が、青年の無邪気なつぶやきに接するまでは、いつのまにを考えるよりさきにその反応がはたらいて責任や持続をほ 3 かそれはひからびて、匂いも音もたてずくさってしまってどいてしまうのだ。ここに住みつくことは危険だ。ここで こうち たいだ いたのだ。ときどき過去はよみがえったが、すでにそれははなにもうごかず、なにもこだませず、狡智と怠による 速度や方向を失って、何度となく修正に修正をかさねら衰弱がおこるだけだ。 れ、あいまいで、かすんで、凝視するにはあまりに遠いも しかし、と古田は夜の町を見おろす。この人口二〇〇万 のとなっていたのだ。 の町には何万人かの戦場から帰った男がいるだろう。望む ごうかんしゃ たしかに壁の声はつよかった。あの小屋にあったすべてと望まざるとにかかわらず彼らは殺人者、強姦者、放火 りやくだっしゃ のものがよみがえったようだった。古田は暗がりに精液の犯、掠奪者のいずれか、またはそのすべてだった。彼らは かわらやね よどみを感じ、黄いろい腿と、ぬれしよびれた草むらを見いま眠っている。重い瓦屋根に蔽われ、薄い土壁にかこま た。彼はおそわれ、侮辱された。その迫力はいままでになれ、汗ばみながら苦しい夏を静かに呼吸している。蚊やり かんしよう ひわ く新鮮ではげしく走った。しかし古田は敏感に緩衝地帯へ線香の匂い、水道のもれる音、家具の乾割れるかすかなき 逃げこんだのだ。彼はその衝撃を嘘だと思ったのた。非常しみ、遠い海の気配。彼らはそうしたつつましやかな条件 ゅちゃく によく似た模造品、または剥製、そう、十三年がある。とと息をかわしあい、皮膚を癒着させてただよっているの だ。ゆりおこすことはまったくむだだ。ふりかえって時間 っさに予感を抱いて彼はたちなおることができた。まもな すなぼこ たいせ、 の砂埃りの堆積にただ茫然と痴呆状態におちるばかりであ くこれも古びてしまうだろうと思ったのだ。 夜風が涼しい。古田は二階の窓べりにもたれた。ビンのる。誰ひとりとしてこの風化からまぬがれて生きることは 頭のような夜航船の標識灯が庭の垣のうえをはしからはできないのだ。そしてまた、誰ひとりとしてここよりほか しまでゆっくりってゆくのを彼はじっと眺めた。体の奥に生きる場所を知らないのだ。坂をの・ほるまではどうやら に白い、清潔な建築物がそびえるのを彼は感じ、明日の坂維持していた硬化があれほどもろくくずれたのは、時間の 力に対する劣等感と安心感からだ。例外者を想像するほど 道を思った。 古田は体のまわりに生温かく暗い地帯がひろがるのを感古田は自分の感情の質に対しておさなくはない。 ずる。ここへ入りこむのに失敗したことはない。 この地帯古田が窓べりで旅行者に埋もれた砂測を眺めているうち から掴まれたことはかって一度もない。むしろ、拒みように妻が入ってきて、蚊帳をつり、寝床をのべた。彼女は孤 なくその姿勢をとってしまうのだ。衝撃をうけると、なに独を栄養として肥りながら、健康で快活であった。ふとん ふじよく お うそ ふと ばうぜんらほう おお
しようそう いる。人家とおなじように大地ととけあって、建築物とい らは壁を見て焦躁をさそいだされるのだ。蟻のようにせつ れんが うよりはほとんど自然物である。それが町にと 0 て希望でせと煉瓦をはこぶ仕事場の私たちに彼らが = ン = ク臭く生 たん あ 0 たというたしかな経験を私たちはあまりもっていな温かい痰を吐きかければ吐きかけるほど私たちはそのこと 。防禦物として見ればそれは不完全きわまるものだし、 を確認した。私たちは苦痛を土に流しこむために夢中にな 戦術的に可能なかぎり利用できるほどの知識や勇気も私た ってはたらいた。家畜を盗まれた百姓、ふいごをこわされ はれもの かじゃ さかつば ちはもちあわせなかった。それはちょうど大地の腫物のよ た鍛冶屋、酒壺を割られた居酒屋、男、女、老人、子供、 うな私たちにとってのかさぶたにすぎないといってもよすべて・ほうふらのような町の住民たちがただ黙々とはたら おじよく 。価値は無にひとしいのである。しかし、あらゆる検討 いた。壁は私たちの恥や汚辱や無気力を水でこねて、ねっ の末に私はなおすてきれぬものをそこに感ずるのだ。これて、つくられたものである。そのほかに私たちはどんな抵 さっとう は町に住む人びとすべての感覚である。力や筋肉の殺到に抗の方法も思いつくことができなかった。妻や娘たちの ぜいじゃく たいしてそれほど脆弱な存在のないことがわかりきってい傷、やぶられた穀物倉、裂けた畑、それらのものについて ながら、な・せあなたは腹より背に信頼をおいて体をまげるは、こ 冫がにがしい説得力に富んだ時間と愛撫と、黄土の受 のだろうか。私たちにとって擘はそのようなものなのだ。 胎力を期待するよりほかにしかたがなかった。 ひなん コウリャン 夜おそく枕に頭をおとすとき、私たちはおしあいへしあい そのころはしじゅう避難民の姿が見られた。街道や高粱 かさなりあった何十軒もの家の何十枚もの壁や塀のむこう畑を人びとは牛車をひき、袋や傘をもってさまよい歩い に、ったえ聞く海のような平野の肉迫にたちむかう重く、 た。私たちの町を占領した兵士たちは城壁から避難民の列 厚いものの気配をかならず感ずる。城壁は私たちの背だ。 を発見すると、ときどきでかけていって彼らを殺した。た ちょっとでも崩れると私たちはたちまちかけ集ってこのた いていの避難民は武器をとって抵抗したために町を破壊さ りゆら - 、、 わいもない土の隆起にとびかかり、うろうろ歩きまわり、眼れて追いだされた人びとであったが、すでに疲労しきって にしむ汗をぬぐいながらはたらいて倦むことを知らなかっ いて、兵士たちに追われてもろくに逃走することもできず、 やり た。城壁の意味はおそらくその共同作業の感覚それ自体のむざむざ槍に刺しつらぬかれた。兵士たちは彼らのこわれ なかにもとめるよりほかにないのではないかと私は思う。 かかった牛車におそいかかって、酒や食物や貴金属品など らようしよう 兵士たちの嘲笑もそこからきているのである。彼らは絶を奪った。しかし、大部分の人びとはすでに町をでるとき 、ようぼう 望を感ずるのだ。流れただよう、孤独で兇暴な点にすぎぬ彼に無一物同様になり、あちらこちらの町にしめだされて街 まり
もかもよくなるというが、やつばり税金もとる。兵隊もとリ、ポトリしたたるようによちょち声は言葉を一つずつ選 うそ あんしゅう るよ。おれ、そう考える。どの政府もおなじよ。みんな嘘んで話していたが、その口調にふくまれた暗愁に久瀬は胸 ぞうお ね。誰も約東守らないねー をうたれた。憎悪もなく、殺意もなく、ただくつろいで朦 「そこをよく考えなくちゃいけない」 朧とした予感を語っているだけだったが、何かの決意の気 「おれ、毎日考えてるそ」 配があった。盗み聞きすると人の声にはいつも孤独が感じ 「アメリカでは大統領が気に入らなかったら、君はワシンられるものだが、このひそひそした声には何かしらえぐる おさな トンへいって、やい大統領、てめえはナン・ ( ー・テンだそようなものがあった。声こそ稚いが成熟した男の苦さがに といえるんだよ。けれど >0 が天下とったら、君のいうみじんでいた。休暇は終ったのだ。鳥は沼から飛びたったの たいになるよ。それ、ほんとね、 はんらん 「北で農民が叛乱したら、人民軍がでておさえたという五時に隊は村はずれに集合して帰途についた。あちらの ね。一九五六年よ。たくさん農民が殺されたというね。で椰子の木、こちらの藁葺小屋のかげからアメリカ兵やヴェ も南の農民知らない。人民軍が農民を殺したよ。六千人と トナム将校たちがあらわれ、誰いうともなく一列になって いうね。おれ、こわいよ」 村をでると灌木林へ入っていった。朝そこをくぐってくる 「南の人は誰も信じないね」 ときはペットを一節、二節高々と吹き鳴らしたり、マラカ 「誰も信じない。誰も知らない。だから >0 、強くなるスをふっておどけたりする者があったのだが、いまは誰も ね。この村の人、 >0 にだまされてるよ。おれ、そう考えむつつりと黙っていた。アメリカ兵たちは楽器をだらりと あご るー ぶらさげ、顎をたれ、汗と陽焼けした顔の奥にこもって陰 うつ 「それが問題なんだよ、 鬱に怒っていた。ヴェトナム人の将校たちはロに長い草を 「・ハストス、吸うか」 ぶらぶらさせたり、くわえタ・ハコをしたりしてのろのろと 歩いていた。村には異変がはっきりときざしていた。それは の「ありがとう。僕はタ・ハコ吸わないんだ」 たそがれ 辺 「そうか」 黄昏の潮にのってやってきたもののようであった。昼寝か 岸 会話はそこで終った。二人はそれきり、何もいわなかつらさめてみると、ついさきほどまではそこらじゅうにあふ た。発音の練習をはじめる気配もなかった。久瀬はジッポれて歯を見せて笑ったり、こそこそささやきあったりして たる の音をしのばせてタ・ハコに火をつけた。樽から水がポト いた群衆がすっかり消えてしまったのである。一軒一軒の ろう いん
ほろ 自分の名を人びとの記憶のほかにきざむべきものをなにも・た将軍とその軍隊が平野をよこぎった。亡んだ町の記録は 3 もたないのである。 かぞえきれない。殺された住民の話はかならず壁の壊か 私たちの地方では石はひどく高価な素材であった。山はらはじめられた。私たちの国では、町といわず村といわ はるかに遠くて、行商人の口から聞くほかに町でじっさいず、およそ人の住むところにはかならずまわりに壁があ に見たものがほとんどいない。丘はあるが、これも黄土のる。町を壁でかこみ、自分の家を壁でかこみ、壁を体のま とっき 凸起にすぎない。城壁から見晴らしても眼に映るのはただわりに感じないでは一日もやっていけないのだ。山も海も コウリャン 広大な高粱畑と、黄いろくかすんた地平線たけである。行見えないくらい広淤とした国に住んでいながら壁なしにす 商人たちは取引をすませると声高に諸国の見聞記をつたえごせないとは奇妙なことたが、事実である。 てくれたが、私たちの誰ひとりとして山についての正しい 城壁は町の共同財産た。私たちの町は耕作に依存するば 像をもっている者はなかった。まして海や湖など、はたし かりで、絹や玉や機械などというような特殊な技術はなに て町の人間の何人が死ぬまでに見ることだろうか。私たちももたないから、城壁ぐらいしか自慢できるものはないの の国はそれほど広大で、およそ限界というものを知らない たが、これもほかの町のとくらべてとくにこれといった特 のだ。するどく硬い石にみちた山岳地帯こそは、おそら徴をあげることはできない。それは石材を一本も使わずに そうそふ く、この大地の背骨なのだろう。しかし、私たちは、厚く つくられた。黄土は水でねると固くなる。曾祖父たちは平 おお か やわらかい黄土の脂肪が東西南北を蔽った、女の腹部のよ野のまんなかにたっと、風を嗅ぎ、土をなめてから、道具 、わく うな土地に住んでいるのだ。土は肥えて、深く、多毛多産をとって足もとを掘った。土を水でねると、木枠にはめて れんが で、毎年疲れることを知らずに穀物や家畜を生むが、骨は陽に乾かし、固まるところを待って枠をはずすと煉瓦がで きた。その土のかたまりを何百箇、何千箇と、一箇ずった どこにあるのか、まったく感ずることができない。 んねんにつみあげて彼らは町の外壁をつくったのだ。この 町の第一の建造物は、もちろん、城壁である。なんとい これこそはあら壁と、各人の家と、どちらの建造がさきであったかは正確 っても、壁なしで暮らすことはできない。 なことをお・ほえている人間がいまではみんな死んでしまっ ゆる価値に先行するものだ。他人の穀物倉や畑や乾肉など については私たちはさまざまな意見をもっているが、城壁たから、わからないことではあるが、おそらく城壁のほう については誰も異論をはさむことがでぎない。 ここ数十がさきだったにちがいない、と私たちは信じている。伝説 けんじん 年、戦争のたえまがないのである。さまざまな主張をもつは賢人の大きな時代をつたえているが、私たちの町はそれ
大田氏はそうつぶやいてから、ふと気がついたようにぼ彼の顔をかすめた。部屋の灯がすこしかげつたような気が くの顔をみた。 した。大田氏はしばらくもの思いにふけっていたが、やが 「しかし、よくごぞんじですな ? 」 てそれをふりきるようにして顔をあげた。彼の眼は澄ん ゅうふく 「わかりますよ。太郎君は人形の画しか描きませんからで、裕福な商人の自信ある微笑がもとどおりにただよって ね。これはおとなりの娘さんとしか遊ばないからですよ。 、こ。・ほくは毛ほどの傷も彼にあたえることができなかっ おまけに太郎君の画には人間がひとりもでてこない。お父たのを知った。 さんの画もお母さんの画もでてこない。もともと描く気が「お礼になにかさしあげたいんですがね」 ないんですね」 大田氏は・ほくの口調の変化を敏感にかぎとった。彼はロ「展覧会のあとの画はもちろんさしあげますが、それだけ ではどうもあなたの企画をただとりするようだから : : : 」 から葉巻をはずした。 「粉絵具と画用紙で結構ですー 「それはどういうわけです ? 」 「わかりません。お宅の事情を私はまだよく知りませんか 、ほくは安楽椅子を蹴るようにしてたちあがると、大田氏 らね。ただ、太郎君が孤独だということだけは事実です。を待たないで廊下へでた。廊下は清潔で明るく、乳黄色の まくは病院か 不器用だから画が描けないのじゃないんです。このままだ壁は温い微笑と平安をただよわせていたが、に と、いくらやってもむだですよ」 水族館を歩くような気がした。歩きながら、ぼくはしきり 大田氏はだまって葉巻をくゆらせた。部屋の空気は緊張に毛布のしたで汗ばんでねている小さな体を壁のむこうに 感じた。 して重くなり、・ほくは体に圧力を感じた。 「あなたがかまわなさすぎるようですし、奥さんがかまい 屋台に寄ってから帰ろうと思って・ほくは駅へいった。夜 すぎるようにも拝見できます。あんな小さな子に。ヒアノをはすっかりふけて、駅前の商店街は大戸をおろし、灯を消 やらせ、家庭教師をつけ、そのうえ画までやらせるというしていた。がらんとした広場で二人の若い駅員がキャッチ のは酷です」 ・ホールをしていた。昼は仕事で遊べないのだろう。彼らは とっぜん大田氏は体を起すと、テー・フルのはしについた暗がりをすかしておたがいに声をあげ、それを目あてにポ ・ヘルのボタンをおそうとして手をのばしかけたが、思いと ールを投げあった。ポールは街燈から街燈へ夜の底に淡い まって、ロのなかで小さく舌うちした。あきらめの表情が影をおとしながらお・ほっかなくとび交った。 こどく
経が生きていて人が死んだと聞いたとたんに歯を磨き、ロ " 風が・ほうぼうと吹いていた。のどちらかで結ぶことしか をゆすぎ、顔を洗い、鼻歌をうたいだすというのはどうい知らない非情の抒情作家の愛情小説などであった。いまお うことだろう。おれには " 善。とか " 悪。とかがよくわかれは病院へ旅をしてみて、狂人たちにとりかこまれてはじ らないのであるが、もしこれを″悪″だとしたら、その根めてものが考えられるようになった気がするのである。 の異様な深さと執拗さのはしつこをおれははしなくも見せ " 言葉″が少なくなったからである。主題からちょっとは つけられたわけだ。タコのように足をひろげて人間の首のずれるが、ここへきてからちよくちよく考えたことである うえにのしかかっているものがあるのだ。透明だがぬらぬ が、もしいま地球から科学武器をとり去ったとしたら世界 どんらん らする、やんわりギ = ッとしめつけてくる、貪婪で盲目でを征服するのはもっとも言葉数の少ない民族ではなかろう しぶとい足でおれたちをつかまえているものがあっておれかという、枯葉の一回転にすぎないような感想を書きそえ しゅうかいさる * ておきたい。 たち一人一人を醜怪な猿、ヤフーにしてしまうのだ。 ある日、院長室で先生に向って、おおむねそのような意先生はおれにいった。 味のことをおれはいった。いまおれは病室にいるので旅を医師は病人を知っているようでいて意外に知らないもの しているのとおなじ状態にある。言葉数が少なくなり、たである。おれは回診はするけれど朝から晩まで患者とっき えず短い簡単な言葉で独の問答をする。病院にきてからっきりになっているわけではないから、君より観察が劣る かもしれない。死人がでたといってよろこぶ狂人たちとい おれはひどく単語の数が少なくなった。孤独を防ぐために は野蛮にならざるを得ない。病室の外では言葉が無数の細う君の観察が、君の主観の反映の幻影であるのか、ないの はんらん 胞分裂を起して氾濫し、人びとを埋め、おし流していた。 か、おれとしてはなんともいえないことである。君がそう きとりわけおれは出版社ではたらいていたから、字と言葉の見たのならおそらくそれは君において正しいのである。し しん る毒を骨の芯まで吸いこまされた。毎日毎日、東京を右に左かし、もしそうであったとしたら、おれとしては、やつば 去 力に走りまわって、へとへとに疲れてしまった。おれのとつりそれは生存競争に勝ったというよろこびの表現だと見 いる。人間はあの大工のように舌がレロレロ、足がフラフラ 生てくる原稿といえば、 " 彼は東大出の秀才であった。と になっても、このことを忘れられないのだ。勝っか負ける うような文章を平気で書ける女流作家や、ほとんど三行目 かということばかりいつも考えている。たしかにあの大工 3 ごとに″かなしかった〃と書く男性作家や、小説の終りは きっと″ふりかえった眼にネオンがにじんでとけた″かは半ば狂っているが、この点については君のいうようにき
には人影がなかった。窓ぎわにそって歩きながら俊介は厚 うになってるだろうね ? 」 いガラスを軽くたたいた。体内にあふれたはげしい満足感 「イタチですね。だいじようぶですよ、リストはとっくに と緊張感に彼はつよい酒をあおったあとのような気持にな でき上っています」 っていた。 「そりゃありがたい。いずれ、もう少し情勢を見てからと 思ってるんだがね」 たしかに彼の予想は的中したのである。予言はみごとに 「結構ですね。ついでにパチンコ・ワナやネコイラズの業 者にも当っておきます。これはどうせいるものですから立証された。その小事件から日がたつにつれて恐慌の気配 は濃くなり、この地方の山林がかってない危機にさらされ ね」 ていることが誰の眼にもありありとわかって来た。一年前 「いいだろう。すぐ見積りをとるようにしてくれ給え」 えり 課長は彼の答えに安心したらしくそういうと服の襟からの俊介の言葉をひとびとはあらためて思いだし、ふしよう つまようじ 妻楊枝をぬきだした。いつもの癖である。この男はいつもぶしようながらも認めざるを得なくなったのである。俊介 食事がすむと、まるで猟師がワナを見て歩くように歯の穴は自分の地位が急速にひとびとのこころのなかで回復され すきま るのを薄笑いをうかべながら眺めているだけでよかった。 や隙間をシラミつぶしに点検しないではいられないのだ。 しかし、あとになって考えてみると、このとき課長にわ 夢中になって歯をせせり、ときどき妻楊枝を鼻さきへもっ ていって軽く匂いをかぐようなしぐさをする。しばらくそたされた一枚のポロ布ははなはだ象徴的な役目をになって 、た。それは冬じゅう雪のしたで歯ぎしりしていたネズ、、 の様子を見ていてから俊介は椅子から立ちあがった。とこし ちょうせん ろどころに掻き傷のついた、髪の薄い相手の頭を見おろしの挑戦状であったが、同時に人間にとっては完全な敗北の て、その内部の暗がりにはたして何匹のネズミがのこって白旗にほかならなかったのである。ネズミの蓄積していた ぎん エネルギ 1 は予想していたよりはるかに巨大でもあれば残 いることだろうかと俊介はった。 部屋のなかには早春の陽ざしがみなぎっていた。新式の酷でもあった。春は咬傷でずたずたに裂かれ、手のつけよ 建物の内部にはまるで影というものがなかった。温室のようもないほど穴をあけられてしまったのである。 ちょうこう さいしょの徴候があってから十日もたたないうちに山林 うにあたたかくて、巨大な窓には日光がいつばいに射す。 こ。ら′・い 血管のすみずみまで透けてしまいそうな明るさである。昼課は灰色の洪水に首までつか 0 てに 0 ちもさ 0 ちもならな 休みなのでみんな前庭へ運動をしにでたらしく、広い室内くなった。山番、炭焼人、百姓、地主、林業組合、木材 ク なが
乳屋がドアをあけて入ってくる。壁の電燈のスイッチをひ気をつければ抑揚がつぎつぎと変るので物語をつくってい ねることもせず、牛乳屋は暗がりのなかをつかっかと歩いるらしいとわかる。 ていって、牛乳壜を老人のロのなかへつつこんでやる。 はじめてここへきた頃は、昼寝からさめて・ほんやりして 「まだ生きてたんだなア」 いるときなどに、とっ・せん老人から声をかけられてびつく 「おいおい、おいおい」 りしたものだ。しびれてうごかなくなった、熱でうずく右 腕をおさえて、これからさきどうなるのだろうかとおれが 考えこんでいると、まるでそれを見すかしたみたいに、 「おいおい。おいおい」 「チェッ、チェッ ! 」 「はしゃぐんじゃないよ。はしゃぐと牛乳がこぼれッじゃ がんゅう ねえか。ビタミン含有の強化牛乳だよ。もったいないよ。 「おいおい」 そりゃあとってもきくんだからナ」 声がかかるのだ。 てんじよう 「おいおい、チェッチェッ、おい・ ふりかえると皺だらけの小さな老人が・ヘッドに天井を向 牛乳屋の大きな手に頭をおさえつけられ、老人はうなっ いて寝ころんでいる。何度かおれはぎよっとした。だしぬ うす ごうまん たり、しやっくりをしたりする。牛乳が小さな渦音をたてけなのと、声の傲慢さにおどろかされた。全身がきかなく つつ乾いた体のなかへおちてゆく音が聞える。くたびれてなった人間もいるのに右腕一本ぐらいがどうしたのだとい しわ らせん 皺ばんだ細い螺旋状の管や袋のなかを白い液がぐるぐるま ってるかのように聞えたのである。しかし、何度かそれが わっておちてゆくところをおれは暗がりのなかで眺める。 かさなるうちに、おれは不意をうたれて返事をしたり聞き 「チェッ、チェッ ! かえしたりするということがなくなった。どんなに声がだ 「また明日だ。おとなにしてなよ」 しぬけでつよい意志を持っているかのように聞えても、老 のぞ 牛乳屋がでてゆく。 人はおれを見ていないのだ。眼を覗きこんでみるとわか こうさ、 後姿を見送って老人は、おいおい、チェッチェッ、おい る。虹彩の輪が吸取紙ににじんだインキの跡のように老人 おい、おいおい、チェッ、おいおい、チェッチェッとくりの眼はぼやけかけている。彼自身のほかに誰一人として察 かえす。屋根からおちた瞬間に疾風が通過し、その二つだしようのない小さな偏執のいろが光っていることもある。 ひらめ なぎさ けが渚の貝殻のようにのこされたのだ。老人は二つきりのしかし、それが風にひるがえる葦の葉の白い閃きのように 貝殻で首飾りをつくるのである。言葉は二つきりだけれどなにかのはずみで消えると、あとにはただ灰いろの粘体が びん あし
あみばり へつれてきた日のこと、山口に対してしんらつで的確な評彼女は応接室をでると、やがて毛糸の編針と玉をもっても を一言下したこと、川原へ太郎をつれだすときに言葉とは どってきた。膝のうえにひろげたのをみると、それは九分 ひどくうらはらな、なげやりな違和感をあたえられたこどおりできあがった太郎のセーターであった。彼女はそれ と、そして夜ふけの広場でかいまみた眼の異常な輝きと酒をひろげて陽にかざし、苦笑した。 の霧。このなかでもっともぼくに気がかりなのは、・ほくの 「もう春ですのに : 直感だけをたよりにした、あの散歩の日の玄関さきでの印そういって彼女はセータ 1 を編みにかかった。 象であった。彼女はあのとき、ぼくが、太郎の新しい運動彼女は如才なくぼくとの話にあいづちをうち、女中が茶 ぎら 靴をみて、川原でよごれるからと注意したのに対し、先生をもってくるとすかさず菓子皿にそえてぼくにすすめるな けっこう といっしよなら結構でございますといったのだ。それだけど、あれこれと気を配りながらも、手だけは一度もとめな のことで、はっきりした意志の表示はなにもない。そのく かった。ぼくはそれをみて駅前広場の彼女の姿と思いくら せぼくはなにか氷山のしたに沈むものを感じさせられたよべ意外な気がした。彼女の指は正確にとびかい、左右にく てんけい ねら うな気がしたのだ。彼女には先妻の典型ぶりに対するあせぐりあい、糸を攻め、穴を狙って狂うことがなかった。彼 りがあることはたしかだ。子供のしつけに対する彼女の趣女がそんな資質をもっていようとはまったく思いもよらな かじよう 味にはどこか過剰なものがある。おそらくそれは山口のい いことであった。なにか誤算したのではないだろうカ うように彼女の善意からくるものにちがいない。その方向くは自分の印象に軽い不安の気持を抱きながら、大田氏に が誤まるのは彼女の若さ、未経験さによるものだ。彼女は訴えたのとおなじ内容のことを彼女に話した。 太郎を肉体で理解できていないのだ。だからきびしい訓練「この頃はすこしかわってきたんですが、太郎君はすこし 教育をほどこして彼を破産させてしまったのだ。しつけの孤独すぎるようですね。一人息子というのはべつになにも きびしさを非難されることを口にはするが、彼女は果してなくてもそれだけで充分異常な状態だと考えていいんです もう どれだけそれを自覚していることだろうか。 が、太郎君はちっとも友だちのことを画に描かない。 彼女はぼくがコーヒーを飲みほしたのをめざとくみつけすこしみんなと遊ぶようにおっしやってくださいよ」 やしき て・ヘルをおした。この邸ではどの部屋にもベルがついてい 彼女は毛糸を編みながらうなずき、しばらく考えていた るらしい。老女中があらわれると、彼女はぼくに聞いて、 が、やがて顔をあげると 緑茶を命じた。女中が銀盆をさげてでていくあとを追って「おっしやるとおりでございますの。あの子はほんとに内
たた 「体なら・ハスケでちったあ出来てるから大丈夫だよ。無理思い切りサンド・ハッグを叩いて見た。それは思ったより はしないから。やらしてくれたら今の分を入れて貸しの方固く手ごたえが有 0 た。彼はそく 0 と身震いを感じる。 は御破にしてやらあ」 リングの廻りには他の部員が面白半分集まっている。ウ 「良いじゃないか、少しやらしてやれよ。か加減して相 ービングする龍哉のフォームは、・ハスケットのフェイン 手してやるよ」 ト・トラップのモーションに似ている。 「俺は知らねえよ、今日はいないから良いものの、キャ・フ「・ハスケット、しつかりしろよ」 に見つかって見ろ、うるせえんだぜ」 誰かが言うと皆がどっと笑った。 ・ハンデージを巻いてもらいながら龍哉はにやにや笑っ江田は嫌がる龍哉に無理矢理へッドギアを付けさせた。 彼には自分だけがギアを付けてリングに登るのが、江田の うれ ぶじよく 「何が嬉しいんだよ、馬鹿野郎奴」 好意は知りつつも、何か侮辱されたように思われてならな ほうたい らよっと 「この繃帯、一寸イキだな」 「なあにを勝手なこと言ってやがる。それより余り粋に引 二人はグラブを合わした。それでも江田がゴングを鳴ら してくれた。 っ繰り返るなよ、知らねえそ。下はこれを穿け」 「トレ・ハンなんか、シケないで短いパンツを貸せよ。あの 方がイキじゃねえか」 「無理するなよっ」 ほと また 「又か。試合じゃないんですよ。仕様がねえな。良く体操龍哉の・ハンチはダックされるまでもなく、殆んど空を切 った。彼には自分より背の低い佐原がますます小さくなっ してくれよ」 て行くように思われ、仕舞いには自分の防禦を忘れ振り降 嵌められたグラブは意外に大きく感じられる。 すようにして左右を振った。その合い間合い間に佐原の、ジ なわ 練習場に出た龍哉を、繩飛びしていた三津田が見つけるヤプとは言え強い左が彼の顎をとらえた。ジャプの一つが ガードあ 鼻先に強く当って思わずそらした顔に、防禦の空いたボデ イに佐原はストレ 1 トを二つ決めるとさっと飛びすさって 「何だおい、津川何するんだ」 「佐原とタイトルマッチ」 彼を待った。そのパンチは良く効いたが龍哉は無理に笑お