : : : 深川あ になった。こんど火が消えれば出発するつもりだったか たりだな。おれはよく日本の夢をみるんだ。おふくろが日 本人だからな。小学校も三年まで行ったよ、ふん : : : どうら、もう交代で見張る必要はないと考えたのである。 も、おふくろの顔がよく思いだせんのだ、夢に出てくると 十九 きはいつも後ろをむいてやがる。髪の毛が黒く濃い女で はなお な、足の指をぎゅっと内側にまげて、鼻緒をつつばって、 内容はよく思いだせないが、息苦しい恐ろしい夢をみて 年中走 0 て歩くもんだからしょ 0 ちゅうア駄を踏みわ 0 て いた。無限につづく、せまい急な坂道を、なにかに追われ さ・ ・ : : 小さい声で、餓鬼 ! って言いやがってね、いきなて逃げ降りているところだった。そいつは、姿は見えない り耳をつまんで宙づりにしやがるんだ、ふつー ・ : まのだが、全身かさぶただらけの、そのかさぶたのあいだか だ、どこかで、生きてやがるかな : : : 」 ら黒いぬれたような毛を二、三本ずつ生やした、ひょろ長 「寝ませんか : : : 」 い男で、キイキイつぶれた音をたててヴァイオリンをひき 「待てよ、その夢ってのはだ、おれがどこかの家の軒ドのながら、跳ぶような足どりでいつまでも追いかけてくるの 小さなどぶにつかっているとな、外からは見えんのたが、 だった。その音がおそろしかった。ついに緊張に耐えられ ちゅう くちびる ひざ

7. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

あいきよう かなか愛嬌のある善良そうな顔をしていた。途中でどこか じゅうをたずねまわった。半日走りまわったが、八百六十 の庭に咲いていたグラジオラスの花をつみとった。しかし五人の日本人はどこに行ったのか、もうすっかり消えてし ひがた 砂丘にたどりついたときには、もうしおれていた。 まっていた。まるで干潟の後の溜りのように、彼だけが取 塩の塔は夜露にぬれて、消えうせていた。するとモンゴ残されているのだった。恐怖と疲労にうちのめされ、道端 ル兵はそれを見て、満足そうにうなずき、空をさしてなにの塀によりかかっていると、数人の中国人の青年がやって か言った。天にの・ほったという意味らしかった。 きて無言のまま彼をおしのけ、彼がよりかかっていたあと すぐその足で河岸の倉庫をたずねてみた。ところがそこに一枚のビラを貼りつけた。 はしよう にもすでに赤旗がひるがえり、ソヴェト兵の歩哨が立って《東北人的東北 ( 東北人のための東北 ) 〉 いるのだ。幌のついたトラックがついて、中から負傷者を しかし、もう場所をかえる気力もなく、そのビラと並ん たんか のせた担架がはこび出された。野戦病院にでもなっているで、白く乾いた道をじっと見つめながら、いつまでも・ほん のだろうか。あたりはしんとして人の気配もない。急いでやり立ちつくしていた。そのあいだにも、戦車や兵士を満 あとへもどってくると、旧市街に出る橋のところで、荷車載したトラックの群が次から次へと通りすぎていく。その をひきリ、ツクをかついで行進してくる汗だらけの日本人時の光景を、彼はずっと後になってからも、幾度か夢にみ の一群に出あった。先頭に赤い小旗をたて、誰もが胸に赤たものである。 いリポンをつけている。しかし会社の連中ではない。むろ夕方ちかく、偶然アレクサンドロフ中尉の車がそこを通 ゆくえ ん聞いても分るはずがない。ためしに行く先をたずねてみりかかった。呼びとめて事情を訴え、会社の連中の行方を たが長春か哈爾浜に行くという以外、彼らにもはつぎりししらべてほしいとたのんでみた。中尉はそれには答えず、 久三の胸の赤いリポンをつまみ、疑わしげにその意味をた た確信はないらしいのだ。やりすごして、ふと、見えかく れしながらその後をつけていく十人ばかりの屈強な中国人ずねた。ロシャの赤だと答えると、薄笑いをうか・ヘてそれ の男たちに気づいた。しかし声をだすわけにもいかず、黙をひきむしり、車に乗れと合図をした。 って見送るよりほかはない。ふいに重々しい砲声が数発、 翌日、戦争がおわったことをロシャ兵におしえられた。 つづけさまに地面をゆるがせた。 彼らは熱狂し、一と晩じゅう歌いあかした。むろん、なぐ 久三はあわてて寮に駆けもどると、リュックにつまるだ り合いもすこしはあった。しかし久三の身には・ヘつに何も へきち けの荷物をつめて、外に飛び出した。日本人をさがして町変ったことはおきなかった。そのころ、何十万という僻地 ほろ たま

8. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

会社を出るとぎ、いつものように誘われることを期待し食器を買いこんだり、火を起したりしなければならなかっ 2 て、というよりその気になっている子の手に、ほとんどた。それもこの不案内な土地で、したこともないような雑 詳しい説明も与えず、月給袋を押しこみ、「君、今日これ用をさせられるんだからやりきれない。これからは気をつ 持って帰って、あずかっておいて。明日、日曜日だったけて下さい。もっとも、今日が給料日だったから、まあよ ね、映画でも見に行こう、誘いに行くよ。」言いおわらなかったものの、残り少い君の貧弱な財布で道具をそろえ、 しまっ いうちに、走るようにして離れ去り、気がついて振向くもう一銭も残っていない始末。君にあんまり苦労をかけた と、子はビカソの肖像のような顔をして、つまり言葉でくないから御忠告するんだが、今後は万事計画的に、こち は何んとも表現しがたい、無機的に分裂した表情で、ぼんらに相談の上行動してもらいたい。」 やり立っていました。 勢いこんで踏みこんだ鼻面を、軽く指先で撫でられたよ ア′ート の中庭を一気にけぬけ、階段に最初の一歩をう。ぼくは急に、道々持ちきれないほど沢山用意してきた かけたところで、「さん、」と女の声で呼び止めるものが言葉をすっかり忘れてしまっていました。 あり、「あんたのとこのお客さん、面白い人。」ねっとり笑「まあそんなところに・ほんやり立っていないで、上ったら まっせき いをふくんだ未亡人でした。何かひどい言葉をかけてやろどうです。」末席を占めていた年上のむすめが、紳士の声 うと思いましたが、その悪口の方向が彼女と次男坊の両方に応じて座をずらし、振向いて軽く目だけで笑うので、・ほ がまん に分裂し、とっさに出てこないので、我慢してやりましくはしぶしぶそのあたりにあぐらをかきました。 た。 「そのまえに、」と長男が息をつく間もなく言いました。 くるまざ 部屋では、一家車座になって、食事の最中でした。紳士「食器を片づけて、お茶を入れてもらったほうがよくはな が手の甲で唇をぬぐい、大様な笑声を見せて、「やあ、お いかね。」思わず・ほくは立上り、急な坂をころげ落ちるよ 帰りですか。今朝は食事もせずに、それどころか、」と今うな勢いで言いました。「馬鹿なことを言うな。・ほくに、 したく 度は打って変った恐ろしい顔になり、「お茶の支度もせずそんな義務はない。それどころか、君たちに出て行けとい なんぎ に出掛けてしまい、私たちはひどく難儀した。あんなことう、権利をもっているはずだ。・ほくはもう、一歩もゆずら ちやわん をされては・ ・、」すると婦人が驚いたように茶碗からロ ないつもりだから、そのつもりでいてほしい 。さあ、出掛 を離して、「あんなことをされては : : 、」その後をまた紳ける用意をしてくれよ。」 士が続けて、「全く困ってしまう。私たちで、手けして、 「出掛けるって、おれたちに何かそんな予定があったつけ はなづら

9. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

おとな つくちくや 「殴るもんか」と兎ロは口惜しそうにいった。「大人が入黒人兵を護送することも村の人間たちのカでは難かしいだ 0 て行 0 て、見ただけだ。見ただけで黒んぼはあの通りなろう。長い雨期と洪水が何もかもを複雑にし困難にしたの んだ」 しかし書記が命令的な口調、一種の下級官僚的な尊大な 怒りがさめていった。僕は頭をあいまいに振った。弟が 口調になると村の大人たちは弱よわしくそれに屈伏するの 僕を見つめていた。 だった。県の方針が定まるまで黒人兵を村においておくこ 「なんでもない」と僕は弟にいった。 のぞ 村の子供の一人が躰の横からまわりこんで明りとりを覗とがは 0 ぎりすると、不満と困惑でこわばる表情の大人た こうとし、兎口に脇腹をけりつけられて悲鳴をあげた。兎ちの群らがりから離れて、僕は明りとりの前に独占的に坐 ロはすでに明りとりから黒人兵を覗く権利を自分の勢力のっている弟と兎ロのところへ駈け出して行った。僕は深い あんど 下においたのだ。そしてその権利を侵害する者たちに神経安堵と期待と、大人たちから感染したむくむく動きまわる 不安に満たされていた。 をとがらせているのだった。 僕は兎ロたちから離れ、大人たちに囲まれて話し合って「殺さないんだろ ? 」と勝ちほこって兎口が叫んだ。「黒 はなみずうわくちびる いる書記のところへ行った。書記は僕を、洟水を上脣にん・ほは敵じゃないからな」 轣かせている村の子供たちと同じように全く無視して話し「惜しいから」と弟も嬉しそうにい 0 た。そして僕と兎ロ かと弟は額をぶつつけあって明りとりを覗きこみ、黒人兵が 続け、僕の自尊心と彼への親しみの感情を傷つけた。し し自分の誇りや自尊心にかまってはいられない時というもぐったり寝ころんだままで、胸を大きく起伏させ呼吸して ためいき いるのを見て満足の溜息をついたのだ。地面に裏がえして のがある。僕は大人たちの腰の間に頭を突っこんで、書記 伸べられ、陽に乾く僕らの足うらのすぐそばまで進んで来 と部落長の話し合いを聞いた。 《町》の役場と駐在所では、黒人兵の掫をどう処置するて子供たちは僕ら〈の不満を低くつぶやくのだが、兎口が こともでぎないと書記はいうのだった。県庁まで報告し、すばやく躰を起してどなりつけると、悲鳴をあげて逃げ散 これへの解答があるまで黒人兵を保管しておかなければなるのだった。 らない、そしてその義務は村にある。書記の主張に部落長やがて僕らは寝そべったままの黒人兵を見ることにあき はんばく たが、特権的な場所は放棄しなかった。兎口が子供たちか が反駁して、村には黒人兵を捕虜として収容する力がない ちじく なつめ ということをくりかえした。しかもあの遠い山道を危険なら、棗の実、あんず、無花果の実、柿など、一人一人に代 ひたい

10. 現代日本の文学47:安部公房 大江健三郎 集

娶んちょう の生活をくい破っていく敵のカの前兆のように思われて、 か、考えさしてもらいましようかね。」 そうおいそれと行くとは思っていなかったが、こうまでひどく不快な気持になるのでした。 そっけ 素気なく扱われようとも思っていなかった、・ほくはすっか黙って外に出ようとするぼくを、相手はさらに引き呼び り気抜けして、外に出ようと中庭の石段につっ立ったま止めて、「会議が始まるぜ。欠席すると不利になるんだぜ。 行けよ。」それをはね返すように外に出てしまうと、これ ま、しばらく時の経つのも忘れていました。 と言って当てもなかったのが、自分の動作の激しさに押さ 「お早よう、」ふと肩をたたいて、腕をつかむものがあり、 さくどう たす ようす まくの買ったばかれ、日頃信用していなかった交番を尋ねてみようと、急に 「何やら策動している様子じゃないか。」に ちんにゆう りの歯・フラシをくわえて、ロのまわりを真白にした闖入家決心していました。というより、ほかにどこにも行くべき 族の次男坊でした。丁度そこを 3 号室の色つ。ほい未亡人場所が思い当らなかったので、一番行きたくなかった所が * しちりん が、七輪をおこすうちわをもって通りかかったのに、「お行為の目標に残されるという結果になったのかもしれませ 早よう、奥さん。」十年の知己のごとく歯プラシをもったん。交番には若いのと年よったのと、二人の巡査が椅子に たいくっ 手を振ってよびかけ、ちらと意識的な流し目を・ほくと次男もたれて、退屈そうにタ・ハコをふかしていました。・ほくが 坊の間にす・ヘらして行き過ぎようとするのに、「おや、粉用件を話しはじめると、若いほうは意識的にそっ。ほを向 がかかっちゃった。ごめんなさい。」と追いすがって女のき、想い出したように手帳をめくり何やら書込んだりしは 腕をとり、腰のあたりをはらってやるような手つきをしなじめ、年よったほうだけが、浮ぬ顔つきで、時折り聞いて おやじ がら、・ほくを振返って、「君、親父が会議を召集しているてやるそと言わんばかりにうなずいたりしてくれました。 ・せ。早く行けよ。」 「なるほど、」と年よった巡査が言いました。「そういう話 あきあき まくに色目をつかった 未亡人は以前から、ちょいちょいド に、われわれはもう飽々しているんだ。ごらんのとおり、 ひとけ り、人気のない廊下の角などで、これ見よがしにスカート いや、君たちには分らんかもしれないが、今ひどく忙しい をまく 0 てル下のしわをのばしてみせたりして、だが・ほくのでね、またいっか暇なとぎに来てもらうことにしようじ のほうではこれといった関心も示さず、また事実関心も持やよ、、。 十ーし、カ」 いっこくゆうよ たなかったのですが、あの気にくわぬ次男坊に、こうして「しかし、・ほくにしてみれば、もう一刻も猶予ならないこ ろこっ 目の前でいやな光景を露骨に見せつけられると、むろん嫉とが、お分りじゃありませんか。なにしろ、財布はとられ 妬というようなものではなく、それがこれから次第に・ほくるし、部屋の中はしたいほうだい荒されて : : : 、」 しつ